ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

長門市仙崎は童謡詩人・金子みすゞが過ごした町 

2019年09月26日 | 山口県長門市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         仙崎は仙崎湾と深川湾に突き出た半島部に集落があり、北には100m余の瀬戸を隔て
        て青海島がある。南部はJR仙崎線、主要地方道仙崎港線が走る。
         地名について風土注進案は、「瀬戸崎、古くは紫津ヶ浦といった由(中略)、また瀬戸崎と
        いうのは、古く青海島の王子山に祇園社があり陸続きであったが、その後いつとなく砂州が
        崩れて迫戸となったので瀬戸崎というようになった」とあり、仙崎は瀬戸崎が訛ったもので
        あろうとされる。(歩行 約5.5㎞)

           
         JR長門市駅から仙崎線があるものの便数が少なく利便性に欠ける。長門市駅からバス
        利用して道の駅センザキッチンバス停で下車する。

           
         美祢線の貨物支線として1930(昭和5)年5月に開業したが、鉄道網から外れてしまう。
        民意を反映させるべきと国鉄当局へ陳情・請願を繰り返し、1933(昭和8)年8月に駅舎
        と3㎞の盲腸線が開通する。

           
         みすゞ通りの正面にあるJR仙崎駅は、仙崎出身の童謡詩人・金子みすゞ展示施設にも
        なっている。


           
         JR仙崎駅からみすゞ通り。みすゞの「こだまでしょうか」の最後の一節「こだまでし
        ょうか いいえ 誰でも」は、2011(平成23)年の東日本大震災の直後から民放テレビ
        で放映された。


           
         みすゞが通った瀬戸崎小学校跡。

           
         静かな通りである。

           
         町家も現存する。


           
         今も生誕地前には郵便局がある。「郵便局の椿」には幼い頃に見た赤い椿、黒い門と古
        い郵便局は懐かしいとある。


           
         みすゞ生誕地前にあった氷蔵。改造されてお店となっているが、その壁に描かれたみす
        ゞのモザイク画。

           
         みすゞ生誕百年にあわせて、金子文英堂跡に建てられた実家と記念館が、2003(平成
          15)
年にオープンする。隣の記念館は旧上田酒店の外観をとどめた形になっている。

           
         金子文英堂に入ると当時の復刻版が並んでいる。

           
         帳場から店と通り。

           
         二階がみすゞの部屋。窓から通りが見える。

           
         白井酒食品店(乾物店)と旧上田酒店との間には、「馬つなぎ場」の碑が立つ。みすゞの
        童謡「角の乾物屋」では「三軒目の酒屋の炭俵、山から来た馬いま飼葉」とある。


           
         「角の乾物屋」である白井酒食料店は駅から4つ目の角にあり、みすゞの家は2軒手前
        にあった。下関に引っ越しても忘れられない所であったと思われる。

           
         ツタで外観を見ることができないが、洋館建てだった仙崎湯。(白井酒食品店の交差点を
        左折する)
 
  
        
         通りに戻ると明治期からの材木商だった松岡家。

           
         みすゞの童謡では「八百屋のお鳩」と題し、「おや鳩、こばと お鳩が3羽 八百屋の
        軒で」とある。

           
         1692(元禄5)年創建の普門寺。

           
         本堂裏の墓地には魚鱗成仏を願った「一字一石塔」が建立されている。石碑の正面に「
        法華経一字一石」、側面には「諸浦繁栄魚鱗成仏」宝暦9(1759)年建立とある。


           
         妻入りの作道商店。

           
         大正時代から醤油屋を営んでいた五嶋家。綺麗な格子が目を引く。

           
         極楽寺はみすゞにとって楽しかった家族との情景だろうか、「和布結飯のお辯當で、お
        辯當で、さくら見に行ってみてきたよ」とある。今でも参道には桜の木が現存する。みす
        ゞが仙崎の町を詠んだ8ヶ所の1つである。

           
         みすゞが詠んだ「極楽寺」に出てくる横丁。

           
           
         金子みすゞの墓所がある遍照寺。無縁墓同然だったようだが墓碑銘には「昭和5年3月
        10日上山ミチ娘金子テル()」とある。

         みすゞ(本名金子テル)は、1903(明治36)年4月11日に生まれ、23歳で結婚する
        も不幸な結婚生活に疲れ、26歳で離婚して自ら命を絶った。

           
         造り酒屋だった持山家。18世紀頃に建築されたという。

           
         案内板のある場所が日本近代式捕鯨発祥の地とされ、ここに日本遠洋漁業株式会社があ
        った。日本で最初に近代式捕鯨を手がけた企業で、社名は変遷したが、現在の日本水産㈱
        に至っている。


           
         近代捕鯨発祥の地から路地に入ると立野家。18世紀頃に建築されたとされ、裏口には
        船着き場があった。


           
         遍照寺、浄岸寺、西覚寺、極楽寺、普門寺と続く寺町の裏通り。

           
         深川湾側の海岸線に出ると北に青海島。

           
         海岸から花津浦(はなづら)の鼻藻岩が見える。「むかしむかしよ 花津浦よ みんなむか
        しになりました」と、浜で花津浦を眺めていた頃が、遠い昔の出来事なってしまったと締
        られている。ここもみすゞの仙崎八景とされている。

           
         仙崎の北端と青海島の間は約100m。1965(昭和40)年に青海島大橋が完成するま
        では渡し船によって結ばれていた。


          
         青海大橋の急坂を進むと、みすゞの仙崎八景とされる王子山。「木の間に光る銀の海 
        わたしの町はそのなかに 龍宮みたいに浮かんでる (中略) 王子山から町見れば わた
        しは町が好きになる」

           
         入港に便利な下関港は、アメリカ軍が投下した機雷により危険であったため、仙崎港が
        引揚げ港に指定された。1945(昭和20)年9月2日、第一便の興安丸が引揚者7,000
        人を乗せて入港。約1年間で延べ41万人の人々を受け入れた一方で、朝鮮に帰国した人
        も約34万人に及んだ。


           
         瓣天島(仙崎八景)は、みすゞがこよなく愛した場所と思われる。「あまりいい島だから
        ここには惜しい島だから 貰っていくよ 綱付けて (中略) 朝は胸もどきどきと 駆けて
        浜辺にゆきました 辨天島は波のうへ 金のひかりにつつまれて‥」

           
         北端の洲崎町にある洲崎神社は古祇園と呼ばれ、創建年代は不詳である。仙崎祇園祭の
        初日、八坂神社より御神輿が出立し、最終日に八坂神社へ戻るという神事が行われる。

           
         1889(明治22)年の市町村制施行時は仙崎通村だったが、1953(昭和28)年の町村
        合併促進法公布時には仙崎町となる。旧町役場跡は長門市役所の支所になっている。


           
         支所から仙崎湾へ向かうとモザイクアートがある。

           
         白壁が美しい円究寺。戦後の外地からの引揚げに際し、外地引揚同胞救援山口県出張所
        が設けられた。

         
         1933(昭和8)年8月10日種田山頭火は三隅町より行乞し、円究寺近くの寺田屋(
        在かんのや仏具店)に宿泊する。観音堂の「千日参り」の縁日に参詣して左の句を詠む。
        翌日、仙崎を行乞して美祢の伊佐に遍路したとある。(寺の案内より)

           
           
         みすゞの生家近くにある八坂神社(祇園社)。仙崎で暮らした頃に戻ることができない寂
        しさを詠んだのだろうか、「はらはら 松の葉が落ちる お宮の秋は さみしいな

           
         センザキッチンバス停に戻る。

           
         この大漁のいう詩は、雑誌「童謡」に応募して西條八十に認められたみすゞの出世作で
        ある。碑は道の駅「センザキッチン」入口にある。


長門市の通浦は鯨捕鯨が盛んだった地 

2019年09月22日 | 山口県長門市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         大日比浦(おおひびうら)は青海島内にありながら仙崎に属する。(歩行約1.3㎞)

        
         大日比には夏みかんの原樹と、日曜学校が行われた西円寺があるので立ち寄るが、バ
        スの便数が少なく通浦まで行くとなると車を利用せざるを得ない。

        
         バス停からかってのメインロードを西行する。

        
         通りには数軒の古民家が見られる。

        
         大日比が夏みかんの発祥の地とされるが、、安永年間(1772-1780)頃に同地の西本チョウ
        さんが、海岸に流れ着いた果実の種を播いたのが始まりと伝えられている。(国史跡及び天
        然記念物)


