ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

美祢市の河原にポリエと旧赤間関街道・河原宿

2022年08月31日 | 山口県美祢市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         河原(かわら)は現美祢市の東、秋吉台南斜面の
河原ポリエ(溶食盆地)とよばれるカルスト
        地形に位置する。地名の由来は、水を溜めない地形から水無河原と呼ばれ、ここから地名
        が生まれたといわれる。 
         1889(明治22)年町村制の施行により、河原村と伊佐村が合併して伊佐村となる。大
        正期に伊佐町、昭和の大合併で美祢市伊佐町となり現在に至る。(歩行約1.5㎞、🚻なし)

        
         河原町へはJR美祢駅からコミュニティバス(杉谷線)があるものの便数が少なく、待ち
        時間などが多くて利用には難がある。専正寺に駐車の了解を得て西へ向かうが、寺の向い
        側に御札場、春定の掲示場があったというが痕跡は残されていない。

        
         専正寺(真宗)の寺伝によると、肥前国(現・佐賀県)三瀬の城主伊藤肥前守保貞が真宗に
        帰依し、室町期の1500(明応5)年この地に一宇を建立。1632(寛永9)年に寺号免許を
        受け現寺号となる。
         河原は1871(明治4)年と1963(昭和38)年に2度の大火に見舞われ、昭和の大火で
        寺は焼失したが、非木造の本堂に再建された。

        
        
         大きな民家の一角に「諸隊の奇兵隊・南園(なんえん)隊宿陣跡」を示す標柱がある。説明
        によると、幕末の1864(元治元)年12月19日、太宰府へ移ることになった五卿のうち、
        三条西季知(すえとも)と四条隆謌(たかうた)の二卿が、藩主に別れを告げるという名目で諸隊
        (奇兵隊・八幡隊・南園隊)と共に伊佐市に滞陣する。隊の一部は河原宿に進出し、専正寺
        を本陣として当地区に分宿する。
         12月27日まで滞在していたが、急便により2卿は長府に引き返すが、諸隊は萩政府
        軍の絵堂本陣を急襲するため、大田(現・美祢市美東町)に進軍し、大田絵堂の戦いが開始
        された。

        
         門と塀を構えた古民家も無住になって久しいのか、草木の生長で姿が見えなくなりつつ
        ある。

        
         舟形地蔵尊3体が祀られているが、祠の柱には地蔵尊についての記述があったようだが
        劣化して読み取ることはできない。

        
         中央にアンモナイトの化石、周囲を市の花である桜を配置し、美祢市章と文字が入った
        集落排水用マンホール蓋。

        
         コミュニティバスの河原町バス停と古民家。

        
        
         鉱山開発のことがあってか、大内氏の時代から肥中街道がこの地を通過し、萩藩が成立
        すると萩と下関を結ぶ赤間関街道中道筋もここを通る。
         河原の市町の発達を阻んだものは、カルスト地質の地形による水不足と、近くの伊佐市
        に繁栄を奪われたことによるといわれる。市中にある菅原神社の由緒等は知り得ず。

        
         河原と伊佐は下関(赤間関)と萩の中間に位置し、県畜産試験場付近から肥中街道と赤間
        関街道中道筋が合流し、ここより上領八幡宮まで両街道が重なる。
         河原には馬継(宿)があり、人足20人、馬10疋が常備され、隣接する四郎ヶ原、秋吉
        の両駅と伊佐・岩永西市への人や荷物を輸送した。(神社入口付近)

        
         右手に蔵を見て町を過ごすと三差路に至るが、街道は直進道で県道湯ノ口美祢線に沿い
        ながら曽根集落に至っている。三叉路を右折して通山集落へ足を延ばす。

        
        
         下って登り返す道には見どころはない。

        
        
         登った所に石祠が並ぶが、道はこの先で街道と合わす。


美祢市の山中と川東は長閑な山間の集落 

2022年07月26日 | 山口県美祢市

               
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         厚保川東村、厚保原村、厚保本郷村はもともと厚保村(あつそん)であったが、1871(明
          治4)
年の大小区制で3ヶ村に分かれた。1889(明治22)年の町村制施行時に、厚保川東
        村は従来から村立していた山中村と合併し、東厚保村に移行する。一方の原村と本郷村は、
        施行時に合併して西厚保村となる。
         山中は厚狭川の支流である随光川流域の谷底平野に位置する。八頭の大蛇が逃げ込んだ
        という伝説があるほど深山幽谷であり、それが地名の由来であるという。(歩行約2㎞)  

        

         JR厚狭駅から美祢駅行きの路線バスがあるものの、1日往復1便のみでバス利用する
        には難がある。山中の中心部がよくわからないが、簡易郵便局や小学校がある地を歩いて
        みる。

        
         平地に水田、山裾に民家という農村風景が広がる。

        
         庚申塚、地蔵尊などが並ぶ。

        
         緑色の建物が東厚保簡易郵便局。 

        
         郵便局前から随光川に架かる横坂橋を渡り、西之浴集会所を過ごすと大隅八幡宮の参道。
        (入口には8月21日に風鎮祭を行う旨の案内がされている。)

        
        
         大隅八幡宮は室町後期頃に勧請されたと伝えるが、どこの神社から勧請されたかなどの
        詳細は知り得ず。
         
        
         境内から見る横坂集落。

        
         「紹隆三宝」と刻された碑。

        
        
