ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

行橋は水上交通と中津街道により発展した町

2023年08月20日 | 福岡県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         行橋(ゆくはし)は行橋平野の中央部、今川・長峡(ながら)川の下流域に位置し、東部は周防
        灘に面する。
         地名の由来は、1889(明治22)年町村制施行により、行事・大橋・宮市の3ヶ村が合
        併し、行事の「行」と大橋の「橋」を組み合わせて命名された。(歩行約4㎞)

        
         JR行橋駅は、1895(明治28)年九州鉄道の行事駅として開業するが、豊州鉄道が現
        在地に行橋駅を開業する。
         九州鉄道は延伸して行橋駅を共同駅とし、行事駅を廃止する。現在の駅舎は、1999
        (平成11)年駅高架事業により完成した高架駅である。 

        
         行橋駅が営業開始されると、この地に機関区、車掌区、客貨物区、保線支区などの業務
        機関が開設された。展示されている動輪は、「Cチョンチョン」の愛称で親しまれたC1
        1型蒸気機関車の2軸である。電化とディーゼル化の進展とともに、1973(昭和47)
        3月に九州から姿を消した。

        
         宮市町のこんにゃく直売所付近の通り。

        
         長峡川に架かる簸川(ひかわ)橋は、市内の行事と宮市を結ぶ重要な橋である。長峡川は周
        防灘から海産物を積んだ船が上り、上流からは農産物を運ぶ川舟が下る。その海上交通の
        集散地が、この橋の近くにあったという。 

        

        
         一瞬、西福寺と読んでしまったが、よく見ると西ではなく「酉」で酉福寺(ゆうふくじ)
        いう。
         浄土宗の寺院で、開基を天文年間(1532-55)あるいは慶長年間(1596-1615)とする説があ
        るようだ。明和年間(1764-72)に消失して安永年中(1772-81)に再建されたという。創建以
        来現在地にあるそうで、山門は朱色の欄干があしらわれた竜宮城を思わせる竜宮門である。

        
         甘露殿と名付けられた本堂は二層式で、正面に向拝がなく左右に入口がある。右寄りが
        男門、左が女門のようである。

        
         貴布祢神社の縁起によると、文禄2年(1593)古賀九郎兵衛が入江の葦原に葦を刈り取り
        に行ったところ、1本の御幣が流れ着いていた。白洲の上に立て置いたが、その夜、夢見
        に「長門国の貴布祢神なり、早く小祠を建てて吾を祀れ、そうすればこの地は栄えるであ
        ろう」との神託があり、社を創建して祀ったという。その後、人家が栄え、新田が開けて
        年々繁盛し、村の鎮守社になったという。

        
         行事の町並みは中津街道と行事川(長峡川)左岸、田川郡に至る東西道に沿って形成され
        ている。

        
         飴屋は玉江家の3代目宗利が、1709(宝永6)年に飴の販売を始めて以来、綿や酒、蝋、
        船を所有して大坂方面まで事業を拡大した豪商である。
         1841(天保12)年築とされる屋敷門は、総欅造りの薬医門形式である。小倉藩主が領
        内視察の際に宿泊所としたため御成門とも呼ばれた。

        

         中津街道に合わす所にある建物は、1階の屋根構造と煉瓦塀からみて、街道筋に出入口
        があったものと思われる。

        
        江戸期の飴屋屋敷と中津街道の見取図。

        
         萬年橋を渡り街道に沿うと恵比須神社。注連石の先に平家建ての本殿がある。

        
         この先、街道は突き当りを左折するが、右折して行橋赤レンガ館に立ち寄る。

        
         行橋赤レンガ館は大阪に本店を置く百三十銀行の行橋支店として、日本銀行本店などを
        設計した辰野金吾の監修によって、1914(大正3)年に建てられた。
         建物は19世紀から20世紀初期、ヨーロッパで流行したセセッション風のデザインで
        飾られている。

        
         吹き抜けの内部には、カウンターや応接室の間仕切りなどが残り、南側に金庫室があっ
        て、上部の窓を開閉する回廊が設けてある。

        
         行橋市内を流れる今川を背景に、市の木「モクセイ」と市の花「コスモス」がデザインされ
        たマンホール蓋。

        
         中津街道まで戻って街道(ゆくはし商店街)を歩く。

        
         旧縁寺(真宗大谷派)は、馬ヶ岳城主の長野正直が出家して開創したという。本堂は鉄筋
        コンクリート製で、3階部分は瓦葺きの造り。

        
        
         街道沿いにある旧商家。

        
         禅興寺はもと善光寺と称した浄土宗寺院であったが、1658(万治元)年曹洞宗に改宗す
        る。

        
         浄蓮寺(真宗本願寺派)は、1603(慶長8)年細川忠興により建立されたと伝える。もと
        真宗大谷派で正保年間(1644-1648)に改派したという。

        
         江戸期には、今の中央公民館から大橋公園にかけて、大橋御茶屋があったとされる。創
        建時期は定かではないそうだが、1630(寛永7)年の史料にあることが記されている。
         時代は下って、1870(明治3)年豊津藩が大橋御茶屋跡に大橋洋学校を開設する。(正
        面が大橋公園)

        
        
         大橋村の地名由来にまつわる「大橋太郎伝説」というのがある。鎌倉期に豊後の武将大
        橋太郎が、下正路の漁師の家に滞在し、ついには定住したことをきっかけにして村が大き
        くなった(豊後から大橋太郎を慕って人が集まってきたことなどから)。それで、大橋太郎
        の苗字から、村の名も大橋となったというものである。史実ではないが伝説が存在するこ
        とに意義がある。
         大橋公園(大橋神社境内)にある大橋太郎碑は、1925(大正14)年に建てられたもので
        ある。

        
         中山悦治(1883-1951)は行橋市で生まれ、父の事業失敗後に中学校を中途退学し、炭鉱、
        行商など様々な職を転々とする。
         1919(大正8)年尼崎において亜鉛鉱金製造工場を開設し、後に中山製鋼所となる。
        (中山記念公園に碑)

        
         中津街道筋を間違えて1つ手前の通りを歩いてしまう。通りにある普門寺は、1718
        (享保3)年創建とし、1878(明治11)年日蓮宗身延派に改宗する。歴史を感じる古めかし
        い山門が印象的である。

                
         中津街道の案内板より抜粋した絵図だが、道は大橋で大きく屈曲しているが、御茶屋が
        関係したようで、近道をする旅人も少なくなかったようだ。

        
         一の鳥居前が旧中津街道。

        
         250mほどあろうか長い参道である。

        
         行橋には2つの正八幡神社があるようだが、今川に近い正(しょう)八幡神社を訪れる。太
        鼓橋を渡るが、橋が反っているのは地上と神の国の掛け橋として虹にたとえたためという。 

        
         夏越の大祓で6月の晦日に茅(ち)の輪をくぐる神事が行われたようだ。正面からまずはお
        辞儀して最初に左足で茅の輪を跨ぎ左回り1回、次もお辞儀して右足で右回り1回、次も
        同じように左回り1回と8の字を描くようにくぐる。最後は正面でお辞儀して左足で跨ぎ
        参拝する。
         半年間に溜まった罪や穢れを落とし、残りの半年間を無事に過ごせることを願った神事
        である。

        
         創建については、平安期の859(貞観元)年行教が宇佐八幡宮の祭神を石清水八幡宮へ勧
        請する途次、神輿が駐在した地に勧請したという説がある。
         神社の由緒では、860(貞観2)年国司の一人であった文屋真人益善が、宇佐八幡宮の託
        宣により創建したとする。参拝を済ませて駅に戻る。


北九州市の八幡は日本を支えた産業遺産がある町

2023年08月04日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         八幡(やはた)は福岡県の北東部、北九州市の中央に位置する。洞海湾の南にあって、北部
        の洞海湾沿いは工業地域、中央部は住宅地で南は丘陵地である。
         1889(明治22)年町村制の施行により、枝光村、尾倉村、大歳村が合併するが、3村
        の鎮守がそれぞれ枝光八幡宮、豊山八幡神社、乳山八幡神社であったため、八幡村になっ
        たという。(歩行約5.9㎞) 

        
         1902(明治35)年九州鉄道の駅として開業した八幡駅は、現駅舎より東300mに設
        置された。1944-45年の空襲で既存市街地の60%以上を焼失したため、戦後の戦
        災復興都市計画により、現在地に移転して鉄筋コンクリート造の駅舎となる。
         2008(平成20)年に地上5階建ての駅ビルに生まれ変わる。

        
         「国際通り」と銘打った幅員50mには、歩道にケヤキ、道路の分離帯にはフェニック
        スが植栽され、その先に皿倉山が聳える。

        
         通りに面するひびき信用金庫は、1971(昭和46)年村野藤吾の設計により建てられた。
        上から見ると屏風のような形をしているとのことだが、重厚な茶色を基調とした建物であ
        る。

        
         皿倉山が聳え立つ。

        
         この一帯は丘陵地で、小伊藤山(こいとうやま)と呼ばれて戦時中は防空壕が築造された。
        1945(昭和20)年8月8日午前10時頃から米空軍による焼夷弾攻撃で一帯は焼野原と
        なる。この防空壕に避難した人々は、火煙に包まれて約300人が窒息死するという惨事
        が起こる。戦災復興事業により、この地を公園とし、戦災死者を追悼するため、1952
          (昭和27)
年慰霊碑が建立された。

        
         福岡県初のラウンドアバウト(環状交差点)の中央に復興平和祈念像が立つ。「東洋の工
        場としての八幡の復興」と「世界の平和」を祈念して、1953(昭和28)年に設置された
        モニュメントである。

        
         北九州市立八幡病院の地には、かって八幡図書館があったと案内されている。1955
        (昭和30)年村野藤吾設計による鉄筋コンクリート造りの図書館が建築される。鉱滓煉瓦と
        赤黄色味を帯びた特殊煉瓦を組み合わせているのが特徴であったが、2016(平成28)
        閉館し解体される。
         村野藤吾(1891-1984)は佐賀県唐津に生まれ、10歳頃に八幡に移り住み、小倉工業高校
        機械科を卒業して八幡製鉄所に勤務する。のち早稲田大学建築科を卒業し、主に民間の建物
        を設計した。

        
         現図書館がある地に尾倉小学校があったが、平原、尾倉、天神の各小学校が統合されて
        皿倉小学校が誕生する。新小学校は平原小学校跡地とされたため、この地から姿を消す。
         この付近で小倉藩と福岡藩に分かれていたため、もめ事が起こらないよう国境(くにざか
          い)
を示す国境石が数多く建てられた。ここには他から移設された国境石があったというが、
        図書館取壊しの際に他へ移転して現存しないという。

