ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊浦町の涌田後地と黒井

2022年05月28日 | 山口県下関市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、黒井村、吉永村、厚母郷村、涌田後地(わいたう
          しろじ)
の区域をもって豊西東村が発足する。1898(明治31)年に村名を黒井村と改称し、
        後に川棚村などと合併して豊浦町となるが、現在は下関市豊浦町である。
         公共交通機関の便数が少ないので車での対応とし、旧マリンピアくろい入口の駐車地を
        利用する。(歩行約2.4㎞) 
      
        
         涌田後地は響灘に面して室津湾の北に位置し、青井鼻と烏山の地塊に挟まれて立地する。
         岬一帯は黒井漁協が、1977(昭和52)年海と海岸の自然を生かしたリゾート施設を整
        備したが、入場者の減少により採算が悪化し、1997(平成9)年頃閉鎖に追い込まれた。

        
         心光寺筋に入る。

        
         心光寺(真宗)は俗名片山又市(法名浄流)が、もと真言宗の古跡に心光寺を興して開山し
        たという。

        
         点々と白壁の家が見られる。

        
         海への路地が数本あって、海からの心地よい風を受ける。 

        
         この地域も石州瓦の赤褐色が際立つ。

        
         風雨にさらされないよう大事にされている地蔵尊。 

        
        
         和田守神社は涌田後地の氏神で、1914(大正3)年集落に点在する祇園社、大歳社(五
        穀豊穣)、秋葉社(火除け)、龍王社(雨乞い)を合祀した。
         和田守神社の前身は恵比須社(豊漁)のようだが、鳥居の額束には「八大竜王」とある。
        人名のような神社名のルーツはわからなかった。

        
         参道から見る涌田後地。

        
         このような構えを見せる民家を
多く見かける。

        
         吉永地区だろうか白壁の旧家は見られなくなる。 

        
         どこにでも見られるような風景になったので引き返す。

        

        
        
         路地には大きな家屋や土塀に囲まれた家がある。 

        
         第1種の涌田漁港。1849(嘉永2)年本藩士・吉田松陰が藩命で、北浦海岸を巡視した
        が、この時にはすでに正面の青井鼻に台場が築かれていたという。

               
         黒井は豊浦山地の南側にある鬼ヶ城山の西北麓に位置し、杜屋川流域の小沖積平野を中
        心に北西は響灘に面する。耕地の接点に大小の灌漑用の溜池が多い。(市役所黒井支所に駐
        車、歩行約4.5㎞) 

        
         原踏切を横断する。

               
         西念寺(真宗)は、往古、西光院という寺であったが、盗賊のために全焼したという。そ
        の後、室町期の1527(大永7)年、村上民部(法名:西念)が、この西光院を興し開創した
        寺で、1665(寛文5)年西光院を改めて西念寺とする。

        
        
         JR黒井村駅は、1914(大正3)年長州鉄道として開業する。島式ホーム1面2線の交
        換可能な駅。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、4ヶ村が合併したが大正期に流行した歌に、「
        いろは黒いが 情けは厚母 しんぼう吉永 金にゃ涌田」と歌われたように、村内融和に
        は長い年月が必要だったようだ。

        
         黒井村踏切を横断して黒井川方向へ向かう。

        
         鳥居の先に長くて急な石段。近所の方によると、戦争で亡くなられた方をお祀りしてい
        たが、杜屋神社境内に移転したという。

        
         静かな通りとなった旧道。

        
         越路地蔵尊について、1739(元文4)年7月長徳寺の和尚が、世のため、卦悪、疾病を
        治さんと祀ったとされる。右は婦人病諸疾病、左が咽喉の疾病に霊験あらたかという。

        
        
         杜屋神社は延喜式神名帳(平安中期の927年に撰進)に掲げられた格式高い神社で、長
        門国三の宮と称されている。
         1906(明治39)年の神社合祀の勅令により、黒井村の萩ノ尾八幡宮と厚母郷の尾崎八
        幡宮を合祀して今日に至る。

        
         本殿背後には、古代において神を迎え祭るため、岩石を用いて設けられた祭場「磐境(い
          わさか)
」と思われる岩室がある。

        
         黒井川と厚母川が合流する付近に、山陰本線郷踏切と割烹旅館。

        
         黒井川に沿って山側へ向かう。

        
         郷杜屋の庚申塔は、高さ140㎝の自然石だが無銘である。

        
        
         赤間関街道北浦道筋に出ると白壁の人家が見られる。

        
         安養寺(浄土宗)は、1669(寛文9)年創建と伝えており、現在の堂宇は1901(明治3
          4)
年再建という。

        
         黒井市筋も旧町道として改修されたが、道の両側が屋敷地なので、幅員は旧状を保って
        いると思われる。

        
         四つ辻の右に八王子溜池が満々と水を湛えており、石像座像の地蔵が溜池に面して鎮座
        する。

        
         域内にある庚申塔の多くは無銘であり、この大門の塔も無銘で、しかもこの種の大きさ
        の塔が一般的である。
         塔に掛けるものには「ハチマキ」と「サル」の2種類がある。ハチマキは塔の頭部をぐ
        るりと巻き、御幣を3本垂らす。注連縄の形をハチマキに見立てたものである。
         サルは「牛の犁(すき)」の先につけるもので、農家にとって牛を使って田をおこすために
        は必要なものであった。この「サル」は、塔の前面にぶらさげるようにつけられている。

        
         誠意小学校前を過ごすと国道に出るが、この筋に旧家が残る。


岩国市美和町の弥栄湖周辺にある旧藤谷村集落

2022年05月23日 | 山口県岩国市

        
                     この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、長谷(ながたに)村・日宛(ひなた)村・大根川村・
        百合谷村・岸根(がんね)村・黒沢村・中垣内(なかがうち)村・滑村・佐坂村・瀬戸内村・釜ヶ
        原村の区域をもって藤谷村が発足する。
         弥栄ダム建設(1971-1991)により滑、中垣内、大根川、黒沢、百合谷など10集落が何
        らかの水没を受ける。これらの地域は公共交通機関が存在しない所や、生活バスのため便
        数が少ないこともあって車で訪れる。

        
                  
         釜ヶ原集落は旧玖珂郡の北東部にあり、小瀬川に沿い、面積も広く山間の大きな地域で、
        対岸は広島県大竹市である。
地名は釜と称する穴が岩に穿たれているのに由来するとか。
        (大幡神社の木製鳥居)

        
         対照的な蔵が並ぶ

        
         この時期は田植えの真っただ中。正面の山は広島県の瓦小屋山?

