ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島町の前島はスナメリに会える島 

2023年04月27日 | 山口県周防大島町

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         前島は周防大島町久賀の北方約5㎞沖に浮かぶ面積1.09㎢の島である。島名の由来
        は、久賀の前にある島だといわれている。
         江戸初期には無人島となっていたところに、草木の採取が行われ始め、そして田畑の開
        墾を行った歴史がある。(歩行約3.1㎞)

        
         JR大畠駅から防長バス橘病院行き約20分、周防久賀バス停で下車する。(@730-)
         バス停前にふるさと館があり、前島航路の乗船券が購入できるが、桟橋は天神前バス停
        近くにあって約300m引き返さなくてはならない。(天神前だと140mほど)

        
         定期船「くか」は28人乗りと小型船であるが、この航路では、波が穏やかでエサとな
        るイワシが多い4~11月頃「スナメリ」に会えることで知られている。 

        
         ライフジャケットを着用すれば、船首から船旅を楽しむことができる。 

        
         約20分の船旅を楽しんで島に上陸するが、船は5分後に久賀に戻るのでスナメリウオ
        ッチングの方はそのまま引き返して行く。

        
         渡船場前の大きな家は民宿をされていたようで、庭に五右衛門風呂と2階には展望でき
        るバルコニーが設置されている。

        
         倒壊した家屋などが目に付く。

        
         石組みの防波堤から渡船を見送る。

        
         この急坂は島民の方にとっては苦坂のようだ。商店がないため生活物資は島外に頼る以
        外にないようで、通常はJAに注文して渡船で送ってもらうまでは問題ないが、渡船場か
        ら重たい荷物を持ってこの坂を上がらなくてはならないという。

        
         大きな家に囲まれた畑地は耕作されているので、見える範囲の家にお住いのようだ。

        
         島は南北に長く、集落は小高い丘を挟んで東と西になっているため、境である丘の上に
        集会所が設けてある。

        
         前島集会所は大師堂と老人の家を兼ねており、集会所前には顔を覆った地蔵尊も祀られ
        ている。

        
         東集落の風景。

        
         海岸部の地蔵尊は、漁師たちの豊漁と安全を見守ってきたようで、今も大切に祀られて
        いる。

        
         1981(昭和56)年に沿岸漁業構造改善事業(漁船用補給施設)で設置された漁船用燃料
        タンクと漁具倉庫。

        
        
         すでに漁港の役割は終えたようで、周囲には漁船の残骸がみられる。

        
         東集落には1名がお住いとのことだが、野菜は自給が原則のようだ。島にはイノシシは
        いないが、鳥が悪さをするので網掛けされているとのこと。

        
         右手に黄幡神社と砲台跡への道。
        
        
         山頂に旧軍の砲台跡が残るというので、雑草を踏んでヘリポートまでは何とか上がるこ
        とができたが、その先の旧軍用路に入ると藪道である。藪にはサルトリイバラが繁茂して
        おり、山頂までの距離を考えて残念する。

        
         山道には1ヶ所だけ海に浮かぶ福島が見える場所がある。手前はビロウの木だ
ろうか丸
        々と太っている。

        
         境内から鳥居までは上り坂で、安永九年庚子春(1780)と刻まれた明神鳥居が建つ。

        
         黄幡神社の御神体は巨岩で、金運・海運の神として祀られている。社殿の前には銭にま
        つわるバクチノキがある。

        
        
         お堂の隙間から内部を覗くと、祭壇と御神体用の注連縄が保管されている。壁には奉納
        者氏名がずらりと並ぶ。

        
         周回路を下り終えると海岸部に出る。

        
        
         前島神社の創建年代は不詳とされるが、古くは荒神社と呼ばれていたが、1872(明治
          5)
年現社号に改めたという。江戸時代には島内に野ネズミが大量発生し、島民の多くが飢
        えに苦しんだことがあったという。このため、御神体を祀って祈祷したのが、この神
社の
        起源ともいわれている。
         島の開墾に私財を投げ打って尽力した久賀の庄屋・伊藤惣左衛門(1770-1820)が合祀され
        ているようで、境内の隅には恵比須社も祀られている。

        
         1866(慶応2)年6月の第二次幕長戦争において、幕府軍の軍艦4隻が宮島から久賀沖
        にやってきて碇泊する。同月13日高杉晋作が指揮する丙寅丸(へいいんまる)が夜襲をかけ
        た所である。 

        
         久賀小学校前島分校は、1873(明治6)年前島小学として創立されるが、1881(明治
          14)
年に開明小学校の分校となる。1979(昭和54)年以降は休校と再開を繰り返したが、
        2000(平成12)年3月をもって廃校となる。

        
         校舎は1969(昭和44)年に新築されたが、現在は前島公民館として活用されている。
        同校の校歌は、周防大島出身の作詞家・星野哲郎氏が作詞したとされる。

