ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市二島の臼美遊歩道から山尾庸三のふるさと「長浜」

2023年08月26日 | 山口県山口市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         長浜(ながはま)は山口市秋穂二島の小名で、椹野川が流れ込む山口湾の東に位置し、岩屋          
        半島の基部にあたる陸繋砂州に旧長浜塩田と集落がある。(歩行約4.9㎞)

        
         JR新山口駅(9:41)から防長バス秋穂荘行き25分、潮寿荘前バス停で下車する。(🚻
        借用可能)

        
         山口市老人憩い家「潮寿荘」は、高齢者の心身の健康増進を目的とした施設で、入浴と
        宿泊施設を備えている。
         バス停から山側を見るとコンクリート階段が臼美(うみ)遊歩道の入口である。

        
                
         2020(令和2)年の秋頃、兜山入口から潮寿荘までの遊歩道が整備された。

        
         尾根に上がって右折すると、周囲は樹林に囲まれて展望はなく、クモの巣払いをしなが
        らの歩きになる。緩やかな坂を上って行くと、ベンチの置かれた場所が標高62mの長浜
        山のようだ。

        
         木階段はこの周辺のみだった。

        
         徐々に高度を上げて行くと展望を得ることができる。眼下に秋穂湾と正面に山口県水産
        研究センター、エビ養殖場。

        
         見返れば長浜山、その先に白く見える場所は旧長浜塩田跡で、現在はメガソーラーで埋
        め尽くされている。右端が下山後に歩く長浜集落。

        
         岩屋山(高山)へは少し下って登り返さなくてはならない。 

        
         右後方に山口湾と椹野川に架かる周防大橋。

        
         標高107.7mの岩屋山(高山)山頂にはベンチ傍に三等三角点。

        
         秋穂湾を挟んで串山連峰が横たわり、先端に花香山があったが、砕石によりその姿が消
        えてしまった。見える山は灯台のある草山。

        
         海浜公園のある美濃が浜と岩屋の鼻、手前の施設は山口秋穂園。

        
         揺木山の先に竹島が浮かび、はるか彼方には九州の山々が連なる。

        
         岩屋山(高山)の南側遊歩道はよく踏まれており、クモの巣を気にすることなく青い海を
        見ながら下ることができる。

        
         車での登山者はこちらの登山口を利用されて、周回もしくは岩屋山を往復されるようだ。
        遊歩道なので誰でも気楽に歩けるルートである。

        
         向い側に兜山登山口。

        
        
         兜山古墳の説明によると、1960(昭和35)年に発見されたもので、5世紀後半に築か
        れた円墳であること。墳丘は葺石(ふきいし)で覆われていたもので、石棺の内面には朱が塗
        られ、若年女性の人骨が一体、二個の枕石で頭部を支えられた状態で埋葬されていたとあ
        る。

        
         車はここまで上がってくれるそうだが、かなりのデコボコ道である。この先1つ上の段
        に上がると展望地になっている。

        
         頂上にも石棺があり、傍にはベンチがあって対岸のきららドーム、日の山などが見渡せ
        る。

        
         往路を引き返して登山口を左折すると、正面に岩屋山(高山)を見ながら舗装路を歩く。
        (右手が駐車場) 

        
         山口湾側に移動する。(右手に民家)

        
         石積みで整備された海岸線を下ると、砂浜歩きだが満潮だと歩けないそうだ。

        
         カブトガニは約2億年前からほとんど形を変えず、“生きた化石”といわれ、瀬戸内海
        や九州北部に広く生息していたとされる。埋め立てによる生息地の減少で、ここ山口湾や
        平生湾、下関の千鳥浜に生息しているようだが、山口湾は繁殖状況の良い地域とされる。
         6~8月の満潮期に砂浜の波打ち際に産卵し、大人になるまで10年を要するとされる。
        残念ながら干潮だと波打ち際は濁り、その姿を見ることはできないので、満潮と干潮の境
        辺りがベストかも知れない。

        
         海岸部の途中に芸術的な石。

        
        