        
         原樹に万が一があってはいけないと、原樹の枝の一部が山口県萩きつ試験場で育てられ
        たが、試験場廃止に伴い大日比に戻ってきた。

        

         
海近くに西円寺。
        
        
         寺下の駐車場傍に「世界最初日曜学校発祥地」の碑が建立されている。1779(安永8)
        年に大日比三師法岸上人が、毎月5日に子供念仏会を開いた。現在の日曜学校に相当する
        システムで、現在に至るまで続けられている。 

        
         西円寺参道に大きな自然石の大日比三師遺跡碑がある。1779(安永8)年に法岸が住職
        となり、法州・法道に伝えた。この三師は高僧の聞こえが高く、世に大日比三師として尊
        信された。

        
         山門はもと萩の大照院にあって、明治の寺禄廃止に伴い、1891(明治24)年に寄進さ
        れ移築された。三間二重門、正面に向拝一間付構造の格式ある山門は、桃山建築の名残を
        とどめている。

        
         1825(文政8)年建立の本堂は、向拝がなく、入口を左右両橋にとる特異な形式をもち、
        向って右側が女性、左側は男性参詣者が出入りするようになっている。本堂はもっぱら念
        仏と御講説の場で、簡素ではあるが堅実な造りである。

        

        

        
                 通浦(かよいうら)は青海島の東部に位置し、南は仙崎湾を臨み、海岸沿いを県道青海島線
        が走る。集落は南岸の内海側に集中し、段町のみが外海側に形成されている。(歩行 約4
        ㎞)

        
        通浦入口の小浦バス停付近に駐車する。

        
         通浦の特色は江戸時代に捕鯨で栄え、鯨に関する史跡などが残されている。現在も近海
        漁業を中心とした漁村集落である。(バス停前が漁港)

        
         旧道に入ると航海安全・漁業繁栄を信仰する住吉神社がある。

        
         かってのメインストリートは湾に沿って家々を結んでいる。

        
         1763(宝暦13)年に造立された小浦の黒地蔵尊は、参詣者が多く、香煙で尊体が黒光
        りすることから黒地蔵と呼ばれている。

        
         御魂神(みたみかみ)神社は明治の初め頃、この地に創建され、鯨の御魂を祀っていると云
        われている。建物の老朽化が激しく改築するには多額の費用が必要なため、御神体を住吉
        神社参集殿の神殿に合祀したと案内されている。

        
        
         静かな通りで出会えるのは猫ばかりである。

        
         くじら資料館の傍にある清月庵(観音堂)は、向岸寺五世讃誉上人が51歳で隠居して鯨
        の菩提を弔らう。

               
         鯨墓の石塔正面には「業尽有情雖放不生」「故宿人天同証佛果」「南無阿弥陀仏」と印
        刻され、側面には「元禄五年(1692)壬申五月」とある。
         解体された母鯨の胎内で死亡した子鯨を見たとき、さすがの漁師も哀れみを感じ、墓を
        建立し経を唱えて丁重に葬る。墓の背後には70数体の鯨の胎児が埋葬されており、19
        35(昭和10)年に国の史跡に指定される。

        
         マンホール蓋には鯨の絵が描かれているが、その数361もあり、地元では鯨絵を踏ま
        ないように避けて通るという逸話もあるそうだ。

        
         わずかな平地に寄り添うように生活の場がある。

        
         青海島はいくつかの島が砂州でつながり、一つの島を形成している。その近江島の東端
        にある集落
である。

         
         海岸沿いの集落には、板貼りの家屋に混じって漆喰塗の家屋も見られる。

        
         江戸時代には廻船問屋として栄えた見嶋邸。

        
         細い路地が続く段町の町並み。

        
         大師像、地蔵尊、正観音像がバランスよく配置されている段町の大師堂。江戸時代の
        大火時も類焼しなかったといわれているが、建立時期は不詳とのこと。

        
         段町の漁港。

        
         通浦と瀬戸崎浦は漁場が隣接し紛争の種があったにもかかわらず、1889(明治22)
        の町村制施行時に県が強制的に「仙崎通村」とする。
         10年後の1899(明治32)年4月に通村となり、渡船・魚類販売を村営とし、この地
        に村役場を置いた。現在は民地となっているが、階段と側面の石積みに遺構が見られる。

        
         捕鯨の記録を残す向岸寺(浄土宗)は、1679(延宝7)年に鯨墓を建立した讃誉上人によ
        って始められた鯨回向法要は、現在も当山で毎年1回行われている。

        
         金子みすゞの父親(金子庄之助)は、この寺の檀家の出身で、彼女は子供の頃、しばしば
        ここに遊びに来ていたという。「鯨法会」と題された彼女の詩が残されているが、父を亡
        くし、母とも隔てられたみすゞの心と重なっているようにも感じられる。

        
         向岸寺から見る通浦地区。

        
         向岸寺を登り詰めると通小学校に出合い、左折して下って行くと墓入口を示す看板があ
        る。

        
         この大越の浜には将兵ら千余人を乗せて戦場の中国に向かう途中、撃沈された常陸丸の
        戦死者の遺体が流れ着いたとのこと。
         また、翌年には日本海海戦で撃沈されたロシア兵士の遺体も流れ着き、日露兵士の遺体
        を住民が埋葬したという。

        
         右側の墓碑は、1904(明治37)年6月14日にロシアの軍艦により、陸軍徴傭運送船
        ・常盤丸が撃沈された。1921(大正10)年に墓碑が建立される。
         左側には翌年の5月27日に行われた日本海海戦によるロシア兵士戦没者の墓碑である。
        当初は自然石だったが、1968(昭和43)年現在の墓に建て替えられる。

        
         かつてのメインロードに入ると漆喰塗と板塀の家並み。

        
         早川家住宅は江戸時代後期築といわれ、捕鯨家の住宅としては全国で唯一の国重要文化
        財建造物に指定された。中世の早川家は、この地域を支配した土豪で、毛利氏の時代に早
        川姓を賜り、通浦の庄屋役を務め、江戸時代以降も代々網頭や浦方役人として活躍した家
        柄である。

        
         厨子二階建てと千本格子の民家。

        
         金子みすゞの父・庄之助は石津助四郎の四男として生まれ、通小学校卒業後は家業を手
        伝い、結婚後に金子姓を名乗る。渡海船の仕事をしていたが、義弟の上山文英堂書店清国
        営口の支店長となったが、みすゞが3歳の時に清国で不慮の死をとげる。

        
         通くじら祭りのハイライトは、全長13.5mのナガスクジラの模型を用いて、江戸時代
        の古式捕鯨が再現される。

        
        
         くじら資料館には、古式捕鯨と漁民の歴史を伝える品々を展示してある。北浦とよばれ
        る沿岸地域は、古くから捕鯨が行われていた。江戸時代に全盛を迎え、近代捕鯨が始まる
        明治の終わりに、その歴史に幕を閉じる。

        
         漁港前で歩きを終える。


大竹市木野に古い町並みと岩国市小瀬は旧街道町

2019年09月19日 | 山口県岩国市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)      
         木野(この)は小瀬川を挟んで左岸にある広島県大竹市の町で、小瀬(おぜ)は木野の対岸に
        位置する山間の地にあり、山口県岩国市に属する。(歩行 約2.5㎞)

           
         JR大竹駅前から坂上線バス(さかがみバス)鮎谷行き約15分、下中津原バス停で下車
        する。便数は平日で4便、土日祝日は3便と少ない。

           
         木野の町中には2本の道が通っているが、古い町並みが見られるのは山側の道である。
        (バス停から大竹側に引き返す)

           
         中津原格子戸通りとされる道に入る。

           
         明治から昭和に入っても中津原地区は、手すき和紙やその他の集結地として繁栄する。

           
         繁栄期には酒造・醤油などの産業地として、銀行も2行あったとのこと。

           
         繁栄期の面影を色濃く残し、格子戸のしっとりした町並みを見ることができる。

           
         神社参道の両側にも格子戸の家が連なる。

           
         一般的に神社の「本殿」は正面からは見えないが、この厳島神社は、土地に制約があっ
        たのか本殿、幣殿、拝殿を見ることができる。

           
         急峻な山肌に沿って厳島神社が建立されている。

           
           