        
         戸数にして70戸ぐらいあったようで、現在は4戸、5人が暮らす島である。

        
         大きな家だったが一瞬にして屋根が崩れ落ちたそうだ。

        
         西集落の生活道は細い坂道である。

        
         この坂道には一軒の人家以外は無住である。

        
         集落内のどこからでも海が見渡せる。 

        
         大きな家だが廃屋である。

        
         渡船待合所からの路地に入ってみると、商店だった家を含め廃屋が並ぶ。

        
         ここから見ると他と変わらない集落に見える。

        
         漁船の船底塗装などに使用された引揚げ用レールが残されている。

        
         防波堤から見る西集落。 

        
         予定していた砲台跡に行けなかったため、海岸部で波音を聞きながら対岸の銭壺山、琴
        石山などを眺めながら時を過ごす。波音を打ち消す異様な爆音を発しながら真上を戦闘機
        が飛び去るが、乗船まで周期的に爆音を聞く羽目になる。 

        
         待合所でスナメリが見られますようにと願掛けスタンプを押す。

        
         約5時間を過ごした前島から久賀に戻る。 

        
         願掛けが効いたのか2頭のスナメリが渡船を追いかけるように現れる。突然の出現と渡
        船のスピードが早いため頭部のみの撮影となる。
         「スナメリ」はスナメリ属の小型イルカだそうで、背びれのないイルカだそうだ。 
 
        
         周防久賀バス停前にトイレと信号機もあるので、こちらに戻ってJR大畠行きバス(17:
        08)に乗車して前島散歩を終える。


周防大島の三蒲は大川の河岸にわずかな平地 

2021年12月14日 | 山口県周防大島町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         三蒲(みがま)は屋代島の西北部に位置し、南東に文珠山があり、文珠山の支脈のうち北へ
        延びる段ノ木迫、池の岡は200mを越す山地を形成して海岸に至り、東の境となってい
        る。南および西は飯ノ山を結ぶ分水嶺によって仕切られ、西や北は大畠瀬戸に面する。(歩
        行約2.7㎞、🚻なし)

        
         JR大畠駅から防長バス久賀経由の橘病院行き10分、西の浜バス停で下車する。

        
         美蒲神社は往古より真宮大明神と呼ばれ、社近くに湯が湧き出していた。
         しかし、社が大破して神社が中絶した時、この湯が神力によって伊予国道後に移ったと
        申し伝えがある。元和年中(1615-1624)三蒲村旧領主・村上太左衛門の総鎮守として、家臣
        の今田九兵衛が再興する。

        
         西三蒲から見る三蒲集落の海岸線。

        
         周防大島八十八ヶ所40番札所(遍照庵)の本尊は地蔵菩薩。

        
         西三蒲から東に向けて歩を進める。 

        
         三蒲神社参道。

        
         第1種漁港の三蒲漁港には漁船の隻数は多く、1本釣を主な漁法とされているようだ。

        
         出航の準備をされている家族。

        
         お店だったような構えの家が並ぶ。

        
         見るべきものがないためか直線道は長い。 

        
         山に降った雨水をスムーズに海へ流し出す水路が数本ある。

        
         旧道に沿って平入の大きな人家が並ぶ。 

        
         たわわに実をつけた木の先に大畠瀬戸。

        
         三蒲川の上流に標高463mの文珠山。 

        
         永代橋の角に古民家。

        
         スリップ止め用の蓋に周防大島町の町章があるマンホール蓋。

        
         東三蒲地区。

        
         国道437号に合わす。

        
         大洲若宮神社は、往古、大島郡瀬戸に奉斎の一の宮大明神(後に大多満根神社と改称)に
        海神を勧請して龍神社と称したが、江戸期の天保年間(1830-1844)淫祀解除令により廃社に
        至る。
         1872(明治5)年大多満根神社の遥拝所として社殿を建立し、その後、分社して大洲若
        宮神社となる。

        
         民家を改装して宗教団体が入居されているようだ。この先の周防東浜バス停より大畠駅
        に戻る。


周防大島の椋野は湾に沿って集落 

2021年11月30日 | 山口県周防大島町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千1地形図を複製・加工したものである。
         椋野(むくの)は屋代島の西部に位置し、南に文珠山を仰ぎ、北は海に面し、北東海上に前
        島を臨む。域内は傾斜地で平地は少なく、小さい湾に沿って立地する。
         地名の由来を地下(じげ)上申は、芸州浪人・椋野兵部が開発したとするが、「ふるさと椋
         野」で
は田畑の境界に植えられた椋の木にちなむとする。(歩行約4㎞)

        
         JR大畠駅から防長バス久賀経由の町立橘病院行き23分、東椋野バス停で下車。

        
         椋野小学校は、1873(明治6)年林霊俊宅を仮校舎として創立したが、時代の流れの中
        で児童数の減少により、2011(平成23)年久賀小学校との統合により閉校となる。

