ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

長門市深川は赤間関街道が分岐した地

2021年09月29日 | 山口県長門市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         深川(ふかわ)は深川川の右岸に位置し、平野部に長門市の中心街が開ける。国道191
        号が東西に走り、南北に美祢線・国道316号が走る。(歩行 約4.4km)

        
         JR長門市駅は、1924(大正13)年美祢線の延伸により開業した駅で、当初の駅名は
        正明市駅(しょうみょういちえき)であったが、1962(昭和37)年に現駅名となる。山陰本線
        と美祢線、山陰本線仙崎支線が乗り入れをする北浦地区では大きな規模を持つ駅である。
        (美祢線で9:37下車)

        
         山陰本線より南側が長門市の中心部で、駅北側はひっそりとした町並みである。(旅館と
        仏壇店)

        
         どこでも見られるような町並み。

        
         前角の跨線橋から見る駅方向だが、駅の南北は歩道橋で繋がっている。こんもりした山は
        城山。

        
         長門警察署前で国道191号を横断すると赤間関街道北道筋に出る。

        
         街道筋に出ると「帰ル堤」(溜池)がある。ここに大きなエノキがあるが、エノキは一里
        塚によく植えられたといい、注進案にある「帰ル堤一里塚」の可能性があるされるが確証
        はないという。

        
        
         「帰ル堤」の南端に長門高校。

        
         国道191号を横断して市役所通りに入る。

        
         亀甲模様に「下水」だけの長門市マンホール蓋。

        
         城山の麓にある法蓮寺(真宗)は、1715(正徳5)年この地に移転してきたという。

        
         長門市役所は江戸期の前大津宰判勘場跡で、1751(宝暦元)年三隅村豊原からこの地に
        移転し、1870(明治3)年に廃止された。それ以降、大津郡役所、大津地方事務所と変遷
        してきた。1807(文化4)年に寄進された石灯籠とともに、新庁舎建設の際に現在地に移
        された。

        
        
         市役所前の北道筋を西へ進むと、吉亀(よしかめ)旅館前の四叉路に出る。かって四叉路に
        は道標があり「北・せんざき、南・下のせきみち」、他の一面には「東・はぎ、西・先大
        つみち」と刻まれていたようだ。

        
         四叉路を西へ進む道は赤間関街道北浦道筋だが、踏切の先で民家は途絶える。

        
        
        
         四叉路を南へ進む道が北道筋で、ここからが旧深川村の中心地であった。国道を横断す
        ると少し古民家が見られるが、1868(明治元)年の正明市大火で大半が焼失したとのこと。

        
         庭先にある橋の親柱は泉橋と刻まれている。

        
         道は2つに分かれるが、街道は右手の道。

        
        
         深川川にかかる観月橋(つきみばし)を渡れば西深川。

        
         西深川には印象に残るものはない。

        
         踏切の先は板持集落。

        
         小っちゃな簡易郵便局。

        
         どうも街道を踏み外したようだが板持橋を渡る。

        
         住宅と田園が混在するエリアである。

        
         板持団地バス停を左折すればJR板持駅。途中の観月橋バス停でバス利用も一計だった。

        
         JR板持駅は1958(昭和33)年長門湯本と長門市間に新設された駅。(11:43乗車)


長門湯本は温泉町と大内氏終焉の地・大寧寺 

2021年09月29日 | 山口県長門市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         深川湯本(ふかわゆもと)は深川川の中流域およびその支流域に立地する。深川川に沿って
        美祢線、国道316号が走る。
         深川川中流域を通称・音信(おとずれ)川といい、河畔に湯本温泉街がある。(歩行約4.5
        km)

        
         1924(大正13)年開業のJR長門湯本駅は、温泉街より約500m離れた所にあるた
        め、駅前は何もなくて、だだっ広く感じられる。

        
         2012(平成24)年3月まで乗車券の委託販売をされていたふじた商店さん。既に店は
        廃業されていたが、1996(平成8)年に訪れた時の看板は健在だった。

        
         駅から県道までの間に民家が集中する。

        
         県道を俵山方面に少し歩き、大寧寺川に架かる橋を渡る。(右手に湯本観光ホテル西京)

        
         石仏が並ぶ道は大寧寺旧参道で、赤間関街道北道筋と合わすと「旧街道入口」の標識が
        ある。

        
         県道に出て左折すると大寧寺前で、大寧寺川にかかる盤石橋は、1668(寛文8)年に建
        架され、のちに再建築されたようだが、橋長は14.2mで自然石を組積みされている。
         かって岩国の錦帯橋、山口にあった虹橋と共に防長三奇橋の1つとされている。

        
         盤石橋を渡ると山門跡の礎石が残る。天正年間(1573-1592)毛利家家老・益田藤兼が山門
        を寄進。のちに野火によって焼失してしまうが再建される。桧皮葺入母屋重層の山門であ
        ったが、明治以降庇護が亡くなり明治末期に倒壊したとされる。

        
        
