ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市三丘は毛利一門八家・宍戸氏の居館があった地 

2020年03月24日 | 山口県周南市

       
        
この地図は国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         三丘(みつお)は中央を島田川が南流し、この川の東側を県道光周東線、西側を山陽自動車
        道が走る地域に位置する

         1889(明治22)年町村制施行により、小松原村と安田村が合併して三丘村となった。
        古くから附近の通称名であったらしく、風土注進案に三丘の地名があり、宍戸氏の知行地
        だったという。(歩行約7.5㎞)

           
         新型コロナの拡大により公共交通機関利用も厳しさを増してきたが、都会と違ってバス
        乗客は数人といった状況である。JR島田駅前バス停から15分、周防和田バス停で下車
        する。

           
         交差点を直進して左手の農道を進むと、島田川に架かる歩道橋がある。

           
         さらに進むと、宍戸氏の郷校があった三丘徳修公園である。

           
         毛利氏は長年の宿敵であった宍戸氏との関係を修復し、娘を宍戸隆家に嫁がせて隆家の
        娘を輝元(元就の孫)の正室にしている。
         関ヶ原の戦い後、三丘は毛利元政(元就の七男)の知行地だったが、1625(寛永2)年の
        知行地替えにより、佐波の牟礼(現在の防府市)から宍戸広匡が入れ替わる。

           
         朱子学を官学とする幕府は、儒教の生みの親である孔子を祀る聖廟(現在の湯島聖堂)を
        造営し、学問も同地に移す。その影響で各地の藩校にも聖廟が建てられたが、萩藩は明倫
        館、宍戸氏の徳修館に聖廟が設けられた。

           
         1809(文化6)年第8代の宍戸就年が領民教育のため郷校・徳修館を設立する。現存の
        建物は孔子を祀る聖廟として建てられたもので、郷校をしのぶ唯一の遺構であり、聖廟を
        中心に講堂、道場、寄宿舎など約1.5haの広さを有していた。

           
         聖廟傍にある弁慶穴古墳は熊毛ICの近くにあったが、高速道建設に伴い移築復元され
        ている。 

           
         6世紀後半~7紀初期のもので、副葬品の中に県内では珍しい鉄器が出土しており、被
        葬者は島田川中流を治めていた小地域の支配者とその家族が考えられている。

           
         最後の領主であった宍戸親基は、幕末維新において多くの業績をあげる。1
24(大正
          13)
年に宍戸家の旧家臣によって建てられた碑である。

           
         天王山の西麓には、毛利家一門筆頭として13,000余石を領した宍戸家の居館・馬
        場・兵庫・糧庫など配されていた。現在も末裔の方(Y姓)がお住まいとのこと。

           
         石光川上流の石光橋を渡ると島田川に沿う。

           
         安田集落から広末集落までは民家が存在しない。

           
         広末集落に入る。

           
         鬼武常吉之碑とあるが、碑文は風化してすべてを読み取ることはできない。1926(大
          正15)
年3月15日の夜半に強盗が貞昌寺を襲い、鬼武氏が追補を試みたが強盗の銃弾に
        倒れたとある。

           
         田園地帯の道を辿ると貞昌(ていしょう)寺入口。

           
           
         貞昌寺は元々毛利元政が居館を構えた所であるが、この地は大内時代の三丘ヶ岳城の大
        手門跡で、石垣・石積みは「穴太積み」とされる。

           
           
         三丘宍戸家2代宍戸広匡夫人の法名に因み「久岳山貞昌寺」と号し、宍戸家の菩提寺と
        なる。

            
         境内からの広末集落と島田川。
 
            
         本堂に向かって左手に墓所への石段がある。

           
         宍戸家5代から10代までの墓碑。

           
         貞昌寺から高速道の函渠を潜り、2つ目の陸橋を渡る。

           
         下ってくると左右に分岐がある。左手の石標には「毛利元就公歯廟」と、左手は「宍戸
        家墓所」と案内されている。

           
         1603(慶長8)年毛利元政は肌身離さず持っていた毛利元就の歯をこの地に納めて33
        回忌、生母である乃美の方の3回忌に合わせて供養塔を建立して菩提を弔った。

           
         宍戸家墓所は西方100mほどの林内にある。

           
           
         仙竜寺墓所には初代~4代までが葬られている。

           
         宍戸家の少し下には宍戸家の家老であった末兼家の墓所がある。

           
         1609(慶長14)年萩で死去した毛利元政の供養墓で長男の元俱が建立する。右は16
        18(元和4)年三丘で客死した宍戸元続の夫人(夫人の娘が元俱の妻)の墓で、伝承では織田
        信長の娘といわれているが信憑性に乏しいとか。

           
         三丘は小松原村の広末筏場辺りにある小字名にすぎなかったが、1603(慶長8)年毛利
        元政が三丘に屋敷を構えたので、人々は三丘様と称えた。

           
         毛利元政の墓から民家横の畦道を通ると、案内板のある車道に出る。島田川の橋先から
        県道144号線(玖珂光線)を南下すると、県道上にバス停があるが夕方の2便のみである。

           
         松原八幡宮は、平安期の808(大同3)年宇佐八幡宮より勧請してこの地に祀る。後に鎌
        倉期の1195(建久6)年に俊乗坊重源上人、1621(元和7)年に毛利元俱が社殿を建立し
        たとされる。

           
         由緒書きによると、1869(明治2)年小松原八幡宮から松原八幡宮に改称したとある。
        拝殿に桶が吊るされているが、どんな意味があるのかは不明のままとなった。

           
      
   三丘も旧熊毛町で中央に町章、周囲に鶴が描かれているマンホール。

           
         兼清バス停は光市役所とJR徳山駅行きの2路線がある。15時25分の市役所行きに
        乗車してJR島田駅に戻る。(13時40分の徳山駅行きもあり)        
        


北広島町の豊平に吉川元春の隠居地と万徳院跡

2020年03月21日 | 広島県

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         豊平町の北東部、西は上石、志路原、南は下石に接し、志路原川沿いを国道433号線
        が走る。海応寺には江戸期まで吉川氏の直領で、吉川元春の墓や居館跡、松本屋敷跡など
        が残る。(歩行約1.5㎞) 

           
         JR可部駅から千代田ICを乗り継ぎ、海応寺バス停まで行くことは可能だが、帰路の
        バス便と合わず車での散歩となる。(館跡入口に海応寺バス停)

           
         吉川元春(1530-1586)は安芸国大朝の小倉山城に入った後、日野山城(日山城)を築き、1
        5
82(天正10)年に家督を嫡男・元長に譲って隠居する。吉川氏一族の所領地を譲り受け
        て隠居館を建設したが、存命中に完成することはなかった。

           
         志路原(しじはら)川の河岸段丘上に居館跡がある。(復元模型は戦国の庭歴史館にあり)

           
         石垣の北端には東西7m、高さ4mの石切場跡が残されており、所々に石切の工具痕
        (矢穴)が見られる。

           
         門の幅が8m、その北側に50m、南側20m、高さ3.5mの石垣が左右に延びる。

           
         正面石垣には間隔をあけて大きな石が据えられている。大きな立石の間に平らな石を横
        積みにする工法で、この地域にみられる独自なものとされている。

           
         石垣のある側が東で、北は切岸と土塁、南側は堀と土塁で区画されている。

           
         吉川元春の父は毛利元就、母は吉川国経の娘(妙玖)である。兄が隆元、弟が隆景で、安
        芸国の名門・吉川氏に養子として送り込まれ、家督を乗っ取る形で相続する。(熊谷信直
        に命じて吉川興経ら殺害。信直の娘が元春の正室)
         小早川家の養子となった弟の隆景と共に「毛利の両川」として、毛利家の勢力拡大に寄
        与する。

           
         表門の石段を上がると主殿舎跡。

           
         奥向きとされる「殿舎跡」には書院造りの礎石建物跡がある。その手前には長さ18m
        の築地塀跡と、門跡には幅2mの石段がある。

           
         元春と嫡男・元長の死後、家督を継いだ元春の三男・広家は、1591(天正19)年出雲
        国富田城に移ったため、居館はわずか8年で機能が失われる。(石垣の上より)

