ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市の右田ヶ岳に中世の山城跡と摩崖仏 ② 

2023年11月28日 | 山口県防府市

               
         平坦地を過ごすと正面に岩稜が迫る。

        
         上りに入ると岩場の急登が始まる。(コース最大の難所) 

        
         岩場を登って見返すと石船山と防府平野。

        
         更に岩道が続く。

        
         西(南)の峰を近くで仰ぐようになる。 

        
         8合目とされる分岐は左手が西の峰の直登コースだが、従来の道を辿ることにする。

        
         やがて西(南)の峰と中の峰の鞍部に上がる。

        
         本丸跡から高さ6mあまりの坂を東に下ると、東西22m、南北7mあまり、約165
        ㎡の平地が二の丸跡という。平地はここだけなので二の丸跡と推測してみる。

        
         平地から少し上がると西の峰である。

        
         西の峰の頂上には東西約18mの平地に右田ヶ岳城本丸があったという。右田氏は大内
        氏16代大内盛房の弟・盛長を祖とし佐波郡右田荘を領した。鎌倉時代の末に築城されて
        右田氏累代の居城とされる。

        
         右田の地は中世山陽道に接近し、西は山口街道、東は石州街道の要所を占める地形にあ
        り、山口を本拠とする大内氏にとっては防衛の第一線をなすものであったと思われる。(本
        丸の最南端に前嶽) 

        

         大内氏の終わり頃の天文年間(1532-55)には右田氏の勢力は衰え、右田岳城は内藤興盛と
        その子隆世が守った。

         室町期の1557(弘治3)年3月大内義長を攻めるために、毛利元就の軍が若山城に移陣
        するに及んで、内藤隆世は高嶺城に入って義長と合し、右田岳城には右田隆量・野田長房
        籠め置いた。隆量・隆俊親子は毛利の誘いに応じ、野田長房は守りを捨て山口に合した。
        その後、右田岳城は家臣の南方就正が入り300人を添えて守らせたという。(右田の山口
        街道筋) 

        
         中の峰には観音堂跡はあるというので上がってみることにする。(途中より西峰)
       
        
         急登を這い上がると山頂(標高426.0m) 

        
         中ノ峰は巨岩上にある。

               
         山頂の北側にある石垣は観音堂の遺構とされる。この後側に城の生命線ともいえる湧き
        水があったとされる。

        
        
         山頂から見る風景だが霞んではっきりしない。(上が中心地、下が佐波川河口)

        
        
         下りは石の造形を見ながら下る。 

        
         今にも倒れそうな石を見ながら高度を下げる。

        
         平坦な場所まで戻って摩崖仏を見ながら下る。

        
        
         番号は刻字されていないが多羅尊観音で、インド神話の女神が源流とされ、雲に乗り偉
        大な母のように優しい心で、人々の煩悩(欲望や迷いの心)から救うとされる。施主は下関
        市岬之町、西村‥ 大正12年(1923)3月と刻まれている。

         
         20番の六時観音は、慈悲心が24時間常に衆生に注がれていることを象徴する観音で
        ある。法衣をまとい、右手にお経の入った梵筺(ぼんきょう)、左手に摩尼宝珠を持つ立像と
        される。
 

        
         石船山山頂(標高194m)から彼方に山頂があるので、最初にここから見ると挫折した
        かも知れない。

        
         石船山山頂には、曹洞宗大本山永平寺の第64代貫主・森田悟由禅師(1834-1915)筆跡の
        「般若心経」が自然石に彫られている。 

        
        
         般若心経を見て下ると右手に案内板があり、ここには4つの摩崖仏がある。登山道側に
        あるのが22番の延命観音で、水辺の岩に寄りかかり、右の手のひらを頬に当て、水流を
        眺める姿で表現されている。呪いや毒の害を除き、寿命を延ばすことにご利益があるとさ
        れる。

        
         21番の葉衣(ようえ)観音は、古代インドのシャバラ族の衣装とされるパラーシャ樹の葉
        をまとい、左手に羂索、右手に杖、右膝を立て赤蓮華に座る姿で表現されている。病や災
        いから仏教の信者を守るとされる。 

        
         23番の魚(ぎょらん)観音は、大きな魚に乗ったり、魚を手に持ったりして災いを消滅
        させる。起源は中国で魚売りの美女が観音様であったという説話にもとづくとされる。施
        主は下関市田中町の人で、大正13年(1924)と刻まれている。

        
         20番の瑠璃(るり)観音は、水に浮かぶ大きなハスの葉に座り、香炉を手に持って、病や
        災いを消滅させる。薬師如来の化身(生まれ変わり)とされる。

                
         25番の一葉(いちよう)観音は、水に浮かぶ一葉の大きなハスの葉に乗る姿で表現され、
        人びとを水難から守ることにご利益があるという。  

        
        
         31番の馬郎婦(ばろうふ)観音は、右手に法華経、左手に髑髏(どくろ)を持つ美しい天女の
        姿を表現されている。仏教を信じない人たちに教えを導く。仏さまに通常は性別がないそ
        うだが女性とはっきりしている。馬郎婦とは中国北方の騎馬民族の夫人に対する呼称だそ
        うだ。施主は下関市岬之町の人で、大正11年(1922)11月15日とある。

        
         右手の枝道に入ると2つの観音像が並ぶ。右が一如観音、左が能静観音。
       
                
                  27番の一如観音は、雷を制するように雲に乗って空を飛び、空にかかわる災難から人
        びとを守るとされる。 

        
         29番の蛤蜊(こうり)観音は、大きなハマグリに乗って海を渡る姿で表現され、漁師の
        安全を祈っている。「ハマグリ観音」とも呼ばれる。

        
         蛤もしくはおむすびの形をした岩は、傾斜のある台に上にあるが転げ落ちないのが不思
        議である。
      

        
         3□番の不二(ふに)観音は、天衣をまとい水中に立つ姿で表現され、衆生を災害から守り、
        「慈悲(優しさ)」と「怒り」の2つの心で人びとを導く。金剛力士に変身するとされてい
        る。

        
         33番の灑水(しゃすい)観音は、右手に柳の枝を持ち、左手に香水の入った水瓶を持つ立
        像で表現されている。灑水とは密教で加持した香水で煩悩や穢れを清める儀式のこと。そ
        のため煩悩や穢れを除くご利益があるとされる。
         1番の楊柳観音を除けば、巨岩に刻まれたすべての観音摩崖仏は現存するが、刻字され
        た番号はダブったり欠落番号があったりはする。摩崖仏には色彩が施されていたと思われ
        るが、消え失せてしまったようだ。

        
                  右田小学校前で容易に登らせてくれなかった右田ヶ岳に一礼し、塚原バス停(14:51)より
                JR防府駅に戻る。
      


防府市の右田ヶ岳に中世の山城跡と摩崖仏 ① 

2023年11月28日 | 山口県防府市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
        右田ヶ岳は防府市北西部に位置する山。佐波川下流の右岸にあって、右田平野に臨み、岩
       峰地形を成す。黒雲母花崗岩からなり垂直の節理が発達し、岩壁が高峻奇峰の山容をつくり、
       地肌は白く見える。
        この山には西峰に右田ヶ城跡と、石船山周辺の巨岩に刻まれた33体の摩崖仏(1つだけ摩
       崖仏でない)がある。(歩行約4.6㎞、🚻参道脇より右田小学校使用可) 

        
         JR防府駅から防長バス堀行き約8分、塚原バス停で下車する。(10:00)

        
         バス停付近から見る右田ヶ岳は、左から石船山(せきせんざん)、小ピーク、西(南)の峰、
        中の峰、東(北)の峰へと続いている岩峰である。

        
         お目当ての1つである天徳寺の大銀杏は、この2~3日の強風で落葉していたが、それ
        でも見応えのある姿を見せてくれる。

         
         天徳寺は源頼朝が創建したと伝えられる古刹で、右田毛利氏の菩提寺でもある。寺の左
        手から登山道に入ると石灯籠までは石段が続く。

        
         2つ目のお目当ては、33体の観音摩崖仏を見て歩くことである。観音堂には1番の陽
        柳(ようりゅう)観音が祀られていると思ったが、観音様は当初より彫られておらず、「聖観
        世音菩薩」をもって充当したのではないかと案内されている。
         もと右田ヶ岳中の峰にあって周防国三十三観音霊場25番札所とされ、1872(明治5)
        年現在地に移転し、岩に観音像を彫って遥拝所とする。陽柳観音は病苦からの救済を使命
        とし、右手に柳の枝を持つのでこの名がある。

        
         観音堂の右手には8番と刻まれた水月観音で、形像は一定しないようだが、天の月と水
        面に映る月を見ながら手に楊柳と瓶を持つ姿とされる。財宝や旅行中の安穏にご利益があ
        るという。

        
         観音堂の先に大きな石灯籠が立ち展望が開ける。

        
        
         2番の龍頭観音は、龍の背中に乗り、災難を取り除き、吉祥と平安を与えるとされ、さ
        らに恵みの雨を降らせたりするとされる。

        
         3番の円光観音は背後で円光を輝かせ、念珠を以って合掌し盤石に趺座する。能(よ)
        災風火を伏し、世間を明るく照らすとされる。(この付近に3体が並ぶ) 

        
         4番の白衣(びゃくえ)観音は、純白の衣をまとい、一切苦悩を吉祥に変え、さらに消災や
        延命、平安、安産を授けるご利益が経典に説かれているため、子供の死亡率が高かった時
        代に女性たちの間で信仰の対象になったという。(下の四角は施主の住所、氏名、日付が刻
        まれている)

        
         5番の持経(じきょう)観音は、盤石に座り右手に経典、左手は膝の上に置く姿で表現され
        ている。仏の声聞を聞きながら得度に励んでいる人を表しているとされる。 

