ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市吉田は奇兵隊陣屋と高杉晋作が眠る地

2019年01月30日 | 山口県下関市

           
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         吉田は現下関市の最東部に位置し、集落の西側を木屋川が南流する。集落は山陽道と萩
        からの赤間関街道(中道筋)の宿場町として栄えた。(歩行約4.5㎞)


           
         JR小月駅前からサンデンバス美祢駅行き約15分、東行庵前で下車する。
    

           
         高杉晋作は死んだら赤間関(下関)の鎮守になると誓っていたが、大半が支藩の長府・清
         末藩領である下関市街に埋葬するわけにいかなかった。萩藩の最も下関寄りの場所が吉田
        で、高杉晋作が創設した奇兵隊の本営が置かれていた地でもある。

           
         山陽花の寺の1つとされる東行庵。庵の内部は公開されておらず、春のGW中のみ一般
        公開されている。


           
         東行庵に隣接する下関市立東行記念館には、高杉晋作ゆかりの史料が保存展示されてい
        る。

           
         山県狂介(有朋)が新婚生活を営んでいた無鄰(むりん)庵を、高杉晋作の愛人「うの」に譲
        る。「うの」は出家して谷家を継ぎ、梅処と号して高杉の菩提を弔う。現在の東行庵は、
        1884(明治17)年に無鄰庵の隣接地に住家として建てられた。(写真は無鄰庵)
    

           
         奇兵隊軍艦・福田侠平(公明)は、高杉晋作に信頼され奇兵隊で行動を共にする。晋作死
        後は北越に従軍し凱旋するが、1868(明治元)11月12日の明治政府成立を祝ったが、
        2日後に急逝する。堂々とした顕彰碑が建立されている。


           
         福田侠平(1828-1858)は現山口市の十川家の次男として生まれ、現長門市の福田家の養子
                となる。10歳年下の高杉に心酔し、遺体は遺言によって高杉の墓の隣に葬られた。


           
         1867(慶応3)年4月14日に下関新地で結核のため病没した高杉晋作の遺骸は、16
        日に吉田の清水山に土葬され、神式の葬儀が営まれた。


           
         高杉晋作の菩提を弔い続けた「梅処(うの)」は、1909(明治42)年67歳で亡くなり、
        この地に葬られる。

           
         高杉・福田墓所に隣接して、奇兵隊など諸隊士の墓が130基ほど集められた顕彰墓地
        がある。隊士の墓が各地で無縁仏になっているのを見かねた東行庵三代庵主の谷玉仙が、
        1971(昭和46)年に開いた。招魂場とは違って反乱で処刑された兵士の墓も並ぶ。

           
         庵入口には梅林。

           
         吉田の埴生口にある法泉寺(浄土宗)は、1吉田の給領主だった山内広通の室・帰命院が
        開基となり、1664(寛文4)年に創建された。住職によると無住寺のため埴生の寺から毎
        日来ては、境内の手入れをされているとのこと。

           
         吉田に陣を構えた奇兵隊が屯所として使用し、墓地には小倉戦争で戦死した四番銃隊長
        ・阿川四郎の墓がある。他に御手洗音五郎、和田十郎ら7名の墓を探し当てることはでき
        ず。

           
         この道は急坂続きであった山陽道の蓮台寺峠越えを敬遠して、大正期から昭和にかけて
        利用された。

           
         旧山陽道に合わすと、柳瀬川傍に庚申塚、猿田彦大神と御旅所のような台座がある。

           
           
         吉田市に入る手前もすっかり様変りしている。(下は2009.8撮影)