         境内の石段を上がると、摂末社である天満宮と恵比寿神社が祀られている。拝殿には左
        から祇園、稲荷、金毘羅、人丸神社が鎮座する。


           
         境内から木野の町並み。

           
         見応えのある通りである。

           
         白壁と格子戸の町家も趣がある。

           
         妻入りの大きな家だが、木野は平入り、妻入りの家が混在する。

           
         醤油製造の叶屋さん。

           
           
         ここも妻入りの大きな家である

           
         和紙を商いとされた商家の建物が連なる。

           
         屋根も切妻と入母屋が混在している。

           
         木野川が川止めとなれば中津原にも大名等が宿泊する場所が必要となり、「津屋の御茶
        屋」と呼ばれた本陣(私設の休泊所)が設けられる。
         当時の津屋市郎左衛門は庄屋格の村役人で、御境見廻役を勤めていたが、元々の家業は
        酒造りで、御茶屋を副業としていた。

           
         西進すると小瀬川に合わす。

           
         案内板で小瀬の渡し場付近の状況を知ることができる。

           
         駕籠置き場とされていた「ごじんじ」が再現されている。

           
         堤防の築堤年代は定かではないが、「巻石」といわれる約100mにおよぶ城の石垣の
        如く強固な石組みを築いたのは、福島正則の時代に入ってからと語り継がれている。

           
         
1700(元禄13)年に巻石の上手に「小林の三角和久(さんかくわく)」が設けられている
        が、洪水の水圧と巻石の重要な保護のため築かれたとのことで、今もそのままの状態で見
        ることができる。


           
         舟渡しは公儀の飛脚を最優先させ、たとえ真夜中であろうと舟を出すよう義務づけられ
        ていた。このため、渡し守の3人ずつが昼夜2人1組で両藩が交替し、費用は安芸・周防
        両国で負担した。
         渡し賃は芸防に限らず、江戸時代には一般に武士は無料、百姓・町人は有料であった。
        ちなみに寛永期(1625年代)には1人米1合であったが、1720年代の「享保増補村
        記」によると、人は2文・牛馬は4文とされ、公定の賃銭が払われたようである。


           
         
小瀬川は川が流れる地域によって木野川、大竹川、小瀬川、国境川などいくつもの呼び
        名があった。
河川法により基本的に源流から河口もしくは合流点までは同一の名称で統一
        されることになり、右岸にある小瀬の地名から小瀬川になったという。

           
         小瀬集落は平地を耕作地とするためか、山裾に民家が集中する。

           
         両国橋から籌勝院(ちゅうしょういん)までの小路は、どこにでもある風景である。

           
         籌勝院(曹洞宗)の山門は閉じられているが、脇戸から入ることができる。

           
         幕末の第二次幕長戦争芸州口の戦いでは、遊撃隊の本陣となる。

           
         境内には芸州口の戦いで戦死した遊撃隊兵士の墓がある。

           
         籌勝院は慶長年間(1596-1615)香川光景の菩提寺として香川春継が建立する。光景は戦国
        時代から江戸時代前期にかけては安芸武田氏家臣であったが、後に毛利氏の家臣となる。
        光景の次男であった春継は吉川氏に仕えるようになり、家老として吉川氏を支えた。

           
         渡し船待ちの茶屋が、渡し口から100mほどの所に設けられていた。庄屋だった嘉屋
        氏が営んでいたようで、白い壁の家が茶屋跡とされる。この付近に一里山と呼ばれる一里
        塚があったようだ。


           
         小瀬村は1889(明治22)年の町村制施行により、関ヶ浜村、瀬田村、和木村と合併し
        て小瀬川村が発足する。
         しかし、10年後に合併を解消して大字小瀬の区域をもって小瀬村となり、小瀬川村は
        和木村に村名変更する。1955(昭和30)年の合併では和木村ではなく、岩国市に編入さ
        れる。
岩国市となるまでこの地に村役場があった。

           
         渡しにある吉田松陰歌碑には「夢路にもかえらぬ関を打ち越えて いまをかぎりと渡る
        小瀬川」と刻まれている。
         1859(安政6)年5月28日幕命を受け、駕籠で江戸へ護送される吉田松陰が、小瀬川
        でいよいよ故郷の国を離れ、もう二度と戻れないと覚悟して詠んだものである。この年の
        10月江戸伝馬町の獄舎で斬罪に処せられた。

           
         16時16分のいわくにバスでJR和木駅に戻る。こちらも便数が少なく、土・休日は
        この便が最終便である。(小瀬から駅まで4.2㎞)


和木は第二次幕長戦争芸州口の戦いが行われた地

2019年09月17日 | 山口県和木町

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)      
         和木(わぎ)は山口県の東端にあって、北に県境である小瀬川を挟んで広島県大竹市に接し、
        小瀬川の堆積作用と新田開発による平地に立地する。
         
1889(明治22)年に瀬田・和木・関ヶ浜・小瀬の4村が合併して小瀬川村となったが、
        1899(明治32)年に小瀬村を分割して和木村となり、現在の和木町の町域が確定する。
        (歩行 約6㎞)  


        
         2008(平成20)年に新設開業したJR和木駅は、相対式2面2線のホームを有してい
                る。

        
         小瀬・上関往還道は、小瀬の渡し場からこの地点が一里とされた。

        
         県道122号線(大竹和木線)を北上すると小瀬川に突き当るが、手前の和木郵便局を右
        折すると山陽本線に合わす。

        
         線路に沿うと小瀬川に出る。

        
         200年にわたる吉川・浅野藩の国境争いの中で、1752(宝暦2)年には小瀬川口の与
        三野地で騒動が起き、双方に死傷者が出る惨事となった。50年後の1802(享和2)年に
               和解して国境が確定したが、この時に岩国藩主は祠を建てて犠牲となった3名を祀ったと
        いう。祠の前面にある「三秀(みつぼし)神社遺跡紀念碑」は、後世になって建立されたもの
        と思われる。

        
         小瀬川右岸を上流へ向かうと、こんもりとした森が見えてくる。

        
         玉垣に囲まれた中に米元廣右衛門(1823-1889)碑がある。若くして織工、製紙、養蚕など
        の事業を手掛けたが、ことごとく失敗する。晩年、海苔養殖の研究を続けた結果、188
        8(明治21)年に成功を収める。これにより農家では海苔の製造を副業とし家計を潤すこと
        になる。

        
         小瀬川河川敷に遊歩道が設置されている。

        
         1880(明治13)年2月廿日市~和木間に新道が完成し、小瀬川に木橋が架けられた。 
        大竹と和木の連携を深めるため、両地区の頭文字を組み合わせ「大和橋」と名付けられた。

        
         大和橋が完成した5年後には、橋から和木、装束に至る海岸ルートが開通する。これに
        より小瀬峠を越えていた旧山陽道に代わって、1951(昭和26)年新国道2号線が完成す
        るまで国道としての役割を果たす。
         また、大竹から大和橋を渡ると左右分岐であったため、道に迷う者が多く、「道しるべ」
        が設置された。

        
         石柱には竹原七郎平渡渉地点とあるが、1866(慶応2)年6月14日の朝、彦根藩使番
        (つかいばん)・竹原七郎平ら3人が先陣を切って小瀬川を渡りはじめると、対岸の竹藪に身
                を伏せていた岩国の戢翼団(しゅうよくだん)に撃ち殺される。

        
         「四境之役 封境(国境)之地」とある。

        
        
         願掛地蔵の由来によると、八幡山の崖下は深い淵で、毎晩のように得体の知れないもの
        が出没するため、道辺に地蔵菩薩を祀ったところ出なくなったとされる。

        
         安禅寺の境内入口には大門(鐘楼門)がある。ここに架かる扁額は1725(享保10)年に
        寄付されたが、船板が使用されて表面には船虫による無数の虫穴があるとのこと。寺名は
        粟屋元俊の戒名・安禅院によるという。

        
         本堂から離れた所に釈迦堂。

        
         戢翼団(しゅうよくだん)隊長の品川清兵衛が竹原七郎平の遺骸を検めたところ、守袋の中
        に妻から息子が亡くなり、49日の法要を済ませたことが記されていた。
         品川も息子を亡くしており、竹原の胸中を察して芸州口の戦いが終わった後、同寺に墓
        を建立したとされる。

        
         瀬田八幡宮へは急坂である。

        
         参道より小瀬川上流。

        
         きつい上り坂を終えると鳥居の先に石段が待っている。

        
         瀬田八幡宮は、1715(正徳5)年6代藩主・吉川経永の命により修造されたもので、前
        室付三間社流造、向拝(本殿の正面の張り出し部分)一間の銅板葺き社殿である。神社建築
        の様式を継承し、県下でも数少ない18世紀初頭の神社建築である。(説明版より)