        
         大島八十八ヶ所の札所と思ったが、表札は「周南八十八ヶ所第47番奥の院」とあり。
        大島の47番は椋野の天浄寺とのこと。

        
         銭壺山を仰ぎながら海岸部へ向かう。

        
         東側の漁港には久賀漁協の漁具保全倉庫が完備されている。

        
         これも防波堤だったのだろうか。 

        
         海側から見る椋野の地形。

        
         重富家横から路地裏歩き。

        
         塀と門を持つ家は無住のようだ。

        
         スリップ防止用模様と中央に周防大島町の町章、六角模様が6つあり、その1つに「お」
        があるマンホール蓋。

        
         整然とした路地だが見るべきものはない。

        
         椋野神社の創建年月は不詳とのこと。1907(明治40)年椋野木屋の八幡宮を合祀する。

         
         この先、集落内に路地がないため国道歩き。

        
         国道筋の大きな家も空家。

        
         椋野漁港は泊地の水深が浅く、漁船の大型化に対応できないうえ、背後の用地が不足し
        ていることから漁業の効率化が悪い状況にあった。
         1994(平成6)年より漁港修築事業が行われて新漁港が建設されたが、ここではレジャ
        ーボートが多くを占める。

        
         右手の道に入ってみるが、人家は更新されて見るべきものなく、イチョウの木が目立つ
        程度だった。

        
         海岸線に出ると湾の特性によるものか、
消波ブロックは設置されず砂浜が保全されてい
        た。西椋野バス停よりJR大畠駅に戻る。


周防大島の屋代にハワイ移民資料館 

2021年11月29日 | 山口県周防大島町

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         屋代(やしろ)は屋代島の西部、屋代川流域に位置する。東は嘉納山と源明山の分水嶺で、
        北は飯の山と文珠山の山地で、南は頂海山と馬の背の分水嶺で区切られる。屋代島内の集
        落で海に面していないのは当地だけである。(歩行約6.5㎞、🚻資料館) 

        
         JR大畠駅から防長バス(沖浦経由)町立橘病院行き約17分、大島庁舎前で下車。路線
        バスは屋代を経由しないのでこの先は歩きとなる。

        
        
         県道大島橘線を進むと農協倉庫があり、左折すると
前方に文珠山・嘉納山が聳える。

        
         得蔵寺(真宗)

        
                
仙洞院は公門山を少し登った所にあるが、室町中期の頃に山伏姿の修験者が、はるばる
        四国から櫓船で伊予灘を渡り、椋野の文珠堂に籠り天下泰平を祈祷する。
ここで神仏の御
        加護を島の人々に伝えるため、公門山の峠道にてお布施でいただいたものと栗、谷水で混
        ぜて食べると空腹が癒されると栗をつかんでちぎり取ってしまう。

         その時に百姓が居合わせて、このことを役人に告げると盗みに入ったと捕らえて、審議
        をしないまま村人の前で梟首(きょうしゅ=打ち首をさらす)の罪にする。
その時に「仙洞院と
        いう修験者で、百姓の大事なものを盗んだお詫びに霊神となって願えことをかなえてあげ
        よう」といったといい、村人は遺体をこの公門山に埋め、自然石に文明17年(1485)仙洞
        院と刻み弔う。「1つの願いごと」を申して拝めば、霊験あらたかとされる。(他説もあり)

        
         農道の途中で左折して山裾を辿る。

        
         等覚院(浄土宗)は、何時の頃からか浄土宗の浄尾寺と称していたが、1873(明治6)
        村内の西蓮寺へ合併したため、玖珂郡御庄村の等覚院を引寺したという。

        
         境内から見る集落の先に琴石山。

        
         龍心寺(曹洞宗)は、創建時には安養寺と称していたようで、村上武吉により祖父の法号
        に因み大龍寺と改める。江戸期に入ると毛利家に随順し、屋代に移り永く村上家の菩提寺
        とし、明治期に現寺号としたという。

        
         屋代の村上家家老・大野氏の次男に友之丞という人物がいた。友之丞は京都に上がって
        御所に入り、北面の武士に取り立てられた。その後、巡見使として九州に下る途次、三田
        尻(防府)の毛利家に立ち寄り、朝廷を笠に着て大いに見返したまではよかったが、同家を
        辞する時に大いに乱暴をはたらいて帰ることを止められた。
         一夜脱走して郷里の屋代に帰ったが、一族は禍が及ぶことを恐れて喜んで迎えてくれな
        いため、祝島に渡るが毛利家の知るところとなる。1799(寛政11)年斬罪となるが、そ
        の際、「自分を信じて祈る者があるなら、首から上の病は癒してやる」と伝えられ、大友
        大権現として祀られている。(説明板より)

        
        
         菅原神社は領主・村上氏の願出によって、1805(文化2)年当地の京免に勧請されたが、
        1875(明治8)年現在地に遷座する。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、東屋代村と西屋代村の区域をもって屋代村が
        発足するが、1952(昭和27)年小松町と合併する。(砂田地区付近)

        
         砂田の地蔵堂(延命地蔵)と御旅所。

        
         何の目的で「臼」が集められたのかは不明だが、以前は各家庭にとって必要不可欠なも
        のだった。

        
         1885(明治18)年山泉小学校として創立された屋代小学校は、いくつかの校名変更を
        経て、1947(昭和22)年現校名となる。
         1953(昭和28)年屋代中学校だった地に移転するが、児童の減少に伴い、2010(平
          成22)
年近くの明新小学校に統合される。

        
         屋代川で集落は二分されている。 

        
         1925(大正14)年12月に屋代信用購買販売組合が設立される。その後、農業会と改
        称し、 1948(昭和23)年屋代農業協同組合へと引き継がれる。建物は1932(昭和7)
        年に組合事務所として建築され、名称変更を伴ったが各事務所として活用された。一時期
        住宅として利用されたようだが、今は空家となっている。