         この付近が集落の中心地のようで、元は農協、商店、理髪店などがあり、生蓮寺の北の
        丘には徳蔵庵という真言宗の寺があったが廃寺になったという。

        
         随光川左岸の旧道に面する家々。正面に中国自動車道が域内を横断する。
         山中は山中石灰を産出し、1902(明治35)年頃には生産量が一俵(約30kg)にて10
        万俵を下ることがなかったが、大嶺線(現在の美祢線)が開通すると、伊佐石灰の生産が急
        増し、大正期になると山中石灰は減少し生産中止に追い込まれる。

        
         右岸にある生蓮寺(真宗)の寺伝によると、大橋彦右衛門重吉が仏門に入って法名を信教
        と称し、1587(天正15)年8月に光録庵(土井ヶ内)の古跡を復活して一寺を建立。のち
        に現在地へ移った。 

        
         東厚小学校は、1879(明治12)年山中小学として開校したが、2017(平成29)年3
        月末で閉校となり、現在は東厚コミュニティセンターとして活用されている。 

        
         自動車道横坂高架橋下の地蔵尊を拝んで駐車地に戻る。

        
         川東(かわひがし)は厚狭川中流域と同支流・柳井川、平原川の流域に位置する。
         地名の由来は、厚保(あつ)の厚狭川以東地域ということによるという。(歩行約1.9㎞)

        
        
         JR四郎ヶ原駅は、1905(明治38)年厚狭駅ー伊佐駅(現在の南大嶺駅)間が開業する
        と同時に設置された。駅名については駅所在地の地名ではなく、 約1.8㎞北にある赤間
        関街道の四郎ヶ原宿から命名されたといわれている。

        
        
         駅近辺は閑散としている。1954(昭和29)年3町2村が合併して美祢市が発足し、東
        厚保村が廃止されたのに伴い、村役場が東厚支所になったとされるが、支所も廃止され場
        所の特定できず。

        
         大向踏切で駅の裏側に廻ってみる。

        
     
         裏手も閑散としていた。

        
         天満宮とされるが由緒がないので詳細を知り得ず。 

        
        
         駅があるものの長閑な山間の地にある集落だった。     


美祢市美東町の真名はメタセコイヤ並木と旧小郡道 

2021年08月29日 | 山口県美祢市

                 
                 この地図は、
国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         真名(まな)は美東町の南端に位置し、鳳翩山塊に発し厚東川に注ぐ長田川の流域に接する
        集落。南北に小郡へ至る小郡道が走る。(歩行約3.5km)

           
         JR新山口駅から防長バス東萩駅もしくは秋芳洞行きで30分、湯ノ口バス停で下車す
        れば散歩は可能であるが、午後の遅い時間帯となったため車で訪れる。(駐車地は真長田公
        民館)

        
         長田川沿いにメタセコイア並木。

        
        
         旧町道と思われる道を南下する。

        
         妙福寺(真宗)の開創は、室町期の1520(永正17)年毛利元就の家臣であった進藤親直
        が、
訳あって実如上人のもとで仏門に帰依して一宇を創建。1705(宝永2)年寺号を許さ
        れた。

        
         県道31号線と合流する手前に庚申塚、石祠、石灯籠が並ぶが詳細不明である。

        
         県道を小郡方面へ進む。

        
         湯ノ口交差点より長田川に沿う。

        
         龍尾八幡宮の額束が架かる鳥居を潜る。

        
        
         真長田八幡宮の由緒によると、旧長田八幡宮は鎌倉期の1187(文治3)年に宇佐八幡宮
        より勧請し、長田村の総鎮守となる。
         一方の龍尾八幡宮は、鎌倉期の1328(嘉暦3)年宇佐八幡宮より真名村徳坂の丸山に勧
        請したが、後に現在地に遷座し、1912(明治45)年現在の社殿が造営された。
         どういう経緯かは不明だが、1964(昭和39)年両社が合併し、真長田八幡宮と改称す
        る。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、真名村と長田村の区域をもって真長田村が発足
        するが、その中心が真名であった。
         1954(昭和29)年真長田村、綾木村、大田町、赤郷村が合併して美東町が誕生したが、
        平成の大合併で美祢市美東町真名となる。

        
         美東町が発足して村名は消滅したが、八幡宮、郵便局、保育園など地名を冠した諸施設
        は現存する。

        
         1935(
昭和10)年代には散髪屋、呉服店、旅館、自転車店が並んでいたという。

        
         1955(昭和30)年代に入ると、湯ノ口商店街として道路の両側には店が連なり、道路
        左側にはたばこ屋、農協の精米所・売店、商店,鮮魚屋、駐在所、炭屋などが並んでいた。

        
        
         この付近には農協事務所、医院、旧真長田村役場などがあっ
た。

        
         
通りの端には醤油屋、パーマ屋さんなどもあった。

        
        
        
         JA山口美祢真長田付近から定住センターバス停付近までの約400mは、メタセコイ
        ア並木である。
         いつ頃何の目的で植えられたかはわからなかったが、見る限り60本以上はありそ
うだ。
        秋の紅葉が素晴らしいとの評判だが、風の強い冬には落葉して防風林の役目の果たさない
        並木である。


美祢市の麦川は大嶺炭鉱で栄えた町 

2021年08月28日 | 山口県美祢市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         麦川(むぎかわ)は美祢市中心部の北西部にあって、域内を麦川川(旧筈畠川)が南流し、川
        に沿って集落が
形成されている。(歩行約2.2km)