        
         寺院は臨済宗の栄福寺のみで、1830(文政3)年に中川平田が同寺で寺小屋を開業した
                が、1878(明治11)年6月に廃業し、7月には渋前小学釜ヶ原支校が設置されて教場と
                なる。
1866(慶応2)年の第二次幕長戦争では、坂上地区の農兵北門団の陣所にもなった。

               
             赤い鳥居に河内神社の額束が掲げてあるが、玖珂郡誌によると、この地域は厳島神社の
        大願寺領であったという。

        
         河内神社は由緒がないため建立時期などを知り得ず。

        
         北門小学校は栄福寺で開校した後、この地に移転して北門尋常小学校などを経て、19
               47(昭和22)年北門小学校となる。2001(平成13)年美和東小学校に統合されて、跡地
               は北門ふるさと交流館として活用されている。

        
         釜ヶ原神楽(岩国市無形文化財)の象徴として交流館の側面に神楽面が掲げてある。神楽
        はもともと祓いの行事から演劇的に移行したもので、特に江戸期に発展した。神事である
        とともに庶民の娯楽の1つでもあった。

        
         大きな地域であるが民家は南半分の小瀬川沿いに集中する。 

        
         ダム周辺に百合谷、岩根、黒沢、中垣内、滑、瀬戸ノ内集落が位置する。

        
         百合谷集落は弥栄湖南に位置し、東は広島県に接する。山の北半分と低地に立地してい
        たが、
ダム建設の影響を受けた地でもある。

        
         河内神社の本殿は比較的新しく、百合谷集落を見守るように建てられている。

        
         農村公園の傍にある人家の蔵。

        
         弥栄大橋は全長560mの斜張橋で、大噴水は水質浄化を目的として設置されている。
        周辺にはレジャー施設等も整備されている。

        
         岩根(がんね)集落
は弥栄湖の西に位置し、北に白滝山がある。地名の由来は、白滝山の岩
        根にある集落であることによるという。(岩根地区集会所傍にある石祠)

        
         白滝山は各地にある白滝姫伝説に因んだものともいい、雨の際に岩壁を流れる水が白滝
        のように見えるので命名されたという。往古、ここに山城があったとされるが、城の時代
        的背景など詳らかでなく謎が多い城跡のようだ。

        
         当地は「岩根栗」が有名で、まろやかな甘味、大粒で風格のある形をしており、気品高
        い香りをもつ栗である。1913(大正2)年全国栗品種調査会に坂上村の人が、「岩根栗」
        として出品したことで国に品種登録された。この集落一帯が栗園だと教えていただく。 

        
         光照寺(真宗)は、室町期の1537(天文6)年創建と伝える。

        
         黒沢(くろざわ)集落は小瀬川の支流大根川と佐坂川が合流する地点の河成段丘と、その北
        側の傾斜地に立地していたが、ダム建設で集団移転して団地を形成している。(日光寺山団
        地)

        
         星形に図案化された歯車のデザインの中央は、旧美和町の町章ではないが、輪の中に「
        三」の文字がある
マンホール蓋。

        
         日光寺(曹洞宗)は、1661(寛文元)年滑村に創建され、初め福王寺と称していたが、年
        月不詳だが黒沢村に移して現寺号にしたという。ダム建設で移転して団地の中心部に位置
        する。

        
         中垣(なかがうち)集落も黒沢集落と同様に、佐坂集落と瀬戸ノ内川の合流地点の河成段丘
        と、その北の傾斜地に立地していたが、ダム建設で移転を余儀なくされた。

        
         県道から上がって行くと客(まろうど)神社。享保年間(1716-1736)までは着ノ社で、17
        60(宝暦10)年客社に改めたという。

        
         傾斜地に人家が並ぶ。

        
         滑橋から見る中垣内集落と白滝山。 

        
         県道から坂道を上がって行くと左手に子安観世音堂。

        
         市松模様に旧美和町の町章と集排の文字が入ったマンホール蓋。

        
         河内神社の御旅所は、1712(正徳2)年造成したとある。

        
         中垣内集落が一望できる。

        
         河内神社(通称:なめらのみょうじんさま)の社伝によると、平安期の806(大同元)年頃
        に筑紫国より勧請されて瀬戸内村に鎮座していたが、1705(宝永2)年当地に遷座したと
        いう。

        
         瀬戸ノ内集落は北から南へ縦走する高い山に挟まれ、その真ん中を小瀬川の支流瀬戸内
        川が南流する位置にある。地名の由来については不明である。

        
         2~3軒が寄り添いながら南北に細長く集落を形成している。

        
         ダムの南側に大根川、日宛、長谷集落が位置する。

        
         大根川集落は弥栄湖の南西、長谷川、日宛川が合流する平地にあったようだが、ダム建
        設で集団移転したかどうかは定かでないが、県道に沿って小集落を形成している。地名の
        由来については不明である。

        
         正覚寺(真宗)は、安田五郎左衛門という者が、寛永年中(1624-1644)に開基したとされる
        が、その他は不明とのこと。

        
         対岸も大根川集落だが一丁田橋で繋がっている。

        
         日宛(ひなた)集落は柏木山・阿品山北麓、小瀬川の支流日宛川流域に位置する。日宛公会
        堂を境にして北と南に集落が形成されている。

        
         神社名を記すようなものが見当たらず。

        
         日宛川上流の集落(南側) 

