ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

光市三輪に三輪神社と往還道筋の市 

2024年03月27日 | 山口県光市

            
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         三輪は田布施川上流域の丘陵地帯に位置する。地名の由来について地名淵鑑は、「当村
        に三輪大明神があるが、これは神(みわ)氏がその祖先を祀ったものである」という。
         「みわ」とは「神」の古代語で、奈良県の三輪山は大神(おおみわ)神社の神体で、この三
        輪の大神と神氏の流れをひくと考えられている。(歩行約7.1km)

        
         JR岩田駅は、1899(明治32)年に山陽鉄道の駅として開業するが、単式ホームであ
        ったため1番のりば側に駅舎が設置される。1894(昭和39)年電化に伴い、ホームが改
        良されて跨線橋が設置され、1937(昭和12)年に現在の駅舎が改築された。

        
         駅前から三輪地区への旧道を、買い物を済まされた地元の女性とのお話しながら歩く。
        (交差点までは岩田地区)

        
         旧道ということで、見るべき建物があるだろうと思っていたが更新されていた。

        
         旧道の突き当りが県道68号線(光日積線)だが、横断歩道はないが通行量が少ないため
        確認して正面の階段を上がる。

        
         酒屋の看板がある古民家を過ごす。

        
         共栄公園内に荒神社が祀られているが詳細は知り得ず。

        
         再び県道を横断して山道に入る。

        
         1790(寛政2)年建立の鳥居には「講神」という額束があり、1730(享保15)年に奉
        納された灯籠もある。
         「講神」については詳細不明だが、「荒神」「庚申」でもなさそうだし‥。秋葉権現と
        いう山岳宗教と修験道が融合した神仏習合の神がある。火防の霊験があり、近世期に全国
        に分社が勧請され、秋葉講と呼ばれる講社があったというが、この社がそれかどうかはわ
        からない。(隣に忠魂碑)

        
         何かの小屋と思ったら「毘沙門堂集会所」の看板が掲げてある。堂内には総高110.2
        ㎝の毘沙門天が祀られているそうだが、施錠されて内部を見ることはできない。

        
         堂の前には古い地蔵尊が並ぶ。

        
         山を越えると山間に囲まれた田園が広がる。

        
         県道23号線(光上関線)を岩田駅方向へ引き返して里道に入る。正面の山に三輪神社が
        あり、右奥に石城山が聳える。

        
         三輪幼稚園への案内を見て林内に入って行くと、鐘楼門が見え、広場には園児たちが遊
        んでいた。園の方に境内へ入ることの了解を得て山門を潜る。

        
         浄国寺(浄土宗)は、京都知恩院が本山で室町期の天文年間(1532-1555)の開山といわれる。  
        三輪領主の井原大学の菩提所となり、寺領を拝領したという。楼門は入母屋造りの桟瓦葺
        き、本堂は入母屋造り向拝付きの本瓦葺きである。

        
         井原親章(主計)の墓があるというので山内の墓地を探すが見当たらず。(園の人に聞くが
        知らないとのこと)
         井原親章(1816-1866)は、美原に郷校「縮往舎」を創立して広く教育を行う。第二奇兵隊
        の隊士も加わったため手狭となり、隣接の同寺を借りて教育したという。
         「孝子説清先生之墓」が境内にあるが、1859(安政6)年に森山幾之進が自宅に寺小屋
        を開き、広く庶民の子弟の教育を行う。生活は質素で、父母亡き後は社会に恩返しの生涯
        を送る。墓碑は師の遺徳を偲んで、1882(明治15)年に在村の子弟が建立する。

        
         田布施川上流に見える山付近が塩田地区との境のようだ。

        
         水源地を過ごし、金比羅橋を渡って正面の山を目指す。

        
         三輪村道勝間線改修碑(寄付者簿)の先に石仏三体が鎮座する。台座には文字が刻まれて
        いるが、風化してはっきりと読めないが、右には「智法」とある。その隣に石段があるの
        で古道と思われるが、薮化しているため上るのを残念する。

        
         古道を避けて車道を上がる。

        
         途中に鳥居と石灯籠のある場所がある。鳥居の額束に「三輪明神」とあり、建立時期は
        「天明元年(1781)」は読めるが以下は読めない。灯籠には安政三年(1856)丙辰年三月吉祥
        日とある。額束の向きから考えると古道の参道でもあるようだが、鳥居前が広いので気に
        なる場所である。(御旅所?)

        
         車道から分かれて左の階段を上がる。

        
         大きな鳥居には「三輪神社」とあり、昭和15年(1940)建立と刻まれている。

        
         手水鉢から急階段を上がらなければならない。

        
         三輪神社の由来について、神(三輪)一族が大神明神の分霊を奉持して、この地の荘長と
        して下る。最初に分霊を祀ったのは現在の田布施町城南であったという。
         関ケ原の戦い後に毛利氏は防長二州に移封され、井原家はこの一帯の給領主となり三輪
        明神を祈願所とした。
         その後、井原家は末期養子(世継ぎがないと一家断絶となるため、当主の死に際して急に
        願い出た養子)があったため、三輪明神のある地が召し上げられて領外となる。1762(宝
        暦12)年に現在地へ遷座させて今日に至るという。

        
         境内の左手に高さ1.1mの石塚がある。この石塚は「稲穂塚」と呼ばれ、元文年中(17
        36-1741)には毎年のように村中の稲穂が枯れ無収穫となる。困り果てた村民は、枯れた稲
        穂を1株づつ持ち寄って神社境内に埋め、1740(元文5)年に「五穀成就稲穂塚」を建立
        する。さらに讃岐の金比羅大権現を勧請して祀ると、それ以後は枯穂が出なくなったとい
        う。

        
         片隅に小さな祠があり、「祇園社・荒神社・疫神社」と刻まれた石塚が祀られている。
        側面には「明治40年(1907)12月23日 三輪村上組」とある。