        
         大嶺駅は、1705(明治38)年9月山陽鉄道の厚狭ー大嶺間が開通したと同時に開設さ
        れ、炭鉱の最寄り駅として繁栄する。
         しかし、1971(昭和46)年大嶺炭鉱が閉山すると需要は激減し、1997(平成9)年4
        月大嶺支線2.8kmが廃止された。

        
        
         あり日の大嶺駅舎は、木造スレート葺きで炭鉱の町に似合う駅舎だったが、支線廃止後
        に解体された。駅舎があった場所は麦川郵便局辺りで、線路跡は県道となり様変わりして
        いた。

        
         旧大嶺駅は麦川川の左岸、集落は右岸にあって1本の橋で繋がっていた。

        
         橋を渡ると妻入り2階建ての新屋時計店。

        
         JR美祢駅からブルーライン交通西市行きのバスに乗車して、大嶺バス停で下車すれば
        ぶらっと歩きは可能である。
         但し、炭鉱跡のある荒川水平坑に立ち寄るので車で訪れる。(空地に駐車)

        
         山と川に挟まれた中に民家があるため、山手側には屋敷地が高くなった所もある。

        
         国吉旅館付近。

        
         化石のアンモナイトで埋め尽くされた美祢市のマンホール蓋。

        
        
         西商店も廃業されている。

        
         西音寺(真宗)の寺伝によると、大内義隆の臣・川(河)越太郎左衛門隆祐が、麦川上の小
        山に法師庵を開いたのが始まりという。

        
         歩いてきた道。

        
         麦川川の左岸は旧駅付近を除いて工場群が大部分を占める。

        
         少し離れて川上に上麦川集落。

        
        
         菅原神社は、永正年間(1504-1521)松崎天満宮(現防府天満宮)より勧請して創建されたと
        いう。

        
         境内より見る上麦川集落。 

        
                 「炭車が空を山のみどりからみどりへ」 
         種田山頭火の行乞記によると、1933(昭和8)年8月28日小郡の其中庵を出立し、大
        田(美東町)から伊佐を経て、8月30日麦川に入り行乞をしているが、この付近で石炭ト
        ロッコ車を見て詠んだのであろう。                

        
         麦川には2種類のマンホール蓋があったが、こちらは化石のアンモナイトを市の花「桜」
        が囲んでいる。

        
         麦川小学校は、1877(明治10)年城東小学校の分校として開校。その後、校名などの
        変更を経て、1933(昭和8)年現在地に移転する。
         かっては大嶺炭鉱があり、児童数1,000名を超す大規模校であったようだが、炭鉱閉
        鎖とともに減少傾向が続いたが、団地の完成等により若干の増加に転じているとのこと。

        
         荒川水平抗に移動する。

        
         途中に案内板。

        
         麦川川と交わる先の空地に駐車して案内に従うと、建物所有者の方から炭鉱の説明をし
        ていただく。

        
         1904(明治37)年に開抗した荒川水平抗は、明治期には海軍省の手により採掘されて
        いた。その後、民間に払い下げられて宇部興産山陽無煙工業所となったが、1970(昭和
          45)
年閉山する。

        
         閉山後、民間会社が採掘を再開するが10年足らずで閉鎖する。坑内にはトロッコなど
        が保存されている。

        
         坑外にはトロッコの線路が残る。

        
         この建物に鉱山換気用送風機が設置されていたという。

        
         駐車地は炭鉱で採掘した石炭を貯めておくためのホッパー(貯炭槽)があったようで、本
        体は残存しないが礎石が残る。専用線の上に作られ、ここから大嶺駅までトロッコ軌道で
        運ばれた。

        
         1940(昭和15)年美祢坑口に近い大嶺側の白岩地区に炭鉱社宅が建設された。当時
        の社宅は福岡県日炭高松の社宅様式を手本にした二階建てであった。間取りは階上6畳、
        階下6畳の2間であったが、当時、石炭増産のため三交替勤務が実施され、抗夫が昼間で
        も睡眠をとる必要があった。現在は炭鉱住宅地は太陽光パネル広場に様変わりしている。

        
        
         帰路、JR南大嶺駅に立ち寄ってみると、駅舎は建て替えられているが周囲の風景は変
        わっていなかった。

        
         
         1905(明治38)年山陽鉄道の厚狭駅ー大嶺駅間開業時に伊佐駅として設置される。
        美祢軽便鉄道が当駅から重安駅まで延長し、後に国有化されて長門市駅まで延伸すると駅
        名は
南大嶺駅と改称する。
         かっては2面3線で列車が止まっている1番線が大嶺支線用だったが、廃止に伴い埋め
        られた。 


美祢市厚保は厚保栗と来嶋又兵衛旧居地 

2021年08月27日 | 山口県美祢市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         厚保本郷(あつほんごう)は、東端を厚狭川、中央部を東へ原川が流れ、その谷底の平野に
        立地する。域内にはJR美祢線、主要地方道下関美祢線が通り、南部を中国自動車道が横
        断する。
         難読な地名の由来は、神功皇后の朝鮮出兵伝説に関わりがあり、当地で兵を集めたこと
        から集めの村と称し、誤って厚保の郷といわれるようになったとか。
         また、「阿」は湿地の意味で、「津」は交通位置を示し、「厚津」がのちに厚保になっ
        たという説もある。(歩行約4.7km) 

        
        
