ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

美祢市の河原にポリエと旧赤間関街道・河原宿

2022年08月31日 | 山口県美祢市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         河原(かわら)は現美祢市の東、秋吉台南斜面の
河原ポリエ(溶食盆地)とよばれるカルスト
        地形に位置する。地名の由来は、水を溜めない地形から水無河原と呼ばれ、ここから地名
        が生まれたといわれる。 
         1889(明治22)年町村制の施行により、河原村と伊佐村が合併して伊佐村となる。大
        正期に伊佐町、昭和の大合併で美祢市伊佐町となり現在に至る。(歩行約1.5㎞、🚻なし)

        
         河原町へはJR美祢駅からコミュニティバス(杉谷線)があるものの便数が少なく、待ち
        時間などが多くて利用には難がある。専正寺に駐車の了解を得て西へ向かうが、寺の向い
        側に御札場、春定の掲示場があったというが痕跡は残されていない。

        
         専正寺(真宗)の寺伝によると、肥前国(現・佐賀県)三瀬の城主伊藤肥前守保貞が真宗に
        帰依し、室町期の1500(明応5)年この地に一宇を建立。1632(寛永9)年に寺号免許を
        受け現寺号となる。
         河原は1871(明治4)年と1963(昭和38)年に2度の大火に見舞われ、昭和の大火で
        寺は焼失したが、非木造の本堂に再建された。

        
        
         大きな民家の一角に「諸隊の奇兵隊・南園(なんえん)隊宿陣跡」を示す標柱がある。説明
        によると、幕末の1864(元治元)年12月19日、太宰府へ移ることになった五卿のうち、
        三条西季知(すえとも)と四条隆謌(たかうた)の二卿が、藩主に別れを告げるという名目で諸隊
        (奇兵隊・八幡隊・南園隊)と共に伊佐市に滞陣する。隊の一部は河原宿に進出し、専正寺
        を本陣として当地区に分宿する。
         12月27日まで滞在していたが、急便により2卿は長府に引き返すが、諸隊は萩政府
        軍の絵堂本陣を急襲するため、大田(現・美祢市美東町)に進軍し、大田絵堂の戦いが開始
        された。

        
         門と塀を構えた古民家も無住になって久しいのか、草木の生長で姿が見えなくなりつつ
        ある。

        
         舟形地蔵尊3体が祀られているが、祠の柱には地蔵尊についての記述があったようだが
        劣化して読み取ることはできない。

        
         中央にアンモナイトの化石、周囲を市の花である桜を配置し、美祢市章と文字が入った
        集落排水用マンホール蓋。

        
         コミュニティバスの河原町バス停と古民家。

        
        
         鉱山開発のことがあってか、大内氏の時代から肥中街道がこの地を通過し、萩藩が成立
        すると萩と下関を結ぶ赤間関街道中道筋もここを通る。
         河原の市町の発達を阻んだものは、カルスト地質の地形による水不足と、近くの伊佐市
        に繁栄を奪われたことによるといわれる。市中にある菅原神社の由緒等は知り得ず。

        
         河原と伊佐は下関(赤間関)と萩の中間に位置し、県畜産試験場付近から肥中街道と赤間
        関街道中道筋が合流し、ここより上領八幡宮まで両街道が重なる。
         河原には馬継(宿)があり、人足20人、馬10疋が常備され、隣接する四郎ヶ原、秋吉
        の両駅と伊佐・岩永西市への人や荷物を輸送した。(神社入口付近)

        
         右手に蔵を見て町を過ごすと三差路に至るが、街道は直進道で県道湯ノ口美祢線に沿い
        ながら曽根集落に至っている。三叉路を右折して通山集落へ足を延ばす。

        
        
         下って登り返す道には見どころはない。

        
        
         登った所に石祠が並ぶが、道はこの先で街道と合わす。


長門市の渋木・真木は深川川沿いの山村集落 

2022年08月29日 | 山口県長門市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         渋木は深川川の上流域と同支流の大地川流域、背後には長門山地を構成する主峰・花尾
        山を中心とする花尾山地をひかえた扇状地に位置する。
         1889(明治22)年の町村制施行により、真木・渋木・東および西深川・深川湯本の5
        ヶ村が合併して深川(ふかわ)村が発足する。昭和の大合併で長門市となり今日に至っている。
         (歩行約3.5㎞)

        
         JR渋木駅は、1924(大正13)年美祢線の於福駅~正明市駅(現・長門市駅)間の延伸
        により開業する。

        
         「渋停建第12號 本屋」とあるので木造駅舎は開業当時のものと思われ、「停」なの
        で貨物は扱わず旅客のみであったようだ。
         渋木は美祢線を利用しての散歩は可能であるが、真木は約4.5㎞の距離にあるので徒歩
                で訪れるのは難しい。デマンド交通が運行されているが、登録制で事前予約が必要なため
        
車での対応となる。(駅に駐車)

        
         駅舎側に保線用の引込線と、広い空地は保線用資材置き場だったと思われるが、給水塔
        のようなものが残されている。

        
         深川川左岸に渋木の中心地。

        
         右岸の山裾には石州瓦で彩られた民家が並ぶ。(美祢線山小根踏切あり)

        
         長門市農村婦人の家の先は国道316号線の渋木交差点。

        
         中央に花尾山と思われる山とゲンジボタル、周囲には尻を光らせているホタルが描かれ
        た農業集落排水用のマンホール蓋。

        
         国道は右に大きく湾曲して南下しているが、旧道は山裾に沿いながらトンネル手前で合
        わす。

        
         右手に訂心寺(ていしんじ)参道の石段。

        
         訂心寺(曹洞宗)は、周布家によって石州長浜(現・浜田市)に建立されたが、石州から長
        州に移り、周布吉兵衛長次が慶安の頃(1648-1652)知行地であったこの地に移したと伝える。

        
         右手は理容「まえだ」には、9月の営業は3回と貼紙がしてある。採算面なのか高齢の
        ためか不明だが、理美容もこの地で生活する者にとって必要不可欠なものである。

        
         理容「まえだ」の先で畦道を利用して国道に出る。大地川に架かる瀬戸橋付近から瀬戸
        集落。

        
         トタン屋根も1軒のみだった。

        
         県道豊田三隅線の真木川橋梁を列車が走り去るが、背後の森が渋木八幡宮の社地である。

        
         石段を上り鳥居を潜ると長い参道が延びているが、近年は車での参拝によるものか少々
        荒れ気味である。

        
         渋木八幡宮の社伝によると、往古、鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したという。慶安年中(1
        648-1652)の頃、村内に切支丹宗徒の三輪某・三井五郎左衛門なる者が住み、神社・仏堂を
        焼き討ちにしたという受難の伝承がある。その際に縁起などが焼失してしまったので、勧
        請年代を知ることはできないという。