           
         井戸は川原石や割石を積み上げて作った円形の石組み井戸であるが、深さは2.
75m
        で井戸水が出る所までは掘り下げていないことから、雨水を溜める井戸と推定されるとの
        こと。

           
         庭園は南側の建物(会所)跡から鑑賞していたものと思われる。

           
         馬小屋跡、湯殿跡、便所跡の礎石、右手には台所の建物が復元されている。

           
         墓所手前の右手奥に、地名ともなっている海応寺跡があるが、ササ原で遺構等は残され
        ていない。

           
         元春居館の西側の奥(旧海応寺境内)には、向かって右に元春、左が元長の墓である。敷
        地は間口110m、奥行き80mの広さである。

           
         元春は隠居後の最晩年、1586(天正14)年秀吉の九州征伐の際に病をおして参加し、
        小倉に侵攻したときに57歳で病没する。遺骸をこの地に葬送して随浪院殿前駿州太守四
        品海翁正恵大居士と号する。

           
         元長(1548-1587)は、1587(天正15)年に宮崎県日向において40歳で病死する。元
        春同様にこの地に葬送される。

           
         館跡から吉川元春の妻が住んでいた松本屋敷跡の石組みが見られる。

           
         月山富田城に移った後は、元春の菩提寺として建てられた海応寺の寺領となるが、16
        00(慶長5)年関ヶ原の戦い後に吉川氏は岩国へ移封されて廃虚となる。(便所跡)

           
           
         西面に大溝が設けられ堀へ流れ出るようになっている。

           
         居舘跡から志路原川沿いに案内板が設置してある。(駐車場なし・片道約700m)

           
         1580(天正8)年吉川元春の妻(新庄局)が、日野山城から居館に移るまでに住んでいた
        松本屋敷跡。築城年代や築城者はわかっていない。

           
         間口約70m、奥行き40mの敷地の南面する石垣は、中央に約6mの門を挟んでいる。
        石段は取り除かれてコ字型となっている。

           
         現在は民有地で農地にされて遺構等はない。

           
         旧豊平町のマンホール蓋には、蕎麦の花と周りに町章が描かれている。

           
              
             吉川元春館跡から北東へ2㎞ほど登った丘陵地に万徳院がある。

           
         1575(天正3)年頃に吉川元長が、自らの菩提寺にするため建立した万徳院である。
        駐車場脇には往時の本堂(ガイダンスホール青松)が再現されている。
         当初は別邸とされていたが、弟・広家が吉川氏の菩提寺としてふさわしい寺院を求め、
        建物の増築など大改修を行った。

           
           
         長い参道が設けられている。

           
         長い参道を進むと寺院の石垣が見えてくる。石垣は吉川元春舘と同じく、一定の間隔で
        大きな石が用いられている。

           
         境内建物配置図。

           
         正面中央に表門、東に通用口があった。万徳院は日野山城と吉川元春館の中間地点に位
        
置する。

           
         本堂と庫裡の礎石群。

           
         室町時代の絵巻物や現存例などを参考に風呂屋(蒸し風呂)が復元されている。

           
         本堂裏手に小庭園。

           
         庭園跡は楕円形の池と中島から成り立ち、池の水は南端のみに溜まる仕組みとなってい
        る。

           
         元春の次男・元氏は養子に出ていたため、三男・広家が家督を継いだが、岩国に移封さ
        れると万徳院も岩国市横山に移転する。

           
           
         下ってくると右手に吉川広家の正室容光院墓所が案内されている。容光院は宇喜多秀家
        の姉であり、1588(天正16)年豊臣秀吉の斡旋で嫁いだとされる。

           
         約2年半後の1591(天正19)年に病死し、兄の菩提寺である万徳院に葬られた。後
        に毛利家は防長2州に移封され、万徳院も移転したが、容光院の墓は他の吉川家一族同様
        に移転されなかった。


安芸太田町の加計はたたら製鉄と物資集散の地 

2020年03月20日 | 広島県

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         加計(かけ)は太田川の上流域の山間部に位置し 、支流丁川(よろがわ)と滝山川が地内を流
        れる。昭和初期まで舟運で栄え、1970(昭和45)年代までは山県郡の中心地と賑わった
        町である。
         地名の由来は、川舟交通の要衝であったことから、舟を繋ぐということを「かける」に
        ちなむと思われる。(歩行約4.3㎞)

           
         太田川交流館でいただいた市街地マップ。

           
         加計中央バス停横には評判の「たい焼き・よしお」があり、多くの人が買い求めている。

           
         JR加計駅があった駅前広場の中央には、ホームの一部がモニュメントとして残されて
        いる。ホームは島式で4本の引き込み線などがあったが、廃線後は広い駐車場となった。

           
           
         1969(昭和44)年に加計ー三段峡が開業し可部線は全通したが、2003(平成15)年に
        12月1日利用客減少で可部ー三段峡間が廃止された。(あり日の駅舎と駅構内)

           
         加計小学校前には100mほどの線路と、車両1両分(キハ28)と小型の枕木交換機(K
        HR・106A)が庫に保存されている。キハ28保存会所有のようで、イベント時に動
        かしているそうだ。

           
         昔の学校校舎を思わせるような建物は検察の建物で、反対側には裁判所があったとされ
        る。現在はお年寄りや子供たち遊べる「遊ゆう加計」となっている。

           
         街道筋と思わせるような通りである。

           
         見上げれば街路灯にイラストが設置され、鉄作り、モリアオガエル、神楽の面、蛍、酒
        造りなどが描かれている。

           
         駅通りを横断して旧加計町役場を過ごすと、月ヶ瀬公園への案内がある。

           
         公園内より可部線鉄橋。

           
         鉄橋は歩くことができる。

           
         丁川(よろがわ)には太田川舟運の名残をとどめる船着き場跡がある。(加計ショピングセ
        ンター側より)

           
         加計佐々木家は町の中で威容を誇り、裏木戸には受け継がれている「加計八右衛門」の
        表札が掲げられている。

           
         国道433号線に合わす。

           
         永代橋の袂にあった加計旅館は廃業されているようだ。

           
         丁川には清流に生息するカワセミ、ヤマセミの野鳥が見られるとか。

           
         加計燃料前から丁川に沿う集落。

           
         今寿寺は丁川を背に狭い旧道に面して建っているが、ここに移ってきてまだ5
5年足ら
        ずの四間四面の小さなお寺である。
         もとは旧筒賀村野竹にあったそうだが、1963(昭和38)年の豪雪で村が消滅。やむを
        得ず現在地に移転したが、周囲の寺の反対を受け、四面楚歌の中で寺は再建される。その
        後は村八分的に取り扱われ、門徒は1軒もない寺となる。

           
         丁川に架かる鎧橋を渡って右岸を歩くことができるが、集落もないので引き返す。

           
         長尾神社の本殿は約280年前の江戸中期に再建され、熊野本宮大社と同じ春日造りで
        ある。拝殿の様式は厳島神社、吉備津神社などに見られる形式で、厳島神社との関係の深
        さを知ることができる。

           
         加計の隅屋佐々木家は、この地方の土豪であった。最盛期には、タタラ、鍛屋、酒造場
        などを手掛け、天保年間(1830-1844)には中国地方最大の鉄師となった。

           
         日新林業加計出張所は旧加計銀行、旧広島銀行加計支店だった建物で、1921(大正
          10)年に建てられた土蔵造の町家型式である。

           
         商家に挟まれた胡子神社。

           
         路地西隣にある絵画館。

           
         1954(昭和29)年可部線の終着駅として開業し、北端の拠点駅となったが廃線ととも
        に人の流れが変ったようだ。

           
         1887(明治20)年代から商店街として発展し始め、市が立つなど物資集散の拠点とし
        て賑わう。(花・お茶・仏具の芸北園さん)
 

           
         中心部は「本郷」と呼ばれ、江戸時代には太田川舟運で加計地方の産物が広島へと出荷
        される河港町であった。

           
         ツツジの上にモリアオガエル、外周に町章をデザインした旧加計町のマンホール蓋。

           
         常禅寺の鐘楼門は真宗に顕著な様式といわれ、18世紀中頃に建築された。境内には天
        保の大飢饉の犠牲者の墓や寺子屋跡など、寺が町に果たしてきた役割がよくわかるという。