         JR厚保駅は、1905(明治38)年大嶺線開通とともに開業した駅で、相対式ホーム2
        面を有する列車交換が可能な駅。駅舎は「厚保地域交流ステーション」として利用され、
        駅前には手書きの「駅長さんが書いた駅名ものがたり」の看板がある。

        
         厚狭川を挟んで右岸に県道下関美祢線、左岸をJR美祢線が走る。

        
        
         県道沿いに「目のお薬師様」を祀る薬王寺があり、階段には男の厄坂42段、女の厄坂
        33段という厄坂が設けてある。
                  1950(昭和25)年5月に開山され、翌年4月臨済宗一畑薬師寺より薬師如来を分霊し、
        のちに宗教法人となる。

        
         駅前の千歳橋まで戻って旧道に入る。 

        
         この筋に厚保公民館、市厚保出張所および厚保中学校が並ぶ。

        
         公民館前から県道を横断して次の集落に入ると、高く積まれた石垣と古民家。

        
         色づき始めた田園風景を眺めながら山裾を巡る。

        
        
         注連縄があるので猿田彦か庚申塚と思われるものと、高台の離れた場所にお地蔵さんが
        一基。

        
         神功皇后社の社叢が見えてくると神社前に出る。

        
         社伝によると、室町期の1425(応永32)年長府の二宮神功皇后宮(忌宮神社)から勧請
        したというが、当地方には二宮の社領なく由来はわからないとする。由緒書きには神功皇
        后三韓へ出陣の際、この地にて兵を集め給うとある。

        
         この道筋にはハス、アジサイなどの花もあって、四季を感じることができるとのことだ
        が、この時期はハスの花が見られたようだが、時期遅しで一輪のみだった。

        
         厚保小学校が見え、カーブミラーのある所を右折すると栗畑。この地は江戸時代から続
        く栗の名産地だそうで、自家選果、選果場での選果をクリアし、甘くて大きいものだけが
        「厚保栗」とされている。

        
         厚保小学校の近くに来嶋又兵衛の自邸があったため、1934(昭和9)年鎧を身に着け、
        陣笠を被る姿の像が建立された。

        
         来嶋又兵衛は、1817(文化14)年厚狭郡西高泊村(現在の山陽小野田市)で、無給通組
        の下士(37石余)だった喜多村正倫の次男として生まれる。
         1836(天保7)年大津郡俵山村の大組の上士である来嶋政常の婿養子となり、政常の近
        親で庄屋・来嶋清三郎の長女タケと結婚する。
         1837(天保8)年又兵衛が何を思って移り住んだかは定かではないようだが、政常が手
        習い師範として多くの弟子を抱えていたためとか、あるいは清三郎が総領娘を養女に出す
        際の条件だったなどの説がある。

        
         1848(嘉永元)年剣術修行から帰国して家督を継ぎ、藩世子の駕籠奉行などの要職を務
        める。1851(嘉永4)年に義父が死去したため、来嶋家累代の名前を継承して来嶋又兵衛
        を名乗る。
         1863(文久3)年10月世子上京の前衛を仰せ付けられ狙撃隊を組織するが、8月18
        日の政変で尊皇攘夷派が追放され萩に戻る。
         その後、遊撃隊を組織し、1864(元治元)年7月国司勢の前軍として蛤御門で戦うが戦
        死する。像は戦時中に金属供出で失われたため、1998(平成10)年再建された。

        
         銅像の隣には「世外候養痍隠晦之處(せがいこう よういいんかいのところ)の碑がある。世
        外こと井上聞多(のちの馨)は、1864(元治元)年9月山口で刺客に襲われて瀕死の重傷を
        負う。
         療養しつつ隠れ住んだのが厚保の来嶋家で、妹の厚子が来嶋家の長男森清蔵に嫁いでい
        た縁による。又兵衛の長男亀之進は、藩命で森清蔵を名乗っていた。

        
         学校横を抜けると三重塔の相輪が見えてくる。

        
         光専寺(真宗)の寺伝によると、豊後の大友宗麟の家老・三原加賀守清光が仏門に入り、
        真宗に帰依して清光と称し、1528(享禄元)年当地に来住して開創したとされる。

        
         1983(昭和58)年建立とされる三重塔。

        
         三戸酒造㈱の裏手側だが、既に酒造りはされてないようだ。

        
         旧道筋の家並み。

        
         三戸酒造の入口左手に蛭子神社。

        
         来嶋又兵衛の妻である父・来嶋清三郎は、1795(寛政7)年本郷村で生まれる。先祖は
        尼子経久の子・森親久の末孫と伝え、親久のとき毛利氏に仕え、旧地出雲国来嶋庄(飯石郡)
        より来嶋氏に改めた。

         親久の嫡子が辞して当地に住して農民となり、のちに大庄屋格となる。厚保村原の酒造
        株を買得し、1813(文化10)年に本郷へ酒造場を移した。
三戸酒造がその場所であるか
        否かはわからないが、1845(弘化2)年に建てられた堅固な家屋が現存する。

        
        
         旧道筋の家並み。

        
        
         1934(昭和9)年築の旧厚保郵便局。蔦に覆われて窓も見えない状態であった。中を見
        ることはできないが、ガラス面に「厚保郵便局」の字が微かに読み取れる。

        
         来嶋又兵衛と森家累代の墓について地元の方にお尋ねすると、原川右岸の山手にあると
        いう。丁寧に道順を教えていただくが、歩行距離が長そうなので残念する。


