ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島の森・平野に星野哲郎・宮本常一記念舘 

2019年11月30日 | 山口県周防大島町

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         森・平野は屋代島の北海岸(内浦)中部の入海東端に位置し、人家は海岸付近に密集し、
        山麓部にも集落が発達し農業地域(みかん栽培)となっている。

         1889(明治22)年町村制の施行により、神浦、和佐、森、平野村が合併し、村名は合
        併時の中心であった森、平野の1字をとって「森野村」とし、1955(昭和30)年油田、
        和田、森野、白木村が合併し、東和町となったが町行政の中心地であった。(歩行約4㎞)


           
         伊保田港バス停から森野小学校バス停で下車し、次のバス時間(16:04)を確認して町図書
        館へ向かう。

           
         星野哲郎記念館や民俗学者・宮本常一記念館があり、歩いた後のバス待ち時間にと思っ
        ていたが、旧森野村役場跡の場所を教えていただいた地元女性との長話で見学することが
        できなかった。

           
         平野は、1974(昭和49)年埋立てによって完成した国道437号線と、その山手側に
        並行して2本の旧道がある。中間の道も埋立てによってできた道だが、
賑やかな時代もあ
        ったと思われるが、今は静かな通りとなっている。

        
         中間の道に郵便局、駐在所、JA、公民館などがあり、学校や図書館、行政機関は海辺
        の埋め立て地に移転している。(村井酒店)

           
         200mほど歩くと片添ヶ浜への道に合わす。

           
         三叉路を左折すると正面に白木山。

           
         3本目の道に入る

           
           
         古くからの道のようで山手側に古民家が点在するが、道沿いは空家と空地が目立つ。

           
         森地区との境にある八坂神社。平野地区民は下田八幡宮の氏子で、八坂神社はその末社
        として位置づけられている。

           
         八坂神社正面には旧小学校校舎が図書館に引き継がれたが、現在は空家のまま放置され
        ている。

           
         1955(昭和30)年合併により東和町が発足すると、森野村役場があった地に町役場が
        置かれた。町名は郡の東部にあって4ヶ村が「和」していくことを祈念したとされる。(
        されているのは旧東和町教育委員会)

           
         反対側には塀に囲まれた大きな民家。

           
         「桜・みかん・鯛・みかんの花」がデザインされた旧東和町のマンホール蓋。

           
         湾と三方を山に挟まれた平野地区。

           
         1696(元禄9)年建立の神山神社の石鳥居は、森集落の有力者であった岡本仁兵衛が寄
        進したとされる。
(周防大島町指定文化財)

           
         伊予国の弓削神社から勧請して森村の神山(こうのやま)に祀ったのが始まりとされるが、
        創建年などは不明とのこと。その大破したので現在地に遷座し、1871(明治4)年現社号
        に改称されたが、五穀豊穣と家内安全の神として崇敬されている。

           
         周防大島はみかんの産地。至る所にみかん畑が広がる。

           
         往古は法寿院・法明院という禅宗が2ヶ所あったが法寿院は断絶し、法明院は神山神社
        の社僧寺として栄えたが衰退する。慶安年間(1648-1651)に再建され、1870(明治3)
        に和佐村の心月院と合併し、寺号を法心寺(曹洞宗)と改めた。

           
           
         森の一部に古民家が残る。

           
         山手の路地歩きを終えて、下車したバス停からJR大畠駅に戻る。


周防大島町の情島は山口県最東端の地 

2019年11月30日 | 山口県周防大島町

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         情島(なさけじま)は周防大島町の最東端の瀬戸ヶ鼻から北方750mの海上にあり、島の
        北は広島・山口・愛媛の三県の境界水域である。伊保田港から北東へ3.1㎞の位置にあり、
        1日4往復の町営渡船が就航している。(歩行約2.8㎞)

        
         JR大畠駅(8:58)防長バス周防油宇行き約1時間10分、伊保田港バス停で下車する。

        
         桟橋から目指す情島が見える。

        
         町営の渡船に乗船する。(11:00)

        
         “せと丸”は定員23名の小さな船であるが、何といっても操舵室と客室が一緒なのが
        特徴である。町営のためか運賃は290円と安価で、船長に直接支払うシステムになって
        いる。
        
         今日はシケでデッキに出ることはできないが、釣り客と片道15分の船旅である。島の
        東側に廻り込むと航路から仏の浦集落が見えてくる。

        
         本浦渡船場に到着すると、防波堤は太公望たちにとって釣り場のようで、多くの人たち
        が釣りを楽しんでいる。

        
         桟橋を渡ると本浦集落。

        
         港に祀られている恵比寿さん。

        
         車の通行がないので気ままに歩くことができる。

        
         本浦集落の端にある情島神社。

        
         島の氏神とされる情島神社は、かつて村上水軍の大将であった村上武吉が、1601(慶
          長6)年に創建したと伝えられている。(旧社号は荒神社)

