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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市徳地野谷の下野谷・北谷‥石風呂とセラピーロードから集落

2025年04月11日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         下野谷・北谷は佐波川上流域および同支流の野谷川流域の山間部に位置する。地名の由
        来について地下上申は、「山野之野と長谷之谷を取り、野谷と申たる由」と記す。(歩行約
        4.9㎞)

        
         山口市徳地堀の堀バスターミナルから柚野活性化センター行き約25分、愛鳥林入口バ
        ス停で下車する。

        
        
         石風呂側の駐車場には、一部公園化されて桜並木を見ることができる。(ベンチあり)

        
         旧道を大原湖方向へ進み、林道四古谷(しこたに)線に入ると、佐波川の支流・四古谷川の
        川下に石風呂がある。

        
         野谷の石風呂は、巨岩の麓を横穴式に彫り込んで作られている。鎌倉期の1186(文治
          2)
年俊乗坊重源は、東大寺再建のため徳地の地から大量の用材を奈良へ送る任にあたって
        いた。その作業に従事していた人たちの病気治療に設けた石風呂の1つとされる。(国指定
        史跡)

        
         石風呂の出入口は、高さ0.9m・幅0.6mと狭く、内部も奥行き2.5m・幅1.9m・
        高さ1.1mであり、同時に4人程度が利用できる広さと説明書きされている。 

        
         念仏石の説明によると、石風呂は仏教とともに我が国にもたらされ、潔斎と保健衛生の
        ために利用され、仏教とともに僧侶によってひろめられたと推定される。
         この岩の前で読経し、撫でながら心を鎮め、それから石風呂に入り、心身を清めたとい
        われる。

        
         旧道に戻って大原湖方向へ進むと、忘れられた存在の石仏が鎮座する。

        
         機械掘り以前のトンネルが2ヶ所。

        
         愛鳥林は大原湖西岸にあり、1968(昭和43)年野鳥の保護と自然に親しむ県民の憩い
        の場所として指定された。観察路など諸施設が整備され、飼料となる樹木が植えられた。
        メジロ・ウグイスなど30数種の鳥類が生息するという。

        
         セラピーロードは全長1.6㎞、所要時間片道30分。

        
        
         散策路は大原湖右岸に設けられており、ほぼ平坦な歩きやすい道である。(散策路入口付
        近に🚻あり)

        
         休憩所前に大原湖が広がる。

        
         1㎞地点。

        
         佐波川ダム管理事務所の建屋が見えてくると左手にダム堰堤。

        
         ダムによって形成された人造湖は、水没地の地名をとって“大原湖”と命名された。ダム
        建設で大原・釣山地区の民家207戸、旧柚野村役場や小学校・中学校が湖底に沈んだ。
        (見える島は入船山) 

        
         佐波川ダムは県営の多目的ダムで、1951(昭和26)年7月に異常出水災害に見舞われ
        たため、治水対策の必要に迫られて翌年に着工された。その後、農業用や工業用水、発電
        等にも要請され、多目的ダムに変更された。
         1956(昭和31)年3月に完成した重力式コンクリートダムは、提頂長56m・提高5
        4m・総貯水容量2,460万トンで、クレストラジアルゲートを2門構える。

        
         セラピーロードが設置されたことにより、大原湖畔を周回することができる。距離にし
        て約11㎞だが、右岸の国道489号線は狭隘で歩車分離でない。

        
         佐波川と野谷川合流点に佐波川ダムバス停があり、周囲には5軒の民家とトイレ(電源立
        地地域対策交付施設)がある。

        
         路傍の石仏は詳細不明。

        
         地蔵尊の台座に文字があったようだが判読不能である。

        
         棚田の中に満開の桜。 

        
         野谷川を石積みされた棚田がとりまく。

        
         地元の方にお会いできず祭神名は不明となったが、下野谷に河内社(水の神様)があると
        のことで、これがその社であれば、南北朝期の1335(建武2)年伊勢渡会大明神より勧請
        したとされる。鳥居には「安永八己亥(1779)之▢ 三月吉日」とあり。 

        
         柚野小学校野谷分校の沿革
          1874(明治7)年大原小学と野谷中村に野谷小学が開校する。
          1881(明治14)年野谷小学校は大山小学校(柚野小学校の前身)の分校となる。
          1963(昭和38)年野谷分校は八坂小学校に統合されて廃校となる。
          1967(昭和42)年分校跡に私立幼稚園有倫館学園が開園したが、現在は森林セラピ
         ー山口の看板が掲げてある。

        
         やっと地元の方にお会いできたので、先ほどの神社のことを聞いてみたが、神社のある
        所は下野谷で集落が違うのでわからないという。
         分校については、今の県道まで校舎があったが、県道新設で半分以下になったとのこと。
        講堂もあったが取り壊されたと教えていただく。

        
         徳祥寺は、もと徳地船路の下庄にあり東大寺末寺の蓮華寺(俊乗坊重源開基)と称した。
        享保年間(1716-1736)に瑠璃光寺の僧が来住して曹洞宗に改宗、柚野の大原に移転して源
        徳寺と改める。
         1870(明治3)年12月源徳寺は上野谷にあった吉祥寺を合併して現寺号に改称する。
        1954(昭和29)年佐波川ダム建設のため、現在地に移転新築した。(寺院名鑑より)

        
         茅葺き屋根の民家。

        
         バス停付近から白井川を渡り、野谷石風呂に通じる旧道が現存する。

        
         佐波川ダムバス停から柚野に至るバス路線は、フリー乗降制であるが、北谷バス停より
        徳地堀に引き返す。


山口市大内御堀の菅内‥日吉神社から小野地蔵院・桜山神社

2025年03月14日 | 山口県山口市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
         菅内(すげうち)は大内御堀の小字名で、域内を菅内川が北流する。東に岳山、南西に今山
        があり、北を中国自動車道が東西に走る。(歩行約8km)

        
         JR防府駅からJRバス山口大学行き20分、鯖地バス停で下車する。

        
         県道21号線(山口防府線)を台道方面へ向かう。

        
         問田川の沖田橋袂に鎮座する地蔵尊。丸彫坐像で台座に刻字されているようだが判読不
        能である。

        
         その隣の祠には小粒の地蔵尊2基が祀られている。(この地は下小鯖) 

        
         交通量の多い県道を避けて菅内団地内に入る。

        
         正面に岳山を見ながら農道を利用する。

        
         市道を横断して菅内台団地を過ごすと、県道194号線(山口秋穂線)に突き当たる。

        
         コミュニテイバス真行バス停の先に、太神宮の灯籠と三連の石祠が並べられているが、
        詳細は知り得なかった。 

        
         向い側には、1969(昭和44)年に竣工した菅内灌漑揚水記念碑と、「馬頭観音堂参道
        入口」の案内があるが、山中に入るようなので残念する。 

        
         現在の仁平(にんぺい)寺は、1883(明治16)年の復興とされる。寺伝によれば、平安期
        の1151(仁平元)年に創建されたと伝え、年号をもって寺号としたという。開基・開山と
        もに不詳とされるが、南北朝期の1352(観応3)年大内弘幸が本堂を修造し、伽藍も備わ
        り、塔頭も多かったという。
         大内氏滅亡後、諸堂は廃退して本堂跡に小庵が残り、小鯖の禅昌寺から番僧が来て堂守
        をしていたという。1868(明治元)年には寺跡は荒廃して観音堂のみが残っていたが、禅
        昌寺に引き取られた。

        
         玄関に木板(もっぱん)と思われるものが置かれているが、表面には 
               謹白大衆 (官位のない僧) 
            生死事大 (生と死は、仏の一大事である)
            無常迅速 (時間は、無常にして迅速に過ぎ去っていく)
            各宜醒覚 (各々は、このことに目覚めて)
            慎勿放逸 (努め励み、決して無為に過ごしてはならない)と墨書きされている。 

        
         その先で菅内川に沿って下流へ向かう。

        
         布袋様の向い側に旧仁平寺跡を示す説明板がある。これによると、本堂に至る道に坊が
        並び、寺境内には五重塔もあったという。その礎石が残されていたが、溜池築造のため取
        り除かれたと記す。 

        
         鳥居には「享保5庚子(1720)▢月吉祥日 益田織部藤原就高」と刻字されている。益田
        就高(1661-1723)は萩藩寄組・間田益田家の3代であった。

        
         石造灯籠に歴史を感じる。

        
        