         手すりがある所が集落の出入り口である。

        
         黒塀と大きな蔵を持つ民家。

        
         1950(昭和30)年代まで行われた入浜式塩田は、海水満潮面より低い所に砂でできた
        塩田を作り、海水を表面に導き砂上に塩を析出させ、その砂を集めて海水で溶かしてかん
        水をつくり、釜で煮詰める方法であった。
         この一帯に釜で煮詰める工場があったとされるが、その痕跡を見ることができない。(対
        岸の遠波には煙突が残る)

        
         南入川にある波止だが、塩田に係わる遺産かどうかは知り得なかった。

        
        
         長さ5.4m、幅1.55mの長浜らんかん橋は、1806(文化3)年建造とされているが、
        右岸の橋台石垣が一部崩落している。
         防府市の枡築らんかん橋とよく似た構造で、両岸には斜めに撃ち込まれた刎石先端上に、
        何の加工もなしに重ねるように石桁を置いただけである。

        
         臨済宗南禅寺派の聖鏡禅院は、秋穂八十八ヶ所40番札所でもある。(集落唯一の寺)

        
         長浜について風土注進案は、塩田村であるが船乗りもいて港村でもあると記す。

        
        
         長浜塩田は江戸後期に旧領主の繁沢氏によって築造され、1784(天明4)年の古浜5町
        歩、1804(文化元)年新浜16町歩が加わり、21町歩の入浜式塩田が成立する。
         1943(昭和18)年企業整備によって成立した秋穂塩業組合の中では、青江塩田に次ぐ
        主要な塩田であった。
         しかし、1959(昭和34)年輸入塩との競合から廃止され、今はメガソーラーの設置で
        塩田跡は立入禁止区域となっている。南入川に石橋、東入川に樋門と塩田南西隅に文化2
        (1805)年銘の浜明神の鳥居が残るという。(上段が南入川、下段が東入川) 

        
         中央に市章の入ったマンホール蓋。

        
         通りを進むと広い屋敷地が見えてくる。

        
         当邸は幕末期に長州藩の密航留学した長州ファイブの一人・山尾庸三の生家である。山
        尾家は藩重臣の繁沢家の給庄屋(給領地にある庄屋)であった。

        
         山尾庸三は高杉晋作らと横浜・品川の外国公館の襲撃に加わり、翌年伊藤俊輔、井上聞
        多らとイギリスに留学する。
         帰国後、工部大学校(現東京大学工学部)を設立し、日本で最初の聾唖学校も設立する。 

        
         2003(平成15)年に長州五傑顕彰碑が海岸通りに建立されたが、現在は二島中学校に
        移設されている。(1013年撮影)

        
         バスの到着時間(12;14)が迫ってきたので長浜入口バス停まで駆け足となる。


行橋は水上交通と中津街道により発展した町

2023年08月20日 | 福岡県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         行橋(ゆくはし)は行橋平野の中央部、今川・長峡(ながら)川の下流域に位置し、東部は周防
        灘に面する。
         地名の由来は、1889(明治22)年町村制施行により、行事・大橋・宮市の3ヶ村が合
        併し、行事の「行」と大橋の「橋」を組み合わせて命名された。(歩行約4㎞)

        
         JR行橋駅は、1895(明治28)年九州鉄道の行事駅として開業するが、豊州鉄道が現
        在地に行橋駅を開業する。
         九州鉄道は延伸して行橋駅を共同駅とし、行事駅を廃止する。現在の駅舎は、1999
        (平成11)年駅高架事業により完成した高架駅である。 

        
         行橋駅が営業開始されると、この地に機関区、車掌区、客貨物区、保線支区などの業務
        機関が開設された。展示されている動輪は、「Cチョンチョン」の愛称で親しまれたC1
        1型蒸気機関車の2軸である。電化とディーゼル化の進展とともに、1973(昭和47)
        3月に九州から姿を消した。