        
         往路を引き返して三輪市へ向かう。

        
         県道に出ると「おっととと あぶないよ 道見鶏」とある。

        
         途次には束荷にある旧伊藤博文邸と紫陽花がデザインされたマンホール蓋だったが、第
        二奇兵隊の隊士がデザインされたマンホール蓋がある。

        
         旧道に入る手前に「辰岩様」とあるが、説明文はないが岩が辰に似ていることによるの
        だろうか。「龍と竜」は読み方が同じ「りゅう」で、神話・伝説の生き物で水を祀る神様
        とされる。
         「辰」は十二支のひとつで、「龍」と「竜」と「辰」は漢字の違いはあっても、どれも
        同じで神話・伝説の生き物である。

        
        
         県道から旧道に入る辺りから三輪市と思っていたが、地元の方に金坂商店付近から東約
        200mが市と呼ばれていると教えていただく。

        
         山陽道の花岡の宿駅から上関宰判に通じる街道の1つとして、目代(代官)と馬4疋を置
        き、藩の公文書の逓送や旅人に対し馬を貸し出していた。
         日用品市は、12,23,28日の3日開かれて三斉の市といわれ、熊毛郡中央部の物
        資集散地として栄えていた。1897(明治30)年山陽鉄道の開通と共に物品市場が衰退す
        る。

        
         1912(明治45)年に村公営家畜市場が開設され、1918(大正7)年からは常設市場に
        発展する。牛馬の取引市は盛況だったが、経済恐慌や日中戦争による経済統制によって、
        村営の牛馬市場は打ち切られる。(市屋敷の町並み) 

        
         当時使われていた共同井戸が残されている。面白い塀だなとみていたら、通りすがりの
        人が、もともとは木が植栽されていたが撤去され、その表面をコンクリート貼りされたと
        教えていただく。

        
        
         稱(称)名院は浄土宗の寺であったが、現在は無住で市集落の方により維持管理されてい
        るとのこと。右手に地蔵尊、左手に市恵比須のようだ。

        
         寺跡付近が三輪と田布施町宿井との境界のようである。

        
         養蚕業が盛んな地で、全盛期の1921(大正10)年頃には村内で全戸の半数にあたる1
        60戸が養蚕を営んでいた。1926(大正15)年には朝日製糸工場も設立される。
         しかし、1932(昭和7)年の世界恐慌により衰退したという。


光市岩田の神社仏閣を巡る

2024年03月10日 | 山口県光市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         岩田は島田川の支流、岩田川の流域に位置する。地名の由来は、岩戸山に「天ノ岩戸」
        と称される立石があることから岩戸村となり、これが転じて岩田村になったと伝える。
         1943(昭和18)年11月に岩田村、束荷村、塩田村、三輪村が合併し、「大きく和に
        する」という願いから大和村となる。後に町制に移行したが、平成の大合併で光と合併し
        て光市の一部になる。(歩行約7.9㎞)

        
         JR岩田駅は、1899(明治32)年に山陽鉄道が敷設されたと同時に開業する。単式・
        島式構造で1番のりば側に駅舎があって、駅南側からだと遠回りしなくてはならない。

        
         駅前から県道68号線(光日積線)を進むが、駅を中心に大塚、小池に分かれて商店街を
        形成する。

        
         市立大和病院の手前を左折して、こんもりと見える丘を目指す。

        
         丘の上には鎮守社が祀られており、参道入口には文明7年(1787)建立の鳥居と、文化8
        年(1711)と刻まれた常夜灯がある。

        
         1959(昭和34)年伊藤博文を祭神とする伊藤神社が束荷神社に合祀された際に、社殿
        を譲り受けたものとされる。

        
         鎮守社から大和総合運動公園内を巡り、スポーツセンター裏手に出る。

        
         1865(慶応元)年に結成された第二奇兵隊の隊士がデザインされた雨水用マンホール蓋。

        
         正面の山に「雨桑観音堂」があると、ウオーキング中の方に教えていただく。(右手奥
        の住宅を目指す)

        
         敷地田地寄付という石碑があるが、詳細は知り得なかった。

        
         雨桑集落から観音堂への道は、非舗装であるが傾斜も緩く歩きやすい。(次の三差路は
        右折)

        
        
         雨桑観音堂の本尊は、馬頭観音、子安観音、火除け観音の石仏三体で農村の守護仏とさ
        れる。
         1647(正保4)年8月に村人が田の畔に腰をおろすと、急に足がきかなくなり、不思議
        に思って田圃を掘り起こすと、泥の中から光明を放す三体の石仏を発見する。翌年の3月
        に一宇を建立して石仏を安置すると、霊験あらたかで雨桑には火災がなかったと伝える。
        (堂内は暗くてピンボケ) 

        
        
         原ヶ迫集落に下ってくると地蔵尊が道端に鎮座する。この一帯は、1974(昭和49)
        に団地化されたが、以前は小高い山と谷であったという。

        
         明治の神仏分離令により、異国の神や「古事記」「日本書記」に登場しないような神は
        認められず、廃止するか祭神を神道が認める神にすることが強要された。
         その1つに祇園社が対象とされたが、当祇園社がどのような経緯を辿ったかはわからな
        いが、石祠は明治34年(1901)建立、鳥居には安永7年(1778)に寄進、手水鉢は文政11
        年(1828)と刻まれている。
         この地は児童公園として遊具が置かれているが、岩田老人憩いの家と森山七兵衛顕彰碑
        は見当たらなかった。

        
         旧大和町は山間の中に立地する。

        
         やまと大橋を過ごして次の集落へ下る。

        
        
         正法院(曹洞宗)の地には、1871(明治4)年まで西念寺という寺があった。明治の廃仏
        毀釈により廃滅のところ、1885(明治18)年山口市小鯖にある禅昌寺の末寺・正法(しょ
          うほう)
院が移転して再興される。 

        
         本堂横に「奉納大乗奉典六十六部日本廻国」と刻まれた廻国供養塔がある。雨桑の人が
        30年をかけて全国66ヶ国の寺院を巡礼し、経典を納めた記念として、1719(享保4)
        年に建立されたものである。

