ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

萩市吉部は奥阿武地方の中心地だった地

2020年08月25日 | 山口県萩市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         吉部(きべ)は四方を山に囲まれ、蔵目喜川に沿って広瀬、鈴倉、吉部市の集落を形成する。
         江戸期には萩より石州津和野に至る石州街道白坂道が通り、この道に沿う吉部市には奥
        阿武宰判が置かれた。市も開かれ駅も置かれていたが,広瀬にも駅が置かれ、人馬などの
        準備用達が行われていたという。(歩行約7.5㎞。広瀬下で引き返すと5.8㎞)

        
         湯田温泉からバス便があるものの便数が少ない上、乗車時間長いこともあって公共交通
        機関の利用が厳しい地域である。猛暑とコロナ感染防止もあって車を利用する。(駐車地は
        萩市役所むつみ支所)

        
        
         旧吉部村役場・旧むつみ村役場(国登録有形文化財)は、1895(明治28)年に建築され
        た木造2階建て寄棟造妻入りの庁舎である。 
         1985(昭和60)年に新庁舎が建設されるまで90年以上にわたって、役場の本庁舎と
        して使用されてきた。

        
         旧むつみ村役場土蔵(国登録有形文化財)は、1896(明治29)年築で屋根は本庁舎とも
        石州瓦葺きである。外壁は漆喰仕上げとするが腰下は板張りとし、正面扉口に切妻の庇屋
        根を付けている。

        
         総合支所前に平入りの大きな民家。

        
         特養「むつみ園」(吉部中学校跡)入口付近から総合支所方向の通り。

        
         蔵目喜川に沿う。

        
         広瀬集落の外れにある虫枯大地蔵尊は、1732(享保17)年の虫害(ウンカ)による餓死
        者の霊を慰めるために、1781(天明元)年の50回忌に清月院住職が大法要を行うにあた
        って供養塔が建立されたものである。隣には子を抱える子安産観音。

        
         地蔵尊の先にある民家裏を上がって行くと、清月院跡に高さ1.25mの宝篋印塔がある。
        風土注進案によると、1600(慶長5)年毛利氏の防長移封にともない、安芸国から吉部村
        に移住土着した伊藤因幡守の嫡子・伊藤対馬守の古墓と伝える。

        
         川に沿って集落が展開する。

        
         集落の多くは石州瓦とされる赤い屋根である。

        
         石州街道白坂道は旧福栄村砂堂で山代街道と分岐し、旧阿東町白坂峠に至る街道であっ
        た。広瀬集落は江戸期には駅や目代所が置かれ、明治以降も経済や交通の中心的役割を担
        ってきた。バスが乗り入れるようになった大正末期から1955(昭和30)年代には、バス
                14台が常駐する吉部営業所が置かれ、奥阿武地域の交通の要所となっていた。 
         その営業所跡には広瀬バス停として小さな待合所が設置されている。(バスの場合、こ
        こで下車) 

        
         八千代酒造前の大きな釜は、1980(昭和55)年頃までお湯を沸かして米を蒸すため
        に使用されていたとか。

        
         1887(明治20)年創業の八千代酒造は、「八千代」の銘柄で酒造りが行われている。

           

         白坂道は八千代酒造前のT字路で左折して鈴倉集落へ進むが、広瀬集落は1987(昭和
        62)年の県道バイパスの新設、バス車庫や郵便局の移転などにより大きく変わったようだ。

        
         引き返さずにバイパスから旧村道大光寺線を散歩してみたが、最初は上り一辺倒で、大
        光寺集落からは急な下り坂となる。残念ながら史跡等を見出すことはできなかった。

        
         市総合支所へ戻ってくる。

        
         鈴倉集落は明治以降吉部村役場や小学校が置かれ、戦後は中学校が設置されるとともに、 
        郵便局も広瀬集落から移転するなど村の政治・行政の中心となった。街道はむつみ郵便局
        を過ぎると、旧村道から離れて消滅している。

        
         県道に合流して左折して約300mほど上って行くと、右手に吉部八幡宮の鳥居が見え
        てくる。

        
         社伝によると、平安期の930(延長8)亀尾山八幡宮と称し、1797(寛政9)年に現在
        の本殿が造営されて藩政時代は奥阿武の祈祷所となった。1949(昭和24)年吉部八幡宮
        と改称する。