        
         深川川沿いに設けられた小道を利用して駅に戻る。

        
         浄土寺へは距離があるので車で訪れる。

        
         浄土寺(真宗)は、大内氏の家臣であった俗名・萩原次郎宗時が、大内義隆が自刃した後
        に主君の菩提を弔うため、当地に来て小庵を構えた。室町期の永正年中(1504-1521)に本山
        に上がり、1637(寛永14)年2世の代に本仏・寺号が免与された。
         本堂は元和年中(1615-1624)に建立されたが、宝永年中(1704-1711)に焼失する。その後、
        老朽化や再度の火災で再建を繰り返し、1832(天保3)年に9間4面のものが再々建され
        る。 

        
         大地川左岸の家並み。

        
         渋木駅から約1.3㎞の大畑地区に大畑小学校と深川中学校大畑分校があったが、小学校
        は2010(平成22)年に125年の学び舎を閉じ、分校は2006(平成18)年に閉校し、
        屋内運動場のみが残されている。

        
         さらに深川川を奥に詰めると市の尾集落。「延喜式」にみえる古代の陰陽連絡路は、深
        川川沿いに開かれ、渋木から真木の市尾を経て美祢郡嘉万(現・美祢市秋芳町嘉万)に出た
        といわれている。
         ここは花尾山登山口でバス停の待合所もあるが、すでに廃止されて長門市のコマンド交
        通の停留所になっている。

        
         真木は深川川の支流である大谷本浴と奥畑川の流域に位置する。地名の由来は、「延喜
        式」の長門国宇養馬牧のマキからとする説もあるが、槙の繁茂に起源をもつとみるのが適
        当か。(歩行約1.9㎞)

        
         学校風の大きな建物は真木公民館。(ここに駐車)

        
         公民館の傍に真木バス停と火の見櫓。 

        
         公民館の奥谷川沿いにあるのは、JA山口真木出張所だそうだが使用されていないよう
        だ。

        
         願生寺(真宗)は、往古、真言宗の東福寺という古跡があったのを、寛永年間(1624-164
        4)の頃、西念という僧が再興して真宗に改宗する。西念が死去して後住がなく中絶して古
                跡となっていたのを、三隅の豊原にある宗善寺5世が相続したい旨を願い出て、1688
          (貞亨5)年に今の寺号に改めたと伝える。

        
         秋芳町から仙崎港に石灰石を運ぶ住友セメントベルトコンベアが横切る。

        

        
        
         真木は、元来、渋木から独立した村であり、氏神は渋木八幡宮であるが、大歳神を信仰
        の中心にしてきたものと思われるが、いつ頃創建されたかは定かでないという。

        
        
         神社からは実りの秋を感じながら公会堂に戻る。


長門市油谷の伊上は油谷湾に面する農村集落

2022年08月27日 | 山口県長門市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         伊上(いがみ)は泉川流域に位置し、北は油谷湾に面する。地名の由来は、往古、新別名に
        最明寺という寺があり、その付近に古い井戸があったため近在の村すべてが井上(いがみ)
        称していた。しかし、いつの間にか当村だけが井上と称するようなり、文化年間(1804-18
        18)に代官の佐藤権兵衛の命により、井上では「いのうえ」と誤りやすいので伊上と書くよ
        うになったという。
         1889(明治22)年の町村制施行により、久富村(ひ)、新別名村(し)、河原村(か)、伊上
        村(い)が合併し、各1字をもって「菱海村」となる。その後、昭和の合併で油谷町、平成の
        合併で長門市油谷となる。(歩行約2.5㎞、🚻なし)

        
         1930(昭和5)年に開業したJR伊上駅。

        
         西光寺(真宗)に駐車させていただいて伊上集落を散歩する。

        
         石段を上がって行くと左手に椎の木の巨樹が並ぶ。樹齢は不明のようだが13本が群生
        しているとか。

        
         西光寺(真宗)は、往古、現在地に真言宗か天台宗があった。大内氏の家臣・三井十蔵が
        大内氏滅亡後、本願寺において僧となって帰国し、この地に一宇を創建して開基する。
         この年代は諸説あって、寺院沿革史は室町後期の天文年中(1532-1555)としているが、大
        内義隆の自刃が1551(天文20)年なので天文末期となる。風土注進案は安土・桃山期の
        1573(天正元)年創建としている。

        
         西光寺前で道は分岐するが、この旧道が赤間関街道と思っていたが、宮の馬場付近から
        JR山陰本線の山手側を通っていたようだ。

        
         Sセメント工場を左に見ながら直線道を進む。

        
         新旧の民家が入り混じる。

        
         学校の校門らしい石柱を見て、立入禁止の表示もないので入ってみると、旧伊上小学校
        の敷地内であった。

        
         1879(明治12)年伊上小学校が創立されるが、のちに河原小学校の分校、尋常小学校、
        国民学校と校名変更し、1947(昭和22)年伊上小学校と改称したが、児童数減少により、
        2010(平成22)年廃校となる。

        
         旧小学校付近からやや下り坂だが、周囲に見るべきものはない。

        
         泉川の新泉橋を渡り、ふれあい通りに入ると様相が変わる。(街道筋)
        
         建築年代はわからないがこのような建物が数軒見られる。

        
         塀の一部をくり抜いて地蔵尊が祀られている。 

        
         伊上八幡宮は距離もありそうなので、上里野(あがりの)踏切を確認して車で参拝する。 

        
         この看板に誘われて狭隘な道に入ってしまう。

        
         長安寺(浄土宗)は、1873(明治6)年新別名の大願寺跡に移って現在に至るが、市指定
        の木造阿弥陀如来像が安置されているようだが、施錠されて拝見することができなかった。

        
        
         伊上八幡宮の由来によると、勧請された年月は不明。伝承では左衛門という漁師が漁を
        しているとき、波間に一羽の鴨が浮き沈みしているのを見つけ、鉾で捕まえようとしたと
        ころ急に姿が消えてしまい、近くの大岩に鏡が現われ、その神々しさにうたれて拝んでし
        まう。夢の中で八幡神であるとお告げがあったので、鴨野の小高い丘に祠を建てて祀った
        のが始まりという。
         1697(元禄10)年頃現在地に遷座し、享保年間(1716-1736)頃に再建されたと伝える。


