ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国電気軌道跡と今津界隈 (岩国市錦見/今津町)

2024年08月02日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         今津は錦川の左岸に位置し、地名の今津は、新しくつくられた港を意味し、岩国領(藩)
        の城下町がつくられた慶長年間(~1615)頃とされる。
                 それ以降は今津村であったが、明治の町村制の施行により、今津村、装束村、室木村、
        柱島の区域をもって麻里布村となる。
         今回は、1909(明治42)年に開業した岩国電気軌道跡と今津の町を散歩する。(歩行
        約7.8㎞) 

        
         JR岩国駅からいわくにバス錦帯橋行き約15分、新町バス停で下車する。

        
         新町停留所の位置を確認するため地元の方にお聞きすると、詳しくは知らないが、郵便
        局からロータリー付近に駅などがあったと聞いているとのこと。その痕跡は残されていな
        いが、本社、工場、倉庫、売店などがあったという。(岩国2丁目) 

        
         岩国学校は、1870(明治3)年に藩中の青少年を教育するため、現在地近くに新築され
        たが、電車はその学校付近を走っていたとされる。(藤岡市助に関する資料を保存・展示)

        
         現在の岩国小学校付近の道筋が軌道跡と思われる。

        
         軌道は「へ」の字型になっていたようで、右手の道が軌道跡である。

        
        
         通りに入ると右手に、岩国南八十八ヶ所特別霊場があり、お堂を覗くと想定外の仏様が
        鎮座していた。(錦見4丁目)

        
         現在の森木口バス停付近に錦見(にしみ)停留所があったとされる。約7㎡の待合所が設け
        られ、近くに岩国町役場があったという。

        
         錦見5丁目に入ると、やや左へ湾曲して旧国道2号線に合わす。
         岩国電気軌道は、岩国市街と国鉄山陽本線の麻里布駅(現岩国駅)との間に距離があった
        ことから敷設された。中国地方では最初の路面電車で、岩国新町から岩国駅を経由して、
        海の玄関口であった新港に至る5.7㎞の路線であった。

        
         新小路停留所は旧国道2号線と交差する辺りにあったとされる。この先、軌道はどのよ
        うに敷設されていたかは不詳のままとなる。(錦見6丁目)

        
         岩徳線が敷設されているため、県道15号線(岩国玖珂線)を利用する。(歩道橋で西岩国
        駅)

        
         西岩国駅の由来によると、1929(昭和4)年4月に岩徳線の一部、麻里布ー岩国町間が
        開通して岩国駅として開業する。1934(昭和9)年に岩徳線が全通して山陽本線となり、
        錦帯橋を中心とする観光客は当駅で乗降したという。
         時代とともに岩国の中心は麻里布地区に移っていったため、1942(昭和17)年に麻里
        布駅を岩国駅、岩国駅を西岩国駅に改称される。

        
         駅舎は大正末期から昭和初期の洋風建築で、アーチ部分は錦帯橋を模した意匠である。
        駅建物はJR西日本から岩国市へ譲渡され、国の登録有形文化財に指定された。今も木製
        ラッチが使用されるなどレトロな味わいのある駅舎である。 

        
         岩国往来は、岩国市本郷町と今津を結ぶ約30㎞の往還道である。関ケ原の戦い後、防
        長2州に移封された毛利家は吉川家を岩国領主とし、萩藩主の御国廻りや役人が岩国領(藩)
        を視察、特産の和紙など物資を輸送する道として利用された。

        
         錦見8丁目の錦見踏切で錦川へ向かう。

        
         1890(明治23)年の第3回内国勧業博覧会で東京電灯が電車を初運行、この電車を設
        計したのが岩国出身の藤岡市助であった。1908(明治41)年6月岩国に戻った市助は、
        岩国電気軌道㈱を創立する。(錦見ポンプ場付近の交差点)

               
        
         県道沿いに赤い鳥居があり、額束には正一位・おさん稲荷大明神とある。社は民家裏に
        あってたくさんの狐像が置かれていたが、由緒などがないので創建年などは知り得なかっ
        た。TV放映された日本昔ばなし(ナレーションは市原悦子)に、「おさん狐」というのが
        あったことを思い出す。

        
         水道局を過ごすと関所バス停があるが、錦見と今津の境界上、錦川を臨む小丘上に関所
        山城があったという。1569(永禄12)年に毛利軍が九州の立花城攻めの頃に築城された
        とするが、それ以前に陶方が築いたのではないかとされる。
         1868(明治元)年この城跡に戊辰戦争の戦死者22名を祀った招魂社が建立されたが、
        白崎八幡宮境内に移された。

        
         八幡停留所は白崎八幡宮下に設けられていたというが、八幡下から八幡バス停の間にあ
        ったものと思われる。 

        
         八幡下を少し進むと、中央の道を挟んで左手が軌道跡、右手が岩国往来である。

        
        
         山門と本堂の間を車道が通る浄土宗の称光寺。1644(正保元)年に吉川家より現社地、
        用材を拝領して創建されたという。

        
         車道兼用の参道を上がる。

        
         少し上流で錦川は今津川と門前川に分流する。開作ができて用水が不足したので、16
        92(元禄5)年に八幡下より開作地へ用水溝を掘ったとされる。(川下の橋は大正橋) 

        
         白崎(しらさき)八幡宮は、八幡山の南麓にあって錦川を望む地に鎮座する。由緒によると、
        鎌倉期の1250(建長2)年に時の領主・清縄良兼が今津の琵琶崎に小社を創建する。13
        48(貞和4)年に良兼の子・弘中兼胤(清縄を弘中に改姓)が、現在地の白崎山に遷座させて
        社殿を造営した。
         室町期の1496(明応5)年兵火により社殿を焼失したが、翌年、弘中弘信によって再興
        される。弘治年間(1555-1558)大内氏とともに弘中氏も亡び、社は衰退したが、1611
         (慶長16)年吉川氏により再興された。