        
         中岩田バス停前の広い道路に出て、柏原神社と教西寺に行く予定であったが、思った以
        上に路程が長いので残念する。

        
         県道68号線に向かう途中に石灯籠があり、岩戸八幡宮の参道と思われるので、この道
        を上がって行く。途中にも案内するように灯籠が立てられている。 

        
         冠念寺の大日堂。

        
         立派な宝篋印塔があるが詳細は
知り得ず。 

        
         冠念寺(真言宗)の寺伝によると、奈良期の738(天平10)年正月に行基巡錫の際、当所
        に伽藍を建立し、寺号を仏母山正覚寺と命名する。
         冠念寺は安芸国高田郡甲立村に宍戸氏の菩提寺として創建された。毛利氏の防長移封に
        より、1600(慶長5)年周佐波郡右田が給領地になると引寺し、その後、知行地替えで三
        丘村に移されていた。1872(明治5)年正覚寺に冠念寺が合併して、冠念寺と改称して今
        日に至るという。
        
         境内には不動明王の知恵の火によって人間の煩悩を消滅し、諸願成就を祈願する護摩堂
        がある。

        
         お堂の寺額「眞禅窟」は、江戸霊雲寺開山の浄厳師の書とされ、当初は安芸国にあって
        宍戸氏の祈願所であったが、宍戸氏とともに右田(現防府市)、三丘(旧熊毛町)に移された。
        正覚寺に冠念寺が合併された際、寺額も移転する。

        
         大日堂の裏手から八幡宮に通じる道がある。

        
         岩戸八幡宮の由緒によると、平安期の938(天慶元)年宇佐八幡宮より勧請し、神霊が岩
        戸石という巨岩に鎮座したことにより、山を岩戸山、社を岩戸八幡宮と称した。1008
        (寛弘5)年岩戸山より200m隔てた現在の地に遷座したとある。

        
         「岩戸遺跡土師器」の石柱があるが、窪地から平安時代から鎌倉時代初期頃の祭祀用の
        土師器(はじき)が多く出土したという。八幡宮の祭祀に使われた祭祀土器の捨て場であった
        と思われ、高坏(たかつき)、碗、小皿の破片が発見されている。

        
         拝殿の中にある雲蹊作の「関羽図」絵馬は、施錠されて見ることができなかった。(参道
        を下る)

        
         溝呂井川に沿って岩田駅を目指す。

        
         この道は駅につながっておらず、岩田小学校近くの蔵光第一踏切を利用する羽目になる。


光市小周防は周防国造在所があった地

2022年02月09日 | 山口県光市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         小周防(こずおう)は島田川中流域の河岸低地、及び同川支流の笠野川・虹川に沿った沖積
        低地と背後の小周防丘陵に立地する。
         もとは古周防と記し、周防の古府の地であり、何時となく小周防となったという。(歩行
        約4.8㎞)

        
         JR島田駅から島田駅前バス停までの小路に「牛馬の碑」がある。説明によると、島田
        川の氾濫が明治、大正、昭和、平成とそれぞれ1回起きている。その氾濫時に三島橋に樹
        木とともに牛馬が引っ掛かり、その慰霊・鎮魂のための碑と伝える。

        
         島田駅前バス停から防長バス兼清行き約10分、小周防バス停で下車する。三丘温泉が
        あるためかバスは概ね1時間に1本運行されている。

        
         バス停先で県道が交わるが、ここを左折して県道下松田布施線を下松方面へ向かう。

        
         島田川が域内を二分する。

        
         八幡所交差点から笠野川への道に入る。

        
         笠野川の上流へ向かうと門前橋。

        
        
         渓月院までは約480mの上り坂。 

        
        
         渓月院の由緒によると、室町期の文安年間(1444-1449)頃に創建された曹洞宗金剛派の4
        道場(他に廿日市の洞雲寺、徳島の丈六寺、下関の功山寺)のひとつとされる。
         大内時代に建立された堂宇は焼失し、毛利氏の手によって再建されたが、明治中期に再
        び火災に遭い昔の面影が失われた。
         室町期の1555(弘治元)年毛利元就が都濃郡須々万の沼城攻撃に際し、仮陣所を設けた
        寺と記されている。

        
         県道まで戻って島田川に架かる永代橋を渡り、川に沿うと道路の右側に住宅が並び、左
        手は農地といった風景になる。

        
         住宅が途切れる付近で田園を横断して県道光玖珂線側に移動する。交差する角に「八幡
        宮常夜燈」があるが、近辺に八幡宮は見当たらず。

        
         周防小学校グラウンド脇に周防国造在所之地碑が建立されている。周防国造(すはのくにの
          みやつこ)
は周防(周芳)国を支配したとされ、応神天皇の時代(200-310)に加米乃意美(かみの
                   おみ)
を国造に定めたことに始まるという。
         碑の周辺に国造の在所があったとされ、大化の改新後、大和政権から凡直(お
おしのあたい)
        の姓を受け、周防国の有力豪族として長らく栄えたという。
         律令制度が整えられ、それまでの地方豪族による国造制から機構が変わり、周防の国府
        は古くから開けた佐婆(防府)に置かれた。

        
         バス停付近まで戻ると左手に光市立さつき幼稚園の建物がある。少子化の影響もあって
        年々園児の減少が続いたようで、2018(平成30)年に閉園になったとのこと。

        
         幼稚園入口には田園の環境を守り、収穫の効率性を求めて、1952(昭和27)年島田川
        土地改良区を発足させて、圃場整備等を行ってきたが、その役目を終えて解散した旨の碑
        である。
         13時32分のバス時間までバス停傍のジョイフル小周防店で時間待ちする。


光市室積の海商通りと象鼻ヶ岬

2020年07月05日 | 山口県光市

           
                  この地図は、国土地理院発行の2万5千分1地形図を複製・加工したしたものである。
         室積は光市の南東部に位置し、北西から南東へ細長く延び、北に千坊山地があり、南西
        側は海に面し、その一角を島田川の上流より運んだ土砂が、沿岸海域や風によって陸繫島
        を形成した室積半島がある。(歩行約5.8㎞)

