ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市の吉敷畑から赤田神社までの肥中街道

2023年09月30日 | 山口県山口市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         吉敷は山口市街地の西部に位置し、域内を囲むように山が連なるが、東部は国道9号線
        があって、交通便も良く宅地化が進んでいる。
         その中にあって吉敷畑(よしきはた)は、丸岳南麓の高地に集落を形成する。(歩行約3.6
        ㎞、神社まで🚻なし) 

        
              JR山口駅(10:00)JRバス秋吉行き約40分、吉敷畑バス停で下車する。

        
         国道435号線をバス進行方向へ進むと、右手にふるさと市場がある。集落であるが民
        家は谷筋に散在する。

        
         山口の中心部と大内氏の朝鮮貿易の要港・肥中港を結ぶ肥中街道が吉敷畑を通っていた
        ので、これに沿いながら赤田神社まで下る。(白いガードレール道を下る) 

        
        
         このあたりは圃場整備事業が行われて街道は消滅している。(やまぐち棚田20選)

        
         吉敷畑橋を潜り下って行くと、№14の道標前が旧街道の一部とされる。

        
         丸岳と西鳳翩山を振り返りながら下る。

        
         吉敷畑生活改善センター内に「奨学資金之碑」と「大澤哲昭先生記念碑」(手前)の碑が
        建立されているが、碑文が風化して内容を知ることができない。

        
         旧国道435号線に合わすと畑河内神社参道入口に道標あり。

        
         畑河内神社は、南北朝期の1384(至徳元)年宇佐八幡宮より勧請される。(石段を見て
        上がるのを残念する)

        
         民家の右手に街道があったようだが旧国道を下る。 

        
         №12の道標を確認して右手のガードレールより街道に入る。

 

        
         街道脇は川のせせらぎとヒガンバナ。

        
         旧国道と寺領(じりょう)川に沿う。

        
         舗装路から草道になると№11の道標あり。1本道で迷うことはないが、この時期はク
        モの巣払いをする羽目
になる。

             
         やがて前方に民家(無住)の屋根が見えてくる。

        
        
         この一帯の耕作地をお持ちだったと思われるが、トラクターや耕運機が田の中に置かれ
        たままとなっている。

        
         右手に「鮎の里」を過ごすが、開園日は日曜日、祝日、振替休日のみの営業で、今年は
        提供できる鮎が少なくなったので10月9日で終了だそうだ。

        
         ガードレール傍にある№10の道標を確認して、次の道標までは旧国道歩きである。

        
         №9の道標から右手の草道に入る。 

        
         草道の先は少し荒れ加減ではあるが、古道の趣を残した山道である。

        
         山の斜面が掘り下げられた先に竹林が見えてくると、寺領集落まであとわずかである。

        
         キノコの名前はわからず。

        
         ここを下れば山道とはお別れである。

        
         民家前に出ると集落内歩き。(ヒガンバナの所に№8の道標) 

        
        
         寺領川に沿って下る。

        
        
         橋を渡ると山の斜面に灯籠と庚申塔、石地蔵、石の観音像が置かれている。

        
         吉敷は夏になると水がなくなり、稲が枯れてしまうという被害にたびたび遭う。小田平
        兵衛は庄屋の職にあり、農民の苦しみを憂いて、1815(文化12)年代官所に請うて、今
        の野口原に陂(つつみ)を築いた。これにより日照りが続いても50余町の耕地は枯渇するこ
        とがなくなる。その功績を長く伝えるため野口陂碑(はひ)が建立された。

        
         沓掛川に沿うと国道に合わし、赤田神社参道にある終点の№5の道標を確認する。(№6
        は国道から寺領集落入口にある) 


山口市名田島は椹野川左岸の開作地

2023年09月27日 | 山口県山口市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         名田島は山口市南部の椹野川左岸にあって、東は陶ヶ岳を起点とする連山の麓に位置す
        る。地名の由来について地下上申は、海中の離れ小島の中にわずかな田があり、潮時をう
        かがい耕作を行っていたが、これを地主の名田(みょうでん)と呼び、のちに名田島となった
        という。
今回は元禄開作と地名となった島を歩いてみる。(約4㎞、🚻なし) 

        
         JR新山口駅(11:00)から防長バス宮ノ前経由秋穂荘行き約10分、岩屋下バス停で下車
        する。

        
         長妻、慶三、元禄開作の概略図、破線は名田島村と陶村の境界。

        
         降り立ったバス路線が慶三開作の堤防跡のようで、右側の民家後側付近が陶と名田島の
        境界のようである。

        
         向山上集落内。

        
         火の見櫓ほどの高さではないが、階段が新調されているので半鐘は現役のようだ。傍の
        石柱は支那事変出征記念碑で11名の名前が刻まれている。 

        
         風力を利用して籾と籾殻を分ける「唐箕(とうみ)」2台と大甕が並ぶ。

        
         正面には田園の中にある名田島小学校と、傍には慶三開作から元禄、新開作の南蛮樋(国
        指定史跡)に流れ出る農業用水路がある。

        
         校庭の片隅に5つの碑が建つ。

        
         1942(昭和17)年の台風襲来は満潮時と重なって、椹野川と南若川(なんにゃくかわ)
        堤防8ヶ所が決壊して悲惨な光景となる。死者32名、家畜40頭、家屋の全壊流失68
        戸、家屋の浸水や水稲が全滅する。この大風水害受難之碑は当時の水位を印し、後世に伝
        えるため建立された。

        
         「秋本先生父子頌徳碑」の説明によると、父の守恭氏は学校創設に尽力し、潤輔氏は同
         校の校長として子弟の教育に携わったという。その他忠魂碑や従軍記念碑がある。

        
         1873(明治6)年島の内にある大道寺を借りて小学校が開校し、のち六神社境内に校舎
        を新築して名田島小学校と称する。1886(明治19)年東開作の地に校舎を新築し、向山
        小学校と合併して現在に至る。
         2014(平成26)年グラウンドの芝生化モデル事業に選定されたようで、ヒートアイラ
        ンド現象や埃の緩和のみならず、転んでもケガをしないなどの効果があるようだ。学校は
        今年で創立150周年でもある。

        
         正徳年中(1711-16)陶村から分離して独立する。1889(明治22)年の町村制施行により、
        近世以来の名田島村として自治体を形成する。

        
         東開作公会堂前に地蔵尊と石祠。

        
         一般県道山口防府小郡自転車道線は山口市宮島町から防府市の佐波川を経由して、小郡
        下郷の東津に至る約36㎞の自転車道として整備された。
         名田島の区間はJR四辻駅前から南若川堤防を走り、岩屋下から県道を小郡へ向かう路
        線である。(左手は山口南総合センター) 

        
         この一帯は、1650(慶安3)年島山東の樋の口から向山の南若川西土手までが築立され、
        俗に慶三開作といわれている。

        
         小郡バイパス第7函渠を潜ると島エリアに入る。1626(寛永3)年長妻某なる藩士によ
        って築立されたもので、陶村と島が陸続きになった。

        
         厚く土で塗り込めた土蔵の屋根の上に、防火と断熱のため別構造で置き屋根を載せ、火
        災時には取り除くこともできる構造になっている。

        
         石造地蔵尊には「三界萬霊」とあるが、この世に存在する一切の霊(萬霊)を多くの人に
        供養してもらうことを願って、寺院の入口や路傍に建立された。三界とは生命あるものが
        住む3つの世界(欲界・色界・無色界)のことである。

        
         周防大橋と周囲に稲穂がデザインされた集落排水用マンホール蓋。

        
         島周囲約2.2㎞内外の小島は緩やかな上り坂である。

        
         かって島や東開作集落内で飲料水、茶の湯や風呂水など生活用水として利用された湧水
        の池(手水川)がある。碑は皇紀2600年(1940年)に建てられたもので、碑文は神功
        皇后(伝説の皇后)が三韓征伐の際、ここで面影を移し島明神に戦勝祈願したと伝えると記
        す。

        
         六神社の社伝によると、名田島開作の鎮守として厳島神社より勧請して創建されたと伝
        える。六神社の祭神は三女神、保食神と仲哀天皇・神功皇后である。

        
        
         拝殿傍には灯すことができない常夜灯。

        
        
         大元明神社とあるが詳細を知り得ず。

        
         大道寺(曹洞宗)の寺伝によると、1742(寛保2)年村民の願いによって大島郡小松村に
        あった奥ノ坊を移したのが始まりとされ、1744(延亨元)年現寺号に改める。

        
         1889(明治22)年名田島で生まれた田中慶雲は、高村光雲に学び、境内には彫刻作品
        の「清浄観音」がある。

        
         1867(明治3)年2月7日に木戸孝允率いる脱隊騒動の鎮圧軍は、大道寺を本陣・野戦
        病院とする。この戦いで殉難した5名の墳墓が山口藩によって建立される。
         墓標は読み取れないが、同年2月9日小郡八方原にて負傷して13日に亡くなった藤井
        伊之助、杉山守孝及び伊藤頼利ほか2名とされる。