        
         客神社。

        
         域内にある報照寺(真宗)は、1693(元禄6)年大根川村に創建されたが、1716(享
          保元)
年日宛村に移転したと伝える。

        
        
         長谷(ながたに)集落は岩国から松尾峠を越えて玖珂郡に入る最初の集落で、2つの谷川が
        北部で1つになって北流、大根川となる。家々はこの谷間に散在する。
         地区自治会などが中心となって、江戸期には和紙の原料である楮や三椏(みつまた)が盛ん
        に植えられたが、現在はほとんど植えられていない。そこで三椏を植えて散策道を設けた
        と案内されているが、3月頃より淡い黄色い花が咲くという。

        
         江戸期には域内を岩国往来が通り、長谷一里塚が築かれた。昔の往来道は、ここより5
        m上にあり、塚の基礎部分は残っているが、危険なためこの地に復元したという。

        
         市道と岩国往来が分岐するところに地蔵尊が祀られている。時間が足りず佐坂集落を訪
        れることができなかった。


宇佐市の安心院に素朴な願いなどが込められた鏝絵 

2022年05月19日 | 大分県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         安心院(あじむ)は駅館(やっかん)川上流の津房川、その支流である新貝川との合流点に形成
        された盆地に位置する。
         安心院の地名については諸説あるようで、葦の生い茂るところの意の葦生とか、海人族
        である阿雲(あずみ)説があるが定かでない。「扶養略記」には奈良期の720年、宇佐公比
        古が勅命により荵狭川上流にいた鼻垂という賊を討伐したことから、安心して居住できる
        ようになったので「あじむ」に「安心」の字を当てたともいう。院は九州各地にみえる古
        代院倉の名残とされ、のちの荘に相当する。

        
         安心院観光協会にある「七福神」

        
         安心院総合支所の「踊る大黒」。もとは安心院町舟板の佐藤家にあったもので、191
        0(明治43)年作。

        
         安心院総合支所から国道500号線を院内方面へ向かう。1911(明治44)年日出生(ひ
          じゅう)
鉄道が創設され、1917(大正6)年善光寺から三又まで、後に二日市(院内)まで延
                伸された。
         当初計画
は陸軍日出生台演習場を貫通して豊後森に至る予定であったが、赤字のため安
        心院村まで
敷設されることなく、1953(昭和28)年全線廃止となる。

        
        
         ライオンズクラブ事務所の「滝と馬」、古荘医院にある「ジキタリス(和名は狐の手袋)」
        の鏝絵を過ごすと、
県立安心院高校の校門に「松と鷹」。この鏝絵は安心院町大地区の衛
        藤家にあったもので、家屋の取り壊しで移設された。「松」は不老長寿、「鷹」は飛翔、
        前進の願いが込められているそうだ。(製作年代は明治期)          

        
         
ータス伊藤の向い側にある「鯛釣り恵比須」は、めでたい鯛を今まさに釣り上げる瞬
        間を鏝絵にしたも
ので、安心院町船板の白佐家にあったものが移設されている。(1910
          (明治43)年作)。


        
         明治期に制作された「鶴と亀」は、不老長寿の象徴でもある。もと安心院町筌ノ口の筌
        口家の主屋戸袋にあったものとされる。

        
        
         〆野家だが現在はこの有様で鏝絵を見ることができない。明治初年に主屋の妻壁に“水”
        の文字と菖蒲」が制作されたが、水は防火の願いがあり、端午の節句には菖蒲が用いられ
        「菖蒲の節句」とも呼ばれた。男の子の無病息災と一族の繁栄を願って飾ったとされる。
        (2010年撮影)

        
        
         民家喫茶志め乃亭の「百華草庵」

        
         1887(明治20)年代制作の「松と鷹」は、院内町の佐藤家の2階戸袋にあったもの。

        
         1925(昭和初期)年頃に制作された「招き猫」。左手は「お客さんいらっしゃい」、右
        手は「お金を持っていらっしゃい」と対になっていたそうで、相棒の左手猫は県立博物館
        に所蔵されているとか。

        
         中央にブドウ、外周にハナショウブがデザインされた旧安心院町のマンホール蓋。

        
        
         平松理容院の「松と猪」、岸田パンの「布袋と水」の先に、2004(平成16)年に制作
        された豊田家の「豊穣の田」は、豊田さんが安心院町の農業委員会の委員長だった所以の
        鏝絵である。

        
        
         かわのさんは農機具の商売をされていたとのことで、昔懐かしい発動機と大きな槌を持
        つ大黒様が描かれている。

        
               鏝絵通りのシンボル的存在の重松家。祖先は庄屋をされていたとのことで、大工を京都
        に派遣して、宮造りの勉強をさせた後に建築したという。2階部分は天守閣のようになっ
        ている。

        
         重松家の鏝絵は、1884(明治17)年に制作されたもので、4つの鏝絵がある。道筋に
        ある「富士山」は日本一の山であり、「豊後富士」でもあるとか。

        
         「虎」は東南アジア最強の猛獣で、強い力で魔物を寄せつけない魔除けのシンボル。

        
         「龍」は水と火除けの神様。

        
         「三階松」は重松家の家紋。

        
         1712(正徳2)年創業の縣屋(あがたや)酒造。

        
         「毘沙門天・弁財天・布袋」(2004年制作)は、大きな樽で麹を混ぜている毘沙門天、
        酒を酌み交わす弁財天と布袋。

        
         このような形状のトタン屋根が残っている。

        
        
         賀来家の主屋妻壁にある鏝絵は、1887(明治20)年代に制作された「唐獅子と竹」。
        唐獅子は百獣の王・ライオンのことで、文珠菩薩の使いとされ、竹は冬の寒さに耐えて緑
        の葉を保つことから、松・梅とともに「歳寒の三友」とされ、吉祥であるとされている。