           
         旧山陽道と赤間関街道(中道筋)が合流する手前には、旧竹田医院の建物が現存する。

           
         市頭で萩からの赤間関街道が合流する。

                
         T字路の東南角に高さ1.3mの道標には、「右上方道、左萩道」とある。

           
         松林寺の西脇には吉田市の商業神として恵比寿神、その西に高札場があったとされる。
 
           
         藩政時代に山陽道が吉田を迂回するようになると、宿場町として繁栄する。

           
         1889(明治22)年に吉田村と吉田地方(じかた)村が合併し、この場所に吉田村役場が置
        かれた。昭和の大合併で下関市に編入される。

           
         幕末期の長慶寺は奇兵隊の病院として使用され、奇兵隊日記によると、1866(慶応2)
        
年5月に奇兵隊第一銃隊と第二銃隊が合併して、ここに布陣したと記されている。


           
         1865(慶応元)年4月、吉田村に転陣した奇兵隊は、庄屋の末富家を本営と定めた。
        (車庫上に説明板)
 
          
         比較的大きな民家で門と前庭と門を持つ。

           
         街道は四差路を直進している。

           
         交差する東南隅には、1749(寛延2)年建立の三界萬霊地蔵があり、右の傍らにも同じ
        三界萬霊地蔵がある。
         三界(欲界、色界、無色界)、萬霊(欲色、色界)有情無常の精霊とし、あらゆる世界をさ
        している。それらを供養する塔とされる。

           
         吉田の一里塚には目印として大きなエノキがあったとされ、夏は暑さをしのぎ、秋はそ
        の実を食べて飢えをしのいだと云われる。

           
           
         御茶屋は吉田小学校の北側にあって白い練塀で囲まれ、西隣には吉田宰判の勘場があっ
        た。下段は2009年に撮影したものだが形が失われつつある。

           
         敷地内も往時の名残りを見ることはできない。

           
         1865(慶応元)3月に奇兵隊の屯所として吉田村が確定し、諏訪集落の林野を開墾する。

           
         1867(慶応3)年開墾したこの地に屯所を置かれ、1869(明治2)年に解散したが、
        400人の隊士が訓練に明け暮れした場所である。

         コンビニまで引き返すと東行庵入口バス停がある。


室津は半島の先端にあって史跡の四階楼 (上関町)

2019年01月23日 | 山口県上関・平生・田布施町

                     
         の地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         室津(むろつ)は室津(熊毛)半島の先端部にあり、皇座山の西側に広がる町は、海岸線まで
        山麓が迫っている。1879(明治12)年に室津村と室津浦が合併して室津村となるが、1
        957(昭和32)年の昭和の合併で、上関村と合併して上関町室津になる。(歩行約3㎞)
  
        
         柳井駅前から防長バス上関行き約50分、室津バス停前で下車する。

           
         肥後屋の跡地は、村役場、上関町公民館と変遷する。

           
         肥後屋は室津の本陣で、祖先は熊本に住んでいたが、室津に移り住むと吉崎姓を名乗る。
        酒の販売などを営み、庄屋など地域の世話役も務める。幕末には高杉晋作、桂小五郎、坂
        本龍馬など多くの志士たちが立ち寄り、京都での政変で京を追われて長州に下った七郷の
        うち、5卿(3卿説もあり)も宿泊する。

           
         四階楼は、1879(明治12)年に維新の志士・小方謙九郎が建てたもので、当初は住宅
        兼店舗、汽船宿として利用されたが、その後は所有者も変わり、1991(平成3)年まで旅
        館として利用された。(国重文)