        
         境内から見る本浦の町並み。

        
         さらに進むと本浦集落の目の前に無人島の諸(もろ)島。

        
         1976(昭和51)年7月2日情島沖合で宮崎から広島港に向かうフェリー「ふたば」と、
        パナマ船籍の貨物船が衝突してフェリーは沈没するが、情島の住民の献身的な救助活動に
        より犠牲者の数を最小限に食い止めることができた。
         その海難事故による犠牲者(33名)の慰霊碑が、諸島海峡を望む位置に建てられている。

        
         海岸沿いの道を進む。(前を歩く人は釣り人)

        
         情島小中学校は、1888(明治21)年和田村立油田小学校分教場として創立される。1
        959(昭和34)年には生徒数122名いたそうだが、2006(平成18)年には島にあった
        児童福祉施設「あけのぼ寮」で暮らす子供たちだけとなる。寮が岩国市に移転した201
        7(平成29)年3月に休校となる。「山口県のあけぼのをはじめに仰ぐ東の海~」と大島出
        身の星野哲郎作詞の校歌が、島内に響き渡ることはないのであろうか。

        
         1951(昭和26)年に開設された「あけぼの寮」の感謝碑。

        
         大畑(おばた)集落は無住だそうだ。

        
         伊の浦集落へは峠越えとなる。

        
         下って行くと伊の浦港が見えてくるが、ここも太公望にとってはよい釣り場のようだ。

        
         本浦から海沿いの道を20分ほど歩くと終端の伊の浦集落。

        
         情報によると半分以上が空家だとか‥。

        
         猫の額ほどの狭い空間に十数軒が軒を並べる。

        
        
         愛媛県と広島県に浮かぶ島々を眺めながら本浦に戻る。

        
         右手に「たばこ酒類店」と表示され島唯一の店があったようだ。以前はトップカーで移
        動販売されていたようだが、現在はどのようにされているか詳細不明である。

        
         本浦は島で一番大きな集落だが、島には郵便局もなく港の所にポストが置かれている。

        
         渡船が入出港するので他の集落とは表情に違いをみる。

        
         山の斜面に民家が建ち並び、その間を階段でつないでいる。

        
         会えたのは島民でなく猫たちだけだった。

        
        本浦港。

        
         本浦集落の端には、地域づくりの拠点を担う保健福祉館がある。ここを過ごすとトンネ
        ルが見えてくる。

        
         仏の浦集落はトンネルの先にある。

        
         本浦以外の集落と同様に7~8軒だけのこじんまりした集落。

        
         この島にも悲しい出来事がある。1945(昭和20)年代に島民が戦災孤児などの少年た
        ちを集め、船の舵とりとして児童労働させていたとされる「舵子事件」が問題となった。
         1958(昭和33年)に「怒りの孤島」として映画化されたが、児童虐待したという事実
        と同時に、その引き金となった戦災孤児を生んだ歴史も忘れてはならない。

        
         わずか1時間ちょっとの滞在であったが、多島海の景観を楽しむことができた。最後に
        情島神社を拝んで12時20分の定期船で島を離れる。

        
         伊保田港は防予フェリーが寄港し、本土と四国を結んでいるが、その片隅に町営の渡船
        場がある。(13時13分の大畠駅行きのバスに乗車)


下関市清末は長府藩の支藩だった1万石の城下町

2019年11月22日 | 山口県下関市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         清末は木屋川と神田川の間に位置し、南東は周防灘に臨む。南側の沖積低地は藩の干拓
        によって成立した。
         地名の由来について地下上申は、当地にある石井の湧水が鏡のような清水であったこと
        から名付けられたと記す。(歩行約9㎞)

        
         1901(明治34)年開業のJR小月駅は、厚狭と馬関(下関)間の鉄道開業と同時に駅が
        設置される。

        
        
         駅通りを直進して旧国道2号線を横断すると、その先でT字路に突き当る。

        
         下関福祉専門学校入口の角に「旧国道」と刻まれた石標がある。ここは旧山陽道で昭和
        初期に国道2号線が開通するまで国道として利用されていた。

        
         旧山陽道を南下する。

        
         1874(明治7)年建立の孝女政顕彰碑は、幼くして父を失い長く母だけと暮らしていた。
        非常に孝行で、結婚してからも母にも夫にもよく仕えたので、殿様から度々褒められた。
        1871(明治4)年46歳で病死したが、美談を後世に伝えるために、募金でこの碑を建て
        たとある。

        
         碑から旧山陽道と分かれて右手を直進し、清末藩邸への坂道を上がる。見返ると清末の
        町並みが広がってくる。

        
         毛利清末藩の堀は、その後に灌漑用水池となるが、現在は歩道や池の護岸が整備されて
        憩いの場になっている。

        
         清末藩は初代長府藩主・毛利秀元の二男毛利元知(もととも)が、1653(承応2)年領地の
        内1万石を分地されたものである。以来、明治維新まで藩政が行われてきた。
         1871(明治4)年の廃藩置県にともない、1873(明治6)年に建物や土地が競売処分さ
        れ民間に買い取られた。大戦中は軍用として接収され、戦後、学校用地として下関市に払
        い下げられ、1947(昭和22)年現在の東部中学校が開校した。