        
         桜井慎平(1834-1880)は名田島で生まれ、幕末には諸隊(集義隊)を結成して仮総督となっ
        た。のち八幡隊と合併して鋭武隊となったが、慎平の処遇は明らかでない。
         維新後は官吏の道に進み、金沢裁判長となり金沢で没する。墓標には「判事正六位桜井
        直養之墓」と刻まれている。

        
         再び六神社に戻って参道を下る。

        
         標高が低いので展望はよくない。(山口南総合センター方向)

        
         西開作と椹野川方面。

        
         参道を下って来ると正面にこんもりとした森が見えてくる。

        
         神功皇后が三韓征伐の際、この岩に軍船を繋げて休憩された言い伝えがあると説明され
        ている。神護石の転訛したものと思われるが、神域又は霊域として尊信されてきたことは
        言い伝えのとおりである。

        
         森重雪島(せっとう・1841-1915)は森重嘉兵衛の長男として名田島村に生まれる。186
        8(明治元)年戊辰の役に従軍したが、のち脱退騒動に加わったため流刑されて3年間萩市見
        島で暮らす。
         罪が許された後、30代で絵師の狩野芳崖に弟子入りして南画を学び、郷里に帰り多く
        の子弟を教えた。島中山墓地に門人たちが碑を建立する。

        
         墓地近くの天理教前バス停よりJR新山口駅に戻る。(@220-)                              


山口市名田島の南蛮樋から向山の地蔵院

2023年09月24日 | 山口県山口市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         名田島は山口市南部の椹野川左岸にあって、東は陶ヶ岳を起点とする連山の麓に位置す
        る。地名の由来について地下上申は、海中の離れ島の中にわずかな田があり、潮時をうか
        がい耕作を行っていたが、これを地主の名田(みょうでん)と呼び、のちに名田島となったと
        いう。
         名田島の小名である向山は、名田島の「向いの山」を意味するものとされる。(約7㎞) 

        
         JR新山口駅から防長バス秋穂荘行き約10分、新栄橋バス停で下車する。(@420-)

        
         新栄橋バス停から西に広がる新開作の田園地帯に入る。

        
         病害虫によるものかはわからないが、水中林ならぬ坪枯れ現象のような光景が見られる。

                
         名田島地域の大部分は干拓により築立されたもので、1626(寛永3)年の長妻開作、
        1650(慶安3)年の慶三開作、1690(元禄3)年の元禄開作へと干拓が進められた。1
        774(安永3)年元禄開作の沖に新開作が築立され、1922(大正11)年山口県営として
        昭和開作の工事に着手、1928(昭和3)年には名田島村に編入され、50戸の移住を済
        ませている。不思議に元号の3年にすべてが築立されているが、何か意味があったのだろ
        うか。昭和開作の築立により海と接していた新開作の堤防と樋門は、その役目を終える。 

        
         排水路に架かる石橋は渡ることができる。新開作は萩藩によって築立されたが、藩が行
        った最終の築立に属するので、一般に新開作と呼ばれている。

        
         1774(安永3)年に築造された新開作南蛮樋は、近世の周防灘における萩藩による干拓
        の実態を伝えるものとして国指定史跡にされている。
         南蛮樋を挟んで手前が新開作、沖側が昭和開作と右手に椹野川。(写真は案内板より)

        
         椹野川から南若川まで約1.24㎞の新開作堤防は、藪化した所もあり堤防上を歩くこと
        はできない。

        
         堤防南側は野面積みで築かれているが、この時期は葛に覆われて石組みを見ることはで
        きない。(2019年保存・整備時に撮影) 

        
         遊水池は亀さんや鳥たちの楽園のようだ。

        
         第三挺樋の堤防幅は約37m、樋門東西幅4.3m、総高約5mである。樋門には約45
        ㎝角の長方形加工石材が用いられている。

        
         橋にはロクロを巻き上げる上屋があったと思われ、土台に穴が残されている。

        
         第四挺樋の堤防幅は約43m、樋門東西幅6.5m、総高約5mとのこと。水路の底部に
        は底が水によって掘れないように、長方形の加工された石材が敷かれている。

        
         遊水池側からの第四挺樋。

        
         遊水池側からの第三挺樋。

        
         三・四挺樋を挟んで東西2ヶ所に設けられている悪水樋は、幅133㎝、高さ92㎝で
        一段底が低く造られている。
         東側にある悪水樋の近くに樋守小屋があり、干潮や満潮の時期に合わせて、1日に4回
        樋門の仕切り板の上げ下げが行われていた。

         
         堤防南側の道を南若川へ向かう。

        
         堤防の石垣には切石積みと野面積みが混在するが、長い堤防の構築は至難を極めたこと
        であろう。

        
         堤防前にある昭和神社の創建等はわからないが、元禄開作や新開作には三神社があるの
        で、昭和開作の守護神として祀られているようだ。

        
         周防大橋と周囲に稲穂がデザインされた集落排水用マンホール蓋。

        
         南若川河口は「しじみ」の宝庫だったようだが、規制もなく乱獲によって消滅してしま
        ったとのこと。

        
         この地に秋穂八十八ヶ所霊場79番札所があったが、理由ははっきりしないが大師像の
        み戒定院に移され、地蔵尊のみが残されて小さな祠に祀られている。隣に建つ碑には、新
        栄橋架橋寄付者名と建立年の大正2年(1913)6月建立が刻まれている。

        
         新開作バス停で下車された方と長話をしてしまう。バス停近くにお住まいだそうだが、
        昭和開作の端に住まわれている方はバス停まで遠くて難儀されているという。よもやま話
        をして昼も近づいてきたのでお別れする。

        
         1989(平成元)年4月に竣工した平成橋を渡り、南若川左岸に移動する。 

        
         新開作の三神社は山口市秋穂二島の上田(あげた)集落内に建立されているが、築立された
        新開作が二島村に属したことによるという。後に新開作が名田島村となったため変則的な
        関係にある。 

        
         萩藩により名田島の開作が行われ、1774(安永3)年新開作が完成した際、風水害鎮護
        のため三神社が創建された。綿津見神(海の神)、三女神(航海安全の神)、倉稲魂神(穀物の
        神)が祀られている。

        
         三神社裏手から旧道歩き。

        
         華光寺入口にある石仏。この付近が二島と名田島の境界のようだ。 

        
         華厳宗の華光寺(けこうじ)の由来等はわからない。

        
         本堂の右手に「火のみ滝」が案内されている。火の山より湧き出ずる法水(延名水)は、
        一切の病を除く佛水とされ、精心供養のため滝行ができるとある。

        
         向山三神社への道にヒガンバナが咲いていたが、この付近で見たのはこれのみだった。

        
         1873(明治6)年3月向山三神社の通夜堂を修理して向山小学校の校舎に充てられたが、
        1886(明治19)年東開作に名田島小学校の新校舎が完成すると合併されてしまう。

        
         三神を祀っているので三神社といわれているが、1689(元禄2)年開作の鎮守神として
        祀ったのが始まりとされる。1855(安政2)年8月の火災で社殿を焼失するが、3年後に
        再建されたのが今の社殿である。

        
         拝殿には絵馬、幕には萩本藩の家紋が施してある。

        
         鐘楼堂の鐘は健在である。

        
        
         攘夷戦争に際し諸隊が結成された時、佐分利隊を組織して新開作の椹野川沿いの警備に
        あたった。屯所跡に長屋門が残されている。

        
         石造地蔵尊には「三界萬霊」とあるが、この世に存在する一切の霊(萬霊)を多くの人に
        供養してもらうことを願って、寺院の入口や路傍に建立された。三界とは生命あるものが
        住む3つの世界(欲界・色界・無色界)のことである。

        
        
         新旧の建物が混在する。

        
         民家の敷地内に不動明王や地蔵尊などが祀られている。

        
         域内は数軒ごとに点在する。

        
        
         1868(明治元)年に国分寺(現防府市)の塔中にあった地蔵院をこの地に引寺したとされ
        る。

        
         1822(文政5)年防府天満宮境内に五重塔建立が計画されていたが、藩財政の立て直し
        政策が優先されて建設が中止される。
         防府市宮市町に住む宮大工が本建築に先立ち、五重塔の1/30模型を造る。中止後、宮大
        工は日頃帰依していた山口の常栄寺の和尚に贈ったが、隠居して霊光院に住んでいたので、
        この地に安置されるようになった。

        
         南若川左岸が向山と思っていたが、バス停付近の一部分を含んでいるのは、南若川(向山
        川)が後年の開作築造に従って、流域が整備されたことによるという。(岩屋山と陶ヶ岳)

        
         南若川から県道山口小郡秋穂線に出ると、途中に石仏と秋穂八十八ヶ所の道標あり。
        岩屋下バス停(14:26)よりJR新山口駅に戻るが、この路線は土曜日のみ運行されるバスが
        あるので要注意である。


山口市阿知須の江畑池堰堤から北方八幡宮

2023年09月19日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         阿知須(あじす)は山口市の南部、椹野川河口の山口湾に面し、西には宇部台地があって低
        い丘陵地をなしている。
         源河(げんが)・河内地域は丘陵地の裾野に集落を形成し、それに沿って山陽本線が走るが、
        旧阿知須町には本線の駅はない。(歩行約6㎞)