         日吉神社の由緒によると、1151(仁平元)年大内家の家臣・河野某が、京都の比叡山よ
        り勧請し、仁平寺の鎮守社として建立したとする。
         1666(寛永6)年に益田氏が再建し、現在の本殿等は益田織部就高の造立である。18
        71(明治4)年に山王社を現社号に改める。

        
         庚申塔と2基の猿田彦大神碑が集められているが、集落内にあったものであろう。他に
        末社として、人丸社、河内社、弁天社が祀られている。

        
         菅内川に沿う。

        
         説明書きがないので詳細はわからないが、このクスノキは山口市の保存樹に指定されて
        いるようだ。根元に弁財天(財運の神)が祀られている。

        

        
         小野地蔵院(曹洞宗)は、室町期の1397(応永4)年大内義弘が創建したとされる。説明
        書きによると、本尊は地蔵菩薩で、里の人は「腹帯地蔵」「子安地蔵」とも呼び、安産の
        守仏とされ、地蔵尊の腹部をさすりながら祈願するという。

        
         本堂は施錠されて窓越しの拝見となる。「毎月24日妙鑑寺住職のおつとめがあり、本
        堂を開放しております」という張り紙がある。

        
         散歩だと地元の方にお会いして、いろんなことをお聞きしたり、雑談を交わすことがで
        きる。

        
         石像を見せていただいて、菅内川に架かる志多里橋を渡る。

        
         
        
         アオサギが参道で羽根を休めていたので、飛び立つまでしばし歩を止める。

        
         左手の石灯籠には「安政六年(1859)九月 清輝 世話人河村喜蔵」とある。

        
         志多里(しだり)八幡宮の由緒によると、南北朝期の1352(観応3)年大内氏の家臣・小野
        和泉守が宇佐より勧請したとある。

        
         石碑が3つ並ぶが、奥側は明治維新頃に国学者として、石見や豊前まで講説して歩き活
        躍した神主の佐伯八雲の碑。亀趺に乗った碑は神社の由来を記したもので、手前は従軍者
        紀念碑だそうだ。

        
         中国自動車道の函渠を潜る。

        
        
         問田川に架かる光円寺橋を渡ると、右手に高さ35㎝位の小さな石碑がある。表面に「
        江良丹後守 梛良祖先」と刻まれているが、屋敷跡を示す石碑とのこと。
         江良房栄(ふさひで・1517-1555)は、陶氏の重臣・江良家に生まれ、大将として幾度も出
        陣して活躍する。毛利氏が大内・陶氏の勢力から独立すると、陶晴賢は対決姿勢を鮮明に
        する。これに対し、房栄は慎重論を唱えたため、毛利氏への内通者として疑われる。15
        55(弘治元)年水軍を率いて厳島を攻撃し、岩国に帰陣した翌日の3月16日、弘中隆兼に
        よって誅殺された。(この付近は大内矢田) 

        
         問田川右岸を上流に向かい、神田(こうだ)橋で左岸に移動する。

        
        
         櫻木神社の由緒によると、平安期の931(承平元)年大内氏11代当主・大内茂村により、 
        御堀村小野の地に創建された。一説に宮野仁壁神社の行宮(あんぐう)であり、桜木山とは、
        宮野の桜畠の樹種を移したことによるという。
         天文年間(1532-1555)頃には、当社・仁壁神社・今八幡宮を山口三社といい、流鏑馬
        (やぶさめ)などが盛んに行われた。1730(享保15)年現在地に遷座したと記す。 

        
         本殿右手に神馬が奉納されているが、由緒書きによると、1817(安政14)年山口市木
        町在住の安永貞ニが神馬を奉納するにあたり、仁保八幡宮の神馬をお手本にして制作する。
         当宮の他に長野八幡宮、山口大神宮、今八幡宮に奉納したとされる。(説明書きより)

        
         山口市大内地区の町並み。

        
         社務所奥にひっそりと祀られているのが「がん封じ堂」

        
         問田川左岸を上流に向かうと薮小路橋があり、その先に自動車道の函渠がある。

        
         産廃処分場に入り、左手の草地を歩けば鳥居が見えてくる。

        
         鳥居右柱に「奉寄進 秋葉権現 願主▢▢」、左柱に「文政▢▢
‥(判読不能)」とあり。

        
         鳥居の先に「神田(こうだ)山古墳群」の説明板には、円墳4基のうち、1基を移築し、他
        は埋め戻されて保存されているとある。

        
        
         登山の素人でも10分もあれば、標高90mの神田山山頂に到着できる。ちょっとした
        広場の正面に秋葉権現(防火の神)が祀られている。

        
         藪小路橋まで戻ると、北詰の先が工事中のため右折して問田川右岸を進む。川には大き
        な黒鯉が泳いでいる。 

        
         最初の民家前で畔道を通って妙鑑禅寺前に出る。室町期に創建された曹洞宗のお寺で、
        1920(大正9)年5月火災に見舞われ、本堂ほか大部分を焼失したという。
         被災から1年半後に本堂・庫裏は木造で再建されたが、位牌堂は火や線香を使用する機
        会が多いため、耐火性に優れた煉瓦が採用された。

        
        
         位牌堂はイギリス積みの平屋建で、屋根は寄棟造赤色桟瓦葺きである。中央の塔屋は窓
        の少ない内部への明り取りとしての機能を有している。内部は白漆喰塗り、天井は不燃材
        の亜鉛鉄板仕上げと防火に優れた建物となっている。(国登録有形文化財) 

         近くに大内中学校バス停があり、山口駅、防府駅方面へのバスに乗車できる。


山口市徳地引谷‥引谷川沿いからクマ棚

2024年10月26日 | 山口県山口市

        
         引谷(ひくたに)は佐波川の支流・引谷川流域の山間に位置し、集落はその谷筋に点在する。
        南部には標高500m以上の白石山、狗留孫山が聳える。地名の由来について地下(じげ)
        申は、「往古俊乗坊重源上人が、東大寺請負の材木を当所アラ谷山伐り出して、この在所
        を曳かせた由、以来引谷村という。」とするが、単に「低い谷」のことではないかとする
        説もある。
         山口市徳地堀で友人と合流して、友人の車で熊棚のある地へ向かう。八坂地区のサッカ
        ー交流広場より引谷への道に入る。

        
         バス停近くに2本の煙突から煙が出ているので立ち寄る。

        
        
         持主にお聞きすると、籾殻くん炭というものでいぶし焼きにしている。いぶし焼きする
        ことで、ケイ素・カリウムを含むアルカリ性となり、一方の農地は酸性雨などで酸性化し
        ているので、この籾殻が必要不可欠だとか。
         構造は燻炭器の中に藁を敷き詰め、火がついたら煙突の先が少し出る程度に籾殻を被せ
        て燃焼させるが、一定の時間ごとに燃焼状況を確認する作業が大変だとのこと。

        
         引谷川に沿って上流へ向かう。

        
         長閑な山間の農村集落が広がる。

        
         中村集落に唯一の寺院である慶雲寺。

        

        
         刀祢バス停を過ごすと左手に白石山登山口。

        
         友人から何故か山中に金比羅宮あるというので先に立ち寄る。

        
         階段入口には石仏が鎮座。

        
         約133段の参道は急登である。

        
         金毘羅社には弘法大師が、42歳の時に彫刻したという金比羅天が祀られている。社は
        南北朝期の1364(貞治3)年に大内氏の守護神として勧請されたが、室町期の1471(文
          明3)
年仁保にあった瑠璃光寺に寄付される。室町期の明応年間(1471-1500)に現在地に移
        鎮したという。
         社は海の神であるが、山口の岡本四郎左衛門が北越で遭難した時、神に祈って助かった
        ことから、1719(享保4)年に再建したという。

        
         本殿裏に立派な宝篋印塔があるが詳細は知り得なかった。

        
        
         民地のため持主に許可を得る。持主によると。栗の木が数本あって昨年は収穫できたが、
        今年はクマに収穫されてしまって無収穫だったという。用心のため鈴を鳴らしながらクマ
        棚を見て廻る。

        
         クマ棚は、クマが木に登って果実を食べる所にできる痕跡である。大きな体のクマにと
        って、枝先にある果実を取ることができない。
         そこで枝を折って、手元に手繰り寄せて果実を食し、食べ終わるとそのまま木の下に落
        としたり、尻に敷いて次の枝を手繰り寄せることを繰り返す。尻に残された枝の束を「ク
        マ棚」という。 

