小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

安保法制懇の報告書は矛盾だらけだ。そもそも「集団的自衛権」の意味が分かっていない。③

2014-05-17 09:33:30 | Weblog
 安倍総理の記者会見(15日午後6時から)での最大の問題点を指摘する。私が昨日のブログの終わりの方でこう述べた部分である。
「なお総理はこの会見でさらっと『いわゆる芦田修正は認めない立場だ』と述べた。この発言はあまりにも唐突だったので、今日のブログでは総理の意図についての論評は避ける」
 総理の発言内容について私はうろ覚えで書いたが、発言のすべてを完全に文字化したものをNHKオンラインから入手した。私が問題に感じた総理の発言は以下の文脈の中で使われている。

 今回の(安保法制懇の)報告書では二つの異なる考え方を示していただきました。
 一つは個別的か集団的かを問わず、自衛のための武力の行使は禁じられていない、また国連の集団安全保障措置への参加といった国際法上合法な活動には憲法上の制約はないとするものです。しかしこれは、これまでの政府の憲法解釈とは論理的に整合しない。私は憲法がこうした活動のすべてを許しているとは考えません。したがってこの考え方、いわゆる芦田修正論は政府として採用できません。自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことはこれからも決してありません。
 もう一つの考え方は我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方です。生命、自由、幸福追求に対する国民の権利を政府は最大限尊重しなければならない。憲法前文そして憲法13条の趣旨を踏まえれば、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとることは禁じられていない。そのための必要最小限度の武力の行使は許容される。こうした従来の政府の基本的立場を踏まえた考え方です。

 この文脈の中で「いわゆる芦田修正論は政府として採用できません」と、総理は明言した。このことが何を意味するか。
 結論を先に言う。「日本政府は現行憲法を認めていない」ということを総理が明言したことになるのだ。これは絶対に「失言」などとの言い逃れができない発言である。さらに総理は禁句であった「武力の行使」も許容されるとした。従来の政府の基本的立場は「実力の行使」である。憲法9条が「戦力の保持」を認めていないため、事実上の軍隊である自衛隊についても、従来の政府は自衛隊の軍事力も「実力」という苦しい表現で憲法との整合性を何とかつくろってきた。それをも総理は公然と否定したことになる。何をもって「従来の政府の基本的立場を踏まえた考え方」と言えるのか。
 私がそう言える根拠を示す。もういまの人は現行憲法制定の過程すらほとんど知らないであろう。私がここでいう「いまの人」とは一般人だけでなく政治家や政治ジャーナリストも含めてである。私は16日帰宅後、NHKなど放送局や各新聞社の視聴者・読者窓口に電話をして聞いたが、ほとんどの方は安倍総理の記者会見を(録画も含めて)見たというが、「芦田修正論」発言についてはまったく覚えていない人が大半だった。「そういえば、そんなことを言っていた記憶はおぼろげながらありますが、何か問題があるのでしょうか」と疑問をぶつけてきた人が一人だけいた。
 実は「芦田修正論」というのは憲法9条を正確に理解するうえで根幹をなす要素である。私が『日本は危ない』(コスモの本)を上梓したのは1992年7月。今から22年も前である。その本の帯には「世界の枠組みが変わった今。日米安保体制が崩壊する!? 日本はどうやって自らを守るのか」とある。
 その本の趣旨は、これまでアメリカの核の傘で守られてきた「日本の平和」神話が、いつ崩壊しないとも限らない。アメリカが日本を完全に見捨てることはないにしても、自国の国益に反する日本の有事に対しては、日本防衛の「義務」を果たさない可能性があることをすでに示唆していた。そして憲法9条が日本の平和と安全に寄与するどころか、反対に足かせになる可能性も指摘した。いま安倍総理は憲法9条が日本の平和と安全にとって、足かせになっていると感じている。が、日本国憲法は硬性憲法と言われており、改正は容易ではない。ようやく改正手続きの第一歩とも言える改正国民投票法案を成立させたが、憲法論議は遅々として進まない。 
 そのため総理は憲法改正を先送りして、憲法解釈の変更によって自衛隊の海外派兵を可能にしようとしている。そもそもは集団的自衛権の従来の政府解釈そのものが間違っているのだが、その間違った解釈をさらに間違った方向に解釈変更し、そのうえで憲法解釈によって間違いに間違いを重ねた集団的自衛権行使を行えるようにしようとしているのだが、それだけでは足りずに憲法9条そのものを全面的に否定する公的発言をしたのが15日の記者会見における「いわゆる芦田修正論は政府として採用できません」だった。が、いわゆる「芦田修正」はすでに憲法制定の最終段階で憲法に盛り込まれており、憲法9条が自衛のための手段や行使まで禁じているわけではないという「歯止め」をかけた重要な個所である。芦田修正が9条に盛り込まれていなかったら、砂川事件の最高裁判決の結果も大きく変わっていた。が、芦田修正によって自衛隊が自国の防衛のためにしか実力を行使出来ないという「一国平和主義」の理論的根拠になっており、安倍総理としては、誤りに誤りを重ねた「集団的自衛権」解釈に基づいて憲法解釈を変更しようとしても、その前に「芦田修正」が立ち塞がっているという現実にようやく気付いたのが、「いわゆる芦田修正論は政府として採用できない」という発言の意図であった。
 そろそろもったいぶった「前座の解説」は終わりにして本論に入る。憲法9条の根幹をなす部分は1945年7月26日に発表された「ポツダム宣言」に盛り込まれていた。「ポツダム宣言=無条件降伏」と理解している人が大半だが、それだけではなく日本の戦後処理も含めて日本への制裁内容が細かく定められていた。憲法9条に関する制裁要件としては「日本軍の武装解除と再軍備の防止を示唆する条項」が含まれていたのである。日本政府による「大日本帝国憲法」の改定作業はポツダム宣言を起点にして日本政府とGHQ(連合国軍最高司令部)との共同作業としてはじめられた。「共同作業」と言っても、GHQは日本を施政下に置いた組織、日本政府は占領され主権を喪失した国の「政府」。相当程度GHQの意向が現行憲法に反映されたであろうことは疑いの余地がない。
 日本政府は出来るだけGHQの干渉を避けようと、敗戦直後には大日本帝国憲法の改正に着手し、「軍事行動には帝国議会の承認を必要とする」と、天皇の統帥権を利用した軍部の独走を防ぐための条項を盛り込むことで済まそうと考えていた。が、当然この憲法改正案(1946年2月8日にGHQに提出された)はGHQから突き返された。そしてGHQが日本政府に突き付けたのがいわゆる「マッカーサー三原則(マッカーサー・ノートとも言われる)」の二つ目の原則に基づく憲法原案だった。その内容はこうである。

国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理念に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
 
 このマッカーサー第二原則に噛み付いたのがGHQで民政局長(憲法草案起草の責任者)のホイットニーだった。「自衛権をも取り上げるということは日本が将来独立を回復した場合に禍根を残すことになる」と批判し、マッカーサー指示によって作られた憲法原案から「さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも」の一文を削除させた。マッカーサーも、のちに回顧録で「憲法9条は自衛権まで放棄したものではない」と弁解している。
 だが、この憲法第二原案(ホイットニーによる)はいぜんとして自衛権問題だけでなく、大きな矛盾を含んでいた。このことはこれまでの憲法論争で取り上げられたことはおそらくなく(私は憲法学者ではないので、憲法問題についての膨大な資料に目を通したうえで述べているわけではない。せいぜい「ネット検索で知りうる限り」という前提で私の論理的推測を述べることにする)、また日本憲法にマッカーサーは何を期待していたのかも明らかにされていない。そうした場合、ジグゾーパズルを組み立てるような方法で矛盾の空白を埋めていくしかない。
 今日のブログは、この原案に含まれる矛盾の指摘と、どうして矛盾が見逃されてきたかの空白を論理で埋めていきたいと思う。憲法第二原案は大きく分けて三つの要素からなる。
①国権の発動たる戦争は放棄する。(ただし自衛権は否定しないが、そのことは憲法には明記しない)
②日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。
③日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
 この三要素の矛盾にお気づきだろうか。ホイットニーの勧告によって「自己の安全を保持するための手段としての戦争」は放棄しつつ、一方では「日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も(※ということは独立回復後も、と理解するのが相当である)与えられることはない」という条文は明らかに矛盾している。自衛のための戦力を独立回復後も保持せずして、どうして自衛の権利を行使できるのかという点である。
 実はその矛盾の空白を埋めているのが②である。はっきり言ってマッカーサーは、日本を丸裸にしたうえで、「今や世界を動かしつつある崇高な理想に(国家の防衛と保護を)委ねる」という壮大な実験の材料として日本を選んだと考えるのが合理的である。そう理解しなければ、一方で「自己の安全を保持するための手段としての戦争」は否定せず、他方で「日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍(※陸海空軍を擁さない日本軍はどういう軍隊なのか?)に与えられることもない」と前後が全く矛盾した内容になっているのは、第二次世界大戦終結の2か月前に、戦後の国際平和の実現を目指して作成された国連憲章がマッカーサーの念頭にあったからではないか。つまり国連加盟国に国際紛争を武力で解決することを禁じた国連憲章を日本が完全に履行した場合、日本を攻撃する国があるかないかを自分の目で確認したかったのであろう。当時の日本人すべてをモルモットにして。
 (自衛のための)戦力の保持を明文では認めず、自衛権は容認する――子供でも理解できる現行憲法が抱えている最大の矛盾の出発点はこうしてつくられることになった。この続きは19日に投稿する。
 
 
 

『安保法制懇の報告書は矛盾だらけだ。そもそも「集団的自衛権」の意味が分かっていない』②

2014-05-16 06:07:35 | Weblog
 とりあえず書き始める。15日に投稿したブログ『安保法制懇の報告書は矛盾だらけだ。そもそも「集団的自衛権」の意味が分かっていない。①』の続きである。①が9000字に及ぶ長文になったため体力の消耗が激しく、今日投稿するブログはどこまで報告書の検証作業を進められるか正直分からない。ま、できるだけ努力はしてみるつもりだ。
 ②では、集団的自衛権行使と憲法解釈の変更についての報告書を検証する。前回と同様報告書に従って検証作業を行う。報告書はこう述べている。

 憲法9条は、自衛権や集団安全保障については何ら言及していない。
 ※当り前である。日本は敗戦によって連合軍(実態は米軍)によって占領されて主権を喪失し、陸海空軍は完全に解体された。憲法は、事実上GHQの指示のもとに作成され、帝国議会=当時はまだ帝国議会だった=で承認されただけで、憲法が謳っている改正のための要件=国民の過半数の支持=すら満たしていない。だから報告書も①で述べているように「終戦直後には『自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した』としていた」のである。だから憲法9条が自衛権や集団的安全保障について言及していないのは当り前であって、それをもって自由な解釈が可能になるという主張が容認されるべきではないのは当然である。

 憲法第9条第1項がわが国の武力による威嚇又は武力の行使を例外なく禁止していると解釈するのは、不戦条約や国際連合憲章等の国際法の歴史的発展及び憲法制定の経緯から見ても、適切ではない。同項の規定は、我が国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇又は武力の行使を行うことを禁止したと解すべきであり、自衛のための武力の行使は禁じておらず、また国連PKO等や集団安全保障措置への参加といった国際法上合法的な活動への憲法上の制約はないと解すべきである。国連PKO等における武器使用を、第9条第1項を理由に制限することは、国連の活動への参加に制約を課している点と、「武器の使用」を「武力の行使」と混同している点で、二重に適切でない。
 ※自衛権行使のための実力の保持は砂川判決で確定しているが、国連PKO等や集団的安全保障措置への参加については、私自身は日本が国際社会に果たすべき責任であると何度もブログで主張しているが、現行憲法はそういう事態を想定しておらず、従って国際平和と安全に寄与する目的で他国間の紛争に武力介入するためには憲法を改正する必要があるとするのが合理的である。なお報告書は「武器の使用」と「武力の行使」を別個のものと理解しているようだが、「国連PKO等における武器使用」が「武力行使」とどう違うのかの説明がない。武器使用は個人的行為で、武力行使は国の行為とでも言いたいのか。国が容認していない武器使用を、自衛隊員が個人的に行えるとでも思っているのか。アホか、と言いたい。

 憲法第9条第2項は、第1項において、武力による威嚇や武力の行使を「国際紛争を解決する手段」として放棄すると定めたことを受け、「前項の目的を達成するため」に戦力を保持しないと定めたものである。したがって、我が国が当事国である国際紛争を解決するための武力による威嚇や武力の行使に用いる戦力以外の、すなわち自衛やいわゆる国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべきである。
 ※ここまで書かれると「屁理屈」にも相当しない。たとえば貨幣には用途がかかれていない。1万円札は、どこで何に使おうと1万円の交換価値を持っている。同様に、自衛隊が保持している武器・兵器も、外国から攻撃を受けた際にも、また日本が武力攻撃を行う場合も、使用法によって武器・兵器の機能や性能が変わるわけではない。ただし、自衛隊が保持できる武器・兵器は「専守防衛」のための「必要最小限のもの」と定められており、ミサイルや核兵器など、敵国(日本を攻撃した国)の軍事基地を攻撃できる能力のある武器・兵器の保持は認められていない。報告書は「自衛やいわゆる国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべき」と、あたかも「自衛」と「国際貢献」が同一の行為であるかのようなデタラメな解釈をしている。「屁理屈」「こじつけ」「牽強付会」…。私は同義語辞書を持っていないので、ほかにも該当する言葉があったら教えてほしい。

 国家は他の信頼できる国家と連携し、助け合うことによって、よりよく安全を守りうるのである。集団的自衛権の行使を可能とすることは、他の信頼できる国家との関係を強固にし、阻止力を高めることによって戦争の可能性を未然に減らすものである。
 ※この個所は正論である。だから日米安全保障条約によって、有事の際は米軍が日本を防衛する義務を負うことになっている。問題はアメリカが有事の際、日本はアメリカを防衛する義務がないことである。だから実際に有事の際、アメリカが本当に日本を防衛してくれるのかの絶対的保証はない。日米安保条約の片務性を解消して双務的なものにすれば、有事の際の日本の安全性は飛躍的に高まることは疑いを容れない。つまり、安倍総理や安保法制懇が意図する「集団的自衛権行使の限定容認」を「憲法解釈の変更」によって可能にしたい目的は、日米安保条約を双務的なものに変えることにある。が、現行憲法下では「日米安保条約」を双務的なものにすることが不可能だとしたら、いわゆる「集団的自衛権」も現行憲法下では容認できないとするのが文理的解釈である。