阿武町惣郷は惣郷鉄橋と仏坂道

2022年08月24日 | 山口県阿武町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         惣郷(そうごう)は現阿武町の最北端に位置し、西は日本海に面する。海辺部を除いては山
        間部にあって中央南に神宮山、その東に白須山が聳える。白須川が域内を貫流して日本海
        に注ぐ。
         地名の由来は不詳であるが、地下(じげ)上申には、昔、河原を開いて人家ができたのを惣
        河村といっていたのが惣郷になったとし、風土注進案は御山(おやま)神社の末尾の記事に、
        神社が阿武郡の総社であって、そのために惣郷村という村名になったのではないかとして
        いる。
         1889(明治22)年町村制の施行により、宇田村と惣郷村の区域をもって宇田郷村が発
        足する。昭和の大合併で奈古町、福賀村と合併して阿武町となり現在に至る。(歩行約4.
        7㎞、🚻なし)

        
         JR宇田郷駅から県道を進むと海岸線に尾無(おなし)集落。

        
         1930(昭和5)年国道トンネルとして開通した尾無隧道は、長さは32mだが発破・機
        械による堀削後、吹き付けコンクリートされたもので独特な雰囲気がある。

        
         隧道の先に鉄道ファンの間では有名な惣郷鉄橋が見えてくる。益田~萩間は、1933
        (昭和8)年に開通し、この時点で京都・幡生間が全通して山陰本線となる。延長2,215
        mの大刈トンネルと難工事だった惣郷下の白須川河口に架かる鉄道橋は、1931(昭和6)
          
年から完成まで2年余を有した。

        
        
         この鉄橋は四柱式鉄筋コンクリートで、ラーメンスラブ鉄柱20脚が用いられ、当時と
        しては珍しい特殊工法であった。

        
         波打ち際を跨ぐように鉄橋が架けられている。

        
         域内は道の駅阿武町から阿武町営バスが1日5便運行されているが、JR東萩駅からの
        バスは乗換に時間を要するなど車に頼らざる得ない。(バス停前の広場に駐車)

        
         川尻の集落には人影や車の出入りがみられる。

        
         稲が実り始める頃に吹く大風を封じるために行う風鎮なのか、病害虫からの防除を込め
        た神事と思われる。

           
         惣郷の中心部。

        
         中央に阿武町の町章があり、4分割した中に町の花である「しゃくなげ」を配した集落
        排水用マンホール蓋。

        
        
         域内を萩から石州益田方面に至る石州街道(仏坂道筋)が通っていた。

        
         街道は白須川に架かる橋を渡って山道に入って行くが、入口付近は堀削によって地形が
        変化している。(黄色いガードレールの所から入る) 

        
         街道だった雰囲気を感じる道には地蔵尊が祀られている。(左の石垣上) 

        
         街道筋の右手は棚田だったと思われるが、現在はスギ林化されている。1970(昭和4
          5)
年コメの生産調整(減反政策)において、農水省は「労力は2倍、収量は半分」の棚田
        に対し、棚田をスギ林へ転換することを奨励した。
         しかし、安価な外材の輸入が始まると木材の暴落が続き、手入れされないスギ林へと変
        と変わり、無残な姿を残す結果となった。まさに大失敗の施策であったとされる。

        
         「平成27年11月土橋復旧」とあるので、2015(平成27)年災害を受けて新たな土
        橋に復旧されたようだ。ここまでは草刈りなど整備されていたが、この先は薮と土砂崩れ
        などで足を踏み入れることができない。

        
         惣郷橋まで戻って家並みを眺めると空家も見かける。

        
         1875(明治8)年宇田小学校惣郷分校として創設され、一時は尋常小学校となった時期
        もあったようだが、1969(昭和44)年廃校となる。(現在惣郷公民館)

        
         川の左岸に猿田彦大神が鎮座。1931(昭和6)年の大火で、桂昌寺を含む60戸150
        棟、山林100haを焼失したという。

        
         これも惣郷分校の旧校舎で、白須川左岸から右岸に校舎の建て替えが行われたようだが、
        双方が残っているのも珍しい。

        
         国道に合流する地点から惣郷集落と遠くに日本海。 

        
         参道に入ると猿猴(河童)が出迎えてくれる。

        
         桂昌寺(曹洞宗)は、大津郡深川(ふかわ)庄板持村に耕雲庵という大寧寺が所有する無住の
        寺があり、建物は破損していたが寺号と釈迦像は残されていた。そこで惣郷村には寺がな
        く地下(じげ)では困っていたので、給領主の児玉外記(広恒)が大寧寺に所望した結果、17
        15(正徳5)年の春、惣郷へ移転する。
         寺号については、玖珂郡山代の中山村に同宗で寺号が同じ寺があったので、1720(享
          保5)
年寺号替え願いを出し、許可されて現寺号とした。寺号は児玉元恒の法号桂昌院から
        とられたものである。

        
         桂昌寺の裏山には、正面の日本海に沈む夕日とを渡る列車が撮影できるスポットが
        あるとのこと。春と秋の彼岸頃がベストのようだが、それなりのカメラが必要のようだ。

        
         旧石州街道だった道を車で上がって行くと、左下の惣郷集落が国道で二分されていた。

        
         峠を越えて下りに入ると右手に御山(おやま)神社の参道。

        
        参道から日本海が見える位置にある。

        
         御山神社は「注進案」によると、旧名を両蔵山雨熊大権現社といい、筑紫の長者が北国
        通航の途中、当地の沖合で霊夢を得、紀州熊野に準じて三所権現(本宮・新宮・那智)を祀
        ったのが創建と伝えられている。
         創建の時期を社伝は、平安期の治承年中(1177-1181)とし、その後、火災で焼失したが、
        1633(寛永10)年給領主の児玉元恒が本宮のみ再建したという。社務所横の枯れた椎の
        木の土中より、平安期末期頃と思われる経塚が発見されている。


下関市豊田町手洗・中村は豊田平野の中央に位置する農村集落

2022年08月19日 | 山口県下関市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、中村、手洗村、阿座上村、東長野村など11ヶ
        村が合併して豊田下村が発足する。昭和の大合併で豊田町(ちょう)となり、現在は下関市豊
        田町(まち)で旧村は大字とされている。
         手洗(たらい)は木屋川の右岸地域に立地し、豊田盆地の南端をなす。地名の由来は、往古、
        岡田某が井戸を掘り、手を洗ったところ井戸から牛鬼が現われて岡田某を井戸に引き込ん
        だことから、手洗と称するようになった。以後、当地では井戸を掘ることができなくなっ
        たというが、他説もあるという。(歩行約2㎞)

        
         手洗と西長野の境がわからなかったが、三界萬霊塔があるので境と思われる。手洗は豊
        田下村の中心地で、かっては村役場(町営住宅付近)が置かれた地である。右の碑は「田中
        上等兵‥」と読めたが、後は読み取ることができず。