        
         光隆寺(真宗)は近在の山手にあったようだが、昭和の初期頃に現在地に移転してきたと
        いう。龍宮門は鉄筋コンクリート造で本堂および庫裏も同様な造りである。

        
         小伊藤山公園から旧百三十銀行に至る通りは旧長崎街道とされる。

        
         格子模様に北九州市の花である向日葵がデザインされたマンホール蓋。

        
         旧百三十銀行八幡支店は、辰野金吾が主宰した辰野・片岡設計事務所の設計で、191
        5(大正4)年に建てられた。イギリス風の赤煉瓦に古典主義建築の流れを受け、当時として
        は珍しかった鉄筋コンクリート造で、タイル貼りで仕上げられ、白と赤のコントラストが
        鮮やかである。

        
         1923(大正12)年銀行合併で安田銀行八幡支店となり、1951(昭和26)年頃の戦災
        復興事業で国道3号線が拡幅されたため、現在地まで80mほど曳家移転された。
         長い間、北九州市水道局の資材倉庫などに使用されてきたが、現在は復元修理を経てギ
        ャラリーとして活用されている。

        
         玄関や柱頭、窓周りに幾何学模様を配し、その部分はモルタルを「洗い出し」で仕上げ、
        石造風に見せている。

        
         内部は「八幡空襲の記録と継承」(8/5~8/13 )の写真展の準備中であったが、快く内部
        を見学させていただく。展示を中断して内部を紹介していただくが、大きな柱は当時から
        あったもので、柱を中心にカウンターがぐるりと設置され、天窓用の開閉用回廊はなかっ
        たという。
        
        
         この池は、その昔、豊山八幡神社の飲料水として使用されていたという。伝承では太宰
        府に赴く途中の菅原道真が、この池の水に写ったわが身を見て
              「海ならずたたへる水の底までも
                        清き心は月ぞ照らさん」
        と、無念の心情を詠んだといわれている。それからこの池を「影見の池」または「姿見の
        池」と呼ぶようになったという。(説明板より) 

        
         参道の石段には4本の石鳥居が並ぶ。 

        
         「創建西暦623年、1400年祭」と記すカラフルな幟。

        
         豊山八幡神社の由緒によると、日本史上最初の女帝・推古天皇の時代(593-628)に新羅国
        が侵入し、大和朝廷の軍が洞の海で軍団を整えていたとき、「宇佐から八幡大神をこの地
        に迎えれば、新羅国は朝廷に従うであろう」という神託があったという。戦を終えて帰朝
        後、今の西本町に八幡大神を勧請したのが始まりとされ、光孝天皇の時代(884-887)に現在
        地に遷座したという。

        
         豊山公園から千草ホテル前の県道50号線を横断する。

        
         尾倉1丁目の直線道を皿倉山方向へ向かう。

        
        
         1891(明治24)年に開通した九州鉄道大蔵線の尾倉橋梁は、煉瓦の小口と長手を交互
        
に積んだイギリス式とし、アーチは煉瓦の小口を5段積みした弧型アーチで、アーチの迫
        台(せりだい)は煉瓦積みの上に花崗岩をのせた構造である。
         九州鉄道は門司∼黒崎間の敷設にあたって海岸沿いを計画したが、陸軍省の強い反対にあ
        い、内陸部に敷設された。その後、1902(明治35)年に戸畑線(現鹿児島本線)が開通し、
        1907(明治40)年には九州鉄道が国有化されて支線となった大蔵線は、1911(明治4
          4)
年廃止された。(上段が八幡駅側、下段が皿倉山側)

        
        
         九州鉄道線路跡を歩くが、大蔵線は小倉からは小倉北区清水、八幡東区茶屋町を通り、
        平原小学校(現皿倉小学校)、前田小学校の北側を通過して黒崎に至っていた。

        
         春の町の信号で国道3号線を横断し、ベスト電器前より北九州都市高速道路5号線下を
        歩く。

        
         右手に東田第一高炉が見えてくる。

        
        
         LD転炉と呼ばれる純酸素式転炉による製鋼法で、1949(昭和24)年オーストリアで
        試験操業に成功し、1957(昭和32)年八幡製鉄所に導入された。

        
         臨時閉鎖中だったので外周歩きとなる。

        
         スペースワールド駅から5分の所にある東田第一高炉は、天空に屹立しており、近代製
        鉄発祥の地として「1901」のプレートが掲げられている。
         響灘から奥まった洞海湾に面した八幡は、防衛上や筑豊炭田の石炭の活用、水が近くに
        あることや船による材料や製品の輸送などの立地条件を要していた。
         ドイツから技術者を招き、4年の歳月を経て、1901(明治34)年わが国初の本格的製
        鉄所として操業を開始する。

        
         10回の改修工事によって、1962(昭和37)年日本初の超高圧炉となるが、1972
        (昭和47)年その役目を終える。産業遺産として保存され、鉄鋼生産の過程がわかるよう展
        示されている。
         高炉は、鉄鉱石を溶かして銑鉄を生産施設で、高さは30mもある。隣の白い構築物は
        煙突と3基の熱風炉。

        
         スペースワールド駅前から高速5号線下の道に沿う。

        
         官営八幡製鉄所旧本事務所は製鉄所構内に立地しているため、2015(平成27)年外観
        を眺望できるスペースとして整備された。

        
         2015(平成27)年旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場、及び遠賀川水源地ポンプ室が
        「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録される。この地には本事務所のほか、
        修理工場(稼働中)と旧鍛冶工場(現資料室)が現存するとのことだが、本事務所の裏手にあ
        って見ることができないという。

        
         1899(明治32)年建設された旧本事務所は、左右対称形の赤煉瓦造の建物である。製
        鉄所の技術者による設計で、煉瓦積みはイギリス式だが屋根は和式の瓦葺きである。19
        22(大正11)年まで本事務所として使用された後、鉄鋼の研究所として使用されたという。

        
         1990(平成2)年スペースワールドが開園し、枝光駅が最寄り駅とされたが、再開発計
        画の一環として線路がスペースワールドの西側に移設される。1999(平成11)年に高架
        化されると同時に駅が開業する。駅名は公募により決定したが、2018(平成30)年スペ
        ースワールドは閉園となったが、駅名は変更されずにそのまま使用されている。


築上町の椎田は中津街道椎田宿があった地 

2023年05月10日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         椎田は岩丸川・真如寺川流域の平野部に位置し、北は周防灘に面する。この地は小倉城
        下から中津城下までの中津街道が整備され、宿駅として栄えた歴史がある。
(歩行約3.6
        ㎞、🚻なし)

        
         JR椎田駅は、1897(明治30)年豊州鉄道(現日豊線)行橋~柳ヶ浦間が開通したと同
        時に設置される。 

        
         築上町役場前を右折するが、旧椎田町は1889(明治22)年の町村制施行により椎田・
        湊・高塚・臼田・山本の5ヶ村が合併して椎田村が発足する。町制移行後、
昭和の合併で
        椎田町は、他の3ヶ村と合併して改めて椎田町になる。
         2006(平成18)年の大合併で築城町と合併して「築上町」となるが、町名は築上郡に
        由来するという。

        
         中津街道は中津城下から椎田宿を過ごし、岩丸川を渡って大橋宿(行橋)に至るが、西ノ
        橋から椎田宿に向って歩く。

        
         先を期待して街道を東進する。

        
         足を止めるようなものは存在しない。

        
         新町橋を渡ると旧椎田宿のようだ。

        
         平入りの家屋が並ぶが、宿場町だった面影はみられない。

        
         右手にJR椎田駅を過ごす。 

        
         平入りの大きな家が並ぶ。

        
         築上町立歴史民俗資料館前に「椎田郡屋」の説明板が設置されているが、江戸期には築
        城郡の役所(郡屋)は、当時栄えていた椎田宿の中心地に置かれた。
         1836(天保7)年築城郡筋奉行の延塚卯右衛門は、飢饉で困窮した農民の根付料(種籾
        や田植えの貸付金)の返済を独断で免除して農民を救済したが、その責任を取ってここで切
        腹したという。

        
         中津街道は小倉から中津まで約52㎞の道程で、細川・小笠原氏によって整備され、1
        876(明治9)年から1933(昭和8)年までは国道の一部として利用された。

        
        
         街道筋は国道によって分断されている。

        
         西山浄土宗の西福寺(さいふくじ)は、江戸期に小倉藩の切支丹禁制の宗門改め「踏み絵」
        が、築上郡ではここで年1回行われており、別名「判行寺」と称された。

        
         門前の里程標は、中津街道沿いの「中津屋」前にあったが、国道の整備に伴い移設され
        た。山鹿(犀川)まで3里31丁(15.2km)、苅田まで4里半(17.7km)、豊前松江まで
        1里8丁(4.8km)とあり。

        
         中央に町章のある築上町のマンホール蓋。

        
         真如寺川に架かる椎田橋までが椎田宿のようで、この先は旧湊村に入る。

         
         1864(元治元)年の記録によると椎田郡屋は、後に湊郡屋(椎田小学校付近)に移転した
        という。

        
         街道は真如寺川河口へ向かう。

        
         国道を横断して看板建築の建物を過ごす。

        
         その先に「厨子二階」の民家が見られる。

        
         この石垣は何に使われたのだろうか。

        
         この付近は椎田村に合併する前の湊村。

        
        
         1810(文化7)年1月20日伊能忠敬(1745-1818)も椎田を訪れ、測量隊と共に湊の村
                屋又左衛門宅に宿泊したという。
         その後、東九州を南下し宮崎、鹿児島を経て熊本から再び大分に入り、1811年1月
        12日に椎田村の大庄屋椎田常四郎宅に宿泊している。

        
         中津街道が整備されると、江戸期の湊村は陸上と海上交通の要衝として栄え、4軒の造
        酒屋と2軒の廻船問屋があったという。

        
         街道の突き当りに残るトタン屋根の民家。 

        
         すぐ北側は周防灘。

        
         湊村には藩の御蔵所が置かれて、廻船問屋、酒、醤油造屋等があったというが痕跡は残
        されていない。

        
         田園地帯は麦秋一色。

        
         金富(きんとみ)八幡宮が創建された当時は、単に「矢幡(やはた)」と呼ばれていた。神仏習
                合の時代になると湊八幡、絹富八幡と変遷し、明治に入って現社号となる。