        
         宮市町のこんにゃく直売所付近の通り。

        
         長峡川に架かる簸川(ひかわ)橋は、市内の行事と宮市を結ぶ重要な橋である。長峡川は周
        防灘から海産物を積んだ船が上り、上流からは農産物を運ぶ川舟が下る。その海上交通の
        集散地が、この橋の近くにあったという。 

        

        
         一瞬、西福寺と読んでしまったが、よく見ると西ではなく「酉」で酉福寺(ゆうふくじ)
        いう。
         浄土宗の寺院で、開基を天文年間(1532-55)あるいは慶長年間(1596-1615)とする説があ
        るようだ。明和年間(1764-72)に消失して安永年中(1772-81)に再建されたという。創建以
        来現在地にあるそうで、山門は朱色の欄干があしらわれた竜宮城を思わせる竜宮門である。

        
         甘露殿と名付けられた本堂は二層式で、正面に向拝がなく左右に入口がある。右寄りが
        男門、左が女門のようである。

        
         貴布祢神社の縁起によると、文禄2年(1593)古賀九郎兵衛が入江の葦原に葦を刈り取り
        に行ったところ、1本の御幣が流れ着いていた。白洲の上に立て置いたが、その夜、夢見
        に「長門国の貴布祢神なり、早く小祠を建てて吾を祀れ、そうすればこの地は栄えるであ
        ろう」との神託があり、社を創建して祀ったという。その後、人家が栄え、新田が開けて
        年々繁盛し、村の鎮守社になったという。

        
         行事の町並みは中津街道と行事川(長峡川)左岸、田川郡に至る東西道に沿って形成され
        ている。

        
         飴屋は玉江家の3代目宗利が、1709(宝永6)年に飴の販売を始めて以来、綿や酒、蝋、
        船を所有して大坂方面まで事業を拡大した豪商である。
         1841(天保12)年築とされる屋敷門は、総欅造りの薬医門形式である。小倉藩主が領
        内視察の際に宿泊所としたため御成門とも呼ばれた。

        

         中津街道に合わす所にある建物は、1階の屋根構造と煉瓦塀からみて、街道筋に出入口
        があったものと思われる。

        
        江戸期の飴屋屋敷と中津街道の見取図。

        
         萬年橋を渡り街道に沿うと恵比須神社。注連石の先に平家建ての本殿がある。

        
         この先、街道は突き当りを左折するが、右折して行橋赤レンガ館に立ち寄る。

        
         行橋赤レンガ館は大阪に本店を置く百三十銀行の行橋支店として、日本銀行本店などを
        設計した辰野金吾の監修によって、1914(大正3)年に建てられた。
         建物は19世紀から20世紀初期、ヨーロッパで流行したセセッション風のデザインで
        飾られている。

        
         吹き抜けの内部には、カウンターや応接室の間仕切りなどが残り、南側に金庫室があっ
        て、上部の窓を開閉する回廊が設けてある。

        
         行橋市内を流れる今川を背景に、市の木「モクセイ」と市の花「コスモス」がデザインされ
        たマンホール蓋。

        
         中津街道まで戻って街道(ゆくはし商店街)を歩く。

        
         旧縁寺(真宗大谷派)は、馬ヶ岳城主の長野正直が出家して開創したという。本堂は鉄筋
        コンクリート製で、3階部分は瓦葺きの造り。

        
        
         街道沿いにある旧商家。

        
         禅興寺はもと善光寺と称した浄土宗寺院であったが、1658(万治元)年曹洞宗に改宗す
        る。

        
         浄蓮寺(真宗本願寺派)は、1603(慶長8)年細川忠興により建立されたと伝える。もと
        真宗大谷派で正保年間(1644-1648)に改派したという。

        
         江戸期には、今の中央公民館から大橋公園にかけて、大橋御茶屋があったとされる。創
        建時期は定かではないそうだが、1630(寛永7)年の史料にあることが記されている。
         時代は下って、1870(明治3)年豊津藩が大橋御茶屋跡に大橋洋学校を開設する。(正
        面が大橋公園)

        
        