        
         江戸時代の和木村では15歳になると若連中に入り、村の働き手になる習いがあった。
        若連中に入ると力試しが行われ、差し上げた石の重さで報酬分配の基準が定められたとい
        う。一番石の重さは240㎏(60貫)で、「和木村の住人都石源之進」と刻まれていて、
        この人以外に差し上げた人がなかったものと思われる。(説明版より)

        
         参道より小瀬川下流域。芸州口の戦いでは、長州藩がこの山に大砲を据えたとある。

        
         中市堰手前の交差点に和木装束水道記(三分一父子顕彰碑)がある。1644(正保元)年に
        建設された用水路を、天保年間(1830-1844)瀬田口から直接水を引いて、和木装束一帯に活
        を与えた父子を称えた碑とのこと。

        
         天保年間(1830-1844)に農業用の中市堰が造られ、長年にわたって役目を果たしてきたが、
        1951(昭和26)年のルース台風で流され、その後、可動堰に改良されたが、治水上の問
        題等から新たな堰が完成する。

        
         1928(昭和3)年創業の三国酢造は、広島県大竹市が広島県西端にあり、廃藩置県前の
        安芸の国、周防の国、石見の国の三つの国の境になることから、三国一の酢になるように
        との願いで「さんごくす」と社名がつけられた。

        
         大竹側にある長州の役(芸州口の戦い)古戦場跡案内板によると、竹原七郎平(120石の
                武士・39歳)は赤い陣羽織に身を固め、軍扇を開き、封書を高く掲げて軍使であることを
                表示していたとされる。

        
         明治百年を記念して青木神社に建立されたが、現在は青木公園に移設されている。
         表には「慶応2年5月28日長州藩応戦を布告。幕府の先鋒井伊・榊原(高田)軍ここ大
        竹口に陣を進め、木野川を隔てて毛利吉川軍と相対す。6月14日未明、戦いの火ぶたが
        切られ激戦、幕府軍敗走兵火により家財を失う者九千人にのぼる。9月2日休戦成りこれ
        より政局は西南雄藩に指導され明治維新へと動く」とある。

        
         1926(大正15)年永久橋(コンクリート橋)に架け替えられ、1997(平成9)年に現在
        の橋が完成する。その際に親柱が記念として残された。

        
         青木神社は、1801(享和元)年安芸国と周防国の長年の境界争いが解決し、国境が確定
        したのを受け、1803年1月に、当地青木新開の守護神として勧請された。青木新開は
        大竹地区の最初の干拓地で、明治初頭まで大規模な干拓事業が行われた。

        
         本町と新町の境道だが古民家などは見られない。

        
         JR大竹駅は、1897(明治30)年山陽鉄道の広島~徳山間が開通すると同時に開業す
        る。広島県と山口県の境をなす駅で、この地には第二次世界大戦中、海兵団や海軍潜水学
        校が置かれ、戦後は臨海工業都市となる。


越ケ浜は砂州上の港町で小さな死火山がある地 (萩市)

2019年09月15日 | 山口県萩市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         越ケ浜は萩市街地の北東4㎞に位置し、潮流の作用により砂州ができ、笠山と本陸が繋
        がり半島となる。
         海波は容易に砂州を越え、船も容易に曳いて越えることができることから「越ケ浜」と
        いわれるようになった。(歩行約5.8㎞)

        
         JR越ヶ浜駅は越ヶ浜地区から約1㎞程度北東側の後小畑地区にある。1960(昭和3
        5)年4月1日に萩駅~長門大井駅間に新設された単式ホームの駅である。 

        
         越ケ浜駅から海岸線に沿って歩くと、日本海に小さく突き出た半島状に笠山が見える。
        もとは火山だったといわれ、陸と繋がる辺りに独特の地形が存在する。

        
         バス停の先が越ケ浜地区である。

        
         笠山と本土とを結ぶ短い陸繋砂洲に家々が密集している。国道から明神池を結ぶ2本の
        道以外は小路が主であり、車の通れない路地も多く、漁師町的な風景が展開する。

        
         旧道のほぼ中央に中善寺(曹洞宗)がある。1741(寛保元)年大島郡にあった中善寺とい
        う古寺を引寺して御堂が建立された。

        
         寺前から少し左へ湾曲した道筋である。

        
         藩政期に正式な漁港として認められ、浜崎の魚問屋商人に収穫物の販売一切を依託し、
        陸揚げされた魚はすべて「いさば船」(魚運搬船)で浜崎まで運ばれていた。


        
         この道が中心的な役割を果たしてきたが、新しい道ができて人の流れが変ったようだ。
        通りにはベンガラで塗られた格子の家も見られる。


        
         元文年間(1736-1749)頃からは北前船を相手に商港として発展し、活発な経済活動を展開
           する。そのような発展もあって、越ヶ浜には藩の御高札場や大砲台場、御道具固屋、御茶
        屋(本陣)、御茶屋番固屋などが置かれる。

        
         元文年間(1736-1749)頃からは北前船を相手に商港として発展し、活発な経済活動を展開
           する。そのような発展もあって、越ヶ浜には藩の御高札場や大砲台場、御道具固屋、御茶
        屋(本陣)、御茶屋番固屋などが置かれる。

        
         反対側には一見五角形のようにも見える二階建て洋館は、門名・伝法屋(でんぽや)と呼ば
        れていた。

        
         南側には夕𣷓(ゆうなぎ)湾につくられた天然の港があり、北前船が寄港して取引が行われ
        るなど、城下の人々の生活と藩の経済を支える大切な港であった。

        
         恵比須神社は航海安全、叶大漁、五穀豊穣を祈願する神社であるが、藩主が明神池の景
        色を鑑賞するために建てたといわれている。(神社の貼紙より)

        
         神社裏から明神池。

        
         明神池から笠山への車道を上がって行くと、ドライブイン笠山の先に笠山自然道がある。

        
         歩きやすい道が続く。

        
         四差路にある道標には、笠山まで150m、明神池まで660m、椿原生林まで1.4㎞
        と案内されているが、首なし地蔵に下る道は廃道化している。

        
         分岐からは疑木階段である。

        
                 山頂広場には都野父子の美挙を湛える碑がある。都野豊之進博士は笠山まで容易にする
        ため、多額の私費を投じて山頂までの新道を整備する。
         この一帯を個人が所有すべきでないと、亡き父の遺言により市に寄付されたものである。

        
         標高112mの小さな死火山で、頂上には直径と深さがともに約30mの噴火口が残る。
        山名は形が市女笠に似ていることによるという。

        
         約1万年前の火口跡には、剥き出しの赤い土肌を見ることができる。

        
         火口縁から噴火口へ降りることができる。

        
         北に串山、大井方面。

        
         笠山の展望台からは、この地特有の平らな島が見られる。(右から大島、櫃島、肥島)

        
         南に指月山。

        
         萩藩2代藩主毛利綱広が、毛利元就が信仰していた安芸の厳島明神を勧請して、168
        6(貞享3)年に厳島神社を創建した。漁業の神様として信仰され、これに因んで明神池と呼
        ばれるようになった。

        
         「風穴」と呼ばれ、溶岩のブロックの間から風が出入りし、この時期、15度くらいの
        風が噴き出ている。

        
         その昔、笠山と本土との間に砂州ができて陸続きになった時、埋め残されてできた池が
        海跡湖である。池は溶岩塊の隙間を通して外海と繋がっており、潮の干満が見られる。

        
         明神池駐車場傍に「休労泉碑」がある。越ケ浜は廻船などの寄港地であったが、利水の
        便に乏しく、1868(明治元)年近くの山に堤を築き、そこから埋樋された送水管で人家へ
                送られた。この簡易水道が長い間の水汲みの重労働から解放されたので「休労泉」と名付
        けられた。そのいきさつを記した記念碑である。

        
         井町家から北の路地を嫁泣港へ向かう。

        
         伝統的な様式の商家建物・M家。

        
         M家の反対側にも虫籠窓が見られる。

        
         地蔵堂は掃除が行き届いており、地域の方が大事にされているようだ。

        
         嫁泣港も弧を描いた良港となっている。

        
         越ヶ浜の人々は飲み水を手に入れるため、大井や小畑の海岸沿いの湧水場所まで毎日水
        を汲みに行っていた。水汲みは主に女性(嫁)たちの仕事で、泣く泣く重い桶を運んでいた
        ことが嫁泣の由来だそうだ。

