ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

呉市の音戸は銀座街一帯と瀬戸の渡し船 

2017年10月04日 | 広島県

        
         音戸は呉市の南部に位置し、瀬戸内海に浮かぶ倉橋島のうち、その北東部に瀬戸島村と
        渡子島
(とのこじま)村が存在する。1906(明治39)年に瀬戸島村が湾入部の隠渡に因んで
        町名を
「音戸町」とし、その後、渡子島村と対等合併して音戸町となる。     
         
音戸大橋を車で渡れば数分で音戸の町に入ることができるが、この町を散歩するには日

        本で一番短い渡船で、瀬戸の潮流や大橋などを眺める船旅は欠かすことができない。渡船
        を利用するために音戸の瀬戸公園より案内に従ってつつじケ丘に上がる。

        
         1950(昭和25)年12月に吉川英治が、小説「新平家物語」の取材のため音戸の瀬戸
        を訪れた際、感懐「君よ今昔の感如何」が富士形の石に刻まれ、平清盛になぞらえた
円形
        の石とともに瀬戸を望んでいる。

        
         
音戸の渡船場は木造で周囲とは少し違った感じではあるが、情緒ある建物は人情ある人
        々に支えられて健在である。音戸の瀬戸120mを片道3分で結ぶ航路であるが、料金は
        4月から値上げされて100円となったが、安さとひとりでも運航していただける恐縮す
        る船旅でもある。

        
         乗船すると船長さんが帰りの乗船の方法などを親切に教えていただく。(音戸側に到着) 

        
         
ポンポンというエンジン音は懐かしい。 


        
                          
         瀬戸内海における初めての離島架橋として、1961(昭和36)年12月に螺旋式とルー
        プ式の「音戸大橋」が架けられる。

        
         海辺に清盛塚があるが、音戸の瀬戸を「一日で切り開いた」と伝えられる平清盛(1118-
                1181)は、人柱の代わりに一宇一石を海底に沈め、難工事を完成させた。
1184(元暦元)
        年にその功績を称え、供養のために清盛塚を建立したといわれている。周囲49mの石垣
        に囲まれた塚の中央には、供養のために立てられた石碑がある。

        
         海岸線を歩く。

        
         音戸の瀬戸を行き交う船頭たちによって唄われてきたのが「音戸の舟唄」で、日本の三
        大舟唄の一つといわれている。

         
         軽自動車の通行がやっとと思える旧道に入ると、懐かしい昭和が残る通りとなっている。

        
         かつては銀行や商店、劇場、旅館などが並び、賑わっていた旧道沿いには、現在も残る
        白壁の蔵や、風格のある商家から当時の様子を知ることができる。

        
         
         音戸高校の校門を過ごすと、「音戸旧道なつかし通り」と呼ばれる鰯浜に入る。入口の
        門には「桜湯」と書かれたランプがあるが音戸遊郭の1つと思われる。

                  
         その先の洋風建築は旧呉銀行音戸支店だった建物で、1909(明治42)年に地元の商工
        業者が
中心となって、呉市にあった商工銀行の営業権を買い取り音戸銀行を開設した。
         しかし、1927(昭和2)年の金融恐慌により呉銀行に合併され、1945(昭和20)
        5月には呉銀行など5行が合併して、藝備銀行(現広島銀行)が設立される。

         
         城谷本店は明治になってから造り酒屋と郵便局・電報局などの事業を行う。八百坪の土
        地に築200年を越える木造建築の2階は百畳もあり、6つの部屋が襖で仕切られていた
        という。往年のアイドル・城みちる氏のご実家だそうだ。

        
         音戸大橋は螺旋式高架橋となっているため、引地地区と鰯浜地区を寸断しているので、
        かくれ地下道を利用しなければならない。

        
         北側の引地地区に入ると、1882(明治15)年創業の老舗・数田屋呉服店が目を引く。
        現代は「カフェスペース天仁庵」が併設されている。

        

         虫籠窓のある立派な河野商店さん。

            

         河野商店手前を左折して路地に入ると法泉寺(浄土真宗)である。石垣には「忍び返し」が
        ついており、お城のような寺である。

        
         1536(天文5)年に毛利元就の庶子・元為が、15歳で真言宗満願寺にて出家得度し、
        法専と号した。天台宗の寺を開いたが、のちに浄土真宗に改宗される。
   
        
         音戸大橋は建設から50年が経過したことや、交通量増大に伴う慢性的な交通渋滞に対
        応するために、2013(平成25)年に「第二音戸大橋」が架けられた。

         
         かっては音戸銀座街と呼ばれ、呉服屋や履物屋などの立派な町家が建ち並んでいる。

        
         北辻呉服店さんは営業されている。

        
         ひっそりとした町は昭和の風情が漂う。

        
         順覚寺(浄土真宗)に上がる68の石段は、1821(文政4)年に築造されたものである。

        
         第2音戸大橋が見える付近で路地裏歩きを終える。

        
         3階建ての割烹戸田本店は築130年だとか。

        
         音戸側の渡し場から手を振り、迎えに来てもらうのを楽しみにしていたが、残念なこと
        に船は桟橋に待機中であった。長い歴史を持つ音戸の渡しがいつまでも続くことを願って
        やまない。

       
 
                    
           
         高烏要塞砲台跡のメイン遺構とも言える兵舎跡には、すぐ横に階段があるので上から見
        ることができる。明治期に造られたレンガ製の建造物もしっかりしたものが多いが、花崗
        岩で造られたこの兵舎跡も屋根はないものの遺構を留めている。
 

         
         日清戦争が起こるにいたって、広島に大本営が置かれるなど情勢の変転に伴って、18
        96(明治29)年から陸軍の手により砲台、火薬庫、兵舎などの工事が始まり、1902(明
        治35)年に完了した。大正期に廃止されたそうが、太平洋戦争が勃発すると海軍に移管さ
        れて高角砲が装備されたとのこと。

       
 
         旧音戸町はわずかな低地に集落が展開し、その中心は倉橋島の北側であるこの地に集約
        されている。