        
         1890(明治23)年制作の「一富士、二鷹、三茄子」は、安心院町大仏の上鶴家の蔵に
        あったものが、よこいよ公園に移設されている。

        
         よこいよ公園から憩いの広場への通り。 

        
         1895(明治28)年制作の「恵比寿・大黒・鯛の三番曳」。文楽の三番曳は、猿が舞う    
        めでたい踊りだが、この鏝絵は恵比寿さんが鯛に踊らされている。(佐藤家)

        
         ファッションコア河野には2つの鏝絵。上段には2001(平成13)年作の「恵比寿と弁
        財天」と玄関に「十二単」。

        
        
         木に隠れて見えない場所に鏝絵。2004(平成16)年に制作されたやまさ旅館の「東椎
        屋の滝のぼりの鯉とスッポン」。日本滝百選の東椎屋の滝を力強く登る鯉、ほとばしる飛
        沫、首をすくめるスッポンが描かれている。やまさ旅館は「スッポン料理」で有名。

        
         スッポンが描かれた旧安心院町のマンホール蓋。湧き出る温泉を利用してスッポンの養
        殖も行われているとか。

        
        
         1887(明治20)年代作の「竹に虎」は、同地区の勝見家の主屋妻壁にあったもので、
        猫のように見える虎とのこと。(佐藤家) 

        
        
         2004(平成16)年制作の「分福茶釜」は、文福茶釜の話をもとに茶釜に化けた狸が綱
        渡りをしている。(お茶の渡辺園)

        
         憩いの広場(🚻)にある「家紋・波兎」は、明治期に作られたもので、波は水の意匠で火
        事除け祈願、兎は月の精で陰(水)を表すともいう。いつも多産で安産なところから安産の
        シンボルとされ、子孫繁栄を祈願するものとされる。

        
         最明寺(曹洞宗)の由来によると、北条時頼が1256年(鎌倉中期)に出家し、諸国を間
        行(かんこう)すること8年、1256年当地を仏道有縁の地とする。この地を去るにあたっ
        て三女神社の神宮寺を替えて最明寺としたとある。

        
         五輪塔は開基とされる恵日入道の墓とされ、総高1.06mで水輪に「正元元年(1259)巳
        未5月2日」と印刻されている。(県指定文化財)

        
         上鶴家の「松と鶴」は、姓に因んで「鶴」、文字は「樹上双棲丹頂鶴」。(1998(平
        成10)年作)

        

        
         駐車地から約100mの山道(車での通行可)を進むと曹洞宗の妙菴寺(みょうあんじ)

        
         本堂に上がると左右の欄間に「蓮の花」の鏝絵がある。蓮の花が蕾から開花し、散るま
        での一生が描かれている。町内の鏝絵で室内にあるのは同寺のみで、1903(明治36)
        作とされる。

        
         細川幸隆は細川藤孝(幽斎)の3男として生まれ、僧にさせられたが、父の命で還俗して
        細川家に戻る。関ケ原の戦いでは東軍に参加し、兄たちの留守を父と共に丹後田辺城で戦
        う。
         細川忠興とは同母弟(いろせ)で、忠興が豊前国を拝領すると、1603(慶長8)年に龍王
        城主となり1万石が与えられたが、1607(慶長12)年37歳で死去、ここ妙菴寺に葬ら
        れた。(廟所は1889年建立)

        
        
         大江家の「鷲」は、梅の木に大きな鷲がとまっている。「家内安全」「祈願成就」の願
        いが込められた鏝絵とされる。(1887(明治20)年作)

        
        
         古荘家住宅は1882(明治15)年築とされ、「朝顔と稲妻」の鏝絵も同時に設置された。
        ぶん回し呼ばれるコンパスで朝顔の花を描き、上部に雲、下に波と水でまとめたものにな
        っている。朝顔は蔓が延び花がたくさん咲くので、子孫繁栄に繋がるとされる。

        
        
         上田家の切妻壁に、虎と岩と2本の折れ釘が施されている。「折れ釘」は壁の仕事をす
        る時に、材木を載せる足場だったり、梯子をかけたりするための金具でもあった。(189
        8(明治31)年作)

        
        
        
         大地区のメイン通り

        
         衛藤家の土蔵妻壁に「瓜」。瓜は真中が中空なので、仙人の棲む壺中天に通じるとされ
        る。

        
         山村家の主屋戸袋にある「浦島太郎」は、1880(明治13)年頃作。玉手箱を開いたら
        老人になったという昔話だが、長寿の祈願が込められているという。

        
         岩尾家の主屋戸袋にある「雁に人」は、1887(明治20)年代作。

        
         1923(大正12)年深見川に架橋された今井橋は、旧安心院町の道路橋としては唯一の
        三連アーチ橋。   


宇佐市の院内で石橋探しを満喫 

2022年05月19日 | 大分県

                 
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         院内(いんない)は北流する駅館(やっかん)川の支流である恵良川流域と、その支谷に沿って
        山間に細長い河岸平野を形成している。地名の由来は、安心院(あじむ)の内の意か。
         JR中津駅前から大分交通安心院支所行き約1時間、「道の駅いんない」で下車するこ
        とは可能だが、橋のある地が広範囲で徒歩での散策は不可能である。レンタサイクルも用
        意されているが、ポイントには駐車地もあるようなので車で訪れる。


        
         道の駅「いんない」近くにある荒瀬橋は、1913(大正2)年に架設された。長い橋脚と
        美しい2連のアーチを描くこの橋は、橋高(18.3m)が院内地域の中で最高の高さを誇る。
        石工松田新之助が県の工事を請け負ったが、負債が大きかったため、しばらくは有料とさ
        れた。これは大分県内の有料橋としては第1号である。(説明より)