「(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき」であるというこれまでの政府の解釈に立ったとしても、その「最少必要限度」の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の解釈は、「必要最小限度」について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではない。「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈して、集団的自衛権の行使を認めるべきである。
 ※前段の部分について、これまでの政府は報告書が述べているような解釈は一切していない。政府の集団的自衛権についての解釈は「集団的自衛権も固有の権利として持ってはいるが、憲法の制約によって行使できない」である。また必要最小限度というのは「専守防衛」にとって必要な最低限の戦力のことである。それ以外の解釈は不可能だ。日本にとって「敵国」となりうる可能性のある国から攻撃された場合、日本はアメリカと共同で反撃することを前提に戦力を整備してきた。もしアメリカが日本を防衛しないケースを前提にすると「必要最小限度の戦力」はミサイルや核兵器まで含まなければならないことになる。「必要最小限度の戦力」が、状況に応じて変化するのは当然で、その戦力は個別的とか集団的とかで異なる問題ではない。安保法制懇は「必要最小限度の戦力」にミサイルや核兵器も含めたいのか。

 憲法第9条第2項にいう「戦力」については、「自衛のための必要最小限度の実力」の具体的な限度は防衛力整備を巡る国会論議の中で国民の支持を得つつ考えられるべきものとされている。客観的な国際情勢に照らして、憲法が許容する武力の行使に必要な実力の保持が許容されるという考え方が、今後も踏襲されるべきものと考える。
 ※また前段と矛盾した主張である。前段では「必要最小限度の戦力」を、いわゆる「集団的自衛権」をも行使できる戦力としながら、ここでは「個別的自衛権行使に必要な最小限度の戦力」という考え方を今後も踏襲すべきと主張している。つじつま合わせが困難になってきて、報告書を書いた人の頭がとうとう混乱し始めたのだろうか。 

「交戦権」については、自衛のための武力の行使は憲法の禁ずる交戦権とは「別の観念のもの」であるとの答弁がなされてきた。国策遂行の手段としての戦争が国際連合憲章により一般的に禁止されている状況で、個別的及び集団的自衛権の行使や国連の集団安全保障措置等のように国際連合憲章を含む国際法に合致し、かつ、憲法の許容する武力の行使は、憲法9条の禁止する交戦権の行使とは「別の観念のもの」と引き続き観念すべきものである。合法的な武力行使であっても国際人道法規上の規制を受けることは当然である。
 ※この文章中に「観念」という言葉が3回使用されている。朝日新聞に問い合わせたが、掲載された報告書は朝日新聞が入手した報告書の重要な個所をスキャンしたということなので、報告書にはその通り記載されているようだ。一か所の入力ミスなら見落としもあるだろうが、3回も使用された言葉ということになると、入力ミスとは考えにくい。当然誤変換も考えられない。安保法制懇は「観念」という言葉に、どういう意味を含ませたかったのか、理解に苦しむ。そのことはともかく報告書は重要な、というより意図的な国連憲章の変更をここでしている。国連憲章51条が国連加盟国に認めている「自衛権」は、国連安保理が必要な措置をとるまでの間に限り「個別的又は集団的自衛の固有の権利」である。国連憲章の原文は英語のはずだから、「又は」の箇所は原文では or のはずである。が、報告書は「又は」を and の邦訳である「及び」に変更している。この意図的改変の目的はいまのところ不明だが、従来の政府解釈は「個別的自衛権は行使できるが集団的自衛権は憲法の制約によって行使できない」としており、その政府解釈を変更するために「及び」とすれば憲法上の制約を受けずに済む、とでも考えたのだろうか。

 集団的自衛権については、我が国においては、我が国と密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われ、その事態がわが国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときには、我が国が直接攻撃されていない場合でも、その国の明示の要請または同意を得て、必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加し、国際の平和及び安全の維持・回復に貢献することができることとすべきである。
 ※この文脈で重要なのは集団的自衛権についての解釈を、さりげなく「わが国においては」と日本独自の解釈に変更していることである。実はこの部分は昨日(15日)午後6時から約40分間にわたって行われた安倍総理の、報告書を受けての記者会見を見たあと書いている。すでに私は何度も安倍総理は集団的自衛権についての従来の政府解釈を変更しているとブログで書き、○○省○○局の幹部官僚から集団的自衛権の解釈を変更していることについて「そうです」との回答を得ており、そのことを政府は国民に説明していないという私の指摘に対しても「その通りです」との明快な回答を得ていた。その時のやり取りもブログで明らかにしている。そして今日、ついに安倍総理は二つの解釈変更が必要であることを記者会見で認めた。一つは集団的自衛権についての解釈変更、もう一つは憲法解釈の変更である。それでも総理の会見に出席した記者のだれからも、そのことへの質問は出なかった。総理に直接質問できるほどの記者たちの鈍感さには呆れるほかない。

 そのような場合に該当するかどうかについては、我が国への直接攻撃に結びつく蓋然性が高いか、日米同盟の信頼が著しく傷つき、その抑止力が大きく損なわれうるか、国際秩序そのものが大きく揺らぎうるか、国民の生命や権利が著しく害されるか、その他我が国への深刻な影響が及びうるかといった諸点を政府が総合的に勘案しつつ、責任を持って判断すべきである。
 ※私は何度も現行憲法無効論の主張を述べてきた。報告書が懸念を示した、このような事態には現行憲法では対処できないと考えているからである。

 今日のブログはここで終えるが、安倍総理は憲法改正を目指しつつ、一方で解釈改憲によって憲法改正の必要性を否定しようとしている。明らかな二律背反である。集団的自衛権についての従来の政府解釈を変更し、その変更によって憲法解釈の変更を可能にしようという二段階変更である。そういう総理の悪
巧みに、メディアや政治家が果たして気が付くかどうかで、安倍総理の政治生
命が左右される。
 総理は記者会見で、安保法制懇の報告書を丸呑みはしないと発言し、安保法制懇との一定の距離感を表明したが、安倍総理が否定した報告書の箇所は意図的に否定するために挿入されたと考えてよい。具体的には報告書の、自衛隊の多国籍軍への参加を前提にした「国連の集団安全保障措置への参加には、憲法上の制約はない」とした点を取り上げて、「憲法が、こうした活動のすべてを許しているとは考えない」と否定して見せた。そういう記者騙しのテクニックに記者たちは見事に引っかかったようだ。なお総理はこの会見でさらっと「いわゆる芦田修正は認めない立場だ」と述べた。この発言はあまりにも唐突だったので、今日のブログでは総理の意図についての論評は避ける。
 ただこのブログは15日に書いており、今日の朝刊でチェックできない時間帯に外出しなければならない用事がある。ブログは外出の直前に行うつもりだ。ただ多少気になったのは、NHKの『ニュース7』で公明党の山口代表が集団的自衛権の行使容認に向けて前向きともとれる発言をしたことだ。公明党は、憲法改正によって歯止めがなくなるより、集団的自衛権の限定容認を認めて歯止めをかける方を選ぶことにしたのか。あるいは政権の片隅の居心地の良さを失いたくなくなったのか…。
 

安保法制懇の報告書は矛盾だらけだ。そもそも「集団的自衛権」の意味が分かっていない。①

2014-05-15 07:08:43 | Weblog
 今日午後、安倍総理が設置した安保法制懇の報告書がようやく提出される運びになった。内容は、すでに朝日新聞が北岡座長代理から取材した結果としてスクープした、10日付け朝刊に掲載された報告書概要と同じである。やはり、取材先を特定してスクープした記事の信頼性は、特定しない(たとえば「政府高官」とか「関係筋」といった情報源の「秘匿」)記事の信頼性が極めて低いことを結果的に裏付けることになった。
 昨日(14日)朝刊で朝日新聞は入手した報告書全文の要旨を明らかにした。確かにそうそうたるメンバーが1年以上かけて練り上げただけに、それなりに説得力を持ち得る内容になっている。
 安保法制懇は過去6回行われた(第1次安倍内閣のときは除く)。そのすべてに安倍総理と菅官房長官(国家安全保障強化担当大臣を兼務)が出席している。この6回開かれた懇談会で座長の柳井元駐米大使が出席したのは1回目(昨年2月8日)と最後の6回目(今年2月4日)の2回だけである。ほかの4回は国際大学長の北岡座長代理が事実上座長として懇談会を仕切ってきた。安倍総理は毎回冒頭であいさつし、その日の会議のテーマを指示してきた。当初、報告書は昨年末には出る予定だった。が、出すことができず今年の4月に繰り延べされたが、それも不可能になり、ゴールデンウィーク明けにはと日延べされたが、さらに延期されようやく今日、提出されることになった。
 集団的自衛権については、1981年に「固有の権利として有してはいるが、憲法9条の制約によって行使できない」とした政府見解が33年間、変えられることはなかった。が、安倍総理は第1次安倍内閣のときから政府の「集団的自衛権解釈」の変更に強い意欲を示してきた。今回の報告書提出は、碁や将棋でいえば決め手の一手を指したことを意味する。素人の碁や将棋のような「待った」はもう出来ない。安倍総理の行方には、「政界からの永久引責辞任」しか待っていない。そのことを検証する。
 報告書は集団的自衛権の行使について憲法9条との論理的整合性について次のように述べている。

 憲法第9条をめぐる憲法解釈は、戦後一貫していたわけではない。政府の憲法解釈は、終戦直後には「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した」としていたのを、1950年代には「自衛のための抗争は放棄していない」とした。最高裁判所が、59年のいわゆる砂川事件大法廷判決において「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとり
うることは、国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならない」
という法律判断を下したことは特筆すべきことである。70年代以降、政府は、憲法は自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じていないが、その措置は必要最低限度の範囲にとどまるべきであり、集団的自衛権の行使はその範囲を超えるものであって、憲法上許されない、との立場を示すに至り、政府の憲法解釈は、今日まで変更されていない。
 国家の使命の最大のものは、国民の安全を守ることである。ある時点の特定の状況下で示された憲法論が固定化され、安全保障環境の大きな変化にかかわらず、その憲法論の下で安全保障政策が硬直化するようでは、憲法論のゆくえに国民の安全が害されることになりかねない。(※これは正論である。だから私は、現行憲法は占領下において制定されたものであり、日本が二度と軍事力を行使できないようにするために9条が設けられ、丸裸になった日本の安全を守るために連合軍(事実上米軍)が日本に駐留し、日本を防衛していたと、占領下における憲法の意味を何度も書いてきた。だから、日本が独立を回復した時点で、主権国家として「自分の国と国民の安全は自分たちで守る」という責任と義務を明確にした新憲法を制定すべきだったと主張してきたのである。もちろん、独立回復と同時に「無効」になったはずの現行憲法の平和主義の理念は継承することは大前提だが)
 我が国を取り巻く国際環境が厳しさをましていく中で、将来にわたる軍事技術の変化を見通したうえで、我が国が本当に必要最小限度の範囲として個別的自衛権だけで国民の生存を守り国家の存立を全うすることができるのか、という点の論証はなされてこなかった。また、個別的自衛権と集団的自衛権を明確に切り分け、前者のみが憲法上強要されるという分離解釈上の根拠は何も示されていない。(※これも正論である。だから私は集団的自衛権を定義した政府答弁書を作成した○○省○○局の幹部官僚に質問し、「安倍内閣が従来の集団的自衛権についての見解を変更していること、そのことを国民に全く説明していないこと」を事実かどうか聞いた時、間髪を入れず「その通りです」と答えたことでもはっきりしている。安保法制懇の報告書も、事実上、それを認めている。そこまで論理的な主張ができたのなら「個別的自衛権と集団的自衛権を明確に切り分け(た)…分離解釈の根拠は何も示されていない」の論理的延長として、個別的自衛権も集団的自衛権も、自国を防衛する手段として、国連加盟国のすべてに認められた固有の権利である、と解釈するのが論理的妥当性を持つことになぜ気が付かないのか)
 憲法前文は、平和的生存権を確認し、第13条は、国民の生命、自由及び幸福追求の権利について定めているが、これらを守るためには、我が国が侵略されず独立を維持していることが前提条件であり(※これはウソ。現行憲法は日本が占領下にあるときに制定されており、独立主権国家を前提にしていない。だから9条の制定と引きかえに米軍が日本防衛の任に当たったのだ)、外からの攻撃や脅迫を排除する適切な自衛力の保持と行使が不可欠である。基本的人権と
同様の根本原則として理解されている国民主権原理の実現には主権者たる国民
の生存の確保が前提であり(※そのための全責任を負ったのが占領下=現行憲法下=においては米軍であった)、我が国の平和と安全が維持されその存立が確保されていなければならない(※この責任も現行憲法下では米軍が負うことになる)。国権の行使を行う政府の憲法解釈が国民と国家の安全を危機に陥れるようなことがあってはならない。憲法前文及び第98条の国際協調主義の精神から、国際的な活動への参加は、我が国が最も積極的に取り組むべき分野と言わねばならない。我が国の平和主義は、同じく日本国憲法の根本原則である国際協調主義を前提として解されるべきである。(※これは現行憲法の解釈変更によって実現されるべきことではなく、主権国家としての尊厳を前提に平和主義の理念を継承しつつ、日本が現在、国際社会において占めている地位や地理的環境にふさわしい、国際平和と安全に貢献すべき、主権国家の責務として新憲法に明記すべきである) 