           
         酒洞の館さんの壁には鏝絵のような樽酒のリレーフが3つ描かれている。

           
         加計街道や雲石往還と呼ばれる道も少し曲線を描いている。

           
         「きっちんたまがわ」より西筋。

           
         鍛冶工房金床(かなとこ)は、家庭で使う包丁や鎌などの農具や漁具などの刃物を手がける
        鍛冶屋さんで、「野鍛冶」を生業とされている。

           
         長尾神社から滝山川の中祖橋までの約700mが町筋。

           
         鍛冶屋館から街道筋と思われる道を上がって行くと、元学校だったような造りの「加計
        町青少年の家」がある。役目を終えたのか現在は民具資料収蔵庫となっている。
 

           
         少し戻って左手の急坂を上って行くと、加計の町並みが見えてくる。

           
         着天神社(天神社)の創建年代は不詳だが、由緒によると、当地開拓の事
業が成就したの
        で神の恵みに感謝していると、森畑の地にある老杉の枝に御幣が降りかかったという。そ
        の森を着の森と呼び祠を着森大神と称したが、後に現在地へ遷座させた際、現社名に改め
        たとある。

           
         峠を越えて下ると吉水(よしみず)園。

           
         江戸期の1781(天明元)年加計隅屋16代当主・佐々木八右衛門正任が、この辺りの景
        観と地形に着目して山荘として建設したものである。
 

           
         普段は非公開で春と秋の2週末に一般公開されるが、「江戸モミジ」と呼ばれる紅葉を
        楽しみことができる。(2017.11.23撮影) 

           
         百句苑(ひゃっくえん)は郷土の俳人・後燈明俊治(浪風)が、1986(昭和61)年に創設し
        た「俳句の庭」である。

           
         ここからも加計の町並みが眺望できる。

           
         源田実(1904-1989)は酒造・農業を営む源田春七の次男としてこの地に生まれる。海軍兵
                学校を卒業して大佐で終戦を迎えるが、自衛隊では初代航空幕僚長を務め、ブルーインパ
        ルスを創設する。参議院議員を4期務め、晩年は厚木市の自宅で過ごすも体調を崩し、海
        軍航空隊の司令として松山に着任した思い出の地で逝去する。

           
         木炭自動車の館(本日休館)を過ごすと国道(街道)に出る。15時57分のバス
に乗車し
        て、17時45分過ぎに広島バスセンターに戻る。


安芸太田町の戸河内は三段峡と可部線終着地だった地

2020年03月20日 | 広島県

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千部分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         旧戸河内町周辺は恐羅漢山、深入山など1,000m級の山々が連なり山岳地帯を形成し
        ている。町市街地は太田川と柴木川が合流した河川沿いに開けた山間の地にある。古くか
        ら益田など山陰側と広島方面を結ぶ街道にあって、町場の中心は「本郷」と呼ばれていた。
        (歩行約4㎞)


        
         JR可部線は廃止されたが、戸河内までは広島バスセンターから高速バス(8:18~9:27)
        が利用できる。

        
         中心街の玄関口だったJR戸河内駅。2003(平成15)年12月1日に可部ー三段峡駅
        間が廃止され、駅舎や線路は撤去されたが、駅名標がモニュメントとして残されている。

        
         あり日の戸河内駅。

        
         国道に沿って三段峡方向へ向かう。

        
         バイパス西口交差点から柴木川と太田川の橋を渡る。

        
         街並みは地形に沿って蛇行している。

        
         道筋に商店街が連なっていたとのこと。

        
         総二階の商家は無住で崩落の途にある。

        
         浄土真宗の常慶寺先からは直線的な町並み。

        
         1889(明治22)年の町村制施行の際、戸河内村・上殿村はそれぞれ一村として存続し、
        1933(昭和8)年に戸河内村は町に移行する。のちに上殿村と合併し、2004(平成16)
        年10月戸河内町、加計町、筒賀村が合併して安芸太田町が成立する。 

        
         三段峡の三段滝、アマゴ、紫陽花と紅葉がデザインされた旧戸河内町のマンホール蓋。

        
         街灯の看板には上田美容院とあるが、既に廃業されて空家とのこと。

        
         山間の町筋も時代と共に変化を見せるが、路地を流れる水音だけは昔と変わらないよう
        だ。

        
         趣のある町家は平入りの総二階。

        

         左手の路地奥にある氏神の大歳神社は、鎌倉期の1293(永仁元)年に創建されたという。

        
         広島銀行戸河内支店の建物が現存していたが解体されたようだ。(以前、訪れた際に撮
        影) 

        
         この付近から道は蛇行する。

        
         田吹川に架かる本郷橋先からは下本郷。

        
         太田川流域は「安芸門徒」一色といってもよいほど浄土真宗の地域だそうで、その一寺
        でもある眞教寺。

        
         雲石路(赤名越)の北側に国道が開通したことで、通りの状況が一変したとのこと。

        
         建物は大正・昭和初期ものが大半を占める。

        
         建物は大正・昭和初期ものが大半を占める。

        
         街道筋は国道と交差する。

        
         戸河内橋からの下本郷を見返る。

        
         戸河内橋に並行して可部線の鉄橋が残る。

        
         土居の町は新しい家屋が大半を占める。

        
         国道191号線の高架上にあった土居駅。線路は撤去されているが廃線当時の姿をとど
        めている。

        
         現在はホームに立ち入ることはできないが、あり日の駅ホーム。

        
         国道筋に見るべきものはない。

        
         バス停から加計に移動する。


萩の堀内には萩城址と武家屋敷群 

2020年03月12日 | 山口県萩市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         堀内は萩市街地の西部に位置し、北は日本海に面し、東から南にかけては外堀を境に他
        地区と接する。
         現在は大半が住宅地で、道路に接して土塀・石垣・長屋門などが残る。萩城址は国史跡、
        残りの領域は重要伝統的建造物保存地区に指定されている。(歩行約6㎞)

           
         江戸期後期の堀内地図。

           
         萩駅(10:02)より萩循環まあーるバス(西廻り)を利用して、博物館バス停で下車するが、
        博物館は新型コロナウイルスの関係で休館中だった。

           
         南大馬場筋を新堀川方向へ向かうと右手に春日神社がある。江向にあった神社を毛利輝
        元が防長二州の祈願所と定め、1608(慶長13)年現在地に社殿を建立する。
         1773(安永2)年正月3日の大火により焼失するが、翌年に再建されたものが現在の社
        殿である。

           
         神社前を直進すると三年坂筋に合わす。

           
         寄組士の児玉家は三年坂筋にあって、平安古総門に近接した場所にある。長屋の南端に
        門を開いた入母屋造りで、外廻りには出格子窓が設けられて腰はなまこ壁である。

           
         追廻し筋の角に古い建物。

           
         萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける3門のうち、ここに平安古(ひやこ)総門があった。門
        には番所(見張小屋)が置かれ、人や荷物の出入りを監視し、暮れの六ツ時(日の入り)から
        明けの六ツ時(日の出)まで門は閉じられ、通行手形を持つものだけが通行を許された。

           
         外堀に架けられた平安橋は、1652(慶安5)年の絵図には木橋が描かれているが、明
        和年間(1764-71)頃に石橋とされたようだ。

           
         三年坂筋に戻って蔵田町へ入る。

          
         梨羽家は大組の藩士で、敷地面積から他の建物があったと思われるが、現在はこの書院
        しか残っていない。一部を欠いているが19世紀初頭の建物である。

           
         旧祖式(そしき)家の長屋は蔵田町と横丁の角にあり、長さ10m、奥行き5mの平屋建て
        である。屋根は西側が入母屋、東側は切妻造りと形状が異なるが、建てられた当時は、今
        より東側が長かったとされる。

           
         旧祖式家の先を左折。

           
         追廻し筋に出ると、1719(享保4)年堀内に開かれた旧明倫館址がある。1849(嘉永
          2)
年城下の江向へ拡張移転されるまでの130年間、藩政を担う藩士育成のための教育が
        行われた。

           
         追廻し筋を西へ向かう。

           

           
         追廻し筋の鍵曲(かいまがり)は、通りを高い塀で囲み鉤の手にしたもので、戦いの際に遠
        見遮断という防御の役割を担う。


           
         寄組士・口羽家の長屋門は入母屋造りの本瓦葺きで、1675(延宝3)年江戸藩邸の門を
        拝領して萩に移築したものと伝えられるが、建築手法から18世紀後半のものと思われる
        とか。