        
         清末藩が始まるまでは、旧山陽道から沖合は海で、今の本町、西町の住民は井戸がなく、
        大地主の石井家が井戸を掘り、六角の井側を設けて水を汲ませていた。
         1955(昭和30)年頃に通学路を設ける時に埋め立てられ、井側だけが記念として現在
        地に移設されてた。

        
         清末小学校正門を左折する。

        
         内藤家は代々清末藩の主席家老で、開藩当時の主屋は改装されたが邸内の庭や練塀、表
        門は当時の風格を保っている。(表門は市有文)

        
         坂を下れば県道。

        
         西方寺(浄土真宗)は、大内氏の家臣・真鍋幸次郎が吉敷郡吉敷村に建立する。その後豊
        浦郡熊野村に移し、1469(文明元)年当地に移したとされる。

        
         橋を渡り右折すると小原集落。

        
         田園地帯を抜けると阿内(おうち)八幡宮の一の鳥居、その先に赤い屋根瓦が見えてくる。

        
         阿内八幡宮の社門は旧清末藩邸の表門を移したもので、1873(明治6)年の藩邸入札払
        い下げ目録では、価格16円95銭と記されているとか。

        
         1471(文明3)年宇佐八幡宮より勧請したとされる阿内の氏神。

        
         中国自動車道・小月ー19の函渠を潜ると赤池町。

        
         集落内の路地を抜けると山裾に高林(こうりん)寺の山門が見えてくる。

        
         1855(安政2)年の火災で伽藍は焼失したが、山門は類焼を免れて建立時の姿をとどめ
        ている。特徴ある四脚の桜門造りは珍しいとのこと。(下関市有形文化財)

        
         1678(延宝6)年清末藩初代藩主・毛利元知が、父・秀元を祀るために建立した寺院。
        清末藩毛利家代々の菩提寺とされ、現在の本堂は廃寺を移築したものと云われている。

        
        
         高林寺境内の左手奥に、清末藩主の初代元知から8代元純までと、その一族の墓であり、
        下段は元知の母と側室のものとされる。

        
         神田川の支流・員光(かずみつ)川に架かる善勝寺橋を渡り、堰堤に沿って下流の旧山陽道
        を目指す。

        
         1658(万治元)年に旧山陽道が整備され、木橋の神田橋が架けられたが大水害のたびに
        流される。1811(文化8)年石橋が築造されたが、近年、老朽化により架け替えが行われ、
        その一部が神田側に復元保存されている。この橋が長府藩と清末藩の境であった。

        
         橋本家の長屋門は、1873(明治6)年清末藩邸処分の折に裏門が買い取られて移築され
        たと伝えられる。多少の改修はされているようだが、鬼瓦をはじめ本体はそのままで、数
        少ない旧藩邸の遺物とされる。

        
         下関といえば「フグ」。フグがデザインされたマンホール蓋。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、清末村と阿内村が合併して清末村となり、現
        在の「老人憩い家」の場所に村役場が設置された。1911(明治44)年に建物は現在地へ
        移築されて文教関係に利用され、現在は商工振興会の施設として活用されている。

        
         建物は寺社建築に見られる起(むくり)破風切妻と懸魚(けぎょ)をあしらったものとなって
        いる。

        
         商工振興会を直進すると、四差路の角に「清末老人憩いの家」がある。この地に清末村
        役場が設置され、1939(昭和14)年下関市に合併するまで行政の中心をなした。

        
         清末八幡宮の社伝によれば、1335(建武2)年宇佐八幡宮より勧請して創建された。1
        662(寛文2)年清末初代藩主・毛利元知が再建して藩の氏神にしたという。

        
         山門はないが礎石のようなものは残されている。前の広場は、幕末時には藩の練兵場と
        して使われ、明治期から1954(昭和29)年まで清末小学校があった。

        
         正面参道から遠くに周防灘。

        
         八幡宮下から小月方面へ向かうと、すぐ左手に「贈従五位村上倫」という碑がある。清
        末藩が七卿落ち・幕長戦争などに功労のあった藩士に贈位したとのことで、追贈記念石柱
        が親戚の邸に建てられたそうだ。

        
         1934(昭和9)年孝女・政が生まれ育った場所に石柱が建立された。旧山陽道がやや左
        へ湾曲する右手の片隅にある。

        
         狭い路地を抜けると清末バス停がありJR小月駅に戻る。


山口市鋳銭司は周防鋳銭司跡と大村益次郎のふるさと 

2019年11月18日 | 山口県山口市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         鋳銭司(すぜんじ)は南若川の上流、高橋川の流域に位置する。地名の由来について風土注
        進案は、「昔鋳銭司が置かれて白銀銭銅銭を鋳造せられたことの名残りの由」とある。(歩
        行約9.5㎞)