           
         木造4階建てだが高さは3階建てほどで、外観は白壁に縦長の窓、壁隅の装飾が洋風ら
        しさを見せる。

           
         内部に入ると階高は約2.2mで、1階の壁には「菊水紋」の鏝絵。

           
         3階の表座敷には唐獅子牡丹鏝絵。

           
         3階の天井飾りは椿の鏝絵。

           
         意匠された茶室の間。

           
         階段から見るステンドグラス。

           
         4階の窓はすべてステンドグラスで、フランスから輸入されたと伝えられ、宴会の場と
        して利用された。

           
         四季折々に違った色を見せるようで、開館は10時だが事前に連絡いただければお見せ
        しますとのこと。

           
         18畳の天井中央には鳳凰の鏝絵。

           
         常満寺(浄土真宗)を開いたのは平氏の武将佐原十郎盛光(1293年没)といわれる。火
        災に遭い、1739(元文4)年にこの地へ移転した。

           
         上関海峡を通行する帆船の目印となった大銀杏。

           
         裏通りが昔の道で、通りに面して商店などが軒を連ねていたが、今では往時の姿を見る
        ことはできない。

           
         右の空地に松前家があった。

           
         塀に囲まれた松前家は解体されて駐車場となっている。(2008年1月撮影)

           
         上関海峡、四階楼と松前家が並び見応えのある風景だった。

           
         通りに残る唯一の旧家・山本邸。

           
         空地と空家が目立つ。

           
         山本家の所で道は鍵曲がり。

           
         賀茂神社は、南北朝の1352(文和元)年に京都の賀茂神社から勧請したと伝わる。

           
         この地にあった吉田家は、広島県の呉市蒲刈町にある松涛園へ移築された。

           
         煙突と屋根に湯気抜きがあるのは、銭湯だった「いなり湯」さん。

           
         銭湯の向かい側には共同井戸だった六角井戸。

           
         突き当りは海から西方寺を結ぶ路地である。

           
         背後に山、前には海が迫り、狭い空間の中に店舗を兼ねた総2階家が並ぶ。

           
         ここが海岸線だったとのことを示す船繋ぎ石。

           
         船繋ぎ石から道路を挟んで今の海岸線がある。

           
         西町通りに遊郭があったとされるが、今はその面影を見ることができない。

           
         西方寺へ向かうと格子のある家が続く。

           
         その先の左手に旧長命寺の石段。

           
         旧長命寺跡から室津の町並みと上関海峡。

           
         慶長年間(1596-1614)に建立された西方寺。

           
         1864(元治元)年幕府軍の攻撃から上関海峡を守るため義勇隊が駐屯する。翌年には代
        わって鴻城軍が駐屯し、この時に付けた刀傷が残る。

           
         寺前を右に上がって行くと、辻の出会いにお地蔵さん。

           
         辻の左手を進むと県道に合わす。

           
         左手の海岸線に白浜集落。

           
         墓所に中に鳥居。

           
         左側に小方家の先祖を祀った合奠(ごうでん)塔、中央は小方市右衛門の墓である。右側に
        は1858(安政5)年に市右衛門が吉田松陰を訪ねた際、松陰が木刀に詩を揮ごうしたとさ
        れる詩碑がある。

          
         合奠塔裏に小方謙九郎・艶子夫妻の墓。

           
         墓の入口に小方謙九郎(弘徳)の活動を称えた碑がある。幕末期に奇兵隊に入隊し、馬関
        攘夷戦に参戦、四境の役では大島口の戦いで活躍する。維新後は室津に帰り、回漕店や木
        賃宿を営み、1913(大正2)年に79歳で没すとある

                  
         小方謙九郎の墓近くに楢崎剛十郎の碑がある。第二奇兵隊書記兼参謀として活躍中、大
        島口開戦前の1866(慶応2)年4月4日に、第二奇兵隊の倉敷代官所襲撃を止めようとし
        て斬殺される。(奥の碑文は山縣有朋)


        
         室津小学校があった地は「鳩子の湯」として利用されている。

        
         室津小学校は、1874(明治7)年に常満寺を借りて、「第五大区室津小学」として開校
        する。
1877(明治10)年に現在地へ新築移転し、柳浦小学、室津尋常高等小学校などに
        校名を変更する。2006(平成18)年に上関小学校との統合で132年の歴史を閉じる。