        
         神社正面に神池があり、厳島神社と稲荷神社が鎮座する。

         
         庚申や猿田彦大神の石碑を見て駅に戻る。


北九州市門司に赤煉瓦建物と大里宿址 

2023年03月30日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         大里(だいり)は企救(きく)半島の中部、戸ノ上山の西麓に位置し、西は関門海峡に臨む。
         1891(明治24)年九州鉄道門司(現門司港)
~黒崎間の開通により、海岸地区は内陸部
        と遮断され、
その間の小森江~新町間の広大な田畑の地域を鉄道院総裁の後藤新平が買収
        する。
         1903(明治36)年神戸の合名会社鈴木商店が買収地に大里製糖所(現関門製糖)を設置
        する。その後、大里製粉所(現ニップン)、帝国麦酒(もとサッポロビール工場)、大里酒精
        製造所(現ニッカウイスキー工場)などが設立された。(歩行約5.8㎞)

        
         JR門司駅は九州鉄道の大里駅として開業したが、1942(昭和17)年関門トンネルの
        取付口に駅があったため、約400m小倉側に移設されて駅名を門司駅とする。2004(平
          成16)
年には跨線橋と駅舎を一体化した橋上駅舎が完成する。

        
         駅北側から関門海峡に向うと右手に赤煉瓦の建物が見えてくる。
         大里の地名由来について、平安時代に安徳天皇を伴った平家一行が「柳の御所」を設け
        たことにより「内裏(だいり)」と呼ばれるようになる。
         享保年間(1716-1736)頃異国族船を平定するよう命を受けた藩主は、内裏の海で血を流す
        のは畏れ多いとして「大里」に書き改めたといわれている。

        
         1913(大正2)年4月帝国麦酒㈱の工場が完成して醸造を開始され、第一次大戦後の不
        況と関東大震災の影響を受けたが存続した。その後は合併・分割を繰り返し、社名も桜・
        大日本・日本・サッポロと変更し、2000(平成12)年日田工場へ移転するま
で九州工場
        として稼働した。        
         事務所棟と違って赤煉瓦を使用した建物は見応えがあるが、内部は年2回の公開日のみ
        見学ができる。

        
         1913(大正2)年に完成した煉瓦造倉庫で、ここから見ると切妻部分は続き棟のようだ
        が独立した構造である。

        
         1799(寛政11)年幕府(長崎奉行所)は、大里浦出張所(長崎番所)をこの地に設置する。
        当時、玄界灘に出没する密貿易船の取り締まりと、対唐貿易の代物を長崎に送るため、保
        管・中継基地の役割を担う。

        
         醸造棟傍の事務所棟は、1913(大正2)年築の鉱滓煉瓦造2階建てで、ドイツ・ゴシッ
        ク様式に近いデザインが特徴となっている。正面中央玄関部を突出させ塔状に2階高まで
        立ち上げ、1階・2階ともに左右対称の意匠として中心性を強調している。

        
         江戸期には大里宿から手向山辺りまでの街道筋に松並木が続いていたとされる。旧サッ
        ポロビール事務所棟前に樹齢350年以上といわれる街道松が残る。

        
         門司往還道の大里宿は5町52間(約646m)の町並みで、本陣、脇本陣などが建ち並
        び宿場町として繁栄した。幕末の幕長戦争で焼失して現存するものはないが、このように
        跡地には石碑が建てられている。

        
         1887(明治20)年5ヶ村が合併して柳ヶ浦村が発足し、町村制施行時にはそのまま移
        行して村名を継承する。1908(明治41)年町制を施行して大里町となり、駅も大里駅と
        なる。
         隣の文字ヶ関村は鉄道敷設や内外の中継貿易港と発展し、門司町から門司市へと移行す
        る。1923(大正12)年大里町は門司市に編入されて町制を閉じる。

        
         問屋場ともいい、輸送を担当する宿場の主要施設で、人足や馬が常備されており、旅人
        のために必要な人馬の手配や飛脚が運ぶ荷物なども取り扱っていた。

        
         1902(明治35)年明治天皇が熊本での陸軍大演習統監のため、柳ヶ浦に上陸された記
        念として、天皇が馬車に乗られた付近に松を植え「明治天皇記念之松」の石碑を建てられ
        た。のちに松は枯れ、石碑も元の場所から離れた突堤に移されて現在に至っている。

        
         海岸線から眺める門司港近くの風師山と矢筈山。

        
         この地には幕府及び藩の通達を掲示した高札場が設けられ、隣接する南部屋で藩役人が
        各村庄屋への通達と打ち合わせを行ったという。

        
         脇本陣の重松彦之丞宅は、柳河藩、薩摩藩、幕府及び公卿の御用商人などが利用し、1
        810(文化7)年には日本全国を測量した伊能忠敬一行が止宿している。向い側には肥前屋
        (脇
本陣)があったという。

        

        
         佛願寺(真宗)は慶長年間(1596-1615)現在地に創建されたとされ、幕末期の幕長戦争(小
        倉と長州の戦い)で本堂等を焼失したが明治期に再建された。

        
         地元の方が史跡ウオーキング中。 

        
         この道路の右側に浜郡屋、左側に御在番役宅、突き当りに御番所があった。浜郡屋では
        湊出入者及び船泊の検問、取り締まり等を役人や在屋などが協議した場所とされる。

        
         ここに大里宿湊口の御番所(関所)があった。湊を出入りする船舶・人馬の切手改め、抜
        荷の取締りを行った。また、参勤大名の渡海の拠点でもあった。

        
         鳥居左手一帯に小倉藩の施設である本陣(御茶屋)があったとされ、九州の諸大名、長崎・
        日田代官、オランダ使節等が江戸への往復の途中に休泊した。

        
         八坂神社は大里村の守護神であり、近代になって町の開発が進んだ際に住吉神社が合祀
        された。

        
         境内には大里村各所にあった道祖神が集められているが、都市開発で無用の長物となっ
        たようだ。3本あった桜の木のうち、1本は倒れてしまったそうだが、地区民の花見場所
        のようでテーブルなどがセットされていた。

        
         北九州市の市花である向日葵がデザインされたマンホール蓋。

        
         門司往還筋には町家らしきものは存在しない。1866(慶応2)年7月3日の幕長戦争大
        里の戦いによる戦禍や、先の大戦による空襲が影響しているのであろう。

        
         鈴木商店大里製糖所が製糖原料としてジャワ糖の輸入を進め、保税原糖の取扱いを行う
        ため「大里倉庫」が設立され、1920(大正9)年その倉庫として建設された。大里倉庫の
        その後の経緯は分からないが、現在は地元企業に活用されている。

        
         石原宗祐(そうゆう)は28歳という若さで大里村の庄屋となり、1757(宝暦7)年48歳
        の時に庄屋職を辞したが、その間、村民は相次ぐ飢饉にあえいでいたため、自力で大里村
        六本松の荒地を開墾する。その後、弟と猿喰(さるはみ)新田の開作工事に私財を投げ打って
        着手する。
         工事は困難をきわめたが「後世の為になる一大事業なり。これを成し遂げずんば一歩も
        退かず。」と諦めることなく、約2年後に約33.3町(33ha)の新田を得ることができた。
        その後、藩から曽根の開作を命じられて、8年の歳月をかけて完成させる。

        
         大専寺(真宗) は禅宗で柳村風呂(現門司区不老)にあったが、慶長年間(1596-1615)この
        地へ移転し真宗道場となる。この寺も幕長戦争大里の戦いで焼失したため、1878(明治
          11)
年に再建された。

        
        
         西生寺(さいしょうじ)は、室町期の1456(康正2)年に創建された浄土宗の寺院。167
        0(寛文10)年代まで大里宿の現八坂神社の前にあったが、本陣が置かれることになりこの
        地に移転してきた。
         江戸時代には宗門改めの政策により、判行寺(はんぎょうじ)として絵踏みが行われた。こ
        こも幕長戦争大里の戦いで焼失し、1883(明治16)年に再建された。

        
        
         石原通り踏切から関門製糖㈱(旧鈴木商店大里製糖所)の一部を見て、国道を小倉方面へ
        歩く。

        
         国道3号線と鹿児島本線の間の路地に佇む銭湯「やなぎ湯」さん。

        
         路地に入ると通りとは違った大里の町が見られる。

        
         
平安期の1183(寿永2)年木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に
        逃れ、太宰府に落ちていった。

         しかし、ここでも地元豪族の不穏な動きを察して、遠賀郡山鹿の城を経て、豊前国柳ヶ
        浦にたどり着いた。
この柳ヶ浦が現在の大里のことで、古い記録に「内裏」と書かれてい
        るのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。

         現在、戸上神社のお旅所となっているこの地が、仮御所の跡であろうと伝えられて「柳
        の御所」と呼ばれている。(解説板より)

        
         
同年9月の13夜に歌宴が開かれ、栄華を極めた都の生活を偲んで武将たちが詠じた歌
        である。ここでは5名の歌が紹介されている。  

         説明板には
          都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立寄りてみよ
                              平忠度(だだのり)(平清盛の異母弟)
         石碑には
          分けてきし 野辺の露とも 消へずして 思はぬ里の 月をみるかな 
                              平経正(経盛の長男・平清盛の甥)
          君住まば ここも雲井の 月なるを なほ恋しきは 都なりけり 
                              平時忠(清盛の継室・平時子の同母弟)
         看板には
          打解けて 寝られざりけり 楫枕 今宵の月の 行方清むまで
                              平宗盛(平清盛の3男・母は時子)
          恋しとよ 去年の今宵の 終夜 月みる友の 思ひ出られて
                              平経盛(清盛の異母弟)

        

         この社殿は、1902(明治35)年明治天皇が熊本に行幸された際、当時の大里駅構内に
                新設された休憩所の建物を柳の御所拝殿として移築造営されたものである。このため拝殿
        正面屋根に「菊の紋章」があり、内部左側には「玉座の間」があるとされる。

        
         この石室には、文化2年(1805)9月建立の銘があり、木舟社をキリメン様と呼び親しん
        でいた村人たちが、神様を保護するため石室を建立したものとされる。

        
         戸ノ上通りにある杉の湯(廃業?)と背後に戸ノ上山。

        
         戸上神社参道の上を北九州都市高速道路が走り、県道71号線が関門海峡に向って真っ
        直ぐに延びる。

        
        
         戸上(とのえ)神社は戸ノ上山の山頂に上宮、麓に本宮があり同一祭神を祀っている。平安
        期の寛平年間(889-898)柳ヶ浦の漁夫が海中から玉を引き揚げたが、その後、神が夢に出て
        きて「鶏の声がしないところに祀るように」とお告げがあり、枝折戸(しおりど)に載せて山
        頂に祀ったのが起こりとされる。山を戸ノ上山、神社を戸上神社と呼ぶようになったとい
                う。

        
         参道の右側にある満隆寺(まんりゅうじ)は、平安期の806(大同元)年弘法大師が唐から帰
        朝の折、戸ノ上山を礼賛して下船して霊峰に登り密法を修め、山麓に一宇を建立し、観音
        像を安置したのが起源とされる。
         昔は6坊を抱えた大寺であったが、大友宗麟の配下によって堂宇・僧坊がことごとく焼
        失する。今の境内には満隆寺の遺構とされる大師堂と日切地蔵堂が並ぶ。