 その後、集団的自衛権の行使が容認できる「具体的行動の事例」が六つ述べられているが、その内容はすでに朝日新聞が10日付朝刊でスクープした内容で、私もブログですでに書いたが、改めて簡略して述べる。
 問題は「集団的自衛権」についての新解釈だ。従来の政府見解は「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃されたら、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」が集団的自衛権だった。その見解を報告書は政府が解釈変更した通りに変えたのである。それが行使容認の6要件だ。
 NHKが5月6日午後6時10分から『大人のドリルスペシャル 今さら聞けない集団的自衛権のイロハ』という解説番組を放映した。これがおおよその集団的自衛権についての理解であろう。NHKが集団的自衛権について分かりやすく伝えようとした意図は理解できるが、とんでもない番組を作ってしまった。集団的自衛権を「正当防衛」と同一視して解説したのである。
 私は集団的自衛権について、数えきれないほどブログを書いてきたので、いつのブログで書いたのかを調べるより、同じことをもう一度書いたほうが早いので再度書くが、前に政府の集団的自衛権解釈は「正当防衛」と同一視していることを指摘したことがある。正当防衛はおそらく民主主義国家のほとんどで罪に問われないが(「過剰防衛」として罪に問われることもある)、これは「防衛」の権利であって、「自衛」とは意味が多少違う。
 正当防衛は、確かに他人が不当に誰かから暴力を振るわれた場合、その場に居合わせた人がその人を助けることを目的とした暴力的行為も正当防衛として罪に問われないことがある。これは個人間の、言うなら「ケンカ」のケースでの暴力行為のことである。国際紛争の解決手段としての「自衛権」と同一視して論じること自体、いくらわかりやすく解説したいという意図があったにせよ、視聴者を混乱させるだけで、番組制作者の見識が問われてもやむをえまい。
 そもそも国連憲章が、いつ、どういう目的で作られたのかすら番組制作者は調べなかったのだろう。国連憲章は終戦前の2045年6月、枢軸国(日独伊)と第二次世界大戦を戦っていた連合国が、自分たちの戦争を正当化するために作ったものである。だから今でも改正されずに残っている条項に「敵国条項」があり、戦後の45年10月に国連憲章を国際社会のルールとして結成された国際連合(国連)にとって日独伊はいまだに「敵国」のはずである。いや、そもそも国連と日本語訳されている英語の原語は「連合国」であって「国際連合」ではない。だから「国連安保理常任理事国」は連合国の中枢であった米英仏ソ(今は露)中の5か国のままで、5か国は巨大な権能を持っている。
 まず国連憲章は「国連」加盟国に、国際紛争の武力による解決を禁じている。実際に国際紛争が生じたときには平和的に解決することを義務付けている。が、平和的解決が困難な場合を想定して、国連憲章は国連安保理に経済制裁などあらゆる非軍事的措置を行うことを認めている(第41条)。それでも解決できなかった場合は、国連安保理にあらゆる軍事的措置を行うことも認めている(42条)。そうしたあらゆる国連安保理の機能を行使しても国際紛争を解決できなかった場合や、安保理が機能不全に陥るケースも想定して国連憲章は国連加盟国に「固有の権利」として「自衛権」を認めることにした。それが第51条である。
 もう一度想起していただきたい。国連憲章が作られたのは45年6月であり、国連憲章作成の中心的役割を果たしたアメリカが広島と長崎に原爆を落として日本の息の根を止めたのは8月、そして第二次世界大戦が終結したのちに「国連」は結成されている。「第二次世界大戦のような悲劇を繰り返さないために作られたのが国連」というのは、後から作られた「神話」にすぎないのだ。
 しかし、国際紛争を平和的に解決することは困難で(国連安保理で決議を行っても多数決では決められず、連合国の中枢であった5か国が常任理事国として拒否権を持っているため、米英仏露中の一国でも拒否権を行使すれば、紛争解決のために安保理に付与されたあらゆる権能(41条及び42条)の行使は不可能になる。実際国連安保理設置後、一度もその権能を行使したことはない。
 そのため国連安保理が紛争解決の措置をとるまでの間、「国連」加盟国は憲章51条において自衛権(個別的又は集団的)を行使する権利を固有のものとして認めることにしたのである。つまり個別的も集団的も、ともに自衛の手段であり、それ以上でもなければそれ以下でもないのだ。そう考えると個別的自衛手段が日本の場合自衛隊や海上保安庁であり、集団的自衛権は有事の際日米安保条約に基づいてアメリカに「助けてくれ」と軍事的支援を要請する権利を意味
し、すでに持っていると考えるのが子どもでも分かる文理解釈だ。
 それが、なぜ集団的自衛権は「密接な関係にある国を防衛する権利」などという個人のケンカでの正当防衛としての暴力の行使と同一視した解釈になってしまったのか――それが私にはどうしても理解できない。どこかの国が、意図的に集団的自衛権の意味を拡大解釈して他国のある勢力を軍事的に支援するために軍事介入する際の口実に「集団的自衛権」を持ち出したのかもしれない。それが日本でも集団的自衛権の解釈として定着してしまった可能性は否定できないが、いま一度頭を冷やして、個別的自衛権も集団的自衛権も、憲章51条が「固有の権利」として認めているのは「自衛」の範囲つまり自国の防衛に限定された権利であることを、まずもって認識する必要がある。
 卑近な例でいおう。竹島は、歴史的にも日本の領土である。が、日本がサンフランシスコ条約に調印して独立を回復した直後、韓国はどさくさに紛れて竹島を不法に武力侵攻し、以降60年にわたって軍事占拠している。もちろん日本政府は直ちに韓国政府に抗議したし、当時はアメリカも日本の主張を支持していた。
 以降60年間、日本は韓国に抗議を続け、国際司法裁判所で決着を付けようと
韓国に申し入れているが、韓国は「領土問題はない」と一切応じない。日本の裁判は相手の承諾がなくても告訴できるし、告訴に応じなければ原告の主張を見なしたとして被告は全面敗訴する。が、国際司法裁判所は当事国の一方が訴えても、相手国が応じなければ裁判を開くことすらできない。そうした場合、日本は安保理に非軍事的措置あるいは軍事的措置の行使による解決を依頼する権利が生じるはずだが、その権利は行使できない。中国やロシアではなく、日本の訴えを日本の「同盟国」アメリカが拒否権を行使することが間違いないからだ。日本の独立回復直後には全面的に日本の主張を支持していたアメリカがなぜ態度を豹変させたのか、日本政府は「蛇ににらまれた蛙のように」アメリカの態度豹変の理由を聞くことすらできない。日本にとってアメリカはいざというとき頼りにできるはずの唯一の「同盟国」だが、アメリカにとって日本は数多い同盟国のワン・オブ・ゼムにすぎないからだ。
 そうなると日本にとって固有の領土である竹島を取り返すには国連憲章51条が規定している「自衛権」を行使するしかない。が、行使しようとするとアメリカが立ち塞がって日本の実力行使を阻止することは日米韓の関係を見れば一目瞭然だ。否応なく外務省北東アジア局は、「日本は平和的解決の努力を行っていますので」と個別的自衛権の行使をためらっている。60年間平和的解決の努力を重ねても一歩も前進しなければ、個別的自衛権の行使によって竹島を奪還することは、いくらなんでも国際法に違反した行為とはどの国も言えない。が、日本が実力行使に出れば、日米関係は戦後かつてないほど冷え込むことは間違いない。はっきり言えば、日本はアメリカのご機嫌を損ねないために今後も100年、200年、日韓のどちらかが地球上から消滅するまで「平和的解決のための無駄な努力の真似事」を続ける気なのだ。
 しょせん、そういうパワー・ポリティクスが横行する国際社会で、いくら日本が集団的自衛権の行使容認を憲法解釈の変更によって決めてアメリカにおべっかを使おうとも、アメリカは国際的儀礼慣行として「日本の決定を歓迎する」とリップ・サービスは口にするだろうが、リップ・サービスというものは、それ以上でもそれ以下でもない。「何もわかっていない」とはそういうことを意味する。
 尖閣諸島は、オバマ大統領が日本を訪問した際「尖閣諸島は日米安保5条の適用範囲だ」と明言したとしても、もともと尖閣諸島はアメリカにとって中国の海洋進出の軍事的防衛ラインとして中国による占領を許すわけがない軍事的要衝だ。そう考えないと、アメリカの竹島に対する態度と尖閣の対する態度の巨大な落差の説明ができない。だが、米政府もアメリカ国民に対して北東アジア方面の軍事的支配権を維持するために、日本とくに沖縄にタダで基地を貸してもらっているなどとは口が裂けても説明しない。あたかも日米安保条約に基づいて日本を防衛するために日本各地に基地を置いていると説明している。そのため米国内では日米安保に対して「不平等条約だ」という不満の声が根強くあり、オバマ大統領が訪日した際リップ・サービスとして口約束した「尖閣諸島は日米安保条約5条の適用範囲だ」との発言が米政府内で問題になった。「アメリカのために血を流そうとしない日本のために、アメリカだけがなぜ血を流さなければならないのか」という反発が、オバマ大統領の尖閣発言で噴出したのだ。
 前にも書いたが、オバマ大統領の尖閣発言は現在の中国の海洋進出政策に対する牽制球をとりあえず投げてみた、というほどの意味しか持たない。それ以上でもそれ以下でもない。もちろん大統領の公式発言だから、それなりの重みはもつ。が、従来の集団的自衛権についての政府見解をいとも簡単に安倍内閣が覆そうとしているように、アメリカでも大統領が変われば尖閣問題に対する姿勢がどう変わるかわかったものではない。
 いま、とりあえず日本政府が行うべきことは尖閣に恒久的な施設(小さな港や灯台のようなものでもいい)を作って実効支配に踏み切ることだ。中国は当然反発するだろうが、オバマ大統領の尖閣発言が有効性を維持している間が、尖閣諸島の領有権を確実なものにする唯一の方法だ。それすら日本政府がやらないということになると、有事の際、「日本が自己責任を果たしていないのに、なぜアメリカが尖閣を防衛しなければならないのか」という世論が、アメリカ国内に充満することは間違いない。沖縄米軍の高官が「中国兵が尖閣初頭に上
陸したら、海空からの砲爆撃で殲滅する」とのリップ・サービスも、「米軍はア
メリカ人の血を流さない範囲で」という意思の表明と受け止めるのが合理的だ。
 国際社会、特に米欧が主導する国際関係はきわめて冷徹かつ合理的である。儒教的精神規範の残滓にいまだ縛られている日本の政府やメディアは何事も情緒的な判断を優先しているが、特に安倍総理は情緒的すぎる。あの柔らかな物腰やつねに絶やさないにこやかな笑みで、総理に対する好感度は歴代総理の中で群を抜いているが、日本国民は相当に成熟度を増している。安倍内閣の支持率は依然として高いものの、個別の政策に対する世論は集団的自衛権行使のための憲法解釈に対する支持率はかなり低い。原発政策についても同様だ。
 今問題になっている健康食品の効能表示の自由化にしても政府は「効能表示はメーカーの自己責任において認める」という方針を打ち出しているが、私は消費者庁に昨日電話をして猛烈に抗議した。13日にNHKが『クローズアップ現代』でこの問題を取り上げた際にもNHKの番組制作担当者にクレームを付けたが、アメリカでは「自己責任で自由に効能を表示してもよい」ことになっているのは事実だが、アメリカにおける「自己責任」とは、過大な効能表示をして消費者から訴えられたらメーカーは莫大な損害賠償を請求されることを意味する。PL法(製造物責任法)ですら骨抜きにされた日本で、アメリカのように厳しいメーカー自己責任をどうやって問えるのか。
 私は規制緩和については基本的に賛成の立場をとっているが、規制緩和・自由競争には、当然ながらきわめて厳しい「担保」が必要である。その担保が不備なまま、アメリカのやり方は何でも正しいかのような政策には疑問を感じる。
 1989年から2年間にわたって5回開催された日米構造協議のことを読者は覚えておられるだろうか。直接の目的は日米貿易不均衡の是正を図ることにあったが、日米は双方の企業経営の在り方や政府の行政に至るまで、きわめて広範囲にテーマは及んだ。その協議の厳しさは現在のTPP交渉の比ではないほどであった。この協議で日本は最終的にアメリカ側の主張に屈服して大店法を廃止したり、大幅な規制緩和に踏み切らざるをえなくなった。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」日本人の体質の証明でもあるが、なぜ日本でコンビニがこれほど全国に拡大することになったのか、の原因が実はこの日米構造協議にあった。
 別にアメリカ政府が日本にコンビニを拡大したいと考えていたわけではない。アメリカが主張したのは日本の流通市場の閉鎖性であり、大店法が閉鎖性の根っ子にあるという指摘だった。アメリカ政府はアメリカの流通大手が日本に進出できないのは日本の流通市場が大店法によって閉鎖的になっているからだと主張し、大店法の廃止を要求しただけである。いうなら内政干渉なのだが、日本のメディアがアメリカの主張を支持した。アメリカ側には「殺し文句」が用意されていたからである。
 その「殺し文句」とは「日本の行政は生産者の立場に立っている。消費者の立場に立つべきだ」というものだった。この「殺し文句」にメディアが軍配を挙げ、日本政府は規制緩和に向けて行政の舵を大きく切った。大店法が廃止され、規制の下に保護されてきた酒店、米店、タバコ屋が姿を消していくことになる。タバコ屋は店舗の規模が小さかったからクリーニング店に業態転換したが、酒店や米店は軒並みコンビニに業態転換した。それがコンビニ急拡大の、そもそもの原因である。
 それだけではない。大店法の廃止によって大規模スーパーの出店競争が激化した結果、地方都市の駅前商店街は軒並み空洞化していく。地域住民のコミュニケートの場でもあった零細小売店が姿を消すことによって、地域住民同士の「連帯感」も希薄になり、地方都市は魅力を失っていく。
 ちょっと話が広がりすぎたので、今日のブログはここで止める。安保法制懇の報告書の検証作業は、できれば(というのは今回のブログも9000字に達し、私も相当疲れたので、お約束ができない)明日続けたい。