        
         栗の実があった枝すべてが折られたようで、数年は収穫できないだろうといわれたこと
        がわかる。それにしてもクマの威力に圧倒される光景である。

        
       
        
         クマの糞(うんち)は、他の野生動物と比べて大きく、色で食べたものがわかるという。
        ここにあったのは山中でよく見かける黒い糞であった。

        
         地内には秋を感じさせるパンパスグラス(和名:シロガネヨシ)。

        
         紫色のサツマイモのようなアケビがぶら下がっていたが、収穫時期を過ぎていたのか中
        身はなかった。

        
         栗のイガ(毬)と折った枝が散乱する。

        
         山口県西部にはシカ、西中国の寂地山系にクマがいると聞いていたが、今では人里に現
        れたと度々耳にする。この地も今年が初めての被害らしいが、今後もエリアの拡大が続く
        のであろう。


山口市佐山‥須川後に伝わる山固め神事から河原谷公園

2024年10月09日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
         佐山は山口湾の西に位置し、南に阿知須町が隣接するが、1899(明治32)年井関村(阿
        知須)から分離して成立する。地名の由来について、風土注進案は、「当村名をどのような
        訳で佐山というか分からない」とする。佐山とはサ(狭い)サマ(小さく低い丘陵)の意から出
        たものか。(歩行約7.5㎞) 

        
        
         本由良駅は、1900(明治33)年山陽鉄道の三田尻駅(現防府駅)ー厚狭駅間開通と同時
        に、阿知須駅として開業する。1950(昭和25)年に本由良駅に改称したが、山陰本線に
        由良駅(鳥取県)があったため、この駅名となった。

        
         駅前を右折して嘉川方面へ向かう。(N家) 

        
         車窓から見た佐山の集落は農家風建物が多い。

        
         須川前バス停(生活バス用)に「須川の山固め神事」の説明板がある。このまま嘉川方面
        へ歩いても変わらぬ風景となりそうなので、祭事場所を観ることにする。

        
         墓地附近が最奥民家である。

        
         山口宇部道路の函渠を潜ると山道に入る。

        
         水通し放水路がある砂防堰堤の上流は堤になっている。

        
         車も走行しているので歩きやすい道が続く。

        
         ベンチらしきものが設置されているが、堤の周囲を見渡すと、転落した場合は脱出が困
        難な構造である。

        
         須川山固め神事の初代御神木があった地と表示されている。

        
         その先に第4代御御神木跡。説明板では約500m北に入った山中で神事が行われると
        あるが、周囲は藁縄が張り巡らされているが、場所を示すようなものは見当たらない。

        
         この神事は、農耕に深くかかわりのある大歳神社の祭事として、佐山地区須川集落に伝
        えられているものである。毎年12月5日前後に総代が祭主及び司祭となり、新藁の注連
        縄(しめなわ)、三本の木刀、青竹の弓を準備する。祭りの当日は、幣をつけた榊を中央に立
        てた祭壇を設け、雌雄を意味するイスノキとマツの神木の間に注連縄を張り渡し、木刀を
        挟み、弊をつける。神木の両方に弓をつがえ、竹筒に神酒を入れ両方の木にぶらさげて、
        修祓(しゅうばつ)と祝詞奉上が行われる。
         この行事は、山固め神事といわれるように、山に棲む猪や兎などの害獣、ウンカなどの
        害虫といった自然災害を山に封じ込める意味が含まれているという。

        
         分岐を左に進むと第5代御神木跡。

        
         2つ目の砂防堰堤は規模が大きい。

        
         重ね(親子)砂防堰堤のようである。

        
         このような獣罠(箱罠)が所々に設置されている。 

        
         「⇐」があって近道のようだが不明のため直進する。後で近道だったことがわかる。

        
        
         草道や水はけの悪い箇所もあったが、南部海岸道路の函渠を潜る。

        
         河原谷溜池に出ると遊歩道が設けてある。

        
         池の畔にある河原谷改修記念碑には、「山口県佐山土地改良区 総事業費2億2400
        万円 平成4年(1992)2月竣工」とある。

        
        
         この地区には河川が少なく、農業などに利用する水の確保のために、多くのため池が造
        られている。江戸時代に平野部の開墾が進んで耕作地が増え、農業用水が必要となったた
        め、河原谷ため池や新堤が造られた。

        
         東屋より公園に上がる。

        
         「アジサイの谷」の道を進むと新堤に出る。アジサイの谷は堤を下った所にあるが、時
        期ではないので立ち寄らず。サブ広場(トイレ付き)の往復時間がわからないので堤入口で
        引き返す。

        
         公園に到着した頃は幼稚園児が遊具で遊んでいたが、静かな公園になっていた。

        
         正面ゲートから南部海岸道路に出る。

        
         道路の両側は工業団地で各種の工場が並んでいる。

        
         ユニクロ(ユニークな服の意)を傘下にするファーストリテイリングは、1963(昭和38)
        年に設立し、本社を山口市に置き、東京六本木に本部がある。社名は「素早く(提供する)」
        を意味するという。

        
         再び山口宇部道路を潜ると由良後集落に出る。

        
         三界萬霊塔を拝んで駅に戻る。三界とは欲界(物質的な欲求)、色界(形質だけの世界)、無
        色界(心だけの世界)とされるが、あらゆる場所で見られる石仏である。


山口市徳地船路‥佐波川ダム下から三田尻(石州)街道

2024年07月05日 | 山口県山口市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         船路は佐波川の中流域および同支流の奥河内川・宮河内川流域の山間部に位置する。地
        名の由来について風土注進案は、川の傍らに船石という石があることによるとも。俊乗坊
        重源がこの地より船に乗ったことによるともいう。(歩行約5.8㎞)

        
         徳地町堀から防長バス佐波川ダム行き約21分、終点の佐波川ダムバス停で下車する。
        (トイレあり)

        
         バス停からバス路線を引き返すが、右手の道を行けば佐波川ダムと愛鳥林散策路がある。
        (出合橋より)

        
         右手に佐波川の堰から流れ落ちる水音を聞きながら左岸を下ると、この先が野谷と船路
        地区の境界である。

        
         重源上人の弟子である蓮花坊が筏に乗って指揮していたが、正面の大岩(僧取岩)に当た
        り、右の淵(僧取淵)に沈んだといわれている。川の中に念仏岩があり、僧取淵には当時運
        送中に沈んだといわれる「坊主木」が埋没しているという。

        
         関水(せきみず)周辺の見取図。

        
         鎌倉期の1186(文治2)年に周防国は東大寺再建の造営料国にあてられ、俊乗坊重源上
        人が国司の役に任じられる。上人は佐波川奥地に入り、建築用材を伐採して直径15㎝の
        綱で佐波川に運び出し、水運を利用して運搬する。
         しかし、水深が浅いので水かさを増すため、水を堰き止めて幅9尺(3m)、延長23間(
        46m)の細長い水路を設けた。水路は左岸側に特設され、川底を石畳として流木したもの
        で、これを「関水」という。(説明板より抜粋)

        
         関水は118ヶ所あったとされるが、現在はこの1ヶ所のみとされる。

        
         発電用水圧鉄管(有効落差約55m)は建屋の裏にあるため全体を見ることができない。

        
         佐波川発電所は水の落差を利用して発電する水力発電で、1956(昭和31)年9月に運
        用開始された。現在は無人で遠隔操作方式で管理されている。

        
         大雨後の川面に「すっぽん」と思われるものが日光浴中。カメは硬く重い甲羅もってい
        るが、すっぽんはカメに比べると柔らかいそうだ。(カメかも?)

