ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

柳井市遠崎は幕末に海防僧・月性が活躍した地

2019年08月31日 | 山口県柳井市

        
          この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 546号)
         遠崎(とおざき)は旧玖珂郡の南端部、南は海で笠佐島が浮かぶ。藩政時代は周防大島が萩
        藩領であったため、大畠瀬戸を渡海する船着場として、比較的潮流の緩慢な遠崎を港とし
        て利用するため萩藩領とされた。(歩行約7㎞)

        
         山陽鉄道は明治期に神戸を起点に、馬関(下関)まで14年の歳月をかけて、1901(明
          治34)
年5月27日に開通する。
         1897(明治30)年に広島~徳山間が開通したが、柳井港駅は設置されなかった。19
        29(昭和4)年に地元県会議員が時の首相・田中義一(萩出身)に運動して開業させた政治駅
        である。

        
         駅前が小瀬上関往還道で、街道を東進すると国道188号線に合流する。山陽本線と並
        行して大畠方面へ進むと、途中に旧大畠町と柳井市の境をなす境川がある。藩政時代の萩
        藩領と岩国領の境でもあった。


        
              江戸末期の幕長戦争で亡くなった人を供養するため、周防大島の海中に建てられたもの
        を引き揚げ、この地に建立されたと伝えられる。南無阿弥陀仏の南の字が欠落しているこ
        とから、首なし地蔵さんと呼ばれている。(説明板より)

        
         国道から離れて再び小瀬上関往還道に入る。その先の遠崎地区学習等共用会館のある地
        は、海を埋め立てて建設されたもので、街道は海傍を通っていたことになる。駐車場に月
        性の立像がある。

               
         共用会館の反対側に松戸八幡宮の御旅所がある。大きな常夜燈が設置された当時は港が
        すぐにそばにあり、船にとって目印になったとされる。
         ここには戦死者の国への忠義と正義の心を顕彰する「忠勇義烈」の碑がある。     

        
         長命寺は真言宗であったが、江戸期に浄土宗として再興されたといわれている。
         1773(安永2)年に木喰五行上人が全国各地に自作の仏像を残そうと、56歳の時に思
        い立ち、1799(寛政11)年この地に1日滞在する。その際に彫った3体が現存し、うち
        2体が同寺にあるという。

        
         街道を行き交う人や共同井戸として利用されたと思われる井戸。

        
         鍵屋(旧秋元家)は、海産物を俵に詰める俵物の下請け問屋で酒造業も営んでいた。18
        66(慶応2)年の幕長戦争・大島口の戦いでは、高杉晋作がここに宿泊したとされる。

        
         正面に妙円寺、右手に月性資料館、左手は民俗資料館。

        

         妙円寺境内にある
清狂草堂(せいきょうそうどう・別名:時習館)は、1848(嘉永元)年に
        月性が開塾し、赤根武人、大楽源太郎、大洲鉄然、世良修蔵らが学ぶ。尊皇攘夷として「
        海防」の急を説いたことから、「海防僧」と呼ばれたという。西郷隆盛と共に入水した僧
        ・月照とは別人である。

        
         1855(安政2)年以降は不在がちで、帰郷の際に塾を開いたとされる。    

        
         本堂西側に月性の墓があり、墓石面面には「清狂師之墓」と刻まれているだけで、誰が
        いつ頃に建立したかは明らかでないとのこと。
         月性(1817-1858)はこの地で生まれたが、母・尾の上が岩国の寺に嫁ぎ、月性を身籠った
        が不縁となり、実家(妙円寺)に戻り、月性を出産する。
         13歳で得度し、15歳からは豊前国・安芸国・肥前国で漢詩文や仏教を学び、23歳
        で帰郷する。再び大坂・江戸などに遊学し、多くの人と交流する。長州を攘夷に向かわせ
        るのに努めたが、明治という新しい時代を見ることなく42歳で病没する。 

