この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
吉部(きべ)は四方を山に囲まれ、蔵目喜川に沿って広瀬、鈴倉、吉部市の集落を形成する。
江戸期には萩より石州津和野に至る石州街道白坂道が通り、この道に沿う吉部市には奥
阿武宰判が置かれた。市も開かれ駅も置かれていたが,広瀬にも駅が置かれ、人馬などの
準備用達が行われていたという。(歩行約7.5㎞。広瀬下で引き返すと5.8㎞)
湯田温泉からバス便があるものの便数が少ない上、乗車時間長いこともあって公共交通
機関の利用が厳しい地域である。猛暑とコロナ感染防止もあって車を利用する。(駐車地は
萩市役所むつみ支所)
旧吉部村役場・旧むつみ村役場(国登録有形文化財)は、1895(明治28)年に建築され
た木造2階建て寄棟造妻入りの庁舎である。
1985(昭和60)年に新庁舎が建設されるまで90年以上にわたって、役場の本庁舎と
して使用されてきた。
旧むつみ村役場土蔵(国登録有形文化財)は、1896(明治29)年築で屋根は本庁舎とも
石州瓦葺きである。外壁は漆喰仕上げとするが腰下は板張りとし、正面扉口に切妻の庇屋
根を付けている。
総合支所前に平入りの大きな民家。
特養「むつみ園」(吉部中学校跡)入口付近から総合支所方向の通り。
蔵目喜川に沿う。
広瀬集落の外れにある虫枯大地蔵尊は、1732(享保17)年の虫害(ウンカ)による餓死
者の霊を慰めるために、1781(天明元)年の50回忌に清月院住職が大法要を行うにあた
って供養塔が建立されたものである。隣には子を抱える子安産観音。
地蔵尊の先にある民家裏を上がって行くと、清月院跡に高さ1.25mの宝篋印塔がある。
風土注進案によると、1600(慶長5)年毛利氏の防長移封にともない、安芸国から吉部村
に移住土着した伊藤因幡守の嫡子・伊藤対馬守の古墓と伝える。
川に沿って集落が展開する。
集落の多くは石州瓦とされる赤い屋根である。
石州街道白坂道は旧福栄村砂堂で山代街道と分岐し、旧阿東町白坂峠に至る街道であっ
た。広瀬集落は江戸期には駅や目代所が置かれ、明治以降も経済や交通の中心的役割を担
ってきた。バスが乗り入れるようになった大正末期から1955(昭和30)年代には、バス
14台が常駐する吉部営業所が置かれ、奥阿武地域の交通の要所となっていた。
その営業所跡には広瀬バス停として小さな待合所が設置されている。(バスの場合、こ
こで下車)
八千代酒造前の大きな釜は、1980(昭和55)年頃までお湯を沸かして米を蒸すため
に使用されていたとか。
1887(明治20)年創業の八千代酒造は、「八千代」の銘柄で酒造りが行われている。
白坂道は八千代酒造前のT字路で左折して鈴倉集落へ進むが、広瀬集落は1987(昭和
62)年の県道バイパスの新設、バス車庫や郵便局の移転などにより大きく変わったようだ。
引き返さずにバイパスから旧村道大光寺線を散歩してみたが、最初は上り一辺倒で、大
光寺集落からは急な下り坂となる。残念ながら史跡等を見出すことはできなかった。
市総合支所へ戻ってくる。
鈴倉集落は明治以降吉部村役場や小学校が置かれ、戦後は中学校が設置されるとともに、
郵便局も広瀬集落から移転するなど村の政治・行政の中心となった。街道はむつみ郵便局
を過ぎると、旧村道から離れて消滅している。
県道に合流して左折して約300mほど上って行くと、右手に吉部八幡宮の鳥居が見え
てくる。
社伝によると、平安期の930(延長8)年亀尾山八幡宮と称し、1797(寛政9)年に現在
の本殿が造営されて藩政時代は奥阿武の祈祷所となった。1949(昭和24)年吉部八幡宮
と改称する。
参道の左右に2本、本殿右側に1本の大杉がある。樹齢は定かではないが、この地に遷
座された際に植栽されたものとみられる。
二ノ鳥居先で左折して下ると旧村道吉部市線(白坂道)に合わす。
旧吉部市に入る。
左手の山門に猫の置物があるのが臨済宗南禅寺派の雲林(うんりん)寺である。石段に「コ
ロナ感染防止のため拝観休止」とあるため拝観を遠慮する。(以降の寺内は2018年撮
影)
「ねこ寺」と呼ばれているようで、山門に上がると招き猫が出迎えてくれる。
1836(天保7)年6月12日の大洪水で甚大な被害が発生したことから、その供養碑と
して7年忌の1842(天保13)年10月に建立された。
招福堂の中には萩焼の猫観音菩薩が安置されているとか。
あの世専用の地蔵ポストとのこと。
2006(平成18)年に再建された鐘楼。寺は平原にあった清月院と、この地にあった栖
雲寺が合併して寺号を雲林寺と改称する。
猫との関係についてお尋ねすると、萩の天樹院と関係があるとのことで資料をいただく。
「招福堂縁起絵巻」によると、萩城下を築いた毛利輝元の家臣・長井元房には可愛がっ
ていた猫がいた。1621(元和7)年輝元逝去の折に元房も自刃するが、残された猫は天樹
院にある元房の墓前から離れようとせず、自ら舌を噛んで主の後を追う。
夜になると猫の鳴き声がするようになり、天樹院の僧が供養すると声は収まったという
猫伝説がある。
この寺の木彫りはチェーンソーアート作品だそうだ。
雲林寺から北へ300mほどが奥阿武宰判勘場があった吉部市である。風土注進案によ
ると店商い・酒屋・醤油屋など33軒があり、駅や目代所、高札場があったとされる。
当時の建物か否かはわからないが、この付近には大きな家が並ぶ。
明治創業の金波(きんば)醤油店。
吉部市中心部の高台に奥阿武宰判勘場の遺構が残る。
村の中心に聳える権現山(標高472m)の南麓にあって、東西にほぼ長方形に造成され
た宰判の敷地は、面積1300㎡にも及ぶ。旧むつみ村、阿東町、田万川町、須佐町、阿
武町(奈古は徳山藩領)を区域とした。
1993(平成5)年当時のむつみ村教育員会が発掘調査を行い、往時の建物の位置や規模
を示す礎石が確認され、鳥瞰図が設置されているので概要を知ることができる。
1687(貞亨4)年に勘場建物が建てられた後、1766(明和3)年、1829(文政12)
年に建て替えられたとされる。
草に覆われているが敷地を支える高さ5mを越える石垣は現存する。
井戸と貯水池。
牟禮神社は「牛馬守護神」として祀られているが、本殿は牟禮山(権現山)の頂上にある。
街道はこの先高俣村へとつながるが、神社鳥居前を終点として駐車地へ戻る。