        
         境内末社として住吉神社、粟嶌神社など14社が祀られているが、蓄財隆昌の銭亀かえ
        る大明神、オートバイ神社というのもある。 

        
         護国神社の沿革によると、1868(明治元)年関所山に維新前後の戦役で亡くなった22
        名の霊を慰むるため社殿を造営し、後に西南、日清・日露から第二次大戦の殉死者を合祀
        した。
         当初は岩国町関所山招魂社、のちに岩国護国神社と改称したが、第二次大戦後は岩国神
        社とし、1952(昭和27)年に現社名に復称した。1945(昭和20)年の豪雨により参道
        が破損し、現在地に社殿を建立したとある。

        
         今津川の左岸に今津町、右岸の三角州に川下町・中津町などがあり、正面には阿多田島
        が浮かぶ。

        
         長山公園は日陰のベンチとトイレがあるので、昼食休憩するには最良だった。

        
         大応寺(曹洞宗)は長崎の晧臺寺(こうたいじ)末寺で、1670(寛文10)年に晧臺寺の隠居
        ・月舟宗林が、郷里の岩国の横山寺谷に知足庵と号する小庵を建立したのが始まりとする。
         その後、現在地に移転し、1712(正徳2)年に現寺号に改めた。当地には自性院という
        白崎八幡宮の僧坊があったと伝える。(石段上り口に松尾芭蕉の句碑)

       
        坂村真民(さかむらしんみん・1909-2006)は日本の仏教詩人で、詩は解りやすく、特に「念
       ずれば 花ひらく」は多くの人々の共感を呼び、多くの詩碑が建てられた。同寺にも建立
       され、裏面には多くの教科書に掲載された「二度とない人生だから」がある。
           二度とない人生だから 一輪の花でも 無限の愛をそそいでゆこう
           一羽の鳥の声にも 無心の耳をかたむけてゆこう (中略) 
           二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりあいのふしぎを思い
               足をとどめて みつめてゆこう (以降は記載なし) とある。

        
         大応寺から今津川方向へ進むと、左手の高台に白蛇神社が見える。

        
         白蛇神社は今津地域の人々をはじめとして、白蛇の保護と信仰に基づき、2012(平成
          24)
年に厳島神社より勧請、白蛇観覧施設の隣に創建された。

        
         白蛇神社の向いにある今津天満宮は、菅原道真が太宰府に左遷される途中、鞠布(まりふ)
        の浦といわれていた今津に上陸され、休息されたという伝承に基づいて創建された。
         船に使用する櫂(かい)を杖代わりにして丘に登られたと伝えることから、当社は「櫂つき
        天満宮」とも通称されている。社殿は吉川氏の時代に再建されたが、2011(平成23)
        に新たな社殿が建立された。

        
         白蛇神社の裏手に白蛇観覧所がある。観覧は無料だが保護・保存活動のための浄財箱が
        ある。(一人100円)
         白蛇はアオダイショウの突然変異とされ、生息地である岩国市の今津、麻里布、川下地
        区が国の天然記念物に指定された。その後、白蛇自体に指定替えされた。

        
         近年生息地域は都市化が進み、餌となるネズミなどが少なくなるなど環境の変化により、
        生息数は減少しているとのこと。

        
         正面の今津八幡宮参道を下り、今津町第4街区公園先を右折すると宇津神社がある。1
        886(明治19)年に広島県の大崎下島に鎮座していた宇津神社の社家の娘・越智タキ子が、
        神道大日本教布教のため設立した「祓戸教会」を前身とするらしい。後に現在地に移転し
        たが、
1947(昭和22)年神社の制度改革に伴い宇津神社に改称した。

        
         八幡下から岩国間の軌道は、道路に沿って敷設されていたという。今津停留所は現在の
        今津4丁目付近にあったとされる。

        
         浄念寺(真宗)は安芸国吉浦で吉川氏船手衆の檀那寺あった。吉川氏の岩国移封の時、住
        職・徳善がその門徒と共に当地に移り、一寺を建立して現寺号を称したという。

        
         今津恵比須社はもともと白崎八幡宮の末社で、1784(天明4)年に今津中町に分祀され
        た。神社の鎮座地は海岸沿いにあって、海の産物と野の産物が交換される「市」が開かれ
        ていたという。

        
         2つの表門を構える地には萩藩の蔵があったといい、大きな門の瓦には萩藩の家紋(一文
        字三星紋)が見られる。

        
         岩国往来に出ると、白鷺渡来地と白蛇生息地(側面)の碑。

        
         岩国往来の終起点には、御茶屋や船着き場、港に出入りする船や荷物を取り締まる川口
        役人屋敷があったという。

        
         1877(明治10)年に八百屋新三郎が、吉川氏より御茶屋、米蔵を譲り受けて「八百新」
        を創業して酒造りを始めたという。銘柄の「雁木」は近くの船着場に荷物を積み下ろしす
        るための階段(雁木)から命名されたという。

        
         今津川を下って国道188号線を岩国駅方面へ進むが、今津4丁目付近から岩国駅間の
        軌道跡もわからず終いとなる。

        
         岩国電気軌道は小瀬川電気㈱と合併したため岩国電気、後に柳井中外電気㈱と合併し、
        社名を中外電気㈱と変え、最終的は電気事業が山口県に買収されたため電車経営も県営と
        なった。
         廃止されるまで営業成績は好調であったが、鉄道省が岩徳線建設を決定すると、県は並
        行路線となるため開通後に廃止の方針を決める。1929(昭和4)年1月に工事が完成する
        と、4月4日の運転を最後に廃業となる。