        
         見返ると右岸に屋敷集落と久保橋、左岸に国立青少年自然の家への道。

        
         佐波川は一級河川で国管理とされているが、国交省大臣管理区間とその他に区分されて
        おり、その他の部分は山口県管理である。国管理は徳地堀の上庄方付近から周防灘に至る
        区間とされ、この付近は県管理河川である。(取水堰)

        
         国道489号線下を潜ると御馬(ごもう)集落。

        
         緑一色の風景が広がる。

        
         集落内の田圃に鳥居と社、右に石碑が見える。石碑は地再来築(大地の再生、未来を築
        く)とあり、圃場整備竣工碑のようだ。

        
         田の神(農耕神)が祀られているが、どのような伝承や農耕儀礼が行われるのかは知り得
        なかった。一般的には
山の神が春の稲作開始時期になると里におりて田の神となり、農耕
        に携わる農民を見守り、稲作の順調な生育を助け、豊作をもたらす神とされる。        

        
         石州瓦が映える農家住宅だが更新されている。

        
         集落の入口にある六地蔵は、地域を守る存在として祀られている。敷地内には「整地記
        念碑」も建立されている。

        
         国道筋を少し進むと左手に旧道入口がある。

        
         船路の中心部に入るが、1889(明治22)年の町村制施行により、船路村、引谷村、三
        谷村、八坂村の4ヶ村をもって八坂村が発足する。のち佐波郡徳地町を経て、現在は山口
        市徳地船路である。(船路中央上付近) 

        
         四差路の山裾に小社があったが、何が祀られているのかわからず終いとなる。 

        
         佐波川に向かって民家が連なる。

        
         山口県内では小瀬川と佐波川のみが国管理の一級河川である。小瀬川は山口・広島県の
        両県を流れるので国管理とされているが、佐波川は同程度の川が他にあるものの一級河川
        とされている。
         どうも周防国府と関係があるようで、国府を支える重要な川であるとされて管理されて
        きたことが、今日につながると考えられているようだ。(高瀬橋より上流を望む) 

        
         橋を渡ると古民家があり、左手には「桑原翁壽碑」と刻まれた石碑がある。

        
        
         船路八幡宮の社伝によれば、平安期の905(延喜5)年陽悦山の麓に創建されたと伝え、
        1082(永保2)年に社殿が焼失したので下庄の宮河内に移建された。室町期の1467(応
          仁元)
年に洪水のため社殿が破損し、現在地に遷座したという。
         宝永年間(1704-1711)に岸見村(現徳地岸見)の三坂神社と式内社論争が始まったが、1
        871(明治4)年に至って式内三坂神社は岸見の方と決定される。このため社号替えが命じ
        られ、御坂大明神を廃し八幡宮に改めた。

        
         旧道まで引き返して南進する。(国道に船路バス停)

        
         奥河内川に合わすと前方に宗円寺。三田尻(石州)街道の一里塚がこの深瀬集落に設けら
        れ、三田尻船場(現防府市)まで7里12町(約28.8㎞)、石州境の野坂(現山口市阿東)ま
        で8里(約31.4㎞)であった。

        
         宗円寺(曹洞宗)は古くには端正庵といい、真言宗であったという。この地は宍戸元続の
        所領となり、伊予の河野家とは血縁関係にあったので、1577(天正5)年7月に死去した
        河野通宣の牌所に同寺をあて、通宣の法名に因んで現寺号とし、山口瑠璃光寺の和尚を招
        いて曹洞宗の寺院にしたことに始まるという。

        
         佐波川は徳地柚木の三ツヶ峰に発し、防府市の周防灘に注ぐ流長約56.5㎞で島地川、
        三谷川など30の重要支流もつ川である。(支流の1つである奥河内川)

        
         サッカー広場バス停近くの交差点でバスが通過したが、手を振るとバス停で待ってくれ
        る。待ってくれた運転手さんに感謝しながら防府行きのバスへ乗り込む。


山口市阿知須の井関‥領家遺跡から丸塚山古墳

2024年06月10日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         井関は土路石川、井関川流域に位置し、東は山口湾に面する。(歩行約7.2㎞)

        
         サンパークあじすバス停からコミュニテイバス(タクシー)約3分、井関バス停で下車す
        る。(100円均一運賃)

        
        
         バス停から山手に向かうと蓮光寺(真宗)がある。井関・野口・杖川の3集落は、この地
        域を玉川と呼んでお互い連帯感を深めていた。
         ここには宇部市厚南区にある蓮光寺の檀家が約70戸あるという。この支坊は井関説教
        所であったが、1974(昭和49)年に庫裏を建設し、以後は蓮光寺支坊というようになっ
        たという。

        
         バス停に戻って井関小学校方向へ進む。

        
         16世紀の中頃、この丘陵地に堀を巡らした領家(りょうけ)と呼ばれる城館があったとさ
        れる。この一帯を治めていた有力権者の屋敷跡とされ、軍事的あるいは政治的な機能を有
        する遺構の一部とされる。現在地はその南の中央にあたるところで、東西に走る堀の北に
        並行して塀と柵、矢倉門が設けられていたという。
         現在は地下遺構とされて説明板のみとなっている。碑は阿知須中区圃場整備記念碑。

        
         左手に井関小学校を見ながら、県道213号線(きらら浜沖の原線)を横断して旦地区に
        入る。

        
         途中の路傍にある石造地蔵尊には「三界萬霊」とあるが、この世に存在する一切の霊(萬
        霊)を多くの人に供養してもらうことを願って、寺院の入口や路傍に建立された。三界とは
        生命あるものが住む3つの世界(欲界・色界・無色界)のことである。

        
        
         往古は山王社と号していたが、1871(明治4)年に日吉神社と改めた。風土注進案には
        縁起についての記載はないが、石鳥居の刻文に「正徳六丙甲(1716)」とあり、それ以前に
        存在していたと思われる。一説によると、万年池溜池の鎮守社として祀られていたともい
        われている。
         1906(明治39)年の小社統合を免れ、1912(明治45)年9月に北方八幡宮へ統合さ
        れた浜の二宮神社の社殿を買い求めて、これを移建したという。

        
         境内には「雨乞紀念碑」と「大旱記念碑」が建立されている。1897(明治30)年8月
        6日に建立された雨乞碑によると、明治に入ってから30年に至るだけでも、明治6年、
        11年、14年、16年、25年、30年の6度にわたって雨乞祈願がなされた。
         近年では1966(昭和41)年夏に行われたが、特に1939(昭和14)年はひどく、この
        時に行われた雨乞祈願については、大旱記念碑裏面に記述されている。この年は未曽有の
        大干ばつで、各地の溜池貯水量は充分ならずとある。

        
         増光寺(浄土宗)は旦区公民館の敷地にあったとされる。寺社由来によると、当時、旦村
        には80軒余りの人家があったが、寺はなく先祖の供養にも不自由していた。その頃に嘉
        川村の浄土宗抱えの光昭坊が無住になっていたので、 1737(元文2)年に藩府よりその
        古号・古跡を移すことが認可されたとある。 

        
         1940年代には尼僧が居て、村の農繁期には地域の幼児たちを預かるなど地域住民に
        人望があったという。亡き後は無人となり、1967(昭和42)年廃寺となる。本尊の地蔵
        菩薩は敷地隅に建てられたお堂に祀られ、如来像2軀と三十三観音は阿知須合同納骨堂へ
        移された。お堂は白松新四国八十八ヶ所15番札所とされている。

        
         徳田譲甫翁(1855-1931)は、現宇部市西岐波白土の土屋家に生まれ、1870(明治3)
        徳田小三郎の長女ユキと養子縁組をする。小三郎の長男・文作が生まれ、まもなく小三郎
        が死去したため、家督を相続して文作の親代わりとして養育する。
         村会議員・村長、県会議員、衆議院議員を務め、村の米作りの要であった水不足解消の
        ため、江畑池堤防再建のため国や県に奔走する。1931(昭和6)年県営で溜池工事が完成
        するのを見届けて他界する。(徳田邸内に銅像)

        
         左手に丸塚山を見ながら市街地を目指す。飛石地区に石風呂跡があるというが、民家の
        庭とのことで残念する。

        
         飛石公民館敷地内に水を司る水神の「龍神社」祀られている。当初は旧阿知須幼稚園の
        敷地内にあったが、1980(昭和55)年に現在地へ遷座したという。建立時期は不明だそ
        うだが、江戸期に干潟が開作され、18世紀半ば以降に祀られたと思われる。
         鳥居の額束は「飛石龍神社」、柱の刻文は「寛政四子年(1792)九月一六日」、石灯籠に
        は文化4年(1807)とある。

        
         さらに県道を東進して信号機で横断する。

        
        
         丸塚第5号古墳は洪積段丘の端に位置し、南北を主軸にして南側に開口部がある。複室
        の横穴式石室を内部にもつ円墳で、6世紀後半に築造されたものだそうだが、周辺の開墾
        と永年の侵食などにより、石室が露出した古墳であったという。

        
        