                
         参道の左右に2本、本殿右側に1本の大杉がある。樹齢は定かではないが、この地に遷
        座された際に植栽されたものとみられる。

        
         二ノ鳥居先で左折して下ると旧村道吉部市線(白坂道)に合わす。

        
         旧吉部市に入る。

        
         左手の山門に猫の置物があるのが臨済宗南禅寺派の雲林(うんりん)寺である。石段に「コ
        ロナ感染防止のため拝観休止」とあるため拝観を遠慮する。(以降の寺内は2018年撮 
        影)

        
         「ねこ寺」と呼ばれているようで、山門に上がると招き猫が出迎えてくれる。

        
         1836(天保7)年6月12日の大洪水で甚大な被害が発生したことから、その供養碑と
        して7年忌の1842(天保13)年10月に建立された。

        
         招福堂の中には萩焼の猫観音菩薩が安置されているとか。

        
         あの世専用の地蔵ポストとのこと。

        
         2006(平成18)年に再建された鐘楼。寺は平原にあった清月院と、この地にあった栖
        雲寺が合併して寺号を雲林寺と改称する。

        
        
         猫との関係についてお尋ねすると、萩の天樹院と関係があるとのことで資料をいただく。

        
         「招福堂縁起絵巻」によると、萩城下を築いた毛利輝元の家臣・長井元房には可愛がっ
        ていた猫がいた。1621(元和7)年輝元逝去の折に元房も自刃するが、残された猫は天樹
        院にある元房の墓前から離れようとせず、自ら舌を噛んで主の後を追う。
         夜になると猫の鳴き声がするようになり、天樹院の僧が供養すると声は収まったという
        猫伝説がある。

        
        
         
この寺の木彫りはチェーンソーアート作品だそうだ。

        
         雲林寺から北へ300mほどが奥阿武宰判勘場があった吉部市である。風土注進案によ
        ると店商い・酒屋・醤油屋など33軒があり、駅や目代所、高札場があったとされる。

        
         当時の建物か否かはわからないが、この付近には大きな家が並ぶ。
        
        
         明治創業の金波(きんば)醤油店。

        
         吉部市中心部の高台に奥阿武宰判勘場の遺構が残る。

        
         村の中心に聳える権現山(標高472m)の南麓にあって、東西にほぼ長方形に造成され
        た宰判の敷地は、面積1300㎡にも及ぶ。旧むつみ村、阿東町、田万川町、須佐町、阿
        武町(奈古は徳山藩領)を区域とした。

        
         1993(平成5)年当時のむつみ村教育員会が発掘調査を行い、往時の建物の位置や規模
        を示す礎石が確認され、鳥瞰図が設置されているので概要を知ることができる。
         1687(貞亨4)年に勘場建物が建てられた後、1766(明和3)年、1829(文政12)
        年に建て替えられたとされる。

        
         草に覆われているが敷地を支える高さ5mを越える石垣は現存する。

        
         井戸と貯水池。

        
         牟禮神社は「牛馬守護神」として祀られているが、本殿は牟禮山(権現山)の頂上にある。

        
         街道はこの先高俣村へとつながるが、神社鳥居前を終点として駐車地へ戻る。


山口市阿東の蔵目喜に常徳寺庭園と桜郷銅山跡 

2020年08月25日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千1地形図を加工・複製したものである。
         蔵目喜(ぞうめき)は山間部に立地し、中央を蔵目喜川が南流する。8つの集落に分散し、
        域内には銅、赤釜、町など鉱山で栄えた当時の様子にちなんだ地名が多い。
         地名の由来は近郊の村々から「ぞめき」といって、たくさんの若者たちが集まった「人
        がぞよめき賑やかな様子」が語源とされる。

        
         JR山口線三谷駅で下車し、萩~津和野間のバスを利用すれば訪れることは可能である
        が、町集落、銅集落、鉱山と分散しているため、徒歩では厳しいので車利用とする。(県道
        11号と旧県道との分岐に駐車地あり)

        
         駐車地から下って三差路を左折する。(右手に西教寺)