           
         主家は表門と同じく東向きであったが、1846(弘化3)年南向きに変更されたと伝える。

           
         上級武士の表門と主屋がセットで残っている数少ない武家屋敷である。

           
         萩の代表的な風景である「土塀と夏みかん」があちらこちらで見られる。

           
         大組士の旧二宮家の長屋門は、入母屋造りで潜門の西側に4畳2間の門番所が置かれ、
        出格子窓を設けている。(藩政初期には築城の請負奉行を務めた)

           
         大組士の馬來(まき)家(361石)は尼子十旗の一人であったが、1589(天正17)年毛
        利氏へ帰服した。
         1876(明治9)年前原一誠らが萩で起こした明治政府に対する士族の反乱(萩の乱)に、
        23歳だった馬來杢(もく)が二番隊長として参戦するが捕縛される。その後、放されて48
        歳の生涯をここで閉じる。通りに沿って南側から笠山石の基礎を持つ土塀、正面に出格子
        を持つ長屋
ある。

           
         広小路の馬來家から花ノ江筋に入る。

           
         1798(寛政10)年に落成した江風山月書楼(こうふうざんげっしょろう)は、萩藩主の別邸
        の一つで、川手御殿や花江別邸とも呼ばれた。明治期に民有地となったが、花江茶邸は品
        川弥二郎らによって買い戻されて指月公園に移された。

           
         清水親知(ちかとも・1843-1864
)は、1582(天正10)年羽柴秀吉の水攻めにより和議を
        条件に切腹した備中高松城主・清水宗治の末裔である。代々、毛利家に仕えた重臣で、幕
        末には親知が22歳で家老となるが、禁門の変が失敗に終わると更迭される。高杉晋作が
        挙兵すると報復処刑として恭順派(藩命)により自刃する。「戦国の宗治」「幕末の親知」
        と、二度にわたって主家を救ったことになる。(旧宅跡)

           
         萩キリシタン殉教者記念公園内に熊谷元直の石碑がある。萩城築造に際して五郎太石(
        石垣の間に詰める石)が盗まれるという紛争が、益田元祥と熊谷元直・天野元信の間で始ま
        り、工事が2ヶ月も遅延する。
         毛利輝元は熊谷・天野に非がありと一族を抹殺するが、二人がキリシタン信徒であった
        ため、この事件を口実に抹殺したともいわれている。

           
         明治政府はキリスト教弾圧政策をとり、長崎浦上村の全信徒3,800人を全国各地に
        流刑した。(浦上崩れ)
         このうち300人が萩に流され、苛酷な拷問と飢えのため40名が殉教を遂げ、うち2
        0名がこの地に埋葬された。

           
         フランス人宣教師・ビリヨン神父は、1868(明治元)年に来日したが、明治政府のキリ
        スト教弾圧政策のため、大浦天主堂に監禁され、信徒の迫害や弾圧で信者が萩や津和野な
        どへ流刑されて行くのを見送る。
                1873(明治6)年キリスト教禁止令が解禁されると京都・奈良・神戸などで布教活動を
        行ない、1889(明治22)年山口教会に転任する。布教の傍ら殉教者の顕彰を行うため、
        津和野では殉教者の墓「至福の碑」を建て、1891(明治24)年には萩の岩国藩屋敷の裏
        手にあたるこの地を買い求め、忍耐と信仰の記憶を伝えるため殉教碑を建立する。

           
         路地を抜けると厚狭毛利家長屋門。

           
         厚狭毛利家の主屋は明治以降に解体され、1856(安政3)年に建てられた萩屋敷の長屋
        のみが残されている。

           
         1604(慶長9)年毛利輝元が築城した萩城は、1874(明治7)年に建物が解体されて、
        現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめる。

           
         天守閣跡には5層の白亜の天守閣があり、最上階は高欄をめぐらした桃山期形式であっ
        たとされる。

           
         本丸より内堀、本丸門方向。

           
         花江茶亭(はなえちゃてい)は藩主の別邸に建てられたもので、1887(明治20)年頃に現
        在地へ移築される。木造入母屋造の茶室は、本床と脇床が付いた4畳半の茶室と3畳の水
        屋から成る。

           
         同場所に梨羽家の別邸茶室も移築されているが、江戸中期の花月楼形式の建物とされる。

           
         志都岐山(しづきやま)神社は、1878(明治11)年本丸付近に山口の豊栄・野田神社の遥
        拝所として建立したのが始まりとされる。手前の万歳(ばんせい)橋は、1849(嘉永2)年藩
        校の明倫館にあったものが移設されている。

           
         家老・福原家の萩屋敷内にあった書院。建築年代は江戸中期の天明年間(1781-1788)頃と
        推定され、後にこの地へ移築された。(現社務所) 

           
         城は日本海と内堀に囲まれた中にあるが、海側の防備は丸裸同然であったようだ。

           
         菊ヶ浜海岸に面する二の丸石垣と鉄砲狭間の土塀。

           
         城郭の構造は指月山麓の平地部分と、山頂の詰丸を合わせた平山城である。

           
         二の丸東門跡から指月川(疎水)に架かる指月小橋で城外。

           
         御成道は天樹院前で右折して本町筋に入る。

           
         毛利輝元(1553-1625)は父・隆元が急死したため、11歳に家督を継ぐが、関ケ原合戦で
        敗れたため家督を秀就に譲る。この四本松邸で隠居生活を送ったとされるが、これ以後も
        実質的な当主として君臨したとされる。

           
         門を潜ると火葬場跡。

           
         墓所は五輪塔形で輝元のものは高さ2.1m、夫人のものは1.8mもあり、隠居所は彼
        の死後に天樹院(法号)として菩提寺になった。1869(明治2)年に廃寺となり墓所のみが
        残り、墓傍には殉死した長井元房の墓もある。

           
         後町筋を直進すると、左手に毛利元徳が鎌倉材木座に建てた別邸の表門がある。192
        1(大正10)年別邸と共に萩市東田町に移築されたが、1974(昭和49)年に門のみが現在
        地へ移された。

           
         永代家老であった福原家の表門であるが、上級武家屋敷の表門には番所のある長屋門が
        多いが、門番所のないこの形式は珍しいとされる。

           
         県立萩高校の正門の通りが本町筋で、藩主が参勤交代で使用した御成道であった。今よ
        りも2倍程度の広さがあり、明治期になって道の半分が夏みかん畑などになったそうだ。

           
         永代家老である益田家の分家筋にあたる間田益田家の土塀。給領地を山口市の間田にも
        っていたことから間田益田家と呼ばれた。横町筋に面して延長230mの土塀は、高さ1
        mの石垣の上に漆喰壁と本瓦を置いている。

           
         幕末期に家老を務めた国司親相屋敷跡。禁門の変後に福原・益田氏とともに責任を負っ
        て切腹した三家老の一人である。(碑は萩西中学校北西隅にある)

           
         萩学校教員室は、1887(明治20)年今の明倫小学校内に建てられ、1934(昭和9)
        市役所敷地内に移転されて市役所の一部に転用された。その後、萩高校同窓会が市から譲
        り受け、現在地に移転させたものである。

           
         木造2階建ての建物は、正面から見た外観は左右対称で、出入り口の装飾を含めて札幌
        農学校を思い出させるようなアメリカ開拓建築である。

           
         間田益田家の土塀(横町筋)を過ごすと浜ノ丁筋に出る。

           
         萩藩大組士筆頭だった周布家の長屋門は、道路に沿ったL字型で、太い格子出窓や軒の
        出桁造りなど江戸中期の代表的な武家屋敷である。

           
         阿川毛利家の分家で寄組士に属していた繁沢家の長屋門は、桁行35.5mで中
央から左
        寄りに門を開いている。

           
         
夏みかんと土塀がデザインされたマンホール蓋。

           
           
         永代家老益田家の物見矢倉は、髙さ1.8mの石塁の上に建ち、北の総門近くにあって
        物見を兼ねていた。関ケ原の戦い後、徳川からの誘いを断り報恩のある毛利家について萩
        へ移住する。感激した輝元は益田家を一門とし、永代家老をもって処遇した。