        
         男児立志の碑は、月性が1843(天保14)年に京阪地方へ向かうとき、出発に際し詠ん
        だ詩が刻まれている。
           男児志を立てて郷関を出ずづ
           学もし成る無くんばまた還らず
           骨を埋むるなんぞ期せん墳墓の地
           人間到るところ青山あり

        
         月性が諸国を遊説したときに使用した網代笠。清狂」の大きな字は、篠崎小竹の書によ
        る。(展示館にて)

        
         当時はこの地より東約50mの所にあったが、老朽化したため門下生が、1890(明治
                    23)
年に現在の草堂を建てる。 

        
         寺の上第2踏切を越える。

        
         道なりに進むと旧遠崎小学校校舎が見えてくる。1873(明治6)年妙円寺の一部を借り
        て開校して2度ほど移転し、1912(明治45)年現在地に遠崎小学校校舎が完成する。
         しかし、2013(平成25)年に旧神西、鳴門の3校が統合し、大畠小学校となり廃校に
        なる。

        
         東門から西門(正門)へと校庭を歩くと、校庭の中央にシンボルの銀杏の木が残されてい
        る。

        
         遠崎の中心部よりやや山手に鎮座する松戸八幡宮は、天暦年間(947-957)に宇佐神宮より
        勧請される。
         松堂(まつど)山に鎮座し大島郡中の祈祷所となったが、その後、現在地に遷座して「松戸
        八幡宮」といわれるようになったとか。

        
        
         参道石段を上がれば遠崎小学校、大島(屋代島)や豊後水道に接する瀬戸内、室津半島の
        山並みが一望できる。

        
         境内には本殿の他、篠原社、蛭子社、荒神社、石鎚社なども祀られている。

        
        
         坂道の途中に「大賀ハス」の看板があり、「山口大学」よりやってきたとあるが、やっ
        てきた由縁は記されていない。さらに長い急坂を上がって行く。

        
         平坦になると次の集落が見え、分岐には水車が置かれている。國木田独歩の「欺(あざむ)
        かざるの記」の明治27年(1894)8月17日に、弟の収二と散歩した記述がある。
「昨日        
        午後1時少し前、収二と共に琴石山麓の山家点在せる辺りを散歩す。渓流に沿うて山路を
        辿り、松林に入りて山腹を横ぎる。サコンタを止めて水に浴し、路傍を沿うて棗(なつめ)
        盗む」とあるが、サコンタとはこの水車のことか?

        
         最上部に上がると国手溜池と遠崎、海に浮かぶのは笠佐島。

        
         心光寺(浄土宗)は国木田独歩の「欺かざるの記」では、「山寺に入りて僧の眠りを驚か
        し、犬に吠えられて笑って石を投げつく」とあるが、山寺とは当寺のことか?

        
         寺から薄暗い坂道を下り、次の集落へ移動する。

        
         中電柳井火力発電所の煙突を左手に見ながら茶臼山を目指す。

        
         竜華川に沿って上がって行くと、茶臼山登山道の案内板がある。

        
         祇園社への鳥居があり、ここが登山口のようで擬木階段が続いている。

        
         途中にある祇園社。

        
         1892(明治25)年地元に住む2人の少年が発見した茶臼山古墳。この地域を支配した
        豪族の陵墓であると考えられ、全長80m、高さ8mの前方後円墳である。

        
         後円部の一番高いところに、この地域の豪族が眠る石室があるという。

        
         築造当時の姿を再現すべく古墳全体を葺(ふき)石で覆い、142基の埴輪のレプリカが置
        かれている。

        
        
         標高60mの場所にあり、古墳からは海と中国電力柳井発電所が見える。
         1991(平成3)年の発掘調査で、墳丘が3段に築かれて埴輪が並べられていたことが判
        明し、築造当時の姿をできるだけ忠実に再現されている。

        
        
         前方後円墳をぐるりと一周できる。

        
         竜華川に沿って下り、小瀬上関往還道に合わす。

        
         岸の下踏切を左折すると江の浦地区。柳井港の沖に浮かぶ裸島周辺は好漁場で、藩政時
        代は萩藩領である遠崎との間でしばしば漁場紛争が起きていた。
         1763(宝暦13)年漁場の見張りの体制を整えるため、この一帯に村ができ、柳井港や
        駅ができると商店が建ち並ぶようになったという。(この先にJR棚井港駅)