        
         旧道からJR厚保駅へ戻る。


美祢市大嶺は瀬戸崎往還道から赤間関街道筋 

2021年06月16日 | 山口県美祢市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         大嶺(おおみね)は四方を山に囲まれ、厚狭川の上流域に開けた大嶺盆地に位置する。
地名
        の由来は、国行村の彦山という岩山に山伏が「大峰入り」と称して群がり来たことから起
        こったという。(歩行約6.3km)

        
         JR重安駅は、1916(大正5)年美祢軽便鉄道が現南大嶺駅から当駅まで開業。後に国
        有化により美祢線に改称され、石灰石を輸送するための積込み施設があったが撤去された。
        島式ホームの列車交換可能駅である。(10:55下車)

        
         重安の町並みに沿って重安小学校付近まで歩く。

        
         今年3月に144年の歴史を閉じた重安小学校。

        
         善立寺(真宗)の寺伝によると、開基は伊予国の浪人・河野新左衛門光利の末孫である四
        郎左衛門が、1676(延宝4)年に建立したとある。

        
         瀬戸崎往還道は山裾に沿いながら南下する。

        
         化石「アンモナイト」がデザインされた美祢市のマンホール蓋。

        
         異様な山肌をした石灰石鉱山が見えてくる。

        
 
         現役の鉱山のようで、太平洋セメント㈱の関連会社が採掘しているとのこと。

        
         かっては栄えたであろう通りもひっそりしている。

        
         道路沿いに太平洋セメントの巨大な石灰焼成用竪型石灰窯があったようだが、2011
        (平成23)年駅の積込み施設と共に姿を消した。

        
         遠くに宇部興産伊佐セメント工場の煙突が聳える。

        
         最初の民家手前が大嶺町北分と東分との境付近。

        
         宝泉寺(真宗)の地は、もともと上領八幡宮の社坊があったという。室町期の1538(天
          文7)
年の八幡宮棟札に「社僧権師亊□性院」とあるが、□は読み取れないそうだ。

        
         境内にヤマグワの巨木がある。案内によると根本より二又になっており、根囲は5.85
        mの雌雄同株であるとされ、400年相応の樹齢と推測されるとのこと。

        
         往還道に戻って南下すると、中領八幡宮参道前で赤間関街道中道筋と合わす。

        
         赤間関街道中道筋は萩往還道の明木から絵堂、秋吉宿、河原宿を経て、厚狭川を渡って
        上領八幡宮の参道下に至る。

        
         上領八幡宮の社伝によると、石清水八幡宮より勧請したが、1616(元和2)年と175
        
(宝暦3)年の火災で焼失し、勧請の時代が明らかでないが、室町期の1538(天文7)
        建立の棟札が記録にあるとする。

        
         街道を進むと左手に八幡磨能峰宮(やはたうすのみねぐう)(下領八幡宮とも)の森が見えてく
        る。上領八幡宮の距離は300m程であり、祭礼も同日に催する「兄弟社」であると
いう。

        
        
         八幡磨能峰宮について風土注進案は、石清水八幡宮よりの分霊を祀ったが、建立の年月
        縁起などわからないとしているが、縁起おぼしき虫食いの破本に室町期の1499(明応8)
        年6月建立と記す。

        
         碑は風化して刻字を読み取ることはできないが、傍らに「憂国の志士廣岡浪秀(なみほ)
        の説明板がある。
         この神社の宮司の長男であった浪秀は、周防徳山で修行して国学などを学び、尊皇攘夷
        思想を持つ。1862(文久2)年京都に出て、憂国の志士として国事に奔走する。186
        4(元治元)年6月5日、諸藩の志士たちが京都三条の池田屋に集まったが、長州側の志士
        
として吉田稔麿と共に参加。これを察知(同志古高俊太郎が新選組に捕縛され自白)した新
        選組が急襲され全員が同じ運命をたどった。浪秀は24歳であったが1915(大正4)年従
        五位が贈られたとある。
 

        
        
         八幡宮に続いて大嶺小学校の校舎と運動場、少し下った所で尾其上川の小さな流れに出
        合う。

        
         新四国美祢市八十八ヶ所63番霊場。

        
         家々は更新されて街道だった面影は残っていない。

        
         
中村地区に入ると道は分岐する。左は美祢線を渡り美祢駅へと続くが、街道は直進して
        左手に変電所を過ごす。

        
         街道は右側の道だが、直進してJR美祢駅へ向かう。

        
         線路に沿うようになると前方に跨線橋が見えてくる。

        
         美祢駅構内には3本の線路があるが、ホーム側の線路のみが使用されている。

        
         美祢駅は無人駅で駅前はひっそりとしている。

        
         単線化した美祢駅(14:09乗車)
              


美祢市の麻生は炭鉱住宅が建ち並んでいた地 

2021年06月14日 | 山口県美祢市

        
                  この地図は、国地土理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         
麻生は日野川支流の三ツ杉川流域の沖積低地に位置する。地名の由来は地下(じげ)上申に
        よると、往古、麻の中で生まれた麻生助が長じて、麻生盛綱となり、当地に居住したこと
        によるという。(歩行 約5.km) 

                  
  
         JR美祢駅(9:08)からブルーライン交通豊田西市行き30分、豊田前バス停で下車する。

        
         