           
         JR光駅からJRバス室積公園行き20分、室積バス停で下車する。

           
         早長(はやおさ)八幡宮は室積宮町に鎮座し、普賢寺と同様に御手洗湾に向って社地を構え
        る。

           
         早長八幡宮の鳥居を潜ると、右側に雌雄の岩が祀ってある。「早長の瀬の二つの雌雄の
        岩が、動かぬ如く千代に栄えのあるように」という伝説によるようだ。

           
         室町期の1444(文安元)年に宇佐神宮から勧請され、神霊が「早長の瀬」の地に着いた
        ところから名付けられ、室積の氏神として崇敬されている。
         建物は江戸期のものが拝殿のみで、建築様式から18世紀末の建立とされる。

          
         宮前付近には牛島(うしま)への室積港があり、古民家を利用したお洒落な食事処や、昔懐
        かしい餅菓子などを提供する店がある。

          
          
         中野昌晃堂は銘菓“鼓乃海”を製造販売されていたが、2016(平成28)年12月末に
        閉店された。
         萩藩主・毛利元昭が来遊の際に、差し出した茶菓が無名だったので名付け親になったと
        か。(下は2009年に撮影) 

         
        
 江戸期の市場町・門前町・港町など人の出入りが激しい要衝の地に、幕府または藩のお
        触書・掟書などが掲示される高札場があった。高札の大きさは統一されたもので、約56
        ㎝の板に墨書で記されていたとのこと。  

          
         三谷薬品の地が松岡洋右の生誕地とされ、1880(明治13)年に松岡三十郎の四男とし
        て生まれる。生家は今津屋と号した船問屋であったが、洋右が11歳の時の倒産してしま
        う。
         満州国に強い影響力を有した軍・財・官の東條英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松
        岡洋右(満鉄総裁)は、彼らの名前の末尾から「弐キ三スケ」と称された。松岡は東京裁判
        において公判中に病死するが、「参スケ」は山口県周防部の生まれ育ち、3人の間には姻
        戚関係があった。
            

          
         早長八幡宮の東、江の川から付属小中学校前までの通りは「海商通り」と呼ばれ、江戸
        中期から明治初期にかけて廻船問屋や魚加工問屋、料理屋などが並び、港町らしい活気が
        あった。
         しかし、明治後期に鉄道敷設や海運の近代化に伴い、その賑わいも過去のものとなる。

           
         人家密集地特有の人一人がすれ違うのがやっとの小路がある。室積では「あいご」と呼
        ばれ、昔はこのような小路が網の目に張り巡らされていた。
         語源はわからないそうだが、秋田地方で家と家の間として使われる「間(あいこ)」がな
        まったものと考えられる。「間」だとすると、北前船が運んできた言葉として興味深いも
        のがある。

           
         性空上人が普賢菩薩と対面したという場所には松が植えられ、亀践(きふ)塔記念碑がある。
         碑文には、1733(享保18)年に対面の松が野火よって焼失したため役人が植え継ぎ、
        1834(天保5)年近隣の村人が碑を建立したことが刻まれている。隣は恵比寿社だが詳細
        は不明である。

           
         1885(明治18)年に室積浦と室積村が分村していた時代に、盥海(みたらい)小学校とし
          て開校
したが、1899(明治32)年に廃校となる。

           
         江戸期の萩藩は小周防村に熊毛宰判の勘場を置いたが、1763(宝暦13)年藩政改革の
        一環として室積港を商業港として整備する。これを支援するため中熊毛宰判の勘場をこの
        地に置き、室積・光井・岩田などの9ヶ村を所管した。
         しかし、陸路では不便な地にあったため、僅か11年で廃止された。

           
         その向かい側は室積警察署跡だが、1879(明治12)年2月岩国警察署室積分署として
        発足するが、1886(明治19)年8月に岩国署から独立して警察署に昇格する。1943
        (昭和18)年光警察署に改称されて室積での役目を終える。 

           
         この付近と宮前に食事処があるので好みに応じて利用できる。(海商館もお食事処) 

           
         専光寺は浄土宗の寺で、大内時代には外国使節等を迎える館として利用される。藩政時
        代も渉外館として利用されたり、諸事件の処理裁判も行われた。
         幕末には、この寺を本拠として南奇兵隊(第二奇兵隊)が結成されたが、手狭となったた
        め普賢寺へ移転、さらに石城山へと転陣する。

           
         亀甲模様に光市の市章がデザインされたマンホール蓋。

           
         磯部家の建物は明治初期に建てられた町家造りの商家で、俗に「うなぎの寝床」といわ
        れ、間口が狭く奥行きが長い造りとなっている。現在はふるさと郷土館として利用されて
        いる。 

           
         磯部家は安永年間(1772-1781)頃に本家の礒部家(向かい側の家)から「礒」を「磯」に変
        えて分家する。弘化年間(1844-1848)に3代目民五郎が「磯民」の名で醤油製造業を始め、
        後に「磯屋」となる。1955(昭和30)年代まで製造販売されていたようである。

           
         煉瓦造の煙突と奥に醤油蔵。

           
         礒部家は磯部家の本家に当たり、廻船業を営み江戸・大坂・琉球などとの交易により財
        をなした旧家である。建物は昔の姿をとどめ、主屋、釜屋、離れ座敷が国の登録有形文化
        財に指定されている。ふるさと郷土館の別館として公開されていたが、2017(平成29)
        年9月閉館する。

           
         建物は室積湾を背にして表通りに面し、木造2階建ての本瓦葺寄棟屋根、軒裏と外壁は
        白漆喰で塗込められている。正面と両側面に下屋を付け、2階中央と玄関両側の格子窓に
        より端正な構えの造りである。

           
         明治後期に離れ屋敷(茶室)が主屋北側に増築され、座敷から渡り廊下でつながっている。
        瓦葺入母屋屋根の三方に庇を回した構成をとり、4畳半の茶室を中心に主屋との間に程良
        い中庭的空間を設けている。

           
         1702(元禄15)年浦年寄の松村屋亀松が、自費を持って象鼻ヶ岬に燈籠堂を建て、1
        875(明治8)年までの173年に渡って御手洗湾を照らした。1991(平成3)年に復元さ
        れて公園の一画に建てられた。 

           
         古くは神功皇后が三韓遠征の際に寄港され、手を洗われたという伝説から「御手洗湾」
        の名が生まれたとか。中世以降、明治中期まで周防灘の風待ち港として栄え、藩政時代に
        は北前船が寄港するなど賑わった。