        
        右が蓮臥観音、左は施薬観音。

        
         7番の蓮臥(れんが)観音は、蓮華座に乗って合掌して横向きに座る姿で表現され、人びと
        の幸せを願っているとされる。

        
         これも7番と刻まれた施薬(せやく)観音で、右手は頬に当て肘を何かに寄りかけ、左手に
        薬草を持つ姿で表現されている。病を治し、苦痛を取り除くことからこの名がある。

        
         9番の威徳観音は、盤石上に趺座し左手に蓮華を持つ姿で表現されている。困難を切り
        開くことにご利益があるとされる。

        
         右田地域おこし協議会の案内板から左の枝道に入る。 

        
        
         31番の持蓮(じれん)観音は蓮華座に立ち、両手で一輪の蓮の花を携えた姿で表現されて
        いる。華を支えながら、人びとの心を美しく咲かせることを誓っている。

        
        
         案内では未完成と記載され、消去法で18番の岩戸観音とされる。蛇などの毒虫が棲む
        岩窟の中で入定(瞑想)している姿で表現される。どのような毒(悪い心)でも消し去ること
        ができると説いている。

        
        
         10番の遊戯(ゆげ)観音は左膝を立て左手を膝に置き、右手は人差し指で地面をさした印
        相(降魔印)で、彩雲に乗る姿で表現され、自由自在に人びとを導くとされる。

        
         11番の阿耨(あのく)観音は盤石の上に左膝を立て、両手を交差させて遠くの海を眺める
        姿で表現され、人びとを水難から守るとされる。

        
         登山道に合流して下ると左手に枝道がある。(上り方向を撮影したので枝道は右)

        
        
         12番の滝見観音は岩の上に座って滝を見る姿で表現され、降雨にご利益があるとされ
        る。

        
        
         12番の普悲(ふひ)観音は両手で法衣の前垂れを持ち、山の上に立つ立像で表現されてい
        る。すべての人に慈悲(優しさ)を注ぐとされる。

        
         14番の阿麽堤(あまだい)観音は造形がはっきりしないが左足を曲げ、右手を垂らした姿
        と思われる。一切の三障四魔や衆悪を取り除き、道を切り開くご利益があるという。

         
        
        
         一部切り立った場所もある。

        
         岩を越えて急峻な坂を下ると摩崖仏2つ。

        
         15番の衆宝(しゅうほう)観音は地上に趺座し右手を地につけ、左手を膝に乗せ、法衣に
        たくさんの宝石をちりばめた姿で表現されている。一人でも祈れば他の人も救われると説
        き、富貴繁栄の現世にご利益があるという。 

        
         16番の青頸(しょうけい)観音は、もともとはシヴァ神(インドの破壊の神様)が仏教に取
        り込まれて観音になったという。魔から衆生を救済するために人の害する毒を食らい、そ
        の毒で首が青くなったとされる。

        
         正面に多々良山と天神山、白い線は佐波川と新幹線。

        
        
         17番の合掌観音は蓮華座に座って合掌した姿で表現されている。仏教では右手が浄土、
        左手が衆生を意味し、合掌で仏と一体なる帰依を象徴している。人びとのお手本となるよ
        う自ら拝んでいる。

        
         矢筈ヶ岳と大平山、手前に右田の集落が広がる。 

        
         18番の徳王観音は盤石の上に趺座、右手に柳の枝を持ち、左手を臍(へそ)に添えた姿で
        表現されている、常・楽・我・浄の四徳を備え優れているので、この名がついたという。
        出世栄達にご利益があるとされる。

        
         登山道に合わし、ここでひとまず三十三観音巡りを中断して右田ヶ城跡を目指す。


周南市の周南緑地西公園に戦争遺構 ②

2023年11月26日 | 山口県周南市

        
         和光幼稚園まで引き返し、国道2号線に通じる広い道を山手に向かう。

        
         周南緑地公園の西緑地は季節の花が楽しめる市民憩いの公園、中央緑地には陸上競技場
        やフレンドパーク、東緑地はスポーツセンターやサッカー場などの運動広場となっている。 

        
         季節の花が楽しめる公園とのことだが、この時期は花を見ることはできない。鮮やかな
        紅色の実をつけた常緑のトキワサンザシ(常盤山査子)が見られるが、西アジア原産の帰化
        植物だそうだ。

        
         正門(大内側入口)の案内板を見るとクモの巣状に散策路が設けてあるので、歩くポイン
        トを目に焼き付けて出発する。(目的は戦争遺跡)

        
         東山砲台の砲側弾薬庫へ弾薬搬入のために作られた道。看板右の道ではなく「←すぐそ
        こ」の道が運搬道のようだ。

        
         この道は案内板には記載されていないが、上がれそうなので進むことにする。

        
         防空指揮所前の道に合わす。(指揮所は15m下る)

        
         防空指揮所の説明によると、コンクリートのトンネル型で、縦横25m奥行18mの広
        さである。1945(昭和20)年5月10日の空襲で徳山警備本部は機能喪失し、慶万町の
        電話中継所内に指揮所を応急設置し、新設の防空指揮所をこの東山に設置することになり、
        隧道作業が行われたが運用されたかどうかは不明とのこと。

        
         塀に沿う。

        
         防空砲台跡入口。

        
                 1944年(昭和19)年に設置された砲台で、東山には12.7センチ連装高射砲2基が設
        置されていたという。士官1人、準士官2人、下士官・兵71人の陣容で何度か射撃した
        が、戦果はなかったとされる。(標高85m) 

        
        
         発電機の冷却用に使用するコンクリート製水槽が設置されていた。囲ってある場所に水
        槽があったと思われる。

        
         引き返して舗装路を進むと次の案内がある。待機所跡に行けるかどうかわからないが上
        がることにする。

        
         登って行くとコンクリート敷の平地に出る。「旅する蝶 アサギマダラを呼ぼう」の看
        板方向へ進むと三角点分岐に出る。 

        
         標高62.3mを示す三等三角点。(地形図山名なし) 

        
        
         探照灯を制御する「管制器」の台座が残されている。仕組みはよくわからないが、管制
        器というので探照灯を遠隔操作する装置と思われる。音を察知する設備がないようなので
        聴音機の役目も担っていたのだろうか。

        
        
         探照灯と管制器との間に待機所が置かれていた。 

        
         徳山桜は毎年4月初旬に13枚の花びらが品よく重なり、山桜には珍しい八重咲きの桜
        花が整うという。 

        
         ここに110mmの探照灯が設置されていた。戦争末期の1944(昭和19)年に連装高
        角砲の探照灯として敵機を照射していた。(有効照射5,000m)

        
         地元の方から下って行けば西出口に行けると教えていただく。

        
         周囲は京都大学の演習林で、大学の柴田信男氏が観音堂を築造されたもので、徳山試験
        地には最後まで責任者として在任され、観音信仰の厚い人だったという。現在は徳山西国
        三十三観音霊場の札所とされている。

        
         満開の桜が1本の木に描かれているマンホール蓋。

        
         市内で見かけたサルビアの花のデザインが違うマンホール蓋。

        
         万葉の森茶室前の池には、縄文時代に咲いていたという大賀ハス(7月中旬から8月上旬
        頃開花)がある。
         大賀一郎博士が開花に成功したもので、博士の郷里である岡山から万葉の森造園を機会
        に譲り受け、1976(昭和51)年5月この池に移植されたという。

        
        
         徳山毛利家墓所には、初代就隆から12代元靖までの歴代藩主と妻子の墓96基が祀ら
        れている。

        
        
         藩祖の就隆(№1)と公室の墓には、唐破風付き本瓦葺方形造りの覆屋が設置されている。
        墓石の上に覆屋が設置される事例は少なく珍しいとのこと。藩祖の就隆(1602-1677)は、1
        674(延宝2)年に大成寺を開いて菩提寺とした。

        
         7代藩主の就馴(なりよし)は藩校鳴鳳館を創設するなど、文教興隆の基礎を築いた。 

        
         9代藩主の元蕃(もとみつ)は徳山藩最後の藩主で、幕末維新に際しては本藩に橋梁して活
        躍する。元蕃は広鎮(ひろしげ)の七男で、禁門の変の責任者として自刃を命ぜられた本藩家
        老福原越後の弟、藩主毛利敬親公の嗣子となった毛利元徳の兄である。
         右隣には8代藩主であった広鎮の墓である。41年間の治績により幕府から城主格を与
        えられて4万石が認められる。

        
         手前から2基目の墓が3代藩主の元次で、明敏で好学の聞こえ高く、文化面で治績を上
        げたが、本藩との争い(万役山事件)によって改易の憂き目に遭う。

        
         大成寺(臨済宗)は、1670(寛文10)年富田村(現周南市富田)にあった観音寺を移転し、
        1674(延宝2)年初代藩主が徳山毛利家の菩提寺とした。境内には「百万一心」の碑があ
        る。

        
        
         現周南市長公舎は、1826(大正15)年海軍燃料廠の廠長官舎として建てられ、終戦を
        迎えるまで歴代の廠長が使用した。2度にわたる空襲を免れた木造公舎は、戦後、徳山市
        に払い下げられて市長公舎として使われた。洋館と和舘の2棟があるようだが、公開日以
        外は門扉前からの見学となる。(国登録有形文化財)

        
        
         緑地公園まではポイントにトイレがあったが、その先はないので御弓町公園に立ち寄っ
        て東川を下る。河岸は桜並木通りで花見時期は大勢の人が訪れる場所でもある。

        
        
         下松の「お満佐(まさ)」と「お加屋(かや)」、徳山の「お米(よね)」が都濃の三孝女とされ
        る。
         お米は、1791(寛政3)年に徳山(現周南市)橋本町に生まれ、6歳の時に母を喪ったの
        で父親の足手まといとなるため母方に引き取られる。1802(享和2)年お米が12歳の時、
        父親が病にかかり、看護のため帰宅して父親の孝養にその一生を尽くす。
         時の藩主より数回にわたって褒美をいただいたが、孝養を尽くすこと31年、お米42
        歳のときに父親がこの世を去る。後年には病にかかり、父母の墓の傍らに埋めるように頼
        んだという。(墓は徳応寺)
         駅までは近いのだが、歩き疲れたので揚柳橋バス停よりJR徳山駅に戻る。