日野川に架かる馬橋を過ごし、国道を美祢方面に進む。

        
         この建物は、旧国鉄バスの秋吉線豊田前車庫として、1976(昭和51)年から11年間
        使用されたがダイヤ改正で廃止された。
         祖先が築き上げた文化を長く後世に伝えるため、山陽無煙鉱業所関係、農・民具関係資
        料を豊田前小学校に展示保管していたが、小学校新築のため、この建物を改造整備して豊
        田前郷土資料館として保存展示しているという。

        
         この先で旧道に入るが、大内氏の時代には山口市道場門前と海上交通の要港・肥中港を
        結ぶ肥中街道として整備された。

        
         山本モータース(無人)の敷地内に馬のオブジェが置かれている。

        
         1939(昭和14)年丘陵地に山陽無煙鉱業所豊浦社宅が建設され、この社宅に対し「し
        たみせ」として賑わった地である。

        
         最盛期には80店舗以上が軒を連ねていたとされるが、1958(昭和33)年頃から石炭
        不況の影響を受けて衰退の途をたどる。

        
        
         賑わった頃に作成されたであろう看板が残る。

        
         静かな通りである。

        
         中央にアンモナイトの化石、周囲に市の花「桜」が配置され、「かせきとはなのまち」
        と刻字された美祢市の集落排水用マンホール蓋。

        
         このような建物は2軒のみであった。

        
         集落と国道の間を三ツ杉川が西流する。

        
         かって炭鉱住宅(豊浦社宅)が立ち並んでいた地に、美祢社会復帰促進センターが開設さ
        れた。当時の法務大臣が「この施設で、受刑者が生まれ変わることを心から願って、この
        丘を「再誕の丘」と命名したとある。

        
         2007(平成19)年4月、わが国初のPFI手法による官民協働の刑務所として発足す
        る。

        
         刑務所といえばコンクリート塀が連想されるが、当センターはフェンスにより環境への
        調和が図られている。

        
         施設内道路は通行可能であり、地域との共生の観点から敷地内に市立保育園、施設内の
        一般食堂も住民の方々に開放されている。

        
         施設の裏手は田園地帯が広がる。

        
         麻生八幡宮の社伝によると、平安期の1158(保元3)年宇佐神宮より勧請する。もとは
        麻生又二郎盛綱の居城、土井山に創建されて鎮守とされていたが、室町後期の1549(天
           文18)
年現在地に移転したという。

        
         八幡宮が移転した折に麻生盛綱母子の供養塔も移転したとされる。この塔は室町中期の
        作とされ、ほぼ完全な形で残っているのは珍しいそうだ。

        
         長福寺(真宗)の寺伝では、大内義隆の家臣・来島九郎右衛門が、大寧寺において義隆自
        刃後、この地に逃れ亡主の冥福を祈るため、出家・得度して草庵を結ぶとある。

        
        
         四方を山に囲まれた田園地帯は、巨費を投じて圃場整備が行われた。

        
         集落の境に庚申塚。

        
         国道筋に戻ってくる。

        
         浄円寺は往古には真言宗であったが、その後、萩の三戸氏の末葉が堂守していたが、後
        に真宗に帰依して改宗する。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、6村が合併し豊田前村が発足する。その後、町
        制に移行して、1954(昭和29)年美祢市になるまで、この地に村(町)役場が置かれた。
        (現在は公民館と市出張所)


美祢市秋芳町の江原はウバーレの中に集落 

2021年05月03日 | 山口県美祢市

        
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         江原(よばら)は於福台と別府台との間にできた摺り鉢状の窪地で、集落は北部の山麓と別
        府台の東麓などに散在する。
         カルスト台地に多く見られるような窪地を「ドリーネ」といい、このドリーネがいくつ
        も組み合わさった窪地を「ウバーレ」というが、江原地形はウバーレの典型的な地形とい
        う。(歩行約2.4km)

        
         別府の堅田から県道銭屋美祢線に入り、約4.6kmの狭隘な道を走行すると江原多目的集
        会所がある。(🚻あり)

        
         県道を横断すると左手に火の見櫓があり、半鐘が取り付けてあるので現役と思われる。

        
         集落内は坂道であるが階段は見られない。

        
         下ってくると主屋と納屋兼作業場、蔵を持つ大きな民家。

        
         安楽寺(真宗)は、1649(慶安2)年大津郡渋木にある浄土寺の門弟であった浄西という
        僧が、この地に建立したと伝える。明治期に本堂を再建したが、1940(昭和15)年9月
        20日に起こった江原大火の難にあって焼失したという歴史を持つ。

        
         東の道へ下る。

        
         江原には川はなく、雨水は標高約170mにあるこの吸い込み穴から地底に消えるが、
        大雨の時は吸い込みができず、この一帯が浸水するとのこと。

        
         岩屋と云われる所で、家のすぐ傍に石灰岩の岩柱が立ち並び、岩の避けるように民家が
        建てられている。

        
         1940~1980年代に葉タバコの生産が盛んになり、標高の高い所まで畑地となっ
        たが、葉タバコの生産終了で広がっていた畑地は、植林地化などで大きく変化したようだ。

        
         土壁の建物は葉タバコ乾燥小屋で、焚き口で燃料を燃やすと、鉄管の内部を通る空気の
        熱が室内全体に回り、タバコの葉を乾燥する仕組みになっていたとか。(使用中止後屋根形
        態が変わったようだ)

        
         寺前に戻るとお堂の側に横田黙助先生の碑がある。16歳で吉田松陰の門下生となり、
        36歳で江原の寺小屋の先生となる。30年間で約600人を教え、1916(大正5)年逝
        去(享年81歳)