        
         JR宇部線とあじすコミュニティバスとの接続が悪いため、JR新山口駅から宇部市営
        バス宇部新川駅行き(9:48)約30分、「サンパークあじす」で下車する。下車した場所が
        コミュニティバスの停留所で、待っているとタクシーが横付けする。
         お聞きすると、狭隘な道と乗客数の関係でタクシーがバスの代替えだそうで、人数が多
        くなると2台対応になるという。南部東西往復線のてしま旅館バス停で下車する。

        
         宇部72カントリークラブ江畑池コースの道に入ると、山陽本線の架道橋には旧山陽鉄
        道の赤煉瓦が残る。 

        
        
         左手にゴルフ場入口を過ごすと、次の分岐に堰堤への道標が設置されている。(右手はゴ
        ルフ場の阿知須コース)

        
         3軒の民家が並ぶ。 

        
         現在のダムが建設される前は、1889(明治22)年に土堰堤の江畑溜池が完成するが、
        翌年の豪雨で決壊して下流域に大きな被害をもたらす。その後も何度か再建計画が持ち上
        がるが、決壊を恐れる下流住民の反対で実現しなかった。(流水路に沿う)

        
         1927(昭和2)年国の用排水改良事業による補助を受けて、翌年の9月に着工し、19
        30(昭和5)年に現在の江畑溜池堰堤が竣工する。
         余水吐は堰堤のほぼ中央部上方に位置し、3つの水門により越流させる仕組みである。
        右岸側にある胴樋は、直径6尺(1.81m)の取水設備である。

        
         1934(昭和9)年に建立された江畑池竣功記念碑の碑文には、築造経過が刻字されてい
        る。

        
         粗石コンクリート重力式灌漑用ダム堰堤(水圧をダムの重さで支える構造)は、堤高14.
        4m、堤長68.8mで、法面の勾配は上流側1分、下流側8分である。表面は上・下流側
        ともに花崗岩の張石が用いられている。
         この方式の堰堤としては最も古いとされ、国登録有形文化財に指定されている。

        
         農業用専用として約30haの農地を潤してきたが、竣工から約93年経過するにもかか
        わらず、大きな問題もなく現役を続行中である。(通路は歩くことが可能) 

        
         円形の取水建屋は内径5尺(1.51m)の縦樋で、約57.5㎝の鉄管3個を配置し、こ
        れを37.5㎝の鉄管に連結して、各々制水弁を設けて、把手により開閉して用水を調節す
        るというものである。

        
         総貯水量45万㎥の貯水池の周辺は、すべてゴルフ場である。

        
         竣功記念碑の裏手に石祠が2基あって貯水池の方角を向いているが、水にまつわる神(龍
        神)などが祀られているのであろうか。

        
         てしま旅館まで戻って県道善和阿知須線を東進すると、石仏1基に出会う。
         1956(昭和31)年源河集落内に町営の阿知須ラジウム温泉を開発し、浴場と宿泊施設
        が建設された。
         しかし、赤字続きのため温泉と河内砂留谷一帯の町有林を宇部興産に売却
する。のちに
        ゴルフ場と温泉施設になったが、2021(令和3)年宇部72アジススパホテルを運営して
        いた宇部興産開発が解散し、ホテルは閉業する。これにより、河内の湯は「てしま旅館」
        のみとなる。

        
         土路石川に架かる湯の河内橋を渡って左岸を歩く。

        
         途中にある地蔵堂には「おん・かかか・びさんまえい・そわか」の御真言があり、「か
        かか」は、お地蔵さん、お地蔵さん、お地蔵さんと3回呼び、「びさんまえい」とは類稀
        な尊いお方というような地蔵尊への讃嘆の言葉、「そわか」は、願いごとの成就を願う気
        持ちを表すらしい。

        
        
         庚申塚2基と石仏2基あるが、ここにまとめられたようだ。

        
         四国八十八ヶ所霊場にあやかって、1895(明治28)年旧白松村(佐山、井関、岐波)に
        白松新四国八十八ヶ所霊場が設けられた。(80番札所)

        
         最近はあまり見られなくなったガマ(蒲)の穂だが、フランクフルトに似ている。ガマ、
        コガマ、ヒメガマがあるようだがどれだかはわからない。

        
         山口宇部道路の高架を過ごすとヒガンバナ(曼殊沙華)だが、これも見る機会が少なくな
        った。

        
         花もそうだがトタン屋根の民家も少なくなった。 

        
         こんな逸話が残されているという。徳山~厚狭間の敷設の際、当時の井関村に対し、山
        陽鉄道側から村が地元の受益者負担金を出せば、阿知須回りにする用意があることが伝え
        られた。
         しかし、駅が近くに設置されれば旅行者によって伝染病の病原菌が侵入する恐れがある
        とか、当時は藁屋根の家が多く、蒸気機関車の煙突から出る火の粉による火災が発生する
        などの理由で実を結ばなかった。このため、井関村(阿知須町)には本線の駅が設置されな
        かったという。(須田屋敷踏切付近) 

        
         集落の境目なのか庚申塚。

        
         一ノ鳥居と神輿台のようなものが設置されている。

        
         参道を市道と山陽本線が横断するが、左右には文化8年(1811)の鳥居が並ぶ。

        
         北方踏切はかまぼこ型である。

        
        
         北方八幡宮の社伝によると、奈良期の751(天平勝宝3)年厚東武綱が、宇佐八幡宮の祭
        神を現宇部市東岐波の古尾に勧請したことに始まる。
         こののち、鎌倉期の1233(天福元)年多々良(大内)弘貞のとき、これを南北両社に分ち、
        南方八幡宮と北方八幡宮とした。北方八幡宮は山口市佐山の須川に移し、1255(建長7)
        年現在地に移ったと伝える。

        
         室町期の1408(応永15)年に焼失して2年後に再建されたが、楼門の再建ならず、1
        571(元亀2)年に至って造営される。1741(元文6)年に社殿を造営(改築)した記録が
        残されているが、左右に突き出た屋根が特徴の建物は、大内時代の建築様式である。

        
         赤碕社について風土注進案は、1663(寛文3)年秋穂の大海浦にある赤崎神社から阿知
        須の岩倉村に勧請したと伝える。1908(明治41)年2月岩倉から八幡宮境内に遷座して
        末社となる。

        
         菩提寺(真言宗)は、往古から須田村に草庵があったが、度々無住になっていたため開山
        は不明とされる。北方八幡宮の社役は当寺の本寺である嘉川の長福寺(正福寺と改称)が勤
        めていたが、八幡宮の氏子の願いによって長福寺12坊のうちの寺院をもって祈願所と定
        めた。文禄年間(1592-96)に炎焼して長く絶えたが、1668(寛文8)年に引寺して堂宇を
        建立したと伝える。(🚻あり)

        
         旧山陽道の高根又は今坂から内陸部を宇部に向かう脇往還は、須川から由良に入り、高
        松郷ひとつ松、道祖神森をぬけて北方八幡宮脇に至った。
         また、井関・野口から引野に入り片倉に至る道があったという。 

        
         主要地方道宇部防府線の宮の脇橋を潜ると、山口市佐山と阿知須町の境界があった。

        
         旧阿知須町側ではマンホール蓋を見なったが、旧山口市には周防大橋と稲穂がデザイン
        された集落排水用マンホール蓋が見られる。

        
         由良川を過ごすと由良後集落へ入る。

        
        
         JR本由良駅は、1900(明治33)年山陽鉄道が三田尻(現防府市)ー厚狭間の開通と同
        時に阿知須駅として開業する。由良に設置された駅を阿知須駅と命名されたのは、阿知須
        の経済力の評価が高かったものと思われる。阿知須から由良までの距離をほとんど人が徒
        歩に頼っていたが、当時にあってかなり骨の折れることであっただろう。
         1950(昭和25)年に宇部線の本阿知須駅が阿知須駅に改称した際に由良駅とすべきと
        ころ、すでに山陰本線に由良駅があったため現駅名とされた。(駅の🚻使用不可)


山口市二島の古宮から朝日山と秋穂正八幡宮

2023年09月18日 | 山口県山口市

               
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         秋穂二島(あいおふたじま)は、山口湾に流れ込む椹野川の左岸に位置する。1610(慶長
          15)
年の検地の際に秋穂村とされたが、広範な村であったので旧秋穂町地域を秋穂本郷村
        とし、西方を秋穂二島村にする。
         地名の由来について地下(じげ)上申は、「弐島と申儀は小島が弐ツ在り之、此の島を片取
        り、郷名を弐島村と往古より申伝之由」とある。現在は2つのうち1つは、開作地となり
        1つは海中に残っている。(歩行約7.5㎞)

        
         JR新山口駅(9:41)から防長バス秋穂荘行き約20分、原の前バス停で下車する。辺り
        は民家が存在しない田園地帯のバス停である。

        
         田園地帯を歩くと左前方に権現山と朝日山、その手前が小名でいう二島集落。

        
         秋穂八十八ヶ所霊場65番札所である北田大師堂。

        
         二島の由来となった2つの島の左手は、開作地にあって陸続きとなったようだ。一方の
        海中にある島は、干潮の際には歩いて渡ることができることから「山口のモンサンミッシ
        ェル(小さな島全体が修道院)と称賛されることもあるという。