         大寧寺(曹洞宗)は、永亨年間(1429-1441)長門守護職・鷲頭弘忠が石屋真梁に帰依して建
        立する。1829(文政12)年に再建された現在の本堂は、「衆寮」を基体にして、向背や
        後陣が増設されており、1914(大正3)年には桧皮葺屋根を瓦葺きに変更された。

        
        
         室町期の1551(天文20)年大内義隆の家宰(かさい)陶隆房(晴賢)が謀反を起こし館を襲
        うと、義隆は嫡子義尊及び山口客寓中の公卿三条公頼、その他重臣を伴って長門に逃れた。
        瀬戸崎港から分国の筑前に向かおうとしたが、暴風雨のために出航できず、大寧寺に立て
        籠る。(一説には津和野の吉見正頼を頼ろうとしたとも) 
         陶勢が山門に急迫するに及び義隆は自刃。義尊やその他の公卿たちも殉難し、仏殿諸堂
        も兵火によって全焼する。

        
         四叉路まで戻って温泉街に入る。

        
         大寧寺川、美祢線を過ごすと雰囲気が変わる。

        
         とらや商店前の橋から見る温泉街。

        
         川から山手の道は竹林の階段とされ、夜間はライトアップされるそうだ。

        
        
         川沿いに温湯広場、川床にはテラスと4ヶ所に飛び石がセットされている。

        
         亀甲模様に「下水」の文字が入ったマンホール蓋。

        
         せせらぎ橋ときらきら橋との間には4本の橋と飛び石で対岸と往来できる。13時40
        分の厚狭行きに乗り遅れると、1時間48分待ちになるので早々に温泉街を引き上げる。


長門市日置の古市に日置八幡宮と町並み 

2021年09月26日 | 山口県長門市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         古市は北を日本海に面し、南は草添山や大笹山を境に長門市俵山、西は油谷町に接する。
        域内をJR山陰本線、国道191号が並行して走る。(歩行約4.6km)

        
         JR長門古市駅は、1929(昭和4)年美祢線の黄波戸駅から延伸し、終着駅として
開業
        する。2001(平成13)年に駅舎が改築され、「ふれあいプラザはまゆう日置」というコ
        ミュニティ施設となっている。

        
        
        
         駅前には商店などがあったようだが、今は静かな駅前である。

        
         日置町内にある大師霊場八十八ヶ所の内の一基(84番?)

        
         変則五差路の中心地点に交通安全標語。

        
        
        古市の町並み。

        
        
         域内を経由する赤間関街道は、江戸初期には十分に整備されておらず、その後、藩主の
        初入国や領内巡検などのため街道の整備が進められ、街道は椎木峠から台ヶ原を経由して
        久富村へ通じる南路に変更された。
         そのため、1664(寛文4)年には本宿を日置市から台ヶ原に移して新市と称し、これに
        対し、従来の日置市を古市と呼ぶようになった。1793(寛政5)年本宿は古市に戻された。

        
         間口が狭くて奥行が深い家。 

        
         西光寺(真宗)の地には、往古、真言宗か天台宗の寺があったとされる。大内氏の家臣・
        三井十蔵が大内氏滅亡後、僧となってこの地に一宇を建立した。創建年代については天正
        元年(1573)、文禄元年(1592)、天文年間(1532-1555)などの諸説がある。

        
        
         平入りの家が並ぶ。

        
         この四叉路までが古市の商店街だったようだ。

        
         四差路の先はその多くが民家であったようだ。

        
         東専寺の由来等については知り得ず。日置の郷は里山に囲まれた盆地で、湧水が少なく
        飢饉の歴史を持ち、当然ながら「雨乞神事」が行われてきた。その1つとして「千挺洗い」
        と称する雨乞法は、古い井戸の底に沈めてある硯を取り上げ、近郊の家々の硯を集めて、
        魚切小祠に持参して雨乞神事を行い、魚切の滝上流より硯の墨汁を流すと、滝壺の竜神が
        驚いて昇天すると降雨なるという。 

        
        
         変則五差路まで戻って東進すると、大きな屋敷(N邸)の傍に、四隅の一角を
玄関とする
        建物がある。


        
         平入りで門構えがある吉村薬局さん。 

        
         亀山八幡宮と称していたが、日置八幡宮に改称されて鳥居の額束も「日置八幡宮
」とな
        っている。

        
         社伝によると、往古、黄波戸浦の居石の浜に祭神が現れた際、海上に黄金の波が立った
        ことから浦の名を黄波戸と称し始めたという。祭神は黄波戸浦から唯越を越え、現在地の
        亀山に鎮座されたという。

        
         天和年中(1681-1684)古市村の切支丹宗徒が難渋を起こし、その結果、末社に至るまで焼
        失したとされる。 


長門市油谷の津黄は元乃隅神社に近い漁村集落

2021年09月24日 | 山口県長門市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         津黄(つおう)は日本海を北面にする地で、海食崖が高さ250mをなす中にあって、入江
        奥のすり鉢状に集落を形成する。
         地名の由来について、注進案は向津の奥だから津奥(つおう)で、奥と黄の音が似ているこ
        とから津黄となったのではないかと推論している。(歩行3.0約km) 