        
         旧鉛山地区の鉱山町であった町集落は、谷筋に形成されているが寺までは車で行くこと
        ができる。

        
         常徳寺(浄土宗)の創建は不明だが、防長寺社由来によると「天正年中より常徳寺と申す
        候、開基建立年号旧記無御座候」と、天正年間(1573-1592)以前から同地に寺院が存在して
                いたとも読める。
         1870(明治3)年に出火し堂宇を焼失、翌年に再建されたが、寺史など文書資料が失わ
                れたという。

        
         山門を潜ると右手に庭園があるが、寺は無住で他の住職が兼務されているとのこと。

        
                        
         同寺の庭園について風土注進案は、「画僧雪舟の築くところという。時代違えり」と記
        述されている。雪舟は室町期の1506(永正3)年に没しているが、庭園は池泉鑑賞式で、
        導水の方法や岩盤利用の滝石組みなどで構成され、雪舟しか見られない傾向があることか
        ら、雪舟の作庭ではないかといわれている。

        
         かってはひっそりと佇む山間の狭い場所に5,000人もの鉱夫が住まい、遊郭もあるほ
        ど賑わったとされる。現在は59世帯118人(2015年の国勢調査)が、山間の広い面
        積を少ない人口で支えている。(銅集落)

        
         銅(あかがね)集落へ下る分岐にバス停がある。

        
         蔵目喜川が集落を2分する。

        
         臨川寺は山口市阿東生雲中の瑞雲寺末寺で、かって古須ノ原村にあった西光寺を現在地
        に移転し、川に臨んでいることから臨川寺と改称する。
         その後、大洪水による流失や焼失などの災禍を受けたが、1928(昭和3)年に再建され
        る。境内には枝ぶりの良いしだれ桜が現存する。 

        
         1908(明治41)年開校の蔵目喜(木)小学校は、1936(昭和11)年の児童数233人
        をピークに減少し続け、1982(昭和57)年に生雲小学校へ統合されて廃校となる。

        
         校門、グラウンド、校舎は現存し、現在は社会教育施設として活用されている。

        
         桜郷銅山跡には蔵目喜川より県道328号線を1㎞ほど進むと左手にあり、蔵目喜地区
        で中心的なヤマの一つであった。伝承によれば、古代に深さ30mにおよぶ銅鉱脈の露頭
        が発見され、採掘・精錬された銅は、長門や山口鋳銭司にあった鋳銭所の原料や、東大寺
        大仏の建立にも使用された。
         約1,200年間にわたり栄枯盛衰を繰り返してきたが、1963(昭和38)年宇部興産の
        操業を最後にヤマの歴史を閉じた。(案内板より)

        
         現在は農村公園として整備され、散策コースが設置されている。

        
         駐車場傍にある風穴桜一番抗からは涼しい風が吹き出ている。

        
         風穴桜一番抗傍には水を用いて必要な金属と不純物を選り分けていた選鉱跡もある。

        
         樹木が生い茂っているが、よく見ると石垣などが確認できる。

        
         階段が設置されて登りやすいが急坂である。

        
         散策路に白い石が散在するが珪灰石だろうか?

         
         階段上に第1立坑。

        
         第2立坑。

        
         階段を上がって行くと須ノ原からの道と合わす。

        
         展望所の東方には旧柿木村と旧阿東町との境界尾根が南北に延びる。

        
         第1露天堀には東屋が設置されている。

        
         第一露天掘は歳月の経過とともに埋まってしまったようだ。

        
         鉱夫が坑内に入る時には必ず拝んでいたという山神社跡。山神社祭りの神事後には運動
        会などが行われたとのこと。

        
         鉱脈に沿って掘られため、深い地割れのような堀状の竪穴が続いている。(第2露天掘)

        
         第3露天掘も柵の内側に深い穴が続いている。樹木の生長で穴内部が見えなくなりつつ
        ある。

        
         コンクリート製の構築物が残存するが詳細はわからない。

        
         間歩へは駐車地まで戻って上り返さなくてはならない。

        
        
         間歩入口から坑道が約1,200m伸びていて、かつては毎月1,200〜1,400トン
        も鉱石が採掘されていたとのこと。   


下関市豊北町の田耕は中山忠光暗殺地と田上菊舎生誕地

2020年08月05日 | 山口県下関市

                 
                         この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         田耕(たすき)は域内の中央を粟野川が北西流し、全域が山嶺に囲まれた地域である。集落
        は粟野川流域平野と支流の谷に点在する。
         地名の由来は、田を鋤く。つまり耕地された土地の意とされる。(青:クルマ、赤:徒歩)