山口市徳地の小古祖は旧石州街道沿いの集落 

2019年08月26日 | 山口県山口市

                
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号令元情複第546号) 
         小古祖(おごそ)は佐波川の上流域左岸に位置し、ほぼ中央を防府と石州を結ぶ石州(三田
        尻)街道が通り、市に駅場が置かれた。市では三斎市(8・17・26日)が開かれ、農業
        を中心として製紙なども行われた地域である。(歩行 約7.3㎞)

        
         小古祖の地名由来について風土注進案は、当村往古は「姑蘇(こそ)村」といったことが応
        永年間頃のものにある。慶長の頃から「小姑蘇」、宝暦の頃(1751-1764)より小古祖になっ
        たと記す。

        
         佐波川右岸にある北野天神の鳥居がポツンとある。創建年などは不明だが、山城国の北
        野天神より勧請したと伝える。地区の方によると、祭りは防府天満宮より一週間早く行わ
        れるとのこと。

        
         中国自動車道高架下から沢沿いの細い山道を2~3分ほど登ると、竹林の中に古墳が現
        存する。1976(昭和51)年の中国自動車道建設時に発見されてこの地に移転された。

        
         横穴式石室で入口に袖石が二つある西日本特有の様式である。盗掘の穴が隅にあり、ア
        ーチを作る天石はなく、埋葬された人が誰なのかは不明とのこと。

        
         小古祖の中心地である市集落。種田山頭火は昭和8年(1933)7月28日小郡の其中庵を
        出立し、山口、仁保を行乞してこの地の河野屋に投宿する。
         「今日の道はよかった。山百合、もう女郎花が咲いている。~中略~ 佐波川はなつか
        しかった。4時過ぎに小古祖の宿屋で特に木賃で泊めてもらった。宿前にある水は自慢の
        水だけあってうまかった。何ともいえない味わいがあった。むろん二度も三度も飲んだ」
        と記す。
               「ふるさとの水をのみ水をあひ(び)」
         この付近に河野屋があったとされるが、場所の特定に至らず。

        
         「和可娘」の銘柄で知られる新谷酒造の醸造蔵。現在も使用されているか否かは不詳で
        ある。

        
          石州瓦と煙突。市集落では目立つ存在である。

        
        
          多念寺は明治の廃仏毀釈により、1870(明治3)年島地の観宗寺(現在の観念寺)へ廃
        合される。
         第2銃隊は本陣を守り市街戦を想定して、本陣に近いこの多念寺を寺宿とした。

        
         上市集落から国道に出ると、山の中腹に鳥居が見えてくる。

        
         右手に金毘羅宮への入口。

        
         急坂を登って行くと小古祖集落が望める展望地に出る。奇兵隊が駐屯した際に物見場と
        なった所である。

        
         水運の神様で、佐波川を利用した通船の安全と繁栄を祀った金毘羅宮。

        
         金毘羅宮から堀方面に引き返すと、「重源の郷」への案内板があり、深谷集落へ寄り道
        する。

        
         重源の郷案内板から900mほど山間に入って行くと、深谷十三佛の標柱がある。

        
        
         仏教では、故人の冥福を祈って行われる法要で、亡くなった日から7日ごとに49日ま
        での中陰供養、1周忌から33回忌までが年忌供養である。これをまとめて追善供養とい 
        う。
          ①初7日・不動明王          ②27日・釈迦如来
          ➂37日・文殊菩薩       ➃47日・普賢菩薩
                    ⑤57日(35日)・地蔵菩薩  ⑥67日・弥勒菩薩
                    ⑦ 77日(49日)・薬師如来   ⑧百ヶ日・観音菩薩
                    ⑨一周忌・勢至菩薩            ⑩三回忌・阿弥陀如
                    ⑪七回忌・阿閃如来      ⑫十三回忌・大日如来
          ⑬三十三回忌・虚空蔵菩薩
         亡くなった人を浄土に導く13人の仏様。初七日から33回忌まで、それぞれに担当が
        決まっている。