        
         1853(嘉永6)年2月吉田松陰は江戸へ行く途中、日和山の砲台場を見学して江戸へ向
        かう。
その後、ペリー来航や長崎にロシア船が入港したのを知り、密航のため長崎に向か
        うが、
その途次の10月15日に室津に泊して望郷惜別の詩を詠む。
        しかし、長崎に着いた2日前にロシア船は出航しており、目的は達せられず引き返した。
        その後再び、アメリカ船で海外密航を企てたが失敗に終わる。

            嘉永癸丑十月十五日
            舟を発し家室を過ぎ室津に至りて泊す
            詩あり云はく
            帰郷夢絶えて涕洗潜々
            舟子喚び醒す是上関と
            蓬窓怪しむなかれ起き来ること晩きを
            国を去りて看るに忍びんや故国

        
         鳩子の湯前にバス停があるが、道の駅上関海峡までは近距離なので、室津バス停から柳
        井へ引き返す。            


白井田はお椀型の漁村集落 (上関町)

2019年01月23日 | 山口県上関・平生・田布施町

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)

         白井田は長島の中央部西側に位置し、1960(昭和35)年には1,384人が居住してい
        たが、現在は138世帯206人が暮らす静かな漁村集落である。

           
         町営バスの白井田バス停。便数が少なく約2時間30分の滞在時間である。

           
           
         平坦地に建てられた家は、山手側に比較すると敷地は広い。

           
         狭い居住空間にあって塀を持つ家もある。

           
         共同井戸を点々と見ることができる。

               
                海から山手に通じる右手の路地に商店。

           
         小村商店さんの先にも共同井戸。

           
         練塀を利用した建物は傷みが激しい。

           
         2つの通りをつなぐ路地。

           
         海から山手へ延びる左側の通り。

           
         消火器ボックス等が点々と設置されている。

           
         狭い空間に畑地があるが、どうも宅地跡のようだ。

           
         最上部に上がると旧白井田小学校の門柱と石段。

           
         肩を寄せ合うように家が並び、海上には光市牛島(うしま)が見える。

           
         1874(明治7)年11月に白井田小学として開校し、竈関小学白井田分校など校名の
        変遷を重ねる。1947年(昭和22)年には上関村立白井田小学校となるが、1959(昭和
        34)年を境に児童数の減少が続き、2006(平成18)年に廃校となる。

           
         休校してから25年の歳月が流れ、校舎全体が崩壊の途にある。
       
           
         玄関の上には校章が残されている。

           
         お椀の一部を欠いたような地形にあって、最上部の民家は車道への道が設けられている。

           
         通りを下ると崩壊が進む民家もある。この先もこのような民家が増えるのであろうか。

           
         海岸通りに出ると練塀が見られる。

           
         2軒の食料品店は必要不可欠な存在で、品揃えも集落の生活にマッチしている。

           
           
         白井田八幡宮の社伝によると、平安期の918(延喜18)年に石清水八幡宮より勧請して
        創建されたとある。

           
         太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月、特攻兵器回天の搭乗員・和田稔少尉が光基
        地から発進するが行方不明となり、同年9月の枕崎台風により白井田の高瀬岩礁に漂着す
        る。
         2006(平成18)年に原作・横山秀夫の「出口のない海」が映画化されて知られること
        になる。

       
        漁港から見上げると劇場の舞台にいるような地形である。

           
        蛸壷が並ぶ先に上盛山。

        バスで室津まで戻り、路線バスに乗り換えてJR柳井駅に戻る。


四代は長島の片隅にひっそりと佇む漁村集落 (上関町)

2019年01月17日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         四代は長島の南に位置する漁村集落で、上関大橋から約12㎞の距離にある。現在は6
        5世帯、103人が暮らしている。(歩行約1㎞)

        
         ドッキンとする看板「上関町に来ないで!」の排他的な文字が異様に目立つ。

        
         長島内の集落は3方が山に囲まれ、大きく開けた面が海に接している。ここ四代も県道
        を挟んで海側が漁港、山手が居住地になっている。

        
         亀の甲羅模様のように路地が繋がっている。

        
         高台に四代小学校跡がある。1912(大正元)年から1965(昭和40)年代までは、児童
        数が100人を超えていたが、その後は減少に転じ、1983(昭和58)年頃には15名ほ
        どまでに落ち込む。