        
         赤間関街道北道筋で一里塚があったとされるが、遺構等は残されていない。(名郷商店付
        近)

        
         三差路の角に永浜商店だった主屋が残るが、多くの民家は更新されている。

        
        
         薬善寺(日蓮宗)は歴史的には深くないが、当地域に日蓮宗の信者が多く、江良の民家裏
        には往古に日蓮宗の寺があったという。こうした関係から信者が創建した寺である。

        
         県道下関長門線に合流する。 

        
         川の瀬音が橋の名前になったというが、江戸期には広い板橋で、米俵を馬の背で運搬し
        ていたが、1854(安政元)年木屋川通船工事が完成すると、東長野沿いの船津から米俵を
        運ぶようになる。
         明治に道路が改良されると再び陸路輸送となり、橋は土橋へ架け替えられる。大正、昭
        和期にも架け替えが行われ、現在の橋は、1992(平成4)年木屋川河川改修による川幅拡
        張により架け替えられた。

        
         東長野の旧若宮八幡宮の階段から手洗の家並みが見えそうなので上がってみることにす
        る。

        
         西長野と手洗の家並みと背後に華山。

        
         若宮八幡宮の創建年代は不詳とのことだが、1770(明和7)年東八幡宮火災後、長府領
        の若宮八幡宮として近辺集落の氏神となる。
         1911(明治44)年神社統合により豊田神社に合祀されたが、豊田神社の御旅所、戦没
        者顕彰碑などがある。

        
         石町公会堂から豊田下小学校に移動すると、宝珠のような形をしたハスの花が見られる。

        
         清徳寺(真宗)の開基は、毛利家の家臣であった粟屋義久が、この地にあった大雲寺とい
        う真言宗の古跡近くの民家に滞留していた。ある時に霊夢を請けて西本願寺で出家し、再
        びこの地に帰り、室町期の1523(大永3)年手洗に一宇を建立する。のち、洪水の難を避
        けるため大雲寺跡に移転して今日に至るという。

        
         旧長門鉄道筋に願成寺(浄土宗)があるが、往古は神上寺の末庵で下八道の願成寺原にあ
        った。1627(寛永4)年現在地に移して菊川町吉賀の快友寺末寺として再建される。19
        68(昭和43)年石町の栄願寺を合併して今日に至る。

        
         長門鉄道は山陰と山陽を結ぶ連絡鉄道として、また、森林資源開発を目的に、1918
        (大正7)年10月に開業する。ここ阿座上停留所は乗客運送のみであった。
         鉄道経営は芳しくなく、多角化を目指してバス事業を兼営すると鉄道の乗客を吸収し、
        貨物部門はトラック業界にとって代わられ、1956(昭和31)年3月に営業廃止される。 

        
         阿座上停留所があった付近の集落。

        
         中村の東部、県道下関長門線脇に「大化の改新の条里遺構」と記された碑がある。その
        以東一帯に条里区画遺構が見られるとのこと。

        
         中村西公会堂の地に若宮八幡宮があったという。鎌倉期の1187(文治3)年に本郷の総
        氏神として東八幡宮が創建されると、その前方にあった若宮八幡宮はその摂社となる。中
        村住民の要望により、1698(元禄11)年この地に遷座させて中村の氏神としたが、明治
        の神社整理により江良の菅原神社に移されて豊田神社となった。

        
         1849(嘉永3)年は2度にわたり、大雨・大風雨があり、中村はその被害が大きかった
        ため、豪農松井官蔵は庄屋と共に救済策をたてて藩に願い出た。藩庁から10年以上にわ
        たり、50石の減租を得た。中村西公会堂の旧県道傍に、1885(明治18)年その功績を
        称え「松井官蔵記念碑」が建立される。

        
         大福寺(真宗)は天正年中(1573-1592)、大内義隆の家臣稗田主計頭(かずえのかみ)政重が出
        家して、東市に大福寺を開山する。明暦年中(1655-1657)に本堂を焼失するが、その後、再
        建されて今日に至る。稗田雪崖は中村に私塾「豊華義塾」を開き、自ら塾長兼教授となっ
        て子弟を教導したとされる。

        
         月招橋(げっしょうばし)は藩政期には板橋で、馬の背に米俵を積んで運搬したが、冬期は雪
        などで滑るため、板を増やしてその両側に竹縁を設けたという。

        
         この地は殿敷と思っていたので、石造宝塔を探し当てるのに苦労する。宝塔は田圃の中
        にあってホタルの里ミュージアムの東側に位置し、畦道のため車では行くことができない。
        (背後の山は華山)

               
         この地には若宮八幡宮があり、神苑の南側だった地に鎌倉末期頃の塔が現存する。

        
         木屋川の左岸、広瀬橋上流に「西ノ市旧跡」の碑がある。説明によると、室町前期頃に
        西ノ市が始まった所で、この周辺は雨期には度々河川が氾濫し、遂に全戸が意を決し、1
        626(寛永3)年の春、西市という地名と市恵比須とともに右岸の今市に移転し、以来この
        地を「古市」と呼ぶようになったという。


下関市豊田町の江良は華山の麓に神上寺と農村集落 

2022年08月19日 | 山口県下関市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、江良村、西長野村、城戸村など11ヶ村が合併
        して豊田下村が発足する。昭和の大合併で豊田町(ちょう)となり、現在は下関市豊田町(ま
          ち)
で旧村は大字とされている。
         江良は華山の東麓にあって、木屋川右岸の支流である本浴川と江良川流域に分かれた山
        間丘地に立地する。

        
        
          神上寺(じんじょうじ)の駐車場傍に「近松門左衛門の生誕の地」碑がある。説明による
         と、江戸期の初め、身重になった女性が神上寺に救いを求めてきた。寺は女人禁制で囲
         うこともできず、山門前の寺侍木川家に総てを頼んだ。木川家では家の前の川沿いに小
         屋掛けして住まわせ、月満ちて男子が誕生した。
          その後、時を経て、西市などで浄瑠璃芝居があると、その作者は神上寺山門前で生ま
         れた男の子であるということで、この地を近松屋敷というようになったという伝説があ
         ると記す。出生地について諸説あったようだが、現在は越前国(現在の福井県)とする説
         が有力である。

         
          寺入口の山門は大門といい、鎌倉期の1322(元亨2)年後醍醐天皇の勅願により、勅願
         寺とされた時の山門である。門の左右に慶派作の阿形吽形(あぎょううんぎょう)の金剛力士像
         がある。 