         5号古墳の道を進むと工場の先に池が見えてくる。1569(永禄12)年に毛利軍は九州
        に出陣して大友軍と激しい戦いを交えていた。この時、大友氏は毛利軍の背後を衝くため、
        大内輝弘を周防国の秋穂浦と阿知須浦に上陸させた。
         山口に攻め入るために光明寺の住職と5人の村人を無理やりに道案内させた。大内軍壊
        滅後、毛利氏は大内軍に協力したということで6人を首谷ヶ浴(くびたにがえき)で殺害する。
         それ以降、池で自殺する者が相次いだため、1924(大正13)年に近隣の僧と住民によ
        って供養祭が行われ碑が建てられた。その後、自殺する者がいなくなったという。(説明板
        より)

        
         さらに北上すると右手に丸塚2号古墳が見えてくる。 

        
         丸塚2号古墳はミカン園の中にあり、5号古墳と同様に南に開口した複室の横穴式石室
        を内部主体とする古墳である。墳丘は周辺の開墾や耕作によって一部が削り取られている
        が、円墳であったと考えられている。

        
         信号機まで引き返し、船渡児童公園の道を南下する。

        
         白壁の居蔵造を象徴するなまこ壁の格子柄と、旧阿知須町の町木であった金木犀がデザ
        インされたマンホール蓋。

        
         井関川から見た飛石の樋門で「ごろうえび」と呼ばれるが、湿地帯の排水を改善し、稲
        作向上に貢献した人物の名をとったという説もあるが不詳とのこと。 

        
         井関川は旧阿知須町大坪に発し、東流して山口湾に注ぐ2級河川で、流長は9㎞とされ
        る。

        
         藩に納める年貢米を、この橋を渡って橋の袂で収納し、満潮時に船へ積み込み、上方に
        海上輸送する拠点であった。通称「御米(ごまい)橋」と呼ばれた。

        
         中州に祀られている地蔵尊。

         
         「白地に赤と青のライン」の列車は、1987(昭和62)年に国鉄が民営化された後から、
        30年間にわたり運行されていた。
         2022(令和4)年7月より復活運行されているが、運行期間は「当分の間」とされてい
        る。


山口市‥山口軽便鉄道跡(小郡~山口)

2024年05月29日 | 山口県山口市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。(左は1910(明治43)年陸軍が作成した地形図)
         1907(明治40)年12月に山口軽便鉄道を建設することで山口軌道会社が設立され
        たのだが、資金の問題で大日本軌道㈱と合併することになる。その翌年に山口支社が発
        足し、11月に軽便鉄道として小郡新町―湯田間が開通する。12月に湯田―山口新道
        (後に亀山駅)間が、1909年2月には小郡新町―小郡間が開通する。
         その後、普通鉄道開設運動が起こり、1913(大正2)年2月に山陰縦貫鉄道の一環と
        して小郡―山口間の山口線が開通する。わずか4年半の営業で廃止になった路線である。
         普通鉄道は現在の在来線でレールの間隔(軌軸)が1,067㎜だが、軽便鉄道は762
        ㎜と狭く、安定性や機関車の性能が劣っていたとされる。

        
         山陽鉄道㈱は三田尻ー下関間の敷設に際し、三田尻から県庁所在地の山口を通って小郡
        に出る路線を計画していた。これに対し旅館業者が、「客足が留まらなくなり商売に困る」
        と反対したため計画は取りやめになる。
         しかし、後に県庁を鉄道沿線の便利のよい場所に移転すべきとの意見が出たため、18
        99(明治32)年に山口町は鉄道委員会を設置して鉄道建設を推進するという背景があった。

        
         新山口駅在来線口前の一帯に軽便鉄道小郡駅があったとされる。

        
         明治通りが鉄道敷跡と思っていたが、地形図によると通りの左側は田圃で、その中に鉄
        道敷が記載されている。

        
         明治西会館付近を北に向けて敷設されていたようだ。

        
         旧国道2号線と旧山陽道を横断して、光明寺裏から旧国道9号線に至っていたと思われ
        る。この路地は用水路に蓋がされているので、この付近に鉄道敷があったようだが消滅し
        ている。

        
         旧国道9号線が鉄道敷跡のようで、信光寺裏附近に津市停車場があったとされるが、場
        所は特定できなかった。

        
         津市から中領八幡宮までは道路拡幅工事で消滅している。

        
         国道9号線を横断して、中領八幡宮前から四十八瀬川に至っていたようだ。

        
         四十八瀬川を横断しているが、護岸改良工事で遺構は消滅している。

        
         当時の新町は、旧石州街道筋で民家などが連なっており、駅の設置は困難だったと思わ
        れる。裏手の田園の中に駅が設置されたようである。

        
         中郷八幡宮前から国道9号線を横断して、JR上郷駅付近から椹野川沿いに至っていた
        と思われる。(駅にトイレあり) 

        
         椹野川右岸には旧石州街道があったが、その脇に設置されていたようだ。

        
         小郡桜とSLやまぐち号、種田山頭火の句がデザインされた旧小郡町のマンホール蓋。 

        
         一部狭隘な場所もあったが、並行して山口秋吉台自転車道が設置されている。(小郡の仁
        保津地区)

        
         車を気にしないで歩ける自転車道を利用して中国自動車道下を潜る。

        
                        (仁保津~大歳)
         山口支社長の中村竹兵衛は山口の銭湯小路で旅館を営み、山陽鉄道の山口経由を反対し
        た中心人物だったという。県庁移転に絡んで鉄道の便利さに気付いたのか建設運動に取り
        組んだ。

        
         右手に権現堂橋を見て車道を横断する。

        
         権現堂橋の先に仁保津停留場があったとされるが、明治の地形図には記載がない。

        
         朝田川に架かる関屋橋の橋台に遺構は見られない。この付近が旧小郡町と旧山口市の境
        界。

        
        
         国鉄は軽便鉄道跡でなく洪水の少ない北側を、また煙害を避けて敷設された。

        
         和田橋停留場付近に残る和田橋の欄干。

        
         吉敷川はこの先で椹野川と合流する。

        
         この附近は昔から洪水による被害を受けてきた地域である。そのため土盛りをして敷地
        を高くし、石垣を築いた「水塚」と呼ばれる構えをした民家が見られる。


        
         天明三年(1783)年建立の石仏、三界萬霊塔などが祀られている。

        
         鉄道敷跡は吉敷川の大歳橋で左岸に移動している。(左岸側より) 

        
        
         大歳橋を渡ると石州街道筋となるが、黒川市とされて民家などが軒を連ねていたためか、
        吉敷川の左岸に敷設されたようだ。

        
         鉄道敷跡は千代松橋で吉敷川左岸から離れる。

        
         明治の地形図によると、大歳小学校校内を縦断していたようだ。

        
         小学校内を縦断した鉄道は、山口線下湯田踏切付近に大歳駅(停)があったようだが位置
        は特定できず。

        
         軌道は道路併用であり、軌道条例(明治23年)により道路幅は6間(10.98M)以上とされた。
        小郡~湯田間の旧石州街道は規定の道幅でなかったので、「拡幅予定」として認可された
        という。(短命だったため拡幅されず)

        
                  (石州街道筋から湯田経由で山口駅間) 

        
         この先で鉄道敷は旧石州街道筋を離れ、現在の湯田温泉市街地へ敷設されていた。

        
        
         県道200号線を横断し、井上公園の南東側から北西側に縦断して湯田市街地に至って
        いた。

        
         ホテル松田屋前付近で旧国道9号線と合わしていたようで、湯田駅もこの付近にあった
        と思われる。

        
         湯田温泉から市民会館まで約2.5㎞の距離には、遺構もないことや讃井停留場があった
        ようだが、位置ははっきりしないためバスで移動する。

        
         営業当初はこの付近に山口駅(後に亀山駅)があったという。 

        
         1910(明治43)年7月20日に一の坂川の御茶屋橋まで延伸されて山口駅(停)が設置
        された。

        
         明治の地形図を頼りに歩いてみたが、目標物がないため鉄道敷跡を外れた箇所や曖昧な
        地点もあったが、史跡探索ではないので納得してJR山口駅へ向かう。


山口市徳地の狗留孫山‥観音霊場をめぐる

2024年05月04日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         狗留孫山(くるそんざん)は佐波川右岸に聳える山で、山口市徳地庄方の背後に位置する。
        下関市豊田町に同名の山があるため、東の狗留孫山とされている。
         仏教では、釈迦仏が仏教という大宗教を成したのは単に釈迦一代のみの事業ではなく、
        過去においてすでに成道し成仏した前世の功徳が累積した結果であるとされる。過去七仏
        (かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。古い順から毘
        婆尸(びばし)仏、尸棄(しき)仏、毘舎浮(びしゃふ)仏、倶留孫(くるそん)仏、倶那含牟尼(くなご
          んむに)
仏、迦葉(かしょう)仏、釈迦仏だそうだ。