        
         津黄地区への公共交通機関は、デマンド交通(予約制)のため利用できない。やむを得ず
        車で訪れたが、漁港付近の駐車地は住民用とされているので、津黄大橋近くの空地を利用
        させてもらう。

        
         大橋から見る元乃隅神社と竜宮の潮吹がある岩場。

        
         橋を渡り終えると右手に厳島神社。

        
         厳島神社の由緒については知り得ず。

        
         1968(昭和43)年漁港関連道路が魚市場まで完成し、後背には県道が整備されて、今
        では元乃隅神社への観光車両が利用する。

        
         漁港前がデマント交通の乗降場。

        
         津黄浦の漁業は捕鯨に特色があり、1699(元禄12)年立石・津黄鯨組を創設し、幾度
        か中断しながら明治中期頃まで操業していた。現在はいか釣りを主体とするようで、漁船
        に集魚灯が設けてある。

        
        
         港は狭いが深く、嵐の時に打ち寄せる波が大きくて高いため、以前は港内でのつなぎ船
        が不用心で浜に引き上げて繋いでいたとのこと。
         1962(昭和37)年から数次にわたって漁港の整備が施行され、大型防波堤の構築、港
        内の拡充と施設の整備がすすめられた。港入口には波消しブロックが高く積み上げられて
        おり、波の高さを計り知ることができる。

        
         津黄漁港の西方500m付近の海食崖に、「竜宮の潮吹」とよばれる国の天然記念物が
        ある。その途中に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が、海を拝む形で建てられている。海
        難事故なのかわからないが鎮魂の碑のようだ。

        
         一帯は第四紀洪積世(現在より約200万年~1万年前)の玄武岩からなり、潮吹きは打
        ち寄せる海の激浪が岸壁の孔内に突入し、気象条件が揃うと海水を最大30mも吹き上げ
        る噴潮現象を見せる。その様子が竜が天に向かって昇る様から「竜宮の潮吹」といわれる
        ようになったとか。

        
         竜宮の潮吹は気象条件が悪く見ることができなかったが、その反対側の元乃隅神社には
        多くの観光客が押し寄せていたのにはびっくりする。以前は中腹に石鳥居と小さな祠があ
        って、津黄側からの階段があるのみであった。

        
         1955(昭和30)年地元の網元がお告げにより建立した個人所有物で、1987(昭和6
        2)年から10年かけて123基の鳥居が設置されたとのこと。
         もとは元乃隅稲荷神社だったが、外国人観光客にも覚えやしようにと現神社名に改称さ
        れた。

        
         米国のニュース専門局のCNNが、2015(平成27)年3月「日本で最も美しい場所3
        1選」として紹介したことで観光スポットになったようだ。

        
         山からの雨水は水路で海へ注ぐのだが、その途中が崖のため滝のようになっている。

        
         すり鉢状の地形に家が密集し、家々を結ぶ道は狭くて急坂である。

        
         2つの生活道には商店があるが、こちらはすでに廃業されている。 

        
         曲がりくねりながら山手に延びる道。

        
         漁港と津黄大橋。

        
         山手の県道に近い住宅は、軽自動車が進入できるほどの道幅である。

        
         2つの生活道は横道で繋がっている。

        
         橋のある道がもう1つの生活道。 

        
         見返ると先ほど歩いた家並みが広がる。

        
         生活道から枝分かれして各家を繋いでいる。冷蔵庫など重たいものは、業者さんが二輪
        運搬車を利用して複数人で運び込むとのこと。

        
         生活道を下ると川傍に谷村商店。

        
         郵便局は開局されておらず、漁協津黄支店があるものの毎日の営業ではないようだ。

        
         大橋に設置された吹き流し標識。棒と吹き流しの角度によって、受ける風速の強さが表
        示されている。ちなみに大橋の強さは、概ね62度なので風速6m/S(秒)である。


萩市福栄はキリシタンの里と大坂山たたら製鉄遺跡

2021年09月20日 | 山口県萩市

                 
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         紫福(しぶき)は大井川上流に位置する阿武高原内の盆地にあり、大井川流域の標高150
        m~170mに集落が連なる。
         地名の由来は、畑川山(現紫福山)の麓に京仏、奥畑、平原の3小村の土が紫色で土壌が
        肥えており、他村に比べ施肥をしなくても作物が良くできることによるという。
                                        (歩行約5.0km)

        
         萩バスセンターからJR東萩駅経由で堀越まで、1日7便の路線バスがあるが、切支丹
        の墓標などがある地を歩くには不便なので車で訪れる。
         道の駅「ハピネスふくえ」より県道福江須佐線を約9km北上すると、「世界遺産 大坂
        山たたら製鉄遺跡」の案内があるので立ち寄る。

