ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊田町の地吉・今出には安徳天皇御陵墓参考地と石柱渓

2022年08月06日 | 山口県下関市

           
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年の町村制施行により、地吉村、今出村と西市町など8ヶ村をもって、
        豊田奥村が発足する。その後、西市村に改称して町制施行で西市町となるが、昭和の大合

        併で豊田町、現在は下関市豊田町である。
         地吉(じよし)は小月湾に注ぐ木屋川上流域で、南北に連なる山地との間に立地する。地名
        の由来は、深山であった当地を開いてみれば地味で案外「吉(よ)い」ので、「地吉」にな
        ったという。

        
         1939(昭和14)年山口県は地内南端の大河内地区との境界付近にダムを建設し、下関
        市一円の水道と工業用水を確保する計画を立てる。翌年に着工したが太平洋戦争で中断を
        余儀なくされ、1950(昭和25)年に再開されて1954年に完成する。これにより、地
        吉120世帯余が湖底に沈むことになる。(左手の山は堂ヶ岳)

               
         湖に浮かぶ小さな島が観音寺(天台宗)の裏山であったという。(豊田湖畔公園ボート桟橋
        より)

        
         1995(平成7)年にオープンした豊田湖畔公園入口にある庚申塚。湖底にあったものが
        移設されたのであろう。

        
         赤間関街道北道筋も湖底に沈んでしまったが、地吉本郷の茶屋ヶ原には光雲寺、御米蔵
        などがあったという。光雲寺は豊田湖造成のため廃絶し、楢原地区にある正念寺(真宗)に
        合併する。

        
         地吉集落の平野部は湖底に沈んだが、わずかな民家が王居止、向原などに現存する。安
        徳天皇西市御陵墓入口に地吉公民館があり駐車可。 

        
         1889(明治22)年赤間神宮阿弥陀寺陵が「擬陵」として治定されたので、安徳天皇西
        市御陵墓参考地とされる。

        
         1185(寿永4)年3月源平合戦最後の戦いであった壇ノ浦で平家は敗れ、8歳の安徳天
        皇は祖母の二位の尼(平清盛の室・時子)に抱かれて入水する。

         母の建礼門院(平徳子)も入水するが引き揚げられ、三種の神器のうち、神玉と神鏡を源
        氏方が手中にするが、神剣が見当たらず安徳天皇を探すことになる。

         長門国の網人を招集して大捜索の結果、大津郡三隅の沢江浦の網人に安徳天皇の遺骸が
        かかったが、神剣は見つからなかった。遺骸を密かに埋葬するため、網人が三隅まで陸路
        を帰る途中の丸尾山が適地とみて御陵墓(ごりょうぼ)を造らせたと伝える。

        
         この碑は、木戸孝允が安徳天皇御陵墓に詣でて、光雲寺で詠まれた五言絶句という最も
        短い詩である。
            渓流巻巨石 (渓流巨石を巻き)
            山岳半空横 (山岳半ば空に横たう)
            寿永陵辺路 (寿永陵辺の路)
            断腸杜宇聲 (断腸杜宇の声)

        
        
         地吉公会堂から県道を約450m歩くと、擁壁に階段と案内板があり、階段を上がって
        時計廻りに進むと「恵七の墓」がある。「肥後国五野村 俗名恵七」「文化9年(1812)1
        0月29日」と刻まれている。肥後国(現熊本県)五箇荘の平家の落人たちが、下関阿弥陀
        寺の御影堂に参拝のあと、足をのばして王居止御陵に毎年参拝していたのだが、その際に
        急死したのでこの地に葬られたという。

        
         本地吉(現湖底)方面から蓮華院参詣への入口、この地に六地蔵がある。今出の堂ヶ岳に
        蓮華院の観音堂があり、参詣する人たちの安全祈願のために建立されたという。 

        
         六地蔵前から見る堂ヶ岳。

        
        
         三豊小学校入口に旧三豊農協の事務所と倉庫がある。1925(大正14)年に設置された
        西市町信用購買販売組合三豊支部から、1948(昭和23)年に独立する。その後、豊田町
        の5農協が合併して三豊支所になったが、現在は支所も廃止されたようだ。