           
         1831(天保2)年に建設された普賢波止(はと)は、諸国の回船や客船の利用に供される。

           
         普賢堂に金剛力士像が安置されていたが、拝殿が手狭になったため、1798(寛政10)
        年楼門(仁王門)が建立される。左右に仁王像、楼上には16羅漢像が安置されている。

           
         普賢市の雑踏のなかで迷い子が出るのは今も昔も変わらない。参道入口左に迷い子張り
        出し石が建っているが、1856(安政3)年5月建立で「迷い子つれはぐれ、すたりもの、
        ひろいもの張り出し石」と刻まれている。

           
         平安期の1177(安元3)年6月に平康頼は平家打倒の密儀に参加するが、密告により策
        謀が
漏れて捕縛される。康頼は薩摩国の鬼界ヶ島へ流されることになり、配流途中の室積
        で仏道に入る。もっと早く出家しなかったことを悔やんだ和歌「終(つい)にかく 背(そむ)
        きはてけむ世の中を とく捨(すて)ざりしことぞかなしき」が碑に刻まれている。(192
        4(大正13)年に再建される)

           
         1788(天明8)年建立の普賢堂は周囲を堀で囲まれた中にあり、堂には海の守護神であ
        る普賢菩薩が安置され、普賢寺の奥の院的存在である。

           
         平安期の1006(寛弘3)年播州の性空上人によって普賢寺が創建されたと伝わる。当初
        は峨嵋山の峰に堂を築いたが、室町期に現在地へ移された。1854(嘉永7)年建立の本堂
        と17世紀初期建立の山門が建ち、境内奥には雪舟作と伝えられる庭園がある。3つの自
        然石を配して枯滝とし、前面を池に見立てた約20mの枯山水の庭となっている。

           
         1733(享保18)年に「享保の大火」があり、惨禍を再び起こさないため山城屋という
        廻船問屋が、火災予防と飲料水を兼ねて、宮の脇から江の浦にいたる道路脇に10ヶ所の
        井戸を掘った。これらの井戸は口伝えで「イロハ井戸」と呼ばれたが語源は不明とのこと。
         その後、道路整備などで失われ、この井戸だけが現存する。

          
         萩藩は現付属光小中学校一帯に財政改革の一環として、1763(宝暦13)年撫育方を新
        設して、1769(明和6)年に撫育方室積会所を設ける。主に藩の年貢米をここに集めて売
        さばく業務を行なった。

          
         室積会所跡は明治期になると熊毛郡役所が置かれた。1903(明治36)年役所が移転し
        た以降は、山口県立工業学校、師範学校、女子師範学校、山口大学教育学部と次々に学校
        が置かれ、現在は山口大学付属小中学校となっている。

          
         蛾嵋山東外れの高台に、1870(明治3)年元遊撃隊士らによって招魂社(現護国神社)が
        創建された。1864(元治元)年禁門の変で戦死した遊撃隊総督来島又兵衛以下48柱と、
        1866(慶応2)年の四境の役、1868(明治元)年の鳥羽伏見の戦いにおける戦死者ほか
        合計79柱が祀られている。 

          
         室積半島を象の頭部とし、そこから海に突き出た砂嘴を象の鼻に見立てて「象鼻ヶ岬」
        と名付けられた。

          
         明和年間(1764-1772)象の「眼」に当たる位置から湧き出たので象眼水井戸と呼ばれて
        いる。

          
         1864(元治元)年4ケ国艦隊が下関報復攻撃のため、横浜港を出航したとの報が伝わり、
        藩はこれを防衛するため各地の沿岸要衝地に台場を築かせた。
         長州藩は内外ともに多事多難で、青壮年はこれに駆り出されたため、婦女子を中心に室
        積台場(石塁)を3つ築造して主砲2門の大砲を設置したとされる。(1944年の台風で1
        基が崩壊)

           
         1949(昭和24)年3月に初点灯された室積港灯台は、1994(平成6)年3月改築され
        た。

           
         象鼻ヶ岬の先端には、弘法大師が唐より帰朝の際に立ち寄り、七日七夜の護摩供養を行
        い、自像を刻んで厨子を彫って安置したと伝わる霊場である。入母屋造りの小堂は大師堂
        (海蔵寺跡)と呼ばれている。

            
         大師堂境内に遊女の歌碑があり、変体かなで「周防なる御手洗の 浜辺に風の音つれて
        ささら波立・・」と刻まれている。この詩は普賢寺に関係するものだが、何のために建立
        されたかはわかっていない。

           
         1790(寛政2)年、大師堂までの道しるべとして四国霊場八十八ケ所を勧請したとの
        こと。(1番札所)

           
         室積公園入口バス停(普賢寺北側の通り)よりJR光駅に戻る。                               


光市の牛島は島の宝百景とモクゲンジが咲く島

2020年07月02日 | 山口県光市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         牛島(うしま)は室積港から南東約8.4㎞の瀬戸内海に浮かぶ島である。島名の由来は平
        安時代に牛を放牧していたことから、「牛島」と呼ばれるようになったといわれる。(歩
        行約2.5㎞)

        
        
         JR光駅から防長バス柳井駅行き約20分、室積バス停下車する。バス進行方向にある
        横断歩道を渡ると、早長八幡宮の先に室積港がある。(徒歩5分、駐車場もある)

        
         10時発に乗船すると瀬戸内の多島美が楽しめる。

        
         約20分で牛島港へ到着する。(往復1,000円) 

        
         定期船で運ばれる荷物を運搬する車が待機中。

        
         港の北西側は盛郷地区で、端にある牛島八幡宮から散歩する。

        
         島の住民は漁業を中心とし、幕府から遠洋漁業の許可書を得て、どこの港にも自由に入
        れるほどになる。明治期になると大型船となったため係留できる波止が必要となる。牛島
        独持の個人持ち波止、船主を中心とする組の共有波止が築造される。
         ところが、1965(昭和40~50)年代にほとんどの波止が埋め立てられ、現存する左手
        の西崎波止(1887年)、藤田波止(1892-1893年)が当時の姿のまま利用され、国交省の
        「島の宝100景」に選ばれている。