         
          山門を右に曲がると、1804(文化元)年に架けられた無明橋がある。橋の裏には弘法大
         師の「即身成佛」の詩が刻まれているとか。この橋を渡ると聖地で如来に迎えられるとい
         う。

         
          鳥居に続く渓流の左側に、1727(享保12)年12月、江戸浅草の廻船問屋高田屋重兵
         次が寄進した六地蔵(2つは欠落)と中央には阿弥陀如来坐像が並ぶ。

         
          三所熊野権現の鳥居が現存するが、明治政府の神社統合により熊野の本宮(家津御子神)
         は豊田神社境内に熊野神社として鎮座するが、新宮(速玉男神)、那智(牟須美神)は所在不
         明とされる。鳥居も長い歳月が経過し、笠木と島木の一部が崩落している。 

         
          苔生した参道は趣もあるが、時に足の置場に苦労する。

         
          法性の滝入口(滝への道は廃道)に、芭蕉句碑「父母の しきりに恋し 雉子のこえ 翁」
         と、傍に「正風俳諧塚 天明丁末之(1787)春造立之長陽西市連中」の石柱がある。

         
          参道右の下之坊跡には雪舟作とされる庭園がある。

         
          中之坊御成門は朝廷よりの使者、長府藩主を迎える門であった。中之坊にも雪舟庭園が
         あるとされるが、門が閉ざされて拝見することができず。

         
          神上寺は参道の右に下之坊、遍智院と中之坊(別当職)があり、左に谷之坊、宝篋印塔の
         ある地が萬徳院、辻之坊の6坊があったという。

         
          神上寺から下ると、左手に「引地君の墓 400m」と案内されて車も手前まで行ける
         ようだが、倒木や竹が道を塞いでいる。

         
          次の案内板までは支障ないが、墓は丘陵の上にあって急登の荒道である。(豊田盆地を望
         む)

         
          引地君(ひきじきみ)の墓とされる五輪塔と灯籠がある。引地君(キリシタン名はマゼンシャ)
         は大友宗麟の7女で、秀吉の媒酌で毛利元就の9男久留米城主秀包(ひでかね)と結婚する。
          関ケ原の戦い後、秀包が逝去したので豊北町滝部久森に居を構えた。のち嫡男元鎮(もと
           しげ)
が河川に邸を移し、邸の隅「引地」に屋敷を設け、余生を過ごしたという。このこと
         から引地君と尊称され、1648(慶安元)年80歳で病没。長府藩主毛利秀元によりこの地
         に葬られた。台座上の地輪に「高雲照朝大禅定尼 于時慶安元戌子年 孝子 白」と刻ま
         れているという。

         
          この地蔵堂は霊山の入口にあって、これより霊地であるという地蔵だそうで、ここで礼
         拝して心身ともに清浄して参拝するためのものだという。

         
          江良古墳群は南に派生する標高約40mの丘陵上に位置する。古墳時代末期の7~8世
         紀頃の古墳とされる。

         
          丘陵状の地は4基の石室を見ることができる。

         
          木屋川右岸地区の総氏神であった西八幡宮が、1656(明暦2)年天神坊から矢田今熊(現
         豊田町矢田)に遷座された。
          氏神が無くなった阿座上、江良などの集落は、1683(天和3)年阿座上の天神社をこの
         地に遷座させて、菅原神社と称し総氏神にする。(右から豊田神社、朝日神社、熊野神社) 

         
          町村制が施行されると地方自治体からの公費供達を実現するために、負担軽減を目的に
         神社整理(1村1社令)が行われる。この菅原神社と東長野の若宮八幡宮、中村の若宮八幡
         宮の3社を、1911(明治44)年に菅原神社の地に合祀させて豊田神社とする。

         
          華山の中宮の地にあった熊野神社も遷座し、豊田下村にあった16の無格社が、豊田神
         社の摂社・朝日神社に合祀される。

         
          徳仙の滝と神上寺方面の分岐、江良川の右岸に大津霊瑞碑と霊山入口に礼拝用の地蔵尊
         が祀られている。
          大津霊瑞は、1815(文化12)年吉敷郡秋穂村藤村某の家に生まれ、のち、神上寺の第
         61世住職となる。同家は代々大津屋と称していたので大津霊瑞と名乗る。
          凶荒飢饉に備えるための米殻を備蓄し、率先して江良村に寄贈して策を講じた。村民は
         徳風を後世に伝えるため碑を建立したという。

         
          江良川左岸の県道豊浦豊田線を進めば、華山山頂付近を経由して杢路子(むくろうじ)に通
         じる。

         
          飛鳥期の705(慶雲2)年役小角が来山した頃、徳仙上人がこの滝に籠り修業していたの
         で「徳仙ノ滝」という。

         
          長門鉄道は山陰と山陽を結ぶ連絡鉄道として、また、森林資源開発を目的に、1917
         (大正7)年10月に開業する。ここ石町駅は乗客のほか、米殻、坑木、竹材などの輸送に使
         用された。当時は駅敷地内に煉瓦造りの米の備蓄倉庫があったとされるが近年姿を消した
         ようだ。
          鉄道経営は芳しくなく、多角化を目指してバス事業を兼営すると鉄道の乗客を吸収し、
         貨物部門はトラック業界にとって代わられ、1956(昭和31)年3月に営業廃止される。

         
          西長野と城戸の境には巨岩が突出し、東から木屋川が岩根に突当って東に曲がる。平安
         期中頃、豊田氏が定住すると、この地形を利用して山と川の間に城戸(木戸)を設けて関所
         とし、南からの侵入者を警戒した。今、この地を城戸といい、関所の地を節所(せつそ)とい
         う。 


下関市豊田町の浮石は浮石義民で知られる地 

2022年08月16日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         浮石(うきいし)は油谷湾に注ぐ粟野川上流と支流である岩滑川と宇内川流域の山間に位置
        する。
         地名の由来について地下(じげ)上申は、往古、山肌崩壊の時に大きな4尺四方の大石が浮
        き流れて、八幡宮の津の道の中ほどで止まったという。その石は今も当時止まった所にあ
        るという。
         また、浮石八幡宮の伝では,窪田の竜王社傍の地水が清冷で、水中に石が常に浮いてい
        たように見えることから地名になったともいう。(歩行約5.4㎞)

        
         亀尾山神社は鎌倉期の1302(正安4)年に豊田種貞により創建され、明治末までは浮石
        八幡宮と称した。1908(明治41)年浮浪者により全焼したが、翌年に再建された。
         ここでは、1710(宝永7)年2月の真夜中、凶作にともなう過酷な年貢の取り立てに苦
        しむ浮石村の庄屋らが、床下に集まり密儀して直訴を決意し、直訴状もここで書いたとい
        う。