        
         槍(銃剣)隊は妙楽寺(のちに堀村の妙蓮寺と合併)を寺宿にして、全軍の後方部隊として
        の役割を担う。緊急時には山道を抜けて物見場へ駆けつける仕組みにもなっていた。

        
        
         須賀神社(祇園社)も明治の神仏分離令のあおりを受けて、仏教用語である「祇園」が外
        されたため改名したとされる。神社の名称が変更されても地元の方々は「お祇園さん」と
        称している。
         諸隊が転営してきた当初、境内で剣撃の訓練するよう指示がなされたが、10月25日
        には正福寺(現昌福寺)に変更された。

        
         正慶院は奇兵隊・膺徴隊の本陣とされたが、同寺を選んだとされる理由は、天然の要害
        と云える地形、境内から佐波川や街道を見渡せる位置にあったことによるという。
         徳地にはわずか14日の滞在で山口へ移動するが、ここでの訓練や人心掌握(諭示)が、
        のちの戦いに活かされることになる。

        
         正慶院はもと京都・東福寺の末寺で長谷寺(臨済宗)といい、正慶院谷の祇園原にあった。 
        1574(天正2)年に山口の俊龍寺の和尚が、正慶院と改め曹洞宗の寺として、廃寺となっ
        た長谷寺の跡地に開山したが、まもなく現在地に移る。

        
        
         内藤隆春(1528-1600)は大内氏の重臣であった内藤興盛の五男として生まれ、姉の尾崎局
        は毛利元就の嫡男・隆元の正室であった。大内氏が滅亡して毛利氏に従った後は、荒滝城
        主などを務めたが、宍戸元秀の子・元盛を婿養子に迎え、家督を譲った後は下得地に移っ
        て隠居する。

        
         第一銃隊が寺宿とした澄月院(ちょうげついん)は、1870(明治3)年に正福寺と合併した
        が、その寺跡がどこなのかは確認できなかった。

        
        
         澄月院跡から中国自動車道徳地ICの脇を通って国道489号線に出る。佐波分校バス
        停があるものの、堀バス停まで約600mの距離なので歩いて出発地に戻る。


山口市徳地の堀は幕末に諸隊の一部が転陣した地 

2019年08月24日 | 山口県山口市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製 したものである。(承認番号令元情複第546号) 
         堀は佐波川の中流域に位置し、1889(明治22)年以前は堀村として存在したが、町村
        制の施行により伊賀地村、小古祖村、深谷村、岸見村が合併して出雲村となる。1955
        (昭和30)年には昭和の合併で徳地町、平成の大合併で山口市となる。(歩行 約6㎞)

        
         正福寺はもと福生寺といい、奈良期の天平宝宇年間(757-765)は東大寺末寺の尼寺であっ
        たと伝えられる。1596(慶長元)年に正福寺(曹洞宗)と改め、1870(明治3)年に域内の
        禅昌院と澄月院が正福寺へ合併し、翌年に昌福寺と改称された。

        
         正福寺(現昌福生)は膺懲隊が屯所とし、撃剣場であった祇園社が手狭であったことから、
        訓練場所としても利用される。

        
         昌福寺本堂右側に、奈良期の728(神亀5)年創建の薬師堂がある。案内によると平安後
        期の特色が顕著な薬師如来立像と二天立像があるとされる。

        
         徳地宰判勘場跡には御門長屋、上勘場、大庄屋木屋、御紙見取場、御恵米蔵などの建物
        があったとされる。(昌福寺から旧道を東へ約400m)
         萩本藩は行政区分として宰判を設け、代官を中心に地方行政担当の諸役を任命し、その
        執務場所を勘場といった。
  
        
        