        
         路地は生活空間の場でもある。

        
         バスの便数は少なく、通過時に時刻表を確認おけばと反省しきり。


萩市の椿東は明治維新胎動の地

2019年09月13日 | 山口県萩市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         椿東(ちんとう)は、萩城下の東に位置し、大部分は山地で集落は松本川右岸の平野部と田
        床山に西麓に立地する。
         1889(明治22)年の町村制施行により、近世以来の椿郷東分村が単独で自治体を形成
        する。1921(大正10)年に椿東村に改称するが、村は7つの小村で構成されていたが、
        その1つである松本市を中心に散歩する。(歩行 約9㎞) 

        
         JR東萩駅へは本線といいながら列車の便数は少なく、JR山口駅から東萩駅行きのバ
        スに乗車すれば1時間30分で当駅に到着する。1973(昭和48)年に駅舎は白壁の武家
        屋敷風に建て替えられた。

        
         駅前にはレンタサイクル、まあーるバスもあるが、松本川に沿いながら松陰神社を目指         して歩くことにする。

        
        月見川に架かる観月橋で左折する。

        
         松島剛蔵(1825-1864)は藩医である父・松島瑞蟠が発狂し廃人となったため、6歳で家督
        を継ぐ。江戸に出て西洋医学を学び、長崎では航海術を学び、1857(安政4)年に藩最初
        の洋艦丙辰丸の艦長となる。禁門の変後に政権交代で失脚し、野山獄で刑死となる。この
        地が宅跡とされる。

        
         松浦松洞(1837-1862)は魚商の子としてこの地で生まれ、幼少より絵画を志し,小田海僊
        らに画を学ぶ。吉田松陰に師事し、その指導で各地の忠士・孝士・烈士を訪ね肖像画を描 
        く。
         吉田松陰が東送される直前に肖像画を描き、その面影を伝えたが、長井雅楽の暗殺を企
        てたが、果たせず京都で自決する。(享年26歳)

        
         松陰神社に入ると左手に「薩長土密議之処」と刻まれた大きな石碑がある。1862(
        文久2)年1月に土佐藩士の坂本龍馬が、藩士の武市瑞山の書簡を持って久坂玄瑞を訪ねる
        ため来萩し、この場所にあった鈴木勘蔵の旅館に泊まる。
         たまたま薩摩藩士の田上藤七らも書簡を持って来萩していた。図らずしも薩長土の藩士
        が一同に会した場所である。

        
         松下村塾は、1842(天保13)年に松陰の叔父・玉木文之進が、自宅で私塾を開いたの
        が始まりとされる。1857(安政4)年に現存する塾舎に移り、1858(安政5)年に閉鎖さ
        れるまで2年10ヶ月の間に、延べ約90名の門人を数え、多くの人材を輩出した。

        
         1856(安政3)年吉田松陰は国外渡航に失敗して野山獄に投獄され、のちに許されて
        実家の杉家で謹慎処分となる。親戚や近所の若者を幽因室(3畳半)で講義を始めるが、1  
        857(安政4)年1月に師弟が増え続けたため、杉家の家族が庭先の小屋を修理して塾を
        引き継がせる。

        
         この地域が小村の松本村(市)であったことから「松下村塾」という名がつけられた。名
        簿は現存しないが約50名ほどいたとされるが、識の高杉晋作・才の久坂玄瑞、吉田稔麿、
        入江九一は四天王と称された。

        
         松陰神社は、1890(明治23)年に杉家の家族が松下村塾改修時に、私祠として土蔵造
        りの小祠を建立されたのが始まりとされる。

        
         品川弥二郎の屋敷地内に小祠を建立して品川神社とされてきたが、のちに現在地へ移転
        改修されて勧学堂となる。

        
         旧社殿は松門神社として、門人であった人々52霊が祀られている。

        
         花月楼は、1776(安永5)年に7代藩主・毛利重就が、三田尻(防府市)の別邸内に建設
        した茶室である。茶道の竹田休和が平安古の自邸内に移し、さらに1888(明治21)年に
        品川弥二郎が自邸内に移したが、1959(昭和34)年に神社境内へ移転される。

        
        
         1853(嘉永6)年のペリー来航をきっかけとして、幕府は諸藩に「洋式砲術令」を発布
        して洋式砲術修業を奨励する。萩藩では鍋や農機具、寺の梵鐘などを造っていた郡司(ぐん
          じ)
鋳造所を大砲鋳造所と定める。

        
         郡司喜平治と郡司武之助が研究を重ね、在来技術である「こしき炉」によって洋式大砲
        が鋳造される。「こしき炉」とは、古来からの鋳物用の溶解炉のことで、この鋳造設備が
        復元されている。
         郡司家が鋳造した大砲は、江戸湾防備のため三浦半島に設けられた萩藩の陣屋に運ばれ
        たり、1863(文久3)年の関門海峡での外国船砲撃、翌年の四ヶ国艦隊との戦争でも使用
        される。

        
         松陰神社横の月見川遊歩道を進むと山代街道に合わす。街道は萩城下から鹿野、須万、
        広瀬、本郷町を経て、岩国市美和町を繋ぐ萩藩の領内統治上重要な街道であった。

        
         山田顕義(やまだ あきよし・1844-1892)は長州藩士である山田家の長男としてこの地で生
        まれる。14歳で松下村塾に学び攘夷運動に奔走する。
         明治維新後は、岩倉使節団に従い欧米を視察して、「法律は軍事に優先する」ことを確
        信する。内閣発足後は司法大臣として法典編纂に任にあたるが、病気を理由に辞任する。
        1892(明治25)年に再従兄の河上弥市の最期の地を訪れ、生野銀山視察中に倒れて没す。     
        日本大学の学祖とされ、生誕地は顕義園として公園化されている。

        
        
         楫取素彦(小田村伊之助)は藩医の松島家に生まれ、藩儒・小田村家を継ぐ。初代の群馬
        県令となり産業・教育に力を注ぐ。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では時の人となったが、
        今では訪れる人も少ないようだ。(兄が松島剛蔵)

        
         松島剛蔵旧宅地碑が河原家の前にあるが、実際の生家はさらに150mほど東側とのこ
        と。

        
         東光寺は、1691(元禄4)年に3代藩主・吉就が創建した黄檗宗の寺院である。総門は
        桁行三間、梁間二間の八脚門で、中央打ち上げの棟式屋根は黄檗宗様式で、表面はベンガ
        ラを施している(国重要文化財) 

               
        
         1812(文化9)年に藩主・毛利斉煕(なりひろ)が寄進建立された三門は、入母屋造りで三
        間三戸2階建ての二重門である。(上が総門側、下が大雄宝殿側より。国重要文化財)

        
         1694(元禄7)年に藩主・毛利吉広が梵鐘を寄進した際に鐘楼が建立された。黄檗宗特
        有の一重二階もこし付の入母屋造りである。(国重要文化財)

        
         大雄宝殿(本殿)は、1698(元禄11)年に竣工した唐様式の仏殿である。黄檗宗では本
        堂を大雄宝殿と呼び、「お釈迦様がいらっしゃる所」とされている。堂内は土間で中国明
        時代の法要を継承するもので、黄檗宗の読経は立ったまま行われる。建物の正面桁行は五
        間、背面は三間、梁間は四間の入母屋造りである。 (国重要文化財)

        
         大雄宝殿の屋根には24個の鬼瓦が各棟に据えられている。南東隅棟の二の鬼の位置に
        据えられた鬼瓦は、創建当時の鬼瓦であるとのこと。

        
         1896(明治29)年に身をもって難に殉じた藩士のために慰霊墓所が設けられる。禁門
        の変による幕府への謝罪のために切腹した三家老と、俗論派のために萩で自刃させられた
        清水清太郎、幕府の長州征討の起因の責任をとって山口で自刃した周布政之助、反対派に
        より野山獄で処刑された11烈士などが祀られている。

        
         建立当時は新寺の建立は禁止されていたので、厚狭郡松屋村(現下関市松屋)にあった東
        光寺を現在の地に移したものである。吉就没後に廟所とされ、以来、大照院と並んで毛利
        家の菩提寺となる。