        
         1710(宝永7)年7月10日に庄屋以下5人が幕府の巡見使に杢路子(むくろうじ)川の豊
        田渡瀬で直訴しようとして失敗したが、翌日、内日(うつい)の亀ヶ原で決行して成功する。
        訴えは叶えられたが、当時の直訴は重罪であり、5人は同年12月22日に長府で処刑さ
        れた。1938(昭和13)年に「浮石義民碑」が境内に建立される。

        
         浮石義民の中心人物である庄屋・藤井角右衛門の旧宅跡が、亀尾山神社の東側にある。
        先祖は大内氏の家臣で、天文年間(1532-1555)に浮石村に帰農し、長男が家を継ぎ、苗字
        を許されていた。3男は出家して、下浮石に光安寺を開基する。旧宅は解体されて公園化
        されているが、蔵と井戸が残されている。 

        
         片隅に「義民 藤井角右エ門旧宅」の碑がある。

        
         参道から浮石中心部の家並み。

        
         中心部を西市方向へ進む。

        
         妙伝寺(法華宗)は、1673(延宝元)年に清末藩主毛利元知の発願で、領内の阿内(おうち)
        村(現下関市清末阿内)に福応寺として創建された。藩の祈願所として繁栄したが、明治の
        廃藩で寺門維持が困難となった。この状況を知った浮石の信徒が、移転の議を興し、18
        95(明治28)年に浮石の岡田に移転し、1922(大正11)年に再移転して現在に至ってい
        るという。
         お盆とあって白い提灯には、檀家ごとに「先祖代々之精霊」の札が取り付けてある。

        
         寺から引き返して旧道を滝部方向へ向かう。

        
         豊田西中学校は、1958(昭和33)年豊田中中学校と殿居中学校の統合により当地に開
        校したが、2012(平成24)年豊田東中学校との統合により廃校となり、校舎や体育館、
        グラウンドは当時のまま残されている。

        
         光安寺(真宗)は、天正年中(1573-1592)大内氏の家臣であった藤井信親の3男政治郎が、
        出家して寺基を開いた。 後世、血脈が絶えて一時荒廃したが、15世が美祢郡宝泉寺より
        入寺し、浄土真宗として再興する。
         1708(宝永5)年浮石村は、旱魃で収穫は半作だったが、年貢の取り立ては厳しく、死
        活の瀬戸際にあった村民が、藤井角右衛門の檀家寺である当寺で、何回か打開策の話し合
        いを開いている。

        
         豊田西中学校付近は、昔、浮石村の氏神を宇佐八幡宮より勧請した際に、社殿ができる
        までの間、しばらく仮殿を建てて安置していたので神原というようになったという。その
        ことを表わす碑が下組集会所前にあるが、どの碑なのかは判別し難い。

        
         舜青寺(しゅんせいじ・浄土宗)の開基は寛永年中(1624-1644)とされ、当時は極楽寺と称し
        ていたが、椙杜中務(長府藩家老で浮石は給領地)が祖父である瞬青寺殿の位牌を置いた時
        から瞬青寺と称したという。後年に椙杜氏が給領地を離れた時から、瞬の字の日偏をとり
        現寺号になった。

        
         境内には「浮石義民の墓」がある。
           庄 屋 藤井角右衛門
           副庄屋 奥原九左衛門
           畔 頭 東与市右衛門
           畔 頭 蕨野太郎左衛門
           畔 頭 柳元寺豊吉
         村民は身を犠牲にして村を救った義民に対し、密かに遺骸をこの地に鎮る。畔頭(くろが
          しら)
とは、長州藩の庄屋の補佐役。

        
               浮石の市庭(市場)は、昔、市が開かれていたため市恵比須の小祠が木津川(粟野川)の橋
        の袂にある。この市は藩政時代の初めに開かれたものと思われるが、豊田盆地に東市・西
        市・今市が盛んになると止めになったと思われる。

        
         国道435号線の市庭バス停近くの三叉路から、奈留へ通じる旧町道を100mほど入
        ると、左手に六地蔵と庚申塚が並んで立っている。
         六地蔵は、直方体の石に表と裏に3地蔵が刻んである。庚申塚は道標の役目も果たして
        おり、「庚申」の刻字があり、その下の右側に「此方たうら山(俵山)」、左に「おたけみ
        ち」とある。

        
         亀尾山神社から岩滑の浴に入って道なりに進むと、自然休養村「小谷管理センター」が
        あり、ここを右折すると善龍寺(真宗)がある。寺記によると創立は室町期の1504(永正
          元)
年で、以来数度か移転したと伝える。

        
         豊田町は豊田平野があるものの、周辺部はこのような浴の中に集落が形成されて農地が
        展開する。ここ岩滑集落も奥が深く、岩滑川に沿って圃場整備された農地が続く。 

        
         小谷管理センターの三叉路から左手の道を進むと、岩滑川が合わす地点に庚申塚がある。
        (駐車可)知足の六地蔵へは、庚申塚前の橋を渡り、すぐに右折して農道を進むと正面に見
        えてくる。

        
         知足の六地蔵(石幢)は、昔、農耕馬を洗い、ネムの木の根っこに馬を繋いで家に帰った。
        猿猴(河童)がこの馬を散々いじめたので、馬が暴れて川から上がり猿猴も畦まで引き上げ
        られた。
         そこへ馬主が来ると「水を離れては生きられない。二度と困らせるようなことはしない」     
        と詫びて死んだという。近くの人が死骸を埋めて、「石地蔵」を祀ったという。戦前まで
        は災害の守り神、子供の寝小便封じとして崇められたようで、六地蔵は積石塔の上から3
        番目に彫られている。 


下関市豊田町の八道は旧肥中街道と旧長府街道が交わる地

2022年08月16日 | 山口県下関市

         
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、八道(やじ)、浮石など6ヶ村をもって豊田中村
        が発足し、八道に村役場を設置する。昭和の合併で豊田町となり、現在は下関市豊田町の
        大字である。
         八道は日本海に注ぐ粟野川と瀬戸内海に注ぐ木屋川の分水嶺をなし、粟野川の最上流域
        に立地する。地名の由来について地下(じげ)上申は、地内に四辻が2ヶ所あり、いずれも往
        還道で、両所の四辻で八つの道になることから起こったという。(中八道の歩行約2.3㎞)

        
         域内へはバス便があるが、JR小月駅からのバス便との接続が悪く車に頼らざるを得な
        い地域である。
         杢路子へ向かう途中にある農業公園「みのりの丘」は、宿泊施設、特産品販売、体験施
        設、昼食が可能な茶屋などがある。