        
         JR防府駅から防長バス堀行き約32分、須崎橋バス停で下車する。かつて町の中心だ
        った通りから佐波川に出る。

        
         標高510mの狗留孫山を佐波川から眺める。

        
         佐波川に架かる出雲合橋を渡り、庄方集落内を進む。

        
         法華寺(真言宗)は、奈良期の739(天平11)年光明皇后が僧・行基に詔して(命じて)、
        諸国に創建させた長門国法華寺で、豊浦郡豊浦村にあった。
         1873(明治6)年8月に赤間関(現下関市)の東南部町に移り、1897(明治30)年5月
        月に金徳寺跡へ移転してきた。

        
         霊場見取図で巡るルートを確認して山に取り付く。

        
         寺右側の通りに出て山へ向かうと一丁目石(丁塚)がある。4体の石仏のうち、左から2
        つ目の青面金剛(しょうめんこんごう)明王は、病魔や悪霊を力尽くで追い払うという。

        
         一丁目石の向い側にある階段を上り、中国自動車道に架かる陸橋を渡って左折する。

        
        
         入口には登山道案内図が設置されており、参道の石段を上がると2丁目石と石仏が鎮座
        する。概ね丁目石は2丁ごとに見ることができる。

        
         鉄製階段の先に大きな石鳥居が現われる。扁額は風化して読めないが、柱には「慶應四
        年戌辰(1868) 正月吉日」の刻字がみえる。鳥居といえば神社であるが、神仏習合時代の
        名残なのか、金精神(こんせいしん)に対するものなのかはわからない。

        
         伐採地の東側に展望があって、中国自動車道の西に徳地小古祖集落、東に要害岳が聳え
        る。

        
         登山道は尾根上の一本道で迷うことはないが、樹林に囲まれて展望は期待できない。風
        化花崗岩が削り取られ、溝状になった箇所もある。

        
         何丁目石なのかわからないが、下部がえぐれて根っ子に挟まっている。

        
         15丁目(約1.63㎞)に「狗留孫山霊場入る」と刻まれた石柱があり、ここが結界とい
        うことらしい。かつてはこの先からは女人禁制だった。

        
         さらに進むと、「八重かすみ みねよりかけて くるそん乃 佛のちかい た乃もしか
        な」と刻まれた御詠歌岩がある。

        
         岩の先で尾根に上がる道が右に分岐する。ここが三十三観音霊場入口で、観音巡りをす
        るため右の山道へ入る。

        
         1番目の摩崖仏の傍に「1」と記されたパウチ加工の番号札がある。よくわからないが
        柳の枝を持ち、悪病をはらうとされ、観音さまには珍しい忿怒相をしている楊柳(ようりゅ
          う)
観音だろうか。 

        
         2番は道より奥まった所にあり、引き返して斜面を上がって行くと3番がある。立体的
        な摩崖仏ではなく、浅くリレーフ状に刻まれたもので、風化によってはっきり見えないも
        のもある。

        
         番号札のみで摩崖仏もはっきりしないので、どの観音像なのかはわからない。(4番) 

         
             5番の刻字が見える。         6・7・8番もはっきりしない。

        
         西院(さい)の河原とされているが、親よりも子供が先に死んでしまうと、三途(さんず)
        のほとりにある河原に行くことになる。
         ここで子供は父母の供養のために、小石を積み上げて仏塔を作らなければならないが、
        絶えず鬼に崩される。地蔵菩薩が現われて子供を救うとされるが、賽の河原の石積みは私
        たちの人生の姿とされる。

         
         9番の摩崖仏は岩上に座り、人びとの苦  10番を過ごすと道は二手に分かれるが、
        しみを取り除くとされる施薬観音だろうか。 番号順だと「8」の字を描くように設定さ
                             れている、何か意味があるのだろうと順番
                             に従う。
        
        
         11番に行く途中に「悪人戒め岩」がある。言い伝えによると、悪人が通ると挟まれて
        脱出することができないという。

        
         奥の院裏手に出ると、堂は崩壊の途にある。

         
         11番は足場の悪い位置にあって摩崖仏   場所や向きによって風化が進んだものや、
        もはっきりしない。この先で山頂と案内さ  苔に覆われた摩崖仏もある。(12番)
        れた道に上がる。

        
         穴観音への分岐だが、どう歩くか思案の場所である。21番まで行って穴観音へ向かう
        ことにする。

        
         13番摩崖仏。

        
         参道途上に東方遥拝所の案内があり、テラス状の展望地には遥拝所を示す石柱がある。

        
         残念ながら木立の生長で展望はよくない。遥拝所は神道にみられるが、何を遥拝してい
        たのだろうか。

        
         参道の斜面に14番摩崖仏。

         
         15番と16番の摩崖仏は、日差しの関係でこんな撮影となる。15番から21番まで
        は連続して見ることができる。

         
         17番・18番は風化して摩崖仏を探すのに苦労する。番号札がないと通り過ごしてしま
        うだろう。 

        
         19番摩崖仏。

         
               20番摩崖仏。         21番で穴観音分岐まで引き返す。

        
         穴観音への道は、概ね山腹をトラバースする感じだが、意外と長く感じる。登山者は参
        道と穴観音道を往復に利用されているようだ。

        
        
         風土注進案に「是より奥の院に穴観音9尺(272.7㎝)の石の中に尺位の穴あり。深さ
        曲りをしれず、内に水晶石なり、是を出現石という」とある。
         穴観音についての詳細はわからないが、ひょっとすると男性と女性の象徴を神格化した
        ものではなかろうか。男根と女陰が重なり合うことではじめて人間の生命が誕生するの
        で、子授かりのための信仰は自然で根源的ものと思われる。
         2012(平成24)年に有志が探索した結果、偶然に発見されて登山道などが整備された
        という。

        
         穴観音の右側に山頂への標識があり、上がって行くと分岐に出る。山頂を示す標式は鷲
        ヶ嶽を示すもので、狗留山山頂は反対側の道にある。

        
         標高510mの山頂に石仏が鎮座する。三角点のある所も山頂には違いないが、鷲ヶ嶽
        という別の山頂である。なぜこのような変な形になってしまったのだろうか。地元の方に
        お聞きすると、奥の院のある頂上が狗留孫山の山頂だよという返事だった。

        
         山頂の展望も狭まり、東面の山並みが望める程度である。

        
         下って行くと、佐波川流域の集落や防府の山々が望める。

        
         巡拝路に合わすが、22~26番を残していたので穴観音分岐方向へ下る。  

        
         22番摩崖仏だが、摩崖仏とは自然の岩壁を利用し、岩面に彫刻された仏や菩薩等の総
        称であるという。

        
         23番摩崖仏は巡拝路から外れた位置にある。

        
         24番摩崖仏。

         
              25番摩崖仏。              26番摩崖仏。

         
         分岐まで戻って27~33観音へ向かう。27番と28番は風化している。

        
         29番摩崖仏は岩質がいいのかはっきりしている。合掌観音だろうか、蓮華座に座って
        合掌し、人びとのお手本となるよう自ら拝んでいるようにも見える。

        
         風化花崗岩とシダは相性が良いのか、シダが繁茂した道となっている。

         
         30番と31番摩崖仏。この霊場
がいつ頃に設けられたのかわからず終いとなる。

         
         32番と打ち止めの33番を見て、再び悪人戒め岩経由で奥の院を目指す。

        
         山頂との分岐を過ごすと宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、宝筐印陀羅尼の経文を納め
        た塔なのか、供養塔・墓碑塔なのかはわからなかった。

        
        
         金徳寺は天武天皇(   -686)の勅願寺であるといい、建久年間(1190-1199)に俊乗坊重源
        上人が中興したと伝える。
         1699(元禄12)年と1817(文化14)年の火災に罹りて、寺記などが焼失したという。
        もと観音堂の側にあったが、寒威烈しき場所だったため、1752(宝暦2)年法華寺がある
        地に移建する。当寺は真言宗で萩の満願寺の末寺だったが、1870(明治3)年12月満願
        寺に合併して寺号が廃止された。 