        
         JR滝部駅から西市へのバスがあるものの、四恩寺までの距離を考えるとクルマを選択
        せざるを得ない。
         国道435号の五千原バス停先に杣地への道があり、左折すると遠くに田耕(たすき)神社
        の鳥居が見えてくる。(入口に白滝山登山口を示す看板あり)

        
         田耕神社は粟野川を西南に見下ろす台地上にあり、前方に耕地が開け背後に白滝山がそ
        びえる。長い参道には3つの鳥居が設けてある。

        
         1908(明治41)年に菅原神社(松崎天神)と八幡宮を合祀して田耕神社と改称し、19
        55(昭和30)年には町村合併の際付近の厳島神社を合祀する。
         7年に1度の「浜出祭」は当社から出発し、延々14㎞の道を豊北町神田上の土井ヶ浜
        まで神幸される。

        
         中山忠光卿隠棲(いんせい)の地とされる大田新右衛門旧宅である。1864(元治元)年8月
        下旬に豊浦町の室津観音院から密かに大田宅に移る。表の間と中の間で一行6名の生活が
        始まり、10月中旬まで滞在して大林家に移るが、11月5日の夕方、庄屋・山田幸八の
        忠告により再び大田家に移された。

        
         説明板が樹木に隠れて場所がわかりづらいが、中山神社手前の左手にある赤いトタン屋
        根が大田宅である。

               
         中山忠光卿(1845-1864)は、姉・慶子(よしこ)が孝明天皇との間に懐妊した祐宮(後の明治
        天皇)を実家の中山家で生む。祐宮は5歳まで中山家で忠光らと共に過ごすが、家禄わずか
        200石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金をしたという。宮廷も貧
        しく質素な生活が忠光の王政復古を掲げた攘夷論に火をつけ、父と親交のあった武市半平
        太や久坂玄瑞などに交わる。

         1863(文久3)年2月官位を捨てて長州に下向し、久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首と
        なり下関攘夷戦争に参加する。京都に帰り、8月天誅組首領として大和国で討幕の兵を挙
        げるも、8月18日の政変で孤立し、幕府軍に追われ大坂の長州藩邸から海路長州に逃れ
        る。

           
         長州に逃れた後、長府藩と清末藩領に匿われたが、長州藩内で俗論派が台頭し探索が始
        められると、転々と居を移した。田耕(たすき)村に滞在していたが11月8日の夜、身に危
        険が迫っていることを知らされ、四恩寺に向かう途中、長瀬の地で長府藩士に暗殺される。

           
         1963(昭和38)年忠光卿百年祭を記念して、当時の豊北町が同地に中山神社を建立す
        る。

           
                辞世の句「思いきや 野田の案山子の梓弓
                      引きも 放たで 朽ち果つるとは」
         下関赤間の商人・恩地与兵衛の娘トミを側女とし、翌1865(慶応元)年5月トミは女児
        を出産する。この遺児・仲子は長州藩主・毛利元徳の養女となり、のち母子は中山家へ引
        き取られる。仲子は長じて嵯峨侯爵夫人となり、その孫娘・浩は満州国皇帝の弟である愛
        新覚羅溥傑と結婚する。

           
           
         忠光卿の遺骸は綾羅木に葬られ、公式には11月15日病死とされた。のち長府藩は墓
        所に社を建て、綾羅木中山神社とする。
         また、この神社には溥傑の生前からの希望により、日中双方に分骨され、浩と娘の慧生
        の遺骨とともに、摂社愛新覚羅社に納められている。

           
         白滝山への道は途中で分岐するが右へ進む。(神社から徒歩)

           
         最奥民家まで車で行けそうだったが、地理不慣れなものは歩きがベストである。

           
         民家から5分で寺跡だが、途中には廃屋民家もある。

           
         四恩寺(黄檗宗)は、1874(明治7)年寺院整理で萩・通心寺へ合寺され、土地と堂宇は
        杣地58戸の共有物として買収された。堂宇は解体されたが、寺跡には老杉の中に苔生した
        石段や宝篋印塔などに昔日を偲ぶことができる。