        
         JR四辻駅は、1920(大正9)年5月16日信号所があったところに駅舎を建てて開業
        するが、駅名は地名の鋳銭司ではなく、駅舎のある地が小字の四辻だったことによるとい
        う。木造駅舎は開業当時のもので、駅正面の松の木や植え込みは、駅開業を祝って地元の
        人が植木や庭石などを持ち寄って造ったものである。

        
         大村益次郎(1825-1869)の父・孝益が隣の秋穂村の藤村家から村田家に婿養子として入っ
        た地で、3歳の頃までこの地で育つ。その後、家族で父の生家である秋穂村に移り住む。
        家は代々勘場付の医者で、医業の傍ら農業(3反6畝)をやっていた百姓家である。(生家跡
        は駅前を直進する)

        
         長州藩では風貌から「火吹き達磨」とあだ名が付けられた益次郎は、三田尻(現防府市)
        の梅田幽斎、日田の広瀬淡窓、大坂では緒方洪庵に学び、帰郷して医師となるが、蘭学の
        知識を買われて宇和島藩に出仕する。
         藩主に従って江戸に行き、私塾「旭居堂」を開き、幕府の講武所でも教えることになる
        と、評判が萩藩に伝わり萩藩に仕えることになる。萩藩では軍事改革の責任者となり、第
        二次幕長戦争(石州口の戦い)などを指揮して勝利に導く。
         維新後は、兵部省の兵部大輔(現代の次官)となり、兵制改革を進めるが反対派により京
        都で暗殺される。

        
         大村益次郎生誕地傍にある庚申塔(右)とお地蔵さん。1996(平成8)年県道四辻停車場
        線の工事により地蔵菩薩像が移設される。

        
         この付近は「大村」と呼ばれる地である。

        
         山陽本線矢田踏切を渡ると、旧国道2号線と旧山陽道に合わす。

        
         旧国道と分かれて左の道に入ると、大村益次郎が医業を始めた地がある。1846(弘化
        3)年3月蘭学を学ぶため大阪の緒方洪庵の塾に入り、ここで5年余、医学・蘭学を学び、
        1850(嘉永3)年に適塾を辞し、帰郷して「村田良庵」と名乗り村医者となる。翌年には
        隣村の農家・高樹半兵衛の娘・コト(琴子)を娶る。琴子18歳であった。

        
         古代律令国家の貨幣生産を担った官営の鋳造所で、平安期の825(天長2)年長門国から
        移設された以降、約200年間にわたって錢貨作りのほとんどを担っていたとされる。

        
         1973(昭和48)年に約38,502㎡が国の史跡に指定された。発掘調査の結果、工
        房、倉庫群、炉などの遺構・遺物が発見されたとのこと。(2017(平成29)年11月に
        拝見した発掘調査現場)

        
         積水ハウスの工場を背にして里道を東へ向かう。

        
         鋳銭司小学校を過ごすと黒山八幡宮。社伝は平安期816(弘仁7)年鎮座とするが確証は
        ないとされる。黒山神を堺から勧請したとされるが、黒山の神は鋳造に關係する神と伝え
        られ、鋳銭司設置にあたり官社として祀られたものかと考えられている。鎌倉時代に宇佐
        八幡神を合祀して黒山八幡宮になったされている。

        
         最初の社地は1㎞西方にあったと伝え、室町期に現在地へ移ったという。現在の社殿は
        江戸期に修復されたものであるが、16世紀頃に山口地方で造られた神社形式で、3つの
        建物を1つに繋いだ楼拝殿造りとなっている。

        
         江戸初期に長沢池が造られ農業用水が確保されると、鋳銭司の地に入植が始まる。時を
        告げる鐘の音が村内の隅々まで届くようにと、一元寺(現在の両足寺)の鐘が移され、鐘楼
        堂が建てられた。しかし、鐘は太平洋戦争で供出されて現在は存在しない。

        
         顕孝院(臨済宗)は、室町期の文明年間(1469-1487)大内政弘の妹である妙英尼が、鋳銭司
        の大円の地に庵居して顕孝院と号した。1517(永正14)年妙英尼が没したが、遺言によ
        り曹洞宗の寺にしたという。

        
         大内氏の庇護も厚かったが大内氏滅亡後は寺勢が衰え無住となる。江戸初期に山口の常
        栄寺に請うて中興されて臨済宗の寺として再興される。1781(天明元)年大円から現在地
        に移転する。本堂は今年4月に建て直されたとのことで、寺の西方に周防国三十三観音霊
        場と妙栄尼の墓と伝える宝篋印塔がある。

        
         高速道山口南ICの函渠を潜り、鷹の子集落に入る。(鷹の子という道標あり)

        
         大村益次郎は青木周弼が周布政之助、桂小五郎に周旋し、幕府や宇和島藩と折衝し、1
        860(万延元)年4月に萩藩雇士となる。その頃、江戸にいた大村は蘭学のみの時代は既に
        過ぎ、英学を必要とする時代と幕府の許可を得て、英国宣教師ヘボン氏に付いて2年間英
        語を学ぶ。(夫妻宅跡の碑は左手の民家奥にある)