いま安倍総理が「国際の平和と安全」のために日本から発信すべきことを、根本から問い直そう。

2014-05-14 05:39:04 | Weblog
 中国の海洋進出の動きが激しくなってきた。ウクライナ問題で、中国が最も警戒しているアメリカとロシアが釘付けになっているのを、「これ幸い」と言わんばかりの動きだ。
 中国の海洋進出は、習近平体制が発足して急速に動きを速めだした。そのことの意味も考えておかなければならない。中国では、天安門事件以来とも言える民主化運動が各地でくすぶりだした。習近平氏が中国の国家主席、中央軍事委員会主席の地位に就いたのは13年、その前年には中国共産党の総書記についており、中国の最高権力者だ。
 独裁国家においては最高権力者の交代時には、必ず新勢力と旧勢力の、水面下での激しい攻防戦が行われる。最高権力者に就いた人物はその権力を堅固なものにするため、人事も側近で固めようとする。利権を奪われることになる旧勢力側は、当然利権の維持のために新しい権力機構の中に基盤を築こうと画策するが、新しい最高権力者は自分の意のままになる人事を断行したい。
 中国の場合は、そうした新勢力と旧勢力の軋轢が表面化して、共産党独裁政権の存立基盤が危うくなるのを恐れて、権力の移行を時間をかけてじっくり行おうとしているので、あまり新勢力と旧勢力の対立が表面化することはないが、それは過去の経験に学んだことにもよる。「過去の経験」とは毛沢東が背後で糸を引いた「文化大革命」で中国内部が大混乱に陥り、その収束のために多大の犠牲を払ったことへの教訓を指す。
 以来独裁者の長期政権を防ぐための、それなりの担保を中国政府は作り上げることで、何とか政権内部の混乱を防止してきた。が、政権内部の権力闘争を未然に防止するための担保を構築することは、国民を政府の完全なコントロール下に置くことを必ずしも意味してはいない。現に民主化を求めた「天安門事件」は、独裁政権といえど国民を完全にコントロール下に置くことがいかに困難かを象徴する事件でもあった。
 そういう側面から北朝鮮における「恐怖政治」は、金正恩総書記の権力基盤がまだまだ脆弱であることを逆説的に証明しているとも言える。もし金総書記の権力基盤が固まれば、粛清人事は収束に向かうはずだからだ。
 そういう面から中国の急ピッチな海洋進出の動きをみると、1党独裁のひずみが最高権力者の交代によって吹き出しつつあることが、背景にあるという見方もできよう。国内では民主化を求める水面下の動きが、天安門事件のときにはまだなかったインターネット社会の広がりによって、かえってマグマのように地下深くで進行しつつあり、いつそのマグマが爆発するかわからない状況にあると考えられる。また新疆ウイグル民族やチベット民族の悲願ともいえる独立・主権国家建設への胎動が、過激派のテロ行為としてちょろちょろ火を噴きだした。新疆ウイグルやチベットも一応自治区とされているが、自治政府は中
国共産党の支配下にあり、中国が共産党政権になるはるか前から中国の侵略を
受けて占領下におかれている。
 私はブログで何度も書いてきたが、あらゆる国の歴史認識の基準は「勝てば官軍、負ければ賊軍」に置かれており、「敗軍の将は兵を語ることは許されない」ことになっている。いつまでそういうアンフェアな歴史認識を続けるのか。私は相当に権威のある歴史学者が、そうした歴史認識の在り方に問題提起をするまでは、パワー・ポリティクスの時代に終止符を打つことができないと思っている。が、敗戦国日本から、そういう発信をすれば海外、特に中韓から「日本は過去の軍国主義を肯定しようとしている」「再び軍国主義への道を歩むための理論武装だ」といった批判が沸騰することも間違いない。
 私は先の大戦を肯定するものではないが、当時の日本の対外政策のすべてが誤りだったとするメディアの歴史認識は、自分たちが先の戦争に加担したことだけを「誤りだった」としおらしく「反省」しているかのような「検証作業」を何度も行っているが、それはメディアを「軍部による被害者」と位置付けて責任転嫁を図ろうとする目的以外の何物でもないことを繰り返し述べてきた。もうそろそろそういった思考法が、論理的に破たんしていることに気が付いてもよさそうなものだが…。
 それはともかく、南シナ海で中国とベトナムが一触即発の状態になっている。中東や東欧での国際紛争を「対岸の火事」視していた日本も、火種が南シナ海に飛び火するとなると傍観視してはさすがにいられない。
 いま世界各国にとって、地上だけではなく海底に眠る資源(エネルギー資源や希土類・レアメタルなどのハイテク資源)の確保は、国益を左右する国際紛争の最大の火種となっている。中国の海洋進出の狙いも、これらの資源開発の権利獲得のためであって、他国を軍事的に侵攻しようというわけではない。そういう意味では今日のパワー・ポリティクスは、過去の帝国主義の時代のような植民地獲得競争ではなく、資源を確保するための領海、領域の主張の激突であることを理解しておく必要がある。
 日本は過去「八紘一宇」と称した「平和主義」思想を理論的バックボーンとして「大東亜共栄圏」という、今日の欧州連合(EU)のような一大軍事・経済圏構想を抱いていた。この構想のもとに、日本はヨーロッパ列強に植民地支配されていた北東アジア諸国を次々に「開放」し、日本の支配下に入れていった。が、日本はそうした支配下の国々から、ヨーロッパ列強のように収奪を目的とした勢力圏の拡大ではなかった。
 現にヨーロッパ列強の植民地支配の根幹には、植民地の国民を無学文盲状態に置いておくことを旨としたものがあった。なまじ植民地支配下の国民が学問
を身に付け、「民主主義」の政治システムを知ることは独立運動に火を付けかね
ないと思っていたからである。それに対して日本政府は完全に支配下において
いた朝鮮や台湾においては、国内と同様の高等教育制度を充実させ、国内の7帝国大学と同等の資格を持つ京城帝大(現ソウル大学校)や台北帝大(現台湾大学)を作り、日本と同等の教育によって植民地の人たちの教育水準を高めていこうとしていた。結果的には、現地人の教育水準がまだそのレベルに達していなかったため、この二つの海外帝大に学ぶ学生は日本人学生が多かったようだが、もちろん入学試験において日本人受験者を特に優遇するようなことはなかったようだ。日本を除いて、北東アジアにおいて韓国と台湾の教育レベルが極めて高いのは、そうした当時の日本の植民地政策がもたらした結果であることは疑う余地がない。日本が中途半端で敗戦に追い込まれたためタイやビルマ(現ミャンマー)、フィリピン、マレーシア、ベトナムなどでの教育改革を行えなかったことが、これらの国々が近代化の波から大きく取り残される結果を招いたことも事実である。
 私は「村山談話」を否定するものではないが、日本はいつまでひたすら土下座外交を続けなければならないのか、日本からそういう主張を直接発することがかえって中韓などの反発を招くと考えるなら、たとえばアメリカのフェアな歴史学者を日本に招き、日本にとって都合が悪い情報も含めて当時の日本の植民地政策に関するすべての資料を提供し、完全にフェアで中立的立場で先の対戦における日本のありのままを書いてもらったらどうか。そのためにかかる資金を日本政府が直接出すとまずいので、たとえば「日本財団」などが、「カネは出すけど口は出さない」という約束の上で資金提供する方法もある。
 私が安倍総理の基本的考えにはある程度理解を示しながら、現行の憲法や法律の下で、その大元を変えずに解釈変更や小手先の手直しで強引に政策化しようという姿勢に対しては絶対容認できないという姿勢でブログを書いているのも、そうした私の基本的スタンスによる。
 いま安倍内閣が最優先すべきことは、世界の軍事大国のパワー・ポリティクスへの急傾斜に警鐘を鳴らし、アメリカに対しても「世界の平和と安全を守る方法はパワー・ポリティクスではない。すべての貧しい国々に教育支援を行い、その国の国民が自助努力によって世界での発言力を大きくできるような支援を行うべきだ」と、声を大にして主張することではないだろうか。

安倍総理=黒田日銀総裁ラインの金融政策で「脱デフレ」は本当に成功しつつあるのか②(最終回)

2014-05-12 05:43:29 | Weblog
 このブログの後編を10日に投稿する予定だったが、安倍総理の欧州訪問からの帰国により、集団的自衛権行使容認問題が風雲急を告げだしたので、急きょ割り込み投稿した。
 私のブログはいつも早朝に投稿しているが、未明に起きてパソコンに向かっているわけではない。すでに前日までに基本的な部分は書き上げており、当日の朝に新しいニュースが飛び込んでいないかチェックし、ニュースが入っていたら急遽書き加えたり、関係のある個所を書き直したりして投稿する。だから午前6時過ぎには投稿できていた。
 が、私にとっても、安倍総理の帰国直後にもかかわらずのエネルギッシュな動きは想定外だった。また10日の朝日新聞朝刊が情報源を明記して、安保法制懇が13日にも提出する予定の報告書の全容をスクープしたため、急きょその問題に取り組む必要を感じたので差し替えることにした。差し替えると言っても、もともと用意していたものは何もなかったので、書き出しの1行目から書き始めることになった。また、相当複雑な問題ということもあって、簡単に済ませるわけにはいかず、文字数も通常の2倍に相当する約9000字に達し、投稿したのも10日の午後6時過ぎになってしまった。
 そういうわけで、安倍総理=黒田日銀総裁ラインによる「デフレ脱却」のための金融政策の実効性の検証作業の続きは今日に延ばすことにした。この検証作業のブログは3回くらい続くだろうと思っていたが、ゴールデンウィーク中にまとめておいた政府の有識者会議による労働基準法改正の意味を分析したブログ3回分を書き終えており、そのブログ記事も投稿待機中という状態なので、今回のテーマのブログは今日で終わりにする。

 前回のブログでは、G5(85年)で決まったドル安誘導により、その年には1ドル=240円だった為替相場が、わずか2年で1ドル=120円に急上昇したころに、松下電器産業(現パナソニック)の谷井社長(当時)と行ったインタビューの内容を最後に紹介して終えた。
 抜粋した部分だけでも、トヨタと並ぶ日本の二大輸出メーカーの松下の谷井社長を相手に、私は「吊るし上げ」に近いようなインタビューをした。このインタビューについて「対談に近い」と注釈をつけたのは、実際に発言文字数も谷井氏とほぼ同じくらいだったと思うからだ。
 メディアの記者は、企業が何か問題を起こした時には、それがあたかも「権利」であるかのように一斉に吊るし上げ取材をするが、何も問題を起こしていない大企業トップに「お灸」をすえるようなことができたメディアやジャーナリストはあっただろうか。
 この時期私が抱いていた問題意識は、日本企業のお行儀の悪さだった。当時
はまだ「産業空洞化」は生じていなかったが、円高が続き、日本企業がダンピング輸出を続ければ、外圧はますます強まり、時間の問題で生産現場の海外移転(つまり産業空洞化)は避けられなくなると思っていた。
 だから大輸出企業が「自分さえよければ、だれがこまろうと知ったことではない」といった姿勢に「お灸」を据える必要があると思ったのだ。よく、こんなインタビュー記事を、広告収入がメインの雑誌が掲載してくれたものだと、今さらながら自分の無鉄砲さに私自身呆れている。
 実は『宝石』の編集長に依頼していたのは「急速に進む円高対策の問題について、トヨタか松下のトップにインタビューしたい」ということだけだった。インタビューは松下の東京本社役員応接室で行われ、録音テープ起こしのフリーライターと松下の広報室長が同席した。
 この抜粋記事から抜けてしまっていたが、谷井社長の最後の発言が何を指しているのか、たぶん読者は面食らったと思う。私も推敲したとき気付いたが、外出時間が迫っており、明日(その時は10日に投稿するつもりだった)補足しようと思い、そのまま投稿した。その補足をここでしておく。
 このインタビューで私が輸出大企業の「自分さえよければ」といった経営姿勢(輸出メーカーが円高の被害者ではなく加害者になっていること)を問題にしようとした3点についてだった。念のため、当時のメディアや経済評論家たちはこぞって日本の輸出大企業を「円高の被害者」扱いしていた。
①円が倍になったのに、アメリカでの販売価格は自動車や電機メーカーは値上げ率を10~20%以下に抑えていた。アメリカの「ダンピング輸出だ」という反発に対し、日本メーカーは「合理化努力によってコストダウンを図った結果だ」と居直った。コストが下がって輸出価格を実質引き下げることができたのなら、なぜ日本の消費者は高いままの価格で商品を買わされているのか、という輸出巨大メーカーの経営姿勢に対する追求である。つまり日本の消費者の犠牲の上に輸出戦略を立てているというのが「日本の消費者に対する加害者の罪」であるとして谷井氏を追及したのである。
②円高になれば、日本の消費者に付けを回すことができない中小零細業界は窮地に追い込まれる。「自分さえよければ」と「中小零細業界を経営難に陥れた加害者としての罪」が二つ目である。私の頭にあったのは新潟県燕市に点在する金属洋食器メーカーなどの輸出零細業界のことだった。この指摘に対しては谷井氏は答えなかった。
③G5でアメリカが頭を下げて日本やドイツなどに頼んだのは、為替相場に協調介入してドル安誘導してほしいということだった。アベノミクスと同じで、当時のアメリカ政府はドル高がアメリカ企業の競争力を弱めているという判断が背景にあった。そのためドルを安くしてアメリカ企業の競争力を回復させてほ
しいと頼んだのである。アメリカ政府が頭を下げて同盟国にアメリカ企業の競
争力回復を頼んだのは空前絶後の出来事だった。そのアメリカ政府の依頼に各国政府は応じることにした。日本も円高ドル安の協調介入を約束した。それを台無しにして為替相場を輸出価格に転嫁せず、「アメリカ企業の競争力回復を阻害した加害者としての罪」が三つ目だった。
 あの時期、これほど厳しい姿勢で日本を代表する企業のトップにインタビューを挑んだジャーナリストが、日本に私以外に一人でもいただろうか。なお日本のジャーナリストは、政府にはつねに厳しいが企業にはつねに甘い(政府にも甘い新聞もあるが)。企業や経営者が社会的問題を起こした場合には、さすがに批判するが、G5後の輸出大メーカーの経営姿勢に対して批判の目を向けたのは私一人である。
 谷井氏とのインタビューは予定の時間になったため、それ以上追及できなかったが、なぜそういう悪質な経営戦略をとったのかは、私には想像がついていた。そのことだけ述べておく。
 メーカーの販売戦略、とくに価格政策は生産コストと重要な相関関係にある。生産コストは言うまでもなく、生産量と反比例の関係にある。わかりやすく言えば、大量生産すれば生産量の増大とともに商品1個当たりの生産コストは安くなる。しかもその反比例関係は単純直線ではなく双曲線的なカーブになる。輸出価格を円高の為替相場を反映させて上げたら、輸出量が減少して生産量も減り、商品1個当たりの生産コストは双曲線カーブを描いて上昇する。そうなるとさらに輸出価格を上げなければ採算が取れなくなる。輸出価格を生産コストの増加に合わせて上げれば、さらに輸出量が減る。そのとめどのないスパイラルが始まるのだ。この関係を数理的に分析した経済学者はまだいない。この分析に成功すれば、おそらくノーベル経済学賞を受賞できるだろう。
 一方、円高になれば輸入する原材料や部品の価格は下落する。もし生産量を維持でき、国内の販売価格を据え置けば、輸出で赤字を出しても国内販売で十分補える。当時は大企業も生産拠点の海外移転をほとんど行っていなかったから、とにかく生産量を減らさないことが最大の経営戦略になった。
 そのため為替相場に関係なく大メーカーは輸出量を維持できる、海外での販売政策をとることにした。「自分さえよければ」のエゴ丸出し経営方針が大手をふるってまかり通っていたのである。わずか2年で円が倍になっても輸出大企業がつぶれるどころか、生産量をさらに拡大して利益を追求できたのは、そういうからくりがあったからだ。
 G5が開かれたのは1985年。当時の為替相場は1ドル=240円だった。その2年後には1ドル=120円になった。今2014年。1ドル=120円になった1987年から27年もたったのに、その間、円は20円しか上がっていない。もちろんその間には企業の海外進出もあったし、バブル崩壊やリーマンショックもあった。が、そうした企業経営にとっての悪材料は日本だけでなくアメリカも同じ
だった。アメリカのダウ平均はいま史上最高根を更新しているが、日本は日経平均最高値の4万円近い高値からいまだに1万4~5000円前後をうろうろしている。それは企業の責任であり、金融政策で救済すべき性質のものではない。
 安倍総理は農業分野でも「強い農業を作る」と言っている。「強い農業を作る」最善の方法は農業保護をやめることだ。農業保護をやめれば、農家は必死に生き残りのための努力をする。現に、国の減反政策に従わず保護を打ち切られた秋田県大潟村の農家は生き残りをかけて大規模化を推進、現在に至るまで耕作放棄地を一切出さず、米の自主販路も開拓して「強い農業」を成功させている。
 製造業分野でも、二度にわたる石油ショックを自助努力によって日本企業は乗り切った。エネルギー資源や化学製品の原材料の大半を輸入に頼っていた日本企業は「省エネ・省力」「軽薄短小」を合言葉に脱石油の技術革新に総力を挙げて取り組み、世界に冠たる技術大国になった。政府が石油の輸入に補助金を出して、製造業の競争力を維持しようとしたわけではない。まして金融政策によって輸出企業を「保護」するという政策は、農業政策と同じだ。
 農家に対する保護の付けが農産物の消費者に回されているが、政府は小規模農家を保護しながら消費者への配慮はまったくない。同様に、金融政策によって輸出企業を保護した結果、消費税増税前でも物価は上昇している。その物価上昇が「デフレ脱却」というのか。私は呆れかえって、ものが言えない。