           
         堂宇の踏み石には「四恩寺古蹟」碑があり、中山卿の事が記述されているようだが読む
        ことができない。

           
         田耕神社まで引き返し中河内へ向かうと、近世女流文人・田上菊舎(本名は道)の生誕地
        がある。
1753(宝暦3)年長府藩士田上由永の長女として生まれ、16歳の時に結婚した
        が夫が病没、子供がいなかったため実家に復籍し、俳諧文芸を生涯の道とすることを選ぶ。
        俳諧修行に出た菊舎は、女性としては江戸期随一の旅行者でもあった。

           
           
         粟野川に架かる広瀬橋近くに明寿酒造。

           
         1873(明治6)年開校の田耕小学校は、2015(平成27)年に滝部小学校へ統合されて
        141年の歴史に幕を閉じる。

           
                   故郷や 名もおもひ出す 草の花
         1824(文政7)年菊舎が今生の暇乞いに、長府からふるさと田耕を訪ねた際、秋風に吹
        かれる野花を見て、幼い頃を懐かしんで詠んだとされる。(小学校校内)
 

           
         1964(昭和39)年に廃校となった田耕中学校があった地とされ、碑は県選奨受賞を記
        念して、受賞対象となった村訓を記して校庭中庭に建立されたものとのこと。(長老より)

           
         田上菊舎は美濃の宗匠朝暮園傘狂へ入門し、“一字庵”の号を授けられたとされ、碑に
        は「一字庵菊舎碑」とある。

           
         肥中街道筋ではあるが街道を思わせるようなものは存在しない。

           
         この地の要の1つであったJA田耕支所も統合されてしまったようだ。

           
         街道筋は約500mで国道に合流する。

           
         扁額に「芳魂」とあるが詳細は知り得なかった。

           
         五千原バス停から街道筋に上がって行くと、建設会社がある付近に村役場があったとさ
        れ、新道ができるまでは村役場で行き止まりであった。
         1889(明治22)年町村制施行により、近世以来の村が単独で自治体を形成して村役場
        を広瀬に開設する。1893(明治26)年この地へ移転するが、昭和の大合併で豊北町とな
        り、村役場の役目を終える。

           
         中山忠光卿の遺骸を一時この夜討峠に埋めたが、適当でなかろうと掘り起こし、血に染
        められた衣類を埋めたとされる。絞殺であったとされるが何らかの血がついたと推測され
        ている。
         道標に沿うと突き当りに個人宅があり、庭と野生獣被害防止柵を越えなくてならず、許
        可を得るため訪れたが留守のため残念する。(ここで散策を終える) 


下関市豊北町の滝部に旧滝部小学校校舎と旧赤間関街道

2020年08月04日 | 山口県下関市

           
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を加工・複製したものである。
         滝部は山に囲まれた盆地にあって中央部を滑川が流れ、山陰本線が北西から中央部を通
        り南西へ向かう。地名の由来は、末森にあった滝にちなむという。(歩行約4.7㎞)

           
         1925(大正14)年開業のJR滝部駅は、当初の計画では日本海沿いに敷設される予定
        であったが、地元の要望などで内陸部の滝部を通って、再び日本海に出るルートとなった。

           
         赤間関街道滝部ルートは滝部駅裏から駅前につながっていたようだが、鉄道敷設により
        寸断されている。駅前から旧道を中心部へ向かう。

           
         新しい住宅が主流を占める。

           
         山陰本線滝部踏切の先で赤間関街道と合わす。

           
         かって商店が建ち並んでいたと思われるが、どこでも見られる商店街の風景となってい
        る。

           
         肥中街道と合わすが赤間関街道は直進する。

           
         滝部郵便局を過ごし旧国道を横断するが、この付近も見るべきものは残っていない。

           
         旧豊北町の町章を中心に町の木・ツバキ、町の花・ヤマザクラ、町の鳥・メジロがデザ
        インされたマンホール蓋。

           
         県道を横断して農機具販売店傍の小路を進む。

           
         JR滝部駅から北へ約1.4㎞(徒歩25分)の所に西楽寺があり、毛利秀包(ひでかね)
        墓がある。この先街道は西楽寺と滝部小学校の間を通り、神出川を渡って粟野に至る。

           
         滝部にある真宗の寺院は、いずれも1594(文禄3)年に没した中山弾正浄西を開基とし、
        4人の子を始祖としている。西楽寺は現在の豊北高校に隣接する地にあったようだが、そ
        の後、当地に移転したとされる。