           
         城内・三之丸に入るために設けられた3つの総門のうちの北の総門。2004(平成16)
        年に萩開府400年を記念して復元された。(右手の屋根は益田家
物見矢倉)

           
         萩まあーるバスでJR萩駅へ戻る。
                   


萩市平安古は土塀や石組み塀、鍵曲りが残る町

2020年03月12日 | 山口県萩市

        
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         平安古(ひやこ)は萩城下の西部に位置し、北は萩城、外堀を隔てて三の丸に対面する。昔、
        平
安寺という寺があり、その門前で商売を営む者が住んでいたが、門外に新たな本町がで
        きたので、商人は他所へ店を移した。そこで平安寺の古い門前町とい
う意味で平安古と名
        付けられたという。(歩行約5.5㎞)

        
         江戸後期の平安古古地図。

        
         1925(大正14)年開業のJR萩駅は、中心部には東萩駅の方が近く利用者の少ない駅
        である。半円形のドーマー窓を有する白壁に、柱や梁が露
出するハーフティンバ
ー構造の
        駅舎は、開業当時の姿をとどめている。

        
         団体用木製改札ラッチが駅の歴史を伝える。

        
         橋本橋から見る平安古方面に指月山。

        
         江向八丁筋にある渡辺蒿蔵(ごうぞう)旧宅は、江戸期の長屋門と明治中期に建てられた主
        屋などがある。


        
         蒿蔵(1843-1939)は萩藩士の家に生まれ、一時天野家の養子(天野清三郎)となるが、明治
        維新後に
復籍する。松下村塾で学び奇兵隊にも参加し、藩命によりイギリス、フランス
        造船技術を学ぶ。帰国後は工部省に入り、長崎造船所初代局長に就任し、日本の造船事業
        の近代化に貢献する。

        
         1766(明和3)年橋本川を望む地に藩主別邸(河添屋敷)が建てられ、1768(明和5)
        に南園御茶屋と改称される。幕末には医学教育の好生館や洋学の振興を図る博習堂、製薬
        所、ガラス製造所が設けられ、萩藩の科学史上、重要な役割を果たす。
         1912(明治45)年この地に女学校が設立されたが、1958(昭和33)年に南園館の建
        物は解体された。

        
         藩の要職を務めていた前田孫右衛門(1818-1865)は、1864(元治元)年の禁門の変後、
        第一次幕長戦争を前にして藩政府の実権を恭順派が握ったため、失脚させられて野山獄で
        刑死する。(旧宅跡)

        
         幕末の兵学者であった山田亦介(1809-1865)は、1845(弘化2)年には吉田松陰に教授
        する。海防や兵制改革に尽力したが、禁門の変後に前田孫右衛門同様に野山獄で刑死する。
        (旧宅跡)

        
         曽根荒助(1849-1910)は萩藩家老の宍戸家の3男として生まれ、萩藩士・曽根家の養子と
        なる。戊辰戦争にも従軍し、フランスに留学して政治の道に入る。1909(明治42)年韓
        国統監に就任するが、翌年に病気のため職を辞す。(旧宅跡)

        
         この付近は石組みの塀が多い。

        
         久坂玄瑞(1840-1864)は藩医の子として平安古町八軒長屋に生まれた。15歳の時、父や
        兄を失い藩医久坂家の当主となり、名を秀三郎から玄瑞と改める。のちに吉田松陰は妹・
        文(ふみ)を玄瑞に嫁がせたが、安政の大獄で処刑される。
         玄瑞は松陰の意志を引き継ぎ、1864(元治元)年7月朝廷から追放された長州藩は、地
        位回復のため「禁門の変」を起こすが幕府軍に敗北する。玄瑞は寺嶋忠三郎とともに鷹司
        邸に侵入するが、会津藩に包囲されて邸内で自決する。(玄瑞生誕地)

        
         宍戸左馬之介(1804-1864)は林家の子として川上村に生まれ、毛利一門である宍戸家を継
        ぐ。大坂藩邸の留守居役などを務めたが勤皇思想に感化され、1864(元治元)年の禁門の
        長州藩の地位回復はできず、帰国後は四参謀の一人であったため恭順派によって野山獄で
        斬首される。(旧宅跡)

        
         1863(文久3)年藩庁が山口移転し、明治になると武家屋敷の建物は解体され、屋敷地
        を囲った土塀のみが残された。

        
         旧田中別館の真向いに滝口家別邸。

        
         重臣の多くは堀内に居住していたが、平安古、土原、江向が開墾されるに並行して多く
        の武士が屋敷地を構える。この敷地は毛利筑前(右田毛利氏)の下屋敷にあたるとされる。

        
         主要な建物の骨格は明治期に小幡高政が完成させたが、大正期に田中義一の所有となる。
        (2階の間)

        
         敷地内の建物は主屋、土蔵、表門、神祠等であり、主屋は平屋部、茶室部、五松(ごしょ
         う)
閣で構成されている。現状の建物の形となったのは、1927(昭和2)年に五松閣が建
        てられた後のことである。

        
         小幡高政(1817-1906)は祖式家の子として吉敷郡恒富村に生まれ、小幡家の養子となり、
        萩藩の役職を歴任する。明治維新後は新政府に出仕し、県参事や県権令などを務めたが、
        1876(明治9)年母の看病のため官を辞して萩に戻る。
         萩に戻ると生活に困窮する士族をみかねて、武家屋敷の土地を活用して夏ミカン栽培を
        推奨し、1897(明治30)年代末頃には年間平均生産量が約8,550㌧と推定される。
        これを出荷価格に換算すると約20万円となるが、1907(明治40)年の萩町の予算は2
        万4,686円だったといわれている。
 

        
         平安古の鍵曲(かいまがり)

        
        
         城下町の進入した敵を迷わせ、追い詰めるための工夫がしてある城下町特有のもので、
        左右は高い土塀で囲まれている。

        
         坪井九右衛門旧宅は寄棟造りの堂々たる長屋門と入母屋造りの主屋である。九右衛門(1
        800-1863)は田布施の佐藤家(岸信介・佐藤栄作の実家)に生まれ、幼少時に坪井家の養子と
        なる。
         村田清風と共に藩政改革に加わるが、清風が行なった2回目の改革は、政敵の椋梨藤太
        の台頭で失敗し、1855(安政2)年清風が他界すると、坪井も椋梨により失脚させられる。
         のちに椋梨の失脚により再び藩政に返り咲いたが、坪井は攘夷派よりも恭順派を支持した
        ため、1863(文久3)年攘夷派によって
野山獄で処刑される。

        
         児玉家は藩の寄組で、当時は現在の平安古鍵曲の方を正面とする屋敷地を構えていた。
        建物等は残されていないが、奥の片隅には橋本川から水を引き入れる入路と、笠山石の護
        岸と舟着場、池に架かる石橋もある舟入式池泉庭園が残る。

        
         田中別邸からこの付近までが伝建地区。

        
         平安古町西区付近。

        
         吉敷毛利家の一門である毛利登人(のぼる)の生誕地。1864(元治元)年8月藩重役として
        馬関攘夷戦では毛利出雲と称して高杉晋作の副使になる。第一次長州征討を前にして実権
        を握った恭順派により野山獄に投じられ、高杉晋作の挙兵の報復として処刑される。(享年
        44歳)

        
         土塀の屋根に実る夏みかんがデザインされたマンホール蓋。

        
         堀内と平安古に架かる平安橋。

        
         村田清風(1783-1855)は長州藩の財政改革に着手し、その流れは周布政之助、そして松下
        村塾の門下生へとつながるなど、明治維新の基礎づくりを成し遂げた人物である。建物は
        老朽化により解体されたが、寄棟造りの屋根をもつ長屋門と敷地300坪が残っている。

        
         久坂玄瑞の兄で、藩医だった久坂玄機生誕地の碑が建っている。(アパートの一角)

        
         渡辺内蔵太(1836-1865)は甲子殉難11烈士の一人で、高杉晋作らと品川御殿山の新築中
        であった英国公使館を焼き討ちした。第一次長州征討を前にして恭順派により野山獄で処
        刑される。(旧宅跡)