         大橋村の地名由来にまつわる「大橋太郎伝説」というのがある。鎌倉期に豊後の武将大
        橋太郎が、下正路の漁師の家に滞在し、ついには定住したことをきっかけにして村が大き
        くなった(豊後から大橋太郎を慕って人が集まってきたことなどから)。それで、大橋太郎
        の苗字から、村の名も大橋となったというものである。史実ではないが伝説が存在するこ
        とに意義がある。
         大橋公園(大橋神社境内)にある大橋太郎碑は、1925(大正14)年に建てられたもので
        ある。

        
         中山悦治(1883-1951)は行橋市で生まれ、父の事業失敗後に中学校を中途退学し、炭鉱、
        行商など様々な職を転々とする。
         1919(大正8)年尼崎において亜鉛鉱金製造工場を開設し、後に中山製鋼所となる。
        (中山記念公園に碑)

        
         中津街道筋を間違えて1つ手前の通りを歩いてしまう。通りにある普門寺は、1718
        (享保3)年創建とし、1878(明治11)年日蓮宗身延派に改宗する。歴史を感じる古めかし
        い山門が印象的である。

                
         中津街道の案内板より抜粋した絵図だが、道は大橋で大きく屈曲しているが、御茶屋が
        関係したようで、近道をする旅人も少なくなかったようだ。

        
         一の鳥居前が旧中津街道。

        
         250mほどあろうか長い参道である。

        
         行橋には2つの正八幡神社があるようだが、今川に近い正(しょう)八幡神社を訪れる。太
        鼓橋を渡るが、橋が反っているのは地上と神の国の掛け橋として虹にたとえたためという。 

        
         夏越の大祓で6月の晦日に茅(ち)の輪をくぐる神事が行われたようだ。正面からまずはお
        辞儀して最初に左足で茅の輪を跨ぎ左回り1回、次もお辞儀して右足で右回り1回、次も
        同じように左回り1回と8の字を描くようにくぐる。最後は正面でお辞儀して左足で跨ぎ
        参拝する。
         半年間に溜まった罪や穢れを落とし、残りの半年間を無事に過ごせることを願った神事
        である。

        
         創建については、平安期の859(貞観元)年行教が宇佐八幡宮の祭神を石清水八幡宮へ勧
        請する途次、神輿が駐在した地に勧請したという説がある。
         神社の由緒では、860(貞観2)年国司の一人であった文屋真人益善が、宇佐八幡宮の託
        宣により創建したとする。参拝を済ませて駅に戻る。


北九州市の八幡は日本を支えた産業遺産がある町

2023年08月04日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         八幡(やはた)は福岡県の北東部、北九州市の中央に位置する。洞海湾の南にあって、北部
        の洞海湾沿いは工業地域、中央部は住宅地で南は丘陵地である。
         1889(明治22)年町村制の施行により、枝光村、尾倉村、大歳村が合併するが、3村
        の鎮守がそれぞれ枝光八幡宮、豊山八幡神社、乳山八幡神社であったため、八幡村になっ
        たという。(歩行約5.9㎞) 

        
         1902(明治35)年九州鉄道の駅として開業した八幡駅は、現駅舎より東300mに設
        置された。1944-45年の空襲で既存市街地の60%以上を焼失したため、戦後の戦
        災復興都市計画により、現在地に移転して鉄筋コンクリート造の駅舎となる。
         2008(平成20)年に地上5階建ての駅ビルに生まれ変わる。

        
         「国際通り」と銘打った幅員50mには、歩道にケヤキ、道路の分離帯にはフェニック
        スが植栽され、その先に皿倉山が聳える。

        
         通りに面するひびき信用金庫は、1971(昭和46)年村野藤吾の設計により建てられた。
        上から見ると屏風のような形をしているとのことだが、重厚な茶色を基調とした建物であ
        る。

