ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市秋穂の大海は秋穂湾から神社仏閣・小祠を巡る ① 

2024年04月13日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         大海(おおみ)は大海山(亀尾山)の東側に小浜山、赤石山などの小山塊があり、これらの山
        地や小山塊の間に、日地・金山領・青江などの低地や中条・赤崎・中道などの台地がある。
        大海湾に沿って大河内から北条にかけては、低地に乏しく山地に続く山麓斜面が海岸近く
        に迫っている。
         1879(明治12)年大海村と青江村を合わせ秋穂東本郷村となるが、町村制施行により、
        秋穂西本郷村と合併して秋穂村に移行する。(歩行1日目約4.6㎞、2日目約5.8㎞)

        
         JR大道駅から防長バス秋穂漁港行き約15分、金山領バス停で下車する。

        
         金山領と青江の境にある親子地蔵(三界萬霊塔)

        
        
         正面に日地山(左)と赤石山、堰き止められた約40ヘクタールの青江湾を見ながら、約
        1.3㎞の日地崎線を歩く。

        
         東岸から見る堤防だが、車の往来が可能な広さである。

        
         青江湾締め切り堤防東側の山手にある工事記念碑。海に向かって表面には「記念碑 山
        口県知事小沢太郎書」、裏面に「締め切り工事 昭和31年(1956)2月着工、昭和32年
        3月2日完工」とあり。

        
         青江湾内は台風の度ごとに大きな被害を受けたが、1955(昭和30)年の第22号台風
        による被害が大きかった。そこで湾口部分を東側の日地山と赤石山を結ぶ延長483メー
        トルを防波堤で締め切られた。 

        
         この川は塩田の入川だったようで、河口部が締め切られたため土砂の堆積が進んできた
        とか。

        
         「日地の石風呂」への案内板向い側に、ひっそりと佇む石仏がある。台座正面に三界萬
        霊、右横に天保5年(1834)7月24日、左横に松永栄蔵(塩田主)とある。

        
         地蔵尊から橋を渡ると、「日地の石風呂」を管理されている家の奥様に案内していただ
        く。説明によると、1862(文久2)年に築造されたもので、塩田労働者をはじめ多くの人
        々が利用した。築造主は青江浜主の栄楽屋・松永栄蔵である。
         奥様から石風呂の周りは山続きで、樹木の根っこが石風呂内に伸びて傷めないように、
        年1回私どもが内部を燃やして保存に留意しているとのこと。

        
         入口上の小石に掘り出しがある。右は胸に薬壺を持つ薬師像で、左は右手に五鉾杵を持
        つ弘法大師像である。入口の左上方にも小さい薬師像が祀られている。

        
         「日地の石風呂」から右の木段を上がると、3個の石造物がある。右側が入山戸明神社
        の石祠で、1741(寛保元)年にこの地を開いて塩田を造り、浜の宮を建立して塩田の守護
        神とした。中央にあるのが恵比須社の石祠、左側には「一畑薬師如来」と刻まれた石祠で
        ある。
         この3基は青江塩田の守護神の森にあったもので、塩田廃止に伴いこの地へ移された。
        青江塩田は秋穂塩田、防府塩田などとともに、1959(昭和34)年国の第二次塩業整備に
        より廃止された。

        
         赤崎へ続く道の途中に「親政地蔵菩薩」が祀られていたが、祠だけが残されて地蔵尊は
        存在しなかった。祠のある家の方にお聞きすると、どこに移されたかは知らないという。
         安曇野でみられるような道祖神スタイルで、一見に値するとのことであったが残念であ
        る。

         
         路地を抜けると秋穂八十八ヶ所47番札所で本尊は地蔵菩薩である。お堂は地区公民館
        に併設されていたが、2001(平成13)年に新公民館が他へ竣工したため 、後にお堂が建
        て替えられたようだ。

        
         県道25号線(宇部防府線)に合わす手前で右折する。

        
         日地から赤崎地区に入る。旧大海村は大河内、赤崎、日地など13の小名がある。 

        
         亀甲模様に旧秋穂町の町章が入った集落排水用のマンホール蓋。

        
         赤崎公民館前に鎮座する北向き地蔵尊は、昔から縁結びの地蔵尊として親しまれてきた。
        現在の結婚式はそのほとんどが自宅外で行われているが、1950(昭和25)年頃までは自
        宅で行われていた。
         花婿の傍に花嫁が座り、結婚の行事が進められ最高潮になった頃、地元の若者に抱えら
        れて参上し、新郎新婦の前に地蔵尊を座らせる。今日から花嫁はこの家で、お地蔵様のよ
        うにどかっと腰を据えられるようにとのことらしい。地蔵尊は一晩夫婦の元で一緒に過ご
        し、翌日、2人で地蔵尊を元の場所に戻すことになるが、この地蔵尊も結婚式の時期には
        活躍したものと思われる。

        
         そのためか右の地蔵尊の頭部はセメント、左の地蔵尊は左肩裏が欠損しているという。
        中央は三界萬霊塔である。

        
         赤崎神社は、奈良期の727(神亀4)年に豊前国宇佐嶋よりこの地に鎮座したと伝える。
        古来より牛馬安全・海上安全守護の神として崇敬され、阿知須の赤崎社、長門の赤崎社な
        どに分霊が祀られている。

        
         平安期の1185(元暦2)年3月20日、源義経が平家追討のためこの浦に着船し、赤崎
        神社に詣でて朝敵退治を祈願し、鎧を奉納したという。
         鎧は年代を経てほころびて原型をとどめないが、義経が出陣するにあたり、汐待ちをし
        た石と伝えられる平らな石が、本殿に向かって左手にある。

        
         神社の西側に2つの池があり、共に蓬莱竹が植えられた中島がある。中つ島に宗像大明
        神、遠(おき)つ島に厳島大明神を移したとされる。そのためか池に鳥居が立っている。

        
         赤崎神社裏から山手に向かうと大昌寺(曹洞宗)がある。鎌倉期の1244(寛元2)年に大
        内弘貞が創建したと伝える。もとは赤崎神社の別当坊で長徳寺と称していたが、1870
        (明治3)年秋穂町中野にあった定林寺を合併する。その寺跡に下関市壇ノ浦にあった長徳寺
        を引寺して長徳寺と称することにしたが、同じ寺号では困ることもあろうと大昌寺に改め
        たという。

        
         山門入口に「不許葷酒入山門」碑があるが、野菜(ニラ・ニンニク類)や酒を口にした者
        は、心を乱し修行の邪魔になるので、寺の中に入ることは許さないというものである。

        
         九層の屋根を持つ石塔は、自然石上の台石に「寛政八丙辰(1796)八月吉日 三田尻中濱
        ・村屋兵蔵・祖母」とある。 

        
         宝篋印塔の塔身部は三方がくり抜かれ、中に小さな首なし地蔵2体が座る。背面には「
        無盡(尽)法界 有縁無縁塔 文政五年壬午(1822) 五月吉日」とある。
         隣の地蔵尊は正面に「法界」、右側に「安永六丁酉(1777)正月吉日」とある。石段下に
        あるお堂は秋穂八十八ヶ所13番札所、上にあるのが14番札所で、六角堂の北側付近あ
        ったものを境内に移したとされる。

        
         赤崎神社に戻って参道を下ると、両脇には約60基の石段積み灯籠が並ぶ。

        
         参道入口には総高6m近くある灯籠がある。重厚な笠と中台には「海上安全」と刻まれ、
        竿の部分に「明治二年己巳(1869)八月」とある。


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