        
         中保育園付近から先は、民家が点在するので屋代川左岸を下る。
 
        
         民地のため入るのを遠慮したが、大樽に立派な屋根を載せて観音開き戸が設けてある。

        
        
         郵便局前に「大島商船学校発祥之地」の碑と道標がある。碑文によると、大島郡役所が
        久賀村に移転したため、跡地に1897(明治30)年郡立大島海員学校が創設された。
         ただし、設備等は貧弱で長くこの地に留まることはできない状態だった。幸いに190
        1(明治34)年県立に移管され、県立大島商船学校と改称し、小松志佐村に移転したと記す。

        
         左岸は車の通行もないのでてくてく歩きができる。

        
         ハワイ移民資料館は、1926(大正15)年に事業家の福元長右衛門が自宅として建てた
        ものである。氏は1897(明治30)年16歳でサンフランシスコに渡り、貿易事業で成功
        して1924(大正13)年に帰国する。

        
         主屋は近代和風邸宅で、1995(平成7)年旧大島町に寄贈されて、現在は「日本ハワイ
        移民資料館」として活用されている。(毎週月曜日が休館日) 

        
         表の間は「ハワイとの交流」コーナーとなっている。

        
         大島郡は人口増加により限られた土地では生活できず、大工や船乗りなどの出稼ぎが盛
        んだった。ハワイ移民の話が持ち上がった頃、全国的な不況や自然災害などで島の人々は
        餓死寸前まで追い込まれた。
         1885(明治18)年1回目の官約移民では、大島郡出身者が1/3を占め、官約移民時
        代に大島郡からは3,913名がハワイに渡る。

        
        
         アメリカから持ち帰った台所の設備、衛生設備などが備えられ、和洋折衷の生活様式と
        なっている。

        
         主屋をはじめとする建造物が国登録有形文化財に指定される。(裏の西側は鉱滓煉瓦塀)

        
         周防大島が「移民の島」と呼ばれた所以を学ぶ
有意義な訪問であった。この先、屋代川
        沿いを歩いて大島庁舎に戻る。(敷地内に図書館あり)


周防大島町の浮島は漁業が盛んで活気ある島 

2021年10月08日 | 山口県周防大島町

                
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         浮島(うかしま)は屋代島の北東約5㎞の安芸灘に浮かぶ島で、その先に約130mの橋で
        結ばれた頭島がある。なだらかな丘陵性の地形を示し、集落は南岸に江の浦、北端に樽見、
        西端に楽ノ江がある。
         室町後期には大内氏と深い関係のあった海賊集団宇賀島の根拠地であったが、1555
        (弘治元)年厳島合戦で陶方に属して全滅し、一時は無人島になった。
          浮島の名の由来は、海に浮かぶ島とか、宇賀水軍の島だったなど諸説あるようだ。(歩行
        約5.3km)

        
         JR大畠駅から防長バス周防油宇行き35分、土居口バス停で下車する。
町役場支所と
                島中小学校の間を抜けると浮島航路待合所がある。(🚻あり)

        
         コロナ禍で島外の方は甲板でお願いしたい旨の張り紙を了承し、11時30分嵩山を背
        にしながら出港する。

        
         江ノ浦港で下船する。(11:45)

        
         樽見港までの時間配分が読めないため、江ノ浦は急ぎ早の散歩となる。島の最南にある
        小島のような見壁山は、集落のシンボル的な存在となっている。

        
         海岸線に沿って車道が延びる。風土注進案によれば、1681(天和元)年沖家室の友沢四
        郎左衛門が浮島に渡り田畑を開き、森村の百姓に働きかけて島の開発が進んだと記す。

        
         中央にみかんの花だと思われるが、それを囲む模様は判らないが漁村集落排水マンホー
        ル蓋。 

        
         高波対策として海岸線に石垣を築き、その内側に民家を建てるのではなく、前面に作業
        場兼納屋を建て、その奥に主屋を建てるという形式をとっている。

        
         江ノ浦は平地が広いこともあって、樽見集落より人数が多くて漁業が盛んである。

        
        
         海側と路地から入れるようになっている浮島簡易郵便局。

        
         磐尾(いわお)神社について風土注進案は、友沢四郎左衛門が浮島を開拓する時、2丈(約
        6.06m)余りの黒蛇が出現、人家を害することが続いたので、森村宝王大明神の祠官・
        高田左近に頼み、祈念、守札をもらったところ退散する。
         しかし今度は大鼠が出現して作物や人家を荒らしたので再び祈念してもらい、宝王大明
        神より三宝荒神を勧請、岩尾大明神として祀ったところ、祟りはなくなったという。


        
        