         1865(慶応元)年の内訌戦の時は、諸隊のうち二百余人が大砲小銃を携えてこの勘場を
        囲んだとのこと。廃止後は伏野小学が設置されたが、その後、民地となり栗・梅園などに
        なっている。旧街道に面して勘場の正面には石垣が残され、ほぼ中央部に登り口の石垣も
        見られる。

        
        
         熊野神社は、平安期の延喜年間(901-22)に紀州の熊野三所権現から勧請したと伝える。

        
         国道489号線を中心部に戻ってくると「とりたまの里」がある。鶏卵の生産加工販売
        会社の直営店で、たまごかけご飯が食べ放題だという。新鮮な卵に、里オリジナルな醤油
        も販売されている。

        
         徳地体育館前から細い路地を南下して島地川に架かる橋を渡る。

        
         徳地体育館前から細い道を南下して島地川に架かる柳橋を渡ると、左手に墓地が見えて
        くる。ここが狙撃隊の寺宿となった宗徳寺跡である。 

        
         1697(元禄10)年山手にあった福王寺を移転させて宗徳寺(曹洞宗)と改称する。18
        70(明治3)年に西方寺と合併して廃寺となる。今はその遺構として墓地や毘沙門堂が残さ
        れている。

        
         赤瓦の総二階の建物が目を引く。

        
         堀は佐波川の舟運と陸路の要衝として、近世より栄えた宿場町であり在郷町であった。

        
         町並みは時代の波に押し流されて変容している。1918(大正9)年9月三田尻ー堀間に
        防石鉄道が開通し、終着駅が友景旅館付近にあった。道路整備に伴い、バス・トラック輸
        送が拡充すると鉄道部門は衰退し、1964(昭和39)年に廃線となる。

        
        今度は佐波川を渡る。

        
        佐波川を渡ると山裾に法華寺(金徳寺跡)が見えてくる。第三銃隊はここに割り振らる。         

         
         前身の金徳寺は天武天皇の勅願寺で、鎌倉期の建久年間(1190-1199)に俊乗坊重源がしば
        らく滞在し再興したと伝える。1870(明治3)年本寺である萩・満願寺と合併して寺号が
        廃止された。 

        
         法華寺は、奈良期の739(天平11)年に光明皇后が僧行基に詔して、諸国に創建させた
        長門国法華寺である。豊浦郡の豊浦村にあったが、1873(明治6)年に赤間関(現下関市)
        へ移転し、1897(明治30)年金徳寺跡に再移転する。 

        
         境内から堀の中心部が一望できる。

        
         佐波川自転車道は、防府市新橋町から佐波川に沿い、山口市徳地野谷まで32㎞の道で
        ある。 

        
         1889(明治22)年明治の大合併により新たな村名は、地内の出雲合という地名により
        出雲村となり、村役場がこの地に設置された。
         その後、昭和の大合併により5ヶ村が合併すると、新しい町名はこの5ヶ村一帯を、古
        くから徳地(得地)といっていたことによるという。(現在は市総合支所) 

        
         妙蓮寺(現・雲相寺)は大砲隊の寺宿として割り当てられる。1871(明治4)年に深谷村
        の妙楽寺合併したが、1873(明治6)年に号のみが下関新地へ移り、1877(明治10)
        に改号する。


周南市戸田に旧山陽道の面影が残る 

2019年08月07日 | 山口県周南市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複第546号)
         戸田(へた)JR山陽本線が昇仙峰南麓の海岸部を迂回し、北麓に沿って国道2号線が東
                西に走る。国道の北側を並行して通る旧山陽道の道筋にできた集落が戸田市である。(歩行
        約4.6㎞)

           
         1911(明治44)年に開業したJR戸田駅は、駅開設のため戸田・夜市両村をはじめ6
        ヶ村が連名で請願する。駅名は戸田ですんなりと決まったが、戸田村の有力者が土地の提
        供を拒んだため、村境の夜市側となったという歴史を持つ。駅舎の建造はいつなのかわか
        らないが、美しい木造駅舎の1つである。