        
         集落道から見る岩屋。

        
         寺先から見る風景だが、集落中央を南北に1本の道が走る。

        
         2間×2間程度の小規模なタバコ乾燥小屋が各家に建設されたそうだが、これが本来の
        タバコ乾燥小屋のようで、換気用の屋根が取り付けてある。

        
         1940(昭和15)年の大火では、集落の大部分の建物が焼失したが順次再建された。

        
         傾斜地に造成された屋敷地は段状をなしている。

        
         屋敷は南向きを基本とし、主屋と納屋兼作業場があるという共通性をもっている。

        
         こうした家屋にも遭遇する。

        
         右折すると水神様への階段。

        
        
         水神社の創建年代や由緒を知ることができず。

        
         別府小学校江原分校は、1873(明治6)年美祢郡第二嘉万小学校設立により支校として
        設立される。その後、嘉万・堅田簡易・別府小学校の分校と変遷するが、1984(昭和5
          9)
年廃校となる。

        
         地形の底部分から見る家並み。

        
         1964(昭和39)年に簡易水道が敷設されるまでは、井戸水と天水を利用していた。井
        戸のない家は近隣の家から飲料水を確保し、生活用水や農業用水などは天水溜をつくり利
        用した。

         
         2つ目の吸込み穴は標高140mの最低部にあり、流入した雨水は地底に消え下嘉万地
        区の湧水となる。

        
         吸い込み口から県道までは長い急坂。

        
         複雑に窪んだ地形の低い部分に、建物が様々な方向に密集している。

        
         江戸期から麦などの穀物及び根菜類など水はけがよく、痩せた地質でも栽培できる作物
        を作ってきた。 

        
         墓地の一角に尚義館師・横田黙助先生の墓碑が建つ。

        
         お会いした方に吸込み口に案内していただくなど、心温まるもてなしに感謝して集落を
        後にする。


美祢市秋芳町の秋吉は秋芳洞と赤間関街道秋吉宿

2021年05月03日 | 山口県美祢市

               
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         秋吉は厚東川以東の秋吉台南縁と秋芳洞から流れる稲川流域に位置する。
         地名の由来について風土注進案
は、往古、この地が沼地であった頃に芦が茂っていたた
        めアシヨシといい、康永年間(1342-1345)に田畑が開かれるようになって、秋吉と称したと
        いう。(歩行約4.5km)

        
         県内屈指の観光地であるため各地からバスで訪れることができる。新山口駅(10:10)か
        ら防長バス約40分、終点の秋芳洞バス停で下車する。車だと近辺に有料駐車場がある。

        
         観光センター脇にある石碑は、「秋芳洞」は読めるが碑文は風化して読めない。

        
        
         昭和の時代になって秋芳洞と秋吉台が天下の観光地として脚光をあび、特に終戦後の観
        光ブームに恵まれ、広谷の商店街は急激に繁栄し、旅館や休憩所を兼ねた土産物売店、飲
        食店などが300mにわたって軒を並べた。今もそうした店は健在であるが、廃業された
        店もちらほら見かける通りになっている。

        
         この先は有料施設だが、その手前を左折する。

        
         自住寺を禅寺として開いた寿円禅師は、南北朝期の1354(正平9)年旱魃に苦しむ難民
        救済のため、入洞修法して願いが叶うと恩を仏天に報謝して竜ヶ淵に入寂する。村人たち
        は禅師の徳を偲び、遺体を火葬にしてその遺灰と土を混ぜた遺灰像(ゆいかぞう)を造った。
         この遺灰像は秋芳洞入口にある開山堂に祀ってあり、誰でも見学できるそうだが、現在
        はコロナ感染防止のため拝観できない。

        
         秋芳洞から流れ出る稲川の右岸道。

        
         最初の橋で左岸へ移動すると山口秋吉台自転車道。3本目の橋を渡って曽和集落に入る。
        (右岸道は悪路)

        
         山裾の家々を結ぶ集落道を川下へ向かう。

        
        
         曽和の湧水(通称・青池)は、秋吉台の南端の崖下に湧出する湧泉池。やや細長い池に木
        の葉が浮いているが、まさに名にふさわしい色を見せる。

        
         再び稲川の右岸に出て自転車道を南下する。途中、車道を横断しなければならないが、
        普段であれば交通量は少ないと思われる。

        
         上里集落。

        
         正面に曹洞宗の自住禅寺。

        
        
         自住禅寺は、平安期の807(大同3)年弘法大師開闢(かいびゃく)の千手観音鎮護の霊場と
        して伝わる。1870(明治3)年長門の大寧寺に合併して廃絶したが、1879(明治12)
        再び復興した。その後、境内の観音堂より出火して旧伽藍を全焼したが、1907(明治4
          0)
年に域内の岩永にあった西岸寺の本堂を移転改築したもので方形の屋根を持つ。

        
         上里集落は更新された家が続く。

        
         集落内を抜けて秋吉中学校を過ごすと車道に出る。

        
         車道を下ってくると右手に秋吉八幡宮がある。参道入口に江戸末期の1861(文久元)
        に造られた文久の石灯籠がある。
         割石を丁寧に組み上げた上部に入母屋型の屋根を張り出させた灯籠を置いている。当初
        は同八幡宮の御旅所近くにあって秋吉宿の常夜灯の役割を果たしていたが、道路拡張工事
        により、1968(昭和43)年現在地に移転された。