         平地の中心部に耕地があり、それを取り巻くように民家が建っている。

        
         狭い路地は重要な生活道のようだ。 
         
        
         簡易郵便局のように周囲を囲み、内に生活の場を配する造りである。 

        
         江ノ島待合所はトイレ併用。

        
         樽見集落へは3本の道があるが、楽ノ江集落を経由する道を進む。 

        
         坂道を上がると江ノ浦集落が見納めになる。

        
         展望のない坂道を上がると海が見えてくる。 

        
         海辺に浮島小学校が見えてくるが、この付近が楽ノ江集落のようで、道路から学校まで
        は急坂を下らなければならない。

        
         浮島小学校の沿革はわからないが、なぜこの地に小学校が設置されたかについては、江
        ノ浦と樽見の中間であったことによるという。校内と渡船場が一体化され、児童や関係者
        は渡船での通学・通勤だそうだ。

        
         小学校の背後にある花崗岩採掘跡は、創業や発展経緯については資料等が残されていな
        いが、採掘は江ノ浦地区の集落用地の建設にとって欠くべからざるものだったようだ。
         セメントの出現で石材は不利な立場となり、戦後程なくその歴史に幕を下ろす。この採
        石跡は20~30mあろうか、切り立った断崖となり岩肌をさらしている。民家は小学校
        グランド付近と樽見への車道近くに散見できる。 

        
         ヘリポートを過ごして展望のない車道を進むと、樽見集落と頭島が見えてくる。

        
         樽見集落も漁業が中心で漁港には多くの漁船が係留されている。

        
         海岸通りに民宿・村田と県漁協浮島支店。

        
         JA山口大島の倉庫付近からの海岸通り。

        
        
         江ノ浦集落と違って平地が少なく山裾に沿って人家が並ぶ。

        
         樽見観音はもともと大島の寺に安置されていたが、江戸期の安永年間(1772-1781)島内に
        疫病が流行した折、尼僧智源が観音像を抱いて島に渡り、樽見の丘での祈祷と観音像の霊験
        により疫病が治まった。尼僧の開基といわれる堂には西国三十三観音像が祀られている。

        
         観音堂脇から下りきったところに神社が祀られている。正式に認知された神社でなく、
        島民の手によって樽見集落の守護神として建立された。みやま(宮の転訛か)と呼ばれる小
        丘上に鎮座し、御神体は五体の明神とされ、社の称号も「五体大明神」とされる。

        
         神社から東海岸に下って樽見港へ向かう。

        
         無人の頭島(かしらじま)では、ミカンの栽培が行われており、1973(昭和48)年農道橋
        (浮島大橋)で結ばれる。正面に見えるイリコ工場は、島で暮らす人々の生活を支える基幹
        産業である。

        
         海から見る樽見集落。(樽見港発15:00)

        
         海から見る浮島小学校。

        
         わずか3時間15分と短い時間であったが、離島にあって高齢化と過疎化が進展する中、
        小学校がこの先も在り続けることを願って屋代島に戻る。
大急ぎで土居口バス停に戻り、
        15時45分の大畠駅行きに乗車する。    


周防大島の土居・日前は海に浮かぶ赤い鳥居と日良居港 

2021年06月24日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         土居(どい)・日前(ひくま)は屋代島の北海岸(内海)中央部に突き出た符崎の西に位置し、
        入海の海岸砂州に立地する。
         土居の地名由来は、かっては竹・葦などが繁茂していた平地で、里人が土井と唱えてい
        たことによるという。
 
         日前の地名由来は、東向きの土地で日受けがよいので日前というようになったという。
        (歩行約3km)

        
         油良集落を散歩して油良東バス停より大畠駅行きのバスに乗車、土居口バス停で下車し
        て土居港へ向かう。

        
         港手前の四差路にいっぷくステーション(トイレ)が設置されている。

        
         1873(明治6)年西方小学校日前分校として創立された島中小学校。


        
         海の傍とは思えない雰囲気である。

        
         西進するとカーブする所に荘厳寺。

        
         荘厳寺(真宗)は永禄年間(1558-1570)日向国の伊藤という人が出家して、久保法師と号し
        て堂宇を建立。1638(寛永15)年現寺号とする。

        
         土居と日前との境が判別できず。

        
         願行寺(真宗)は慶長年間(1596-1615)岸作右衛門が得度して一堂宇を建立。1690(元禄
        3)年現寺号に定める。

        
         明月上人は、1727(享保12)年当寺で生まれ、圓光寺(現松山市湊町)の法灯を継ぐ。
        越後の良寛、備中の寂厳とともに近世の三筆と称された人物である。
         1896(明治29)年百回忌にあたり、圓光寺において正岡子規や高浜虚子などが上人を
        偲び盛大な句会を催した。その際の句が碑として建立されている。

        
        
         国道がやや山手寄りに新設されたため、静かな通りとなっている。

        
         日良居漁港への道。

        
         日良居漁港は第1種漁港(利用範囲が地元漁業者が主)で、小型機船底びき網業を主体と
        する漁法が行われ、なまこ、メバル、あじなどが水揚げされている。

        
         海岸道路と旧道の間に生活道。

        
         表札はないが日前公民館と思われる。

        
         この付近の建物も更新されている。

        
         この地も山手集落の郷と海辺の浜に区分されている。

        
         日前の砂浜先に見えるのが、左手から瀬島、正面に浮島(うかしま)と乙小島、右は符崎の
        鼻。

        
         島中小学校グランド脇が白鳥八幡宮参道。

        
         白鳥八幡宮の創建年月は不詳だが、現存する棟札等により今から約1,000年以前頃、
        山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)から勧請されたという。長浜、日前、土居の産土神とし
        て崇敬されてきた。神殿は流造千鳥破風で、拝殿は入母屋造りでる。