 政府の金融政策はともかく、日銀・黒田総裁の「デフレ脱却」宣言は本当に信じていいのだろうか。そもそも物価指数の基準にしている現在の588品目(2010年に選定)が本当に一般市民の生活実態に対応して選定されているのだろうか。また物価指数の計算方法についても疑問が残る。つまり、それぞれの品目についての平均物価を計算し、588品目の平均物価上昇または下落率を計算する。問題はそのあとだ。そうして出した588品目の物価の平均上・下率をすべて足して、それを588で割るというやり方をしているのではないかという疑問が残る。この単純平均率の計算では市民の生活実態を必ずしも反映したものとは言えない。
 株価についてはかつて「ダウ平均」という指数があった。今でもアメリカではダウ平均という株価指数が重要視されている。日本でダウ平均という場合、東証1部上場の銘柄から業種ごとに代表的な銘柄を一つずつ選び、その銘柄(「特定銘柄」)の平均株価で株式市場の動向の指標としていた。 
 この計算方式では偏りすぎるという指摘は前々からあったが、コンピュータの普及によって「日経平均」と「TOPIX(東証株価指数)」の二つが使われるようになった。「日経平均」の方は、株価の平均を計算するための銘柄数を大幅に増やして225銘柄にし、その終値の単純合計である。一方「TOPIX」は東証一部上場銘柄すべての時価総額を、1968年4月1日の時価総額を100として指数化したもの。どちらも一長一短だが、日経平均の方が分かりやすいということでメディアも投資家も日経平均を重視しているようだ。日経平均がダウ方式をやめて約1700の東証1部上場銘柄すべての加重平均にすれば、株式市場の実動向をより正確に表せると思うのだが、なぜそうしないのだろうか。今のIT技術ならパソコンでも簡単に計算できるはずだが。
 同様に、物価指数を計算するための対象品目は5年ごとに洗い直しをしているようだが(物価統計局の話)、果たして現在の588品目が適正かどうか(物価統計局は「適正」といっているが)、メディアはチェックすべきだ。
 朝日新聞は今日(12日)の社説で東京都区部の4月の消費者物価指数について述べた。社説というより「時々刻々」のような解説記事だ。社説で取り上げるようなテーマが見つからなかったということか。
 今日もこれから出かけなければならないので朝日新聞の社説については「可でもなし、不可でもなし」といった評価にとどめておく。ただ物価統計局が発表する物価指数が本当に一般市民の生活実態に即したものかどうかのチェックもせずに、したり顔の主張はそろそろ卒業したいものだ。「値上げ幅が増税幅を上回ると『便乗値上げだ』と騒ぎ、下回れば得をした気分になる。それを大げさに伝える私たちメディアの責任も小さくないが」(社説より)との「反省」を今後にぜひ生かしてもらいたい。

 これで今回のブログは終えるが、昨日ウクライナ東部2州で住民投票が行われた。YESかNOの二者択一の住民投票だったが、NHKの報道によればYESの内容が明確でないようだ。NHKオンラインから「ニュース」の項目が消え、「トップページ」にアナウンサーの放送以上に詳細な情報が提供されている。30分という『ニュース7』の時間枠内では放送しきれない情報もオンラインのトップページには盛り込まれており、非常にいい改革だ。多分10日か11日に行われた改革だと思うが、せっかくいい改革なのに肝心の視聴者にサービスの充実を伝えなかったら意味が半減してしまう。それはともかく、これは『ニュース7』で放送されたことだが、住民投票についてオンラインではこう説明している。

 投票は、親ロシア派が樹立を宣言した「人民共和国」に関し、「自立することを支持するかどうか」賛否を問うもので、ウクライナからの独立を意味するものかどうかあいまいな内容となっています。投票を終えた女性の一人は「独立を目指して賛成票を投じた」と話す一方、別の男性は「ウクライナにとどまり、自由を手に入れるため投票した」と話していました。(中略)
 しかし、ウクライナ暫定政権や欧米は「住民投票は法的根拠がない」として、その結果を認めないとしており、双方の対立が一段と先鋭化し、混乱の拡大や新たな衝突が懸念されています。(中略)
 住民投票について、アメリカ国務省のサキ報道官は10日、声明を発表し「武装した分離主義者が計画している住民投票は、ウクライナの法律に違反し、さらなる混乱と亀裂をもたらすだけだ」と非難しました。そのうえで「もし投票が実施されれば、国際法に違反し、ウクライナの領土保全を損なうことになる」として、アメリカとして住民投票の結果は認めないという考えを改めて強調しました。

 ウクライナの情勢は混乱の度を極めつつあるようだが、「民主主義とは何か」が問われているとも言える。クリミア自治共和国が住民投票を実施し、「ウクライナから分離独立し、ロシアに編入したい」という住民の総意を受けて、ロシアのプーチン大統領も編入を認めた。欧米諸国は、その状況を容認していない。安倍内閣も、オバマ大統領の圧力に屈して「力による変更は認められない」と、欧米と同一歩調をとることにした。
 が、私が10日に投稿したブログ『緊急告発――なぜ安倍総理は集団的自衛権行使容認の閣議決定を急ぎだしたのか』で書いたように、いま世界は再びパワー・ポリティクスの時代に入りつつある。
 クリミア政府が、ウクライナからの分離独立・ロシアへの編入を住民投票で決めたということは、私に言わせればきわめて民主的方法による決定であり、他国が「自分たちにとって都合が悪いから認めない」と主張することは、それこそ「力による介入」に見える。
 民主主義とは何か。欧米の「力による内政干渉」と、「国益」の判断によってアメリカのあとをへっぴり腰でノロノロついていくことにした日本政府――果たして「民主主義国家」を標榜する資格があるのだろうか。この年になって、嫌な世界を再び見せつけられるとは…。
 


緊急告発――なぜ安倍総理は集団的自衛権行使容認の閣議決定を急ぎだしたのか。

2014-05-10 18:03:10 | Weblog
 昨日のブログの続きは12日に延期する。集団的自衛権の行使容認問題が風雲急を告げ出したためだ。
 安倍総理が、欧州訪問から帰国した。前に安倍総理の海外訪問についてブログで「日本産業界の営業本部長」と書いたことがあったが、毎日新聞の速報によれば、安倍総理の海外訪問の月平均回数は歴代総理のトップに躍り出たという。総理側近は総理の健康状態に大変な気配りをしていると思う。
 安倍総理は、デフレ脱却の経済戦略として「アベノミクスの三本の矢」を掲げた。財政出動・金融緩和・成長戦略、である。
 財政出動は公共投資による景気刺激策を意味し、ケインズ理論を実践しようというものだった。私は総選挙で自民が大勝した13年12月17日に投稿した『総選挙で大勝した自民党が作らなければならない国の形』および14年3月8日に投稿した『再び断言する――公共事業で景気は回復しない。ケインズ循環論はいまの日本には通用しない』の二つのブログで税金の無駄遣いを指摘した。その要点を述べておこう。
 ケインズ循環経済論は、不況の原因は失業率の高さにあり、公共事業によって雇用を増やせば内需が拡大して景気が回復に向かう。そうなれば企業は生産活動を拡大し、さらに失業者が減少し、内需がさらに拡大する。このサイクルによって不況は克服できる。極めて単純化した表現だが、1929年にはこのケインズ理論が正しかったことが証明された。アメリカがニューディール政策によって世界恐慌を克服したからである。
 しかし、今日の日本ではケインズ循環経済論は通用しない(日本だけでなく先進国すべてに)。まず公共事業を行っても失業率は改善しない。その理由は二つある。一つは公共事業の担い手が人的労働力から機械化作業に転換していることだ。確かに機械を動かすには人的労働力も多少必要だが、公共事業投資額に占める人件費比率は1930年ごろとは比較にならない。また1930年ごろの労働力の大半はブルーカラー(肉体労働者のこと。高学歴の知的労働力の担い手はホワイトカラーという)だった。
 しかし今日、日本の進学率はきわめて高くなり(有能な知的人材が増えたことを意味しているわけではない)、肉体労働に従事する労働者の大半は南米などからの出稼ぎ労働者である。公共事業投資に財政出動して外国人労働者に就業機会を与えて、どういう景気回復の効果があるというのか。しかも少子高齢化で地方の人口は急減しつつある。少子化だけでなく、若い人たちが地方での生活設計に見切りをつけ大都市への「民族大移動」が始まっている。そんな地方への公共事業投資をしても、付けを私たちの子孫に回すだけの「税金無駄遣い」になるだけだ――というのがブログでの私の主張だった。
 ま、たまたま、6年後に東京オリンピックが開催されることになり、競技場建
設や選手村建設とアクセス交通機関など、大きな経済的波及効果が期待できる
チャンスが生まれ、私もホッとはしている。何とか「税金の無駄遣い」にはならない財政出動の機会が訪れたからだ。
 二本目の矢である金融緩和は昨日のブログから検証作業を始めたが、続きは今日のブログの冒頭に述べた理由で12日に延期する。
 三本目の矢である成長戦略はアベノミクスが公表された時点では何も具体的なものが見えなかった。が、最近になってようやく見えてきた。一つはips細胞の研究開発など先端分野への重点的な予算配分など、目先ではなく将来につながる先行投資に力を入れようとしていることだ。また「強い農業」を育成するため従来の農業政策を抜本的に目直そうとしていること。そして日本の技術の活用を外国の公共事業で図ることを国家戦略に据えようとしていること。そのために安倍総理が全力を挙げているのが海外、とくに日本の技術を売り込みたい国への矢継ぎ早の訪問である。過去の歴代総理の外国訪問件数を抜いただけでなく、日本の技術の売り込みに走り回ってくれていることには、私も素直に感謝している。
 が、帰国した総理が、それまでの柔軟姿勢を一変させて集団的自衛権行使の容認を今国会中か、遅くても秋の臨時国会前に閣議決定するという強硬姿勢に転じたことについては問題がある。
 安保法制懇の報告書について、8日までは安倍総理は「12日の週に出してもらう」と述べていた。が、9日に帰国後、報告書が13日にも出ることを明らかにした(NHKによる)。そして自ら「閣議決定の時期にはこだわらない」と、集団的自衛権の行使容認に慎重な構えを崩さない公明党との協力関係を重視し、メディアの多くも「閣議決定は今国会では行わない」との見方を示していた。総理の女房役でもありスポークスマンでもある菅官房長官も強行突破はしないとの総理の考えを代弁していた。
 たとえば朝日新聞は8日付朝刊で以下の観測記事を掲載した。(抜粋)

 安倍政権は閣議決定の時期について6月22日に会期末を迎える通常国会の閉会後に延期する方向で最終調整に入った。行使容認に慎重姿勢な公明党への配慮だが、秋の臨時国会までに閣議決定する方針は変えていない。欧州訪問中の安倍総理は7日午後(日本時間同日夜)ベルギー・ブリュッセルでの記者会見で、閣議決定の時期について「期限ありきではない」と明言。「与党においてもご議論をいただきたい(※自公両党の意思統一を意味する)」と述べ、公明党との協議を尊重する考えを強調した。また首相は、有識者会議が来週中に提出する報告書を受けて示す「政府方針」について「政府がどのように検討を進めるかについての基本的方向性を示す」と語った。与党内では、公明党への配慮として、秋の臨時国会に予定していた集団的自衛権行使容認の関連法案審議を来年の通常国会に先送りする案も検討している。石破幹事長は、自衛隊が防衛出動する段階に至っていない「グレーゾーン事態」に関する法案審議を秋の臨時国会で先行させる可能性に言及した。菅官房長官も7日の記者会見で「そういうこともありうるのではないか」とした。しかし、首相は秋の臨時国会召集前には閣議決定に踏み切る考え。政権幹部も「絶対にやる」と強調する。