        
         戸ノ上1丁目交差点を左折して不老通りを目指すと、その手前の右手に「風呂の井戸」
        の石碑がある。

        
         この地に夏でも涸れず名水といわれた鏡ヶ池があった。源氏に追われた平家一行が、芦
        屋から海路この柳ヶ浦に着いた時、安徳天皇をはじめ一行が旅の疲れを癒すため、この池
        の水を風呂の水として使われたことから、この池のまわりを整えて「風呂の井戸」といわ
        れるようになる。付近は「風呂」という地名で呼ばれるようになるが、大正末期頃に「不
        老」に改名される。

        
         平家が一ノ谷で敗れ壇の浦の戦いで藻屑と消えたのが、1185(文治元)年3月であった。
        平家一門の霊を祀った風呂禅院西光山大専寺があったが、慶長年間(1596-1615)に改宗して
        街道筋に移され、地蔵堂だけが風呂の一角に残された。 

        
         不老通りの1つ手前の道を歩いて駅に戻る。 


直方市に石炭記念館と城下町

2023年03月22日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         直方は遠賀川中流の左岸に位置し、もとは東蓮寺と称していたが江戸前期に直方と改め
        る。
         地名由来について、新入村のうちの小村名に拠ったと伝えられるが、他にも易断による
        方角に基づいて近隣の直方村の名を採り、その直方村は中泉村と改称させられたとか。(歩
        行約3.6㎞) 

        
         JR筑豊本線直方駅は、かって石炭の集荷・輸送の中核を担った駅である。

        
         駅前には当市出身の元大相撲力士で、大関となった魁皇関の銅像が設置されている。 

        
         圓徳寺(真宗)は、1624(寛永元)年黒田高政が東蓮寺藩を立藩し、城下町建設の折に鞍
        手郡植木町より移転して、城下町北の出入口「植木口」を守る要として建てられた。
         現在の本堂は、1908(明治41)年貝島炭鉱の創始者貝島太助らが発起して建立された
        が、幼い頃に境内で遊び、父母を供養し、貧困時代から励ましてくれた寺への感謝の表れ
        といい、本堂には貝島家の仏間が移設されている。
         なお、山門は直方藩主の居館門を移築したものという伝承がある。

        
         直方は飯塚、田川と並んで筑豊3都市の1つで、旧長崎街道沿いに連なる歴史的な商店
        街だけあって、意外と長いアーケードが続く。どの地方の商店街もそうであるように、古
        町商店街もシャッター街となっている。

        
        
         この辺りが古町南端で「西構口」があったと案内されている。陣屋城下町として整備さ
        れたが、東蓮寺藩5代藩主・長好が福岡藩本藩の継子となったため、1720(享保5)年4
        代藩主長清の逝去をもって廃藩となる。
         廃藩後、藩士はすべて福岡に転出したため、町の衰退を懸念した直方の町人は、藩に願
        い出て遠賀川の西岸を通行していた長崎街道を誘致して在郷町として発展する。

        
        
         旧十七銀行直方支店(現直方市美術館別館で通称アートスペース谷尾)は、1913(大正
          2)
年に建てられた2階建ての木造建築である。マンサード式の屋根(腰折屋根)を持ち、赤
        茶色のタイルと白い石の組み合わせが町に映える。

        
        
         多賀町公園は、炭鉱王・貝島太助の旧宅跡で、木造3階建ての豪華な建物であったとい
        う。園内には貝島太助の銅像(長崎平和記念像の作者・北村西望作)が建ち、貝島邸に宿泊
        した森鴎外の文学碑、郷土の俳画家・阿部王樹の句碑「炭鉱王がいさおしとはに陽炎す」
        がある。

        
         直方市の木とされるタイサンボクの花と、周囲はよくわからないが特徴的な模様が描か
        れているマンホール蓋。

        
         殿町商店街を抜ける。

        
         1922(大正11)年建てられた旧讃井病院(現向野堅一記念館)は、木造2階建て桟瓦(さ
          んがわら)
葺きモルタル造りである。北東の隅に3階建ての塔屋を配したセセッション風で、
        モダンなデザインの玄関上部はバルコニーとなっている。
                
病院は内科・胃腸科・歯科(後に小児科)を備えていたようだが、のちに郷土出身の実業
        家であった向野記念館となる。

        
               
         石原商店(上)と前田園本店(下)は、1926(大正15)年に相次いで建てられた町家であ
        る。いずれも主屋の2階部分に銅板の装飾をふんだんに用いた平入りの建物である。

        
         1901(明治34)年に建てられた木造板張り2階建ての江浦医院。洋風の外壁とは対照
        的に玄関前には切妻風の屋根が張り出すなど和洋折衷の建築様式である。

             
        
         1813(大正2)年旧奥野医院は皮膚科として開業するが、当初の建物は火災で焼失した
        ため昭和初期に再建されたが、1990(平成2)年に閉院となる。木造2階建ての洋館は、
        装飾帯を配した大きな庇を持つ玄関や、縦線を強調し連続的に配置した1・2階の窓が印
        象的である。
         1992(平成4)年に故谷尾欽也氏が美術館として公開したが、のちに美術館と作品が市
        に寄贈されて「直方谷尾美術館」となる。 

        
         1915(大正4)年に建てられた旧篠原邸(直方谷尾美術館収蔵庫)は、平入りの2階部分
        は軒裏まで漆喰で塗り込め、くり型を付した窓を3ヶ所設けている。以前は米屋だったと
        いう。

        
         須賀神社の社叢が見えてくる。

        
         主屋の向きとは異にして、道路に並行するよう店構えが施してある。細長いものが看板
        だったようで、たばこ販売以外に何を生業にされていたのだろうか。

        
         須賀神社の由緒書きがないため創建年などは不明であるが、祇園信仰の神社である。平
        安期の861(貞観3)年境内に隕石が落ちてきたといい、5年に1度の御神幸大祭時に公開
        されるという。

        
         直方歳時館は炭鉱開発に尽力した堀三太郎の居宅として、1898(明治31)年に建設さ
        れた。約1,100坪の敷地に日本庭園と土蔵、木造平屋の純和風建物がある。現在は生涯
        学習施設として利用されているため、見学は無料であるが使用されている部屋は見学がで
        きない。

        
         堀三太郎(1866-1958)は、明治から昭和前期にマルチな手腕を発揮した実業家で、貝島・
        麻生・伊藤・安川と共に筑豊5炭鉱王の一人であった。大正期に衆議院員議員を1期在任
        したが、1941(昭和16)年子孫に事業を残さず一切の事業を整理し、邸宅を市に寄贈し
        て現福津市福間の別荘に移り隠棲する。

        
         邸宅は直方の町を見下ろす高台にあって、直方の西方に位置する福智山を借景とした枯
        山水庭園である。

        
         築年からすると堀三太郎が31歳の時に建てたことになるが、築100年の建物は老朽
        化にともない、1998(平成10)年に改築復元される。

        
         1623(元和9)年福岡藩初代藩主・黒田長政が没し、その遺言により4男の高政に4万
        石が分知され、支藩の東蓮寺藩が成立する。1626(寛永3)年に城下町が形成され、藩主
        の御館(陣屋)は殿町(現在の双林院付近)に置かれた。1675(延宝3)年3代藩主・長寛の
        代に東蓮寺を直方と改める。
         長寛が本藩を継ぐことになり、一時廃藩となるが、長寛の弟・長清が5万石で入封すると、
        直方体育館がある丘に直方御館(陣屋)を移した。(「史跡直方城址」の碑が建つ)

        
         歳時館から多賀神社への道(旧長崎街道)。 

        
         石炭記念館と多賀神社の上り口。

        
         参道から見る直方の町並み。

        
         多賀神社は直方の鎮守、産土神であり、寿命の神・鎮魂・厄除の神として信仰されてい
        る。
         創建年代などについては不詳とされるが、奈良期には妙見大明神と称したという。また、
        現在地より南の妙見山にあり「妙見社」とも呼ばれていた。妙見山に御館を築造する際、
        現在地に遷座し、1692(元禄5)年に現社号である多賀神社に改めたという。

        
         拝殿前の幕にある御神紋は「向鶺鴒(むかいせきれい)」で、これは夫婦のセキレイの仲睦
        ましい姿にならって諸々の神を生んだ古事によるという。 

        
        
         「桃の花招福稲荷祭」に因み、社務所前や回廊にひな人形やさげもんが展示されていた。

        
         多賀神社に隣接する直方市石炭記念館は、1910(明治43)年に建設された筑豊石炭鉱
        業組合会議所の建物である。本部事務所は石炭の積出港である若松に置かれていたが、筑
        豊地区に多く居住する炭坑経営者の利便を考えて開設された。

        
         階下が事務室、階上が会議室で総会や常議員会などが開催された。

        
         筑豊炭田は、1872(明治5)年鉱山解放令公布の頃から1976(昭和51)年までの約
        100年間日本の産業発展に寄与してきた。筑豊炭田の歴史を伝える資料館として活用さ
        れ、写真や壁画資料、使用された機材などが展示されている。

        
         1965(昭和40)年日鉄嘉穂炭坑上穂波坑から掘り出された2tもある石炭塊。 

        
        
          記念館の裏手には、ガス爆発や落盤事故などの炭坑災害に備えて筑豊石炭鉱業組合に
        より、1912(明治45)年から1923(大正12)年に建造された救護訓練所模擬坑道であ
        る。
ドイツから輸入された実践即応の救命器具を使用した訓練が行われた。(1968年閉
        所)

        
         1925(大正14)年貝島炭鉱が資材運搬用としてドイツから輸入し、貝島炭鉱専用線で
        使用された蒸気機関車コッペル32号。水、石炭を機関車本体に積載するタンク機関車で、
        1976(昭和51)年の閉山まで走り続けた。
         記念館にはもう1台蒸気機関車「C11 131」が保存されているが、後ろに石炭車
        セム1号を従えている。

        
         庚申社。 

        
         1673(延宝元)年開基とされる隋泉寺(浄土宗)は、門前の案内板によると、古くは「瑞
        泉寺」と書き、一体は湧水の豊富なところだったという。
         本堂裏の小山には、江戸期の俳人・有井浮風(うふう)と諸九尼(しょきゅうに)の比翼塚があ
        る。比翼塚とは相愛の男女を同じ場所に葬った塚のことで、俳句の師である浮風を追い、
        庄屋の妻だった弟子・諸九尼(本名なみ)が駆け落ちした恋物語である。浮風死後、諸九は
        剃髪して各地を行脚、晩年は直方に戻り、草庵を結んで浮風の菩提を弔ったという。