        
        
         平安期の814(弘仁5)年頃瀬戸内海に海賊が横行し、異国からの脅威もあって、降伏鎮
        護の神として豊前国宇佐神宮より勧請、海の波打ちぎわである秋穂二島に鎮座する。
         室町期に社殿が消失し、1501(文亀元)年大内義興が現在の正八幡宮がある地に遷座さ
        せる。それ以降、この地は古宮というようになる。

        
         二島集落から南集落へ垰越えする。

        
         垰越えの先に山口湾が見えてくる。

        
        
         四差路を左折すると石仏があり、舟形に掘られた中に刻字があるが風化して読めない。 

        
         車の轍もあって先行きを心配することなく歩ける。分岐からだと車でも入ることが可能
        である。

        
        
         若宮神社の社伝によると、昔、岩屋山の箕尾浜に鎮座していたが、大地震で破壊されて
        しまったので、平安期の806(大同元)年現在地に遷座したとある。

        
         若宮神社右手より石段に入ると、天に上るような石段で転げ落ちると若宮神社まで戻っ
        てしまいそうな勾配である。

        
        
         権現山山頂部(標高65m)の磐座前に焼火(たくひ)神社が鎮座する。由来によると、15
        43(天文12)年頃に毎夜現在地に光明があり、霊夢により隠岐島の焼火神社から勧請した
        とある。火伏せのほか、邪病退散、海難守護の神として大切に祀られている。

        
         本殿前から眺める山口湾と秋穂湾。

        
         南集落と山口湾、右手にきららドーム。海岸部の黒い部分は元塩田跡で、メガソーラー
        が設置されているようだ。

        
         転げ落ちそうな石段を避けて神社右手の車道を下る。

        
         鳥居を潜り左折道を下って来ると集落道に出る。近くに南公会堂があって、ここも駐車
        可能である。(入口に標識あり)

        }
                 惣在所集落に入り蔵がある所で左折する。 

        
         朝日山南側参道の途中には観音像があり、石段の中に新たな山門が設けられている。

          
         平安期の896(寛平8)年に千光院として祢宜集落に開創される。その後、火災で焼失し
        て真善坊に合併される。 
         1869(明治2)年真善坊と遍照寺(両寺とも祢宜集落)が合併して真照院となり、朝日山
        観音堂があった地に移転する。その後、火災に遭い、1963(昭和38)年に現在の堂宇と
        なる。

        
         この二島の地には幕末に奇兵隊が5ヶ月ほど駐屯する。1763(文久3)年6月に結成さ
        れた奇兵隊は、9月には萩藩が山口に政庁を移し、幕府が海から攻めてくるとすれば、山
        口に近い秋穂とみて、海岸線防禦のため陣をかまえる。(権現山同様に秋穂の風景が広がる) 

        
         9月3日富永有隣ら先陣が秋穂浦に上陸し、5日に本隊が船で来て、大里集落の泉蔵坊
        と万徳院(のち合併して栄泰寺)と禰宜集落にあった遍照寺と真善坊の4ヶ所に陣を置いた。
         1863(文久3)年8月27日都を追われた七卿が、三田尻に到着して滞在すると、9月
        25日奇兵隊は警護のため移動する。(登山愛好家では人気度の高い大海山と勘十郎岳)

        
        
             書院と庫裏前を下ると鳥居があり、奥の院への参道に入る。(鳥居先の左手に🚻) 

        
         石段を上がって行くと奥の院観音堂分岐があり、傍には西国三十三観音霊場第21番(丹
        波国・穴太寺)の石仏がある。

        
         護国神社への道を進むと鳥居があり、柱には「慶応三年(1867)丁卯四月 堅田信義寄付」
        と刻まれている。堅田は萩藩寄組士筆頭であり、幕末には八幡隊総管に就任するなど活躍
        した人物である。
         鳥居を潜ると左手に、周芳国秋穂郷朝日山八幡隊招魂碑が建立されている。碑文を読み
        取ることはできないが、「元治三年(1866)丙寅春三月 堀真五郎」とある。元治3年は存
        在しないが、「慶応」の元号は徳川慶喜に応じるという意味合いから、これを嫌ったもの
        と思われる。

          
         朝日山北峰山頂(標高80m)には、朝日山護国神社が鎮座する。藩の招魂場開設令によ
        り八幡隊の招魂場として、1865(慶応元)年6月八幡隊が招魂場を建設する。

        
         吉田年麻呂、寺島忠三郎をはじめ66柱が祀られ、後に村出の戦没者278柱が合祀さ
        れる。 

        
         秋穂八十八ヶ所69番札所は祢宜の真善坊に置かれていたが、1932(昭和7)年真照院
        奥の院が建設されて移ってきた。堂の傍には薬師如来像も建立されている。

        
         西峰は周回することができ、神変大菩薩(役の行者)や石仏などが祀られている。

        
         小郡市街地の手前に南流する南若川と名田島開作。

        
         時間の関係で西峰から西の道に入らず、引き返して途中にある順路道に入る。

        
         南峰に妙見社が鎮座する。

        
         石段を下って西峰への順路に合わすと、西国霊場2番・金剛宝寺(通称は紀三井寺)があ
        る。右の石柱には、1925(大正14)年寄進により三十三観音霊場が設置された旨が記し
        てある。 

         
         再び本堂前を通って東参道に下り、禰宜集落へ向かうと朝日山の山容が広がる。

        
         火の山連峰の南端にある亀山と二島中学校。

        
         正八幡宮の御旅所。

        
         一ノ鳥居を潜ると2つの太鼓橋。地上の人と天上の神を結ぶ架け橋で、渡りにくい橋を
                架けることによって、人間界と神が住まう領域との境界を明確にする意味があるそうだ。

        
         二ノ鳥居前の灯籠は、長州ファイブの一人、秋穂二島出身の山尾庸三が寄進したもので
        ある。1662(寛文2)年建造された二ノ鳥居は、花崗岩で八幡鳥居の笠石にはわずかほど
        のそりがある。

        
         寄進された灯籠がずらりと並ぶが、時期は幕末の弘化年間(1844-1848)から慶応年間(18
        65-1868)までに寄進されたものが多い。四つの寺に宿陣した奇兵隊が、この境内に集まっ
        て訓練をしたとされる。

        
         正八幡宮は本殿・拝殿・幣殿・楼門と廻廊が軒を接して並び立っているが、大内時代の
        代表的な建物である。度々火災に遭うが、1501(文亀元)年に大内義興が現在地に再建し、
        1740(元文5)年に毛利宗広が改築したのが現建物である。(国指定重要文化財)
         西戎(せいじゅう)鎮護の神として祀られたことから、現在地に移されても建物は西向きに
        なっている。

        
         もとは「八幡二島宮」と称していたが、移転後の地は秋穂のため「秋穂八幡宮」となる
        ところであるが、変えることは適当でないとのことで「正(しょう)八幡宮」と称するように
        なったという。別当坊は二島の極楽寺から秋穂の遍明院に代った。

        
         独自の建築様式のようで建物全体が「宮」の字型にできており、「宀」が楼門と回廊、
        「呂」が拝殿、中殿、本殿を示している。

        
         回廊の柱の礎石は周囲に溝を掘り、これに潮水を入れて白蟻の侵入を防ぐようにできて
        いる点など、この社独特の技法が施されている。

        
         石造の真ん中は荒神様で右手が足王様とのこと。

        
         石造の庚申塔は花崗岩製で笠があり、塔身の正面を舟形に彫りくぼめ、青面金剛像を薄
        肉彫されている。「元禄5(1692)」と刻まれ、県下最古の刻銘がある庚申塔とのこと。

        
         秋穂街道(お上使道)は、秋穂浦から下村、天田集落を過ごし、正八幡宮裏から宮の旦、
        梅ノ木垰を越えて陶峠に至っている。

        
         松尾社。

        
         正八幡宮境内地には古くから弥勒堂があった。八幡宮の社僧でもあった遍明院の性海住
        職が、1783(天明3)年に秋穂霊場札所を設ける際に、その第1番札所を弥勒堂として大
        師堂と相堂にした。現在の堂は1918(大正7)年の建立である。

        
         鐘楼は本殿と同時期の1740(元文5)年建立とされ、県下に同形式の鐘楼が残っている
        例が少ない上、神社に残存している例もなく、貴重な文化財として山口県指定文化財に指
        定されている。(2009年に保存修理工事)

        
         秋穂二島は10集落に分散しているが、その中央にあったのが祢宜集落で、役場、学校、
        農協、商店などが集中していた。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、秋穂二島村として存立し、1944(昭和19)
        年まで村役場を置いた。後は市出張所となっていたが、隣に新築移転して駐車場用地とな
        っている。
         また、この付近に奇兵隊が駐屯した遍照寺があったとされる。

        
        