        
         趣のあるトタン屋根。

        
         水雲(すのり)橋は国登録有形文化財だが、石橋付近から橋を見ることができない。(JA
        おおいた院内SS先の空地に駐車)

        
         水雲橋は、1927(昭和2)年に架設されたもので、橋脚の高さが17.2mで、院内で
        は2番目に高いとされる。(下流の大橋から)

        
         久地(きゅうち)橋へは国道筋の原口公民館に駐車して、国道500号線を進むと道標があ
        る。

        
        
         日岳川に架かる久地橋は、明治初期の架設とされ、両端に大きな桁石を2本並べ、その
        上に重厚な板石16枚を並べた珍しい橋である。

        
         富士見橋は、橋上から豊後富士(由布岳)が遠くに見えることからこの名が付けられた。

        
         細く長い橋脚を持つ荒瀬橋や鳥居橋とは異なり、太い橋脚から重厚感を醸し出している。
        1924(大正13)年工事半ばに崩落したそうで、翌年、石工の松田新之助が意地と信念に
        より、私財を投じて完成させている。

            
        
         旧県道に架かる鷹岩橋は、院内で最も長い27mの径間を持つ橋で、架設以来、日出生
        台演習台に続く道として活躍した。(国登録有形文化財・駐車地あり)

        
         国道筋の人家にある鏝絵。

        
         分寺(ふじ)橋は大正期に架設されたが、1945(昭和20)年に改修された3連のアーチ橋。
        戦争中に改修されたにも関わらず、均整に彫刻された石が丁寧に積み上げられている。

        
         両合(りょうあい)棚田の広がるのどかな風景にとけ込んだ両合川橋は、小平と滝貞の谷川
        が合流する地にある。1925(大正14)年10月に架設される。(国登録有形文化財)

                
         「道の駅いんない」まで戻って県道664号線(円座中津線)線に通じる道に入る。「い
        んない石橋マップ」はイラストマップのため、土地勘がないものにとっては宝探しをして
        いるような感覚になる。        

        
        
         高並川に架かる橋詰水路橋は、江戸末期頃に水路橋として架けられたといわれている。
        水路橋と道路を兼ねており、拱環石は少し加工されているものの、側壁は自然石を使用し
        ており、町内に
7基の水路橋があるそうだが、その1つである。(県道664号沿いに駐
        車地あり。国登録有形文化財)

        
         県道664号沿いにある永原橋。

        
         打上橋は、1863(文久3)年に架設された宇佐市に現存するものでは最古の石橋。この
        橋の下に昭和初期に架設された水路が架かっている。(展望所があり駐車可)

        
         国道387号の旧道に架かる櫛野橋は、1923(大正12)年日出生台演習場に向かう軍
        の車両が通行できる石橋に架け替えられたといわれる。(国登録有形文化財。近くの路肩に
        駐車)

        
         櫛野橋の東詰めに「櫛野城」に関する案内板と石碑がある。天文年中(1532-1554)に櫛野
        茂晴によって、平地に塀をめぐらした平城が築かれたが、1589(天正17)年豊臣時代と
        なり、豊前国主・黒田長政により城は破却されたとある。

        
         一対の狛犬が設置されているが、古代オリエントに起源を有する狛犬は、その原型はラ
        イオンであると云われ、長い歳月を経てインドから中国に伝わり、王権や皇帝を守護する
        霊獣として定着する。日本には平安末期、中国から朝鮮半島を経て伝わり狛犬になったと
        いわれる。

        
         香下(こうした)神社の由緒によると、奈良期の719年法連和尚が化生山で修行したとき、
        妙見山上に主祭神の輝く尊い姿を感じたので山上にお祀りして、この山を妙見山と名付け、
        それからは女人禁制とされた。その後、山の中腹に移し祀られたと記す。ここに神橋が3
        つあるとされるが、見つけ出すことができず。 

        
         鳥居橋入口に両川(ふたかわ)小学校の校門と蒸気機関車の車輪が置かれている。学校は現
        在の高速道路出入口付近にあったようだが、1987(昭和62)年高並小学校と統合して院
        内北部小学校となる。

        
        
         鳥居橋は、1916(大正5)年に架設されたが、優雅な橋脚から「石橋の貴婦人」と呼ば
        れ、院内を代表する石橋である。橋名はこの地区の小字の鳥居原から採られている。
         1951(昭和26)年10月、町内242戸の家屋を全壊流失させたルース台風をはじめ、
        幾度にわたる洪水に耐えた石橋である。(橋の東詰に駐車地)

        
        
         一の橋は山神社への参道で、北山川に架かる石橋。規模は小さいが側壁に自然石を使用
        している。(路肩に駐車可能)

        
         石橋と町の花だったシャクナゲがデザインされた旧院内町のマンホール蓋。

        
        
         御沓(みくつ)橋は橋の長さが59mもあり、町内最長を誇る3連アーチ橋は、1925
        (大正14)年に架設された。

        
         福厳寺羅漢橋は本堂右側に十王石像や羅漢像を祀る閣魔堂があり、その参道として架け
        られた橋。長さ3mと小さいものである。(これ以降は2010年撮影)


下関市豊北町の矢玉は小さな漁村集落 

2022年05月05日 | 山口県下関市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         矢玉(やたま)の西は響灘に面し、背後に山間を縫って矢玉川が流下し、その河口のデルタ
        地帯に位置する。
         地名の由来は「地下(じげ)上申」に、往古、蒙古襲来の時、矢と玉をこの地の者が献上し
        たので矢玉といったとある。(歩行約1.6㎞) 

        
         土井ヶ浜バス停からブルーライン交通JR二見駅行き(13:25)約5分、矢玉北バス停で下
        車する。

        
         バス停から引き返し、加藤味噌醤油醸造場より路地歩きをする。

        
         1914(大正3)年9月10日に大火が発生するが、民家が密集しているため、江戸期以
        降においてもしばしば大火に見舞われた地域である。

        
         夜珠橋で矢玉川右岸に移動する。

        
         どこからでも海に通じる路地がある。

        