        
         雲心寺(臨済宗)は初代藩主高政が父・長政の菩提を弔うために、1625(寛永2)年に建
        立した。境内には高政、2代之勝などの墓塔がある。

        
         西徳寺(真宗)は筑前名島城主小早川秀秋の家老・篠田次郎兵衛重英が、関ケ原後に出家
        してこの地で草庵を結ぶ。初代藩主・黒田高政が本堂を建立し、準菩提寺として手厚く保
        護したという。山門は直方藩廃藩の際、藩主館の横門を移築したものである。 

        
         鐘楼の床置きの梵鐘は、福岡城で時を告げていた鐘が縁あって辿り着いたという。ひび
        が入り今は音が出ないそうである。

        
         鐘楼の奥に「林芙美子滞在記念碑」がある。碑の裏面の説明によれば、1915(大正4)
        年芙美子が12歳の頃、直方の入口屋という商人宿に父母ともども滞在し、手甲脚絆姿で
        木屋瀬・中間方面に辻占を売り歩いていたという。

        
         寺境内から見る直方駅。


北九州市の黒崎は長崎街道の宿場町だった地

2023年03月22日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         黒崎は洞海湾南岸に位置し、江戸期には長崎街道の宿駅であり黒崎宿と呼ばれた。小倉
        から長崎へ向かう最初の宿駅であり、対馬や五島を除く九州西域の大名や多くの旅人が利
        用したという。(歩行約5.4㎞)

        
         JR黒崎駅は、1891(明治24)年九州鉄道の駅として開業する。1984(昭和59)
        橋上駅舎となり、のち駅前デッキが完成し商業施設と接続される。

        
         1979(昭和54)年「黒崎そごう」として開店したが、そごうグループの経営破綻を受
        けて、2000(平成12)年に破産する。2001(平成13)年井筒屋が移転してきたが、入
        居する運営会社が経営破綻したことから、2020(令和2)年撤退する。(左手のビル)

        
         車道に見える横断歩道が長崎街道。

        
         黒崎宿の案内板がある田町東交差点を散歩のスタートとする。

        
         同地には黒崎湊の常夜灯と開作成就の碑がある。
         常夜灯は、1849(嘉永2)年航海安全を守る灯台として黒崎湊の入口に設置されたが、
        今は消滅した黒崎湊の存在を示す歴史遺産とされる。
         城石村(しろいしむら)開作成就の碑は、JR黒崎駅北側の城石村に建てられたものだが、
        洞海湾が深く入り込んでいる浜を埋め立てて水田を作るために、1687(貞亨4)年から大
        規模な工事が数回行われた。堤防には城山(黒崎城)の石垣が使用されたことから地名の由
        来となる。碑には「元文三年(1738)午五月城石村開立成就」と記され関係者の氏名が刻ま
        れている。

        
         黒崎城は福岡藩初代藩主・黒田長政の命により、1604(慶長9)年隣国である豊前との
        国境沿いに6つの城(筑前6端城)の1つとして築城された。
         1615(元和元)年の1国1城令により破城されたが、関ケ原の戦い後の不安定な政治情
        勢を物語る遺跡とされる。ちなみに筑前6端城とは、この黒崎城をはじめ若松城(中島城)、
        大隈城、鷹取城、小石原城、朝倉市の左右良(まてら)城である。

        
         新田開発のための護岸に石垣が使用されたため、現在はわずかに石垣が残る程度である。

        
         山頂部からの眺望は最高だが、あいにくの黄砂でご覧の有り様だった。(3月10日撮影)

        
         城山に再挑戦しようと思ったが、階段と時間の関係もあってこの地から山頂を眺めて城
        巡りを終える。

        
         1615(元和元)年黒崎城を廃した際、城の南側にあった堀を埋めて構口が開かれた。番
        所を設けて通行人を監視したのが始まりで、黒崎の宿場を通過するには必ず東と西にある
        構口で検問を受けなければならなかった。(江戸側が東で長崎側が西とされた) 

        
         海蔵庵(浄土宗)の寺伝によれば、平安期の延喜年中(901-923)に聖武天皇が九州巡拝の折、
        山寺に立ち寄られ一宇を建立されて海蔵庵観音寺と号された。1683(天和3)年芳譽傳廊
        上人という人が、田町に火災、病人が多数出たこともあり、住人の要請もあって山寺にあ
        った観音寺を廃し、海蔵庵と改称して現在地へ移転したと云われている。 

        
         海蔵庵の向い側に自在院という寺があるが詳細不明。

        
         長崎街道は次の四ツ辻を左折する。 

        
         田町の案内板によると、左折した右手一帯にかけて御茶屋があったとされるが、現在は
        何も残っていない。

        
         黒崎バイパス高架下と鹿児島本線を横断するが、左手のフェンスには、地域の大切な道
        として「お茶屋通りの憲章」が掲げてある。

        
         線路を横断すると右手の一角に歌碑2基が建てられている。桜屋の離れ屋敷の庭にあっ
        た主人古海東四郎正顕と5卿にまつわる歌碑である。勤皇の志が厚い正顕は、和歌にも造
        詣が深く、5卿に和歌を献上した云われている。その時の三条実美・正顕の和歌が石碑に
        刻まれている。

        
         右手の句碑は
        「きかまほし大内山の鶯の こころつくしにもらす初音を」(正顕)
        「九重の春にもれたるうくひすは 世のことをのみなけきこそなけ」(実美=三条実美)
          正顕が宮中の鶯の鳴き声にたとえて京都の様子をたずねたことに対し、実美が「自分は
                帝のお側にも仕えられない。世のありさまを嘆き悲しんで見ているほかない」と答えた。
                左手の句碑は
        「さすらひし昔の跡のしるしとて 植し小松の千代に栄えよ」(東久世通禧(みちとみ)
         1909(明治42)年東久世通禧が太宰府天満宮の帰路、京を追われ、苦しい逃避行を続
        けた当時の証として、この地に松を植え生い茂るようにと詠んだ句で、松は枯れたので句
        が建立された。 

        
         桜屋は黒崎宿にあった旅籠屋の1つで、1808(文化5)年頃の創業と伝えられ、薩摩藩、    
        熊本藩の御用達や佐賀藩の定宿を務めた。桜屋と呼ぶ前は薩摩屋と称していたが、幕末期
        には西郷隆盛や坂本竜馬などの志士たちをはじめ、三条実美ら五卿が宿泊する。(跡地には
        マンション)
         桜屋の「離れ座敷」は、1840(天保11)年築といわれ、明治維新の歴史を伝える貴重
        な建物として八幡西図書館内に復元されているという。(見落としてしまう) 

        
         国道3号線を横断すると、春日神社の鳥居が見える片隅に「黒崎宿人馬継所跡」の碑が
        ある。問屋場ともいい、輸送を担当する宿場の主要な施設で、人足や馬が常備されており、
        参勤交代に必要な人馬の手配や飛脚が運ぶ荷物なども取り扱っていた。当時は神社の参道
        口付近にあったとされる。

         
         春日神社の創建年は不詳とされるが、中世には領主・麻生氏が代々崇敬してきた神社で、
        もとは花尾山(現在は花尾城公園)の麓にあったという。1604(慶長9)年黒崎城が築かれ
        た時に遷座された。

        
         拝殿正面には「國祖黒田大明神」「二十四騎霊神」の扁額が掲げられている。

        
         春日神社の入口右手に東光寺のお堂がある。浄蓮寺の末寺で麻生氏によって建立された
        といわれるが、由緒・創建年代は不詳とされる。

        
         長崎街道を西進する。

        
         正覚寺(真宗)は門司家の家臣であった三尾就定が、室町期の1561(永禄4)年大友氏に
        城を囲まれ、就定は戦わずして現在の芦屋町山鹿に逃れた。その後、「三清」と改めて現
        在の正覚寺のある辺りに小庵を結んで隠遁生活を送ったという。黒崎宿が整備された後の
        1632(寛永9)年に寺号を得たとされる。

        
         代官所跡には石碑のみ。

        
         アーケード入口の広場は案内板のみで街道だった面影は見られない。

        
         くまで通りはアーケード商店街で、入口には長崎街道の大きな看板が設置されている。

        
         地方のどこでも見られる商店街の風景である。1889(明治22)年町村制施行により、
        前田、藤田、熊手、鳴水村が合併して黒崎村となるが、のち町制に移行する。1926(大
          正15)
年八幡市に編入され、現在は北九州市八幡西区である。

        
         興玉神は商店街の通りに面して鎮座しているが、室町期の1565(永禄8)年熊手街道の
        守護神として、伊勢国の猿田彦大神総本社から分霊を勧請したとある。関の神、賽の神、
        庚申興玉神として崇敬されているという。 

        
        
         岡田神社の由緒によると、崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が祖先神を祀ったのが始
        まりとされ、この一帯を「熊手」と号したという。「古事記」に神武天皇が東征の折に逗
        留したと記載されている古社で、天・地・人の三ノ宮を有する。
         黒崎城が築城され黒崎宿が整備されると、山手町から現在地に遷座される。

        
         西構口跡。

        
         乱橋は地名であった説や、黒崎の俳人関屋沙明が「ほたる飛ぶ松のはずれや乱橋」と詠
        んだことから、ホタルの群舞が橋に邪魔されて乱れ飛ぶ様子から乱橋(みだればし)と名付け
        られたという説もある。 

        
         街道は乱橋で左折して正面に見える松林へ向かう。 

        
         乱橋から山手通りという大通りを渡ると、曲里(まがり)の松並木の出入口に出る。

        
        
         曲里の松並木は、江戸期から残る松で「街道松」と呼ばれ、1955(昭和30)年代には
        57本残っていたが、 現在、当時の松は2本だけになったという。

        
         松並木から見える皿倉山。

        
         約1㎞の松並木というのでここで引き返すが、道幅4mほどの街道筋には昔ながらの土
        塁も残る。

        
         北九州市の市の花であるひまわりがデザインされたマンホール蓋。

        
         西構口まで戻って駅への道。


宗像市赤間は旧唐津街道沿いの町

2023年03月10日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         赤間は釣川上流域に位置し、北部は城山南麓の丘陵地にある。地名の由来は、神武天皇
        が東征の際、道に迷われた時に八所宮の神が赤馬に乗って案内したことから「赤馬」と名
        付けられ、のちに赤間と書くようになったという。(歩行約3㎞、🚻赤間館にあり)

        
         JR鹿児島本線の教育大前駅で下車する。JR教育大前駅が開業したのは、1988(昭
          和63)
年で線路は切通しの中に設置され、道路橋に駅舎が併設されている。1966(昭和
          41)
年福岡教育大学を赤間町に誘致したのは出光佐三ともいわれている。