         唐破風玄関の祢宜公会堂脇に秋穂八十八ヶ所第71番札所。この地は古くからあった薬
        師堂跡で、当時を偲ばせる宝篋印塔が残されている。

        
         2022(令和4)年に山口市南部の幼稚園(鋳銭司、名田島、二島、秋穂)を統合し、「山
        口みなみこども園」(旧鋳銭司幼稚園内)が設置された。定員割れが大きな理由だそうだが、
        このままだと小・中学校も同様な道を歩むことになりそうだ。
         小学校が地域のシンボルであり続けることを願って、二島小学校前バス停(13:30)より新
        山口駅に戻る。


防府市西浦の小茅は塩の買い付けで賑わった地

2023年09月09日 | 山口県防府市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         防府市西浦は、佐波川河口左岸、防府平野の最も西端にあって田島山の西に位置する。
        小茅(こがや)は西浦の小名で、その南の小茅山麓に立地し大海湾に面するが、西浦の大部分
        は開作地であるのに対し、旧田島の西南側の集落であった。地名の由来は、一般に茅は2
        mにもなるのが普通だが、この山一帯には小さな茅が密生していたので、小茅と呼ぶよう
        になったという。(歩行約3.5㎞、🚻なし)

        
         JR防府駅から防長バス小茅行き約25分、終点の小茅バス停で下車する。(@530-) 

        
         まずは海岸線歩きだが、防波堤が高いため海は見えない。

        
         所々に海への開口部があり、右手にマツダ西浦工場、正面に大海山が裾野を広げる。

        
         小茅の古波止は、1787(天明7)年西浦に塩田が拓かれ、1795(寛政7)年小茅の藻刈
        り岩(現在の古波止の在る辺り)に、燈籠堂を配した最初の波止が造られた。塩買いの北前
        船も入ってくるようになり、小茅は大変賑わったという。
         1858(安政5)年大風で波止は崩れ、1860(万延元)年塩田関係者たちが長さ120間
        (約220m)の波止を再建する。 

        
         壊れかかったお堂に鎮座する石仏。

        
         海岸側に長屋などを建てて、その内部に主屋を設けるというスタイルであろうか。

        
         小茅港の機能を強化するため、1890(明治23)年3月沖合に長さ125間(約227
        m)で、先端に灯台をつけた新波止が築かれた。

        
         恵比須社だが中身がないため合祀されたのであろう。

        
         西浦漁港(l小茅港)は第1種漁港で、太公望たちが波止で釣り糸を垂れている。右手の建
        物はリハビリを目的とする「海のみずうみ村」。  

        
         開口部の先に楞厳寺山。

        
         ヤブ椿原生林、先端に地蔵鼻があるというが道はない。

        
         堤防内の山裾寄りで「夢のみずうみ村」駐車場奥に「巨亀の墓」がある。昭和の初め頃、
        小茅沖で畳一畳敷位の巨亀が網にかかり、あちこちからたくさんの人たちが見物に押し寄
        せたという。その亀の霊を弔ったのがこの墓で、墓標には「空亀毛霊之位(昭和6年)」と
        刻まれている。

        
         主要な生活道を引き返す。

        
         空家も目立つ。

        
         高台避難道の登り口№1を確認して疑似階段を上がる。

        
         クモの巣に悩まされながら竹林内を上がって行くと、西園団地の西端に石像が立ってい
        る。中村道明氏が日清戦争で台湾に出兵したが戦死する。父親がその霊を弔って、189
        9(明治32)年9月自家の敷地内に建立したという。
         この道の先に天然記念物エヒメアヤメ自生地があるが、時期ではないので引き返す。

        
         道路に戻って先に進むと、1795(寛政7)年小茅の先に最初の波止が造られると、日本
        海諸国より塩買いの北前船や石炭船も入って来るようになる。揚屋(遊郭)6軒も軒を並べ
        た港町となり、1834(天保5)年住吉神社が勧請された。
         鳥居は神明造りだが、痛みが激しく左の木口が脱落し、境内には立入禁止となっている。

        
        
         福本醤油醸造元付近。

        
         小茅バス停に戻ってくる。

        
         通りには小茅八十八ヶ所の石仏が並ぶ。 

        
         高台避難道入口№2に入ると金比羅神社がある。塩業が盛んになってから小茅の海運事
        業主15戸が、四国の金比羅宮の分霊を勧請して創建したという。
         明神型の鳥居も痛みが激しく鎖や鉄線で補強されているが、左の木口が失われている。
        1891(明治24)年船関係者が寄進したとされる。

        
        
         小茅入川と片側街及び樋門。 

        
         小茅墓地の東南一角に松林寺があったが、無住となり解体されたという。小茅に寺がな
        くなったので西浦や中関の寺の檀家になったという。  
         ここを起点とし、且つ結願するように小茅八十八ヶ所霊場がある。昭和の初めに地元有
        志によって発起・勧請されたもので、1936(昭和11)年に開山が行われた。 

        
         新地東へ続く入川と片側街。

        
         マツダ防府工場の東門前を過ごして上条バス停より駅に戻るが、往路と復路のバス路線
        が違うので、車窓から防府平野の西半分を楽しむことができる。


山口市大歳と黒川市周辺の史跡と石州街道 

2023年09月07日 | 山口県山口市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         大歳は椹野川とその支流・吉敷川に挟まれた位置にあり、地名の由来は、地内にあった
        小祠を「大歳様」と呼んでいたことに因むという。
         1889(明治22)年町村制施行により、矢原村・朝田村の地域をもって矢原朝田村が発
        足したが、1898(明治31)年村名を大歳村と改称する。その後、山口市の一部になった
        時、大字は矢原、朝田となり、大歳という名は消えたが、小学校、JR駅、交流センター
        などに残されている。(歩行約5.7㎞)

        
         域内の石州街道を歩くため、JR新山口駅(9:45)から防長バス宮野車庫行き約15分、
        朝田ヒルズバス停で下車する。

        
         国道9号線を横断して朝田川に沿うと、山口線朝田第2踏切の先にある橋が石州街道筋
        である。

        
         橋を少し過ごすと道路上に石組みが見られるが、 1870(明治3)年山口藩民生局(民生
        主事は杉民治(吉田松陰の長兄))が、朝田川の治水対策として、関屋橋から椹野川土手まで
        の80間(約150m)の堤防上に石畳を敷いて越流堤(水量調節の目的で、堤防の一部を低
        くしたもの)を造った。この石畳を「馬踏みの石畳」と呼んだが、現在は堤防上はアスファ
        ルト舗装されているが、関係者の配慮により石畳の一部が残されている。

        
        
         関屋第2号橋からは田園地帯。

        
         田園地帯を進んで行くと、左手に西側の山から突き出た丘陵部の先端部分がある。この
        森に8個の古墳があり、福生寺という大寺があったとされ、これに因んで琳聖太子の次男
        福性太子が住んだとの伝承が生まれた。地下(じげ)上申絵図に「王子の森」と記述されてい
        るという。

        
         この付近は水害が多かったため、土盛りをして敷地を高くして石垣を築いた「水塚」が
        残されている。
         正面の蔵は、「置屋根造り」といわれる天井まで土壁で覆われた上に屋根を載せた形式
        で、火事で屋根は焼けても中に火が入らない構造である。

        
         数軒の民家先は再び田園地帯になる。

        
         田園地帯の道端に小さな祠があって、中に2基の石造物がある。昔、ある大名の家老と
        家臣の間でいさかいがあり、敗れた家臣が山伏に変装して九州に逃れる途中、この地で討
        ち果たされてしまう。後を追った妻も悲嘆して自害したことから、その哀れさに村人が比
        翼塚(仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚)として祀ったという。 

        
         民家を過ごすと和田地区の公会堂前に、高さ2.6mの常夜灯がある。刻銘「大神宮」
        「常夜灯」とあるが、1890(明治23)年頃に建立されたという。隣には高さ1.4mの
        地蔵尊が祀られている。 

        
         三度目の田園地帯となると途中からは草道である。 

             
         草道にKDDI山口衛星通信センターのパラボラアンテナがデザインされたマンホール
        蓋が見られる。(見返って撮影)

        
         この先で吉敷川に合わす。

        
         1935(昭和10)年吉敷川改修の際に架橋された大歳橋(橋詰の親柱に日付あり)で、江
        戸期に架橋された石橋(黒川橋)は取り壊された。

        
         橋の西詰先にJR大歳駅。

        
         橋の下流に山口軽便鉄道の鉄橋が架かり、橋東詰で交差した鉄道は吉敷川の土手を走っ
        ていた。

        
         橋を渡ると左手が黒川市。

        
         黒川市の民家前庭に庚申塔があるが、黒川市、岩富
の境にあたる位置と思える。

        
         雨水などが敷地内に入らないよう石敷で高くした民家。

        
         東詰に戻って椹野川方向へ歩いて左折する。

        
         左折するとメガソーラーの点検中の方から、7月1日の大雨で浸水したので修理してい
        るとのこと。その先で床を乾燥中の家屋に出くわす。

        
         岩富公会堂の地には岩富八幡宮があったとされ、御旅所が設けられている。

        
         「もりさま」は森や樹木を神域・神木として祀るものだが、ここにはクロガネモチを神
        木として祀られている。

        
         寺とは思えないような構えの最明寺(浄土宗)は、執権北条時頼が弘長3年(1263)の一国
        一寺で建立した寺の1つとされる。天台宗であったが慶長年間(1596-1615)に火災で焼失し、
        その後、山口の法界寺住職が再興し浄土宗に改める。
         梵鐘は宝暦3年(1753)に地下請中らが寄進し、境内にある廻国塔は判読困難な状態とな
        っている。