        
         防波堤入口にある碑は「夜珠‥」とは読めるが、下の方は読めず。防波堤か漁港に関す
        るものだろう。

        
         碑の傍にある下関要塞第一区地帯標は、蓋井島に砲台が設置されたことから「要塞地帯
        法」により、この周辺が第一区地帯となった。(今も漁協により防波堤は立入禁止)

        
         醤油醸造場の煙突と煙り出し。

        
         集落内の人家は密集度合いが高い。 

        
         海辺に恵美須社。矢玉浦は江戸期には長府藩領で、地域内の大部分が本藩領であったた
        め飛地であった。その理由として田耕(たすき)、粟野などからの年貢米を運ぶ時、その中間
        地や避難地として矢玉浦が必要だったとされる。
  
        
         恵比須社から見る第2種の矢玉漁港は、1955(昭和30)年以後に海岸部が埋め立てら
        れ、数回にわたって整備が行われた。

        
         西慶寺(真宗)は、大内義隆の家臣であった俗性伊藤兵庫種康が、仏恩の深きを感じて剃
        髪して僧となる。神田村において山野を開拓し、一宇を建立したのが同寺の始まりという。
        時に室町後期の1547年という。        


下関市豊北町の神田上に弥生パークとコバルトブルーの海

2022年05月05日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         土井ヶ浜は響灘に面し、ほぼ海岸線に沿って国道191号が走る。この一帯の住居表示
        は下関市豊北町神田上だが、域内は広いため土井ヶ浜弥生パークを中心に散歩する。(歩行
        約3.5km、🚻パーク内のみ)

        
         JR下関駅から山陰本線でJR二見駅下車。ブルーライン交通(9:27)に乗り換えて土井
        ヶ浜バス停で下車する。

        
         下車するとバス進行方向に神功皇后社の大鳥居が見える。

        
         鳥居からの道。

        
         右手に人骨の出土密度が高い部分に覆屋(ドーム)。

        
        
         弥生時代の人骨約300体や副葬品などが出土した「土井ヶ浜遺跡」の全容を紹介した
        施設である。正面にはシンボルのゴホウラ貝輪と、1993(平成5)年に出土遺物を収蔵す
        る土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムがある。(国指定遺跡)

        
         弥生式土器が並ぶ。

        
         弥生人のレプリカ。

        
         人骨の埋葬密度がもっとも高い部分に半地下式ドームが設けられ、一般に公開されてい
        る。ここには約80体の人骨が発掘時の姿で復元されており、顔を西に向けているのが特
        徴である。(人骨はレプリカ)

        
         埋葬には無施設のもの、四隅に1個ずつ石を置く簡単なもの。石囲いのもの、組合せ箱
        式石棺の4種類がみられる。

        
         6体埋葬の石棺。

        
         遺骸の中には11本もの石鏃(せきぞく)や牙鏃(がぞく)が腰などに射込まれた男性人骨があ
        る。
         酸性土壌の日本では、土に触れ続けると人骨は消滅してしまうが、ここ土井ヶ浜は、海
        岸から吹き飛ばされてきた貝粉が非常に多く含まれており、貝に含まれているカルシウム
        が長い年月の間に溶解し、骨に浸透したことによって、骨を良好な状態で保存してきた。

        
         浜出祭(はまいでさい)は、7年毎に行われる田耕(たすき)神社と神宮皇后社双方の神事で、
        花神子が滝部堀切で合流して
土井ヶ浜で浜出神事が行われる。
         蒙古襲来と結び付けられた伝説があるが、民間では、厳島神社と海側の土井ケ浜にある
        蛭子社との男女2神の再会の神事であるといわれている。それぞれ生産を異にする山地と
        浜とが、定められた年に、合同で祭礼行事をすることによって、村内の繁栄と秩序を願っ
        たものではないかと考えられている。(浜出祭の祭場)

        
         元寇の碇石。(ディサービス向日葵の向い側)

        
         海の家がある地点から見る土井ヶ浜。

        
         海の中にある白い島が壁島で、「鵜」が11月下旬から翌年の3月頃まで越冬し、鵜の
        糞で白く見えるという。その奥に角島が横たわり、角島大橋が曲線を描く。

        
         海岸部に咲くハマヒルガオは、茎や枝が地面を這うように伸びる匍匐性(ほふくせい)植物。

        
         神功皇后社への道を辿ると庚申塚と御旅所の鳥居。

        
          土井ヶ浜の南外れの台地上に鎮座する神功皇后社。住吉神社を一の宮というのに対し、
         通称二の宮と呼ばれ、神功皇后を祀る。

        
         社伝によると、鎌倉中期の1288年蒙古襲来のとき異国降伏祈願のため、長府から勧
        請して社殿を建立したという。

         特殊神事として浜出祭と呼ばれる神事は、土井ヶ浜での行事であるが、浜にあった蛭子
        社が明治期に当神社に合祀されてしまったため、現在は神輿及び行列はここから出発して
        いる。

        
         神社脇の道から見る豊北の海。

             
        
         集落としてのまとまりを見せないが、広い屋敷地に蔵・長屋などを有する民家が多い。 

        
         峠手前の人家脇を抜けると海の家駐車場に出る。

        
         駐車場の最奥部の左手にある鎌倉の森は、弘安の役(1281)で蒙古軍と戦い討死した鎌倉
        方の武士を祀った祠であるという。一方の蒙古兵の骨を埋めた「鬼の松」とされる場所は
        見つけることができず。

        
         コロナ禍で影響を受けた海水浴場だが今年はどうだろうか。コバルトブルーの海と白い
        砂浜が続く風景を堪能して、往路を引き返し、バス停から矢玉に移動する。