           
         毛利秀包(1567-1601)は毛利元就の九男で、実子のなかった兄の小早川隆景の養子となっ
        たが、秀吉の甥が小早川家を継いだことで独立する。豊臣政権下で久留米城主となるが、
        関ヶ原の戦いからの帰路に発病し赤間関で没した。秀包はキリシタン大名で、正室は大友
        宗麟の娘(秀吉の養女)とされる。

           
         秀包の墓の横には殉死した家老・白井景俊の墓が寄り添うように建っている。関ヶ原の
        戦いでは同僚の桂広繁とともに久留米城の留守居役を務め、黒田如水・鍋島直茂ら3万7
        千の兵に攻められ、数日間持ち堪えた末に開城勧告に応じる。

           
         墓の正面右側に秀包の生前の功徳を頌する神道碑が建てられている。

           
         下市交差点まで戻って旧国道を進むと「通学路」と記された道に入る。

           
         肥中街道が合わす三辻に地蔵道標があり、「右/文化11年(1814)3月、正面左/とよた
        道/三界萬霊、中/をだけ道」と刻まれている。

           
         歯抜けしたように空地が目立つ。

           
         この筋で目立つのが戸原酒店で、周囲は新しい家に生まれ変わっている。

           
         この先で赤間関街道北浦道筋(滝部ルート)と合わす。

           
         滑川に架かる市川橋を渡って西進する。

           
         この筋も見るべきものはなく国道に合流する。

           
         国道を左折して下って行くと、滝部八幡宮と旧滝部小学校の校舎。

           
         滝部八幡宮参道脇には「烈婦登波乃碑」があるが、登波は滝部八幡宮の宮番をしていた
        甚兵衛の次女で、1821(文政4)年義妹まつと石見の浪人枯木竜之進との離婚話がもつれ、
        竜之進が父と弟勇助を惨殺、まつは3日後に死亡したが、夫幸吉は重傷を負うが快復する。
         この仇を討とうと許しを得て20年も追い続け、1841(天保12)年豊前の英彦山で藩
        の助力もあって本懐を遂げる。
         その後、先大津代官となった周布政之助は、登波の表彰文をその師吉田松陰に依頼し、
        1857(安政4)年執筆されたという。碑は長府の桂弥一の進言によって、1917(大正6)
        年地元有志が発起し、中山太一の寄付によって建立される。

           
           
         滝部八幡宮は、鎌倉期の1263(弘長3)年蒙古襲来に備え、神田上村の一の宮から勧請
        して創建したと伝える。境内には赤崎社、忠魂碑、イチイガシの巨木がある。
            
           
         阿川毛利氏による当八幡宮への篤い崇敬は、江戸時代を通して行われ、数々の奉納品が
        残されている。この建物には神輿(子供神輿含む)が格納されているとのこと。(総代より)

           
         1924(大正13)年に建築された旧滝部小学校は、鳳凰が両翼を広げたような美しいた
        たずまいの建物である。ルネサンス様式の石造建築を木造建築に取り入れた構造で、大正
        期の代表的な学校建築である。

           
         地元出身の実業家・中山太一氏(クラブ化粧品・現:クラブコスメチックス)が、兄弟3
        人で私財6万円、その他村民の寄付で完成した約760㎡の木造2階建て校舎である。

           
         正面のバルコニーにはイオニア式柱頭を持つ列柱、玄関のアーチ、塔屋などに特徴があ
        り、調和のとれた美しい建物である。

           
         児童はこの出入口を利用していたとのこと。

           
         旧校舎はうぐいす色と白が基調とされている。

           
         女生徒の礼儀作法や裁縫を教える畳間は、女礼室と呼ばれていた。

           
         教室には懐かしい二人用机も残されている。

           
         重厚な階段。

           
         講堂正面には第二次大戦敗戦まで、教育勅語を収めていた奉安庫が設けられている。

           
         時間に余裕があったので校門を出て右折するが、駅には県道粟野二見線を南下すると戻
        ることができる。

           
         民俗資料館下を進む。

           
         山陰本線請願川踏切を渡って道なりに進み、高良自治会館前で左折する。

           
         スーパー「サンマート」前の県道を横断すると、赤間関街道に合わして駅に戻ることが
        できる。