周南市の周南緑地西公園に戦争遺構 ①

2023年11月26日 | 山口県周南市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
         遠石(といし)および周南緑地周辺は東川下流の東、梅花川流域に位置する。
         遠石の地名由来について地下(じげ)上申は、往古、磯浜の影向石(ようごういし)という大
        岩があって、遠国から宇佐八幡宮神がこの石に飛んできたことで遠石となったと伝える。
        (歩行約9㎞)

        
         JR櫛ヶ浜駅で下車する。

        
         原江寺(曹洞宗)は、1871(明治4)年に原始院とその末寺であった吸江庵とが合併し、
        両寺名の1字を取って現寺号に改称する。
         原始院は室町期の1496(明応5)年に創建され、久米の他地にあった。この地にあった
        のが吸江庵で、開山当時は東西には松が茂って松声高く、南を望めば海波遠く望み沖を島
        に囲まれた徳山湾が、あたかも中国湖南省にある洞庭湖の風景に似ていることから寺名を
        吸江庵にしたという。(本堂は改修中)

        
         村井七之助は明治期に櫛ヶ浜防波堤を建設し、漁港を完成させるなど地元の功労者であ
        る。1853(嘉永6)年に櫛ヶ浜に生まれ、1884(明治17)年戸長になり、その後、太華
        村長を16年間務める。

        
         左手に櫛ヶ浜駅構内を見ながら横浜緑地公園へ向かう。

        
         横浜大師堂は周南八十八ヶ所36番札所で、弘法大師像ほか3体が祀られている。建立
        年月日などは不明とのことだが、大師堂のおかげで横浜町(旧舟方かこ町)は火災の発生が
        なかったという。
         ここにあった家々は、公害防止事業団により緩衝緑地として整備されたため、周南団地
        に集団移住して、その跡は横浜緑地公園となっている。

        
         この地は仲小路廉(なかしょうじれん)の屋敷跡で、1865(慶応元)年徳山藩士の子として
        生まれ、司法省法律学校に学ぶ。東京地方裁判所検事、後に逓信次官となり、桂内閣、寺
                内内閣では農商務大臣を歴任などする。

        
         公園内だが車の通行は可能である。

        
         「舊藩舟方跡」は遠石八幡宮の宮前にある。1683(天和3)年徳山藩は御船手(海軍)を
        創設し、下松にあった御船倉を遠石町東端(長浜)の地に移転した。ここが当時の海岸線で
        あった。

        
         宮前の県道347号線(下松新南陽線)。

        
         遠石八幡宮前が旧山陽道。

        
         八幡宮の参道に入ると、右手に「千日寺四国88ヶ所札所」「福寿庵西国33番札所」
        の石柱がある。
         説明板は薄れているが、この奥に千日寺(千日庵)が安土桃山期に建立されたといわれ、
        山口県風土誌に「阿弥陀堂(無量寺末庵)もと千日寺の古跡なり」とある。境内に早乙女之
        碑、不動明王石仏、四国八十八ヶ所石仏、徳山西国三十三観音石仏等があると微かに読め
        る。

        
         寺跡へ上がって行くと更地化されていた。ここにあった石仏はどこへ行ってしまったの
        だろうか。

        
         境内には、江戸時代に山陽道を通る若い飛脚が地元女性の評判となり、丁度田植え時期
        に通りかかった飛脚を五月女たちがとり囲んだところ、短刀で斬りつけたとされる。(他説
        もあり)
         この時に死亡した早乙女を供養するため、事件のあった久米ヶ瀬戸に塚(のちに石碑)が
        建てられたとのことだが、何らかの事情で移転させられたものと思われる。(2020年撮
        影)

        
         四国八十八ヶ所石仏など。(2020年撮影)

        
         この鐘は鎌倉時代の技法をよく表している銅造の洪鐘とのこと。1184(元暦元)年壇ノ
        浦合戦直前の戦いの際に流れ矢が当たり鐘声が悪くなった。新たに造り直したが思わしく
        なく2つの鐘を合わせて、1320(元応2)年に造り直したことが銘文に記されているとい
        う。

        
         洪鐘の裏丘に句碑が並ぶ。1859(安政6)年原田曲斎は「七草吟社」を創立し、曲斎以
        後徳山の俳壇は、七草吟社と鼓吟社(句碑は熊野神社)との対立が持続されたという。遠石
        八幡宮との関係やその後の経緯は知り得なかった。
                「澄む月や雲らぬ空のます鏡」 3代・翰斎張芝

        
               「真こころをうつすや月のかゝみ山」 2代・麦園瓢慮

        
                右の句「遠近の樹々に闇あり雪の山」
                左の句「鎮ます影やかつらの男山」 初代・原田曲斎

        
                「牛の啼く隣は遠し秋の暮」 7代・曲園我律  

        
               「花ちりてまとふ色なし峰の雲」 6代・六瓢園含翠

        
               「いつる日も入る日も遠き枯野かな」5代・穴倉瓢斎

        
               「人の世を忘れて雪のあしたかな」 4代・麦屋瓢仙 

        
         一対の献灯は櫛ケ浜の漁民・村井喜右衛門と弟の亀治郎が、1795(寛政7)年6月に奉
        納したものである。
         1798(寛政10)年10月オランダがチャーターした米国船籍が長崎港外で沈没した際、
        潮力と風力を利用して34日間を要して浮上させたとある。現在のサルベージの先がけ的
        な仕事をした人物である。

        
         「寄進 凱旋紀念」と刻字されているが、1906(明治39)年の日露戦争役の碑のよう
        だ。

        
         右から「見ざる・言わざる・聞かざる」が並ぶが、「自分に都合の悪いことや人の欠点
        や過ちなどは、見ない・聞かない・言わないのが良い」という。
         この言葉は、中国の思想家・孔子(紀元前552-479)の「論語」に由来するという説がある。   
        4つの戒めを人々にわかりやすく伝えるために、猿を使って3つを表現したと考えられる。

        
        
         遠石八幡宮の社伝によると、飛鳥期の622(推古天皇30)年頃宇佐八幡宮の分霊を祀り、
        708(和銅元)年に社殿を造営した。平安期には石清水八幡宮別宮で本朝四所八幡(豊前の
        宇佐、山城の男山、相模の鶴岡、周防の遠石)の1つと称された。
         神門の軒は一間で、門扉は桟唐戸両開きである。左右袖塀は各三間で中央を脇門とし、
        脇間に連子窓をたてている。

        
         拝殿は左右に翼部をのばし、正背面に構える向拝屋根の拝み部分を両翼の棟に重ねてい
        る。

        
         神門を潜ると右手に大きな「シャコ貝」が置かれている。石には「奉寄進 武運長久 
        南洋西カロリン群島パラオ島産」とあるが、寄進年などは読み取れなかった。
         1914(大正3)年日本はパラオを含むミクロネシアの島々を占領し、1945(昭和20)
         
年まで統治を続けた。

        
         拝殿の右奥に建つ祭器庫は平屋建て銅板葺きで、外側面は透塀に合わせた連子窓形の板
        壁である。両翼の位置にある神饌所と形式は同じである。 

        
         拝殿翼部両端から本殿背後を囲む透塀で、祭器庫と神饌所の妻に取り付いている。軒は
        一間で腰は竪板張で、連子窓には横長六角形断面の連子子(れんじこ)を並べる。

        
         遠石八幡宮裏手から下って行くと地蔵堂がある。昔、いつも詣でに来ていた大河内の人
        が、この地蔵様を大河内にお連れしようと、背中に背負って歩いていると遠石の人に出会
        った。そこに地蔵様を下ろして話をし、再び背負って歩こうとしたが動けなくなった。大
        河内の人は、この遠石の地は居心地が良いのだろうとお連れするのをあきらめたと‥。そ
        の場所が現在の地だそうだ。

        
         灯籠と違って火口のない六地蔵を彫った六角の石幢(せきどう)がある。

        
         遠石東町には吉田・福原といった醤油屋が並ぶ。(福原醤油) 

        
         梅花川の渡ると右手に鳥居と灯籠のある場所に影向石がある。遠石八幡宮縁起によると、
        宇佐八幡大神が神馬にまたがり、この磯浜に降臨し、この大石に降り立ったという伝説の
        岩である。

        
        
         居蔵造に連子格子造りの旧家がある。

        
         和光幼稚園と宝性寺(真宗)先の坂入口に、「出雲国いつばたやくしかんじょうの地」と
        刻まれた石柱が立っている。

        
         坂に一畑薬師堂があったことから、「なみあみだぶつ」と唱えながら通ったので念仏坂
        と呼ばれていたという。

        
         下り坂坂に入ると「明治42年」の道標がある。「古(こ)のうへ丹(に)いちば多(た)やく
        しあり」と刻まれている。

        
         旧山陽道は、この先徳山城下に入って行く。


徳山毛利家時代の生誕地碑などを巡る ① (周南市) 

2023年11月24日 | 山口県周南市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         徳山は東川河口一帯の平地と金剛山南麓の丘陵山地に位置し、南は周防灘に面する。萩
        藩の支藩・徳山藩の城下町であり、城下の南側を旧山陽道が東西に走る。
         1945(昭和20)年5月と7月の徳山大空襲でほとんどが焼失して、城下町の面影を見
        ることはできない。
         徳山の地名について、近世に改名されたものは出目がはっきりしているが、この徳山に
        ついては諸説あって明らかでない。「増補周防記」のなかにある「得徳如山」の語からと
        いう説もある。(歩行約11㎞)

        
         JR徳山駅は、1897(明治30)年山陽鉄道㈱の駅として開業する。1969(昭和44)
        年9月に駅ビルが完成し、1975(昭和50)年に山陽新幹線の停車駅となる。老朽化と駅
        構造上から新たな駅舎(橋上駅)に建て替えられ、駅南北の自由通路と駅北口(みゆき口)の
        駅ビルには図書館など交流施設が併設されている。
         ホームに降り立つと、当地出身の童謡詩人・まどみちお(1909-2014)の代表作である「ぞ
        うさん」(1番ホーム)の到着メロディ―が流れる。ちなみに3・4番ホームは「一年生に
        なったら」の到着メロディ―である。