        
         佐久間佐兵衛は吉田松陰の兵学門下生で明倫館の助教になる。禁門の変では参謀として
                家老・福原越後に従い、傷ついた越後に代わり指揮するが敗れて
帰国する。しかし、恭順
        派により野山獄で斬首される。(享年32歳)

        
         新堀川に流れ出る堀川の石橋。

        
        萩城下町入口バス停より萩まあーるバスでJR萩駅に戻る。


阿武町の宇田郷は旧街道沿いにある漁村集落

2020年03月11日 | 山口県阿武町

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         宇田郷は西に日本海の海岸部を除いて三方を山に囲まれ、石州街道(仏坂道筋)の沿道に
        あって米の津出場であった。(歩行約4㎞)

        
         JR
宇田郷駅は山と日本海に挟まれるように相対式ホームがあるが、現在は海側のホー
        ムだけが使用されている。かっては駅舎があったが解体され、跡地に小さな待合室設置さ
        れている。宇田と惣郷集落の中間地点に設けられたようで、周囲には民家などは存在しな
        い。

        
         駅前を萩方向へ進み、宇田トンネル手前で道は右に分ける。

        
         トンネルを潜れば宇田浦の元浦。

        
         鳥居と社が不一致な若宮社は、その昔、金子家所有の遠能山に祠を建て、7軒で祭事を
        行ってきたが、幾度の災害と高齢化により下山を余儀なくされたとある。(説明板より)

        
         石州街道(仏坂道)に合わすと、街道はU邸前で山手方向へ向かっている。

        
         分岐の海側に綿屋酒店と浜への路地。

        
         石州街道(仏坂道)を国道と山陰本線が横断する。

        
         街道だった面影はない。

        
         仏坂道は正面の家手前を左折して山中に入る。

        
         1615(元和元)年に建てられた宇田八幡宮の神楽殿は、1690(元禄3)年再建築されて
        いる。

        
         もとは石田八幡宮と呼ばれ、鎌倉期の1185(文治元)年豊前国宇佐八幡宮より勧請さ
        れたと伝えられる。

        
         1847(弘化4)年と刻まれた石灯籠と神楽殿。

        
         地元の人から仏坂道は消滅しているとお聞きする。

          
         民家前から見る宇田郷の町並み。(元浦へ引き返す)

        
         街道筋からの船挽場浜通用道。

        
         元浦の町並み。

        
         宇田川の先は今浦の町並み。

        
         江戸中期と現在では、海岸線の変化や漁家の撤去による川幅の拡張など異なる点はある
        ものの、漁家の地割、浜や新町への小路など漁村の空間がそのまま残されている。

        
         新しい住宅が主流を占める。

        
         中谷旅館の一角にあった門。(2015年撮影)

        
         金子家は庄屋・年寄、藩主御国廻りの本陣を務め、家業としては酒造業、網元や年貢米
        の運送業などを営んだ。

        
         主家は平入り・切妻造の中2階で、2階は漆喰壁に虫籠窓を設けている。

        
         西村商店は空家のようだ。

        
          金子家前の石橋までが今浦。

        
         街道から離れて海側に出ると一角に舟溜まりがある。(正面の建物は漁協)

        
      
        
         三差路を左折して海辺に出る。

        
         北浦海岸の春の風物詩「ワカメ干し」

        
         御国行程記によれば、川幅は現行の1/3程度で、板橋7間(約12.7m)とある。

        
         河口の先に姫島(左)と宇田島が浮かぶ。

        
         元浦の海岸線。

        
         島だったと思われる場所に鎮座する三穂神社。

        
         三穂神社は島根県美保関神社を勧請したとされるが、創建年代は不明とのこと。

        
         宇田浦の町並みを見てJR宇田郷駅に戻る。


阿武町奈古は街道町と漁師町が一体となった町

2020年03月09日 | 山口県阿武町

        
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
      
   奈古(なご)は西に日本海と面し、郷川の河口付近に町が形成されている。江戸期は徳山藩
        領の飛地で萩から益田に至る石州街道(仏坂道)が通り、今も街道に沿って町並みが残され
        ている。(歩行約5㎞)

        
         JR美祢線からJR東萩駅、ここで奈古駅行きバスに乗車して道の駅阿武町で下車する。

        
         郷川に架かる鹿島大橋より河口付近。

        
         右手の男鹿島に鹿嶋神社があり、海上安泰の守護神として漁業者の信仰が厚いとされる。

        
         奈古湾に浮かぶ男鹿(おが)島・女鹿(めが)島の見える場所に鹿嶋(仮嶋)神社遥拝所がある。

        
         奈古港の周辺は北長門海岸の典型的な沈水地形をなしている。港は北前船の寄港地、萩
        への海上輸送として早くから繁栄した。

        
         奈古漁港では「わかめ干し」の最盛期。

        
         石州街道は道の駅阿武町で寸断されているが、藩政期には川がなかったようで、現在は
        歩道橋が架けられている。国道191号線ができるまで橋幅は広くバスが運行されていた
        という。(当時の橋桁が残る)

        
         現在の郷川を渡り釜屋に入ると正面に中村家がある。庄屋の補佐役である畔頭(くろがしら)
        を務めた家で、永代家老の益田親施(ちかのぶ)が萩と須佐を往復する際に、休息する陣屋に
        当てられたと伝える。家伝によると、建物は初代が元禄年間(1688-1704)に建てたという。

        
         約150mの釜屋の両側には明治、大正期の建物が並ぶ。

        
         K家は屋号を「折廻し」といい、主に塩を扱うと共に船持ちで曳網の株を有していた。
        主屋は平入り切妻造である。

        
         道を挟んで左が釜屋北、右手の郷川側が釜屋南である。

        
         釜屋の先で左折する。

        
         現在は釜屋の南側に郷川が流れるが、もとはこの小さな水路が旧河川で流路変更がなさ
        れた。長さ12間(約12.8m)の浦方橋があったとされ、浦と釜屋の境界でもあった。

        
         1906(明治39)年創業の河野酒造は、「春洋正宗」という銘柄で酒造されていた。

        
         河野酒造の酒蔵が道に面する。

        

         水津家の先が奈古浦の中央付近で、鉤の手だったと思われる。

        
         奈古薬局は阿武町暮らし支援センター「shi Bano」になっているが、本日はお休みだっ
        た。

        
         折れ曲がる場所にある家は隅切りされている。 

        
         建物が密集していたので度々大火が発生し、1690(元禄3)年120戸、1703(同
         16)年130戸、1756(宝暦6)年には約200戸を焼失している。(八祥園・八道家)

        
         三好家は、三代目が「阿武の鶴」の銘柄で酒造業を始める。主屋は平入り切妻造の中2
        階建てで、2階は漆喰塗の壁に虫籠窓を等間隔に並べる。

        
         たなか理容付近の町並み。

        
         石州街道の三ツ辻を直進すると了雲寺。

        
         1652(承応元)年創建の了雲寺(浄土真宗)は、1900(明治33)年築とされる本堂であ
        る。

        
         向拝の彫刻は見応えがある。

        
         了雲寺と法積寺の間に本陣(御茶屋・勘場)があったとされるが、遺構等は残っていない。

        
         街道まで戻って奈古市に入り見返ると、正面には明治期に建てられた八代本店がある。
        現在はお食事処「かどのやしろ」で平日営業のみだが、安価で美味しい食事を提供してく
        れる。

        
         明治期に建てられた平入で切妻屋根の末益家。

        
         奈古市の法積寺入口に立つ土田家の門名は「古庄屋」という。詳細は不明だが門名や立
        地などから奈古市の重要な家であったと思われる。主屋・門・蔵は築100年以上経過す
        るとされる。

        
         末益家と土田家の間は法積寺の参道だが、ここに恵比寿社があったとされるが痕跡はな
        い。

        
         平安期の1175(安元元)年に創建された功徳院は、1559(永禄2)年に焼失したが、
        翌年には現在地へ移転再建される。その際に寺号を法積寺(浄土宗)に改めたと伝える。

        
         現本堂は182(文政7)年築とされ、長門市青海島の西圓寺と同朋寺であり、入口が正
        面でなく左右別々にある点も西圓寺を模したものである。左側が女子参拝口、右が男子参
        拝口の様式となっている。(西圓寺と同様に蓮寺)

        
         奈古市は農家が増加したようで、建物としては、奈古浦より規模が小さく年代的にも新
        しいものが多い。(向い合う岡本家(右)と中野家)