        
         本尊は阿弥陀如来像で脇侍多聞天・持国天がある。

        
         朝田神社の西側に大正期の洋風建物があるが、松村医院だった建物である。名医であっ
        たそうだが、次女の松村昶子(しょうこ)はベルリンオリンピック(1936)の自由形水泳選手と
        して出場。残念ながら予選落ちし、1945(昭和20)年25歳で不帰の客となる。

        
         所有者の方にお会いして敷地内に入らせていただくが、医療に関する蔵書が多くて解体
        もままならぬとのこと。

        
         建物の痛みが激しいようである。

        
         クス、スギ、ヒノキなどの大木が茂る中に朝田神社がある。1906(明治39)年の神社
        整理に関する内務省令により、1909(明治42)年大歳地区内にあった7社(朝田神社、黒
        川八幡宮、住吉神社など)が合祀される。新たな神社名は朝田神社とし、住吉神社の地に新
        設されることになり、朝田神社の社殿が移築される。それまでの各神社の地には御旅所が
        設けられ、社殿は壊されたという。(🚻あるにはあるが‥) 

        
         楼門だけが19世紀のものとされ、他の建物は改造・非改造の差はあるが、18世紀中
        頃の建立と思われる。楼門には「住吉大明神」と書かれた社号の額があるが、水の神らし
        く椹野川を向いていた。

        
         約200m参道を街道筋に向かうと、入口の鳥居には「玉祖五宮」と刻まれた額束があ
        る。
         室町期の1497(明応6)年大内義興は九州の戦勝祈願のため、大内氏ゆかりの5社詣を
        行う。朝田神社は最後に詣でた神社であったことに由来する。

        
         農耕の神である大歳様は小字大歳に祀られていたが、1895(明治28)年その地に小学
        校が開校し、その地名から大歳小学校と称した。大歳様は小学校横に移動したが、その後
        も何度か移転して昭和初期に現在地へ遷座する。村名も小学校に因んで大歳となった。  

        
         現在の地域交流センター付近に大歳村役場があったとされる。

        
         恵比須社は黒川市にあり、庄屋・吉富藤兵衛の覚書に「建立の由来も作者も不明。言い
        伝えでは大内時代からあり、社敷地は往還べりの空地にあり」とある。
         明治の末頃には大歳村役場内にあったが、1957(昭和32)年夏の大風で大破し、現在
        は黒川市の福田氏宅東隅に移転している。

        
        
         黒川市は駅場で山口竪小路へ1里半、小郡津市へ1里半で、屋敷数28軒で宿泊施設は
        置かれなかったが、人夫23人、伝馬10疋が定められていた。しかし宿馬は別に置かず、
        農家の馬を回り回りに仕役するという程度だった。
         昔の町並みは消えてしまって「黒川市」という名だけが歴史をとどめている。

        
         山下玄良の屋敷跡と顕彰碑。玄良は1755(宝暦5)年この地に生まれ、家の医業を引き
        継ぎ名医として名高く、藩医との推挙もあったが要請を断り町医者に徹する。萩藩の医者
        であり、日本画家であった高島北海は子孫である。

        
         石州街道に引き返すと案内板あり。

        
         案内板傍には小さな道標があり、「右:美祢郡、左:小郡道」とある。

        
         
         供有橋西詰に田中平四郎翁頌徳碑がある。翁は1862(文久2)年生まれで、ハワイにお
        いて砂糖キビ栽培で成功し、昭和の初め日本へ帰国する。故郷の人々が飛び石だけの渡渉
        で苦労するのを見て、私財を投じて石橋を架け「供有橋」と名付けた。現在の橋は3代目
        とのこと。

        
         山口軽便鉄道は、1908(明治41)年小郡新町~山口湯田間が開通したが、現在の山口
        線が開通したため、1913(大正2)年には廃線となる。線路は椹野川及び吉敷川右岸土手
        に沿って北上し、大歳橋がある所で左岸に移動する。供有橋東詰を走行して現在の大歳小
        学校敷地内を通って石州街道を利用して湯田へと繋がっていた。(左の土手が線路跡)

        
        
         JR大歳駅は小郡から山口まで国鉄線が開通する前に、軽便鉄道の大歳駅があったが、
        国有化により現在地に移転する。2面2線を持つ地上駅で、列車交換が可能な駅である。


大竹市阿多田島に灯台退息所と観音山

2023年09月04日 | 広島県

                    
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         阿多田島(あたたしま)は厳島の南にある島で、大竹市小方から南西海上11㎞に位置する。
        周囲12㎞の中央には高山と西には標高100mの小山地がある。平地は両山地の間、内
        深浦から外深浦に少しみられるのみである、(歩行約5.5㎞、🚻港待合所のみ) 

        
         JR玖波駅前(8:40)から大竹市こいこいバス大竹駅行き約20分、小方港バス停で下車
        する。このバスは一律200円と安価なため多くの方が利用されている。

        
         待合所に入ると「乗船券は船内で販売」とあり、出航すると船員さんが販売にまわる。
        (往復1,420円)

        
         出航すると右手に三菱ケミカル(旧三菱レイヨン)の工場群が続く。

        
         フェリー「涼風」に乗って約35分の船旅だが、初めて目にする厳島の裏側は、洋上か
        ら眺めるといくつもの峰があって弥山がどれなのかわからなかった。  

        
         釣り人、島の関係者などと下船すると、正面に待合所、その奥に阿多田島漁協。集落は
        島の北東岸の本浦のみである。

        
         「あたたかい 阿多田島」とあるが、阿多田の地名は、「あたたかい島」が訛ったもの
        という説がある。

        
         まずは正面の山腹に見える阿多田小学校体育館へ向かう。
         この島の住人の生業は半農半漁であったが、大正期から昭和期にかけて鯛のしばり網、
        鰯網が盛んになって漁業が中心となり、1965(昭和40)年にはハマチ養殖が始まった。 

        
         ネットが見えたので上がって行くと旧阿多田小学校グラウンドが残されている。創立年
        はわからなかったが、2013(平成25)年小方小学校に統合されて廃校となり、体育館の
        みを残して校舎は取り壊されていた。

        
         セミ・ドキュメンタリー映画「典子は 今」で、典子が知人女性に会いに熊本から一人
        阿多田島へ訪れるが、相手の女性は亡くなっていた。女性の兄から魚釣りを体験させても
        らった海である。

        
         集落に入って行くと迷路で気の向くままに歩くほかない。 

        
         演福寺(真宗)は漁港の背面に位置し、1717(亨保2)年開創とされる島唯一の寺である。

        
         港には江戸期に構築された「波除け石垣」が現存する。地元の方によると、この石垣ま
        でが海岸線であり、平たい石で宅内に波が入らないよう工夫されたものという。(元は網
        元宅)

        
         鳥居脇には、1978(昭和53)年7月当時の皇太子夫妻が、ハマチ養殖場の視察のため
        行啓された旨の碑が建立されているが、島にとって名誉なことであったと思われる。

        
         1816(文化13)年3月大工屋平左衛門が寄贈したという四脚灯籠がある。建立当時は
        灯台の役目を担っていたというが、現在では町並みも変わり、海岸線が沖に向かって埋立
        てされて、当時の様子を伺い知ることはできない。(台座に盃状穴)

        
         参道右にある日清戦争凱旋記念碑は、3世紀後半から7世紀後半にかけて備中にあった
        箱型石棺の蓋を利用して作られている。裏側には大小20個ほどの盃状穴が見られる。

        
         1712(正徳2)年島に初めてネズミ被害が発生すると、数年毎に被害を受け、悪ネズミ
        を撲滅する祈祷が神社前で行われたという。1908(明治41)年まで島民を苦しめたネズ
        ミ被害は、明治の中期以降に殺鼠剤が導入されてようやく撲滅したとされる。当時は神仏
        に頼る以外に方法がなかったようだ。

        
         阿多田島神社の由緒によると創始は不明だが、往古、名島・来島の両豪族がこの島に漂
        着し祀ったと伝わる。社地は元和年間(1615-23)に上田宗固が小方村の給領主になった時に
        寄進したといわれている。

        
        
         集落には独特な傾斜に家々が並び、積み上げられた石垣は野面積みだったり、少し隙間
        のある石垣(打ち込みはぎ)、隙間のない石垣(切込みはぎ)という方法が用いられている。

        
              海の家「あたた」の案内を目印に坂を上がって行く。 

        
         町並みを見下ろせる場所もある。

        
        
         ベンチのある向い側が観音山登山口。

        
         急斜面はなく横木の階段が設けてあって歩きやすいが、この時期はクモの巣払いに一苦
        労する。

        
         山頂は標識など何もないが、少し下った所に観音堂がある。

        
        