        
         1874(明治7)年に第五大区四代小学として開校したが、2004(平成16)年3月に学
        校の歴史を閉じる。

        
         校舎は解体されて一部は墓地として使用されている。 

        
         学校は集落や海が一望できる位置にあった。

        
         通学路だったと思われる道。

        
         1960(昭和30)年代には830人近い人々が暮らしていた。

        
         過去の共同井戸は水道の普及で役目を終えている。

        
         集落は棚田のように石組みされた上に軒を連ねている。

        
          集落内の道幅はほとんど同じである。

        

        
         いろんな石が用いられている。

        
         集落の横に繋ぐ道。

        
         「金河」と彫られた共同井戸。

        
        
         ひと際目立つ建物は中電が使用。

        
        
         神社境内からも展望はよい。

        
         高台にある四代八幡宮は、原発立地関連で宮司が神社本庁から解任されたと新聞紙面を
        賑わしたことがある。

        
         メインロードにあるのは恵比寿さんだろうか。

        
         漁港から見る四代は、学校と漁船が少なくなった以外に変貌していないようだ。


上関は風待ち・潮待ち港だった地 (上関町)

2019年01月14日 | 山口県上関・平生・田布施町

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         上関(かみのせき)は室津(熊毛)半島の先端、西海上に
位置し、東北から南西に長い島は長
        島といい、東北部に上盛山がそびえ、島のほとんどが丘陵地である。
         島内には上関、戸津、白井田、四代、蒲井地域があるが、その中心は町役場のある上関
        である。1958(昭和33)年に室津村と合併して上関町となる。(歩行約4㎞)

           
         JR柳井駅前から防長バス上関行き約55分、上関大橋バス停で下車する。

           
         バス停から戻ると右に小高い丘がある。幕末、萩藩は外敵からの防衛のため、要所に砲
        台を築造したが、上関にも砲台が築かれる。
         1866(慶応2)年6月6日に第二次幕長戦争大島口の戦いが始まり、上関海峡に幕府軍
        の富士山丸が攻めてきて、室津白浦を砲撃したが、砲台場から攻撃した記録は残されてい
        ないという。

           
         わずかに残る石垣が砲台跡であったことを伝えている。

           
         住吉神社の勧請年代は不明とされる。御茶屋の鎮守として祀られ、年久しく御茶屋の谷
        間にあったが、1760(宝暦10)年に海岸が埋め立てられて遷座した。

            
         海の神様として海峡を行き交う船を見守り続けてきたが、1969(昭和44)年6月に上
        関大橋が架けられる。

           
           
         焼玉エンジンの構造などを聞かせていただく。

           
         西山鉄工所から眺める海曲がり。

           
         朝鮮通信使上陸の地とされ、朝鮮通信使上陸用のため、萩藩は日常的に使用する雁木の
        上に、木材で仮設の桟橋を設けた。その桟橋から御茶屋まで土を踏ませないように莚(むし
          ろ)
が敷かれたとのこと。
         1596(慶長元)年に文禄の役講和のため朝鮮使節一行が上関に寄港し、1761(宝暦1
          1)
年まで計11回の使節団が寄港する。

           
         鉄工所の先から高台へ向かうと、上関御茶屋正門跡の石垣が残されている。

           
         御茶屋は江戸初期、浦氏の館跡に萩藩の迎賓館として整備された。藩主はもとより参勤
        交代の諸大名、幕府の使者、朝鮮通信使なども宿泊したが、1870(明治3)年に解体され
        た。