朝倉市秋月は筑前の小京都 

2022年05月02日 | 福岡県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         秋月は筑後川の支流である小石原川の中流右岸の盆地、古処山の南西麓に位置する。(歩
        行約3.6km) 

        
         JR基山駅から甘木鉄道に乗り継ぎ、終点の甘木駅から甘木観光バス野鳥行き(12:27)約
        20分、博物館前バス停で下車する
。野鳥橋の先に桜の名所・杉の馬場。

        
         使われている石垣や水路は、鎌倉期に作られたものが多いとか。 

        
         秋月美術館。

        
         2017(平成29)年に秋月郷土館を「秋月博物館」と名称変更し、秋月藩校「稽古館」
        跡に新築移転したという。

        
        
         戸波家は秋月藩初代藩主・黒田長興に供して秋月入りして、知行300石を拝領して、
        代々、馬廻頭、鉄砲頭、一代家老などの要職を務めた。1876(明治9)年秋月の乱のとき、
        戸波半九郎定夫も幹部として参加するが敗れて自刃する。その後、戸波家屋敷は黒田家に
        譲られ、秋月の別邸として用いられた。

        
         明治政府は武士の特権である刀を取り上げ(廃刀令)、苗字を全国民に与え、徴兵制を導
        入する。これに対して特権を奪われた士族の中には、反乱を起こすものが現れる。熊本県
        で起こった神風連の乱に呼応して、秋月でも挙兵する。
         しかし、大日本国帝国軍小倉鎮台によって鎮圧され、首謀者は斬首、他150名は士族
        をはく奪されるという結末を迎える。

        
         秋月の東に聳える古処山・屏山。 

        
         我が国種痘の始祖とされる緒方春朔(惟章)(1748-1810)は、長崎留学後の1789(寛政
          元)
年、秋月藩の藩医として召し抱えられ、今小路に居を構えた。
         同年、藩内で天然痘が流行した際、人痘法(乾苗法)を草案、翌年、大庄屋の天野左衛門
        の女児に種痘を施して成功する。

        
         吉田平陽(1790-1863)は秋月藩士で、経済に通じ、勘定奉行や稽古館の教授などを歴任す
        る。

        
         藩主を駕籠に乗せたまま横向きに昇降できるよう幅の広い石段となっている。山門は、
        1829(文政12)年秋月八幡宮より移築したもので、阿吽の仁王像が安置されている。

        
         日照院(天台宗)は、鎌倉期の1226(嘉禄2)年建立とされ、秋月藩黒田家の祈祷所であ
        った。

        
         参道両側は武士の居宅だったような配置がされている。数軒の民家はどれも無住のよう
        だ。

        
         陣屋の表門に接して南北に通る杉の馬場。この通りに直交して野鳥川の北側を東西に走
        る秋月街道があった。
         今は桜並木だが江戸期を通じて杉並木で、この中で秋月藩は馬場(馬術の練習)を行なっ
        ていた。1905(明治38)年日露戦争の戦勝記念として桜が植えられた


        
         杉の馬場の中間点付近から西に延びる道。

        
         山側から流れ出る水路が馬場を横切る。

        
         陣屋の掘割と石垣が良好な形で残されている。(屋敷地は秋月中学校)

        
        
         この坂が陣屋の正面に至る坂で、坂には土砂の流れを防ぐため、瓦を縦に並べて敷き詰
        めているので「瓦坂」と呼ばれている。
         また、表門前の広場を「勢溜」と呼ばれ、軍勢の集合場所であり、島原の乱の出陣に際
        し、ここで勢揃いして出立した。

        
         1600(慶長5)年福岡藩主・黒田長政は、叔父の黒田直之を秋月に配した。直之は切支
        丹を厚く保護し、1607(慶長12)年天主堂を建立した。その直之は翌々年に死去し、し
        ばらくは番士が置かれていたが、1623(元和9)年長政死後、3男の長興に秋月5万石が
        分知された。

        
         長屋門は秋月陣屋の裏門。

        
         黒門はもともと秋月氏の本城であった古処山城の搦手門であったが、秋月藩の成立後、
        陣屋の大手門となった。その後、1880(明治13)年に垂裕(すいよう)神社の門として移築
        された。

        
         途中の石段は、士族の老若男女が総出で労役を担ったことから、「士族坂」と呼ばれて
        いるそうだ。

        
         垂裕神社は秋月藩陣屋跡の南側にあり、秋月藩初代藩主・黒田長興の霊を祀る。185
        9(安政6)年秋月10代藩主黒田長元が、京都吉田家(各種の免許発行権を持ち、全国の神
        職を配下)から藩祖長興の神霊神号(垂裕明神)を得て、秋月八幡宮に合祀したことに始まる。
         1864(元治元)年長興の200回忌にあたり、陣屋敷地内に祠を建て、秋月八幡宮から
        遷座、社殿は1873(明治6)年に落成する。

        
         長屋門付近から西に延びる道。

        
         豊かな自然とダムがデザインされた朝倉市のマンホール蓋

        
         この坂は「月見坂」と呼ばれ、陣屋が真東の方向にあり、中秋の頃には陣屋の真上、山
        頂付近から月が昇ることから、中秋の名月を眺める絶好の場所として、この名が付いたと
        いわれる。

        
         月見坂の途中にある旧田代家住宅。秋月藩の上級武家屋敷で規模が大きく主屋、門、土
        塀、庭などといった武家屋敷の要素を有している。1814(文化11)年に焼失したが、翌
        年には再建された。

        
         初代藩主・黒田長興は、1624(寛永元)年城下の町割りを行い、陣屋の周囲に上級家臣
        屋敷、盆地の周囲に社寺、城下の出入口に町家を配する。
         田代家のある区域は、浅ヶ谷を挟んで陣屋と対峙する要衝で、上級家臣団が配置されて
        いた。