        
         医者を辞めた後に益次郎・琴子夫妻が過ごした宅跡。益次郎は宇和島や江戸にいたため
        留守がちであった。

        
         宅跡から正面に民家を見ると左折する。

        
         琴子は高樹半兵衛の長女で、益次郎の死後はこの地で過ごす。以前の居宅は盗賊が入っ
        たこともあり、実家近くに居宅を建てて大村家を守り、1905(明治38)年に没する。

        
         さら東進して鷹ノ子会館前の三叉路を右折すると、その先左手に潮満寺入口を示す道標
        がある。(山は花ヶ岳)

        
         潮満寺は、1870(明治3)年禅昌寺と合併して寺はなくなったが、1885(明治18)
                大村益次郎旧宅を移築して潮満寺として再建した。1999(平成11)年の台風で大破して
        しまうが、住職が兼任のため再建されずに今日に至る。

        
         歩いて来た鷹ノ子集落は長閑な田園風景が広がる。

        
         長沢池への道を進むと社会福祉法人「るりがくえん」があり、その先を右折して道なり
               に進むと墓地への案内がある。

        
         明治新政府の兵部大輔(兵部卿には小松宮彰仁親王)となった大村は、近代日本の陸海軍
        を築こうとするが、不平士族の恨みを持たれて京都で襲撃を受ける。1869(明治2)年1
        1月5日大阪の病院で他界し、
遺骸には海路郷里に送られて神葬される。(隣は琴子夫人の
        墓)

        
         1878(明治11)年その事績を刻んだ神道碑が建てられたが、碑文を書いたのは愛弟子
        の山田顕義である。

        
         益次郎を祭神とする大村神社。1997(平成9)年に放映された司馬遼太郎作のNHK大
        河ドラマ「花神」では、主人公として明治維新の原動力となった若者たちが描かれている。
        

        
         1871(明治4)年に田中山の中腹に墓とともに神社が設けられたが、1941(昭和16)
        年現在地に社殿建築が始められ、1946(昭和21)年に完成した。

        
         鋳銭司郷土館は大村益次郎の遺品と遺墨を中心に展示され、さらに史跡「周防鋳銭司跡
        」から出土した遺物、日本の貨幣の移り変わりなどが紹介されている。

        
         大村愛用の西洋ランプは、桃色をした切篭の美しい油壷、金色した金具と人の顔をかた
        どった台である。

        

         大村が所持した箱提灯とその袋は、村田蔵六時代に使用したもので、提灯を入れる木綿
        の袋に家紋の桔梗が描かれている。郷土館にある史料は琴子が襖の下張りに使用していた
        とのこと。

        
         弁天社は、1663(寛文3)年宮島から勧請して長沢池の守り神として祀られる。

        
         長沢池の北西部に突き出した所に、小道と太鼓橋が設置されている。

        
         長沢池の西側に「東條就類頌功碑」碑がある。長沢池は、1651(慶安4)年頃小郡宰判
        の代官・東條九郎右衛門の在役中に築かれたものである。周囲は約6㎞あり、天保年間(18
                30-1844)には鋳銭司村、名田島村、台道村の田畑に堤水を供給し、たとえ他村が干ばつに
        みまわれても、長沢堤を利用する村々は干ばつを免れたという。

        
         1862(文久2)年建立された赤川晩翠(漢学者)の詩碑が湖畔にある。
          「萬頃(ばんけい)の澄波茫として湖に似たり、漕いでは牢角を膏腴(こうゆ)に変ず。
          居民夜々来りて福を祈る。時に見る神龍球を吐きて出ずを」とある。
         晩翠は萩藩士で昌平校に入り、当時の名儒と交わい、長州征伐に際しては宍戸備後之助
        に隋って広島に使などを務める。

        
         長沢池に鳥居が立っているが、黒山八幡宮の一の鳥居を移して厳島神社に見立てたとか。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の鋳銭司村が単独で自治体を形成し、
        昭和の大合併で山口に編入されるまでこの地に村役場が置かれた。(道路の反対側が駅)


周南市湯野は温泉と夏目漱石の小説「坊ちゃん」のふるさと

2019年11月15日 | 山口県周南市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         湯野は夜市川上流域と同支流柳瀬川の流域に位置する。江戸期から1944(昭和19)
        まで
湯野村として存立し、江戸期には全村が堅田氏の給領地であった。
         地名の由来について風土注進案は、「昔から温泉があることから名付けられた」とある。
        (
歩行約5㎞
)

           
         JR戸田駅前から防長バス湯野温泉行き約15分、終点の湯野温泉バス停で下車す
る。
        
           
         夜市(やじ)川のほとりにある河川公園。

           
         夏目漱石の小説「坊っちゃん」の主人公のモデルとされる弘中又一は、教員の免許を得
        て22歳の時、松
山尋常中学校に赴任し、ここで英語教員として赴任していた夏目漱石と
        出会う。