           
         1632(寛永9)年に長島の四代に番所が置かれたが、老朽化と上関港の発展に伴い、1
        711(正徳元)年、朝鮮通信使のために建てた仮番所を公儀に願い出て、上関港近くに移転
        する。番所には三田尻の御船手組から番人として6人が勤務した。建物は1996(平成8)
        年、現在地に復元移築されたもので、江戸初期の数少ない行政機関の遺構である。

           
         番所の敷地内に朝鮮通信使来航記念詩碑がある。詩文には9回目の通信使が上関に寄港
        した際、朝鮮側の外交官・申維翰(しんゆはん)が、上関での歓待を喜んだ心情が詠まれてい
        る。

           
         番所は海の主要な港に設けられた関所で、通行人や船舶の取り締まりを行うとともに、
        運上銀(藩に納める税)の徴収事務も行うところであった。

           
           
         阿弥陀寺は朝鮮通信使来航時、対馬藩の僧が宿泊した寺である。

           
         新町廊雁木とされ、天保年間(1830-1844))には茶屋が3軒、遊女が54人いたとされる。

           
         1819(文政2)年に萩藩は撫育方の出先機関である上関越荷会所を設け、海運商人や問
        屋商人などに越荷資金を貸付けて利潤を得る。(現在は保健センター)

           
           
         藩の上関番所や御茶屋などの役人、初代上関村長も務めた安村家。安村家と大谷家(旧
        林家)が並んでいたが大谷家は解体されている。

           
         東川井戸

           
         もとは主要道だったが今は人影もない。

           
         袖壁のある粟屋家。

           
           
         上関を象徴する坂田家(旧小田村家)は、入母屋の屋根の妻部に斜めに張り出した珍しい
        袖壁と、前面の菱形虫籠窓が特徴の旧商家である。

               
            役場前に建っていた粟屋薬局は解体されて駐車場になっていた。
                                   (2008年撮影)

           
         1889(明治22)年の町村制施行により、長島、祝島、八島の3島が上関村となり、現
        在の役場地に村役場が設けられた。

           
         昭和の時代に見られた日除け用テントと百貨店という名称。

           
         今村百貨店前は海岸から小学校への通学路だった。

           
         門構えのある武内家。(山口銀行前)

           
         町道瀬戸殿後線に沿って家が連なる。

                    
                     菱形虫籠窓のある越後屋さん。
 
           
         室町時代に上関城を築いた村上水軍は、城の鎮守として菅原神社を祀った。廃城後に里
        人が参詣するには不便なため、1750(寛延3)年に移転したとされる。

           
         上関城を築いた村上義顕の末裔で、朝鮮通信使の水先案内役として、1764(明和元)
        に上関を訪れた萩藩御船手組頭・村上廣武が寄進した灯籠とされる。

           
         旧上関小学校脇に竈(かまど)八幡宮への参道がある。

           
         1873(明治6)年に上関第五小学として開校した上関小学校は、2006(平成18)年、
        室津小学校と統合して新小学校が完成したため解体作業中であった。

           
         旧上関小学校の敷地は、1870(明治3)年に廃仏毀釈で廃寺となった明関(みょうかん)
        があったところである。明関寺は朝鮮通信使来航の際、対馬藩主・宗氏の接待・宿泊所と
        して使用された。

           
         参道から上関海峡と町並み。

           
         中二階の造りが特徴の竈八幡宮本殿は、平安期の857(天安元)年に香椎宮の分霊を勧請
        して創建される。

           
         竈八幡宮から御汗観音堂へ通じる道に出る。

           
         人は死後に、六道を輪廻・転生するといわれ、衆生の苦しみを救う地蔵菩薩とされる。
        地獄道の檀陀(だんだ)、餓鬼道の宝珠 、畜生道の宝印、修羅道の持地(じじ)、人間道の除蓋
        障(じょがいしょう)、天道
の日光とされる六地蔵菩薩。

           
         大川井戸。

           
         港町は常として平地が少なく、2階建ての建物が目立つ。

           
         渡船場前バス停から11時15分の町営バスで白井田へ向かう。