        
         紫福市から山に向かって走ること約4km、山の口ダム上流に遺跡がある。
         受付を済ませてビデオ鑑賞すると、原料の砂鉄が島根から船で奈古港に荷揚げされ、荷
        駄(馬)で運び込まれたことや、大量の炭を要するため豊富な木材がこの地にあったことな
        ど、たたら製鉄の仕組みが学べるようになっている。

        
        
         元小屋は現在でいう事務所的機能を持つ施設で、推定復元図を当てると、こんな感じで
        建てられていたという。

        
         製法は粘土で作った箱型の低い炉に、原料の砂鉄と燃料の木炭に風を送り、鉄を取り出
        すという方法であった。 
         製鉄の中心施設は高殿(たかどの)と呼ばれ、中央に「炉」と「天秤鞴(ふいご)が置かれ、
        その周りに材料置場や休憩所があったという。

        
         砂鉄が溶ける温度(約1,400度)を長時間保ち続けるためには、粘土の良し悪しは操業
        に極めて重要な影響を及ぼしたとされる。炉(釜)は1回の操業を終えると取り壊され、た
        たらの操業を仕切るのが「村下(むらげ)」で、長年の経験と勘に委ねられていた。

        
         その他、不純物を取り除く砂鉄洗い場、「高殿」で作られた熱い鉄の塊を水で冷やす「
        鉄池(かないけ)」、奈古港と製鉄所を結ぶ「鉄の道」、鉄池などで使用する水を溜める給水
        施設などがあった。(写真は砂鉄洗い場)
         山手に上がると金屋子神祠(かなやごしんし)という小祠があるが、 「金屋子神」は女性の
        神様で、桂の木に降り立ち、鉄づくりを教えたと伝えられている。山の口ダム建設により
        現在地に新たな祠を建立したとある。

        
         長久寺(臨済宗)は、1871(明治4)年廃仏毀釈の折、鉄心寺と当地にあった見性院が合
        併し、鉄心寺にあった建物を移築して現寺号に改称した。1928(昭和3)年に現在の本堂
        が改築されたが、山門は1605(慶長10)年見性院が創建された当時のものという。 

        
        
         鉄心寺から移設された特徴的な石造物がある。軸部に手を交差した石像がはめ込まれた
        宝篋印塔、この塔と並んで子供を抱いた地蔵尊、その隣にはマリア観音といわれている石
        像がある。

                            
        
         紫福市には石州街道土床道が県道側を通っていたようだが、今は痕跡を残すものはない。

        
         旧道に入ると「三位一体像」が案内されているが、S家の敷地内を通らなければならな
        い。

        
         大内氏滅亡のあと戦乱の世となり、山口から多くのキリスト教信者が紫福村へ逃れてき
        たという。
         さらに、江戸期には毛利氏の切支丹禁制政策により、信者はひっそりと山里に隠れるよ
        うに住んだという。
         この路傍にある2基の苔むした墓碑の一基は、3面一体となった像である。合掌像や墓
        石の小窓の形した三角形は、キリスト教の奥儀である三位一体をほのめかす何らかの象徴
        ではと紹介されている。

        
        
         かっては商家、旅館、民家が軒を連ねていたとされるが、通りは廃屋が目立つ。 

        
         旧福栄村のマンホール蓋で、扇子落滝と2匹の魚がデザインされている。滝は同域内の
        福井下にあるが、駐車場もなく看板はあるものの分かりづらいようだ。

        
         県道を萩方面に引き返すと路傍に案内がある。

        
         防獣フェンスの扉を開けて細い道を辿る。

        
         鉄心寺跡には伴天連(バテレン)墓と呼ばれる六角形の石憧(せきとうとは石灯籠に似せてつ
        くった墓石)があり、宣教師の墓といわれている。
         伴天連とは、昔、日本で布教したキリスト教の外国人宣教師の称である。(駐車地は市の
        消防車庫脇を利用)

        
         「大乗妙典六十六部諸国□□塔 正徳元年(1711)11月」の大きな石碑脇にキリシタン
        墓が一基。

        
         さらに南下すると「キリシタン至福の里 切支丹墓標群」という案内板がある。車だと
        入口付近に駐車場がないので、少し南下して旧道分岐の路肩に駐車する。県道からは案内
        に沿えば迷うことなく行くことができる。

        
        
         室町期の1560(永禄3)年頃以来、信徒たちはこの地でキリスト教の教えを守り、至福
        の時を待ちながらひっそりと生活してきたという。至福がなまって紫福になったとか、紫
        福を至福と呼んだという伝説がある。
         時は流れて墓碑も風雪にさらされ続けてきたため、キリシタンの里至福の会の方々が、
        中山地区を祈念地として墓地を整備された。

        
         畑集落は石州瓦葺きのため背後の山の緑に映える。(県道脇のJAに駐車)