        
         3~11代までの奇数代藩主夫妻が葬られている。墓の形式は五輪塔(大照院)ではなく、
        唐破風の笠石付き角柱(位牌)の形に統一されている。

        
         墓所内に整然と左右均等に並んでいる約500基の石灯籠は、家臣らが主人を追って殉
        死する替わりに寄進したのが始まりとされる。

        
         肴板(ぎょばん)は魚の形をしているが、魚は日夜を問わずに目を閉じないことから、寝る
        間を惜しんで修行に精進しなさいという意味があるらしい。使用目的は、これを打って時
                間や行事を報知させた。

        
         大雄宝殿への長い廊下。

        
         団子岩と呼ばれる小高い丘に、1860(万延元)年2月7日吉田松陰の遺髪を埋葬した墓
        がある。松陰の後側に高杉晋作の墓があるが、松陰を背後からお守りするという意味だそ
        うだ。

        
         吉田松陰生誕地から萩の町並みが見える。

        
         杉家は川島に住んでいたが文化・文政の大火に遭い、1825(文政8)年に父が俳人の八
        谷聴雨の別荘を買い求めた。松陰誕生後の1848(嘉永元)年、現在の松陰神社境内に生
        活の場を移す。

        
         松下村塾の創設者であり吉田松陰の叔父にあたる玉木文之進は、1842(天保13)年に
        塾を開いて多くの子弟を教育した。1876(明治9)年に前原一誠の起こした萩の乱を阻止
        できず、多くの門弟が参加したことから「自己の教育責任を一死をもってこれを償う」と
        自刃する。(享年66歳)

        
        
         14~28歳まで起居した伊藤博文の旧宅は、木造平屋建て29坪の小さなものである。
        萩藩中間の伊藤直右衛門の居宅であったが、1854(安政元)年に博文の父・林十蔵が一家
        をあげて伊藤家に入家した。(国史跡)

        
        
         伊藤博文が別邸として、1907(明治40)年に東京・大井に建てたもので、その後、上
        杉家に譲渡され、ニコンが1944(昭和19)年に取得したが、傷みがひどく解体されるこ
        とになった。
         このことからが萩市が、1998(平成10)年に玄関、大広間、離れ屋敷3棟を移築した。

        
        書院の間と次の間。

        
         奈良にあった樹齢1000年の吉野杉を一枚板(厚さ5㌢、幅2m、長さ10m)として
        使った鏡天井廊下である。

        
         松下村塾の四天王と呼ばれた吉田稔麿(1841-1864)の生誕地。1864(元治元)年6月5
        日の京都・池田屋事件で命を落とすことになるが、最期については諸説あるようではっき
        りしないという。

        
         松下村塾で学び、攘夷運動に奔走した品川弥二郎(1843-1900)の生誕地。禁門の変に参加
                したが敗けて帰国し、御堀耕助らと御楯隊を結成。維新後は内務大臣などを歴任する。

        
         この付近に椿郷東分村役場があったとされる。

        
         松本川右岸をJR東萩駅まで戻るとJR(美祢線経由)、JRバス(山口駅)、防長バス(新
        山口駅)行きの路線がある。


萩市佐々並は伝統的建造物保存地区

2019年09月08日 | 山口県萩市

                
        この地形図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号令元情複第546号)
         佐々並は萩往還道の整備とともに成立した集落である。江戸後期の屋敷数は62軒、御
        茶屋や御客室などの休憩施設のほか、目代(もくだい)所・伝馬・人夫など通信、運搬の組織
        や施設が置かれた。町並みは往時の景観をとどめ、伝統的建造物群保存地区に指定されて
        いる。(歩行 約3.5㎞) 

        
         JR山口駅からJRバスJR東萩駅行き約45分、根引バス停で下車すれば萩往還道と
        合わす。

        
         バス停から往還道に入ると、要所にはブルーの道標が設置してある。

        
         「落合の石畳」を緩やかに下って行く。

        
         落合の石橋は、1945(昭和20)年代にオート三輪で荷物を運んでいる途中、真ん中の
        石橋が折れたとか。 (国登録有形文化財)

        
         長さ2.4m、幅1.7mの石橋は、江戸後期に造られた刎(はね)橋で、石組みの両岸から
        張り出した石を橋桁にした山口県特有の石橋である。

        
         千持峠へ向けて坂を登って行くと、途中には休憩所もある。(舗装路の分岐を右)

        
         峠から緩やかに下って、久年(くどし)集落への石畳を踏む。

        
         佐々並の町が見えてくる。

        
         江戸期の久年集落は農業を営む傍らで、人や荷物を運ぶために必要な人夫や馬を負担し
        た。

        
         小川家はかつて饅頭屋を営んでいたという。江戸末期の建物とされ、平入り平屋建ての
         西側一間半に3枚戸を建て、外側に雨戸を引き通し、東側一間半に跳ね上げの蔀戸を設け
        ている。

        
         西岸寺(さいがんじ)は慶長年間(1596-1615)に、毛利輝元が参勤交代の際に休憩場所とする
        ため、中畑集落の地から今の場所に移築した。現在の本堂は1738(元文3)年築、山門は
        1850(嘉永3)年頃に建てられた。

        
         参勤交代の際は、馬に乗って出入りできるように門が大きく造られている。門は中心柱
        のほか、控え柱で支える四脚門である。

        
         平入り二階建てで農家系住宅の名残りをとどめている。(手前から旧山中家、三浦家、
        山田家)

        
         山田家(右)は牛馬小屋を兼ねて納屋を設け、隣家との間に通路部分を設けている。馬は
        この通路から萩往還道に出て、目代所に駆け付けていた。

        
         弘中家(食料品店)は昭和初期の建物とされ、手前が片入り母屋で奥は切妻屋根の珍しい
        構造である。(改築されたようだ)

        
        
         佐々並橋を渡ると左側に高札場があったが、現在は河川敷になっている。ここには幕府
        や藩のお触れが掲示されていた。1966(昭和41)年の洪水により佐々並川が拡張された
        際、枡形となっていた道も直線的に改修された。

        
        
         田中商店として明治以降に呉服店を営む。1895(明治28)年築の主屋には虫籠窓・格
        子が残る。残念ながら伝建地区にあって、改修されずに崩壊の途をたどっている。裏手に
        は、1899(明治32)年築の蔵も残されている。

        
         小林家は目代所として人馬や駕籠の調達、賃金の徴収などをしていたが、明治から衣料
        ・雑貨商を営む。主屋は、1907(明治40)年頃この地の南側にあった旅館を移築したと
        のこと。

        
        
         小林家住宅の内部を見学できるようになっている。2階から中庭が眺められ、緑の中に
        石州赤瓦が映える。

        
         2階から街道を見通すことができ、土蔵には様々な資料が保管されている。

        
         林家は江戸期以来、林屋と号して旅館を営む。幕末期には高杉晋作,桂小五郎、坂本龍
        馬も宿泊したとされる。

        
         白漆喰に袖壁を配した椿家は、1888(明治21)年築の建物で、江戸時代は薬や薬草を
        扱っていた。
         手前の林家は、江戸時代は酢を製造していたが、大正期には衣料品店をされていたとい   
        う。

        
         1933(昭和8)年に山口~萩間のバス定期路線が開設され、鉄道省営バス停留所として
        洋風建築の佐々並駅が設けられた。当時は木炭バスのため路線時間は3時間半も要してい
        た。

        
         町並みは左折して上ノ町へ連なる。通路の中央には流・融雪溝が設けてある。

        
         木村家は御茶屋の予備として置かれたもので、家老、役人、他国使者の宿泊所として使
        用された。周囲は茅葺きであったが瓦葺きで葺かれていた。1917(大正6)年に佐々並村
        役場が隣の地に置かれた。

        
         往還道を隔てて北側にも木村家と同じく御客屋の井本家があった。役目を終えて当分の
        間、姿をとどめていたが敷地分割で姿を消してしまったとのこと。
         浅川理髪店は井本家の敷地跡に建っており、建物はその一部であるとされている。週1
        回の営業だったそうだが、高齢のため廃業されたとのこと。

        
         明治前期の建物とされる野崎家(手前)と隣の青木家。1865(元治2)年1月15日の夜
        半から16日にかけて長州の内訌戦が佐々並の地で行われ、12軒の家が焼失したが、そ
        の直後に再建された。

        
         三浦酒造の建物も佐々並の戦いで焼失して明治前期に建てられた。当初は「土山酒造」と
        号して酒造業を営んでいたが、1913(大正2)年に土山家から三浦家が譲り受けた。
        (現在は酒造りをされていない)