        
         白鳥八幡宮の左にあるのが蛭子神社だが、由緒書きがないため詳細を知り得ず


        
         土居神社は北斗妙見宮として、土居の東、妙見という所に神社があったが、1907(明
        治40)年火災に遭い当地に遷座する。

        
         赤鳥居の前に「宮島様」が祀られているが、御旅所の台座のような上に小祠。

        
         海の中に赤鳥居。ちょうど干潮のため海に浮かぶ光景とはならず。

        
         土居側から見る赤鳥居。

        
         土居の町並み。

        
         旧橘町の集落排水マンホールは、内海と鯛、特産のミカンがデザインされている。

        
         リサイクルショップ「ぐずらん堂」の真向かいに地蔵尊と土居稲荷社。

        
         商店用日除けテント(光吉呉服店)や看板建築が商店だった名残りを示す。

        
         海岸線と旧道、山手から旧道を結ぶ道が2軒ごとに設けてある。

        
         土居集落の東端。ここに大正6年(1917)竣功した「耕地整理竣功記念碑」がある。組合
        数479人、整備面積11町6反2畝歩と記されている。

        
         海岸線に出ると一転して波消しブロックが積み上げられている。

        
         波止にクレーンの支柱跡が残るが、船底清掃及び塗装のため船を吊り上げた名残りと思
        える。

        
         旧道と海岸線の間にある生活道。

        
         新旧対照的な民家の間を過ごし、土居口バス停に戻る。              


周防大島の油良は海岸線に沿う集落 

2021年06月24日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
        油良(ゆら)は屋代島の北海岸(内浦)中央部の入海に面し、符崎の付け根の東に湾入した海岸
       砂州に立地する。往古は浜里村といわれていたが、いつの時代か丹後国から油良左衛門九郎
       という人が来住して城を築いた。この入江が左衛門九郎の出身地である丹後国油良港に酷以
       していることから、この地を油良というようになったという。(歩行約3km)

       
        JR大畠駅から防長バス周防平野行き40分、油良東バス停で下車。旧道(内海道)に入
       るとお店であったことを示す看板が残されているが、いつ頃まで営業されていたのだろう
       か。

       
        畑地の多くはみかん園。

       
       
        旧道に面する家は、その多くが更新されている。

       
        寿源寺(浄土宗)は、往古、教徳寺という古跡であったが、1615(元和元)年油良の給領
       主・沓屋筑前守元綱が再建する。1628(寛永5)年元綱の死後、法名をとって現寺号と改
       めた。

       
        子安・水子地蔵尊と宝篋印塔。

       
        酒の看板が残
る民家の先で左折する。


       
        国道を横断して山手側に向かうと油良八幡宮の参道。

       
        油良八幡宮は防長寺社由来によると、延長年間(923-931)山城国男山(石清水)八幡宮より
       勧請し、「正八幡宮」と称していたが、明治以降は「八幡宮」と改称する。

       
        本殿の裏手にヤマモモの巨木がある。樹齢は不明だが目通り幹囲は目分量でも指定約5
       m弱はありそうだ。その他社叢には、コジイ(小椎)、タイミンタチバナ(大明橘)、クロガ
       ネモチ。コバンモチなどがある。

       
        八幡宮の車道から見える「橘ふれあいかんころ楽園(がくえん)はデイサービス施設であ
       
るが、2001(平成13)年廃校になった旧油良小学校を利用している。(背後の森が八幡宮) 

       
        旧道に戻って西進するが、これといって見るべきものはない。

       
        油良集落の西端。

       
        山に降った雨をスムーズに海に流し出す水路が設けてあるが、一方で海水が河川に進入
       するのを防ぐ排水ゲートが設けてある。

       
       
        地形によるものか波消しブロックが設置されていない。

       
        波止にレールとクレーン用ポール跡が残るのは、船底掃除、船底塗装をするため、船を
       吊り上げて作業場に運搬する設備であったとのこと。

       
        長い海岸線にブロックはないが、堤防との間に工夫がされている。

       
        喫茶&食堂かと思ったら、周防大島町が推進する民泊体験受入家庭だそうだ。

       
        一部分だが旧道と海岸道路との間に生活道がある。

       
        東端から見る海岸線と集落、遠くに嵩山。

       
        旧道と海岸線は無数の路地で繋がっている。

       
        旧道に出ると西進して油良東バス停に戻る。             
 


周防大島町の笠佐島は般若姫伝説のある地 

2021年04月22日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         笠佐島は小松港の西約2kmの海上にあり、地形は比較的穏やかである。柳井市新庄にあ
        った塩田で使用される薪の供給地であり、その後、石炭へと変遷すると島内の開墾が始ま
        ったとされる。
         島の由来は、昔、大畠の瀬戸に身を投げた般若姫に、笠を捧げたことから「笠捧げ島」
        と呼ばれるようになり、現在の「笠佐島」になったと伝わる。(歩行約1.3km)

        
         本土側連絡船乗り場は町立大島病院傍の小松港だが、運賃は往復220円である。

        
         行政連絡船「かささ」は定員12名で、気さくな船長夫婦の運行で約7分の船旅だが、
        流れ行く風景を楽しむことができる。 

        
         潮風をうけながら景色を楽しむと笠佐島港へ到着。水曜日のみ10時発があるが、船長
        によると給食を運んでいた時代があって、それが今日まで引き継がれていると説明あり。

        
         2020(令和2)年4月時点で10人が生活している島である。(現在は9人とか?)