        
         中野家は門名を「紺屋」といい、農業のかたわら紺屋を営む。1887(明治20)年築の
        平家建て建物は、漆喰塗り込みで格子を設けている。

        
         菅原神社鳥居の傍にある猿田彦は町内最大で、1842(天保13)年に建立され、台座に
        は庄屋などの寄進者名が刻まれている。

        
         菅原神社は、1734(享保19)年徳山藩5代藩主・毛利広豊によって再建される。

        
         化粧地蔵とされた理由ははっきりしないが、化粧地蔵がある土地には1つの共通点があ
        るという。多くの幼い子どもたちが災害や戦いで犠牲になり、「子どもの守り仏である地
        蔵に化粧して、子どもたちの幸せを必死に祈る人々の、強い思いのあらわれである」とも
        いわれている。

        
         現寺号以前は光応寺とよばれていたが、1610(慶長15)年尼子義久死後に義久の法号
        に因み大覚寺と改称する。

        
         曹洞宗の本堂にしては質素である。僧・永満が平安期の1042(長久3)年に開基したと
        いわれている。

        
         灌漑用水地にある宝篋院陀羅尼塔(ほうきょういんだらにとう)は、仏舎利および宝篋陀羅尼
        経を納める塔で、1824(文政7)年に建立された。

        
         境内地には尼子義久の墓がある。1566(永禄9)年毛利氏の軍門に降り、富田城を開城
        して義久、倫久、秀久3兄弟は安芸長田の円明寺に幽閉される。
         のちに、内藤元泰の働きかけもあって、島根県金城町久佐に1,129石を所領する。

        
         義久には子がなく倫久の子を後継とし、久佐を出て嘉年の五穀禅寺で剃髪して、叔父の
        住む奈古の光応寺の隣地に庵居する。

        
         同寺には明治期の徳山藩士(奈古出身)で、1869(明治2)年英国に約半年間滞在した池
        田梁蔵の墓がある。帰国後に萩・大井の洋式架橋を設計するも、1870(明治3)年11
        英国で学んだ工業技術の知見を生かすことなく病没する。(享年38歳)

        
         JR奈古駅14時22分の長門市駅行きに乗車する。


萩市須佐は萩藩永代家老「益田家」と歩んだ地

2020年03月07日 | 山口県萩市

          
           この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         須佐の北西には日本海に突出した半島に高山がそびえ、西南に須佐湾、南部は山間部で中
        央を須佐川が北流して須佐湾に注いでいる。
町の南側を萩から旧街道の仏坂道が通り、近世
        を通して須佐は益田家が領有した。
         地名の由来については諸説あるようだが、風土注進案は「ここに神山といふ山あり、是誠
        に近国比類なき名山して須佐之男命の神山といふ事なるべし」とある。須佐之男命に關係す
        ことから地名になったというが、現在の山名は高山で「こうやま」と読む。(歩行
約5.5㎞) 

          
           JR須佐駅は、1928(昭和3)年山陰本線が飯浦駅から延伸して開業する。木造平屋建
        ての駅舎があったが、2002(平成14)年放火で焼失するが、その後、現在の駅舎が完成
        する。(駅構内の駐車場を利用)

        
         「時刻表の父」と知られる須佐出身の手塚猛昌(たけまさ・1853-1932)は、下級武士の家
        に生まれ、益田家のの郷校・育英館で学び33歳慶應
義塾に入学する。1894(明治27)
        年10月日本初の月刊時刻表「汽車汽船旅行案内」を発行する。

              
         駅前交差点から市道に入り須佐川へ向かう。

          
           須佐のホルンフェルスがデザインされたマンホール蓋。

          
           漁業・廻船機能の拠点である須佐浦は、新しい家が主流を占める。

        
         美志満屋さんから路地に入る。

        
         路地の先に法隆寺。

        
         1592(文禄5)年開基の法隆寺(浄土真宗)は、1872(明治5)年現在地に移る。

          
           山門を潜ると正面に鐘楼。
      
          
           法隆寺から見る須佐の街並み。 

          
           斉藤幾太(久原房之助の兄)の寄付で、1912(明治45)年3月に「日本海戦役漂着敵艦
        将卒収容地記念碑」が建立される。
         碑文には「明治38(1905)年5月28日、日本海海戦で沈没したロシア軍艦の乗組員将
        兵33名が漂着する。村人が法隆寺に収容して衣食医薬を提供して、無事に捕虜収容所へ
        送り出した」とある。(鐘楼を潜って寺の裏手)

        
         この海岸にバルチック艦隊の旗艦クニャージ・スヴォーロフ号の乗組員が漂着する。

        
         法隆寺下の三穂神社は、室町期の1450(宝徳2)年出雲国の日御崎神社より勧請し、相
        殿に須佐之男命(須賀社)を祀る。
         1907(明治40)年の神社合併で金比羅社など4神が合肥された。社殿は、1983(昭
          和58)
年の豪雨災害で倒壊したが翌年に再建される。
       
        
         須佐の漁業者の大半は、1年を通じて剣先いか漁を行なっているとか。

        
         地名の由来ともなっている須佐之男命から「男命いか」として商標登録された。毎年7
        月から9月の土日にかけて、漁港岸壁で活きた剣先いかの直売市が開催される。

        
         須佐川の大橋で県道343号線(宇田須佐線)に合わすと、左手の民家前に墓所入口があ
        る。

        
         石段を上がると須佐初代領主益田家20代元祥(もとよし)以下代々の墓がある。益田元祥
        は家康からの誘いを断り、毛利輝元に従って益田七尾8万石の領主から、須佐1万5千石
        の給領主としてこの地に移住した。

        
         墓所は高台にあり、法隆寺、須佐漁港、須佐川に架かる大橋などが見下ろせる。

        
         益田家の居館は、1603(慶長8)年益田市御土居にあった別館を解体し、船で笠松山下
        の現在地に運び移築された。

        
         水害あるいは国・県道の改修などで御土居の一部を提供したり、本門、長屋、土蔵等を
        解体したので往年の偉容がなくなったとのこと。現在の居館は、1874(明治7)年に建て
        られたものである。

        
         笠松神社は益田家33代当主の親施(ちかのぶ)を祀る。1864(元治元)年11月12日
        禁門の変の責任をとって徳山の惣持院で切腹し、32歳の生涯を閉じた主君を想い、家臣
        が祀ったものである。

        
         笠松神社拝殿。

        
         境内の鳥居と灯籠には元治3年、4年(元治年号は2年まで)の刻銘があるが、主君の悲
        しみ憤ることを想い、徳川慶喜に応じるのを思わせる「慶応」の改元を認めず、反骨の気
        概を示したものとされる。

        
         大橋橋詰から松原丁総門まで3町42間(403.6m)の道路が本町である。(途中に山
        陰本線が横断) 

        
         育英館は、1735(享保20)年益田元道のときに開かれた郷校である。吉田松陰の松
        下村塾とも交流があり、久坂玄瑞や伊藤博文が訪れている。(育英小学校校庭より)

        
         心光寺(浄土宗)は育英小学校の裏にある。幕末にはこの寺で勤王僧月性と久坂玄瑞が勤
        王討幕を論じたとされる。禁門の変後に益田親施が切腹させられると、大谷樸助、河上範
        三らが回天軍を組織してここに立て篭もった。更に維新後の萩の乱に際して、前原一誠が
        立ち寄った記録も残されている。(説明板より)

        
         鎌倉期の建仁年間(1201-1204)に創建された紹孝寺(じょうこうじ)は、その後、延命寺、長
        福寺、宗円寺と寺号を変遷するが、元禄年間(1688~1704)に益田就恒が現在の寺号に改め
        る。
         1931(昭和6)年山門を残して全焼したが、その山門は唐風の豪華なものであったが、
        1951(昭和26)年のキジア台風で流失する。

        
         益田家墓所には小さな札が立てられているが、字が消えて誰の墓なのかわからない。

        
         須佐川を渡ると旧須佐町役場。

        
         清水益田家屋敷の表門には棟束や蟇股に質の高い装飾がみられる。

        
         益田家の斜め前には医家の松原家表門。

        
         本町は町人地であったが建物の更新が進み、古い建物は多くをとどめない。(この付近
        に高札場と市恵比寿があった)


