この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
長門鉄道は小月駅から旧豊田町の西市駅を結ぶ18.2㎞の軽便鉄道であったが、今回は
岡枝駅跡から西市駅跡までの鉄道敷跡を巡る。
JR小月駅からサンデンバス大泊行き約16分、岡枝バス停で下車する。
中間の主要駅だった岡枝駅は、倉庫との間がかなり広いが、倉庫に積み下ろしするため
の貨物用側線が設置されていた。廃止後は農協用地に転用され、現在も木造農業倉庫は健
在である。
木造倉庫の軒下に文字が見えるが、蔦ですべてが読めないが「□□村産業組合農業倉庫」
とある。
県道233号線(美祢菊川線)の南側に、鉄道敷跡と思われる土留めされた道がある。
県道を横断すると北に延びる草地の道が鉄道敷跡。
草地から解放されるとサングリーン菊川までは舗装路。
サングリーン菊川の先で鉄道敷跡は消滅する。
お会いした高齢者の方にお聞きすると、「いつ頃か忘れたが、圃場整備が行われて消滅
してしまった」とのことだった。(この中を走っていた)
込堂(こみどう)停留所は歌野川の北にあって、同名のバス停後ろ辺りにあったようだ。
三界萬霊塔と富成橋を過ごすと、山の斜面と木屋川の間に敷設されていた。
右に分岐する道が、さらに二手に分かれるが、左手の道が鉄道敷跡である。
右手に数軒の民家を過ごすと、正面に函渠が見えてくる。西部利水事務所への取付道路
で、木屋川に設置された工業用水用の2つのダム(木屋川と湯の原)を管理する。
県道の一段低い道が鉄道敷跡で、現在はサイクリングロードになっている。
県道を少し離れるとトンネルへの案内がある。
案内の先にトンネルへの分岐。
計画では込堂から木屋川沿いに敷設されることになっていたが、経費が嵩むとの理由で、
1814(大正3)年に路線変更されてトンネルが掘削されることになったという。(岡枝側
入口)
概要 全 長 104m
掘削開始 1915(大正4)年6月
開 通 1817(大正6)年春
内面側壁には煉瓦が用いられ、直線的なトンネルでなく、中央付近で湾曲しており、当
時としては高度な掘削工事であったと思われる。
路線唯一のトンネルは、煉瓦の剥離もなく線路はないが現役時代のままに残っていた。
湾曲しているが入口の明かりも見え、路面は砕石混じりの土だがぬかるみもない。
アーチ部分は長手積み、坑門部分はイギリス積みで構成されている。(西市側)
トンネルの先は藪と化しており、舗装路の出口はトラロープで進入禁止とされている。
岡枝側には何もなかったので、トンネル内部だけは見せようとの配慮だろうか。
この道と鉄道敷の離合地点はわからなかったが、湯の原ダムの竣工は、1991(平成3)
年3月なので河岸に沿って敷設されていたと思われる。
川向こうの東中山集落は、かつて長府藩の御用和紙村と名を馳せた。
県道下の鉄道敷跡は、左右に半円形を描きながら西中山集落に入る。
(西中山~石町区間)
橋台の下部が石積み。
県道に合わすと猿猴塚があるが、各地にこのような伝承が残されている。昔、この下の
淵に悪戯好きの猿猴が住んでいた。ある年の夏、影山家の下男が馬を洗いに行くと、猿猴
が馬の手綱を体に巻き淵へ引き込もうとしていた。下男は驚き、青竹で猿猴目がけて打ち
下ろしたが手元が狂い、馬の尻を叩きつけた。馬は驚き影山家に猿猴を引きずって一目散
に逃げ帰った。
猿猴は捕まり、働かされて弱りきると涙を流し哀願したとある。
中山橋の正面にある西念寺(真宗)は、1576(天正4)年創建と伝えられ、毛利家の御休
息所として毛利の家紋使用が許されたという。
中山橋の近くに西中山停留所があったが、同名のバス停がある。
庚申塚の先に鉄道敷跡が延びる。
途中の城戸バス停を過ごし、さらに県道に沿って北上する。
案内板のようなものが見えたので立ち寄ると、平安・鎌倉時代の関所跡という石柱が立
っている。
平安時代の中頃に豊田氏が定住すると、この要害の地に城戸(木戸)を設けて関所とし、
南(小月側)からの侵入者を警戒したという。今、この地を城戸といい、関所の地を節所(せ
つそ)というと説明されている。
中山橋から石町入口まで約3㎞の道程であるが、城戸から石町駅までの鉄道敷跡は県道
の拡幅によって消滅したとされる。
鉄道敷跡は県道より離れるが、現在は生活道路に転用されている。
石町駅は旅客とともに筑豊炭鉱の坑内用坑木が毎日のように積み出され、豊田下村の範
囲で米穀や肥料などが入出荷された。
小月駅から石町駅までは14.7㎞で、飯塚山付近で約15㎞とされ、「15」を示すキ
ロ程の石柱があったという。
案内に「米の備蓄倉庫があり、今でも当時を偲ぶレトロな煉瓦造の建物が残されている」
とあるが、取り壊されたようだ。(石町駅方向を見返る)
江良川付近からの農免道路が鉄道敷跡。
(石町から西市)
江良地区に入ると、左手に菊川のシンボルである華山が聳える。
江良古墳は古墳時代末期の7~8世紀の古墳群とされる。全体的に小さめの古墳で、墳
丘はほとんどなく天井石もない。
豊田神社前を過ごすと緩やかに左へカーブする。
阿座上集落の鉄道敷跡は直線的で、前方に西市が見えてくる。
阿座上停留所があった場所に駅標板が設置されている。
切通しの鉄道敷跡。
旧豊田町を流れる木屋川のゲンジボタルがデザインされたマンホール蓋。
県道65号線(山陽豊田線)に合わして北上する。
約320mの先で県道と分かれて市街地に入る。(入口に材木店)
現在は梨選果場となっているが、ここに西市駅があり給炭水設備が設けられていた。
西市駅は豊田中、殿居に加え、俵山や豊東との流通の基点になり、倉庫が足りないため
付近の民間倉庫を借りるという盛況ぶりであったという。列車は客車と貨車を併結した混
合列車であった。
道の駅蛍街道西ノ市には、長門鉄道で使用された101号機関車が保存展示されている。
西市バス停から片道400mほどなので立ち寄る。
機関車の銘板には、アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ビッツバーク ヘンリー・カー
ク・ポーター社 1915(大正4)年の製造年と製造番号がある。
アメリカの鉱山で採掘された鉱石の運搬や、山岳鉄道に使用する目的で開発された。
「速度は出ないが力は強い」という機関車は、小月~西市間を平均時速21.8㎞ほどで走
り、ゆったりとして愛らしい姿から「長門ポッポ」と呼ばれた。
1947(昭和22)年滋賀県の東洋レーヨン㈱に売却され、その後、宝塚ファミリーラン
ドを経て、京都府与謝野町の加悦(かや)SL広場に展示されていたが、2020(令和2)年3
月の閉鎖に伴い、この地へ里帰りする。