        
         集落内には土壁の民家も見られる。

        
         旧紫福小学校入口にある農事組合法人の地が、紫福村役場だったと思われるが、地元の
        方にお会いすることができず確証を得ることができなかった。
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の紫福村が単独で自治体を形成して
        きたが、1955(昭和30)年福川村と合併して福栄村となる。 

        
         1872(明治5)年創立された歴史ある紫福小学校は、過疎化のよる児童数の減少により、
        2016(平成28)年福川小学校と統合される。福栄小学校として中学校の敷地内に新設さ
        れ、県内初の小中一貫教育校がスタートする。

        
         佛光寺楼門は文殊堂が再建された寛文年間(1661-1673)頃に建立されたという。形式は木
        造入母屋造茅葺き屋根で市指定文化財でもある。

        
         佛光寺(臨済宗)は佛母寺と称していたが、1871(明治4)年廃仏毀釈により同じ村内に
        あった瑞光寺と合併して現寺号に改称する。佛母寺は鎌倉期の1299(正安元)年に創建と
        伝え、山中の墓地にキリシタン墓があるようだが残念する。

        
         1668(寛文8)年建立の文殊堂に安置されている文殊菩薩座像は、右手に宝剣、左手に
        経巻を握って、獅子座の上に座禅されているそうだ。像は檜の寄せ木造りで、南北朝時代
        の作とされ、25年毎に開帳されるという。

        
         山裾が突き出た所に岩武丞祐顕彰碑がある。碑文は少し風化してはっきり読めないが、
        大正2年(1913)紫福村信用購買組合の設立に率先して参加。昭和12年(1937)村長に就任
        し、昭和21年(1946)まで在任し、堰堤、ため池、農道の築造に尽力したとある。

        
         この先は民家が途切れるので、一旦、車まで戻って移動する。

        
         永田沖バス停付近から畑集落に向けて歩く。

        
         「めだかの舘」という店。

        
         石州瓦と白壁の美しさが際立つ。

        
         もとは自転車店だったのであろう看板が残る。

        
         ほぼ一直線の上り坂だった。 

        
        
         信盛寺(浄土宗)の寺伝によると、1617(元和3)年創建というが、1786(天明6)年の
        火事で記録類一切を焼失してくわしいことはわからないという。
         1798(寛政10)年2月15日福井下村の願行寺を出立した木喰五行上人は、同月28
        日までに同寺に滞在し、2体の仏像と扁額を刻したという。指定文化財のためか扁額は見
        当たらなかった。


山口市阿東の三谷・篠目はSLやまぐち号が走る旧石州街道沿いの集落

2021年09月19日 | 山口県山口市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         三谷から篠目(しのめ)の地は、東南に中国山地の山々、西と北にも山が聳え、中央を阿武
        川が流れ、西南から篠目川が北流する。域内をJR山口線と国道9号線が走り、駅を中心
        に集落を形成する。(歩行約4.2km)

        
         域内には4つの駅が存在する。

        
         JR三谷駅は1918(大正7)年、山口線が篠目駅から延伸した際に開業した駅。200
        1(平成13)年駅舎は漏電が原因と思われる火事で焼失したが、2010(平成22)年に駅舎
        が設置される。島式1面2線を有する列車交換が可能な駅だが、ホームからは線路を横断
        しなければならない。(駅前に駐車)

        
         駅前通りにあった店は廃業状態。

        
         駅から150mほどで県道萩篠生線に合わす。

        
         山口線三谷踏切を横断して石州街道を南下する。

        
         消防水利設備とのこと。

        
         途中の三差路で石州街道と分かれ、山口線に沿うと旧道に出る。

        
         2000(平成12)年に廃校となった三谷小学校は、三谷ふれあいセンターとして地域の
        生涯学習施設に活用されている。

        
         駅前に旅館の看板が残る。

        
         JR長門峡駅は仮乗降場として新設され、1928(昭和3)年正式な駅に格上げされたが、
        クルマ社会と過疎化などで利用者が少ない駅である。(駅前に駐車)

        
         国道筋に民家。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、篠目と生雲東分の区域をもって篠生村が発足。
        1955(昭和30)年阿東町が発足するまでこの地に村役場が置かれた。現在はこの一帯に
        道の駅、JA、郵便局、市地域交流センター篠生分館が立地する。

        
         阿武川にかかる阿武川第一橋梁。(撮り鉄に人気な橋梁だそうだ)

               
        
         JR篠目駅は、1917(大正6)年山口線が山口駅から延伸した際、終着駅として開業す
        る。島式ホーム1面2線を有する列車交換が可能な駅である。 
         2004(平成16)年TBS系列で放映された松本清張作「砂の器」の撮影に亀嵩駅とし
        て当駅が使用された。

        
         篠目駅の開業時に蒸気機関車への給水のために給水塔が設置された。構造は
煉瓦造で高
        さ約8.5m、直径約4.5mの円柱形で、貯水量は約30トンである。
         蒸気機関車は、1973(昭和48)年まで運行されたが、仁保~篠目間の登り坂区間で相
        当の石炭と水を消費したため、篠目駅で停車時間を長くして石炭滓(かす)と給水が行われた。
        今は「SLやまぐち号」も使用していないため役目を終えたが、蒸気機関車時代の歴史を物
        語る貴重な遺産である。