        
         駅前に「旧唐津街道・赤間宿」の大きな木柱が立っているが、ここが東構口だったと思
        われる。

        
         ここから釣川近くにあった西構口までが赤間宿である。 

        
         須賀神社の石鳥居脇に道標があり、「従是右木屋瀬 従是左芦屋」とある。

        
         須賀神社境内には貴船神社、菅原神社、水神社、恵比須神社が祀られている。

        
         辻井戸は宿場の旅人や馬に飲水を供給するためのもので、赤間宿には7ヶ所(うち2つが
        現存)の辻井戸があった。

        
         一の鳥居横に宗像三偉人の一人と云われる「節婦阿政」の碑がある。大黒屋七兵衛の後
        妻の娘で、父が決めた許婚と経済的理由から結婚できず、勝浦村の大庄屋の子息の求婚と
        の狭間で思い悩み、1801(享和元)年18歳で自害したという。
         左の碑は人のために力を尽くした石松林平・伴六の碑。 

        
         須賀神社は赤間の氏神で、江戸期には祇園社と称していたが、明治期になると祇園は仏
        教的であるいう理由で須賀神社に改称する。

        
         法然寺(浄土宗)の寺説によると、法然上人の弟子であった幸阿上人が、圓光大師の白骨
        を首にかけて九州に下り、この地に白骨を埋めて草庵を結び、圓通院と名付けたのが始ま
        りとする。安土桃山期の1575(天正3)年に慶春という僧が当寺を建立したという。

        
         法然寺のすぐ南側には五卿西遷の石碑が立っている。京都を脱出して長州に落ち延び、
        筑前太宰府へ移されることになる。
         攘夷派の急先鋒であった三条実美以下5名が、1865(慶応元)年黒崎湊から筑前入りし、
        法然寺の裏手にあった御茶屋に25日間滞在したという。

        
        
        
         城山(じょうやま)から延びる丘陵の傾斜に沿って町筋が形成されている。

        
         左手が海軍兵学校の校長や舞鶴要港司令官を務めた出光万兵衛の生家跡。右手の兜造り
        の屋根を残す出光邸(蛭子屋)は、赤間宿内では最も古い建物で醤油・酢・味噌などを製造
        し、両替・荒物業も営んでいたという。

        
         出光興産の創始者である出光佐三は、1885(明治18)年藍玉問屋(松屋)を営む出光藤
        六の次男としてこの地で生まれ、神戸商高(現神戸大学)卒業後に小麦と石油を扱う従業員
        3名の酒井商会に丁稚奉公する。
         1911(明治44)年25歳の時に独立を果たし、現北九州市門司区で機械油を扱う出光
        商会(後の出光興産)を設立。戦後は石油元売業者として、イギリスの支配下にあったイラ
        ンから石油輸入に成功し、石油を自由貿易する先駆けとなる。

        
         赤間宿の特徴は兜造りの町家にある。通りに面して2階の軒を低くして小さな窓を設け
        て、正面から見ると武士が用いた兜に似ていることから名付けられたという。

        
         お菓子の製造、卸、小売りをされてきた桝屋。江戸中期の建物で「中の間」には明り取
        りがあって、鰻の寝床といわれる奥行きが深いため、製造に利用された運搬用のレールが
        あるとか。入口に「桝屋」という一枚板で作られた大きな看板があったが撤去されている。 

        
         桝屋さんの向い側に出光佐三展示室。戸袋に屋号があったものと思われるが見えず。

        
         旧芳村呉服店は特産品の販売や食事ができる街道の駅「赤間館」となり、施設内には井
        戸も現存する。

        
         赤間宿には上町と下町のそれぞれに町茶屋(脇本陣)があったという。ここには下町の新
        屋(あたらしや)という屋号の町茶屋があり、上級武士が参勤交代の時に宿泊したとされる。

         
         1790(寛政2)年創業の勝屋酒造は、隣の三郎丸という地で醸造を始めたとされ、18
        73(明治6)年6月に福岡県で起こった民衆暴動(筑前竹槍一揆)で打ち壊しに遭ったのち、
        この地に移転したという。
         宗像大社の御神木に由来した「楢の露」の銘柄で酒造を続け、宗像大社の御神酒も造り
        続けている。

        
         奈良県にあるお酒の神様を祭る大神神社では、美味しい酒ができるようにと杉玉を飾っ
        てきたが、その習慣が江戸初期から全国の酒蔵に広まったという。軒先に緑の杉玉を吊す
        ことで、新酒が出来たことを知らせる目印とされる。

          
         勝屋酒造の主屋と煙突は国登録有形文化財。

        
         萩尾邸は江戸後期の建物で、1888(明治21)年頃に屋号「新屋」として、こんにゃく
        製造業を営む。

        
         辻行燈などもあって風情ある町並みではあるが、交通量も多くて注意しながらの散歩と
        なる。

        
         中央に旧宗像市の市章と、周りに市の花であるカノコユリがデザインされたマンホール
        蓋。

        
         現存する辻井戸の1つ。

        
         今井神社の由緒は不明であるが、木製鳥居の先に大木が参拝を妨げる。

        
         石松邸は明治前期の建物で、以前は荒物屋で橋口屋と称していたという。 

        
         吉田邸は明治初期の建物で、戦前まで家具の製造販売をしていた。二階の窓横に「儀」
        の鏝絵がある。

        
         石松邸は蔦屋という屋号で呉服店を営んでいたとされ、兜造りの屋根と蔀戸(しとみど)
        見られる。

        
         「蔦」と文字が彫られた差し掛け。

        
         赤間構口交差点付近が西構口とされ、遺構は残されていないが、交差点表示で構口であ
        ったことを知ることができる。

        
         辻田橋の袂に2つの石柱が建っている。右は「此方鞍手郡山口道 此方畦(あぜ)町道」と
        刻まれた追分石である。
         左手は一番定石といわれるもので、釣川は氾濫しやすい暴れ川のため江戸期に大規模な
        治水工事が行われた。江戸後期の宝暦年間(1751-1764)頃に行われたが、1791年川底を
        浚って土砂などを取り除く工事が、この橋から河口にかけて10ヶ所で行われ、10本の
        定石が建てられたが1番目の場所を示すものである。

        
         公園から見える宗像城山には、安土桃山期まで宗像氏の蔦ヶ嶽城があったことから城山
        と呼ばれている。貴重なウスキキヌガサタケが見られることで山の存在が知られている。

        
         釣川沿いにある公園に「唐津街道 赤馬宿」の石碑が建立されているが、「赤馬」と表
        示されている。(ここで引き返す)
         1899(明治32)年九州鉄道が開通して地内を通るが、赤間駅が当地より西方に設けら
        れたため旧街道の賑わいは衰えた。

        
         浄万寺(真宗)は、室町期の1556(弘治2)年許斐岳城主であった占部氏が出家、現在の
        宗像市田久寺山に開創。後に現在地へ移転したとされる。

        
         猿田彦神社も由緒がなく創建年などは不詳。鳥居には明治12年(1879)と刻まれている。
         唐津街道ができる前の旧街道を歩いてみるが、赤間中学校が御茶屋(本陣)だったという
        以外には何もなかった。


飯塚市の幸袋は長崎街道筋に伊藤伝右衛門宅 

2022年11月10日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         幸袋(こうぶくろ)は遠賀川左岸に位置し、白旗山麓から集落が広がる。地名の由来は、遠
        賀川が蛇行していた地形からきたといわれ、「続風土記」には河袋と書くとあり。
         また、1838(天保9)年の五ヶ村用水の完成により「幸」がきたということで、河が幸
        になったともいう。(歩行約3㎞)

        
         飯塚バスセンター(13:25)から西鉄バス赤池工業団地行き約10分、伊藤伝右衛門邸前バ
        ス停で下車する。(始発は新飯塚駅)

        
         バス停から幸袋本町を抜けると遠賀川の河川敷に出る。遠賀川水運の船場として発達し、
        幕末には船庄屋が置かれたという。

        
         明治中期~後期頃に建築された建物のようで、妻入り入母屋造り甲造りで白漆喰を塗込
        めた居蔵造りである。

        
        
         幸袋の通りには明治・大正期を思わせる建物が残されている。

        
         無極寺(真宗)は創建以降300年来この地にあって、本堂屋根は銅板葺きである。

        
         街道筋にある伊藤伝右衛門邸の長屋門は、福岡市天神にあった別邸「通称:銅御殿(あか
          ねごてん)
」が、1927(昭和2)年漏電により焼失したが表門のみが焼け残ったため、後年、
                本邸に移築されたものという。

        
         表玄関は入母屋造りのどっしりとした構造で、鬼瓦には伊藤家の家紋「丸に三桝紋」、
        屋根は少しむくった破風が施してある。

        
         玄関に入ると「和協輯睦(わきょうしゅうぼく)」の額があるが、1936(昭和11)年書家の
        高田忠周が伝右衛門に頼まれて篆書で書いたものである。

        
         表玄関を上がると左手に応接室があるが、もともと和室だった部屋を改装したとされる。

        
         表玄関の右手に和洋折衷の書斎。床は寄木貼りと腰高までの羽目板、板戸には金の下地
        を塗り、四季の草本が描かれている。

        
         食堂からは庭の景色が楽しめるように設計されている。1906(明治39)年大広間や食
        堂などが建築されるが、1888(明治21)年伝右衛門は28歳で辻ハルと結婚。のち牟田
        炭坑の経営を開始、衆議院議員に当選するなど盤石な時代だった。

        
         食堂の手前にある上風呂はタイル張りの床、天井は舟底形に仕立てられた網代状の細工
        が施してあり、脱衣所(洗面所)と上風呂は和洋折衷の趣で構成されている。

        
         本座敷廊下は畳を横使いに敷き締め、広さを強調した造りがなされており、天井は板を
        矢羽に貼り込んだ作りとなっている。(左手は本座敷と次の間)

        
         次の間から見る庭園。

        
        
         伝右衛門の居間と東座敷は庭園を一望する角にあって、波をモチーフに彫られた欄間な
        ど豪華さが際立つ。

        
         総欅の階段を上がると、入口は上部が円形した火灯口(かとうぐち)と、茶室にみられる客
        出入口である躙り口(にじりぐち)を設けるなど茶室風に施してある。

        
         主に白蓮が使用したという2階部分。

        
         1910(明治43)年伝右衛門の妻ハルが死去すると、翌年に伯爵家の柳原燁子(あきこ)
        結婚。政略な面を持ちながら華やかであったという。のち、1921(大正10)年に燁子(白
        蓮)は宮崎龍介のもとに奔る。 