        
         笠佐島の港と家並み。

        
        
         港に到着すると島を案内してくれるワンちゃんに出会う。

        
         東海岸より柳井の琴石山と大畠瀬戸。

        
         対岸に周防大島。

        
         右手にS邸を見ながらワンちゃんの先導で山手に向かう。

        
         港から山手に向かう途中に喚鐘があり、「天保壬寅七月(1842)‥道場‥」の刻字が見え
        るが、寺の鐘ではないようだが時鐘だったのだろうか。

        
         製塩燃料として石炭が用いられるようになると、小松志佐村の中村という武士が農民た
        ちをこの島に住まわせて開墾させたという。 宝暦年間(1751-1764)に限られた土地利用に
        ついて工夫がなされ、35坪以上は増さぬようにし、分家は島外に出したとのこと。

        
         小規模な田畑と漁業で生活が営まれてきたようだが、今は担い手不足で水田は無くなり、
        港にわずかな漁船と、年寄りが耕やす自給の畑が人の気配を感じさせる。 

        
        
         島にはお寺がないが、島民にとっては大事な笠佐八幡宮。神社のご神体は阿弥陀如来だ
        そうで、伝説によると、阿弥陀如来を子供たちが持ち出して、小川で水や砂をかけて遊ん
        だという。集落の爺が「ばちがあたるぞ」と取り上げて神殿におさめた。
         ところがその夜、爺の枕元に「楽しく子供たちと遊んでいたのに、いらぬおせわをして
        くれた」とおっしゃった。そのためか金箔もはげて、白木の肌をあらわしているという。

        
         何人を案内したのか場所をよく知っている。

        
         神社から民家までは草が被さるが、島にはマムシがいないとのことで安心して歩ける。

        
         道は水路に沿っているようだが、廃道になっているので屋敷地内を通行させていただく。
        (ほとんどが空家)
 

        
         家に表札はあるものの無住である。

        
         堤防跡のような痕跡が残る。

        
         海水はきれいで砂浜もあって海水浴ができそうだ。

        
         島内はすべて軽トラで車検とは無縁のようだ。

        
         島を周回できる道には、竹やぶや畑、途中にはビーチもあってのんびり散歩ができるそ
        うだが、1~1.5時間必要とのことで今回は残念する。

        
               少し上がれば大島大橋を一望できる。

        
         1933(昭和8)年まで笠佐島分教場があったが、人に会えず跡地の確認はできず。(山
        は屋代島の飯の山)

         
        
         島には商店も自販機もないが、2010(平成22)年3月にオープンした漁家民宿「かさ
        さ」がある。

        
         2時間という短い滞在時間だったが、ワンちゃんが同行してくれて楽しい島旅であった。
        (ワンちゃんは民宿の家族だそうだ)

        
         笠佐島の面積は0.83㎢で、標高115mの高尾山があり、東側海岸に砂浜があるが、
        南側は険しい地形をなしている。

        
         島民の方は屋代島に車を置かれているようで、ここから小松あるいは本土へ出かけられ
        ている。郵便局員は大変で12時の便で島に渡って大急ぎで配達を済ませ、12時10分
        の便で戻ってくるというあわただしさである。


周防大島の横見・日見は沖浦往還道と大仏さん

2021年04月21日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         横見は屋代島の南西部に位置する。北は頂海山と馬の背の分水嶺で区切られ、南は海に
        面している。
         日見(ひみ)
は北東に頂海山があり、北及び東はその支脈で区切られている。(歩行約6km)

        
         小松港バス停から防長バス橘病院行き約23分、横見バス停で下車する。

        
         バス停前から見る横見の海岸線。

        
         これといった史跡はないが、周防大島町の他地域と同様に海側と山手に集落を形成して
        いる。(右手の建物は沖浦小学校)

        
         浜と郷とされる間に耕作地。

        
         地内には海岸部から山に向かって数本の車道がのびている。

        
         みかん畑と室津半島にそびえる皇座山、海の浮かぶのが彦島。 

        
         ほとんどの家屋は更新されている。

        
         小松から地家室間に沖浦往還道が設けられ、この地に一里塚があったとある。

        
         神社名の記載がないので詳細不明だが、横見神社だとすれば、1870(明治3)年新宮大
        明神を改称したとされる。

        
         旧道分岐から日見バス停までは約950m。

        
         県道沿いに日見大仏の入口を示す案内がある。

        
        
         日見も横見と同じ地形をなしており、浜側と郷側に分かれ、中心部に耕作地がある。こ
        ちらは圃場整備されて農地として活用されている。 

        
        