        
         駅から南に向かうと篠目川手前で集落は途切れる。

        
        
         細野神社は篠目地区の総鎮守で、室町期の1530(亨禄3)年宇佐八幡宮より勧請したと
        伝える。本殿は1798(寛政10)年に改築された。 

        
         1955(昭和30)年代には飲み屋、旅館が立ち並んでいたという。1964(昭和39)
        東京オリンピック以降にクルマ社会が到来すると、その影響で鉄道の利用者が減少し、駅
        前が衰退の途を辿ったようだ。

        
         今も現役の吉田商店さん。壁には「篠生農協篠目支所」の文字が残る。

        
         玄関の構えからすると旅館だったのだろうか。

        
         SLやまぐち号を見送る。(DD51形ディーゼル機関車が牽引)

        
         ここで駅前の家並みは終わる。

        
         1873(明治6)年生雲小学篠目支校として創立され、1947(昭和22)年篠目小学校と
        校名変更する。
         しかし、過疎化による児童数の減少に歯止めがかからず、2000(平成12)年廃校とな
        る。現在は篠目・三谷・地福小学校を統合して地福に設置された「さくら小学校」の校区
        となる。 


岩国市守内は沈下橋が集落と駅を結ぶ

2021年09月12日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         守内(しゅうち)は岩国市の北部にあり、錦川を挟んで両側に集落がある。域内は広いが、
        その
ほとんどが山地で、集落は川沿いの山際に立地する。左岸を国道2号線、右岸を錦川
        鉄道が走り、集落を結ぶ守内橋があるが、洪水の時には水中に沈む沈下橋である。(歩行約
        3.1km、🚻なし) 

        
         1993(平成5)年錦川鉄道の駅として開業した守内かさ神駅は、駅から西へ徒歩10分
        の所にある「かさ神神社」を駅名の由来とする。ホームは駅前広場より高い位置にあり、
        駅前に民家は存在しない。

        
         駅前に出て錦川下流方向へ進むと、守内集落ではなく持国集落であった。民家が途切れ
        て線路が並行する地点から引き返す。

        
         線路傍に1軒のみの古民家。

        
         錦川鉄道のガード下を潜ると、右手にお寺を思わすような持国公会堂。

        
        
         1889(明治22)年の町村制施行により、持国村など7ヶ村をもって藤河村となったが、
        1916(大正5)年藤河村が2ヶ村に分割されて、大字持国は御庄村となる。         
         守内と持国は駅前付近が境界のようで、駅から沈下橋までは採石場のみである。 

        
        
         錦川には3つの沈下橋(潜水橋)があり、その内の1つが守内かさ神駅から徒歩5分の所
        にある守内橋。約130mのコンクリート製で、幅は3mもあって近くの採石場へ行く

        ラックも通行できる。
         橋脚には厄介な竹が引っ掛かっていたが、流れてきたものを引っ掛けさせないように、
        どの部分にも角は丸みを持たせたデザインとなっている。

        
         通行止め用のゲートが設けてある。 

        
         守内集落は国道筋と谷筋に立地し、谷筋の奥に大歳社、守内阿弥陀堂が鎮座する。

        
         背後は急傾斜地、玄関は国道前という中に立地する。

        
        
         国道に沿って約400m範囲内に集落。(西端)

        
         沈下橋は
建設費が安価であるため、山間部など交通量が少ない地域の生活道路として建
        設された。現在は永久橋に架け替えが行われ、徐々に姿を消しつつあるようだ。
         約2時間の滞在時間で、その多くを沈下橋に費やしてしまい、かさ神神社の場所までは
        行くことができなかった。「かさ」は「かさぶた」のことで、皮膚の病に霊験があるとい
        う。 


下関市安岡は漁村特有の町割り 

2021年09月10日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         安岡は友田川流域に位置し、西は響灘に面し、村崎ノ鼻の東側湾頭には安岡漁港があり、
        一帯は漁村特有の密集した町並みとなっている。
         地名の由来は、神功皇后が三韓征伐の時、海べりの丘(現在の迫の宮)で休憩し「やすら
        が丘」とよばれたのが転訛したと伝える説がある。他に安岡の低地域は海であったが、友
        田川の運ぶ土砂で8つの洲「やす」ができたことから「安岡」という地名になったという
        説もある。(歩行約2.1km)

        
         JR安岡駅は、1914(大正3)年長州鉄道の駅として開業し、相対式ホーム2面2線を
        有する。

        
         駅前は狭く国道とは約110m離れており、その間を旧道が東西に走る。

        
         旧道は民家と商店らしき建物が混在する。

        
         下関市のマンホール蓋には、シンボルマーク「ふぐ」が下関の「し」の中に描かれ、ふ
        ぐの周囲は海の波が表現されている。

        
         この付近には足を止めるようなものは存在しなかった。

        
         友田川を過ごして国道191号を横断する。(右手角に西嶋呉服店)