        
        
         風土注進案によると秋吉八幡宮は、「嘉祥年中(848-851)に百済国帝、大津郡の海岸に漂
        着後この所に遷住し、御卒去後霊を祭りて総鎮守とす」といい、鎌倉期の1192(建久3)
        年宇佐八幡宮より勧請し相殿したという。

        
         境内に鐘楼があるが、当社に社坊・正福寺があったとされる。

        
         境内から見る秋吉宿。右側は瀬戸、左側は里といい、秋吉宿を挟んで集落が異なる。

        
         秋吉宿は赤間関街道中筋にあたり、絵堂宿と河原宿の中間にあった宿駅である。172
        0(享保5)年新宿に指定されたため、
人夫8人、馬が5疋が常備され、宿役人が目代所に控
        え、人夫・馬は交代勤務していた。

        
         化粧地蔵尊と小さな祠が収められている。

        
        
         両側には古い民家が残る。

        
        
         商店が軒を連ねていたが、今は廃業された店もある。街道はバス停前の四差路で右折す
        る。

        
         街道とは反対側の裏道。

        
         防長バス新山口駅行きに乗車できる。


美祢市秋芳町の別府はポリエの中に日本名水百選・別府弁天池 

2021年03月04日 | 山口県美祢市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         秋吉台の西に位置するこの一帯は、カルスト地形で堅田ポリエ、下嘉万ポリエ、江原ウ
        バーレの3地域に分けられる。
         堅田ポリエは別府台の北部にあたる低地域で、厚東川の支流・川原上川が地内を東流す
        る。ポリエとは石灰岩地域にみられる細長い陥没地でウバーレよりも大きいものをいう。
        (歩行約2.9km)


        
          この地へはバス路線は通勤・通学用に設定され、JR於福駅より片道5.5㎞もあること
        から車で訪れる。(郵便局近くの旧道に駐車)

        
         壬生(みぶ)神社は一ノ鳥居から長い参道である。

        
         城山(石楠山)の南麓に鎮座するが、中世には厚東・大内両氏の争奪の地であり、南北朝
        争乱時には戦場となり、社殿などが兵火にあったものと思われる。

        
          灯籠の上部に鯱のようなものが載っている。

        
         社伝によると、平安期の808(大同3)年豊浦二宮(現下関市の忌宮神社)より勧請したと
        いい、美祢郡の総鎮守であったという。

        
         弁天池駐車場は満杯のため長い車の列。

        
          秋芳梨とニジマス、リンドウがデザインされた旧秋芳町の集落排水用マンホール蓋。

        
         普段はここまで車を乗り入れることができるが、今日は採水される方のみのようだ。カ
        ルシュウムの含有量は20ppmで、人間の口にはぴったりとされている。

        
         厳島神社の創建は平安期の907(延喜7)年とされ、1871(明治4)年まで弁天社として
        祀られてきたが現社号に改称する。
         壬生神社の社坊である金剛寺(真言宗)に水神として、安芸宮島より弁財天を池畔に勧請
        したことに始まるという。

        
         厳島神社傍に諏訪神社が祀られているが、昔、堅田の長林を開拓したが、水に困って諏
        訪大明神に祈ったところ、「弁天様を祀り、青竹を杖として、水の源を探し求めよ」とお
        告げがあり、それからまもなく清らかな水が発見されたという伝説がある。

                
         神木のムキノキは周囲5.3m、樹齢約600年で、神の「依り代(よりしろ)」として保
        護されてきたようだ。材は強靭で農具の柄などに用いられる。

        
        
         厳島神社境内にある別府弁天池は、日本名水百選に選定されており、毎分11tの水が
        湧き出ている。
         コバルトブルーに見えるのはミネラル分を含んだ水が、太陽光に照らされ、青色の光の
        みが反射することで、このような神秘的な色が見えるという。
         最も美しく見えるのは晴れた日がベストだが、時間帯によってはこのように木影が写る
        ので要注意である。

        
         中国自然歩道は、関門トンネル人道入口を起点に、秋吉台で南北に分かれ、北は萩城下、
        山口市の長門峡を経て島根県へ続く。南は県都から羅漢山を経て広島県へ通じる道である。
        蔵前の道が於福から嘉万市への自然歩道である。

        
         地内を蛇行する川原上川。

        
         旧道を東進。

        
         地蔵尊と市があったので恵比須社だろうか。

        
        
         堅田市は宝暦年間(1751-1764)まで定期市が開かれていたが、地理的条件に恵まれなかっ
        たため次第に衰えた。

        
          更新されていない住宅は無住のようだ。

        
         教覚寺(真宗)は、1697(元禄10)年壬生神社の社坊の1つであった喜長庵(真言宗)の
        旧跡に創建したと伝えられる。1875(明治8)年同地の西福寺に合併して廃絶したが、4
        年後に再興されたという。

        
         地内にもトタン葺きの屋根が少なくなっていた。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、近世以来の嘉万下村を改称して別府村として発
        足する。以来、1955(昭和30)年秋芳町が発足するまで、この地に村役場が置かれてい
        た。

        
         旧道の家々はその多くが更新されて往時を偲ぶことができない。

        
         緑色のパイプラインが地内を横断しているが、住友大阪セメントの石灰石運搬用のベル
        トコンベアである。秋芳鉱山から日本海側の仙崎港に運び出すために設けたもので、総延
        長16.5kmとされるが大部分はトンネルだそうだ。