        
         1876(明治9)年今出村に三豊(みとよ)小学校と称して校舎を建築したが、校舎狭隘と
        なったため、1897(明治30)年校地を現湖底位置に移転する。
         その後、尋常小学校、尋常高等小学校、国民学校などに校名変更したが、1947(昭和
          22)
年三豊小学校となり、ダム建設に伴い現在地に移転する。

        
         校門の左側に家塾を開いた野上栄治翁の碑がある。早くから子弟の教育に熱心で、家塾
        を開くと多くの門弟が門をたたいた。
         1872(明治5)年学制発布された時、野上翁は私財を投じて学校を建て、塾生をここに
        移して「三豊小学校」と名付けた。

        
         同地には1947(昭和22)年開校三豊中学校があったが、1961(昭和36)年豊田東中
        学校に統合されたため、空き校舎の大部分に小学校が移転する。
         しかし、児童数減少により2008(平成20)年休校し、7年後に廃校となったが校舎は
        健在であった。

        
         今出(行政区は台と今出)は、小月湾に注ぐ木屋川の支流である白根川と今出川流域に広
        がる狭長な山間の段丘地に立地する。
         地名の由来は、往古に豊田二郎正清の家来、今出某という武士が住したからという。

        
         河内神社の創建年代は不詳とのことだが、祭神は天水分神(水の分配を司る神)とされる。
        一度は東八幡宮境内末社に合祀されたが、1955(昭和30)年に分離されて今日に至る。

        
         河内社から見る集落。

        
         西本喜代蔵は、1849(嘉永2)年今出村字台で生まれ、家業の農耕に従事する。地形的
        に交通は不便であり、里道の開築、台耕地整理のことが発企されたので、身を挺してこれ
        に当たり、私財を投じるなどして公共繁栄のために尽力したという。(1918(大正7)
        建立)

        
         石柱渓は台の白根川流域にあり、この地域は美祢層群で白亜紀末(7千年前)頃にマグマ
        が地下から貫入してできた地質である。その美祢層群とマグマとの境界を流れる川が、白
        根川の支流である「ドウドウ川」である。渓谷の地表は、ほぼ垂直な不正角柱状節理の花
        崗斑岩からなり、変化に富んだ景観と豊富な水流で構成されている。 

        
         高島北海画伯が、この渓流の所有者である山崎氏の後援により、1924(大正13)年石
        柱渓を広く世に紹介した。1976(昭和51)年画伯の顕彰碑(ケルン)が入口に建立された。

        
         48滝あるとされるが土砂崩れのためすべてを見ることができない。

        
         「お通(百姓)と万作(武士)との悲恋物語」があって、その民話を保存したいと「おしど
        り観音」の石像が、1968(昭和43)年に建立されたとか。

        
         台ヶ原サイホンと呼ばれる灌漑用水路は、1915(大正4)年~1917(同6)年於福村
        田代に貯水池を作り、地下に埋没した管で山から低地に降ろし、そこから渡樋(わたしどい)
        で白根川を横切り、再び伏樋(ふせどい)に入り、山を登り台地に水が分配される仕組みが用
        いられた。

        
         行政区の台から今出に移動すると、藤岡茂吉寿碑が建立されているが、人物の功績等は
        知り得ず。

        
         碑前から見る今出集落。 

        
         堂ヶ岳登山口と案内されているが、山名は古野山蓮華院の観音堂があったことによると
        いう。

        
         左より林道改修記念碑、猿田彦大神、小祠、文化12年(1815)と刻字された石仏、三界
        萬霊塔、丁塚が並ぶ。

        
         平安期の大同年間(806-810)に天台宗の僧が、蓮華院を開山し、唐より渡来の十一面観音
        を安置し、山伏蓮学院(天台宗派)が蓮華院を修行道場とする。その後、変遷があったよう
        だが、現在はここ(公会堂?)に安置されている。 

        
        
         この付近に集落が形成されている。


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