        
         平入りに門を構える町家。

        
         直線的な街道筋。

        
         禁門の変後に益田親施が自刃を命じられた際、親施の赦免を求めて回天軍を結成した大
        谷樸助の表門がある。大谷家にあったものを町が現在地に移築した。

        
         南総門(木戸)は松崎八幡宮前の石燈籠付近にあった。町を水害から守るために高さ2m
        の土手が、総門の左右に築かれていたとされる。

        
         松崎八幡宮の社前に並ぶ36基の石燈籠は、益田家歴代領主が江戸参勤から帰国の度
        奉納したものである。

        
         1689(元禄2)年益田就恒が奉納した鳥居を潜ると神門および拝殿が続く。飛鳥期の6
        50(白雉元)年宇佐神宮から勧請して松ケ崎に建立されたが、1639(寛永16)年に現在地
        へ遷座する。

        
         街道は総門から松原町に入り、法隆寺(現存しない)を過ぎたところで左に折れ、さらに
        浄蓮寺の参道前で折れる。町の両端の入口を鉤の手に折ることは街道筋で行われるが、鉤
        の手の要所に寺院を配置することで応戦体制ができる構造となっている。

        
        
         浄蓮寺(浄土真宗)は田万崎村(旧田万川町)に創建され、のちに須佐吉ケ浴に移る。戦国
        時代には小早川隆景が宿寺したとされるが、1636(寛永13)年益田氏によって現在地に
        移された。

        
        
         大薀寺(曹洞宗)は須佐初代領主・益田元祥(もとよし)が、弥富村の妙悟寺を現在地に移し
        て、「大薀寺(だいおんじ) 」と改めて益田家の菩提寺とする。寺には益田家初代から33代
        親施までの位牌が安置され、現在まで引き継がれている。

        
         大谷家の門。

        
         Y家は武家屋敷地の構成をとどめている。

        
         1869(明治2)年に開かれた三蔭山神社には、幕末の動乱に斃(たお)れた31柱の霊標
        が並ぶ。 

        
         高台から中津地区と須佐湾、雄島(天神島)が望める。神社から国道191号線に出てJ
        R須佐駅に戻る。


萩の江崎は入り江に西堂寺とU字型の良港

2020年03月06日 | 山口県萩市

        
        この地図は、国土地理位院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         江崎は三方を山に囲まれ、北方は湾入する江崎湾に面する。漁業を中心とした地域で、
        国道191号線が南面を東西に走る。地名の由来は、往古には江津と称したが、隣村の須
        佐村に大江津という小村があり、まぎらわしいので入江の崎の浦であることから江崎に改
        められたという。(歩行約4㎞)

        
         JR江崎駅は、1928(昭和3)年3月飯浦~須佐間延伸時に開業する。1933(同8)
        年2月に山陰本線が全線開通した後、駅前に人家が集まったが今は閑散としている。

        
         相対式ホーム2面2線で跨線橋があったが、老朽化のため撤去されて駅舎側のホームだ
        けが使用されている。

        
         駅通りは空地が目立つ。

        
         T字路で仏坂道と合わすが、この道は海岸線を萩から益田へ至るが、長い道程と難所が
        多くて利用度は低かったようだ。もう一つの萩から福栄、弥富経由する土床道が多く利用
        されたとのこと。

        
         右折して峠に向かうと右手に横田酒店。

        
        
         次のT字路に合わすと土壁の民家、郵便局前には白壁の民家が目を引く。(直進して坂道
        を上がる。)

        
        峠越えをするとやや右へカーブしながら下って行く。

        
         大正期には鍛冶屋、呉服店、家具製造などの商家が並んでいたとのこと。

        
         伝統的な建物は平入りで、明治から昭和戦前のものと思われる。(正面の山は須佐高山)

        
         国道191号線を横断して本町筋に入る。

        
         安土桃山期の1569(永禄12)年開基とされる教専寺(浄土真宗)は、江戸期には江崎村
        の本陣を務めた。

        
         本町には伝馬船が川を上り、荷が蔵や二階などに運ばれ、商家や旅籠が並んでいたとさ
        れる。

        
         中本本店は度量衡器の販売・修理業とともに金融業などを営んでいたとのこと。隣には
        船宿兼薬業の大正館、今も営業されている山根菓子店と続いていた。

        
         道は鉤の手となっているが、左手付近には米屋、蒲鉾屋などがあった。

        
         正面に元江崎郵便局、右手に按摩、金物店、石材店があった。

        
         壁に「み」がある三亀料理店兼旅館。

        
         看板建築の商家は酒屋さんだったようだ。

        
         廻船問屋で浦年寄も務めた旧田村家(屋号大中屋)の建物である。中二階建ての主屋に平
        屋建てが接続されているが、殿様が宿泊されるので増築されたと伝える。明治期に豊田家
        の手に移り、長く酒造業を営まれた。

        
         中町戎通り(旧恵比寿町)の海岸沿いには蔵が並び、直接、荷が運び込まれていた。道路
        を隔てた向かい側には商店が軒を連ねたという。

        
         「やきもちや」は若松商店といい、古くから地域の台所を支えてきた食料品店である。

        
         町並みを構成する各々の建物は、漁師の住居が主であったようだが、現在は新しい建物
        に変りつつある。(西町付近)

        
         西堂寺入口にあった田村酒店。

        
         旧田万川町のシンボルマークである魚の「たま坊」と、小川地域の名産「桃」の「ふる
        ふる」をデザインしたマンホール蓋。

        
         1682(天和2)年の「江崎地蔵堂記」によれば、須佐路村鍋山の長者の娘(15歳)が、
        9月24日に2里ほど離れた江崎の磯辺で海中に落ちた。波間に遺骸が得られず、村人な
        どが網を入れて探したところ、地蔵菩薩1尊が波底に動き、娘が菩薩に化身したのであろ
        うと地蔵菩薩を島に安置した。長者の没後、妻は妙清尼と号して江崎湾の浮き島に御堂を
        建てて菩提を弔ったと伝えている。(諸説あり)

        
         西堂寺(曹洞宗)は室町期の応永年間(1394-1428)に建立されたと伝える。はじめは済度寺
        と称していたが、江崎港の西突端の小島にあるため西堂寺と呼ばれるようになった。小さ
        な島「浮島」には浮島橋が架けられている。

        
         六角堂は港の入口で港を守っているかのごとく建っているが、1756(宝暦6)年に建立
        されたもので、1868(明治元)年古材を生かして再建されている。

        
         1889(明治22)年境内に「気象警報」と刻まれた石柱が立てられ、石柱には10m以
        上の檜柱が取り付けてあった。台風や強風の時にはこの柱に長い籠、普通の風の時は丸い
        玉籠が揚げられた。明治、大正、昭和と引き継がれ、1940(昭和15)年頃まで用いられ
        たが、ラジオの普及で役目を終えたとのこと。

        
         六角堂のクロマツは岩に大きく根を張り、枝下幹周り3mもある。

        
               江崎港の地形ははU字形を描き、海岸線の西端に西堂寺、東端には厳島神社が湾を隔て
        て向い合っている。(江碕大漁橋より)

        
         厳島神社の社伝によると、創建は室町期の1534(天文3)年海上安全守護のため安芸の
        厳島神社より勧請したとされる。もとは弁財天社と称していたが、後年に厳島神社と改称し
        たが、地元では「江崎の弁天さま」と呼ばれている。


        
         1829(文政12)年築とされる本殿。


      
        
         土居弁天通りは漁師町で古い家屋が残っている。

        
         造船、船宿、芝居小屋などがあったようだが、面影を見ることはできない。
 
        
         小野家はもと浦年寄を務めた安江家の建物で、醤油・塩の製造で、網元でもあった。道
        路に面して建つ主屋は、明和年間(1764-1772)の江崎大火後に建てられたと伝える。

        
         江崎浦は中世には阿武郡18郷の年貢米をこの港から若狭国へ運搬したという。津波に
        よる損壊のため下田万村内湊に移住したが、再びこの地へ召し寄せられたという。(地下上
        申)

        
         山陰本線と仏坂道が合わす付近に、旧田万崎村役場があったと地元の方に教えていただ
        いたが距離もあって残念する。