        
         牛島八幡宮は、室町期の文明年間(1469-1486)大島郡小松の志駄岸八幡宮から勧請し、1
        549(天文18)年に社を建立して牛島の鎮守とした。

        
         1753(宝暦3)年に勧請された恵比須社は、毎年4月には牛島の伝統行事として、海上
        の安全と豊漁を祈願して牛島恵比須祭が行われている。御座船に神輿を乗せて海上パレー
        ドも行われていたようだが、現在は高齢化と過疎化で神事のみだそうだ。

        
         島特有の狭い道が家々をつないでいる。

        
         この島では珍しい長屋門形式の入口を構える。

        
         モクゲンジの自生地として知られる牛島。1935(昭和10)年に日本で初めて発見され、
        初夏の7月には枝先に長さ15~40㎝の円錐花序を直立し、黄金色の小さな花を多数つ
        ける。地元の方から民家前に咲くモクゲンジを教えていただく。(県天然記念物)

        
         港方向に戻る。

        
         地形に沿うように住宅が建ち、細い階段状の道で結ばれている。

        
         比較的大きな住宅だが無住のようだ。

        
         港から東郷への道には、1914(大正3)年道路を改修した旨の記念碑が建っている。

        
         一歩奥に入ると井戸があり、碑には「共同井戸主、昭和7(1932)年3月」と15名の名
        前が刻まれている。島には共同井戸と個人持ち井戸があったようで、路地を歩けば点々と
        井戸がある。

        
         教念寺(真宗)は、大内義隆の臣であった志熊宗俊が大内氏滅亡後、熊毛郡麻郷村に隠遁
        した。その長男・善之進は、激動する世情に無常を感じて出家し、麻郷の地に一庵を結ぶ。 
         明治期の廃仏毀釈の際、牛島住民の懇請を容れて、島の小庵・妙華庵を本寺としていた
        が、のちに現在の寺院を建立したとされる。

        
         寺から見る集落には多くの建物が存在するが、24世帯34人が生活されているとのこ
        と。(人数等は島の方より)

        
         繁栄の証でもある重厚な家が並ぶ。

        
         路地を歩くと廃屋も目立つ。

        
         迷路を辿ると縦道の延長線上に明神と荒神が祀られている。その背後にタブノキの巨木
        がある。

        
        
         島に人が定住するようになったのは、室町後期(応仁の乱後の1500年代)頃とみられ
        る。

        
         集落の東端にも波止の一部が残されている。

        
         こちらの波止側に共用墓地。

        
         墓入口に鎮座するお地蔵さん。

        
         共用墓地の中ほどに牛島に伝わる伝説「丑森明神」がある。牛を可愛がっていた甚兵衛
        さんの牛が火事で焼け死んでしまう。数年後、死んだ牛の形をした黒い雲が発生し、島に
        火の手が上がる。その後も不審火が続いたため、牛の供養のため墓地の一角に墓石を建て
        て「丑森明神」と刻んだとある。

        
         牛島小学校は教念寺の寺小屋を前身とし、1879(明治12)年小字である山上に校舎を
        新築する。1948(昭和23)年には中学校を併設して牛島小中学校と改称し、旧光海軍工
        廠の廃材をもって校舎が新築された。1962(昭和37)年現在地へ新築移転したが、20
        05(平成17)年閉校となる。 

        
         海岸通りには旅館の看板が掲げてあるが、営業されているか否かははっきりしない。商
        店や自販機はないので飲料水等は持参する必要がある。

        
         1958(昭和33)年11月離島振興法により海底ケーブルで送電され、上水道も整備さ
        れている。

        
         12時30分の船で島を離れる。


光市浅江は駅周辺と虹ヶ浜海岸

2020年02月04日 | 山口県光市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複第546号)
         浅江は島田川河口右岸に位置して南は周防灘に面し、海岸には松原が長く延びている。
        全体的に西北に高い山が聳え、東面に向って低く開けている。

         地名の由来は、地内に浅い海があり、所々に蘆などが生い茂る沼の入江があったことに
        より、浅い入江が浅江になったという。(歩行約7㎞)

        
         1912(明治45)年虹ヶ浜駅として開業するが、1941(昭和16)年に現駅名となる。
        1983(昭和58)年に現在の駅舎が新築された。

        
         駅前から直進すると虹ヶ浜海岸には、白砂青松の美しい海岸線が2.4㎞も続く。この
        海岸は島田川から流れる大量の土砂で形成されたとされ、虹ヶ浜とい
う地名は、海上から
        浜を眺めると、あたかも虹の架け橋のように見えたことか
ら藩主が命名したともいわれて
        いる。

        
         松林に遊歩道がなく車道を歩かなければならない。

        
         西の河原川から海岸線に出ると、海を眺めながら歩くことが可能になる。
        
        
         海岸線を離れると虹ケ浜が見納めとなる。

        
         島田川右岸を上流へ向かう。

        
         河口は鳥たちの楽園である。

        
         国道188号線の千歳大橋を渡ると、東詰の右手に立石孫一郎碑がある。

        
         倉敷藩士だった立石孫一郎は第二奇兵隊に参加して
軍監を務めるが、1866(慶応2)
        4月に100名を超える兵士を率い脱走して、倉敷代官所と浅尾藩陣屋を襲撃するが敗れ
        て長州に戻る。清境寺に潜伏していたが4月26日の夜、藩命に背いたとされ千歳橋上で
        射殺される。暗殺された場所近くに石碑と小さな祠が建てられている。

        
         島田川河川公園は桜並木が続くが、桜咲く時期は一味違った風景を見せてくれそうだ。

        
         熊野神社の社伝によると、奈良期の710(和銅3)年神主である大楽家の先祖・兵太夫と、
        宮ノ尾の彦兵衛が紀州熊野本宮へ参向し、神霊を島田村に勧請したという。当社の旧号は
        十二権現といい、1871(明治4)年熊野神社と号することになった。

        
         室町時代のある年に疫病が流行し、平穏祈願のため境内末社の松浦神社(祇園社)に人形
        芝居を奉納したところ、平癒したことから人形浄瑠璃芝居の奉納が今日まで続けられてい
        る。