           
         JR戸田駅から旧山陽道歩きを兼ねて戸田市を訪れることとし、駅前の国道を徳山方面
        へ進み、最初の信号で国道を横断して西進する。

           
         
         矢地市の三叉路には白壁の大きな家が2軒あったが、正面のH家は解体されていた。
        (下右は現存中に撮影)

           
         右手の小高い所に地蔵尊と、埴輪のような祠がたくさん並んでいる。

           
         地蔵尊の場所から見る夜市(やじ)の町並み。

           
         赤坂峠(戸田と夜市の境)を越えると戸田集落が見えてくる。

           
         船山神社(祇園社)の創建は不明だそうだが、寺社由来には建保年間(1213-18)に京都東
        山の祇園社から勧請したとある。
         鎮座地は南北にやや長い船形の平地山であるため船山といわれ、戸田の村名は船山にち
        なむ「舮田
(へた)の書き違いだという。
 

           
         この平地山を舟に見たてたため、この周囲にこれを繋ぐ「碇石」が配してあった。東側
        に3つ、西側に1つあったとされるが、拝殿横に1個だけ現存する。

           
         右側の民家奥に光西寺(真宗)があり、寺境内の便所付近に小休所があったとされるが、
        今はその痕跡はない。
寺伝によると、1577(天正5)年の創建とされ、1732(享保17)
        年と1733(享保18)年の2年続きの飢饉の際、この寺の住職は、飢饉による餓死者を弔
        う供養塔を建てたとある。(碑は柳橋から湯野温泉方向へ600mほど行った左手にある)

           
         桜田八幡宮から西の夜地川までの約380mが戸田市であるが、個々の民家はすべて装
        いを新たにしている。


           
         右手に宮島様と呼ばれる祠があるが、祀られているのは鯛を抱えた恵比須様で、案内板
        にはどうして宮島様といわれるのか定かでないとか。水の中に立てて祀られている由縁だ
        ろうか。

           
         戊辰戦争時、奥州に出征した竪田家の兵が無事に凱旋したのは、氏神様のお陰であると
        感謝して建てたもので、23名の名が刻まれている。

           
         街道を右折して緩やかに上って行くと桜田八幡宮の鳥居。

          
         
         次の鳥居からの石段は3方に分かれている。

         
         桜田八幡宮は、室町期の1507(永正4)年大内義興が宇佐神宮より勧請し、この地に遷
        座・造営したとされる。1859(安政6)年に現在の社殿が造営されたという。

           
         桜田八幡宮から戸田の町並み。

           
         江戸期の戸田村は、市の中心部が徳山藩領、他が萩藩領であった地域で、萩藩領は竪田
        氏の知行地とされた。(戸田市観音がある心光寺付近)

           
         1944(昭和19)年4月に戸田村は、徳山要港の大都市建設のため徳山市に編入され、
        発展的終局を迎える。
         戦前だったこともあって地元の長老数人に村役場の位置を伺うが、内1人の方が桝屋・
        宗近家(写真)の反対側にあったと思うが、定かではないとのことだった。

           
         商家だったと思われる大きな家(H家)が目を引く。

           
         説明によると享保年中(1716-1736)に安置されたとされ、1785(天明5)年ご尊体が震
        えて大量の汗を出して火災の難を知らせたので、町は難を逃れたとのこと。この堂は、1
        955(昭和30)年に再建されたものである。


           
         地蔵堂の脇に古民家があったが解体され、高齢賃貸住宅となっていた。(現存時の写真)

           
         夜市川に架かる柳橋で戸田市の西端となる。

           
         山田家は小早川隆景の家臣であったが、のちに湯野の竪田元慶の家臣になる。この本屋
        は武家屋敷の趣きと民家風の構えを持った屋敷で、物見の役を兼ねていたとされる。19
        66(昭和41)年に旧屋敷の60%が徳山市街地に移築され、現在は湯野温泉に再移築され
        ている。

         国道に沿って800mほど東進すると道の駅ソレーネ周南があり、バス利用して戸田駅
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