         堂内にある由緒によると、寛永年間(1624-44)頃に玖波村の漁師・与右衛門が肥前国(現
        長崎県北部)の平戸沖で網にかかった観音像を持ち帰ったところ、夢枕に「わが身は平戸の
        生まれじゃ、平戸が見えるところに祀ってくれ」とお告げがあったので、この場所にお堂
        を建て安置することを誓ったという。それからこの山を観音山と呼ぶようになったと記す。
         何事もなく登れたことと観音像を拝顔できたことに感謝し、お賽銭と参拝を済ませて入
        口の戸をロックする。

        
         見える島が大黒髪島で、その手前の海の中に白石航路標識が見える。

        
         右手に見える島が甲島のようで、この島の中央が大竹市と岩国市の境界である。左奥に
        柱島、端島、黒島も見える。

        
         岩国方面。

        
         キキョウは秋の七草の1つで、華奢な花姿と星形の青紫色の花が印象的なのでシャッタ
        ーを押す。花は秋だが今日は秋にはほど遠い真夏日である。

        
         登山口に戻ってさらに上って行く。

        
         高山登山道入口の先にある三差路は左へ進む。(海の家まで435m) 

        
         1996(平成8)年大竹市が管理する宿泊施設「海の家あたた」が開設されたが、開館日
        が指定された施設である。(本日は休館)

        
         島の東、3㎞沖合にある白石礁という岩礁に設置された安芸白石灯標を管理する目的で、
        1903(明治36)年白石挂灯立標(けいとうりゅうひょう)吏員退息所が設けられた。
         1889(明治22)年呉に大日本帝国海軍鎮守府が設けられ、1895(明治28)年に日清
        戦争が勃発すると、宇品港が兵站基地として利用される。そのため軍用艦船の運航用航路
        標識が設置されたが、太平洋戦争では米軍の機銃掃射を受けて破壊される。

        
         煉瓦造りの外壁にモルタルを塗った建物で、入口側にあるのが付属屋の物置(建築面積
        42㎡)とされる。

        
         物置とされるが浴室、3号宿舎があったようだ。

        
         ここに吏員の一家が住み込んで、白石灯台を守り、海の航行の安全をサポートしていた
        灯台守の職場と家庭があった場所である。
         船で灯台に出向いて点火したり、保守管理にあたっていたが、1978(昭和53)年に無
        人化されて灯台守の役目を終えたという。

        
         吏員退息所(91㎡)はアーチ形の出入口や窓の鎧戸等に洋風の意匠が取り入られている。
        建物は近代化遺産として国の有形文化財として登録され、現在は灯台資料館として活用さ
        れ、吏員の暮らしぶりがそのまま残されているという。
         島の方から「事前に市役所に連絡してきたかね」といわれたが、明治時代のノスタルジ
        ックな建物を見るだけでも価値があった。

        
         資料館前では青い海と瀬戸内の島々が堪能できる。

        
         資料館から石段を下ると透明度のある海と海岸線が美しいビューポイントである。

        
         石柱があるので近づくと白石燈立標用地とあり。

        
         煉瓦造の附属屋は燈火用の油庫として使用された。退息所などは外観にモルタルが施し
        てあったが、煉瓦の外観を残した建物で建築面積は14㎡とされる。 

        
         亀甲模様の中央に大竹市の市章が入った漁業集落排水マンホール蓋。

        
         1973(昭和48)年突堤(橋?)で繋がった対岸の猪子島(いのこじま)に渡る。

        
         阿多田港沖には、2010(平成22)年オープンした海上釣り堀「大漁丸」がある。帰り
        の船の中で釣り人にお聞きすると、料金は11,000円だが料金以上の収穫があるという。
        ここで釣り始めると他では釣る気になれないようだ。

        
         猪子島には住家はないが、海産物の加工工場がいくつかある。

        
         牡蠣養殖に使用されるホタテ貝が山積みされているが、貝殻の形状や大きさが揃ってい
        ることで作業がしやすいことや、種牡蠣が付着しやすいし離れにくいことで用いられてい
        る。

        
         龍宮神社の創建は不明とのことだが、往古、島の南に鎮座されたが、一時は阿多田神社
        に合祀される。1977(昭和52)年再び島に戻されることになり、この小山が適地として
        選ばれた。 

        
         「いりこ」は西日本で使われる方言のようで、語源は「煎り煮干」とのこと。
         船から陸揚げされたイワシは直ちに水洗いされて、大急ぎでプラのセイロに並べられて、
        海水の入った釜でじっくりと煮上げられる。後に天日干しで太陽と潮風の恵みを受けて出
        来上がるというシンプルな工程のようだが、鮮度を落とさないために時間との勝負である。

        
         イワシ網漁業ではこのような魚が同時に獲れるとのこと。

        
         1888(明治21)年本浦東で大火があり、民家28戸が焼失する。

        
         島には猫が多いが、阿多田島ではこの猫以外はお目にかかれなかった。

        
         船上から見ると橋というより防波堤である。

        

         121世帯229人が暮らす島だが、お会いした方から声掛けもあって「あたたかい島」
        だった。

        
         潮の干満の関係で洞門を見ることができなかったが、15時50分の定期便で島を離れ
        る。


防府市の多々良山から人丸集落と佐波川沿い

2023年09月02日 | 山口県防府市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         人丸は天神山の北に位置し、西に佐波川南流する。行政名は東佐波令だが、通称・人丸
        地区と呼ばれ、人丸水源地、人丸会館やバス停名から「人丸」とする。この地域は42世
        帯75人が暮らす集落である。(歩行約5.8㎞、🚻テニス用)

        
         JR防府駅(11:50)から防長バス久兼行き10分、人丸バス停で下車する。

        
         バス停から旧道を防府方面に引き返し、最初の坂を上がって県道三田尻港徳地線に合わ
        す。 

        
         新幹線下を過ごすと左手に舗装された道がある。

        
         坂道を上がって行くと新幹線多々良山トンネルの入口が見えてくる。

        
         フェンス越しに新幹線が走り去る。

        
         その先は広い道ではあるが草が繁茂する道となる。

        
         新幹線多々良トンネル手前から走り去る新幹線を眺めることができる。

        
         新幹線を眺めて引き返す予定であったが、ちょっと冒険してみる。

        
         登山者にとってはマイナーな山のようで、あまり踏まれた形跡がない。とりあえず行け
        るところまで行って引き返すことにする。

        
         ロープの切れ端を確認しながら高度を稼ぐと、やや不明瞭な地点に出る。ここで進路が
        南に変っており、少し右往左往するが、やや右手に進み尾根筋に上がり左折する。

        
         途中に石鳥居があるが、麓からどのような道があったのであろうか。柱には刻字がある
        ものの風化して読み取ることはできない。

             
         林内にあって目立つキノコだが名前を知り得ず。 
  

        
         さらに上って行くと、梵字と「大峯山山上大権現」の石塔があるが、大峯山とあるので
        修験道に関係したものと思われる。いつ・だれが設置したかについては記録にないようだ。

        
         尾根道を上って行くと多々良山山頂である。樹林に囲まれて展望もなく、樹木に取り付
        けられた山頂標識のみであった。畑峠に下るルートがあるようだが往路を引き返す。

        
         新幹線のすぐ側にクサギ(臭木)がたくさんの花芽をつけ、一面がピンク色になっている。

        
        
         防府市の上水道は水源を佐波川の伏流水に頼ってきたが、伏流水の水位が低下したため、
        佐波川の表流水から取水する工事が行われた。1976(昭和51)年から築造が行われ、上
        に見えるドーム型の人丸水源地などが建設される。

        
         水源地入口に種田山頭火の句碑。
                  「さくら さくら さくさくら ちるさくら」
         1932(昭和7)年4月15日福岡市にある西公園の桜を眺めて詠んだ句とされる。行乞
        記には「西公園を見物した。花ざかりで人でいっぱいだ、花と酒と‥」とある。

        
         サイクリング旅行を楽しむことを主目的として、自転車道路協会が自治体と連携してサ
        イクリングターミナル(宿泊施設)を設置する。2000(平成12)年協会が解散して施設は
        自治体に贈与されたが、防府市の場合は指定管理者制度で運営されている。

        
         最初の石段を上がると鳥居があるが、建立時期などは不明のようである。

        
         鳥居の先からが3区分された長い石段で、各踊り場で休憩しながら上がって行く。

        
         人丸神社の創建年などはっきりしないが、寛政年間(1789-1801)頃に勧請されたといわれ
        ている。祭神は柿本人麻呂とされ、「火止まる」で防火神、「人生れる」で安産神として
        信仰されてきたという。

        
         明治三十七八年戦役(日露戦争)に人丸地区から出兵し、凱旋を記念して建てられた石碑
        は、裏に従軍者の氏名、表の揮毫は源(楫取)素彦である。 

        
         畑峠へ通じる市道畑2号線に出ると、入口に猿田彦大神の碑がある。 

        
         市道2号線から見る西目山と右田ヶ岳。 

        
         東佐波令村は多々良山の東南麓にあった大きな村であり、小名として畑、総社、鋳物師、
        国衙、多々良、宮市などがあった。後にそのほとんどが新町名に移行したが、畑地区のみ
        が東佐波令(ひがしさばりょう)を継承したようだ。