        
         円正寺(日蓮宗)は、1893(明治26)年同地の信者や地区外の協力者があって、現在地
        に創建された。

        
         地蔵は総高71㎝の舟形地蔵で、1780(安永9)年4月とある。浮石原の路辺にあり、
        ここが八道村と杢路子(むくろうじ)村の境とされる。

        
         浮石原は旧豊北町肥中浦と山口を結ぶ肥中街道、俵山と長府・赤間関を結ぶ長府街道が、
        みのりの丘の茶屋の所で十文字に交差していたので、「十文字原(じゅうもじばら)」とも呼ば
        れていた。(見える道は肥中街道)

        
         みのりの丘から国道491号交差点を直進し、呉ヶ畑川手前の四叉路を右折する。橋を
        渡って道なりに進むと藤輪伊佐衛門碑があるが、獣用防護柵があって開閉するのに苦労す
        る。
         説明によると、藩政期の八道は長府藩家老・細川織部の給領地であったが、領主が農民
        を人夫にかり出し、酷使するため畦頭(くろがしら)だった伊佐衛門が使役の軽減を藩に直訴
        した。願いは聞き入れられたが直訴はご法度のため投獄された。処遇が決まらないうち、
        1847(弘化4)年牢破りをして福岡県星野村へ逃亡し、1878(明治11)年病没する。遺
        髪は呉ヶ畑の願成寺原に埋められ、顕彰碑が建立された。

        
         飛松バス停近くの国道435号線と、下八道に向かう旧町道(かっての肥中街道)分岐点
        に道標がある。

        
         道標には正面に「右たきべみち凡(およそ)四里」、左側面に「左くるそん山へ凡三里」と
        あり、右側の上部には「大正8年(1919)7月」と刻まれている。

        
         中八道集落の覚証寺(真宗)は、1567(永禄10)年頃に常阿弥が当村の民家に寄宿し、
        7日後に名号を残して立ち去った。その後、1593(文禄2)年常現という僧が来て、かの
        名号を拝み歓喜して住みついたのが創始とされる。(中八道集落センターに駐車)

        
         境内には15代住職篁(たかむら)研道氏の「研道師之碑」があるが、師は1862(文久2)
        年寺子屋を開いて子弟の教化に努めた。向かい側には氏が建立した芭蕉の句碑がある。
               「ものいえば くちびる寒し 秋の風」

        
         八鷹八幡宮は、1907(明治40)年11月に八道と鷹子の両八幡宮が合併し、現社号に
        改称して旧八道八幡宮の地に鎮座する。
         旧八道八幡宮は、鎌倉期の1202(建仁2)年宇佐八幡宮より勧請、鷹子八幡宮は南北朝
        期の1348年に創建された。

        
         参道に石段がないので車だと拝殿前まで行くことができる。鳥居は明和4(1767)丁亥正
        月と刻まれている。

        
         荒廃農地の解消等に向けた振興交付金で維持されているのか、見事まで管理された農地
        が広がる。

        
         江戸期に長府藩の年貢米を運ぶ道を御米道(ごまいみち)といっていたそうだ。浮石の奈留
        から市庭・下組・中組を通って、金道の田尻から御駕籠建場のある四辻に出て、この道か
        ら鷹子・庭田・阿座上を経由して赤間関街道北道筋につながっていた。今は使われていな
        い場所や位置が移動したり、消滅したところもあるようだ。

        
         旧肥中街道の家並み。

        
         豊田中公民館がある辺りを四辻という。昔は肥中街道と北は浮石方面、南は庭田・赤間
        関方面へ通じる道が交わっていた。

        
         公民館のある地は、削り取られて平地となっているが、江戸期には「御駕籠建場」があ
        り、藩主や巡見使等が駕籠から降りて休息する場所であった。

        
         上八道に移動すると、道路脇に明教寺(真宗)があるが、開基は武門より出家した僧と思
        われるが俗性等はわからないという。

        
         八道窯の案内があったので行ってみるが見当たらず。最奥民家でお尋ねすると既に解体
        されたとのこと。ここでは水瓶や鉢、壺などが焼かれていたそうだが、陶土を掘りつくし
        石州瓦の販売店へと変わっていったという。肥中街道でお会いしたのは鹿の親子だった。

        
         この参道の上に赤崎神社(牛馬防疫の神)だが、上がれる状況にないので残念する。


下関市豊田町の稲見・金道は山間の川筋に集落 

2022年08月16日 | 山口県下関市

                       
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制の施行により、稲見、宇内、金道、八道、浮石、鷹子の6ヶ
        村をもって豊田中村が発足するが、昭和の大合併で豊田町となり、現在は下関市豊田町の
        大字である。
         稲見(いなみ)は木屋川の支流である稲見川上流域、周囲は山に囲まれた狭長な段丘状の平
        野に立地する。地名の由来について地下(じげ)上申は不詳とするが、和名抄に稲妻(いなめ)
        郷とあるので、その遺名ともいう。

        
                 江戸期に稲見で牛疫が流行して多くの牛が死んだので、豊前坊(牛馬の神)から分霊を迎
        え、山の丘を開いて社殿を造営して祀ったと伝える。

        
         大寧寺で自刃した大内義隆の主従は、その場で殉死した者もいたが、多くは稲見・一ノ
        俣・地吉等を越えている。
         中将姫の墓というのは、この地の谷間で自決した義隆の15歳の息女と乳母・操、腰元・
        小倉の墓と伝わる。場所は稲見下の旧町道に案内があり、民地横の山裾に存在する。

        
         三界萬霊塔の奥に田園が広がる。

        
         1914(大正3)年稲見野中にあった厳島神社と、稲見柴尾にあった須賀神社が合祀され
        たが、両神社の創建年代は不詳とのこと。

        
         河内神社敷地内には小祠、土地改良整備記念碑、林道改修記念碑も見られる。

        
         宇内、俵山、豊田湖への分岐点に地蔵尊。

        
         民家が点在する上稲見だが、鍋提峠を越えれば俵山温泉に至る。

        
         宇内は日本海に注ぐ粟野川の支流である宇内川上流域、東西と北を山に囲まれ、北東か
        ら長く南西に延びた平野に立地する。地名の由来について地下上申は、往古、宇奈井(宇内)
        という人が、この地に住んでいたから起こったという。また、畝の間に家があるので「畝
        内(うねあい)の村」が転訛したという説もある。
         一方、金道(きんどう)は粟野川の最上流に位置し、東西と北を山に囲まれた細長い平野に
        立地する。地名の由来について地下上申は、往古、この谷に金啓庵という庵があり、この
        庵を建立するとき地開きしたところ、細い金の塔を掘り出した。建立後に金塔庵と改め、
        「金塔」という地名も生まれたが、それがいつの頃からか「塔」を「道」に書き違えたこ
        とによるという。