         「一体、夏目はまめな男で、そこいら手当たり次第遠慮えしゃくもなくモデルに失敬し
        ています。坊っちゃんにしても夏目自身でもあるし僕の事でもある。夏目と僕は毎日の出
        来事やら、失策を互いに話し合い、笑い興ずることが多かった。」(回想録より)

           
         「坊ちゃん」像は小説の中に教頭の「赤シャツ」と画学の教師「だいこ」に誘われて釣
        りに行く
場面があるが、像はモデルとなった弘中の少年時代の姿だそうで、彼を顕彰する
        ために作
られたモニュメントだそうだ。

           
         河川公園内を上流へ進む。

           
         「ギャラリー&カフェむらやま」は古民家の珈琲店だが、営業は金・土・日のみのであ
        る。

           
         湯野のメインストリート。

           
         山田家は萩藩の重臣・堅田氏の家臣で旧領地に居を構える。江戸時代中期の建物とされ、
        武家屋敷の趣きと、民家風の素朴な構えをもった屋敷である。かつては戸田の山陽道沿い、
        湯野温泉入口の西に位置していた。(正面右手には足湯)
 


           
         書院造りの中門にあたる部屋が、母屋から庭に突出して建てられている。(中門造)

           
         霊舎の間、局の間、奥の間、中間部屋、化粧部屋などがあり、台所回りのムシロ天井や
        外部から開かれない回転式雨戸など。


           
         刀隠しがある座敷。

           
         左側面に窓が設けられているが、中二階の隠し部屋の明り取りなのか脱出用のものかは
        聞き漏らす。

           
         神田神社参道入口の鳥居は、奈良時代の明神鳥居の形をしている。神社の石段西側付近
        に竪田氏の御田屋(下屋敷)が
あり、1876(明治9)年に屋敷のの一部を改造して校舎に充
        てたとか。


           
         1906(明治39)年神社合祀令により、湯野村にあった4つの河内神社と竈門神社を合
        祀して、字神田の地に社殿を建立して神田神社と称した。後に豊浦郡の八幡宮を合祀した
        という。


           
         玉垣には「明治38年 湯野村従軍者建立」とあるが、1904年から1905(明治3
                   8)
年にかけて日露戦争が起こる。


           
         神田神社鳥居前から山手へ向かい、橋を渡って左折すると弘中又一の生家がある。所有
        者は弘中家から移転しているが建物は現存する。長い期間、生活をされていないようで荒
        れ気味である。

           
         弘中又一(4873-1938)は堅田氏の旧家臣だった家に生まれ、山口市の私塾に学び同志社大
        学を卒業する。漱石は弘中の「ボンチ」(松山地方の方言で坊ちゃんの意)からヒントを得
        て、小説名を「坊ちゃん」にしたといわれている。

           
         弘中又一生家前から里道を利用すると常照院(曹洞宗)参道入口前に出る。

           
         山門は上層と下層の階高が等しく見栄えが悪いが、これは上層に床を設けて多くの尊仏
        を祀る空間を必要としたことによる。

           
         1667(寛文7)年に堅田家の菩提寺として建立された常照院と学音寺の禅寺を合併し、
        新たに「常照院」とされた。同寺は弘中家の菩提寺でもある。

           
         教育者であった弘中又一の言葉「教育は王道なり」の石碑と顕彰碑があり、弘中又一記
        念公園とされている。

           
         公園から下って細い道を辿ると、208段の石段と12の遊び場がある招魂社参道。急
        石段のため両脇にはロープが設置してある。

           
         9番目の遊び場にある石祠は倒壊寸前である。

           
         1866(慶應2)年の幕長戦争、明治維新の戦乱で戦死した家臣14柱の霊が祀られてい
        る。(竪田氏が建立)

           
         招魂社入口先には立派な石垣が残されているが、どんな建物があったのかは不明。

           
         1603(慶長8)年西蓮寺として建立されたが、領主であった堅田就政が正室の院号をと
        って性梅院
(しょうばいいん)
と改称された。

           
         浄土宗総本山知恩院直参の寺で、山門を潜ると湯野の町並みが一望できる。

           
           
         1625(寛永2)年堅田就政が湯野・戸田・日置の領主になって以来の代々の墓地。萩藩
        重臣にふさわしい立派な形式と規模を誇っている。

           
         高台の墓地から眺める湯野の町並み。
 
           
         夜市川に架かる橋に出ると「天狗伝説の碑」がある。西の城山から東山に飛び立ったが、
        距離が遠すぎたため湯野の温泉場に降り立ち、温泉を楽しみ東山へ飛び立ったという話で
        ある。

           
         夜市川には堅田家の家臣だった娘・陽晏(ようあん)と、この家の食客大五郎乗実という若
        侍は添える中でなく、二人で淵に身を投じたといい、その淵を陽晏淵、橋を乗実橋と呼ん
        で2人の悲恋を今に伝えると案内されている。

           
         温泉街に戻ると公園の隅に湯野道祖神が祀られているが、疫病や災難を防ぎ、旅人を守
        ってくれるとされる。

           
         同じ公園内に湯野温泉薬師が祀られているが、天正年間(1573-1592)の頃に河村三五兵衛
        が薬師如来のお告げにより掘ったら、温泉と薬師如来像が出てきたという伝説に基づいて
        祀られたという。