        
         建物は更新されたと思われるが、この原風景は何十年も変わらないようだ。 

        
         人丸川が集落を二分する。 

        
         市道2号線を少上がると地蔵堂。

        
         バス乗車時間まで待ち時間が長いので先のバス停まで歩くことにする。佐波川では鮎釣
        りが風物詩となっているようだが釣り人を見かけなった。

        
         逆さ右田ヶ岳。

        
         白坂公園にある仏像2体。

         
         佐波川土手から見る水車。 

        
        
         この施設は円筒分水工といい、農業用水を正確・公平に分配するために考案されたもの
        で、円筒の中心から水を噴出させ、円筒の周りに設けた仕切りの間隔(耕作面積)によって
        水を分配するという。堰の取水部から乙井手用水を分水、次に円筒分工から青井手・一本
        樋・仁井令・植松・古祖原に分水している。

        
         迫戸(せばと)川の用水地。 

        
         健脚の神様「猿田彦命」を祭神として、足の神様として信仰されている。 

        
         このバス停よりJR防府駅に戻る。


山口市秋穂の町並みと秋穂街道

2023年09月02日 | 山口県山口市

               
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         秋穂(あいお)は秋穂半島の南東部、長沢川の左岸に位置し、南は周防灘に面する。北に大
        海山があり、この山地がそのまま南へ続いているため、町域は二分されている。地名の由
        来は「秋の穂の満ち渡る郷」の意という。(歩行約4㎞) 

        
         JR新山口駅(9:41)から防長バス秋穂荘行き約35分、下村バス停で下車する。 

        
         バス停を引き返すと、西中国信用金庫秋穂支店の地に旧秋穂村役場があった。1879
           (明治12)年秋穂東本郷村(大海、青江村合併)と秋穂西本郷村が存立したが、1889(明
                    治22)
年町村制施行により、両村が合併して秋穂村が発足する。

        
         下村商店街は数軒の店が残る程度である。

        
         クルマ社会の到来とともに駐車場のない商店街は、利用価値が著しく低下したことや、
        海岸線に道路が新設されたこともあって寂しい通りになっている。

        
         門構えの大きな屋敷地は、“鰻の寝床”といわれるように奥に長い。

        
         路地奥には秋穂座という映画館があったようだが、その後はスーパーマーケットになっ
        た。立地条件が悪かったのか看板だけがその証を残している。 

        
         現在はこの鳥居のみだが、柱には寛政元巳酉年(1789)6月とある。

        
         室町期の1563(永禄6)年下村疫神社として創建される。1711(正徳元)年に疫病が
        流行し、疫神の傍に祇園牛頭天王を祀ったところ疫病が退散したされる。1871(明治4)
        年八坂神社に改称する。

        
         秋穂湾の対岸に見える山は、山口市秋穂二島の岩屋山(高山)で臼美(うみ)遊歩道が設けら
        れている。(祇園公園に🚻あり) 

        
         お祇園様として親しまれ、昭和時代の祭りには参道に露店がずらりと並び、近郊から多
        くの人が訪れたという。 

        
         大内氏の時代の秋穂浦は山口の表玄関として栄えた地で、ここから山口に入る道は高貴
        な人たちが往来するので「お上使道」と呼ばれた。その町筋の江の川(現在は道路下)に髪
        解橋があった。
         船で来た旅人はここで髪形を整えたといわれ、山口の地には旅装を解き、服装を正した
        場所として袖解橋があった。(説明板より) 

        
         藤田勉強堂さんから山口銀行のある通りも閑散としている。

        
         本町には秋穂霊場第26番札所があり、地蔵尊は別棟に移されて「北向地蔵」として祀
        られている。
         今もお大師参りでは、地元の方による御接待があるとのこと。札所の東側道筋に高札場
        があったようだ。

        
         通りに戻って直進するが、ここも同じような光景が続く。

        
         通りを右折して次の道に入ると、海岸線だったような石組みに出会う。 

        
         旧秋穂町の町花だった菜の花がデザインされたマンホール蓋。 

        
         秋穂八十八ヶ所霊場では、弘法大師の命日である旧暦の3月21日と、その前日に「お
        大師参り」が行われる。(25番札所) 

        
         秋穂霊場25番札所に石風呂への案内がある。(右手は延命地蔵尊)

        
        
         加茂の石風呂は2つの部屋を合体したもので、1887(明治20)年代に造られたとされ
        る。施浴後の体の洗い清めは、敷地内の井戸水を利用した新しい習俗の風呂とされる。使
        用目的は案内されていないが、塩田労務者などの保養に利用されたと思われる。

        
        
         旧道を進むと県道宇部防府線に出会う。海岸線に新たな道路ができたため車の往来は少
        ない。

        
         秋穂港と大内氏のいた山口を結ぶ秋穂街道が、山口への一番の近道であった。
         室町期の1569(永禄12)年大内輝弘が山口の毛利氏を攻めるため、兵船を率いて上陸
        した地でもある。

        
         古い港があった辺りは埋め立てられて旧観はないが、波静かな瀬戸内海を使って、明と
        の貿易で栄えた時代があった。

        
         都や九州方面からの旅人は、この浜付近に上陸、重ね岩に船を繋ぎ幸田、梅ノ木垰、陶
        峠から平川を経て山口の町に入ったという。この道を「秋穂街道」とか「秋穂往還」と称
        し、中世では重要な街道であった。

        
         切貫道を辿れば善城寺前に出ることができるのだが‥

        
         街道筋は開発のためルートがはっきりしない。

        
         窪地となった所を進む。

        
         窪地に入ると竹が繁茂して道なき道となる。

        
         窪地を脱出すると、丸山の南山麓を辿る道が街道のようだが、藪化して通れないので畦
        道を進んで切貫道を抜ける。藪と化したため歩きたくない街道になってしまった。

        
         寺跡と思われる場所は葛で覆われ、足を踏み入れることはできない。葛がなければ秋穂
        の町が一望できたと思われる。

        
         この先で善城寺の参道に合わす。

             
         街道の右手奥に真言宗の善城寺という古刹があり、山門を見上げると屋根に菊の紋があ
        る。

        
         寺伝の説明によると、中世の荘園時代には秋穂庄は長講堂領(後白河法皇の長講堂に付属
        した所領)とされ、宣陽門院(1181-1252)が伝領していた頃、領家の山城国仁和寺の菩提院
        の門跡行遍が下向して多門寺を真言宗に改めたという。
         周辺の景観から「ここはまことに善き城山かな」と称えられたので、この時より現寺号
        になったという。

                
        寺の前に天然記念物のタブノキがあり、根元の空洞には弘法大師が祀られている。

        
         寺裏手の墓地を上がって行くと、「やくよけ坂・不動堂・東泉寺」が並ぶ。

        
         最上部から秋穂湾が望める。

        
         街道は善城寺前から下村新池の土手を抜けて、秋穂総合支所横から長池と人形池との間
        を通って中野集落へと続いている。

        
         萩藩が山口に政庁を移すと、幕府が海から攻めてくるとすれば、山口に近い秋穂とみて、
        1863(文久3)年9月海岸線防禦のため奇兵隊が陣をかまえた。秋穂に5ヶ月滞在した後、
        七卿警備のため三田尻に転陣すると、1864(元治元)年2月諸隊の1つである八幡隊が、
        山口から転陣して菩提寺(現禅光院)を屯所の1つとする。本堂は貞亨年間(1684-88)年建立
        とされる。

        
         境内にある秋穂八十八ヶ所霊場48番札所の傍には、1740(元文5)年菩提寺中興の祖
        である天教法師が建立した大きな宝篋印塔がある。 

        
         秋穂総合支所の山手側に吉岡新太郎とマサの墓がある。新太郎は秋穂に陣営があった鋭
        武隊の小隊長で、1868(明治元)年1月の戊辰戦争の際、吉岡の隊は大坂に駐屯する。そ
        の時に難波くろがね橋にあった商家の娘・山村マサと恋仲になる。
         同年4月、命により秋穂に戻った吉岡をマサが迫った。このため隊中規則を乱してしま
        い、6月9日に秋穂の宿屋で心中する。不憫に思った秋穂の人々が墓碑を建てる。

        
         遍明院(高野山真言宗)の寺伝によると、大内氏の家臣で、この地方の領主であった秋穂
        飛騨守盛治が父母の菩提を弔うため、室町期の1562(永禄5)年に建立したという。初め
        盛光院と称したが、毛利輝元の夫人清光院と法諱(ほうき)が同音のため避けて現寺号とした
        という。
         江戸期に秋穂正八幡宮の社僧を兼ねていたが、明治の神仏分離の際、八幡宮の蔵品の一
        部が当寺に移された。

        
         現山口市秋穂一帯から二島・名田島にかけて秋穂八十八ヶ所霊場が散在するが、これは
        遍明院第6世の性海法印が、1783(天明3)年檀家の戎屋作右衛門とともに四国八十八ヶ
        所の霊場を巡り、各本尊の御符と敷地の砂を受けて持ち帰り、これを各所に配したという。
         この開山堂には二人の像が祀られているが、ちなみに霊場は秋穂52、二島32、名田
        島4となっている。

        
         天候の方が芳しくなく雨が降ってきたので、秋穂総合支所前バス停(12:35)よりJR大道
        駅に戻る。