        
         御幸通りの両側は銀杏並木。この通りで年に1度の周南冬のツリーまつりが行われる。

        
        
         狛犬の台座には「徳山燃工会解消記念 昭和17年(1942)2月建立」と刻まれている。
        徳山燃工会とは、当時徳山の地にあった海軍燃料廠内の職工をもって組織された労働組合
        であった。1926(大正15)年10月に設立され、千名の従業員のうち約650名が加入
        したという。
         ところが、1931(昭和6)年の満州事変を契機に軍国主義が台頭、戦時体制が強化され
        て自主解散させられて戦時体制に統合される。会の解散時期ははっきりしないが、台座に
        は大東亜戦争開戦後の1942(昭和17)年2月建立とあるので、その前後に解散させられ
        たと思われる。

        
         桜馬場と御幸通りの銀杏。

        
         徳山藩家中の屋敷図。萩藩の支藩である徳山藩は、毛利輝元の次男である就隆が、16
        17(元和3)年に周防国都濃郡を中心に3万石を分地され立藩する。幕府より藩として正式
        に認められたのは、1634(寛永11)年のことである。
         当初は下松に館を構えたが、山陽道から隔たるなど不便なため野上村に居館を移し、1
        650(慶安3)年に地名を徳山と改め徳山藩とした。

        
         山口銀行徳山支店の地が奈古屋蔵人(くらんど・1758-1793)の屋敷跡とされる。徳山藩の
        家老として30余年にわたり、2人の藩主に仕えたが、学問を好み、特に藩校「鳴鳳館」
        の創設に尽力する。

        
         児玉家は源太郎が5歳の時に父・半九郎が死去したため、浅見栄三郎の次男である厳之
        丞(のち次郎彦)が源太郎の姉・久子と婚姻して児玉家の家督を相続した。
         次郎彦は藩の大目付などを務めたが、正義派の一人として活躍したため、1864(元治
          元)
年に旧屋敷地の玄関で非業の最期を遂げた。これにより児玉家は藩の命令で家名断絶と
        なり屋敷は没収されたが、「正義派」が政権を取ると、1865(慶応元)年源太郎が家名を
        相続し、この神社地に新しい屋敷が与えられた。

        
         児玉源太郎の功績を称える記念樹として、1925(大正14)年にタイワンゴヨウ(マツ
        科)の苗木数本が台湾から取り寄せられて児玉神社に植えられる。
         1962(昭和37)年都市計画による道路改修が行われる際に、伐採話もあったがそのま
        ま残されたという。

        
         鳥居の右手前方には、1918(大正7)年の13回忌に後藤新平が揮ごうした「徳足以懐
        遠(徳足りるを以って遠くを懐かしむ)」の碑が建立される。児玉源太郎は台湾総督時代(18
        98-1906)に後藤新平を民政長官に抜擢し、ともに民政に力を注いだ。
         後藤新平(1857-1929)は現奥州市水沢で生まれ、医師であったが内務省に入り、台湾民政
        長官、南満州鉄道初代総裁などを務め、以後、逓相、内相、外相などを歴任する。

        
         児玉神社は、1922(大正11)年11月前田蕃穂外52名の有志が、神社設立の許可願
        いを内務大臣に提出する。翌年に許可されて屋敷跡に流造(ながれづくり)の社殿が建立さ
れる。
         社殿傍には元台湾総統の李登輝氏が揮ごうした「浩気長存(浩然の気は永遠不滅である)」
        の石碑がある。(浩気とは生気)

        
         1864(元治元)年禁門の変後に、徳山藩でも恭順派と正義派が激しく対立する。この年
        の8月9日夜、正義派の10数人は恭順派の藩士宅を襲い、これをきっかけとして恭順派
        は正義派を捕え処刑する。これを徳山藩の殉難七士という。
         七士とは河田佳蔵、児玉次郎彦、本城清、江村彦之進、浅見安之丞、信田作太夫、井上
        唯一で、七士殉難の後、徳山藩では恭順派の勢力が衰えると正義派の時代になり、やがて
        殉難七士の家は復興される。(もとは遠石にあったものが現在地に移される)

        
         桜馬場は藩士の調馬場として、旧三番丁の南端から西本町にかけて馬場をつくり、数百
        本の桜が植えられた。これ以来、桜馬場と呼ばれるようになる。(徳山小学校界隈)

        
         徳山藩の藩校は、1785(天明5)年に藩主の館邸近くに鳴鳳館(めいほうかん)として創立
        された。
         しかし、敷地が狭かったため、1831(天保2)年徳山城下の中央部(現在の徳山小学校)
        に新築移転する。1852(嘉永5)年に鳴鳳館名を廃して興譲館に改める。「鳴鳳館」名は、
        奈古屋蔵人と親交のあった儒学者・亀井南冥に依頼し、「詩経」の大雅の巻・阿の章から
        「鳳凰は鳴く」の2字を取って命名された。

        
         毛利町1丁目にある徳山カトリック教会。

        
         毛利町2丁目の桜並木通り。県総合庁舎がある地に徳山高等学校の前身である徳山高等
        女学校があったとされる。1911(明治45)年都濃郡立都濃高等女学校が開校し、県立化
        されると徳山高等女学校に名称変更する。
         1945(昭和20)年7月の徳山大空襲で校舎が全焼し、戦後の学制改革で徳山女子高等
        学校となり、のちに徳山東高等学校(女子高)と校名変更する。1950年(昭和25)年徳山
        西高等学校(男子校)と合併して、現在の徳山高等学校へ引き継がれる。

        
         岐山(きさん)通り2丁目付近の銀杏並木。

        
         井上唯一は奇兵隊の一員として活躍し、七卿都落ちの時にはその護衛の役を務める。幕
        末における徳山藩の内訌(うちわもめ)の際には、正義派の一員として活躍したため恭順派に
        捕えられて浜崎の獄舎入れられ、1864(元治元)年に処刑される。(享年23歳)
         処刑後に家名断絶とこの地にあった屋敷が没収されたが、藩論回復後に復興する。(弥生
        町2丁目のアプロース弥生傍)

        
         福原越後元僴(もとたけ)は徳山藩8代藩主・広鎮の子で、萩藩の家老であった福原家を継
        ぐ。1863(文久3)年の政変で京都を追われた長州藩は、翌年に京都へ攻めのぼるが、そ
        の際の長州藩の総大将を務める。
         しかし、禁門の変で敗退すると責任を負わされ、1864(元治元)年8月7日この付近に
        あった衣笠伊織宅に幽閉される。同年11月11日に岩国へ護送されて清泰院で自刃させ
        られる。(享年50歳)

        
        
         児玉源太郎は、1852(嘉永5)年2月25日この地にあった児玉家の屋敷で生まれる。
        屋敷は家名断絶の際に没収されたままとなっていた。
         明治になって源太郎が買い戻し、当時の屋敷地の一部を残して近代的な児玉文庫を創設
        するが、1945(昭和20)年7月の大空襲で焼失する。 

        
         「産湯の井戸」とされる井戸が現存する。

        
         井戸の傍に「贈 従四位児玉次郎彦君遭難之跡」がある。

        
         旧徳山市時代の市花であるサルビアがデザインされたマンホール蓋。(現在もサルビアが
        市花) 

        
         本城三儒とは、紫巌・太華・素堂である。その本城家の屋敷跡がこの辺りあったとされ
        る。
         紫厳(1737-1803)は鳴鳳館が創立されると、初代学頭として発展に尽力する。
         太華(1775-1844)は紫厳の子で、九州の亀井南冥に学び、帰藩して鳴鳳館の助教となり、
        世子広篤(後の藩主・元蕃(もとみつ))の字読となる
         素堂(1825-1865)は、通称・清と呼ばれ、江村氏の出で本城家を継ぐ。藩主の元蕃の近侍
        になったほか、興譲館の教授となる。(碑は岐山通り中央の緑地帯) 

        
         岐山通りを見返り花畠町に入る。(進行方向の左手に徳山高校)

        
        
         初代藩主就隆は、1650(慶安3)年に地名を徳山と定め、城下町を整備する。1658
        (万治元)年には鐘撞堂をつくり、以来廃藩まで220余年にわたって城下に時を告げるとと
        もに、有事の際に利用されてきた。
         廃藩後、徳応寺の所有となった時鐘は、先の大戦で銘文のみを残して供出される。(碑は
        新堀自治会館前) 

        
         桜並木通りに出ると市美術博物館前に、藩の居館やその外諸臣の邸宅などを管理する作
        事方があったとされる。

        
         毛利町3丁目付近の桜並木。

        
         作事方の向い側に祐綏(ゆうすい)神社への道しるべがある。昔はここから北に桜、南に松
        並木があったとされ、指の指す方向が東を指し、50mばかり行って左折すると、公園に
        至る道が参道であった。現在は国道を渡る道がないので、北の文化会館方向を指している。

        
         道しるべから北へ向かうと旧藩武方跡碑がある。藩の武具一切を管理していたのが武方
        であった。(現在の美術博物館付近)

        
                 徳山藩は一国一城制度のもとで、堀というものもない「御館」で政務を行なった。藩の
        改易、再興を経て、1871(明治4)年まで9代・約220年間にわたり城下町として栄え
        る。現在は跡地に文化会館が建設されている。

        
         藩邸跡には遺構らしきものは残されていないが、片隅に庭園の一部と思われるようなも
        のがある。
         娘の麗子をモデルにした作品などで知られる洋画家・岸田劉生(1891-1929)は、1929
        (昭和4)年11月満州旅行の帰途に同伴の画商・田島一郎に伴われ、田島の郷里である徳山
        に立ち寄る。3週間滞在するが12月20日病のため、当地で38年の生涯を閉じる。