           
         湯野温泉は日露戦争の際には、広島衛戌(えいじゅ)病院の転地療養所に指定される。

           
 

         湯野の町並み・史跡を見ながら散歩し、温泉を楽しんで湯野温泉発16時8分のバスで
        JR戸田駅へ戻る。
      


美祢市秋芳町の嘉万市はポリエの中に集落を形成 

2019年11月07日 | 山口県美祢市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複、第546号)
         嘉万市(かまいち)厚東川が中央を流れる低地帯で、嘉万ポリエ(カルスト地形の平坦な窪
        地)の北部にあたり、上流の八代地区と下流の嘉万地区に分けられる。集落は厚東川流域と
        その支流・今山川流域に散在する。(歩行約3㎞)

        
           

         国秀遺跡は嘉万遺跡公園として整備されたもので、縄文時代の集落遺跡とされる。

           
           
         集落が8世紀頃から衰えていったのは長登銅山(旧美東町)と関係があると云われている。
        銅山が奈良の大仏建立のための銅生産を始めると、生産のために国秀集落から銅山に通っ
        ていたが、通うより移住した方が便利だということで衰退していったのではないかと考え
        られている。(説明板より)


           
         厚東川に架かる橋を渡ると左手に妙覚寺(真宗)。

           
          この梵鐘は萩の鋳物師・郡司(藤原)信政の作で制作年は明らかでないが、1700年
        代の宝暦から安永にかけて制作されたものと推測されている

           
         妙覚寺前から旧道は厚東川に沿って南下している。

           
         上市の入口にはお地蔵さんが行き交う人を見守っている。

           

         石州瓦と白壁の民家は際立つ。

           
         1889(明治22)年町村制の施行により、嘉万上郷村と青景村が合併して共和村として
        存立したが、昭和の大合併で秋芳町の一部となる

           
         厚東川上流に如意ヶ岳。

           
         上市と中市の境に嘉万天満宮。

           
         ここにも地蔵尊。

           
         集落の境である交差点を横断すると、中市は嘉万市の中心部である。

           
         1872(明治5)年築の入母屋二階建て瓦葺きの建物は、油・雑貨を商い地主として栄え
        た阿武家。

               
         庭を挟んで建っている土蔵は、長屋形式の渡り廊下で結ばれているとか。  

           
         商店や民家が混在している。

           
         俵酒造㈱は、1875(明治8)年創業であったが売土地となっている。壁にはカルスト台
        地の伏流水で酒造りがされていた銘柄「秋芳美人」の名が残る。


           
         俵酒造の南側は中野医院だったが現在は空家となっている。その一角には小さな祠が祀
        られている。
この付近に木造二階建ての旧嘉万郵便局があったようだが現存しない。

           
         元タバコ屋さんだったのであろう玄関先にたばこ陳列棚が残る。(S邸)

           
         中村酒造場も酒造はされていないようで、裏手の建物は解体されている。

           
         古民家の「割烹・いちまるや」さん。

           
         地元の方によると空家ばかりとのこと。

           
         このS宅も改装されているが空家。

           
         この先は比較的新しい民家が建ち並んでいる。

           

         明治政府は庚申信仰を迷信と位置づけ、街道筋にあった庚申塚の撤去を進めたが、街道
        でなく拡張工事もなかったのでこの地に現存する。

      
           
         行き過ぎてしまったが、ガソリンスタンド手前を右折して厚東川沿いに出る。

           
         厚東川右岸を上流へ向かう。

           
         1936(昭和11)年に共和村役場は改築され、後に町の支所や森林組合などに利用され
        たが、空家となって解体された。(位置は正面の住宅付近) 

        
         在り日の村役場(秋芳町史より)

           
         地域にとって重要だった嘉万小学校も時代の波に押し流されて、2018(平成30)
        3月をもって閉校となったようだ。

           
         山々に囲まれた長閑な田園風景が広がるが、公共交通機関は通勤通学用バスのみで、日
        中のバス便はない。


美祢市伊佐は売薬時代を経てセメント原料供給の地

2019年11月07日 | 山口県美祢市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         伊佐は厚狭川の支流、伊佐川流域に位置し、中心部はやや広い平野となっている。江戸
        期には美祢郡西部の産業活動の中心で、月3回の定期市が開かれ、1758(宝暦8)年には
        防長両国で売薬が許されて、徳定村一帯を中心に地方産業として栄えた。(歩行約6.5㎞)

        
         美祢駅は、1916(大正5)年美祢軽便鉄道・吉則停留場として設置され、国鉄移管と共
        に吉則駅、1963(昭和38)年に美祢駅と改称する。1982(昭和57)年まで貨物発着ト
        ン数全国第2位にランクされた。