 この記事は事実(安倍総理や石破幹事長、菅官房長官の発言内容)に基づいた記者の憶測記事である。新聞記事のどの部分が事実を伝えており、どの部分が記者の憶測によるか、読者自身が「新聞の読み方」の勉強と位置付けて読んで頂きたい。
 新聞記者は、客観性を装って憶測記事をあたかも事実のように書くことが多い。たまに論理的な憶測もあるが、非論理的な憶測が多い。この記事の場合はとくに朝日新聞の集団的自衛権行使容認に対する主張を反映したものとは言えず、論理的合理性が高い憶測記事と言える。新聞記者がそれなりの根拠に基づいて憶測するのは自由だが(私のように「と思われる」「と考えるのが合理的である」と記者の解釈であることを明記すべきではあるが)、NHKの場合は憶測報道は許されない。取材でつかんだ事実であれば、特段の事情がないかぎり情報源を明らかにすべきである。明らかにできない場合は、アナウンサーが事実として報道すべきではなく、有識者なりNHKの記者に個人的意見として述べさせるべきである。
 最近NHKはアナウンサーをキャスターと称している。アナウンサーとかキャスターという位置付けは単なる職種の違いであり職位としてキャスターを上席に位置付けてはいないはずだ。アナウンサーは記者が書いた原稿の棒読みが仕事であり、個人の主張や感想を述べることは許されていない。『クローズアップ現代』の国谷裕子氏は紛れもなくキャスターであり(ただし国谷氏はNHKの職員ではない)、討論番組の司会者や気象情報を提供する気象予報士も職種としてはキャスターに相当する。何か最近のNHKには違和感を覚えることが多い。
 安保法制懇は安倍総理が設置した懇談会である。閣議決定を経ていない場合、「政府の」有識者会議(懇談会)と位置付けることは、明らかに報道機関の行き過ぎた「私的解釈」であり、そうした「私的解釈」がまかり通ること自体報道機関としての公正性が問われると言っても差し支えない。NHKを除いて民間の報道機関が自社の主張を述べることは自由である。が、何らかの機関を勝手に私的なものとか公的なものとか位置付けることは、たとえ民間の報道機関であっても許されるべきではない。昨日(9日)のNHKはニュース7で、私が一貫して問題視してきた安保法制懇の位置付けについて従来の「政府の有識者会
議(懇談会)」というアナウンスやテロップでの表記をついにやめた。ニュース
直後にNHKオンラインで調べ直したが(ニュースのとき数えていなかったので)、「政府の」とか「私的な」といった冠を一切付けずに「有識者懇談会」と表現したのが4回、「安倍総理大臣が設置した有識者懇談会」と表現したのが2回だった。おそらく私の度重なる批判を背景に、報道局の主導権を、私に近い認識を持つ人たちが握ったと考えられる。これを機に、NHKが公共放送としての姿勢を確立することを期待したい。読売新聞も「政府の」という冠表現をやめたようだ。産経新聞もやめるべきだ。朝日新聞や毎日新聞も、ことさらに「私的の」といった冠を付けるのはやめた方がいい。言葉は、それ自体が政治的意味合いを持つケースがしばしばある。世論が二分されるような政治的問題を取り扱う場合、主張は別にしても、言葉で政治的スタンスが明確になるような表現は、厳に慎むべきである。

 非常に分かりやすいケースをたとえに書く。ウクライナ紛争に関連することだ。もともとウクライナは旧ソ連の自治国(国家内国家)の一つであった。旧ソ連の共産党政権が崩壊し、東欧諸国の非共産主義化が一気に加速した。旧東ドイツも西ドイツと統一した。そうした流れの中でウクライナも旧ソ連から独立して主権国家となった。旧ソ連は国土が縮小し、国名も昔のロシアに戻した。ウクライナ国内には旧ソ連の重要な軍事拠点が多く散在し、核基地もあった。その核基地はいまはない。ウクライナ政府が「核不拡散条約」に加盟して核基地を撤去したからである。なお核不拡散条約は米英仏露中の5か国以外の核保有を認めないという核大国エゴ丸出しの国際条約である。ちなみに、この5か国は国連安保理の常任理事国であり、国際平和と安全を守る義務を「拒否権の行使」によって阻害してきた国々でもある。これは私の個人的見解ではなく、歴史的事実である。 
 ウクライナとロシアとの関係は独立後も友好的であった。が、05年3月、ロシアはそれまで優遇的料金でウクライナに輸出していた天然ガスの料金を国際市場価格に合わせて倍以上に引き上げることを一方的に決めた。ウクライナは鉄鉱石の世界有数の産出国であり、鉄鋼業など重工業が国の基幹産業だった。その重工業を支えるエネルギー資源の天然ガスを一方的に値上げされて、ウクライナ国内で反ロシア勢力が一気に増大する。
 親ロシア派と反ロシア派が対立する中で2010年に行われた大統領選挙で親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権が成立した。これで収まらないのが反ロシア派の政治勢力。それが力による激突に至ったのは13年11月にヤヌコーヴィチ政権が欧州連合との政治・貿易協定の調印を見送ったためである。その結果、一気に反政府運動が勃発した。それまでバラバラだった反ロシア勢力が大連合し、ソチオリンピック開催中の14年2月にウクライナの最高議会がヤヌコーヴィチ大統領の解任と大統領選挙の繰り上げ実施を決議、ヤヌコーヴィチはロシアに逃亡、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行とアルセニー・ヤツェニュク首相による暫定政権が誕生した。
 この政権交代に反発したのがロシア系住民が多いとされるクリミア自治共和国政府で、住民投票を行った結果、「ウクライナからの分離・独立」を宣言、ロシアへの編入も決め、ロシアのプーチン大統領もロシアへの編入を認めた。もちろんウクライナ暫定政権はクリミア自治共和国政府の一連の行動を認めず、「憲法違反」を主張、EU諸国が「国益」が侵害されると見なして暫定政権を支持、EU諸国の多くと同盟関係にあるアメリカもEU側についてロシアへの経済制裁に踏み切った。
 そこで板挟みになったのが日本である。ウクライナは遠く離れた東欧の国で
あり、軍事的にはもちろん経済関係も深くない。はっきり言って「対岸の火事」である。一方ロシアとはかつてないほどの友好的関係を築きつつある状況の中で生じた「迷惑至極」な出来事である。そのため安倍政権は当面、傍観する姿勢をとっていた。クリミア政府側を支持するのが「国益」でもなければ、暫定政権側を支持するのも「国益」とは関係ない。が、暫定政権の後ろ盾になっているEU・アメリカ連合とロシアが対立し、米オバマ大統領から「日本はどっちに付くのか」と恫喝され(※これは私の論理的見解)、安倍総理はやむなくロシアとの友好関係の促進を中断して、ロシアへの経済制裁の仲間の端っこに加わった。TPP交渉もそうだが、現代世界は再び、戦火を交えることはなくても、「国益」をむき出しにしたパワー・ポリティクスが支配する新時代に入ったと言えよう。中国の海洋進出もそうした流れの一環である。
 NHKふれあいセンターの上席責任者の一人とウクライナ問題についてかなり長時間話したことがある。「クリミアの分離・独立について小林さんはどう思うか」と聞かれたので、私はこう答えた。「クリミアの分離・独立がもし民族自決権の行使だったなら、無条件に支持する。もし中国の新疆自治共和国のウイグル族が民族自決権を行使して中国共産党政権から分離・独立を住民投票で決めたらアメリカや日本は反対するか。それが論理的に考えるということだ」と。

 私は何度も書いているが、右でもなければ左でもない。保守でもなければ革新でもない。
 私は学生時代、のちに新左翼と呼ばれるグループに属して、かなり激しい学生運動に参加していた。が、属していたグループの主導的主張に疑問を抱き、仲間を語らって勉強会をはじめようとした。その動きがグループのリーダーの一部に漏れ、私は「分派主義者」というレッテルをはられて除名された。
 その後、私は「なぜ、理想社会の建設を目指して命をかけて権力と闘った共産主義者たちが、革命に成功して権力を握った途端、独裁者に変貌したのか」という疑問に一人で立ち向かうことになった。グループから除名されたからといって、では右に変わります、と簡単に「転向」できるタイプの人間ではなかったからだ。
 日本共産党は、いま比較的論理的に考えるようになっている。野坂参三氏や宮本賢治氏による独裁体制時代に対する反省が、党のトップの独裁権力を防ぐ手立てに結びついたようだ。教条主義的な主張もかなり影をひそめるようになったと感じる。そして歴史上すべての共産主義体制の国が権力による独裁政治を可能にした理論的根拠が、レーニンの「プロレタリア独裁論」にあることまではたどり着いたようだ。
 が、私が若いころにたどりついた論理的結論には、まだ程遠い。
 私はマルクスが描いた理想社会の定義そのものに独裁権力を可能にした理論的根拠があるという論理的結論にたどり着いた。
 マルクスの定義はこうだ。
 社会主義社会では、人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る。
 共産主義社会では、人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。
 私が抱いた疑問は、この定義の論理性であった。確かに、一見、理想的社会に思える。が、いったい人の能力はだれが査定するのか、労働の価値をだれが査定するのか、さらに必要性の決定権はだれが持っているのか。そう考えると、マルクスの定義は資本主義社会における「能力と仕事と賃金と支出」の関係とそっくり同じではないか。さらに「必要に応じて」という場合、たとえば日本の場合「生活保護法」によって必要最小限の文化的生活ができるだけの保護費を受け取る権利が保証されている。そして、それを担保する仕組みが、まだまだ未熟とは言え「民主主義」という政治システムによって守られている。
 が、その担保が外されているのが、いわゆる共産主義体制の国であり、だから人の能力を査定し、仕事や地位を決め、成果を査定する権限を持つ人には絶対に逆らえないという「鉄のピラミッド」体制が否応なく構築される。今の北朝鮮が、まさに金正恩体制の「鉄のピラミッド」構築の過程にある。
 マルクスが夢に描いた理想社会は、理想社会としてはだれも否定できないと思う。が、マルクスは自分が作った社会主義社会・共産主義社会の定義が、独裁権力の土壌になることに気付かなかったのだろうか。気付いていれば、独裁権力を防ぐための担保も同時に提案しておくべきだった。
 
 そのことはともかく、安倍総理は帰国後、集団的自衛権の行使容認の閣議決定を急に急ぎだしたようだ。
 安倍総理は昨日、集団的自衛権の行使容認強硬派の石破幹事長、高村副総裁と相次いで会談し、安保法制懇の報告書が提出され次第、直ちに閣議決定に向けて与党協議を行うよう指示したようだ。
 報告書の内容についてはメディアがスクープ合戦を繰り広げていたが、どうやらNHKのスクープは誤報だったようだ。現時点で一番確実性が高いのは9日付朝日新聞朝刊の『集団的自衛権行使に6条件 具体事例10以上示す 安保法制懇報告書が判明』というタイトルの記事だ。なぜこの記事の確実性が高いのか。情報源を特定しており、かつその情報源が信頼性の高いものだからだ。
 朝日新聞の取材に報告書の内容を明らかにしたのは安保法制懇の座長代理で、かつ座長の柳井俊二氏が欠席することが多い安保法制懇で座長を務め、さらに報告書の取りまとめ役でもある北岡伸一国際大学長だということを記事で明らかにしている。このような場合、記事の信頼性は極めて高い。この記事のタイトルにある6条件とは以下の六つ。
①密接な関係にある国が攻撃を受ける。
②放置すれば日本の安全に大きな影響が出る。
③攻撃された国から行使を求める明らかな要請がある。
以上の三つの事態が重なることを条件とし、そのうえで行使の手続きとして
④首相が総合的に判断する。
⑤国会の承認を受ける必要がある、と定める。
⑥攻撃を受けた国とは別の国の領域を自衛隊が通る場合はその国の許可を得る。
 以上が集団的自衛権を行使できるようにするために憲法解釈を変更ができる条件ということだ。果たしてこの6条件を付けることで、憲法解釈の変更ができるのか。できるとしたなら、憲法改正の必要はなくなる。憲法改正の目的は9条の変更にあるのだから。それでも憲法改正をするというなら、報告書に書かれた6条件以上の軍事的行動にも自衛隊が出られるようにすることを意味する。そんなことを国民が認めるわけがない。いったい国民投票法改正案は何のために成立させたのか、と言いたい。
 集団的自衛権についての従来の政府見解自体が間違っていることは一応置いたとしても、○○省○○局の幹部官僚が「従来の政府見解(国会での政府答弁)を変更し、変更したことすら国民に説明していない」ことを認めている集団的自衛権の新解釈に基づいて、「憲法解釈の変更を可能」にしてまで集団的自衛権の行使を容認させようというなら、改正国民投票法に基づいて、国会で可決しても、国民投票によって国民の総意を問うのが筋だ。なぜなら、事実上の憲法改正行為に当たるからだ。
 民主主義、とひと言でいっても、制度は国によって異なる。北朝鮮ですら正式な国名は「朝鮮民主主義人民共和国」なのだから。
 日本の場合、「民主主義国家」を標榜しながら、政党政治は民主主義的ではない。国会での決議を行う際、政党は所属議員に「党議拘束」をかけるからだ。いったん党内の議論を経て決めたら党の決定に従え、というのは党内の独裁体制を担保するシステム以外の何物でもない。党の決定に従えない場合は、国会での決議の際に退席するしかない。反対票を投じたら除名されるからだ。
 自民党内部でも、まだ安倍総裁の強引さに反発は強い。だが、堂々と批判できるのは、選挙の際、党の支援がなくても地元民の支持が高く当選確実な野田聖子総務会長のような議員だけだ。それで、民主主義を守る政党と言えるのか。
 念のため、安倍総理がベッタリズムのアメリカでは、民主党も共和党も、上院・下院ともに議会での投票は議員の個人的判断にゆだねている。
 
 