        
         大野家(畳屋)も佐々並の戦いで焼失するが、江戸後期から明治にかけて再建された農家
        系茅葺き屋根建築である。

        
         廃藩とともに御茶屋はなくなり、今ある建物は旧佐々並小学校校舎で、学校移転した後
        は市区公会堂として利用されている。

        
         毛利輝元が萩へ移る際に長松庵で休憩したとされ、後にこの地へ御茶屋が建てられたと
        伝える。御茶屋は670㎡の広さがあって、本館、長屋門、御蔵、番所などがあった。

        
         鉄筋の代わりに鉄砲の銃身が使われているとも云われる三浦酒造の煙突。勝手口側には
        かつての生活用水が流れている。

        
         市頭一里塚は石で畔をつくり、土を盛って塚木を立てたものであった。塚木には「従三
        田尻船場八里(約32㎞)・従萩唐樋高札場四里(約16km)」と記されていた。

        
         貴布禰神社は京都貴布禰神社から勧請し、大内時代に建立された。元々は御茶屋を見下
        ろす位置にあったが、殿様を見下ろすのは不敬だと現在地に移したとされる。

        
        
         貴布禰神社から台山に上がると佐々並の町並みが一望できる。

        
         台山から道の駅「あさひ」方向へ下ると佐々並バス停があり、ここから山口市内へ戻る
        ことができる。


防府市の富海は旧山陽道の半宿だった地

2019年09月08日 | 山口県防府市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         富海(とのみ)は江戸期のはじめは萩藩領であったが、支藩の徳山藩が誕生すると徳山藩領
        に組み込まれる。域内を山陽道が通り、宿場町(半宿)が形成されたが漁村であった。安永
        年間(1772-1781)になると、漁船が旅客や貨物を運搬するようになり、大阪まで陸路で2週
        間かかるところを約6日で行ったと伝えられている。(歩行 約6㎞)

        
         JR富海駅は、1898(明治31)年に山陽鉄道の延伸により開業するが、今でも開業当
        時の雰囲気を残す駅である。「とのみ」とは読めない難読駅の1つでもある。

        
         駅から富海海岸に出ると看板に目が留まる。明治の終わり頃に、富海海岸の美しさに魅
        了されたエドワード・ガントレット博士により、富海が広く紹介されて鉄道による海浜リ
        ゾート地になったとのこと。
         ガントレット博士(1868-1956)は、山口高等商業学校(現山口大学経済学部)の英語教師と
        して、8年6ヶ月を山口で過ごす。その間、秋芳洞の学術調査を行い海外へ初めて紹介し
        たことでも知られる。1898(明治31)年に作曲家・山田耕作の姉である恒子と日本で最
        初の国際結婚をした人物でもある。

        
         松原から海岸線が遠くなったが、湾の東側には周防灘に突き出た八崎岬がある。江戸時
        代、飛船が岬を見ながら出入りしたとされる。

        
         伊藤俊輔(博文)と井上馨は、1864(元治元)年に四国連合艦隊が下関襲来を知り、急遽、
                英国から3ヶ月の航海を経て、6月10日に横浜港へ到着する。
         ザフォード・オールコック英国公使と面談し、長州説得を条件に6月20日、軍艦ハ
        ロサ号で大分県の姫島に着いた。

        
         その後、飛船入本屋磯七宅へ密かに上陸し、身支度を整えて陸路で三田尻を経由して山
        口に入ったとされる。(建物は老朽化のため解体された)

        
         港の出入口に竜神が祀られ、山陽本線が走る。

        
         今井・中西君受難碑が浦開作第1踏切傍に建てられている。裏書きには、1944(昭和
          19
)年7月21日運転中の前方に列車転覆事故を発見し、非常手段を講じたが及ばず‥‥
        今井機関士20歳、中西機関助手18歳とある。

        
         飛船で栄えた富海港だが、現在の富海漁港は第1種漁港とされ、利用範囲は地元の漁業
        を主とする漁港である。

        
         海から国津姫神社に通じる鳥居は、1839(天保10)年に海上安全を祈って飛船乗組中
        が寄進したとある。

        
        
         国津姫神社は富海の氏神様で、祭神は厳島神社や宗像大社と同じ海の女神三柱が祀られ
        ている。景行天皇や神功皇后が船で立ち寄ったことや、毛利元就が社を修復したことなど
        の由来が残されているようだ。

        
         1872(明治5)年に学制が公布され、神祥寺跡に石川・佐伯両家の寺小屋を引き継ぎ、
        富海小学校が開校される。1902(明治35)年に神社境内地に移転したとある。(解体作
        業中であった)

        
         脇集落の山手側に脇古墳がある。古墳時代後期に造られたとされる横穴式石室の古墳で、
        墳丘の土が流れて石の間から中を覗くことができる。

        
         国道2号線を横断して旧山陽道を山手に向かうと円通寺(真宗)がある。創建時は椿峠に
        あったが、延宝年間(1673-80)に現在地へ移転する。1866(慶応2)年に設置された徳山
        藩小隊の陣屋となる。

        
         酒造業をされていたと思われる大きな古民家がある。

        
         「白菊」と記された煙突等は撤去され、当時の面影は失われていた。(2011年撮影)

        
         新川の「ひがしじょう橋」から山手に向かうが急坂である。見晴らしのよい所に上がる
        と、富海の町並みや周防灘などが開ける。

        
         石原薬師堂は仏門に帰依した平重盛の曾孫・金剛房南岳大僧都が、壇ノ浦の戦いで敗れ
        た平家一門の菩提を弔うために、鎌倉期の1211(建暦元)年に建立したとされる。古くは
        光福寺と称していたという。

        
         聖観音像は平安時代後期、薬師如来像は鎌倉時代、脇士不動明王・毘沙門天は室町時代
        の作とされる。(ガラス越に拝見) 

        
         再び国道2号線を横断して富海小学校脇に出ると、JA支所前で旧山陽道と合わす。角
        には国登録有形文化財の清水家がある。

        
         清水家は江戸時代前期には紺屋業、のちに酒造業を営み町年寄を務めた清水弥兵衛が、
        1878(明治11)年に建てたとされる。桟瓦葺きの木造平屋(厨子2階あり)漆喰仕上げの
        町家で、街道に面して出格子を備えている。

        
         富海宿は東町、中市、新町で構成され、町の長さは約527mあり、町の中心は中市で
        あった。宿は半宿で町年寄の支配に属し、宿馬15疋が置かれていた。

        
         脇本陣だった入江家。

        
         入江家の角には「當国20番 瀧谷寺道」の石柱があり。周防33観音霊場20番札所
        とされている。
         1615(慶長20)年当地を領していた内藤元盛は、佐野道可と変名して大坂城に入って
        豊臣方として戦う。(主家の意向を受けたとも)
         大坂城が落城すると逃走したが捕らえられて切腹させられる。元盛の長男である元珍(も
          とよし)
は徳川氏より京都に呼び出されたが、大坂城に入城しなかったことで許されて国元
                に戻る。
                  しかし、毛利輝元は切腹を命じ、瀧谷寺(りゅうこくじ)で自刃した。(享年34歳)

        
         富海本陣は徳山藩に直属する御茶屋で、永代御茶屋預けとして石川家が命じられる。維
        新後は石川家の所有となったが、その後、S家とA家の所有となり、A家の家屋新築で土
        塀などの遺構が消滅する。S家は一部建物を解体したため、土塀と門だけが遺存されてい
        る。この本陣は、東隣の福川宿や西隣の宮市宿が混雑する時に利用された。

        
        
         入江家前から海側への路地を抜けると船蔵通り。

        
         飛船問屋大和屋政助の船蔵で、2階が客室、1階が台所兼物置、地下が倉庫となってい
        て、船を地下に横付けして乗客や荷物を載せた。
         大和屋政助は幕末、勤皇の志士の活動を援助し、1863(文久3)年9月には中山忠光公
        を匿い、1864(元治元)年には俗論派に追われた高杉晋作も政助を頼り、飛船で赤間関ま
        で送ったとされる。

                
         イギリス積み煉瓦構造の建物がある。地元の方によると荷受け倉庫だったとのこと。

        
         この小道が江戸時代の海岸線であったとされ、船蔵に船を横付けできる構造で、最盛期
        には50~60軒の飛船問屋があったとされる。海岸線と各家は石段で結ばれている。