        
         国道を横断と背後に煙突が見え、引き返すとヤマカ醤油さん。1872(明治5)年創業だ
        そうで、看板奥には湾曲したむくり屋根が見られる。(旧名は河村醤油場)

        
        
         国道に出るまでの道筋とは少し雰囲気が変わる。

        
         きもの処「西岡」から路地に入る。

        
         乗蓮寺の宗派は西山浄土宗で、相撲取りの隊・盤石隊の手水鉢が残る。弥陀堂横にある
        長方形の手水鉢だそうだが、刻字が風化して読めなかった。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、冨任、蒲生野、安岡、横野、福江の6ヶ村の区
        域をもって豊西中村が発足する。
         1910(明治43)年安岡村に改称し、後に町制へ移行したが、1937(昭和12)年下関
        市に編入される。旧役場は1935(昭和10)年町政時代に建築される。

        
         鉄筋コンクリート造2階建ての大きな建物は、解体されることなく現存する数少ない役
        場建物の1つである。

        
         旧道に戻って西進する。

        
         共同井戸と思われる所から右折する。

        
         こちらの寺は蓮乗寺(真宗)で、同じような寺号が2つあって、地元の方に寺を尋ねると
        この寺を案内してくれる。

        
         共同井戸から漁港に出ると、密集した町並みと漁村特有の2軒ごとに海へ通じる通路が
        ある。

        
         安岡漁港は第2種漁港で、利用範囲が第1種(地元の漁業を主とする)より広く、第3種
        (全国的なもの)に属さないものとされる。
         この漁港ではコウイカの産卵に合わせた伝統の「イカシバ漁」が、2月15日に解禁さ
        れて4月末まで続く。直径1mほどの円筒形網かごに、ツゲの枝を取付けて海藻に産卵す
        る習性を利用する漁法だそうだ。

        
         海岸道路より1つ奥の道を東進する。

        
        
         豊漁の神として漁港近くにえびす神が祀られている。(ここは蛭子神社)
     
        
        
         さらに東進すると友田川に合わし、見るべきものがないためJR安岡駅に戻る。


下関市綾羅木に綾羅木郷遺跡と中山忠光卿の墳墓

2021年09月10日 | 山口県下関市

                 
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         綾羅木(あやらぎ)は響灘に注ぐ綾羅木川下流に位置し、流域の沖積平野・洪積台地と海岸
        の砂丘に立地する。
         
地名の由来は、竹生観音開基の実仲法師が、海岸に霊木が流れ寄るのを見て、「あから」
        と感嘆の声をあげたことによる説と、神話に出てくる橘の小門の阿波岐原に基づく説、神
        功皇后が凱旋し、当地で勝どきをあげたことに由来する説がある。(歩行 約3.3km)

        
         
JR梶栗郷台地駅は、1935(昭和10)年梶栗駅として設置されたが、第二次世界大戦
        において燃料統制のあおりを受けて、1941(昭和16)年廃止された。
         その後、下関市街地のニュータウンエリアとして宅地開発が進み、2008(平成20)
        3月に開業する。場所は旧駅と異なるが、旧梶栗駅名に綾羅木郷遺跡周辺の地名・郷台地
        を後ろに付すことになった。ホーム1面1線の駅には駅舎が設けられていない。

         
         
駅から跨線橋で駅東側に出ると綾羅木郷遺跡の入口が見えてくる。当台地は鋳型の材料
        となる珪砂(けいさ)を産出しており、史跡公園に整備されるまでは経緯があったようだ。
         史跡公園に上がると墳丘墓があり、5つの墓が重なりあって作られている。これらは弥
        生時代前期に営まれた綾羅木の弥生集落が途絶えた後に築かれたものという。

        
         若宮1号古墳は全長約40mの前方後円墳で、古墳時代中期頃この地を治めていた人物
        の墓と考えられるとのこと。 

        
         岩谷古墳は下関市椋野にあった古墳時代後期(6世紀後半)の円墳。1970(昭和45)
        中国自動車道建設に伴い考古館へ移築された。

        
         
弥生時代と古墳時代の竪穴住居2棟が復元されているが、こちらは綾羅木郷遺跡で確認
        された竪穴住居跡を参考に復元された。その他に若宮2号古墳、3号古墳などがある。
 
        
         
考古博物館はコロナ感染防止のため休館中だった。

        
         長くて緩やかな坂を下ると住宅団地と農地が混在する。

           
         山陰本線引田踏切を過ごすと賑やかな県道筋に出る。

        
         
中山神社参道入口まで約440m南下する。

          
         下関市のマンホール蓋は、シンボルマーク「ふぐ」が下関の「し」の中に描かれ、ふぐ
        の周囲は海の波が表現されている。

        
         
中山神社参道の左右は住宅地。

            
         
国道から海に向かって約650m歩くと中山神社。
 
         
        
