ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊田町の殿敷は豊田氏居館があった地 

2022年08月09日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         殿敷(とのしき)は木屋川がつくる豊田平野の北から北東の山地一帯を占める大きな域内で
        ある。
         地名の由来について地下(じげ)上申は、平安中期以降、豊浦郡の北東部に勢力を張った豊
        田氏の一族が、中世後期に構えた屋敷「殿屋敷」が転じて殿敷になったと伝える。

        
         広い地域の見どころは北域と南の一ノ瀬集落にあり、散歩の距離ではないのでクルマを
        使用しながらの散歩となる。
          1889(明治22)年の町村制施行により、殿敷村を含め1町7村が合併して豊田奥村と
        
なる。その後、西市村、西市町を経て昭和の大合併で豊田町となり、現在は下関市豊田町
        殿敷である。
         豊田氏の居館跡がある一ノ瀬集落には、ホタルの里ミュージアム前の道を道なりに進む。

        
         走行の途中、右に寺のような建物が見えたので立ち寄ると浄土真宗の弘願寺(ぐがんじ)
         古く平安・鎌倉期には豊田氏が建立した「真言宗の明見寺」があった場所で、近世初期
        頃に上田正吉というものが出家して、この地に小庵を構えたのが創始とされているが、定
        かではないともいう。

        
         峠を越えて下って行くと左手に「豊田氏館跡」の碑があるが、豊田氏の2代目輔平・3
        代目輔行などが一ノ瀬に定住して豊田郡司となる。大内、厚東氏並ぶ防長の大豪族だった
        豊田氏が、本拠を一ノ瀬に定めた理由の1つに、厚狭郡に通じる唯一の道が中ノ川を通っ
        ており、厚東氏の動きをけん制するためともいわれている。

        
         石碑の傍に「館の浴の椿・約300m」と案内されているが、樹齢600年以上とされ
        ていた八重椿は、2010(平成22)年の大雪で枝が折れ、2020(令和2)年9月の台風で
        根元から折れてしまったという。

        
         平安中期、権大納言藤原経輔が刀伊賊(女真族)を鎮圧するため、華山で戦勝祈願を行い
        乱を鎮圧したという。その孫の輔長が豊田郡(豊田町、美祢市豊田前、豊北町)の領主とな
        った。
         一ノ瀬に本拠を構えたのは2代目の輔平で、一ノ瀬城山に城を築いたのは鎌倉中期頃と
        される。城山から豊田盆地が一望でき、厚狭街道方面の厚東氏をけん制できた。 

        
         豊田氏居館跡から長願寺に至る道は、日野川と城山の間が狭くなった箇所がある。今は
        山が削られて往時とは違うが、ここに轅関(えんせきとは関所のこと)があったという。

        
         日野川にかかる永楽橋を渡ると左手に「豊田種長追善供養板碑」がある。豊田氏の全盛
        時代は11代の種貞、12代種長の頃とされ、防長では大内、厚東、豊田の豪族がしのぎ
        を削っていた時期である。南北朝期の1352年種長が死去し、遺骸は長願寺に埋葬され
        て、のちに供養板碑が建てられた。(板碑の右側一帯が長願寺跡)

        
         板碑の100m前方の田の中に千人塚と呼ばれる一角がある。種長に殉死した人を埋葬
        した所といわれるが、殉死した場所は前方の川向こうの朱満ヶ原といわれている。自刃し
        た人たちの血で、一面朱色に満ちたということからこの地名になったという。

        
         一ノ瀬区公会堂の脇に河内神社があったが、明治の神社統合により東八幡宮に合祀され
        る。当神社の祭神は天水分神(水の分配を司る神)だが、創建年代は不詳とされていた。

        
         中の川沿いの山裾に数軒並ぶ。

               

        
         県立西市高校の左隣の小高い丘の上に東八幡宮が鎮座する。二の鳥居は享保8年(1723)
        と刻字されている。

        
         鎌倉期の1187(文治3)年、当時長門守護職であった豊田種弘の命により、宇佐八幡宮
        から勧請されて八幡宮が建立されたという。その後、大川(木屋川)の西に西八幡宮が建立
        されたのち、東八幡宮と呼ばれるようになった。
         南北朝期の1363年豊田氏と大内氏の和談が成り、東八幡宮の南側に日輪寺という寺
        が建立され、神社の宝物が収められていたが、室町期の1554(天文23)年失火により日
        輪寺が焼失したという。さらに、1764(明和元)年にも失火が起き、東八幡宮本殿が焼失
        する。
         1888(明治21)年明治政府の寺社改革に伴い、周辺地域の神社を合祀して現在地に遷
        座する。(観光協会サイトより)

        
         もともとは水田の中にあって、条里制の碁盤の目に沿った参道が南向きにのびていたよ
        うだが、現在は西八幡宮と向かい合うよう西向きになっている。

        
         殿敷石卒塔婆は八角形で1mほどの花崗岩で作られたもので、表には梵字で「東発心門」
        とある。

        
         ゲンジホタルがデザインされた旧豊田町のマンホール蓋。 

        
         向山豊田氏館跡(西殿)が近辺にあるとのことだが、見つけることができず。

        
        
         祇園原と殿敷の間にある木屋川の大堰で、ここに碑が3つ並ぶが、その1つである「殿           
        敷井出碑」によると、中野半左衛門が山口藩庁より工事を請け、堰の木材畳みを石畳みと
        し、3ヶ月後の1869(明治2)年に竣工したとある。2012(平成24)年に改修された旨
        の碑もある。

        
         国道435号の高架下を潜る。

        
         中畑集落内はひっそりしている。

        
         庚申塚を見て木屋川の右岸に移動する。 

        
         権現原と神上川(こうねえがわ)との境に西方山地の山稜が突き出し、その突端には古代か
        ら神霊が宿るとされてきた。飛鳥期の705(慶雲2)年役小角が英彦山から大神山(華山)に
        来て、この岩神で祈祷した謂れもあるという。

                
         大河内(江戸期は長府藩領)に入る手前、木屋川の左側に岩壁がある。この岩壁に小さな
        滝「たらたらの滝」があるというが、擁壁によって様子が変わったようだ。
         地蔵尊の脇に芭蕉句碑「暫時は 滝に籠るや 夏(げ)始」(1897(明治30)年頃建立)

        
         ゲンジホタルが漫画チックに描かれた上水道蓋。

        
         大内弘世が長門国の守護職になると、豊田種藤は大内氏と和談し、城を一ノ瀬城から妙
        見山(現在の長正司)に移し、居住地も殿敷に移す。この地に菩提寺の「知行寺」を建立す
        るが、衰亡したため廃寺となる。

        
         この地も和談が成り、南北朝期の1363(正平18)年に、神上寺の末寺「日輪寺」が建
        立されたが、室町期の1544(天文13)年失火により焼滅する。


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