        
         平成橋を渡って島田川右岸を河口へ向かう。この付近も桜並木が続いている。

        
         千歳橋西詰から右手の道に入る。

        
         虹と松、海に浮かぶヨットがデザインされた光市のマンホール蓋。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の浅江村が単独で自治体を形成する
        が、1939(昭和14)年4月に三井、島田、光井、浅江の4ヶ村が合併して周南町が発足
        する。旧日本海軍が旧光井村に「光海軍工廠」を新設したが、これがのちに市制施行のと
        きに市名となる。

        
         浅江神社は、1871(明治4)年加茂大明神と山王八幡宮の2社と、山王原の一社を合碑
        して地名をとって現社号とする。
         賀茂神社は大内長門守が山城の賀茂神社より勧請し、
山王八幡宮は、飛鳥期の703(大
          宝3)
年宇佐神宮から勧請された。

        
         清鏡寺(真言宗)は、萩にあった満願寺の末寺で吉祥寺と称していたが、給領主・清水家
        の先祖である清水宗治の菩提寺となり、1594(文禄3)年5月に宗治の法号から清境寺と
        改めた。

        
         1582(天正10)年に羽柴秀吉の「備中高松城の水攻め」で落城寸前に追い込まれたが、
        本能寺の変(信長死去)が起こる。秀吉から宗治の命を条件に城兵を助命するという条件に
        応じる。6月4日に兄の月清入道や弟の難波伝兵衛らと自刃する。

        
         立石孫一郎は播州上月村の大庄屋の家で生まれ、倉敷の豪商(庄屋とも)の養子となる。
        代官と米問屋の不正を非難したため、自らが出奔する羽目となり、長州藩の清水氏を頼り、
        後に第二奇兵隊の一分隊長(軍監)を任される。
         幕末には第二奇兵隊の「倉敷・浅尾騒動」の首謀者である立石孫一郎が、住職を頼り潜
        伏した寺でもある。

        
        
         境内の裏には清水景治が建立した墓がある。宗治ほか高松城で殉死した家臣らの供養塔
        があり、本堂には宗治の位牌があるとのこと。

        
         西の河原川の桜並木道を散歩して駅に戻る。

        
         駅前に2人の子供が向かいあって「睨めっこ」しているような像がある。


光市島田と束荷に難波覃庵と伊藤博文の旧宅 

2020年02月02日 | 山口県光市

        
            この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         立野は島田川中流域の東部に位置する山間の地である。地名の由来を風土注進案は、「
        古ハ楯野と書記仕候由、当村之産土神今山宮の祭神楯野媛命之由縁ヨリ唱来候」
という。
         束荷(つかり)は盆地で中央を島田川の支流である束荷川が西流、流域に集落が点在する。
        地名の由来について「稲の荷を束ねる所」とあるが、信ぴょう性は薄いという。(歩行

        6.8㎞)

        
         1897(明治30)年に開業したJR島田駅は、静岡県の東海道本線に島田駅があるが、
        漢字は同じでも呼び名が違うようで、静岡は「しまだえき」、山口は「しまたえき」だそ
        うだ。

        
         駅前には「あの旅 この旅 想いでの旅 人生 いつまでも 楽し」とある。

        
         永明寺先で右折して道なりに進み、山田公会堂前を左折する。

         
         坂を上がると左手に正義霊社がある。

        
         正義霊社は萩藩寄組で立野村給領主であった清水家の氏神である。社伝によると寛永年
        間(1624-43)清水景治(宗治の嫡子)が、備中国清水村にあった同家の氏神(稲荷神社)を分霊
        し、宗治の神霊を合祀したのに始まるという。
         また、禁門の変後に藩内の政争に敗れ、切腹した清水親知(清太郎)も神霊として合祀さ
        れている。

        
         清水宗治は、1582(天正10)年羽柴秀吉の備中高松城水攻めで、自らの命と引き換
        えに城兵を助命させた武将である。6月6日に水上の舟にて自刃し、弟の難波宗忠(伝兵
        衛)らは城内で自刃する。

       
         参道中腹左手には幕末期の幕長戦争では第二奇兵隊総督で、親知の養父であった清水親
        春(ちかはる)の墓がある。

       
         ウオーキング中の方にお聞きすると、正義霊社南側が島田と立野の境界で、この一帯が
        立野とのこと。(ゴルフ練習場と老健施設)

        
        立野の宮河内地区に入る。

        
        立野神社は閑吟山(かんざんざん)の麓に鎮座し、古くに糘塚(すくもづか)・今山両社権現と
        し、立野村の氏神として崇敬されてきた。1871(明治4)年に現社号となった。

        
         寺社由来によると、今山権現は往古に熊野から勧請し、糘塚権現は立野村給領主・清水
        就信が、1650(慶安3)年に備中高松城の鎮守を勧請して2社が連立していたが、168
        8(元禄元)年火災で焼失し再建されたが1社となった。

        

         この集落も空家が目立つ。

        
         宮河内自治会館と児童公園の地には立野小学校があった。1874(明治7)年に創立され
        たが、1965(昭和40)年に廃校となる。(車の場合、会館に駐車可能)

        
         束荷川に架かる橋は老朽化で車両通行禁止となっている。

        
         橋の西詰には幕末期に多くの事績を残した難波覃庵(たんあん)顕彰碑がある。1905(明
          治38)年孫の難波作之進が郷土の有志と建てたもので、篆額は当時枢密院議長の伊藤博文、
               撰文は楫取素彦、筆は当時日本書道界の第一人者高島張輔(萩市出身・日本画家の高島北
         海の
兄)である。

        

         束荷川沿いにある旧難波家には四脚門が残る。難波周政(かねまさ)は備中高松城
       に籠城し、城主清水宗治の自決に際し、殉死した伝兵衛から11代目にあたる。   
        覃庵という名は南画家になってからのことである。

       
        覃庵の20~30代は国内外において、国の存亡にかかわる非常時に遭遇していた。奇
        兵隊など諸隊が各地に結成されると、清水家家臣団も地域の青壮年による「慕義隊」を結
        成するが、新兵法に対処できる武器は乏しかった。