 祭神は攘夷派公卿の中山忠光で、忠光の姉は明治天皇の生母である。天誅組の首領だっ
        た忠光は、1863(文久3)年8月大和国で倒幕の兵をあげたが、挙兵は失敗に終わった。
        その後長州藩に逃れたが、長州藩内で俗論派が台頭すると、1864(元治元)年11月8日
        の夜、長府藩の俗論派刺客によって、田耕(たすき)村(現下関市豊北町)の山中で暗殺される。
        (享年20歳)
         遺体は
長櫃(ながびつ)に詰めて下関方面へ運ぼうとしたが、綾羅木で夜が明けたので人目
        を恐れて綾羅木川近くの砂浜
に葬られた。1865(慶応元)年長府藩が遺体を埋めた場所に
        墓と
小社を建立し、のちに社地を墓の東側500mの位置に移して分離したが、1923
          (大正12)年現在地に移転する。

        
         中国清朝最後の皇帝・宜統帝(薄儀)の弟、愛新覚羅薄傑(あいしんかくら ふけつ)と、彼の
        妻で忠光のひ孫にあたる浩(ひろ)を祭神とする「愛新覚羅社」が祀られている。
         忠光は長府藩潜伏中、現地女性の恩地トミを侍妾とし、トミは忠光死後に遺児となる娘
        ・南加を出産する。南加は後に中山家に引き取られたのち嵯峨家に嫁ぐが、
南加の孫が浩
        である。

        
         1865(慶応元)年建立の墓には「藤原忠光卿神霊」とあるが、中山家をたどれば藤原家
        の出となること。或いは長府藩が埋葬したことを隠したかったという説もある。

        
         中山神社から綾羅木駅に直結する道も住宅街である。

        
         他に見歩きする所もなく、JR綾羅木駅に到着すると下関~小串間は便数が多いと思っ
        ていたが、昼間は1時間に1本程度だった。1914(大正3)年長州鉄道の駅として開業し
        た当駅は、近年にベッドタウン化したこともあってかなりの乗降客があった。


和木町の関ヶ浜は小瀬川を北面する集落

2021年09月09日 | 山口県和木町

                 
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         関ヶ浜(せきがはま)は小瀬川の河口部より少し上流にあり、平地の少ない山間部に立地す
        る。
         地名の由来は、かって小瀬川は海が深く入り込んでいて、関ヶ浜付近が河口部にあたり、
        河関所が設けられていたことによるという。(和木駅までを含めて約6.3km)
        
        
         瀬田から約1.2kmの距離だが、和木町のコミュニティバス停留所が見つからず歩く羽目
        になる。小瀬川と対岸の大竹を眺めながら歩くこと15分、関ヶ浜バス停前に至る。

        
         県道北中山岩国線沿いに町営緑ヶ丘団地。

        
         1つ奥の筋は一般の団地。

        
         関ヶ浜の中心部付近に農地。 

        
         口屋番所は交通の要所や通船を持つ河口に設けられ、通行人の取り締まりや運上銀の徴
        収がその主な役目であったとされる。

        
         良い場所(擁壁)に鎮座されている。

        
        
         山裾に沿う民家は広い屋敷地を構える。(二階の軒下にスズメバチの巣が3つ)

        
         関ヶ浜川に沿う。

        
          
         
         宗永寺(曹洞宗)は初め清源庵といったが、吉川家の重臣であった桂春房が1620(元和
          6)
年没し、嫡子家好によって当寺に葬られ、寺号を父の法号から現寺号に改め、以後長く
        桂家の菩提所となった。(現在は無住)  

        
         境内に桂春房の墓があるとされるが、本堂裏に五輪塔と歴代住職の墓があるるものの特
        定できず。他に地蔵堂1基あり。

        
         学校の校門を思い出させるような石柱2本あり。(ここで引き返す)

        
         往路との分岐を過ごして関ヶ浜川の左岸を下る。

        
         疫神社は妙見山の麓、妙見神社の参道入口の側にあり、御神体は樹齢500年以上とい
        う「タブノ木」である。その昔、大蛇が巻き付いたという故事に倣って、毎年、ワラで作
        った大蛇をタブに巻きつけ、神事の後、当屋の人がシシ頭を被って村中をまわる疫病追い
        という風習が伝承されている。

        
         142段の階段を上がると妙見社。中世の頃より妙見本宮として広く信仰されてきたと
        いう。北辰妙見社(現降松神社)より勧請されたものといわれる。
         正面に一基だけの石灯籠があるが、一基だけのものは古く二基を一対にして立てるのは
        桃山期以降といわれている。
         
        
         和木町のマンホール蓋は亀甲模様、中央の輪の中にある町章は、輪(ワ)とカタカナのキ
        を図化したものである。(逆方向に撮影)

        
         域内で唯一の商店は貴重な存在だ。コミュニティバス関ヶ浜バス停より乗車予定であっ
        たが、30分(約2.5㎞)かけてJR和木駅まで歩く。