安倍総理=黒田日銀総裁ラインの金融政策で「脱デフレ」は本当に成功しつつあるのか①

2014-05-09 06:31:40 | Weblog
 日銀・黒田総裁が大型連休の合間の5月1日、「脱デフレ宣言」とも言える物価見通しを発表した。前年比2%の物価上昇率という目標を、2015年度にほぼ達成できるとの見通しを述べた。
 が、本当にそうだろうか。
 黒田総裁が安倍総理とのタッグマッチでデフレ脱却に取り組みだしたのは、アベノミクスの「三本の矢」と称される財政出動・金融緩和・成長戦略を金融面で支えることが狙いだった。とくに日銀の金融政策に、安倍総理は大きな期待を寄せた。
 日本経済は「失われた20年」と言われるデフレ不況に苦しみ続けた。
 デフレの原因はいろいろある。が、安倍総理は「円高」一本にデフレの原因を絞った。そのため日銀に金融緩和と為替相場への「円売り介入」を求め、黒田総裁はその要請にこたえてきた。
 日銀は本来政府から独立して独自の景気判断で金融政策を決める権限を与えられている。黒田総裁も、さすがに「安倍総理の言いなりになって金融政策を決める」などと発言したことはない。が、「金融緩和・為替介入→円安誘導→2%の物価上昇率実現→デフレ脱却」という金融政策のシナリオ設定はアベノミクスに完全に沿ったものだった。
 確かに安倍=黒田ラインによる強い「円安誘導」方針は一時的に効果を発揮した。ヘッジファンドが一斉に「ドル買い円売り」に動いたからだ。ヘッジファンドとは富裕層や機関投資家から資金を集めてハイリスク・ハイリターンの運用を行う投資組織を言う。
 本来為替相場は貿易による実需で動くとすれば。そう極端に変動することはない。超インフレに悩む新興国などは(新興国のすべてがそうだと言っているのではない)、毎日のように自国の貨幣価値が下落するが、そうした国の通貨はヘッジファンドにとってこれほど確実でおいしい通貨はないということになる。もっとも新興国の通貨の多くは米ドルに対する固定相場制を採用しており、新興国の通貨が暴落すれば自動的に米ドルが売られて安くなる。
 一時日本が高度経済背長を続けていた時代には、日本政府は日本円も貿易決済の通貨にしようと試みたことがあるが失敗に終わっている。日本円が米ドルと並んで為替の指標の一つになるということは、現在原則として国際間の取引は米ドルを自国の通貨にしていない国との取引も円で決済することを意味しており、為替を自由化している国にとってはきわめて不都合な結果になりかねないからである。GDPでアメリカに次ぐ世界第2位に昇り詰めた日本政府の驕りでもあった。
 当時は円高が急速に進み出した時代でもあった。1985年9月、ニューヨークのプラザホテルに日米英仏独の先進5か国の財務担当大臣・中央銀行総裁が集
まり(日本からは竹下蔵相と澄田日銀総裁が出席)、一つの合意事項を決定した
(最初のG5)。この年、アメリカは71年ぶりに純債務国に転落するのだが、疲弊しきった国際競争力を回復させるため、各国中央銀行(日本は日銀)が為替相場に協調介入して、ドル高是正に取り組むことにしたのである。
 このプラザ合意を契機に、怒涛のように円高が進みだす。各国中央銀行がドル安誘導のため、GDP世界2位に躍り出た日本の通貨・円を狙い撃ちにするような円買いに出動したかるである。その結果、プラザ合意後の2年間で円相場は1ドル=240円から1ドル=120円に跳ね上がった。その為替危機を日本は何とか乗り切った。輸出産業は国内での販売価格を据え置いたまま、輸出製品については為替相場を反映させずにダンピング輸出によって為替障壁を乗り越えたからである。円の相場は倍になったのに、アメリカでの販売価格は自動車でせいぜい15~20%、電気製品に至ってはプラザ合意以前より安くなった物さえあった。アメリカにほとんど競争相手がいなかった高級カメラや時計でさえ、値上げ率は3割がいいところだった。まだ日本の輸出産業界が生産拠点の海外移転を始める前だったのにである。
 その結果、妙な現象が生じだした。自動車も電気製品もカメラや時計も、日本で買うよりアメリカで買った方が安いという“逆内外価格差”が生じたのだ。マスコミの一部が「おかしいぞ」と問題にし始めたのはヨドバシカメラがアメリカから「逆輸入」(いったんアメリカに輸出した製品を、アメリカで買って日本に輸入する行為)したカメラやフイルムを廉価販売し始めたからであった。そのころ私は大手カメラメーカーのトップを追及したことがある。
――日本製のカメラが、東京のディスカウント・ショップ(※当時は「量販店」という業態の名称はなかった)で買うよりニューヨークで買った方が安いということはどういうことなのか。ダンピング輸出ではないのか。
 カメラメーカーのトップはこう反論した。
「私どもとしては、アメリカには競争相手がいないから、円高をそのまま反映させてもいいのだが、そうするとアメリカの消費者の購買限度力を超えてしまう。3割の値上げというのはギリギリなのです。ダンピング輸出を問うなら、自動車や電機でしょう。カメラ業界の責任を問うのはお門違いというものです」
 為替レートの決定要因にはいくつかの要素があり、複雑に絡み合っているが、その要素の一つに「購買力平価」という指標がある。たとえば1ドル=100円の為替相場としたら、日本で1000円で売られている商品はアメリカでは10ドルだったら合理的な販売価格ということになる。が、日本で1000円の商品がアメリカでは5ドルで販売されていて、しかもその商品が日本製だったとしたら、それは“ダンピング輸出”によると断定せざるを得ない。当然、アメリカ産業界、とくに自動車産業はさらに苦境に追い込まれ、デトロイトで日本車に火をつけたり、ひっくり返してハンマーで叩き壊したりといった、最近は中韓ですら見られないようなジャパンバッシングの嵐が吹きまくった。
 そうしたさなかにNHKは歴史的番組を作る。プラザ合意から半年あまりのちの86年4月26日(土)、27日(日)28日(月)の3日連続で計5時間25分に及ぶ『世界の中の日本――アメリカからの警告』と題する番組である。各回のタイトルは「アメリカは何に怒っているのか」「日本のここが問題だ」「国際国家への日本のシナリオ」である。この番組を企画したのが報道局長というラインの仕事から解放されてキャスターとして現場に戻っていた磯村尚徳氏である。氏は1991年、都知事選出馬のためNHKを退職した。
 磯村氏がこの番組を企画したのは、日本でも話題になったセオドア・ホワイト氏がニューヨーク・タイムズに掲載した『日本からの危機』という、日曜版のカバー記事を読んだことがきっかけだったという。ホワイト氏はケネディ大統領の誕生までのプロセスを克明に追った『大統領への道』でピューリッツァー賞を受賞した大物ジャーナリストである。氏はこう書いた。
「第二次世界大戦後40年を経た今日、日本はアメリカの産業を解体させつつ、再び市場で最も果敢な貿易攻勢を行っている。彼らがただの抜け目のない人種にすぎないのか。それともアメリカ人より賢くなるべきことをついに学んだのかは、今後10年以内に立証されるであろう。そのときになって初めて、第二次世界大戦の究極の勝者が誰であったのかを、アメリカ人は知るであろう…」
 このホワイト論文を読んだ磯村氏は、軽井沢の別荘で夏休みを過ごしていたときだったという。彼はそのときのショックをこう語った。
「私はこのホワイト論文を読むうち、日本の進出に対するアメリカの苛立ちがとうとうここまで来たか、という思いに襲われた。ゴルフに行けば、レストランでソニーの盛田会長をはじめ財界人たちが、ホワイトまでこういうことを言いだすようでは大変なことになると危機感を口にしていた。それまでは選挙での票目当てに日本批判をする議員たちもいたが、米東部のエスタブリッシュメントの良識を代表するようなホワイトまでが、このようなあからさまな反日感情むき出しの記事を書いたことにショックを受けたのが、番組制作の基本的視点になったことは間違いない」
 私はアメリカでのジャパンバッシングがメディアを賑わし始めたころ、松下電器産業(現パナソニック)の谷井昭雄社長(当時)にインタビュー(対談に近い)をしたことがある(記事は『宝石』88年10月号に掲載)。当時アメリカから「日本はダンピング輸出をしている」と日本の輸出メーカーへの批判が続出、告訴まで相次いでいた。日本サイドは「ダンピングではない。合理化努力によってコストを引き下げることに成功した結果だ」と反論していた。私が谷井氏にインタビューしたのはそういう時期だった。さわりの部分だけ引用しておこう。

――それにしても、アメリカの主張が自分勝手であるとないとを問わず、ここまで弱ってきたアメリカ経済の回復に日本の企業も手を貸してやる必要があるのではないか。具体的には、円が高くなったら、その分アメリカでの販売価格をアップして、アメリカ製品の競争力を回復させてやることです。どのみち、アメリカだって日本製品を一切輸入せずにやっていけるわけはないんですから。
 それなのに、”合理化努力”によって円高効果を灰にしてしまったのが日本メーカー。しかも、日本国内では値下げしていないんですから、アメリカがダンピング輸出だと怒るのは当り前です。
 特に自動車業界と家電業界、自動車ならトヨタとか日産、電機なら松下とか日立といった大メーカーの経営者はその点を自覚すべきだと思うんですが。
谷井 いまおっしゃったなかで、もちろん同感なところもあります。ただ、国によって価格差があるという点ですが、一時的には確かにあります。しかし、これは異常な為替の結果だと思うんですよ。日本でつくっている製品が、船で運んだ国で安く、むしろ日本では高いじゃないかと、(日本の消費者は合理化によるコストダウンの)恩恵を受けてないじゃないかと。一部、現象的にはそういうことは否定しませんけどね。急速な為替のしからしめた結果というのは、非常に大きいと思うんですね。
 もちろんそのままで許されるわけじゃありませんし、また決して我々は専売公社ではありませんから、自ら決めた価格が堂々と通るわけじゃない。いわゆる価格というのは、決してメーカー単独で決められるものじゃなく、リーゾナブルな、社会から受け入れられる相場というものがあるわけですからね。先ほど小林さんがおっしゃったことも事実。そういうものと企業努力とをどのように合わせていくかというのが…。だけど、そういうアンバランスが一部出たということの、いちばん最大の原因というのは、急速な為替の変化であるわけです。
 そういうことからいくと、ある面では、円は決して高くない、ということは、それほど日本の各輸出メーカーが大きな利益を上げているでしょうかと、一部のメーカーさんはともかくとしてね。全体に、たとえば経営の中身と、今日、回復したとはいうものの、G5以前と比べて、日本の企業が非常に高い水準の利益を上げているということではないと思うんですね。
 そういう面から行きますと、メーカー独断というか、横暴では決してないというふうに私は思っています。
――また、円高が仕組まれた目的はアメリカ産業界の回復にあったわけで、少なくとも日本もそれに協力すると約束したわけですから…。
谷井 僕がさっき申し上げたのは、一番目のお話(日本の消費者に対する加害者の点)で、三番目のアメリカ産業界の競争力を高める点については、「それはあなた方の間違いだったんですよと批判するだけでは、この問題は済まない」とおっしゃる。これはまったく同感です。
 もうそういうことを言う時期は過ぎたし、そういうことを言えば言うほど、むしろ溝は深まると思うんですね。私は、たとえそうではあっても、日本側としてはそれを言うべきじゃないと思います。やはり過去の歴史でも、日本が非常に苦しいときに大いに援助してもらったこともあるわけだし、また自由諸国の中の一国としての役割もあるわけですから、決して日本のエゴ、企業のエゴだけではこれからはやっていけないと思っています。
 
 残念ながら今日は予定があって、ここまでで止める。続きは明日書く。
 

日米のきしみの本当の理由は何か?--単眼思考では分からない。⑦(最終回)

2014-05-08 06:09:01 | Weblog
 今日でこの長期の連載ブログを終えたい。読者の方たちの「目からうろこが落ちる」話でシメるつもりだ。
 個別的自衛権すら行使できないのに、集団的自衛権の行使容認どころではないだろう――という指摘を論理的に行う。「お前らアホと違うか」という怒りをぶつける。
 日本が抱えている領土問題は、これまでのブログでも述べてきたように、相互に「領土問題は存在しない」と取り合わないケースも含めて三つある。
 その三つとは、竹島(韓国名「独島」)、尖閣諸島、北方領土、である。私は日本人だから、いちおうすべて日本に領有権があると考えている。が、「盗人にも三分の理あり」ではないが、領有権についてもそれぞれの国の言い分がある(客観的に考えても、言い分に合理性がまったくゼロのケースもある)。
 まず竹島からいうと、確かに過去、韓国が実効支配していた時期はあったようだ。今はウィキペディアから削除されているが、以前調べたときは囚人の「島流し」(幽閉地)の島として韓国が利用していた歴史的事実があったようだ。
 また、尖閣諸島については明清の時代に中国は事実上の属国だった琉球との往来に尖閣諸島を目印にしていたことも古文書によって確認されている。
 この二つのケースと北方領土のケースは別の要素があるので、一緒に考えるわけにはいかない。
 まず、権利の確定と喪失を、どの時点を基準にすべきかを、純粋に論理的に考えてみたい。
 竹島については、過去囚人の幽閉地として韓国が利用していたことが歴史的事実であったとしても、その後、韓国は自らの意志で利用をやめている。つまり実効支配を相当過去に放棄している。
 日本は江戸時代に、漁師が休憩地あるいは避難地として竹島(当時の呼称は「松島」)を利用していた。竹島の利用は日本の方が後と思われる。
 1894年になって、朝鮮で内乱が生じた。その内乱に乗じて日本が朝鮮に出兵し、当時はまだ朝鮮の宗主国だった中国(清政府)と激突、日清戦争が勃発した。すでに明治維新以降に産業や軍事力の近代化を急速に進めていた日本は日清戦争に勝利し、清から遼東半島・台湾・澎湖列島を獲得した(その後、日本の急速な台頭を懸念した露・仏・独の三国干渉によって遼東半島は返還している)。韓国は「日清戦争のどさくさに紛れて日本が独島を不当に奪った」と主張しているが、竹島は遼東半島や台湾には付属していず、台湾の西南約50㎞に位置する澎湖列島にも竹島は含まれていない。
 日本が竹島を日本領土として正式に閣議決定し、島根県の付属島にしたのは日清戦争から10年も経た1905年であり、無人島と確認したうえで領有権を確立している。こうした経緯から考えても、竹島に対する韓国の領有権の主張の
口実は「こじつけ」にもならないと考えるのが合理的である。
 しかし韓国は1953年、マッカーサー・ラインの廃止に伴って李承晩ラインを国際的承認を得ず勝手に設定、竹島を武力行使によって占領し、以降武装警察官が多数常駐して実効支配を続けている。日本は国際司法裁判所で領有権についての裁定を韓国に要求しているが、国内における裁判と異なり、国際司法裁判は当事国双方が裁判で解決することに同意しなければ、裁判を行うことができないことになっている。そして韓国は国際司法裁判所で争うことに同意しない。もし同意すれば、韓国に不利な裁定が下ることがわかっているからだ。
 こうした場合、国連安保理が国連憲章41条による非軍事的措置を行使するか、42条の軍事的措置を行使して紛争を解決しなければならないことになっているが、まずアメリカが拒否権を行使することがわかりきっているから、日本も安保理に訴えていない。国連安保理が41条の行使も42条の行使も行わない場合、国連加盟国は国連憲章51条によって個別的自衛権の行使、つまりこのケースの場合は自衛隊の実力行使による竹島奪還を認めている。
 なのに、なぜ日本は実力行使に出ないのか。私は4月23日午後3時30分に○○省○○局に電話して聞いた。電話に出てくれたのは集団的自衛権問題担当の幹部官僚である。私は「なぜ日本は実力行使ができる権利があるのに、国連憲章が認めている個別的自衛権を行使しようとしないのか」と聞いた。
「そういう声があることは承知していますが、日本は平和的に解決するための努力をしていますので」
「竹島が韓国に武力占領されてから60年になる。いったいあと何年平和的解決の努力を続けるのか。100年か、200年か。香港やマカオの租借権ですら99年が限界だった」
「……」
「そりゃ、答えられないよね。日本が個別的自衛権を行使して実力で竹島を奪還しようとしたら、アメリカが待ったをかけるからな。どうして本当のことを言わないのか」
「……」
「では竹島問題はいい。どうせ○○省が取り返す手段について勝手に決められるわけではないから。が、個別的自衛権すら行使できないのに、なぜ集団的自衛権は行使できると政府は考えているのか」
「……」
 このあと○○省○○局の本音を私は引き出すことに成功した。なぜメディアは政治家の発言ばかり追いかけて、肝心の行政機関の○○省が集団的自衛権問題について省内でどういう議論を交わしているのかに関心を持たないのか。メディアの無能さの証左である。
「竹島問題から離れる。政府の集団的自衛権についての従来の見解は『自国が攻撃されていなくても、密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃さ
れたと見なして実力を行使する権利』というものだったね」
「はい」
「そんな権利が国際法上認められているかどうかは別にしても、いま政府は従
来の集団的自衛権についての見解を変えていますね」
「そうです」
 私はびっくりした。まさか○○省○○局の幹部官僚がいとも簡単に私の主張を肯定するとは思ってもいなかったからだ。言っておくが、共産党政策局の担当者すら私の主張を否定し「もっと勉強しなさい」といきなり電話を切られたくらいで、メディアも安倍総理がこそこそと集団的自衛権についての定義を変更までしながら、行使容認を憲法解釈変更で可能にしようとしていることを政府の行政機関、しかも直接関係する○○省○○局の幹部官僚があっさり認めてしまうとは、私にとってはまったくの想定外だった。
「これほど重要なことを政府は国民に説明していませんね」
 間髪を入れず、○○省○○局の官僚はこう答えた。
「その通りです」
「分かりました。それで結構です」
 これ以上私はこの問題について○○省の幹部官僚を質問攻めにするのはやめることにした。おそらく国連憲章51条で規定している「自衛権」についても、私の解釈を肯定するだろうことが分かったし、もしそういうやり取りにまで発展したらその方が政府から弾圧を受けることになることは当然考慮しなければならない。メディアが○○省を取材して○○省の集団的自衛権についての認識をスクープしても、政府は当事者に手を出すことはできないだろうが、私にはその官僚を守る手段がない。私が情報源を秘匿するのは初めてだが、今回は重大なリアクションが予想されるので情報源を秘匿させていただく。
 私はこの方とのやり取りで感じたことは個人的見解ではなく、省内でさんざん議論をして出した公式見解だと思っている。そう判断したのは、竹島問題では私の質問に沈黙したのに、集団的自衛権問題については「個人的な見解」とも限定せず、しかも一瞬の間も置かず、間髪を入れずあっさり肯定したからだ。こうした場合、省内での相当程度の地位にある官僚の共通認識になっていると考えるのが合理的である。