        
         徳川幕府は、1620(元和6)年から10年間にわたり外様大名に大坂城の石垣を修築さ
        せる。1624(寛永元)年毛利家は大津島の石98個を切り出し、その際に毛利氏の家紋を          
        略したものを刻んで船で大坂に運ぶ。これはその時の残石とされる。

        
         祐綏神社は、1811(文化8)年に徳山藩初代藩主・毛利就隆を祭神として建てられた。
        現在の徳山動物園の中にあったが徳山空襲で焼失し、1960(昭和35)年に現在の場所に
        再建される。名の由来ついては、「神道辨」の中にある「護神祐以綏萬民」という文から
        引用された。

        
         徳山藩初代藩主・毛利就隆が下松より野上に居館を移し、改称から250年を記念して、
        1901(明治34)年に東舩町中と東浜崎町中の有志が建立する。 
 
        
        
         徳山動物園の入口にはD51式蒸気機関車が展示されているが、1936(昭和11)年か
        ら1945(昭和20)年までに1,115両製造された。この機関車は標準形といわれるもの
        で、1940(昭和15)年に製造され、仙台、厚狭や広島などの機関区で約118万㎞を走
        る。 

        
         徳山動物園前庭にある種田山頭火句碑
                  「新しい 法衣いっぱいの陽か あたゝかい」
         久保白船の夫人・清子さんに法衣を仕立ててもらった時の句とされる。

        
                   「踞(うづくま)ればふきのたう 白船」
         久保白船(本名、周一)は、1884(明治17)年に熊毛郡平生町佐合島に生まれる。萩原
        井泉水の自由律俳句誌「層雲」の同人となり、選者として活躍する。1916(大正5)年に
        子女の教育のため徳山の佐渡町(現本町)に移住し、文房具と書籍の店を開業するかたわら、
        「雑草の会」を主宰する。1940(昭和15)年親友の種田山頭火が急死すると松山に渡り、
        遺体を荼毘に付すが翌年には白船も急逝する。(享年58歳) 

        
         岩井勝次郎(1863-1935)は京都に生まれ、大阪で創業した岩井商店㈱(日商岩井)の経営者
        で、1916(大正5)年に徳山に進出して日本曹達工業株式会社(現在のトクヤマ)、現在の
        日新製鋼㈱を創業する。工業都市周南の発展に寄与した氏の功績を称え、1937(昭和12)
        年遠石三丁目の薬師堂上に碑が建てられたが、1942(昭和17)年徳山公園(動物園前)に
        移設された。

        
         室町期の1555(弘治元)年陶晴賢が厳島での戦いに敗れ、この地を治めていた野上氏も
        運命をともにする。
         野上氏に代わって杉元相が野上を支配すると、元相は見晴らしのよいこの地に居館を構
        え毛利氏に仕える。その子元宣は、1589(天正17)年野上庄沖ある大島で不慮の死を遂
        げる。杉氏はわずか20数年で断絶してしまう。


徳山毛利家時代の生誕地碑などを巡る ② (周南市)

2023年11月24日 | 山口県周南市

        
         国道2号線の地下道は、入口に大きな「にじいろカバさん」が出迎え、地下道に入ると
        ZOO内にいる動物たちが描かれ、「ぞうさん」のメロディが流れる。

        
         弁財天はこの地より東方100mの所にあったが、1974(昭和49)年の都市整備に伴
        って移転する。

        
         毛利就隆が武家屋敷に設けた4ヶ所の関門のうち、この石は一番丁北上に設けられた北
        の関門の片方の石で、戦災で焼けた跡にあったものを地元の人が発見し、弁財天の所に運
        んで保管する。

        
         1869(明治2)年の箱館の戦いを最後として、戊辰戦争に参加した徳山藩の山崎隊や献
        功隊は徳山に凱旋する。そこで徳山藩政府は、翌年の11月この花畠に兵塾を建設して練
        兵場を創設する。
         しかし、1871(明治4)年徳山藩は山口藩と合併することとなったため、諸隊は解散さ
        せられて一部は山口藩へ移管された。(長州藩に脱退騒動が起こる)

        
         長州藩三家老の一人である益田親施(ちかのぶ)も禁門の変の責任者として、ここより東寄
        りの位置にあった惣持院(1871年に廃寺)に幽閉されて、1864(元治元)年11月12
        日に切腹させられる。(享年32歳)  

        
        
         徳山藩の庶務や会計などの行政を担った「御蔵本(おくらもと)」があった地。徳山大空襲
        で90%が焼け野原となったが、敷地をめぐる土塀は難を免れて残されていたが取り壊さ
        れた。

        
        
         毛利町2丁目(県総合庁舎前)の銀杏並木。足元にはたくさんの銀杏の実が落下している。

        
        
         三番町2丁目(県総合庁舎東側筋)に浅見安之丞と児玉次郎彦の生誕地碑。
         安之丞は興譲館の句読師となり、槍術の指南役を務め、1861(文久元)年藩主に従って
        江戸に赴き、翌年京都に入り尊皇攘夷のために活動する。1864(元治元)年8月に恭順派
        に捕らえられ、本城清、信田作太夫らと共に浜崎の獄につながれ、翌年の1月に新宮の海
        辺で縊殺される。

            
         歩道橋で県道徳山港線を横断する。

        
         「大日本野(や)史」291巻の著者・飯田忠彦の生家跡。野史とは民間で編纂した歴史で、
        1392年以降の420年間を30年余りをかけて刊行する。
         忠彦は尊王の大義を唱えたため、安政の大獄のとき留置の身となり、1860(万延元)
        5月に自殺する。(享年63歳) 

        
        
         県道下松新南陽線に合わして大成寺への道に入る。茶系のビル下に本城清生誕地・江村
        彦之進屋敷跡の碑がある。
         本城清は江村忠韶の第2子で、本城家を継ぎ興譲館教授を務める。1864(元治元)年の
        恭順派との争いの際、浅見安之丞と信田作太夫とともに浜崎の牢獄に入獄され、1865
        (慶応元)年正月14日に新宮の海辺で縊殺される。
         江村彦之進は本城清の弟で、興譲館訓導役を務めていたが、1864(慶応元)年に暗殺さ
        れる。

        
         御弓町公園には元海軍集会所があった所とされ、門扉にヒンジ(ちょうつがい)が見られ
        る。

        
         国司親相(くにし ちかすけ
)幽閉されていた澄泉寺で、1864(元治元)年11月12日切
        腹する。(享年23歳) 
                 寺は公園より
西方100mほどの場所にあったが、1871(明治4)年に廃寺となり、碑
        は開発のために公園内に移設された。

        
         東川左岸を上流に向かう。

        
         角場というのは射撃の練習場(試し撃ちをする所)のことで、徳山藩では、元禄から享保
        にかけて銃器は軍制上、足軽の所用とされ、武士はその技を修めなかった。
         1810(文化7)年に稽古料として、毎年銀200匁を修業者に支給したことで、武士の
        砲術が始まったとされる。

        
                  「毬つくや 岐陽山河の 数へ唄」
                   「今日の日を 包みて了(お)へぬ 花芙容」
         兼崎地橙孫(本名は理蔵)は徳山藩士・昌司(号・橙堂)を祖父に持ち、父は茂樹(号・地外)
        で、地橙孫という俳号は、父と祖父の号から一字をとり、それに孫をつけた。
         1910(明治43)年に河東碧梧桐と出会い、弁護士活動の傍ら県俳句会の指導者として
        後進の指導にあたる。

        
         東川筋を下る。

        
         川端町1丁目に藩校「興譲館」の教授を務めた島田蕃根屋敷跡。

        
         徳応寺(浄土真宗)は、もと播磨国の武士であった宗覚法師によって遠石の地に開基され
        る。1617(元和3)年に現寺号とし、1685(貞亨2)年2代藩主・元賢より寺領を拝して
        現在地に移転する。(現川端町2丁目) 

        
         都濃三孝女の一人、阿米(およね)の墓がある。阿米の孝養は徳山藩主の耳にも届き、たび
        たび表彰されたという。

        
         赤松安子(1865-1913)は与謝野照幢(しょうどう・1862-1921)と結婚し、1886(明治19)
        年徳応寺本堂で「徳山婦人講習会」を開設する。この会は翌年に「私立白蓮女学校」に発
        展し、1890(明治23)年同寺の門前に校舎を新築して「私立徳山女学校」と改称する。
         しかし、1913(大正2)年安子の死没ともに募集を止め、1916(大正5)年に閉校する。
        照幢の弟である京都出身の歌人・詩人である与謝野鉄幹(1873-1935)は、兄の照幢に招かれ
        て徳山女学校の教師を務めるが、後に上京して雑誌「明星」を創刊する。

        
                  「貧山の釜霜に鳴聲寒し」(霜釜塚)
         1681(延宝9/天和元)年松尾芭蕉38歳の句。貧山は貧しい寺のことで貧乏寺を訪れた
        とき、そこの茶釜が音をたてて湯が沸いていた。霜の降りる寒い日の句のようだ。

        
                  「登る程遠のく雲や山さくら」(二世可律坊)

        
         昭和町2丁目から糀町界隈を歩いてフェリー乗り場へ向かう。

        
         晴海埠頭への跨線橋からJR徳山駅。

        
         この石灯台は、1893(明治26)年に当時の蒸気船問屋の「共栄社」によって建立され
        た。当初は東浜崎に建てられてランプによって点滅していたが、その役目を終えて戦後の
        都市計画でフェリーボート乗り場に移設されたが、2002(平成14)年3月に徳山湾頭の
        晴海親水公園に移設される。
         この公園の対岸には、工場群やクレーンなどが立ち並ぶ周南コンビナートが広がってお
        り、工場夜景の鑑賞スポットにもなっている。(日本夜景遺産に認定)