        
         美祢市役所横の厚狭川河川敷には約150本の桜の木がある。開花時期には「みね桜ま
        つり」やライトアップされる。

        
         内川古墳墓は、1968(昭和43)年中国自動車道美祢ICが造られた際に発見された2
        基のうちの1つで、4世紀の組合せ箱式石棺墓と推定される。現在は市役所裏に移設され
        ている。

        
         友善塾は、1856(安政3)年有志によって吉田宰判の文武稽古場として徳定村に創設さ
                れる。翌年に赴任した吉田代官・玉木文之進(吉田松陰の叔父)が「天下善きを友とすべし」
        から名づけたもので、現在の美祢市立伊佐小学校の祖となった塾である。

        
         伊佐公園のメタセコイヤ(国道435号線沿い)

        
        
         国道沿いの伊佐中学校入口に高下観音堂。由来のようなものはなく創建時期などは不明
         である。

        
         国道435号線から旧道に入ると、煉瓦塀のある民家の先に紅白の煙突が高く聳える。

        
         伊佐川の右岸に社宅があり社宅用の橋として架けられた。

        
         少し進むと左手に祇園社。

        
         宇部マテリアルズの工場を右手に見ながら西進する。

        
        
         三角地帯付近の左手に商店が並んでいたと思われる。風土注進案は地名について、「幣
        村と呼ばれていたが、後世に誤って帝(みかど)の居た所を居座村という。今は伊佐村という」
        と記すが、幣村といったかどうかも不明のようである。

        
         静(町並み)と動(工場)が同居しているのが伊佐である。

        
         市中(いちなか)にある恵比須神社。繁栄期には商売繁盛の神様として崇められていたと思
        われるが、今では忘れられたのようにひっそりと鎮座している。

        
         敷地が狭いためノコギリ型住宅として建てられたとか。今は無住で損傷も激しくなって
        いる。

        
         就年寺(じゅねんじ)は浄土宗西山禅林派に属している。変則的な並びとなっているが、古
        地図によると、山門と無明橋前は鍵型の道になっていたようだ。

        
         伊佐の歴史的シンボルである本陣門や野村酒店があったが、2017(平成29)年12月
        に解体される。

        
         1864(元治元)年12月16日太宰府へ移ることになった五卿のうち、三条西季知(すえ
        とも)と四条隆謌(たかうた)の二卿が、藩主に別れを告げるという名目で諸隊と共に、12月
        19日に伊佐へ到着する。
         大庄屋格で酒造業を営む池田猪右衛門邸を本陣とし、二卿は表の方へ、隊員は裏の部屋
        に宿陣した。萩に行こうと27日まで滞在していたが、急便により残念して長府に引き返
        す。 (16.9.18撮影) 

        
         奇兵隊の山県狂介(有朋)は庄屋の村上助右衛門邸、健武隊隊長・天宮慎太郎は西原邸(元
        小竹菓子店)に止宿する。(16.9.18撮影)

        
        
         郵便マークのレリーフと表札が残る旧伊佐郵便局。伊佐は富山と同じ売薬の町であり、
        最盛期の天保年間には32軒ほども売薬を商売としていた。
         政府の漢方薬取締り、税制改正で激減し始め、戦争の激化に伴なって原料の確保ができ
        ず、1943(昭和18)年頃に姿を消す。

        
                 二卿が伊佐に宿泊した際に、接待役(給仕)を勤めたのが古浅トク(13歳)であった。二
        卿が長府に引き返すと随行し、後に下関で料亭を営んだとされる。旧郵便局の隣が誕生地
        で、片隅に標柱が立っている。

        
         秋吉台の化石・アンモナイトがデザインされたマンホール蓋。

        
         船村金物店と書かれた古い看板が残されているが、閉店から年月が経過しているようだ。

        
         四差路に出ると右側が宇部興産伊佐セメント工場、その角に秋本金物店。伊佐は赤間関
        街道中道筋や肥中街道(山口~豊北)が離れた所を通っていたが、離れていても人馬継立て
        が常備されて、宿場町の機能を有していたとされる。

        
         1765(明和2)年から9年間、吉田宰判から分離して伊佐宰判の勘場が設けられたが、
        今はセメント工場の敷地になっている。

        
         役所跡のような建物が残されているが、伊佐村役場だったか伊佐警察署跡か情報を得る
        ことができなかった。

        
         かつての賑わいを象徴する飲み屋さんが数軒ほど見受けられるが、すべて閉店されてい
        る。

        
         伊佐川に架かる上坪橋。川の手前が市尻で橋を渡れば大嶺町東分となる。

        
        
         石灰等の運搬する引き込み線があったが、宇部興産が専用道路を開通させたため宇部岬
        駅までの専用列車が廃止された。
         しかし、工場で生産された炭酸カルシュウムを中国電力三隅火力発電所に輸送していた
        が、2013(平成25)年山口線の水害で運休となり、翌年のダイヤ改正で廃止される。

        
         国道筋から見る引き込み線。

        
         大嶺町東分の街並み。

        
         伊佐の町はセメント工場の片隅にあるといった感がする。

        
         国道沿いには美祢市化石館があり、列車時間との調整で見学することもできる。