        
         明治期に建てられ、大正期・昭和期に増築された和洋折衷の邸宅と広大な庭園は、筑豊
        の石炭王・伊藤伝右衛門が誇った栄華を物語る。華族出身の燁子と、自らツルハシを握っ
        て極貧からのし上がった伝右衛門との間には、25歳の差、自ら望んだ結婚ではなかった
        こともあって溝は埋まらないま破局を迎えた。(1階が伝右衛門の居間、2階が燁子の居
        室) 

        
        
         邸宅の敷地北側の大部分が庭園で、川の水源に見立てて深山から石を敷き詰めた渓谷の
        風情から、蛇行しながら流れる川を再現し、太鼓橋や噴水を配した回遊式庭園である。 

        
         あらゆる所に石灯籠や層塔を添え、四阿の屋根は宝形造りで躯体にはシュロの木が用い
        られるなど、どこらから見ても楽しめる庭園である。

        

        
         信号機手前の2軒目の民家には、左に富士の裾野で狩りをする武士、右には一目散に逃
        げる猪、中央に富士の山が描かれている鏝絵がある。

        
         国道200号線(長崎街道)の歩道には、市の花であるコスモスが描かれたカラーマンホ
        ール蓋。

        
         国道筋に残る古民家。 

        
         一の鳥居は、1900(明治33)年9月伊藤伝右衛門の献納とある。

        
         陸橋で旧国鉄幸袋線を渡るが、かって小竹町の小竹駅と飯塚市の二瀬駅を結ぶ鉄道敷地
        であった。石炭輸送のために敷設された鉄道は、1894(明治27)年に開業したが、日鉄
        鉱業二瀬鉱業の閉鎖とともに国鉄赤字83線に指定され、1969(昭和44)年12月に姿
        を消す。

        
         許斐(このみ)神社は、1573(天正元)年の頃、秋月氏の家臣・許斐某が、この城にあった
        木実権現を崇敬し神社を建て直したので、いつしか許斐神社と言われるようになったと伝
        えられている。

        
         高林寺(曹洞宗)は、1600年代に慶閏寺の塔頭として現在の佐賀市に創建された。1
        915(大正4)年伊藤伝右衛門の妻・燁子の世話で、娘静子(燁子の実子ではない)の婿養子
        として堀井秀三郎を迎い入れた。
         堀井は近くに禅宗の寺を欲したため、1930(昭和5)年に佐賀の地から現在地に移転し
        てきたという。

        
         高林寺からの街道筋は、概ねこのような町並みが続く。

        
         建花寺川付近の古民家。

        
         片島の町並みを歩きたかったが、時間の制約もあって水江バス停からJR新飯塚駅に戻
        る。


飯塚市に長崎街道の飯塚宿

2022年11月10日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         飯塚は穂波川と遠賀川が合流する左岸に位置する。地名の由来について、神功皇后が三
        韓から帰途、ここで将士を郷里に帰す時、「何日可逢」と別れを惜しんだという伝説から
        「いつか」が地名になったという。また、聖光上人が明星寺を造営した開堂供養の時、今
        の太養院の所で食物を調えたといわれ、炊いた飯が多くて塚のようであったことに因むと
        もいう。
         しかし、太養院西側の台地にある円墳状の飯の山が、飯塚の地名発祥の故地と考えられ
        るとのこと。(歩行約4.4㎞)

        
         新飯塚駅は、1902(明治35)年に貨物専用の芳雄駅として開業、大正期に旅客業務が
        開始された。1935(昭和10)年に新飯塚駅と改称し、現在は橋上駅舎となっている。

        
         飯塚病院前の道を遠賀川方向へ歩く。

        
         ベンチで猫が日向ぼっこ中。気持ちがよいのか動こうともしない。 

        
         遠賀川と穂波川が合流する地点には2つの橋が連続し、その間の東町橋東詰に「殉職碑」
        が建立されている。

        
           「師の君の 来ますむかふと 八木山の 峠の若葉 さみどりのして」
        
 河川敷に柳原白蓮の碑が設置されているが、遠い九州の地を訪れる師(佐佐木信綱)を迎
        える前に心境を詠んだ歌が刻まれている。歌碑はボタ山を背景に建ち、川には沈下橋が架
        けられている。

        
        
         嘉穂劇場は、1931(昭和6)年に坑夫の娯楽施設として開場した江戸時代の歌舞伎様式
        を伝える木造2階建ての芝居小屋である。
         炭坑が華やかな頃は、遠賀川流域に48座あった芝居小屋も、炭鉱の閉山と合わせるよ
        うに芝居小屋も姿を消して、残ったのが嘉穂劇場のみである。火災、水害と幾多の災害を
        乗り越えてきたが、2021(令和3)年5月13日より休館となり、飯塚市に譲渡されて再
        開に向けて建物の改修などが行われている。(柵が設けてあって柵からの見学)

        
         飯塚市の市花であるコスモスが描かれたマンホール蓋。

        
         嘉穂劇場から飯塚図書館方向への通り。

        
         長崎街道飯塚宿に大名などを迎い入れるという場所にあたるため、向町(むかいまち)と名
        付けられたという。1908(明治41)年からの遠賀川流路変更の工事で新たに川ができた
        ため、1913(大正2)年に架橋された向町橋の親柱が残されている。 

        
         飯塚宿は2度の大火に見舞われ、現在は商店街の道として残っているが、宿場町の面影
        は残されておらず、宿場関連の史跡には石碑が建てられている。

        
         長崎方面から飯塚宿の入口になるのが西構口で、両側に街路と直角に石垣を築いて築地
        塀に門が設けてあった。一定の時刻に門が開閉するなど、城郭的な役目を果たしていた。
        長崎方面の門を西構口、江戸方面を東構口と呼ばれていた。

        
         向町観音堂で西構口の正面にある。

        
         街道筋はこの先で右折する。 

        
         1706(宝永3)年この場所で「元大神」と刻まれた光る石が発見され、住民が「大神石」
        と称して祠を建てて、曩祖(のうそ)八幡宮の末社として祀ってきた。1909(明治42)年本
        社に合祀されると跡が荒れることを畏れて、神の栄を念じて井戸を掘り、神に捧げる酒造
        りを始めたという。「神の栄」という銘柄であったが、河川工事により良質な水が出なく
        なり井戸は埋められたという。

        
         長崎街道飯塚宿の一部は東町商店街になっている。(街道は三差路を左折)

        
         往時の飯塚川は内野の山中を発して流れ下り、宿場を横切っていたという。川幅が40
        ~50mぐらいあって水運の便もよく、旧街道には白水(はくすい)橋が架けられていた。
         遠賀川の改修工事に伴い飯塚川は埋立てが進められて、1975(昭和50)年頃には完全
        に埋立てされたそうで、橋が架かっていた場所に欄干の一部が残されている。

        
         本町商店街は長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケード街になっている。 

        
         明正寺筋に入ると寺の一角に「勢屯り跡」の碑があるが、この上にある上茶屋に宿泊し
        た大名が、ここで行列の体制を整えて出立したという。大名行列は通常の場合、宿場や主
        だった街道沿いの場所のみ勢を整えていたといわれる。 

        
         明正寺(真宗)の過去帳には、幕府に献上された象が通ったことが記してあるという。(境
        内は幼稚園)

        
         高台にある飯塚片島交流センター脇に「御茶屋跡(上茶屋)」の碑があるが、1640(寛
          政17)
年に福岡藩が本陣(御茶屋)を設け、参勤交代の大名や長崎奉行の宿泊所とする。

        
         飯の山は飯塚の地名発祥の地の1つとされるが、頂上には上がることができない。

        
         街道筋に戻ると人形付きオルゴール車が置かれている。店主によると喫茶が奥にあるた
        め、宣伝用のマスコット人形と以前はオルゴールも演奏していたが、商店街から騒音との
        指摘もあって今は使用していないとのこと。

        
         店内はステンドグラスに囲まれた素敵な空間である。

        
         飯塚宿の町人も宿場の繁栄を願って恵比須の石像を祀っていたが、その後、曩祖八幡宮
        の境内に移されたという。

        
         本町商店街筋。

        
         森鴎外は、1901(明治34)年7月に飯塚を訪れ、福岡日日新聞に「我をして九州の富
        人たらしめば」を掲載し、炭鉱主たちが贅沢を止め地域の文化振興にその財力を惜しまず
        尽くすべきと唱える。のちに安川・松本家が明治専門学校(現九州工業大学)を創設したの
        は鴎外の掲載によるものとされる。 

        
         太養院筋に入ると重厚な建物が残る。

        
         曹洞宗の太養院(たいよういん)は行基の開山と伝えられ、1640(寛永17)年飯の山の横
        にあったが、御茶屋が新設されたため現在地に移転したという。

        
         太養院の隣に眞福寺(浄土宗) 

        
         江戸時代の飛脚制度にかわって、1871(明治4)年4月東京~大阪間に近代郵便制度が
        導入される。8ヶ月後の12月小倉~長崎間(長崎街道)にも導入されて、街道筋の16宿
        駅に郵便取扱所が開業する。
         当初は黒ポストであったが、夜は見えづらいといった理由で、1908(明治41)年赤ポ
        ストになったという。

        
         本町商店街にあるレトロな建物は福岡銀行飯塚本町支店で、1924(大正13)年福岡銀
        行の前身である旧十七銀行の飯塚支店として建てられた。

        
         飯塚本町商店街の中央付近にからくり時計が設置してある。10時から18時までの毎
        正時に音楽に合わせて、渡来の象などをはじめ飯塚宿を通る大名行列の人形が歩き出すと
        いう。時間的タイミングが悪く拝見できず。

        
         宿場の施設として、東西の構口、関屋(番所)、上茶屋(本陣)、中茶屋(脇本陣・からくり
        人形がある場所に長崎屋)、下茶屋(脇本陣)のほか、郡屋、問屋場(人馬継所)、馬立所、蔵
        屋敷、オランダ屋敷などが置かれた。

        
         北側の本町商店街入口に東構口が設けられていた。

        
         右手に寶月楼跡の碑を過ごすと、鳥居が3ヶ所設置されている。石段に向って左側が飯
        塚八幡宮、中央が曩祖八幡宮、右側が祇園宮で飯塚の追い山は、この石段下から出発する。

        
         中央の階段を上り随神門を潜ると八幡宮の拝殿。古くは神功皇后が三韓より帰路この地
        へ立ち寄り、離別を惜しんだ地とされている。社伝では、鎮座年は不詳とされるが、その
        跡地に作られたのが当八幡宮という。(由緒より) 

        
         高野山真言宗の観音寺。 

        
         江戸期に貿易を許されたオランダ人には、御礼言上のため江戸に参府して将軍に謁見す
        る義務があったという。1609(慶長14)年に始まり、1633(寛永10)年から毎年、1
        790(寛政2)年からは5年に1回に改められ、幕末の1850(嘉永3)年まで続いた。
         長崎から江戸まで約2ヶ月かけて、長崎から長崎街道を通って大坂、京都を経て江戸に
        向った。各地には指定の宿舎があったが、飯塚では宿場内の施設ではなく、東構口の外れ
        にオランダ屋敷が設けられたという。(ここで散策を終える
)