        
         1863(文久3)年8月18日の政変後、勤王派の7公卿は京都を追われ、3隻の船に分
        乗して兵庫を船出して長州へ向かう。1番船には三条実美、2番船には三条西季知・壬生
        基修・四条隆謌・錦小路頼徳、3番船には東久世通禧・沢宣嘉が乗り込む。
         3隻とも三田尻まで直行する予定であったが、嵐のため1番船と2番船は笠戸に1泊し、
        翌日に徳山の東浜崎に上陸して三田尻へ向かった。
         五卿が東浜崎に上陸したことを記念し、1913(大正2)年上陸地点(旧東浜崎)に「五卿
        登陸處」の石碑が建立されたが、徳山港の整備により晴海親水公園の一画に移転する。

        
         1904(明治37)年海軍煉炭製造所(後の海軍燃料廠)が設けられたことをきっかけに、
        日本曹達工業(現トクヤマ)など様々な企業が進出する。これを受けて、1922(大正11)
        年に徳山港が開港し、特別輸出入港に指定される。(昨年が開港百周年)
         第一次世界大戦(1914-1918)後の軍艦は、燃料を煉炭から重油への転化が進み、これを受
        けて煉炭製造所は、1921(大正10)年海軍燃料廠に改組する。

        
         みなと会館の敷地内に「開港記念碑」が設置されているが、特別輸出入港の指定を受け
        たが、当時の港湾施設は海軍や各工場の専用で、公共用の船溜まりや防波堤がある程度で
        あった。そこで民間資本による開港会社を設立し、公有水面の埋立て、灯台の設置、税関
        支署や水上警察派出署の敷地造成が行われた。
         1927(昭和2)年この地に門司税関徳山支署が置かれ、開港記念碑が建立される。 

        
         幕末にアメリカの黒船が浦賀に来航し、開国か攘夷かの論議が高まり、1863(文久3)
        年4月に幕府が奏上した5月10日を期限として外国船を打ち払うこととなる。そこで徳
        山藩は海岸防衛のため、熊野権現社付近に砲台場を築造する。(攘夷論を主唱したのは長州
        藩) 

        
         熊野神社の創建などは知り得なかったが、1945(昭和20)年の徳山大空襲で社殿は全
        焼したが、その後現地に復興されたという。

        
         大野直輔(1842-1922)の報徳之碑で、徳山藩士の三男として生まれ、藩校の興譲館や萩の
        明倫館で学び、徳山藩のひとつであった山崎隊の初代総督を務める。
         1868(明治元)年に毛利元功(もといさ)のイギリス留学に随行し、帰国してからは造幣局
        長や銀行局長を歴任する。(右手の碑は不詳)

        
         熊野神社から江田ヶ薮(えだがや)第一踏切で、みゆき口側に移動して駅に戻る。


山口市の問田に姫山伝説とえんこう地蔵伝説 

2023年11月21日 | 山口県山口市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         問田(といだ)は姫山の東南、間田川流域に位置する。(歩行約6.5㎞) 

        
         JR防府駅からJRバス山口大学行き約40分、宮島町バス停で下車する。

        
         バス停から引き返して信号機のある交差点を右折すると、右前方に姫山は見えてくる。

        
        
         山口市水道局宮島ポンプ室は、1935(昭和10)年水道水を象頭山の配水池へ送水する
        ためのポンプ室として建てられた。
         延面積134㎡の建物にはアーチ式の窓を配し、壁はスクラッチタイルが張ってある。
        (国登録有形文化財)

        
         仁保川からの姫山。

        
         二級河川の仁保川は、この先で問田川と椹野川に合流する。 

        
         仁保川に架かる中川橋を渡り、次の三差路を右折すると問田川の左岸に出る。上流の姫
        山橋で右岸に移動する。

        
         川土手を進むと正面に石鳥居が見えてくる。ここが姫山登山口で姫山城と姫山伝説につ
        いての説明板がある。

        
         鳥居を潜り擬木階段を上がるが、極めて険阻で天然の地形から山城に適しているので、
        早くから城として利用されていたと思われる。最初は暗かった登山道も右手が明るくなる
        と、樹間から大内の町が開ける。

        
         姫山城は防府から山口に通じる本道の大手に当たり、山口の防衛拠点としてきわめて重
        要な役割を担っていたと思われる。(間田川と大内の町並み) 

        
         次の展望地から少し登ると、石灯籠の先に愛宕社の広場がある。火伏せ・防火に霊験が
        あるとされるが、由来などの詳細は知り得なかった。

        
         社殿の左側から登山道に取り付くと、シダが被さる道となるが、足元が見えるので迷う
        ことはない。途中の急傾斜にはロープも渡されており、目印のテープを確認しながら進む。

        
         正面に反射板を見るとフェンスの左手に回り込み、雑木林になるとシダから解放されて
        小ピーク(標高193m)に上がる。
         姫山城の概略を示すものが貼り付けてあって、これによると小ピークに郭があったと記
        載されている。

        
         小ピークから主尾根を下ると、進行方向の左右は懸崖のようである。

        
         標高199.0mの山頂は平地であるがあまり広くない。姫山城は内藤氏の居城で、室町
        期の1556(弘治2)年3月杉重輔を滅ぼした後、内藤隆世は姫山城に入って毛利氏の来攻
        に備えたが、翌年毛利元就が若山城を陥れて、一挙に山口を衝こうとする形勢になり、直
        ちに城を出て義長と共に高嶺城に入った。
         姫山城には宍道隆慶を城将として兵数千ばかりが籠城する。右田岳城番である右田隆量
        父子が毛利氏に応じたり、毛利氏の大軍が山口に迫ると聞いて毛利氏の軍に降る。

        
         奥に東鳳翩山から西鳳翩山の稜線と、手前右には鴻ノ峰、眼下に椹野川が南流する。 

        
         登山道入口の説明板によると、悲哀な女性の物語が伝えられるというので、鎮魂の鐘を
        鳴らそうとしたが棒もなく残念する。
         その昔、殿様が山口城下の美女に恋慕をよせ、殿中に捕らえて想いをとげようとしたが、
        美女は殿様の邪意を受け入れなかった。激怒した殿様は美女を縛って城の井戸に釣り下げ
        蛇責めにした。美女は美しく生まれた身のつらさを、二度と後々の女性にさせぬため「こ
        の山の上から見えるかぎりの土地では、永久に容姿端麗の女性は生まれぬように」と、悲
        しみ悶え死んだという。姫山の名はこれに由来するというのである。

        
         姫山城の概要を知ることができたので、往路を引き返すという選択もあったが、折角の
        機会であるので南に延びる尾根を下ることにする。

        
         下りに入ると急斜面が鞍部近くまで続き、最後までロープの助けを借りる羽目になる。

        
         足元を気にしながら慎重に下ると、南に今山、その手前に配水池のタンクが見える。復
        路の選択を間違えたことに後悔するが、急坂を引き返すこともできず先に進む。 

        
         正面に標高140mぐらいのピークがあるが、この先も下って登り返すことを考えると
        気力が落ちる。

        
         やっと鞍部と呼ばれる所に下る。左手に黄色いテープがあって大内姫山台団地に下る道
        と思われるが、シダが被って先が読めず残念する。(見返って撮影) 

        
         鞍部からピークを越えると分岐に出るが、平川地区と眼下に山口大学が見えるので、右
        手は大学方面への道のようなので左手の道を進む。

        
         シダ道から植林帯を抜けると最後の展望地。正面のタンクが大きく見えるようになる。

        
         左手の眼下に大内小京都団地。

        
         強いシダをかき分けて進むと携帯用アンテナに出会い、その傍を抜けると問田配水池タ
        ンクが見えてくる。右手の配水池公園は避けてタンク脇を通って道祖(さい)ヶ峠に出る。

        
         バタフライ弁と記された蓋を見かけるが、バタフライ弁はバルブのことで、水や液体、
        気体を調節する目的で使用されている。バタフライ弁は円筒状になっており、円板の弁体
        を90度回転すると開け閉めができる。主なメリットはメンテナンスが簡単で機密性が高
        く、流通調整に向いているといわれている。

        
         道路に出て問田集落へ向かう。

        
         問田川左岸(南側)に間田武家屋敷跡がある。益田景祥(かげよし)は宗家を兄の子・元堯が
        継いだため分家して、初め周防右田、長門江崎を経たのち、1625(寛永2)年この地に知
        行を得る。

        
         光厳寺(浄土宗)は、寛永年間(1624-1644)頃に益田就固が創建して光勝院と号していた。 
        1870(明治3)年冷厳寺と合併し現寺号となる。

        
         山門前に「えんこう地蔵」が祀られているが、明治の初め頃までは問田の土手にあった
        が、その辺りを農地にするため門前に移されたという。

        
         この地に伝わる民話として“猿猴(えんこう)伝説” が残されている。問田川では川遊びを
        する子供たちがよく溺れて死んだので、これは「猿猴(河童)」の仕業とされた。
         ある日、百姓が川で馬を洗っていると、急に馬が走り出し、よく見るとしっぽに猿猴が
        ぶら下がっており、馬が足を蹴り上げると猿猴の皿が割れて水が流れ出てしまった。さす
        がに水がないとどうしようもなく、村人に捕まり仇討ちされる。猿猴は亡くなった子供た
        ちのために、石のお地蔵さんを建ててもらえば川に出てこないと約束したという。
 

        
         問田も農家住宅が少なくなって周囲は団地化され、アパートなどが多くなっている。 

        
         朝田上水場から問田配水池を経由して、この水管橋で川を越えて大内、小鯖方面へ配水
        しているものと思われる。

        
         問田川に架かる四方橋から見る下流。

        
         問田川と千坊地区側に大内人形を模した球形のガスホルダーが、問田川と千坊地区側か
        ら眺めることができる。
         大内人形は丸顔で切れ長の目におちょぼ口の男女が一対とされている。スイカが描かれ
        ている映像を見たことがあるが、合同ガスさんの粋な計らいに、しばし足を止めて鑑賞す
        る。