        
         皿倉山が聳え立つ。

        
         この一帯は丘陵地で、小伊藤山(こいとうやま)と呼ばれて戦時中は防空壕が築造された。
        1945(昭和20)年8月8日午前10時頃から米空軍による焼夷弾攻撃で一帯は焼野原と
        なる。この防空壕に避難した人々は、火煙に包まれて約300人が窒息死するという惨事
        が起こる。戦災復興事業により、この地を公園とし、戦災死者を追悼するため、1952
          (昭和27)
年慰霊碑が建立された。

        
         福岡県初のラウンドアバウト(環状交差点)の中央に復興平和祈念像が立つ。「東洋の工
        場としての八幡の復興」と「世界の平和」を祈念して、1953(昭和28)年に設置された
        モニュメントである。

        
         北九州市立八幡病院の地には、かって八幡図書館があったと案内されている。1955
        (昭和30)年村野藤吾設計による鉄筋コンクリート造りの図書館が建築される。鉱滓煉瓦と
        赤黄色味を帯びた特殊煉瓦を組み合わせているのが特徴であったが、2016(平成28)
        閉館し解体される。
         村野藤吾(1891-1984)は佐賀県唐津に生まれ、10歳頃に八幡に移り住み、小倉工業高校
        機械科を卒業して八幡製鉄所に勤務する。のち早稲田大学建築科を卒業し、主に民間の建物
        を設計した。

        
         現図書館がある地に尾倉小学校があったが、平原、尾倉、天神の各小学校が統合されて
        皿倉小学校が誕生する。新小学校は平原小学校跡地とされたため、この地から姿を消す。
         この付近で小倉藩と福岡藩に分かれていたため、もめ事が起こらないよう国境(くにざか
          い)
を示す国境石が数多く建てられた。ここには他から移設された国境石があったというが、
        図書館取壊しの際に他へ移転して現存しないという。

        
         光隆寺(真宗)は近在の山手にあったようだが、昭和の初期頃に現在地に移転してきたと
        いう。龍宮門は鉄筋コンクリート造で本堂および庫裏も同様な造りである。

        
         小伊藤山公園から旧百三十銀行に至る通りは旧長崎街道とされる。

        
         格子模様に北九州市の花である向日葵がデザインされたマンホール蓋。

        
         旧百三十銀行八幡支店は、辰野金吾が主宰した辰野・片岡設計事務所の設計で、191
        5(大正4)年に建てられた。イギリス風の赤煉瓦に古典主義建築の流れを受け、当時として
        は珍しかった鉄筋コンクリート造で、タイル貼りで仕上げられ、白と赤のコントラストが
        鮮やかである。

        
         1923(大正12)年銀行合併で安田銀行八幡支店となり、1951(昭和26)年頃の戦災
        復興事業で国道3号線が拡幅されたため、現在地まで80mほど曳家移転された。
         長い間、北九州市水道局の資材倉庫などに使用されてきたが、現在は復元修理を経てギ
        ャラリーとして活用されている。

        
         玄関や柱頭、窓周りに幾何学模様を配し、その部分はモルタルを「洗い出し」で仕上げ、
        石造風に見せている。

        
         内部は「八幡空襲の記録と継承」(8/5~8/13 )の写真展の準備中であったが、快く内部
        を見学させていただく。展示を中断して内部を紹介していただくが、大きな柱は当時から
        あったもので、柱を中心にカウンターがぐるりと設置され、天窓用の開閉用回廊はなかっ
        たという。
        
        
         この池は、その昔、豊山八幡神社の飲料水として使用されていたという。伝承では太宰
        府に赴く途中の菅原道真が、この池の水に写ったわが身を見て
              「海ならずたたへる水の底までも
                        清き心は月ぞ照らさん」
        と、無念の心情を詠んだといわれている。それからこの池を「影見の池」または「姿見の
        池」と呼ぶようになったという。(説明板より) 