        
         奥の院入口の彫刻だが、奥の院辺りに観音堂があったと伝えられている。

        
         奥の院の右側には、俊乗坊重源上人が当寺にしばらく滞在して再建(中興)したといわれ
        る中興開山の碑がある。一説によると、飛鳥期の673(白鳳元)年に金徳寺が創建されたと
        伝えられている。

                
         観音堂の右手に御勅願岩(御神体)がある。男根の形はしていないが、穴観音に対する金
        精様のようでもある。

        
         「不許葷酒肉寺内」の石柱があるが、においの強い野菜(ニラ・ニンニクなど)や肉、酒
        を口にしたものは、心を乱し修行の邪魔になるので、寺の中に入ることを許さないという。

        
         法華寺に戻って下って行くと、最近は見かけることが少なくなったヤギが飼育されてい
        る。
         堀バス停よりJR防府駅行きのバスに乗車する。 


山口市秋穂東の大海②‥海岸通りに神社仏閣・小祠

2024年04月14日 | 山口県山口市

                
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したっものである。
         大海(おおみ)は東に大海湾、西に亀尾山(大海山)から経納山へと南北に山塊があり、これ
        に挟まれるように細長い集落がある。大河内から日地まで13の小名があるため、日地・
        赤崎を除いて「大海」とする。(歩行約5.8㎞)

        
         大海小学校前バス停から海岸通りを北上する。

        
         大海小学校の正門には「創立明治7年(1874)11月23日」の表札と、1924(大正1
          3)
年建立の「報徳」と刻まれた碑がある。
         正面の二宮尊徳(金次郎)像は、1939(昭和14)年に銅像で建立されたが、先の大戦に
        おいて武器生産に必要な金属資源の不足を補うため供出された。1942(昭和17)年にセ
        メント製の像が設置された。

        
         小学校前の広場に「EARTH and SKY(地球と空)」と紹介された石の作品がある。チェ
        コスロバキア生まれのペーターローラー氏の作であるが、作品のコンセプトはわからない
        が、2つあるので「地球と空」が表現されているのであろう。

        
         浜内会館脇に「小林和作先生頌徳碑」がある。洋画家の小林和作(1888-1974)は富裕な
        地主の家に生まれ、京都の美術学校を卒業して画家となる。1934(昭和9)年に尾道に移
        り住み、以後亡くなるまでの40年間尾道にあって創作活動を行う。
         1931(昭和6)年の経済恐慌で実家の経済状態が悪化し、財産整理を行っている。碑文
        には「先生は郷土を愛する念厚く、郷土発展に貢献されること甚大‥」とある。国民宿舎
        「秋穂荘」に和作コーナーが設けてある。

        
         小学校からは海岸通り歩き。

        
        
         小学校東側から旧県道に出ると火除地蔵尊の木祠がある。立像の右手が欠損しているが、
        倒れ防止のため「はめ込め地蔵」となっている。

        
         東側が海ということもあって、台風などによる被害を受けてきた地域である。

        
         旧道沿いには立て管が数十メートル毎に設置されているが、排水システムに關係するも
        のだろうか。

        
         スーパーのある四差路を左折して小道に入り、2軒目の大村宅の西角に「大海小学校発
        祥之地」碑がある。民家から東泉寺、大昌寺の仮教室を経て、1874(明治7)年大海小学
        校として開校したという。

        
         バス路線であるが、県道25号線(宇部防府線)が新設されたため静かな通りとなってい
        る。

        
         旧道から新川右岸を辿ると、厄神社の石祠があるが祭神等は移転したようだ。

        
         新川橋の袂に赤崎宮の灯籠が、樹木に隠れるように立っている。

        
         大海小学校と東泉寺を繋ぐ道に瓦屋根付きのお堂がある。右の地蔵尊は頭部がセメント
        で接着されているが、民家での結婚式に運び出されたためだろうか。
         左の地蔵尊は他地より移転してきたようだが、後に2体に合わせてお堂が建てられたと
        思われる。

        
         ホームセンター向い側にも赤崎宮の灯籠がある。この道は大海小学校から東泉寺へ至り、
        山手を北に辿る「上ん道(うえんどう)」と呼ばれ、バス道路に対応した主要な道であったと
        いう。

        
         江戸期の秋穂は陸路の街道筋はなかったが、秋穂浦から幸田(現山口市秋穂二島)を経由
        する道と、大海峠を経由して東泉寺前を通る道があった。いずれも奥地より海港に出る道
        として、人の往来や物資輸送のために開かれた。

        
         東泉寺(浄土真宗)の寺伝によると、豊前国の大友宗麟の家臣であった森王弥権太夫時乗
        が、宗麟のキリシタン改宗に悲しみ、故国を去って当地に居住する。慶長の頃(1596-16
        15)に上京して剃髪して教善と称し、4代のときに寺号が与えられたという。
         豊後国から山口に攻め込んだ大内輝弘の乱(1569年)と時代が重なるが、関係するか
        否かはわからない。

        
         境内の西側に出ると、六角堂へは並びの悪い石段を上がる。

        
         長徳寺(現大昌寺)の末寺で「江月庵観音堂」と称し、大内義弘(1356-1400)が京都六角
        堂の如意輪観音を勧請して創建したと伝える。堂宇の形から六角堂と呼ばれ、本尊は秘仏
        で21年毎に開帳されて、本寺において供養が行われる。(秋穂八十八ヶ所12番札所)

        
         六角堂の裏手を進むと、旧大海保育園上の墓地一画に妙見社があるが、元は上下に離れ
        ていたという。妙見社は国土を守り、災いを消して人々に福寿をもたらす星の神とされる。

        
                 大海湾と大海の町並み、銀色に輝く球体が見える。

        
         旧大海保育園下にこんもりとした森があり、その中に注連縄が張られた石祠がある。郷
        の森様・幸大明神というらしいが、今も大切に祀られている。

        
         県道交差点から海側に下ると、左手に小祠が見える。「森様」と呼ばれているが、土地
        を守る神が祀られているのだろうか。

        
         地区の中心地であったと思われ、店舗の構えを残す家が見受けられる。

        
         大海郵便局近くにある地蔵尊は台座に「三界萬霊」とあり、ここも首がセメントで補修
        されている。1794(寛政6)年に地元の網元が奉納したという。

        
         1994(平成6)年に完成した秋穂大海総合センターらんらんドーム。 

        
         1968(昭和43)年10月に秋穂漁港大海防波堤灯台が設置された。背後の佐波川に架
        かる防府新大橋は、2003(平成15)年に台道南交差点から富海に至る県道58号線(防府
        環状線)の一部として設けられた。

        
         大海漁港と思い込んでいたが、行政上は秋穂漁港(大海地区)とされ、管理者は山口市と
        のこと。

        
         1955(昭和30)年代の海岸保全工事と漁港修築工事は、関係地区の人々にとって台風
        被害の減少など受益するところが大きかった。(この先に浜中墓地) 

        
         浜中墓地の一画にある「福田先生之墓」は、1874(明治7)年大海小学校開校当時の主
        任教師だった福田微の墓である。教え子たちによって建てられたというが、慕われた心が
        墓標に刻まれている。

        
         山口県漁協大海支所の直売所。大海浦の漁業は秋穂浦より遅れて始まったが次第に隆盛
        となり、1878(明治11)年には大海浦魚市場が設けられた。日露戦争終了後の1905
          (明治38)年頃には、大海浦の漁家9割が専業で、漁家の多くが福岡県や長崎県沖まで遠洋
        漁業に進出するようになったという。
         現在は直売所と海鮮丼などを食する施設が併設されているが、常時ではないようなので
        事前に確認を要する店のようだ。

        
         漁村集落特有の海への細い路地が区画されたように設けてある。

        
         石碑の刻字は風化してはっきりと読めないが、大海浦漁業組合の記念碑のようだ。碑文
        には「大正5年(1916)3月元村営なりし大海漁海市場を大海浦漁業組合の経営となす。大
        正6年2月大海浦漁業組合に養殖場の件を認可せらる」とある。左には大正十年(1921)六
        月建立された旨の刻字がみられる。 

        
         浜中天神バス停があるので近くに天神社があるのでと探すと、記念碑のある広場に灯籠
        があり、「天満宮」「慶応元(1865)乙丑一季十月廿五日」とある。公園広場になっている
        が、社殿は台風で大破し、正面の保管庫で祭神が祀られているとのこと。
         古くは天御中主神を祀っていたが、宝暦年間(1751-1764)太宰府天満宮より勧請し、一
        時期、新川の疫神社に併祀されていた。1802(享和2)年今の地に移して祀るようになっ
        たという。