         山手側には瓦を漆喰で塗り固めた家が点々と見られる。

        
         西長寺への道筋に五穀豊穣の神・大歳神社がある。由緒書きがないので創建年などはわ
        からないが、1955(昭和30)年に社殿が再建されている。
   
        
         御神木のムクノキには注連縄が7周半巻かれているが、祝詞の7折半に由来するとのこ
        と。

        
         大歳神社から坂を上がって行くと、真言宗御室派の西長(さいちょう)寺。

        
         もと西向寺と称していたが、1870(明治3)年村内にあった長楽寺と合併し、各1字を
        とって現寺号を称するようになった。

        
         松雲橋を渡ると周防大島八十八ヶ所第19番札所の本尊は延命地蔵菩薩。

        
         境内の護摩堂にある阿弥陀如来座像(2.84m)は、「日見の大仏」と知られ、平安末期
        の作と推定されている。風土注進案によれば、昔海中に夜々光を放ち、ある時、漁人の夢
        に「吾ヲ引上ヨ」との告があって、この本尊を引き上げたという。平安前の807(大同2)
        年に伽藍を建立したのに始まるという。ご開帳は土・日・祝のみで平日はガラス越しでの
        拝観となる。 

        
         境内から見る日見の家並み。

        
         山裾に並ぶ家々。

        
         小松への道。

        
         日見の漁港と海岸線。

        
         県道と海の間に集落道がある。

        
         集落の中央を粕田川が流れる。

        
         狭い路地の家々は空家が多い。

        
         県道に戻ると日見バス停からJR大畠駅に戻ることができる。


周防大島の戸田は沖浦村の中心地だった地 

2021年03月27日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         戸田(へた)は屋代島の南部、南へ突出した半島の分水嶺境に位置する。三方を山に囲まれ
        南は海に面する。
         地名の由来は戸田氏の名田(みょでん)の名残か、屋代を中心として周辺部にあるため、「
        へり」「はし」「はた(辺)」の意味からこの名がついたとも考えられる。(歩行約1.4km)

        
         JR大畠駅から防長バス橘病院前行き30分、沖浦支所前バス停で下車する


        
         戸田の海岸線。

        
         東端より旧道を歩く。

        
         赤石大明神は腰から下の病気に霊験があるとされる。ご神体は1個の自然石で、赤黒い
        色から赤石さまという名が生まれたのであろうと伝える。大明神とはいっても線香をたて
        て祈願するという。

        
         海上安全を守る神・金毘羅宮。

        
         慶長年間(1596-1615)東和町長崎から来た長崎和泉守元直が土地を開き、産業を興し新宮
        大明神を祀る。この宝篋印塔は、1634(寛永11)年没した長崎和泉守の墓とされる。

        
         境内から見る戸田の家並み。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、秋・出井(いずい)・戸田・横見・日見の各村を
        もって沖浦村が発足するが、その中間である戸田に村役場が置かれた。1955(昭和30)
        年に蒲野村・大島町と合併し沖浦村は廃止される。(現在のJAふれあい館が役場跡) 

        
        
         更新された家が続く。

        
         戸田神社は伊勢神宮の分霊を村内の新宮山に祀るが、室町期の1534(天文3)年8月戸
        田村の出火で類焼に遭い、1538(天文7)年現在地に移転したとある。 

        
         かってここに吉田屋という醸造場があり、屋代村の藤村伝太郎に引き継がれたが、19
        35(昭和10)年頃に廃業したとされる。土地は分割されたが煙突は残されたままとのこと。

        
         源空寺は松尾の里にあって禅宗の古刹であったが、室町期の1532(天文元)年の頃、廃
        頽した寺を長崎和泉守自らが開基となり、今の地に一宇を建立して浄土宗に改宗する。

        
         狛犬の起源は古代エジプトのスフィンクスといわれているが、その当時、河馬(かば)は女
        性と妊婦の守護神として崇められていた。これは河馬を題材にした作品を手がけている村
        中保彦氏に作品を依頼したとのこと。

        
         周防大島八十八ヶ所第11番札所。詠歌は「み仏の 光に仰げ 法(のり)の舟 瀬戸の波
        間に 映えし慈愛も」

        
         旧道の1つ山手側の通りには平入りの家屋が並ぶ。

        
         みかんと海の風景が描かれた旧大島町の集落排水用マンホール蓋。

        
         集落内には山からの雨水を海に流す水路が3本設けてある。

        
         
旧沖浦郵便局は、1904(明治37)年三等郵便局として開設され、1932(昭和7)年に
        改築竣工した局舎である。大正から昭和初期にかけて、役所らしさを備えた洋風局舎が推
        奨され、それに従って建てられた。
         当初の外観は空色のペンキ塗りであったが、後にピンク色に塗り替えられたそうだが、
        現在はこの姿である。

        
         旧道を西進する。

        
         山手にのびる松本川。

        
         照林寺(真宗)の大谷八郎こと周乗は、19歳で住職となるが尊王攘夷派の僧・月性に学
        び、1866(慶応2)年の幕長戦争では機械方(大砲)として奮戦中、敵弾をうけて25歳の
        若さで戦死する。
         当寺の由緒については詳細不明だが、幕末当時は現在地でなく高地にあったとされる。