        
         稲見から宇内越えの途中、宇内境に城山がある。鎌倉期に居を構えた豊田氏の支族・宇
        奈井氏が城主であったが、室町期の永禄年中(1558-1570)頃、長府串崎城主内藤隆春が城と
        して、内藤氏の支族を城主したという。この城は東側に遺構がみられることから、街道の
        監視のための城と考えられるとのこと。(峠を越えれば宇内の北東端)

        
         細長い地形の中心は田園と宇内川が流れ、民家は山裾に点在する。

        
         宇内薬師堂の本尊は薬師如来坐像で、13年毎に開帳される秘仏とされる。

        
        
         槙尾(まきおの)神社は、1907(明治40)年に宇内八幡宮と金道八幡宮(金道槙尾)を合併
        して、槙尾神社と改称して金道八幡宮の地に鎮座した。のちに宇内にあった若宮八幡宮と
        金道の秋葉社を合祀している。

        
         金道集落の道は稲見に通じている。(散策時は工事中のため通行不可)

        
         真光寺(しんこうじ・真宗)は室町期の1522(大永2)年、本願寺9世実如上人の裏書があ
        る阿弥陀仏絵像をうけて、寺を開いたのが創始とされる。


下関市豊田町の殿居にはきらりと光る郵便局舎がある地 

2022年08月14日 | 山口県下関市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
        
 殿居(とのい)は古くには殿井とも書いた。油谷湾に注ぐ粟野川上流域と同川の支流である
        開作川流域に立地する。
         地名の由来は地下(じげ)上申によると、往古、大内家臣の杉民部小輔元重の居城があり、
        殿が居たことから起こったという。(歩行約3.5㎞、🚻なし)

        
         公共交通機関で殿居バス停で下車できると思っていたが、JR小月駅から西市までは問
        題ないが、滝部行きの接続が悪く日帰りが難しいので車を使用することになる。(旧滝部小
        に駐車)

        
        
         見竜寺(真宗)は大内義隆の家来であった山本隼人信重が、本願寺へ帰依し剃髪して法名
        を教流と改め、室町期の1572(元亀3)年真言宗であった見竜寺の跡地(現在の厳島神社
        付近)に草庵を構えたのが創始とされる。以後数度移転して1913(大正2)年現在地に移
        転する。

        
         毛利元鎮(もとしげ)の墓は、見竜寺から左へ進むと道標があり、足場の悪い坂道を上がる
        と右手に階段が見えてくる。この階段を上がらずに直進すると、下った先の階段道を辿れ
        ば墓地がある。

        
         元鎮は久留米城主の毛利(小早川)秀包(元就の九男)の嫡男で、母は大友宗麟の娘引地君
        である。1589(天正17)年久留米で生まれ、キリスト教の洗礼を受けたが、関ヶ原の戦
        いで改易となり、元鎮が毛利輝元より滝部3千石を賜る。1625(寛永2)年輝元の死後、
        家督を元包に譲って隠居し、久留米から随従した家臣柏村重内を相手に、風月を友として
        余生を殿居で過ごし、1670(寛文10)年逝去する。

        
         寺前に耕作放棄地が広がる。

        
         国道南側の筋に空家が並ぶ。

        
         粟野川に架かる歩行用の橋は役目を終えたようだ。

        
         殿居郵便局は、1923(大正12)年10月10日に落成する。かねてより洋風建築に意
        のあった2代目局長河田寛氏は、洋風局舎の新築を決意し、地元の大工棟梁を東京に同行
        させて見学を行い、帰村後、意匠を決定して同棟梁に建築を依頼した。

        
         アーチ式形飾りがおしゃれである。

        
         本日は郵便局が営業時間外のため内部が見学できなかった。(2020年見学)

        
         1879(明治12)年に郵便局として開設されたが、その後、廃止と再興を繰り返すが、
        1902(明治35)年殿居郵便局となる。(土間より事務室)

        
         建物は木造平屋建てであるが8角塔屋部分は2階建て、内部は白漆喰塗りの壁である。
        外部の東北は半切妻屋根で、塔屋の屋根は銅板葺きルネッサンス様式である。(畳の間は吏
        員宿直室)

        
         明治初期に全国的に流行した擬洋風建築は、すでに廃れた頃に、ひなびた田舎に都会を
        真似て完成させた「時代遅れ」の建物だけに価値がある。(塔屋の2階部分)

        
         1914(大正3)年に完成した東京駅は8角ホールをもっていた。その東京駅も関東大震
        災(1923年)後はトンガリ帽子形となったが、建築当初の模造遺構がこの山村に残され
        ている。

        
         河田酒造は明治期から創業されていたが、太平洋戦争の統制令で廃止された。蔦を被る
        煙突がシンボルとして残る。

        
         その隣にあるK宅。

        
         厳島神社参道入口に林正路翁を偲ぶ碑がある。1913(大正2)年村内の三社(厳島、日
        幡、三島)の社掌となり、粟野八幡宮、及び県社八幡磨能峯宮社司などを勤めた。
         また、自宅に三省学舎なる塾を設け、郷土の青少年の教育に尽力する。1964(昭和3
          9)
年地元有志により顕彰碑が建立される。

        
         厳島神社参道。

        
         西教寺(真宗)は、往古、天台宗の西教寺と称した古跡に、見竜寺の2代目が隠居後、我
        が子の一人を伴い、安土桃山期の1585(天正13)年に浄土真宗の寺院として再興したと
        古記に誌されているという。

        
         厳島神社は、平安期の978(天元元)年宮島の厳島神社より勧請して創建される。室町期
        の作とされる神像4体と仏像4体が安置されていたが、現在は他に保管されているようだ。
        旧豊田町では最古の神社である。

        
         明治の初頭、荒木村に育英小学校として開校。1882(明治15)年現在地へ移転し、の
        ちに殿居小学校となる。2016(平成28)年豊田中小学校へ統合され、児童たちはスクー
        ルバス通学となる。

        
         殿居村役場があった地に石組みが残されている。1889(明治22)年町村制施行により、
        一ノ俣、荒木、佐野、殿居、杢路子村の5村が合併して豊田上村が発足。1912(明治45
           )
年殿居村に改称する。(小学校プールの東側)

        
         殿居公民館に庁舎改築記念の写真が残されているが、いつ頃に撮影したものかは記され
        ていない。

        
         殿居夢・夢ハウスとされ、室内から演奏が聞こえてくる。