北九州市門司区に和布刈神社と城跡・旧軍遺構

2022年09月16日 | 福岡県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制の施行により、田野浦村、門司村、小森江村の3ヶ村が合併
        し、文字ヶ関村が発足する。合併後の村名について門司村にしようとしたが、異議が唱え
        られ文字ヶ関村となる。1898(明治31)年門司市に移行し、現在は北九州市門司区であ
        る。
         和布刈(めかり)は企救(きく)半島の最北西端、関門海峡に面する。地名はわかめ刈りの神事
        で有名な和布刈神社の所在地であることによる。(歩行約8㎞、🚻古城山以外はポイントに
        あり
) 

        
         JR下関駅から長府経由のサンデンバスに乗車し、みもすそ川バス停で下車する(@260-)

        
         門司城跡がある古城山(標高175m)

        
         関門国道トンネルは、1937(昭和12)年建設に着工したが、第二次世界大戦の勃発に
        より資材不足もあって工事は中断し、着工から21年の歳月をかけて1958(昭和33)
        に開通する。全長3,461mのうち海底部分は780mで、トンネルは上が車道、下が歩
        道の二段構造となっており、下関側の人道入口から地下55mまでエレベーターで降りる。

        
         海底を歩いて山口県と福岡県の県境を跨ぐ。下関側400m、門司側380mの地点で
        ある。

        
        
         地下60mからエレベーターで地上に出ると、目の前に関門海峡の景色が広がる。

        
         神社横には明治期に廃止された和布刈砲台があったことを示す石碑、連歌師・飯尾宗祇
        の句碑「舟みえて 霧も追門(せと)こす あらしかな」がある。赤い社は早鞆稲荷で、傍に
        は猿田彦大神の碑もある。

        
         松本清張の小説「時間の習俗」の一部が文学碑。

        
         1941(昭和16)年高浜虚子は満州・朝鮮旅行の途次、和布刈神社を訪ねている。「夏
        潮の今退(ひ)く平家亡ぶ時も」

        
         和布刈神社は九州の最北端に位置する神社で、関門海峡に面して社殿が建っている。社
        伝によると、神功皇后が新羅から帰途の折に創建された伝わる。祭神は潮の満ち引きを司
        る神とされ、海峡の守護神として崇敬を集めているという。
         神功皇后自ら神主となって早鞆瀬戸のワカメを神殿に捧げたという古事にちなみ、毎年
        旧暦の元旦に神職がワカメを刈り取り、神殿に供えて航海の安全と豊漁を祈願する和布刈
        神事が行われる。

        
         社殿前の石段下に海中灯籠が立つ。 

        
         一般駐車場の片隅にトンネル建設中に亡くなられた殉職者52名と、病没者37名を慰
        霊するため、1958(昭和33)年3月建設省によって慰霊碑が建立される。

        
         
この付近に旧陸軍の砲台があったとされるが、海岸道路の新設などで消滅する。大砲は
        隠してあって、有事の際には敵艦隊を真横から攻撃するのが任務であったという。

        
         潮見鼻に立っている門司埼灯台は、1924(大正13)年初点灯された。塔の高さが7.6
        mと規模は小さめだが、狭い関門海峡を行き交う船の安全の守るため、その役割は大きな
        ものがある。

        
        
         灯台東側の岩場に、円形の水輪と三角の火輪のみの五輪塔が置かれているが、壇ノ浦の
        合戦で海の藻屑と散った源平の人々を供養した塔と思われる。隣には同様な趣旨で建立さ
        れた句塚がある。

        
         和布刈潮風広場への道。

        
         広場には色鮮やかな遊具のようなものが設置されているが、よく見るとタコをモチーフ
        にした滑り台だった。

        
         観光トロッコ潮騒号の終点である関門海峡めかり駅の横に、電気機関車と寝台客車が展
        示してある。
         1961(昭和36)年山陽本線と鹿児島本線の一部が電化されたが、山口側は直流、門司
        側は交流であったため、関門トンネル用の交直共用の機関車が開発された。機関車のEF
        30型と寝台客車はその当時に使用されたオハフ30型だが、現在は内部等を見学するこ
        とができない。 

        
         広場から山登りを開始すると、右手に唐人墓が案内されている。

        
         1864(元治元)年イギリスなど四ヶ国連合艦隊は、長州藩の不当な攻撃に対し、下関の
        砲台を攻撃し、兵士を上陸させて壊滅させた。
         この戦いで連合艦隊側もかなりの死傷者を出し、各国は戦死者を門司の大久保海岸一帯
        に埋葬する。フランスも同海岸に埋葬していたが、1895(明治28)年フランス人宣教師
        ・ピリオン神父が現在の石碑に建て替えたが、その後、諸事情で何度か移転して現在地に
        落ち着いたという。

        
         古城山を目指して車道を歩くが、車は一方通行のため下ってくる車に注意が必要だ。

        
         九州自動車道、めかりPA、門司港ICと橋脚が集中する下を見上げながら上がって行
        く。(急坂ではないが真夏日)

        
         和布刈第2展望台から関門橋、下関市街地を望む。

        
         同じく門司レトロ地区。

        
         第2展望台から山頂に向かうと木製デッキの山手側に、有田焼陶板で作られた高さ3m、
        長さ44mの「源平合戦絵巻」がある。

        
         関門橋と並行して関門連系線(送電線)が設置されているが、門司側と下関側の鉄塔距離
        は1,872mである。

        
         車道右手から山頂への遊歩道があり、その先に山の神を祀る小祠がある。

        
         旧陸軍によって関門地区の防衛のため、下関・門司地区に要塞施設が構築される。ここ
        古城山砲台は、1890(明治23)年に構築されたが、日露戦争(1904-1905)後は日本沿岸
        を脅かす敵国はなくなり、明治末期頃に廃止された。
         
周囲を石垣(堡塁)で囲まれた倉庫部が残されているが、倉庫の内部を見ることはできな
        い。

        
         倉庫前から山頂部の観測所に通じる階段が2ヶ所あり、左側には柵があって入れないが、
        右手の階段は上がることが可能である。2つの階段の間には石垣で窪みが設けてあるが、
        用途は不明であった。

        
        
         連絡通路を上がって行くと、山頂には観測所の円形コンクリート遺構は残存しているが、
        内部は土で埋もれて内部を知ることはできない。

        
         観測所の周囲にも遺構らしいものが残されているが、砲台は旧国民宿舎付近に設置され
        ていた。

        
         門司城は都を追われた平知盛が、源氏との一戦に備えて築城したと伝えられる。その後、
        城主が入れ替わりながら続いたが、1615(元和元)年幕府の一国一城令により、約400
        年におよぶ歴史を閉じる。明治期に陸軍の要塞とされたため遺構は消滅したようだ。

        
         ここに新潟県出身の宮柊二(みやしゅうじ)の歌碑「波の間に降り込む雪の色呑みて、玄海
        の灘今宵荒れたり、まどろめば胸どに熱く迫り来て面影二つ父母よさらば」がある。

        
         県道に合わす手前に「明石与次兵衛の塔」がある。佐賀県名護屋城にいた豊臣秀吉は、
        1592(文禄元)年母の急病を知り、急ぎ大坂城に戻る途中、関門海峡最大の難所とされる
        篠瀬で座礁したが、秀吉は危うく難を逃れた。
         船奉行であった明石与次兵衛は、その責任を負って大里(門司)の浜で割腹して果てたと
        いう。後に中津藩主の細川忠興が、瀬の上に与次兵衛の霊を弔うとともに、航海安全の標
        識として塔を立てたが、関門海峡改良工事で取り除かれて、一時下関の海中に沈められて
        いた。戦後、引き上げられて和布刈公園に再建されていたが、関門橋建設に伴い、197
        2(昭和47)年この地に移された。

        
         県道を門司港方面へ向かうと、1928(昭和3)年田野浦に竣工した福岡食糧事務所門司
        政府倉庫(旧門司米穀倉庫)を結ぶ貨物専用線が設けられた。現在は門司観光レトロ線とし
        て使用されている。

        
         線路を横断すると文字ヶ関公園内に「門司関址」の石碑がある。門司は都と太宰府を結
        ぶ重要な地であったため、飛鳥期の646(大化2)年に関所「門司関」が設けられた。 

        
         和布刈地区入口に和布刈神社一ノ鳥居。
         
        
                 ノーフォーク広場駐車場の片隅に戎・猿猴河童塚が祀られている。猿猴(河童)が悪いこ
        とをするので里人に捕らえられ、和布刈神社の神官に引き出された。神官は祭神の力で封
        じ込めようとしたとき、猿猴は二度と悪いことはしないと誓い、指差した石がこの石塚と
        いわれている。

        
         1884(明治17)年海軍は軍艦の燃料である石炭を備蓄する燃料倉庫を対岸に設置、さ
        らに隣接地を埋め立てて兵器修理所を建設する。その後、西海岸(現在の駐車場付近)を埋
        立して兵器製造所としたが狭隘であったため、1916(大正5)年小倉に移転する。

        
         レストランのある建物は、1973(昭和48)年にノルウェー海員教会として建てられ、
        ノルウェーやスウェーデンなどの海員の休憩施設としても使われていたものである。

        
         ノーフォーク広場は、1986(昭和61)年北九州市の姉妹都市であるアメリカバージニ
        ア州の港町、ノーフォーク市のイメージに合わせて整備された。(ベンチがある所は和布刈
        観汐公園) 

        
         関門海峡は6時間おきに潮の流れが変わり、潮流は最高で10ノット(時速約10.5㎞)
        とされ、古くから海の難所とされてきた。
         本州と九州を結ぶ関門国道トンネルではクルマ社会に対応できないため、約5年7ヶ月
        の歳月をかけて、1973(昭和48)年11月に高速自動車道として関門橋が完成する。全
        長は1,068m、海面からの橋桁までの高さは61mで、広場のベンチに腰掛けて行き交
        う船を眺めるのも一計である。

        
         めかり会館とめかり毎日荘の間に清水の湧く場所があり、その湧水を「平家一杯の水」
        と称していた。現在は双方の建物はなくなり、崖も改修されて岩場が再現されている。壇
        ノ浦合戦で平家の武士たちが、この湧水での喉を潤したことに由来するという。
         この先、和布刈神社までの遊歩道を歩いて往路を引き返すが、ノーフォーク広場から門
        司港に出て、関門渡船で関門海峡を船から眺めて唐戸に出るルートも捨てがたい。