        
         参道の石段には4本の石鳥居が並ぶ。 

        
         「創建西暦623年、1400年祭」と記すカラフルな幟。

        
         豊山八幡神社の由緒によると、日本史上最初の女帝・推古天皇の時代(593-628)に新羅国
        が侵入し、大和朝廷の軍が洞の海で軍団を整えていたとき、「宇佐から八幡大神をこの地
        に迎えれば、新羅国は朝廷に従うであろう」という神託があったという。戦を終えて帰朝
        後、今の西本町に八幡大神を勧請したのが始まりとされ、光孝天皇の時代(884-887)に現在
        地に遷座したという。

        
         豊山公園から千草ホテル前の県道50号線を横断する。

        
         尾倉1丁目の直線道を皿倉山方向へ向かう。

        
        
         1891(明治24)年に開通した九州鉄道大蔵線の尾倉橋梁は、煉瓦の小口と長手を交互
        
に積んだイギリス式とし、アーチは煉瓦の小口を5段積みした弧型アーチで、アーチの迫
        台(せりだい)は煉瓦積みの上に花崗岩をのせた構造である。
         九州鉄道は門司∼黒崎間の敷設にあたって海岸沿いを計画したが、陸軍省の強い反対にあ
        い、内陸部に敷設された。その後、1902(明治35)年に戸畑線(現鹿児島本線)が開通し、
        1907(明治40)年には九州鉄道が国有化されて支線となった大蔵線は、1911(明治4
          4)
年廃止された。(上段が八幡駅側、下段が皿倉山側)

        
        
         九州鉄道線路跡を歩くが、大蔵線は小倉からは小倉北区清水、八幡東区茶屋町を通り、
        平原小学校(現皿倉小学校)、前田小学校の北側を通過して黒崎に至っていた。

        
         春の町の信号で国道3号線を横断し、ベスト電器前より北九州都市高速道路5号線下を
        歩く。

        
         右手に東田第一高炉が見えてくる。

        
        
         LD転炉と呼ばれる純酸素式転炉による製鋼法で、1949(昭和24)年オーストリアで
        試験操業に成功し、1957(昭和32)年八幡製鉄所に導入された。

        
         臨時閉鎖中だったので外周歩きとなる。

        
         スペースワールド駅から5分の所にある東田第一高炉は、天空に屹立しており、近代製
        鉄発祥の地として「1901」のプレートが掲げられている。
         響灘から奥まった洞海湾に面した八幡は、防衛上や筑豊炭田の石炭の活用、水が近くに
        あることや船による材料や製品の輸送などの立地条件を要していた。
         ドイツから技術者を招き、4年の歳月を経て、1901(明治34)年わが国初の本格的製
        鉄所として操業を開始する。

        
         10回の改修工事によって、1962(昭和37)年日本初の超高圧炉となるが、1972
        (昭和47)年その役目を終える。産業遺産として保存され、鉄鋼生産の過程がわかるよう展
        示されている。
         高炉は、鉄鉱石を溶かして銑鉄を生産施設で、高さは30mもある。隣の白い構築物は
        煙突と3基の熱風炉。

        
         スペースワールド駅前から高速5号線下の道に沿う。

        
         官営八幡製鉄所旧本事務所は製鉄所構内に立地しているため、2015(平成27)年外観
        を眺望できるスペースとして整備された。

        
         2015(平成27)年旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場、及び遠賀川水源地ポンプ室が
        「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録される。この地には本事務所のほか、
        修理工場(稼働中)と旧鍛冶工場(現資料室)が現存するとのことだが、本事務所の裏手にあ
        って見ることができないという。

        
         1899(明治32)年建設された旧本事務所は、左右対称形の赤煉瓦造の建物である。製
        鉄所の技術者による設計で、煉瓦積みはイギリス式だが屋根は和式の瓦葺きである。19
        22(大正11)年まで本事務所として使用された後、鉄鋼の研究所として使用されたという。

        
         1990(平成2)年スペースワールドが開園し、枝光駅が最寄り駅とされたが、再開発計
        画の一環として線路がスペースワールドの西側に移設される。1999(平成11)年に高架
        化されると同時に駅が開業する。駅名は公募により決定したが、2018(平成30)年スペ
        ースワールドは閉園となったが、駅名は変更されずにそのまま使用されている。