             
        覃庵48歳の時、私費を投じて樟脳(無煙火薬の製造原料)製造工場を設立するなど殖産
        にも力を尽くす。財政ひっ迫の折は自領の田畑などを売却して主家の軍資金を捻出する。


       
        1862(文久2)年には主君の命を受けて、私塾「養義場」を自邸に創設して国家の急務
        に備えた。世子清水親知(ちかとも)の切腹後、親知の蔵書を加え、法名「仁沢院殿向山義雄」
        に因んで「向山(こうざん)文庫」と名付けた。


       
        1871(明治4)年に覃庵は一線から退き、余生は南画家として過ごす。1883(明治
          16)
年には邸宅内に土蔵1棟を建てて、三條実美筆の「向山文庫」の額と、毛利元昭の額
        を掲げ、室内に旧主親知の霊を祀り、孔子廟を設けたが5年後に他界する。

        
         1923(大正12)年12月27日に覃庵の曾孫・難波大輔(26歳)は、皇太子(昭和天
        皇)の暗殺未遂、いわゆる「虎ノ門事件」を起こす。事件により山本権兵衛内閣は総辞職し、
        難波家は絶家、大助は刑死、衆議院議員だった父・作之進は絶食のすえ他界する。「革命
        万歳!」と叫ぶ大助が皇太子に向けたスッテキ銃は、伊藤博文の洋行土産であったともい
        われている。

        
         この先、束荷川に沿って旧束荷村に入る。

        
         県道23号線(光上関線)を横断し、県道159号線(束荷一の瀬線)を北上すると野尻集
        落。

        
         伊藤公記念公園に入ると正面に旧伊藤博文邸(無料)、左手に資料館(有料)がある。

        
         当時、伊藤家の生家はすでになく、実家である林家の300年祭(伊藤公の遠祖・林淡
        路守通起の没後300年)に、林一族及び伊藤家を集める場所がないため、この建物が計
        画されたのである。

        
         邸宅前には完成を見ることができなかったため、旧邸を見守ってもらうためと像が建立
        されている。玄関ポーチは吹き寄せ柱を用いた半切妻造りの屋根。(当初は切妻造り)

        
         ホールの左右は洋間となっている。設計は自らが基本設計を行い、下関の地元業者清水
        組が施工した。1910(明治43)年3月に着工して翌年の4月に完成、総工事費2万1千
        余円である。

        
         棟札などが置かれている展示室(2)

        
         左手洋間の奥に和式便所。

        
         中央にある階段親柱には、伊藤家の家紋フジの装飾が施されている。

        
         2階の間取り。

        
         半円形の小部屋が設けられている洋間。

        
         洋間にある椅子には菊の紋が施されている。

        
        
         天井の空気孔にも意匠が凝らされている。

        
         木造モルタルの2階建て寄棟造り、桟敷瓦葺きで延べ280㎡の洋風建物である。洋風
        とはいうものの2階は8畳と6畳の和室を設け、床の間、欄間には月(左)と雁(右)があし
        らわれている。

        
         和室には広縁が設けられ解放感ある造りとなっている。

        
         1991(平成3)年が伊藤博文生誕150年にあたることから、木造茅葺平屋建の生家が
        復元される。

        
         伊藤博文(1841-1909)は林十蔵・コト(琴子)の長男として、この地で生まれた。父は金銭
        トラブルを幾度か起こしたためこの地に居られなくなり、妻と利助(博文の幼名)を妻の実
        家である秋山家に預け、萩城下に出て行く。利助5歳の時である。

        
         中間(ちゅうげん)の伊藤直右衛門に拾われた十蔵は、妻子を萩に呼び寄せ、一緒に暮らし
        始めた。利助9歳の時で人生を大きく変えることになる。1854(安政元)年に家族ともど
        も伊藤家の養子となり、下級武士の身分となる。(生家の裏側にある井戸は産湯の井戸とさ
        れる)

        
         この地には、1919(大正8)年に伊藤博文を祭神とする伊藤神社があった。老朽化に伴
        い1959(昭和34)年に束荷神社と合祀され、社跡には座像が設置された。台座には「人
        は誠実でなくては何事も成就しない。誠実とは自分が従事している仕事に対して親切なこ
        とである」とあるが‥?。

        
         1909(明治42)年満州視察の直前、帰国するまでに完成させるように指示して大陸に        
        渡る。視察途中の同年10月ハルピンの駅頭で安重根の銃弾に倒れ、故郷に戻ることなく
        その生涯を終えた。

        
         奥の建物は初代内閣総理大臣・伊藤博文の遺品等が展示されている資料館。

        
         伊藤記念公園前から光市営バスに乗車すれば、山陽本線・岩田駅に出ることができる。
        便数は6便のうち3便は、11:42、14:01、16:25であり、駅まで17分程度の所要時間で
        ある。

        
         バスの乗車時間には余裕があったので、束荷村の中心地だった新市まで歩を進める。交
        差点から束荷小学校方向へ行くと、右手に三隅塾跡の碑がある。伊藤博文が幼少期の18
        49(嘉永2)年に学んだ寺小屋で、実際の所在地はこの地より南東の方向、約70m先の町
        中にあったとのこと。

        
         1889(明治22)年の町村制施行時に、近世以来の束荷村が単独で自治体を形成する。
        1943(昭和18)年に4村(束荷、塩田、三輪、岩田)が合併して大和村が発足するまで、
        この地に村役場が置かれた。現在は駐車地として利用されているが、片隅に当時の塀が残
        されている。

        
         旧束荷郵便局舎だったと思われる建物がある。玄関ポーチ、屋根、窓に意匠が見られる。

        
         伊藤邸とアジサイがデザインされた旧大和町のマンホール蓋。

        
         新市の静かな町並みを見て、14時8分にコミュニティーセンター前バス停から市営ス
        でJR岩田駅に出る。

        
         日曜日のためか5つのバス停に乗降客もなく駅に到着する。

        
         1899(明治32)年開通していた山陽鉄道に新たに岩田駅が新設される。同じ呼び名で
        静岡県に磐田駅があるが、こちらは島田駅と違って呼び名は同じだが漢字が違う駅である。