        
         反射板から小ピークと山頂への稜線を眺めて、バス停のある山口ゆめタウンまで歩いて
        ヒヤヒヤ・ドキドキの散歩を終える。


宇部市の末信から霜降城跡と持世寺

2023年11月14日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         末信は厚東川下流域に位置する。右岸地域は旧氾濫原で低地、左岸には大部分が山地で    
        東に霜降岳がある。
         持世寺は吉見の小字で、厚東川中流域の左岸に位置する。(歩行約7.4㎞) 

        
         JR厚東駅から宇部市営バス八王子行き(10:35)約15分、霜降山登山口バス停で下車す
        る。

        
         末信集落への道に入ると登山口を示す道標がある。

        
         山陽本線大馬場踏切を横断して厚東川へ向かうと、前方に霜降岳山頂と南峰が望まれる。

        
         1998(平成10)年6月竣工の末信橋。厚東川は現在の美祢市秋芳町嘉万の大瀧山を源
        流とし、周辺の農地などを潤しながら周防灘に注いでいる。

        
         橋の東詰を右折すると宇部興産㈱宇部ケミカル工場の末信ポンプ場。

               
        
         正(しょう)八幡宮について風土注進案は、平安期の859(貞観元)年厚東氏が石清水八幡
        宮より勧請し、厚東川左岸の四ノ小野から下村までを氏子として創建する。1179(治承  
        3)年厚東武光の時、霜降城を築城した際、現在の地に社殿を造営して守護神とする。

        
         1928(昭和3)年建立の鳥居脇にある石灯籠は、「防府天満宮」と刻まれているが、当
        初の設置場所ではないようだ。

        
         あまり見かけない光景である。

        
         橋からの里道に集落が形成されている。 

        
         蔵の先が末信コースの登山口。

        
         畦道を進むと防獣フェンスが設けてある。(入って撮影)

        
         すぐ左手に諏訪社が祀られているが、祭神は「諏訪大明神」で、水や風の神とされ、農
        耕の収穫量を左右する重要なもので、農耕や開拓の神として農民から崇拝されている。

        
         すぐ先が二手に分かれているが、左手の霜降城跡説明板がある道が登山道である。11
        79(治承3)年厚東武光が築城し、1358(正平13)年大内弘世に攻め落とされまでの約
        180年間、厚東氏代々の城として続いたと説明されている。

        
         このような道が続くので迷うことはないし、ポイントには「霜降山登山道」の道標が設
        置されている。

        
         途中左手に「末信 本城・中ノ城」と「中ノ城(近道)」の案内がある。

        
         近道の方を選択して中ノ城へのルートに入ると、すぐにシダ道と化してシダが絡んだり、
        サルトリイバラがあって先に進むことができず退却する。

        
         素人はこちらの方を選択すべきだった。

        
         「姫の化粧水」の看板があるが水は得られない。

        
         中ノ城への分岐。

        
         途中に分岐があって右が本城で左が中ノ城への道である。

        
         シダが被り嫌な予感がしたが、こちらの方はすんなりと進むことができた。

        
         中ノ城は頂上部に自然岩が散在する他は、特に防御施設が設けられていないという。本
        城の支城としての連絡、物見的な役割をもっていたものと思われる。

        
         正面に霜降岳山頂が見え、先ほどの三差路で山頂を目指すことができるが、先に前城に
        行くため中ノ城入口に引き返す。

        
         支尾根を越えると本城・後城・前城の分岐に出る。

        
         前城は峰にあるため下って登り返さなくてはならない。下り終えた所に持世寺への分岐
        がある。

        
         前城は南峰(標高240m)の頂上にあって、立石を中心に砦が築かれていたという。東
        側は急峻で防御には好都合であるが、南西方向の傾斜は比較的緩やかで、防御の重点はこ
        の面に置かれたようだ。頂上を中心に南斜面に空堀があるという。

        
        
         四差路に戻って本城に取り付くと、案内板が設置されている所が空堀のようだ。空堀か
        ら出た土は前面に盛られて土塁を形成している。

        
         城というが近世の天守閣と石垣を備えた城と異なり、山頂に空堀や土塁で囲った中世の
        山城である。
         厚東氏は厚狭郡の豪族であり、壇ノ浦の戦いで名を上げ、長門国守護職に任じられる。
        のちに周防国守護職の大内氏と対立するようになり抗争を繰り返した。南北朝期の135
        8(延文3)年厚東義武は、大内弘世の攻撃に支えきれず落城する。霜降城は大内氏によって
        用いられることはなく、廃城のという形で終焉する。

        
         空堀のすぐ上が山頂で、一等三角点本点は県内に5点あるがその1つである。残念なが
        ら展望はなく白い標柱が目立つだけである。

        
         標高250.2mにある本城の周囲をみると、北面に後城、南には前城が連なり、東面は
        急崖を成しており、西面は比較的緩やかため空堀を設けている。
         山名の由来は不明とのことだが、風土注進案に「末信村 霜降ヶ嶺 厚東氏代々之要害
        と申前伝候事」とある。

        
         三角点のある地点から下って行くと後城への道に合わす。

        
         後城への道も下って登り返すが、西側斜面から南斜面にかけて不規則な武者返し作られ
        ていたようで、4段になった武者返しが見られる。

        
         後城も展望はなく直進すれば持世寺への道に合わすようだが、見ると急峻であまり利用
        されていないようなので引き返すことにする。

        
         東面は急崖で注意しながら戻ると四差路に合わす。

        
         前城の途中にあった持世寺への道を下る。 

        
         城山だけあって急な下りで手強い。 

        
         峠池が見えると持世寺への道は近い。

        
         峠下の分岐は道標に従い左折する。

        
         砂防堰堤を越える。

        
         丸太橋で持世寺川の右岸に移動する。

        
         下って行くと四阿のある場所に変った堰堤がある。鋼製スリットダムA型というもので、
        土石流の貯留又は減勢を図る設備とのこと。

        
        
         蔵のある民家右手を上がって行くと持世寺の案内板がある。説明によると平安期の99
        9(長保元)年厚東武道が比叡山の僧を招いて創建したと伝え、厚東氏最古の寺とされる。創
        建当時は厚東村下岡にあったが、鎌倉期の1221(保安2)年この場所に移転する。
         しかし、毛利氏の時代になると加護が衰えたことや、再三の火災により、1843(天保
        14)年に法灯が消える。

        
         見ることが少なくなった綿の実(コットンボール)。

        
         県道西岐波吉見線に合わすが、途中に石灯籠があった場所が持世寺観音のようだ。 

        
         厚東川のほとりにある持世寺温泉について、霜降城の鬼門除けとして創建された持世寺
        に由来するという。その当時から戦いでの傷を癒したとされる。
         温泉として営業を始めたのは、享和年間(1801-1804)で杉野湯の先祖と伝える。1950
        (昭和25)年に厚東川の浅瀬で温泉が発見され、亀が教えてくれたので「亀の湯」呼ばれて
        いたが、訛って「上の湯」になった。以前は4.5軒あった宿も現在では三つの源泉を持つ
        「上の湯」1軒のみだそうだ。

        
         厚東川に架かる持世寺橋を渡り、山陽本線を横断すると県道宇部美祢線の三差路に出る。
        持世寺温泉入口バス停(15:42)よりJR厚東駅に戻る。(右手の集落は吉見の下岡) 


防府市台道の観音山三十三観音霊場と旧山陽道 ②

2023年11月09日 | 山口県防府市

        
         観音寺から旧山陽道筋に向かうと正面に佐野山。

        
         旧山陽道に出会うと佐野峠入口と楞厳寺山への案内がある。

        
         山陽自動車道下を潜り、左に楞厳寺山の道標を過ごす。(見返って撮影)

        
         佐野峠入口。

        
         街道らしい道に足が弾む。

        
         最初の石橋を渡ると状況が一変してくる。

        
         歩くには支障ないが、この時期はひっ付き虫(センダングサ)がズボンにひっかかって取
        り除くのに苦労する。

        
         快適な道と引っ付き虫を気にしながらの道が交互に現れる。

        
         やっと貯水タンクが見えてくる。

        
         「佐野たを」と刻まれた石標の先に佐波川SA、その先に先ほど登った観音山。

        
         かって佐野峠には御駕籠建場があり、1894(明治27)年頃まで一軒茶屋があったとさ
        れる。貯水タンクの建設で公園化されて当時とは趣きは違うが、1857(安政4)年藩主毛
        利敬親が瀬戸内沿岸の海防状況を巡視した際に詠んだ歌碑が建立されている。

        
         1805(文化2)年に台道の庄屋上田少蔵(堂山)が、文人・狂歌師の太田南畝(なんぽ)を案
        内し、彼が書いた「小春紀行(佐野嶺の条)」により佐野峠は著名となる。その一節が掲示
        されているが、「木の間に見ゆる海は周防灘なるべし。ふもとに佐波のながれ帯のごとく、
        まことに山陽第一の佳景なるべし」とある。

        
         引っ付き虫に悩まされたので街道を引き返さずにSAの裏道に出る。ここから「佐野た
        を水道公園」を見上げるが、1986(昭和61)年山陽自動車道佐波川SAと市内西部地区
        の配水安定供給を図るため、容量2千トンの貯水池を建設したとされる。

        
         高速道上りの佐波川SAには入ることが可能なので、トイレや食事などが可能である。

        
         残念ながらゴミ道と化しているが、他人の土地に捨てるというモラルの低下に憤りを覚
        える。

        
         再び高速道の下を潜り分岐点に戻る。

        
         今度は台道の集落を見ながら直進する。 

        
         三差路から50mぐらい下ると右手に、1865(慶応元)年に建てられた「周防三孝女
        石川阿石の碑」がある。
         説明文は擦れて読めないが、阿石は岩淵の農民・重郎右衛門の娘で、19歳で同じ里の
        伊八の嫁になる。伊八の兄である関蔵夫婦は、2町の田畑を耕作していたが、どちらとも
        足腰が悪く歩くこともできず、伊八を養子にし、「いし」を嫁にもらって家業を譲る。し
        かし、関蔵夫婦の病は治らず、薬代に田畑を売ると、貧しくて朝夕には煙りも立たないよ
        うになる。伊八は稼ぎのために旅に出たが商いに失敗し、家を出たまま10年も帰らなか
        った。
         いしは舅と姑を背負って寺に詣でたり、夜は抱いて厠に行かせるなど、女の力に耐えが
        たき事をしながら、雨漏りのする窓の下で糸を繰ってが経った。
         その行いが藩主の耳に入り、褒美と一代苗字「石川」を賜る。夫がこれを伝え聞いて帰
        って来て、二人で共に孝養を尽くしたという。