        
         山陽本線下を潜る。

        
         船蔵通り出入口に南画家「小田海僊(おだかいせん)の生誕地」の碑がある。海僊(1785-18
        62)は廻船業の河内屋に生まれ、下関市の「小田家」の養子となる。22歳のとき松村呉春
        に絵を学び、中国風の画風を取り入れて南画家として有名になる。高野山や京都御所の障
        壁画などを手掛けている。

        
         旧理髪店前で旧山陽道と合流して西町に入り、山陽道を進むと右手にえびす堂がある。
        生業を守護として福利をもたらす神で、鯛と竿をもっている姿から海浜に祀られ、漁師が
        大漁を祈って祀っていた。

        
         大和屋政助の墓は品川弥二郎の揮毫で、墓碑銘「攘夷義民大和屋政助墓」とされている。
        燈籠にも「燈籠1基品川氏」とある。
         裏面ははっきりと読めないが、明治19年(1886)8月9日死 碑面 子爵品川‥」とあ
        る。

        
         同じ墓地内の右手奥に入江石泉(せきせん)の墓もある。富海の町年寄で海坊僧として知ら
        れた月性に学び、私財を投じて文学堂などを設け、富海における尊王攘夷の指導的役割を
        果したとされる。(墓の近くにJR富海駅)


萩市明木は萩往還道と赤間関街道の追分

2019年09月06日 | 山口県萩市

                
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号令元情複台第546号)
         明木(あきらぎ)は萩往還道と赤間関街道が交差する地に形成された集落である。江戸時代
        後期の屋敷数は73軒、御客屋(公用の休憩施設)などの公的施設も置かれた。1891(
          治24)
年の大火後、往年の町並みに沿って再建された。(歩行約7㎞)

        
         JR新山口駅在来線口から防長バス東萩駅行き約1時間、横瀬橋バス停で下車する。

        
         下横瀬公民館(国登録有形文化財)は明木村立図書館として、1906(明治39)年に日露
        戦争記念として明木尋常高等小学校内に開設される。
         この建物は、1928(昭和3)年に建設された2代目で、1959(昭和34)年に下横瀬の
        公民館として移築される。(残念ながら施錠されて内部を見ることができず)

        
         建物の外観は下見板張りの壁に、正面には左右対称に欄間付き上げ下げ窓を設け、窓上
        部に単純な装飾をつけている。

        
         赤間関街道中道筋は明木の牛地から上横瀬までの間、一部を除いて国道262号線と県
        道萩秋芳線に重なっているため、明木川に沿って集落道を北上する。(角力場集落付近)

        
         1604(慶長9)年萩城が指月山の麓に築かれる際に功績のあった、菅蓋(すげぶた)の又十
        郎の生誕地碑が建てられている。

        
         里道を進むと国道262号線に合流する。国道の反対側に「萩市特産品販売所つつじ」
        があり、トイレ、レストランも併設されている。

        
         国道を横断して旧国道に入ると、右手に街道を示す道標がある。

        
         牛地集落を見ながら街道に沿うと、明木小学校で街道は寸断されている。

        
        
 萩往還道(直進)と赤間関街道(右)の堂尾追分に出る。

        
         追分の山手側に荒神社と庚申塚、石像3体がある。

        
         大庄屋だった瀧口本家。

        
         下って行くと往還道は突き当って右折するが、当時、左折する道は人家で塞がれており、
        1884(明治17)年に三差路となる。

        
         左手の倉床商店の日除けテントには、萩往還一升谷入口を示す案内が記されているが、
        この先からは明木市である。

        
         1867(慶応3)年に建てられた道標が、JAあぶらんど萩明木支所の敷地内角にある。
         「右 せき道 左 山口道」と彫られていることから、道標は堂尾追分にあったと思わ
        れる。

        
         明木神社参道の右手には、1884(明治17)年に建てられた土蔵造りの藤井家があり、
        洋風の銅板窓が取り付けてある。
         福沢諭吉に師事し、西洋式簿記(複式簿記)の普及に努めた藤井清の生家である。       

        
         1891(明治24)年の大火で瓦葺きの藤井家が焼け残ったこともあり、茅葺き家屋から
        瓦葺き家屋が増加する。(石段の左手が藤井家)

        
         1906(明治39)年に萩寄りの原集落にあった権現社を明木神社に改め、1908(明治
        41)年に、堂尾の菅山神社跡に移転させて村社とした。

        
         1868(明治元)年創業の瀧口酒造には、白壁と石州瓦の蔵、高い煙突は地域のシンボル
        とのこと。

        
         呉服店だった証がそのまま残されている。

        
         街道沿いに見事な山門がある瑞光寺。

        
         明木村時代から村役場があった地である。1955(昭和30)年に佐々並村と合併し、明
        木の「あ」と佐々並の「さ」をとって旭村となる。合併の際に役場の位置を決めなかった
        ため、2年毎に役場本所と支所を入れ替えをするという全国的に珍しいシステムが行われ
        てきた。
         1995(平成7)年電算化に伴い明木に固定化され、現在は萩市旭総合事務所が置かれて
        いる。

        
         大庄屋瀧口家の分家にあたる瀧口酒造の表口。

        
         総合事務所駐車場の隣は門と格子戸のある中谷家。

        
         江戸時代には人や馬などの手配を担っていた目代所(もくだいしょ)が置かれていた場所で
        ある。現在の大玉家は、1891(明治24)年の大火後に建てられた建物であるが、中2階
        部分には虫籠窓が見られる。

        
         参勤交代の際に重臣たちが休憩した御用屋敷のあった地で、吉田松陰が金子重輔と共に、     
        江戸から送還された時、最後に宿泊した場所とされる。現在は原家で改装されている

        
         参勤交代の際に藩主が休憩した御客屋跡。今は「乳母の茶屋」と命名され、萩往還を訪
        れる人のための休憩施設になっている。

        
         お地蔵さんがある場所に、明木市の高札場・春定札場があったとされる。お地蔵さん傍
        には札場に使われたと思われる大きな石が残されている。

        
         西来寺門前には市尻の土橋が架かっていたとされ、その橋脚の痕跡が寺側の川岸に残さ
        れているとのこと。

        
         1934(昭和9)年築の旧郵便局は、民家として利用されている。

        
         石崎酒店前を左折すると明木橋。

        
         西来寺山門前の石碑は、1604(慶長9)年に萩城が指月山に築かれる際に、明木の里に
        石工の技に秀でた古戦場の彦六と菅蓋の又十郎という青年がいた。
         その働きに対して「何なりと望みのものを申せ」といわれ、明木村より搬出する口屋銭
        (萩城下に売り出す薪炭・野菜などに対する明木の里全員に課せられた税)の免除を願い、
        後世に永く恩恵を残したとある。(説明板より)

        
         吉田松陰が伊豆下田で密航を企てたが失敗し、捕らわれの身となって萩へ護送される。
        1854(安政元)年10月24日に明木橋を渡った際に、「わたし松陰は少年の頃、この明
        木橋において志を書いたことがある。そして今、監に入れられて返されてきたが、故郷に
        錦を飾って帰る思いである」と詠む。

        
         原集落の川上側に明木橋で詠んだ漢詩が石碑に残されている。

        
         県道32号線(萩秋芳線)の函渠を潜り、明木川の土手を北上する。(左手は原集落)

        
                 1865(慶長9)年の長州藩は、正義派と俗論派が激しく対立し、大田・絵堂の戦いなど
        で正義派が勝利する。諸隊に対して萩へ突入しないように説得と和平交渉を進めるため、
        1865(元治2)年2月10日に鎮静会の香川半介、桜井三木三、冷泉五郎、江木清次郎が
        山口の諸隊を訪れる。
         翌日、山口からの帰路、権現原で藩軍の刺客に襲われて江木を除く3名が絶命する。

        
         この地蔵は三士殉難の地に、三士の冥福を祈って建立されたとも、いつも明木川が権現
        原で氾濫するので、田畑を水害から守るために建立されたともいわれている。
         地蔵の建立時期は定かではないが、石灯籠には「奉献 明治12年(1879)7月24日」
                とある。

        
         三士殉難の地からさらに萩方面へ進み、明木川に架かる中所橋を渡る。

        
         国道に出ると瓜作(うりづくり)バス停はバス2社の停留所で、湯田温泉及びJR新山口駅
        行きがある。時間は重なっていないため到着時間に合わせてどちらかのバスに乗車できる。