        
         無住のようだがトタン屋根の民家も少なくなった。

        
         1900(明治33)年山陽鉄道の大道駅が開業すると、幹線道路であった秋穂港ー大道間
        の道路改良が進められ、1925(大正14)年竣工したが、この道幅になったかどうかは定
        かでない。 

        
         赤いちゃんちゃんこに赤頭巾をかぶり、老夫婦のような姿をみせる微笑ましい地蔵尊。

        
         路地を抜けると出雲神社。その昔、疫病が流行したのを機に、出雲社を勧請して社を建
        てて祈願したという。

        
         大河内バス停よりJR大道駅に戻るが、バス停前に小さな地蔵尊が祀られている。19
        72(昭和47)年9月に3歳の子が、同所で飛び出して交通事故死する。その供養のため建
        立されたという。


山口市秋穂東の大海②‥青江湾堤防から日地の石風呂・赤崎神社

2024年04月13日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         日地・赤崎は北に経納山、南に小浜山・日地山などの小山塊があり、これらの小山塊の
        間に、日地・金山領・青江などの低地や中条・赤崎・中道などの台地がある。
         1879(明治12)年大海村と青江村を合わせ秋穂東本郷村となるが、1889(明治22)
        年の町村制施行により、秋穂西本郷村と合併して秋穂村(後に町)に移行、現在は山口市の
        一部である。
(歩行約4.6㎞)

        
         JR防府駅から防長バス秋穂漁港行き約40分、金山領バス停で下車する。

        
         金山領と青江の境にある親子地蔵(三界萬霊塔)

        
        
         正面に日地山(左)と赤石山、堰き止められた約40ヘクタールの青江湾を見ながら、約
        1.3㎞の日地崎線を歩く。

        
         東岸から見る堤防だが、車の往来が可能な広さである。

        
         堤防東側の山手に工事記念碑が建てられているいるに向かって表面には「記念碑 山口
        県知事小沢太郎書」、裏面に「締め切り工事 昭和31年(1956)2月着工、昭和32年3
        月2日完工」とあり。

        
         青江湾内は台風の度ごとに大きな被害を受けたが、1955(昭和30)年の第22号台風
        による被害が大きかった。そこで湾口部分を東側の日地山と赤石山を結ぶ延長483メー
        トルを防波堤で締め切られた。 

        
         この川は塩田の入川だったようで、河口部が締め切られたため土砂の堆積が進んでいる
        とか。

        
         「日地の石風呂」への案内板向い側に、ひっそりと佇む石仏がある。台座正面に三界萬
        霊、右横に天保5年(1834)7月24日、左横に松永栄蔵(塩田主)とある。

        
         地蔵尊から橋を渡ると、「日地の石風呂」を管理されている家の奥様に案内していただ
        く。説明によると、1862(文久2)年に築造されたもので、塩田労働者をはじめ多くの人
        々が利用した。築造主は青江浜主の栄楽屋・松永栄蔵である。
         奥様から石風呂の周囲は樹木が生い茂っており、根っこが石風呂を傷めるため、私ども
        が年1回内部を燃やして保存に留意しているとのこと。

        
         入口上の小石に掘り出しがある。右は胸に薬壺を持つ薬師像で、左は右手に五鉾杵を持
        つ弘法大師像である。入口の左上方にも小さい薬師像が祀られている。

        
         「日地の石風呂」から右の木段を上がると、3個の石造物がある。右側が入山戸明神社
        の石祠で、1741(寛保元)年にこの地を開いて塩田を造り、浜の宮を建立して塩田の守護
        神とした。中央にあるのが恵比須社の石祠、左側には「一畑薬師如来」と刻まれた石祠で
        ある。
         この3基は青江塩田の守護神の森にあったもので、塩田廃止に伴いこの地へ移された。
        青江塩田は秋穂塩田、防府塩田などとともに、1959(昭和34)年国の第二次塩業整備に
        より廃止された。

        
         赤崎へ続く道の途中に「親政地蔵菩薩」が祀られていたが、祠だけが残されて地蔵尊は
        存在しなかった。祠のある家の方にお聞きすると、どこに移されたかは知らないという。
         安曇野でみられるような道祖神スタイルで、一見に値するとのことであったが残念であ
        る。

         
         路地を抜けると秋穂八十八ヶ所47番札所で本尊は地蔵菩薩である。お堂は地区公民館
        に併設されていたが、2001(平成13)年に新公民館が他へ竣工したため 、後にお堂が建
        て替えられたようだ。

        
         県道25号線(宇部防府線)に合わす手前で右折する。

        
         日地から赤崎地区に入る。旧大海村は大河内、赤崎、日地など13の小名がある。 

        
         亀甲模様に旧秋穂町の町章が入った集落排水用のマンホール蓋。

        
         赤崎公民館前に鎮座する北向き地蔵尊は、昔から縁結びの地蔵尊として親しまれてきた。
        現在の結婚式はそのほとんどが自宅外で行われているが、1950(昭和25)年頃までは自
        宅で行われていた。
         花婿の傍に花嫁が座り、結婚の行事が進められ最高潮になった頃、地元の若者に抱えら
        れて参上し、新郎新婦の前に地蔵尊を座らせる。今日から花嫁はこの家で、お地蔵様のよ
        うにどかっと腰を据えられるようにとのことらしい。地蔵尊は一晩夫婦の元で一緒に過ご
        し、翌日、2人で地蔵尊を元の場所に戻すことになるが、この地蔵尊も結婚式の時期には
        活躍したものと思われる。

        
         そのためか右の地蔵尊の頭部はセメント、左の地蔵尊は左肩裏が欠損しているという。
        中央は三界萬霊塔である。

        
         赤崎神社は、奈良期の727(神亀4)年に豊前国宇佐嶋よりこの地に鎮座したと伝える。
        古来より牛馬安全・海上安全守護の神として崇敬され、阿知須の赤崎社、長門の赤崎社な
        どに分霊が祀られている。

        
         平安期の1185(元暦2)年3月20日、源義経が平家追討のためこの浦に着船し、赤崎
        神社に詣でて朝敵退治を祈願し、鎧を奉納したという。
         鎧は年代を経てほころびて原型をとどめないが、義経が出陣するにあたり、汐待ちをし
        た石と伝えられる平らな石が、本殿に向かって左手にある。

        
         神社の西側に2つの池があり、共に蓬莱竹が植えられた中島がある。中つ島に宗像大明
        神、遠(おき)つ島に厳島大明神を移したとされる。そのためか池に鳥居が立っている。

        
         赤崎神社裏から山手に向かうと大昌寺(曹洞宗)がある。鎌倉期の1244(寛元2)年に大
        内弘貞が創建したと伝える。もとは赤崎神社の別当坊で長徳寺と称していたが、1870
        (明治3)年秋穂町中野にあった定林寺を合併する。その寺跡に下関市壇ノ浦にあった長徳寺
        を引寺して長徳寺と称することにしたが、同じ寺号では困ることもあろうと大昌寺に改め
        たという。

        
         山門入口に「不許葷酒入山門」碑があるが、野菜(ニラ・ニンニク類)や酒を口にした者
        は、心を乱し修行の邪魔になるので、寺の中に入ることは許さないというものである。

        
         九層の屋根を持つ石塔は、自然石上の台石に「寛政八丙辰(1796)八月吉日 三田尻中濱
        ・村屋兵蔵・祖母」とある。 

        
         宝篋印塔の塔身部は三方がくり抜かれ、中に小さな首なし地蔵2体が座る。背面には「
        無盡(尽)法界 有縁無縁塔 文政五年壬午(1822) 五月吉日」とある。
         隣の地蔵尊は正面に「法界」、右側に「安永六丁酉(1777)正月吉日」とある。石段下に
        あるお堂は秋穂八十八ヶ所13番札所、上にあるのが14番札所で、六角堂の北側付近あ
        ったものを境内に移したとされる。

        
         赤崎神社に戻って参道を下ると、両脇には約60基の石段積み灯籠が並ぶ。

        
         参道入口には総高6m近くある灯籠がある。重厚な笠と中台には「海上安全」と刻まれ、
        竿の部分に「明治二年己巳(1869)八月」とある。