        
         近藤芳樹(1801-1880)は岩淵の農民・源吉の長男として生まれ、上田堂山の勧めにより国
        学者の本居大平(おおひら)・頼山陽らに学び、のちに近藤家の養子となり萩藩に仕える。
         明治維新後は上京し、宮中文学御用掛、明治天皇に国学を講じたり、行幸のお供などし
        たが東京で没する。

        
         岩淵集落の入口付近に常夜燈、右手に地蔵堂がある。岩淵は、宿馬十疋の半宿だったそ
        うだ。
 
               
        
         すでに更新された家々が並ぶが、岩淵市は家数30軒ぐらいとされていたが、今も家数
        はさほど変わらないようにみえる。

        
         三差路から500m足らずの岩淵市である。

        
         どこを歩いても柿の実は重宝されないようで、そのまま放置されている。

        
         2003(平成15)年に県営圃場整備事業が竣工した旨の記念碑が建つ。

        
        
         田園地帯になると道の両側は低くなり、「小俣の海」という入海になっていたという。
        初めの頃の街道は岩淵(原)から渡し舟に乗って小俣に渡り、台道市を通る曲がり道であっ
        た。江戸期までに陸続きとなり、まっすぐな道となる。

        
         横曽根川手前の道端に三角形の石塚が建っている。むかし瀬十郎という人が蛤で食あた
        りとなり、21歳の若さで中毒死したという。その塚といわれているが、瀬十郎は礼儀正
        しく人に親切な若者であったので、塚を建てて忘れないようにしたという。
         この塚に腰をかけたり、足を上げたりするような礼儀に反することをすると、祟りがあ
        ると伝えられる。「小俣 蛤 瀬十郎に敵(かたき) 惜しや殺した21を」という歌を知る
        
人も少なくなったという。

        
        
         横曽根川に架かる新大橋の先で右折し、国道2号線下の函渠で国道南側に移動する。

        
         この付近は国道の新設などで旧山陽道ははっきりしないが、他に道がないので前方の大
        道小学校を目標に西進する。

        
         旧国道2号線を進むと左斜め前方に旧街道らしい道がある。

        
         すぐ右手に地蔵立像がある。台座には「法界」とあるので、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・
        人・天の六道に加え、声聞・縁覚・菩薩・仏の十界のことで、全宇宙のことというが理解
        できない。

        
         左手に小学校を見ながら進むと県道宇部防府線に合わす。

        
         県道を渡った先に「山口道」を示す道標がある。秋穂から柴山を通り繁枝神社の傍から
        ここに至り、小俣八幡宮東側、切畑の岡の上を経て千切(ちきり)峠を越えて山口に至る道で
        ある。

        
         山口道も新国道2号線により大きく変化し、小俣地区へは地下道を利用しければならな
        い。

        
         小俣八幡宮の御旅所の鳥居には額名はないが、鳥居には「千時宝永四年丁亥(1707)九月
        吉祥日」「奉寄進小俣八幡宮氏子中」と刻まれている。

        
         この道が山口道と思える。

        
         小俣八幡宮は小俣地区の鎮守で、鎌倉期の1199(正治元)年創建と伝える。それ以前の
        小俣住民は、小鯖村の鰐鳴(わになき)八幡宮の氏子であったが、ある年の祭日に小鯖の住民
        と争いになり、小俣の者が鰐鳴八幡宮の神府を持ち帰って御神体として祀ったことに始ま
        るという。

        
         小俣地区の大歳祭で行われる「お笑い神事」は、1199(正治元)年に始まった。毎年1
        1月初旬農業の神である大歳神を迎えて代々世襲の21戸の講員が頭屋に集まって収穫の
        感謝と来年の豊作を祈願する。
         講員の二人が上座と下座に対座し、榊を手に「アッハッハ」と大声で笑い合う、1回目
        は今年の五穀豊穣に感謝し、2回目は来年の豊作を祈願し、3回目は今年の労苦を忘れる
        という意味を持っている。(現在は小俣八幡宮で行われている)

        
                「うららかな顔が にこにこちかづいてくる」
         種田山頭火は、1906(明治39)年から11年間大道の地で父と一緒に酒造場を営んで
        いた。この句は1940(昭和15)年4月初旬に最後の草庵とした松山の一草庵で詠まれた
        句である。

        
         国道筋の大道駅入口バス停からJR防府駅に戻ることができる。


防府市台道の観音山三十三観音霊場と旧山陽道 ① 

2023年11月09日 | 山口県防府市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         台道は大海湾に注ぐ河内川・横曽根川流域に位置する。東西の山麓に挟まれた扇状の低
        地にあり、往古は奥深くまで海であった。土砂の堆積と海辺の砂土が吹き寄せて繁枝砂丘
        が形成され、土砂の堆積によってできた大海湾の干潟は、順次干拓されて今の姿となった。
         1889(明治22)年町村制施行により、切畑村と台道村が合併し大道村となったが、1
        955(昭和30)年に防府市に編入されて大字台道と切畑になる。岩淵・小俣は台道の小字
        である。(歩行約9.5㎞) 

        
         JR防府駅から防長バス小郡行き約15分、西高入口バス停で下車する。

        
         歩道橋で国道2号線の上り線に移動すると、正面に防府西高校、その奥に観音山が聳え
        る。

        
         観音寺(曹洞宗)は、平安期の808(大同3)年弘法大師が諸国遍歴の折、山肌の奇岩と瀬
        戸の風光に感動し、観音寺を開創したと伝える。山腹の観音堂には、大師開眼による子安
        観世音菩薩を本尊として祀り、のち、大内弘世により周防国第二十六番の観音霊場となる。
         1674(延宝2)年住持無一道縁は、その師右田の天徳寺第5世・隠居一線鉄同大和尚を
        中興開山に勧請し、天徳寺(曹洞宗)末寺13ヶ所の一つと定める。

        
         観音山登山口(三十三観音摩崖仏への道標)

        
         最初はコンクリート道だが薬師如来堂を過ごすと石段になり、周囲にツワブキの花が見
        られるようになる。

        
         山腹にあった観音堂は、1993(平成5)年の集中豪雨で倒壊したが、3年後に再建され
        た。秘仏とされる子安観音菩薩は7年毎に開帳され一般公開される。

        
         眼下に防府西高と岩淵集落、右手の山は花ヶ岳。

        
         石灯籠が立ち並ぶ石段を上がる。

        
         コンクリート道一帯が崩落したようで、土留め工事がされている。

        
         石祠を見て整えられた石段を上がると、子安観音堂古址の標柱と周りに堂の礎石が置か
        れている。

        
         石柱と手水鉢のある所が三十三観音巡拝路入口。

        
         観音菩薩の教えを説いた「観音経」によると、観音菩薩は救う相手や状況に応じて33
        種類の姿に変身するという。観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消
        滅し極楽往生できるとされる。
         しかし、西国三十三霊場を巡礼するには、地方では遠く時間と費用をかけて出かけるこ
        とは大変ということで、それぞれの土地に写そうと「写し霊場」が誕生する。

        
         摩崖仏には番号と本尊、施主の氏名が刻まれているが、明治期に写し霊場されたものと
        思われる。7番は蓮臥(れんが)観音で蓮華座に乗って合掌し、人びとの幸せを願っている。 

        
         7番から8番の間に楞厳寺山を望むことができる
が、この先、山頂までは展望が得られ
        ない。

        
         8番付近の巡拝路。

        
         10、11番辺りから土道となる。(10番は魚籃(ぎょらん)観音)

        
         大岩に16~19番。

        
         大岩の隙間にある17番は衆宝(しゅうほう)観音で、片ひざを立てて地面に座り、一人の
        祈りが大勢を救うと説いている。

        
         18番は岩戸観音で、毒ヘビの棲む洞窟に座り、どのような毒(悪い心)でも消し去るこ
        とができると説いている。この付近の摩崖仏は姿などが鮮明である。

        
         この先で進路を変えるが、このような道が続くので迷うことはない。

        
         20番は阿耨(あのく)観音で、片ひざを立てて水辺の岩に座り、人びとを水難から守ると
        される。

        
         22番は葉衣(ようえ)観音で、片ひざを立てて蓮華座に座り、病や災いから仏教の信者を
        守るとされる。(この先が山頂) 

        
         観音霊場ではないが安産や幼児の成長を守護する子安観音が祀られている。

        
         四等三角点(標高127.2m)の南面に展望が得られる。

        
         眼下に横曽根川が佐波川に注ぎ、河口に防府新大橋、右手の真鍋・上田開作の先が大海
        湾と小浜山。

        
         佐波川左岸に西浦開作とマツダ防府工場、田島山から小茅山に連なる稜線。

        
         山頂には23番から25番の摩崖仏が並ぶが、海側を背にして設置されている。

        
         この先の巡拝路は露岩の下り道である。

        
         ロープに助けてもらいながら岩場を下る。

        
         29番は馬郎婦(めろうふ)観音で、美しい天女の姿をし、仏教を信じない人たちに教えを
        導く。

        
         30番(一如観音)付近の巡拝路。

        
         崩落地に戻り33番(灑水(しゃすい)観音)で観音巡りを終える。

        
         「天明八年戌申(1788)正月吉日」と刻まれた石灯籠を見て往路を引き返す。

        
        
         観音寺に戻って旧山陽道の岩淵市に向かう。大銀杏の傍にある梵鐘は、1642(寛永19
           )
年に岩国領主吉川広正の室(毛利輝元の長女)が寄進したものとされる。<partⅡへ>