        
         久野(ひさの)家も武家屋敷の様相を残している1つで、長い間久野家の邸宅であったが、
        昭和年代に荒廃・老朽化したが、再建されて一般公開されている。

        
         石碑に「戸原継明生誕地」と刻まれ、説明板もあったがはっきりとは読めない。家は代
        々秋月藩の医家で、自
身も家業医を学んだが、勤王志士と交友し、1863(文久3)年福岡
        藩の攘夷派が天誅組に呼応して、倒幕のため但馬の生野代官所を襲撃して兵を挙げたが、
        反撃を受けて自刃する。(享年29歳)

        
         本證(証)寺は、1624(寛永元)年開山された日蓮宗の寺院。

        
         今小路橋から見る野鳥川の風景。(塀は廣久葛本舗)

        
         秋月街道の福岡口に架かる橋は、1785(天明5)年8代藩主黒田長舒(ながのぶ)が、福岡
        藩が行っていた長崎警備の代理を勤め、長崎からさまざまな文化を導入した。1804(文
          化元)
年長崎から石工を招き、長崎の眼鏡橋をモデルにして着工する。
         しかし、この時は失敗し、1810(文化7)年2回目の工事で築造された。秋月の花崗岩
        を使用した全長15.1m、幅員4.6mのアーチ橋は、「目鏡橋」と呼ばれているが、正
        式には「長崎橋」というそうだ。

        
         バスの時間まで少し時間があったので秋月街道を歩く。

        
        
         秋月の自治体変遷は、1889(明治22)年の町村制施行により、下秋月村と野鳥村が合
        併し秋月村となる。1893(明治26)年町制に移行したが、昭和の大合併で甘木市となり、
        現在は朝倉市となっている。(上の段はS邸)

        
        
         秋月街道を通して町人地とされたが、この町並みはたびたび火災に見舞われた。近世最
        初の大火は1673(延宝元)年で、以後、7回も大火が発生しているが、1829(文政12)
        年の大火を最後として大火災は発生していない。焼け残った家屋を中心に、現在まで残る
        町並みが形成された。

        

        

        
         1819(文政2)年創業の廣久葛本舗。

        

        
         石田家住宅と田代家のイヌマキ。

        
        
         秋月街道の町並みを選択したため、古心寺など北側の地域は時間が足りず残念する。
        (16:04秋月バス停より) 


朝倉市比良松は旧日田街道沿いに古い町並み

2022年05月01日 | 福岡県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         比良松(ひらまつ)は、筑後川中流右岸の扇状台地上に位置する。地名は地内に杖を四方に
        広げた平らな松があったことによるというが、他説では近江比良の松を植えたからともい
        う。もとは平松と書いたが、寛文年間(1661-1681)比良松に改めたという。(歩行約2.0㎞)

        
         JR二日市駅から西鉄バスで杷木行き約1時間、比良松中学校前バス停下車して中町筋
        に入る。

        
         下町の恵比須神社。

        
         国道365号線と旧日田街道が合わす北側に浄福寺(浄土宗)がある。

        
         2017(平成29)年7月の九州北部豪雨で甚大な被害を受け、5年になろうとしている
        が、桂川の復旧工事が続けられている。(桂川橋より比良松)

        
         この界隈には飴屋、旅館、乾物屋などが軒を連ねていたという。この先、道は緩やかな
        坂道となっている。

        
         対照的な家が並ぶ。

        
         1855(安政2)年の大火を免れた建物は、比良松で一番古いものだそうで、茅葺き屋根
        にトタンを被せた独特な造りがなされている。

        

        
         町並みの一翼を担う篠崎酒造の創業は江戸後期だそうで、日本酒・焼酎・甘酒を製造販
        売されている。

        
         妻入り入母屋造りの商家建物が連なる。 

        
         千本格子に白壁、なまこ壁が際立ち、犬矢来も見られる。

        
         醤油醸造されているのであろう大樽がみられる。

        
         古い町並みは旧日田街道(朝倉街道)沿いにひっそりと佇む。 

        
         1889(明治22)年町村制施行により、比良松・須川・宮野・烏集院(うすのいん)の4ヶ
        村が合併して「宮野村」となり、朝倉村、朝倉町を経て、現在は朝倉市比良松。

        
         旧朝倉町菱野にある三連水車と町の花だったツツジがデザインされたマンホール蓋。

        
         マンサード屋根を配した旧郵便局は、1874(明治7)年に酒造場の建物を改装して開局
        した。その後、改装を繰り返してきたが、1970(昭和45)年頃に移転し、現在は空家と
        なっている。

        
        比良松のほぼ中央部にあるモミの木。今は使われていないが火の見櫓も残っている。 

        
         歩いてきた道。

        
         舒翠館(じょすいかん)は、1885(明治18)年地元の人達の奉仕によって建てられた公会
        堂。この公会堂が有名になったのは、国会において海軍軍備拡張問題で解散し、政府は支
        持の吏党(与党)を当選させるため、民党(野党)に対して選挙妨害を始めた。
              1892(明治2
5)年2月1日舒翠館において、約2,700名からの群衆を集めた民党
        の演説会に、吏党が妨害を起こしたため乱闘となり、多数の負傷者を出すという選挙干渉
        流血事件の場となった。

        
         如水館の先は、これまでの町並みとは少し形態を変える。

        
         旧日田街道沿いに発達した在郷町で、米や煙草、木蝋の原料となるハゼ栽培の中心地で
        あった。村役場は正面の民家奥にあったとされる。 

        
         日蓮宗円誠寺 

        
         出入口に厳島神社があり、この先は来光寺集落。
     
        
         神社から北に入った通りを歩いてみたが、目に留まるようなものは見当たらなかった。

        
        
         酒造会社の倉庫を見て旧道に出る。

        
         バス停の位置がわからず、中学校前まで戻ってJR二日市駅行きのバスに乗車する。