 集団的自衛権問題について最後にまとめておきたい。今回は、あまりにも長
期にわたる連載ブログだったので、何が問題なのかを改めて整理しておきたい
と思う。
 まず国連憲章51条が、なぜ作られたのかを振り返ってみたい。
 この条項が作られたのには、当然それなりの理由がある。国連憲章は、まず大原則として加盟国が国際紛争を武力によって解決することを禁じている。もし紛争が生じたときは平和的な解決をすることを加盟国に求めている。が、加盟国が、他国から武力による侵害を受けないという保証はない。
 実際、かつて「永世中立」を宣言して、国際会議で承認されても軍事侵略され、占領までされたケースが過去にあった。「永世中立」は、歴史的にもかなり古くから国際法に存在していた。国際法で承認される「永世中立」は複数の国の同意が必要とされ、同意した国は永世中立国の防衛義務が生じるというのが国際法の基本的原則である。その代わり永世中立を宣言した国は自衛のため以外に武力の行使は認められないという原則もある。
 しかし、ロンドン条約(1839年)によって永世中立が承認されたベルギーとルクセンブルグは第1次世界大戦時にドイツ帝国の侵攻を受け、ベルギーは国土の大半を占領されながら「草の根」抵抗によってかろうじて独立を維持できたが、非武装だったルクセンブルグは全土が占領された。さらに両国は1940年にもナチス・ドイツに侵攻され両国とも占領された。こうした苦い経験からベルギーは戦後に中立政策を放棄、ルクセンブルグもNATOに加盟して事実上中立政策を放棄した。結局「永世中立」を宣言して他国の侵害を受けなかったのはスイスだけで、スイスが他国による侵害を免れ得たのは国民皆武装体制で自国の防衛を国民全員に義務付けてきたからである。
 つまり「永世中立」を宣言し、国際的な承認を受けても、承認した国が永世中立国の防衛義務を果たさなかった歴史的経験に基づいて、国連憲章は国際紛争を武力による解決を禁じながら、当事国間や国連の機関(国際司法裁判所など)での話し合いによる平和的解決ができなかった場合も想定し、国連の安全保障理事国に国際紛争解決のためのあらゆる権能を与えることにした。
 それが憲章41条の「非軍事的措置」と42条の「軍事的措置」である。41条では外交関係の遮断や経済封鎖、スポーツも含むあらゆる国際的イベントからの締め出しといった「村八分制裁」に至るまで、あらゆる権能を国連安保理が持っている。それでも紛争を解決できなかった場合、やむを得ず「軍事的制裁」によって紛争を解決するためのあらゆる権能を国連安保理に与えたのが42条である。極端な話、原爆を投下することも国連安保理はできることになっている。ただし、この条項は「国連軍」を想定している。が、1945年6月26日にサンフランシスコ会議で51か国(国連の原加盟国)が署名して国連憲章が発効して以降、「国連軍」と言えるのは第二次世界大戦における対枢軸国(日独伊)の「連合国軍」のみである。
 ついでのことに、国連(国際連合)は国連憲章に基いて第二次世界大戦が終
了した後の1945年10月24日に設立されたが、国連憲章は戦時中に作られた
ため53条と107条に枢軸国を対象とした、いわゆる「敵国条項」がいまだに残っており、憲章上では日独伊3国は国連に加盟できないはずである。また国連の原語(英語)はEnemy Clausesであり、正しい翻訳は「連合国」(対枢軸国の国家連合)で、「国際連合」という日本語は意図的な誤訳という学説もある。
 いずれにせよ、国際紛争を当事国が平和的に解決できなかった場合、国連安保理が非軍事的または軍事的措置に関するあらゆる権能を付託されているが、実際にはその権能を安保理が行使したことはない。それはこれまで何度も述べてきたように、国連安保理15か国のうち第二次世界大戦の連合国(米英ソ中)に仏を加えた5か国が常任理事国として拒否権を持ち、いかなる国際紛争の解決手段に関する決議も、いずれかの常任理事国が拒否権を行使してきたからである。
 日本が竹島の奪還を安保理に要請しても、絶対に常任理事国の一か国が拒否権を発動することがわかりきっているからだ。言うまでもなく、拒否権を行使する国は日本の「同盟国」アメリカである。日本にとってアメリカが「同盟国」ならば、韓国にとってもアメリカは「同盟国」であり、その逆もまた真なりである。そういう日米、米韓、日韓の関係について安倍総理は分かっていないのか、私には不思議で仕方がない。そもそもオバマ大統領が自ら乗り出して冷え切った日韓関係の修復を図ろうとしたことが、どういうことを意味するか、メディアも理解していない。
 アメリカでは歴代、国務長官が外交の表舞台に立つ。異例はキッシンジャーだった。ニクソン大統領に信頼を受けて大統領補佐官に就き、国務長官を尻目に、日本の頭越しに中国との歴史的和解の道筋をつけ、さらに中国との関係改善を外交カードに、北ベトナムを交渉の場に引きずり出し、ベトナム戦争終結への道筋も付けた。その功績でキッシンジャーはノーベル平和賞を受賞する。
 国務長官のメンツをつぶしてまでオバマ大統領が日韓関係の修復に直接乗り出したのは、海洋進出の脅威を強めつつある中国に対する防波堤として日米韓の連携が崩れかねないことに重大な危機感を抱いたからだ。しかも憲法の制約に阻まれていざというとき頼りにならない日本と、頼りにできる韓国と、いまどちらを重要視すべきかはアメリカの国益を左右しかねない重要な問題である。大統領自らが足を運んだのも、安倍総理がアメリカにとって頼りになる国への志向を強めようとしているからにほかならない。
 少なくとも韓国は、米艦隊が南シナ海方面で航行中に万一他国から攻撃されたら、直ちに米艦隊の支援体制に入る。それは集団的自衛権の行使ではないが、同盟国の義務として軍事行動に出る。日本は韓国と同様な態勢に入れない。そうしたのはアメリカだ。言うなら日本が「同盟国」が攻撃されても知らんぷりをしろとしたのはアメリカなのだから、そういう結果になったとしてもアメリカの自己責任のはずだ。
 オバマ大統領はそのことが分かっていても、アメリカ国民はそう理解してくれない。アメリカ人にとって日本と韓国のどっちが万一の場合「同盟国」としてアメリカと軍事行動を共にしてくれるかを見ている。だから、たとえオバマ大統領が竹島は日本の領土だという認識を持っていたとしても、韓国に「竹島を日本に返せ。返さないと日米安保条約に基づいて日本が軍事行動に出て、集団的自衛権を行使してアメリカに軍事的協力を要請されたら、自衛隊と共同で竹島の不法占拠を阻止する」とは絶対に言えない。もしオバマ大統領がそういうスタンスを打ち出した途端、オバマ政権は崩壊する。はっきり言って、アメリカにとっては日本より韓国の方が重要な「同盟国」なのだ。
 そういう視点で「尖閣諸島は安保条約5条の適用範囲だ」というオバマ大統
領のリップ・サービスの意味を考えると、その発言は日本に向けた顔ではなく、中国に向けた顔、つまり中国に海洋進出に対する牽制球程度の意味しか持っていないことが、もうそろそろ分かってもいいころだと思う。
 では、日本はどうすればいいのか。
 まだ私が1月22日から3日連続で投稿したブログ『安倍総理の憲法改正への意欲は買うが「平和憲法」が幻想でしかないことを明らかにしないと無理だ』を読んでいない方は、是非読んでいただきたい。きっと目からうろこが落ちる。私は「憲法論議」の最高峰を成す主張だと自負している。私の憲法論を論理的に否定できる人は、たとえ共産党員にもいないはずだ。
 
 以上で、長期にわたった今回の連載ブログを終える。最後に昨日のブログで書いた子供の論理的思考力について書き加えておきたいことがある。野球の話である。野球がわからない人は多少野球を知っている人に聞いてほしい。
 野球では3バントが失敗すると三振というルールがある。まだ野球のことをよく分からない子どもは、このルールを知ると、たとえば親に「なぜバントを3回失敗すると三振なの? 空振りしたわけでもないのに」と疑問をぶつけるかもしれない。これが論理的思考力の出発点である。その思考力に磨きをかけられるかどうかでその子の将来が決まると言っても過言ではない。
「そういうルールになっているから」と親が答えたら、その子の将来を台無しにしてしまう。答えは分からなくてもいい。私も分からない。ひょっとするとネット検索で、どういう経緯でそういうルールが作られたのかが分かるかもしれないが、私には興味がないから調べたいとも思わないが、なんとなくの想像だが、野球の黎明期にバント・ファウルで相手投手を疲労させるという戦術が流行した時期があったのではないかという気がする。アメリカはフェアである
ことを世界で一番重視する国だ(ただし、この価値観は国内だけのもの。海外
に対してはこの価値観は適用していない)。この想像は間違っているかもしれないが、私の知識の範囲で論理的に考えたら、そういう理由もありうると思う。これが、最後まで読んでくださった方への私からのささやかなプレゼントだ。

 ここまでは4月末に書いた文章である。ところが、昨日(6日)事態が急変した。急変したことを伝えたのはNHKのニュース7である。来週にも出される安保法制懇の報告書の内容が分かったというのである。ニュース7によれば、報告書は集団的自衛権についてはまったく触れず、「グレーゾーン」とされるケースについて個別の自衛権行使についてのみ書かれているという。具体的には日本の領海内に他国の潜水艦が侵入した場合や日本の漁船が他国から攻撃された場合、水上警察や海上保安庁では対応できない。どういうケースなら海上自衛隊が実力を行使できるのか、といった個別的自衛権の行使の許容範囲についての報告のようだ。この報道にNHKはかなりの時間を割いた。
 そもそも安保法制懇は、「自国(※もちろん日本のこと)が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国(※もちろんアメリカのこと)が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」という従来の政府答弁に基づく集団的自衛権の行使を、「憲法解釈(※もちろん9条のこと)を変更して容認できるような屁理屈を考え出させる」ために安倍総理が設けた私的懇談会だ。
 安保法制懇の報告書の内容についてはメディアが情報源を秘匿して(情報源を明らかにできない理由の説明がない「スクープ」は、そもそも怪しいのだが)様々に報道してきた。ニュースとしての信頼性が最も高いのはNHKなので、急きょNHKの「スクープ」をこの連載ブログの最後に付け加えようと思い、スカパーでプロ野球を見た後「NHKオンライン」でニュース検索をした。が、そのニュースが消えている。なぜか。考えられるケースは二つしかない。
 一つは誤報であったことが判明した場合。が、誤報であるケースは考えにくい。誤報だったら、NHKに電話したとき説明してくれている。NHKの責任者は、一切説明を拒んだ。
 実は私は安保法制懇は、結局報告書を出さずにうやむやなまま解散に至ると考えていた。その理由は、これまでのブログで、従来の政府答弁自体が国連憲章51条の誤解に基づいて作成されたことを私は明らかにしてきた。その指摘に屈服した安保法制懇と安倍総理は従来の政府答弁を変更して、限定容認を可能
にする「憲法解釈の屁理屈を考え出す」ことを安保法制懇に要請する方針に変
えた。が、そのもくろみも私がことごとく粉砕してきた。従来の政府答弁を変更しようとどうしようと、現行憲法下で集団的防衛体制に日本が参加することは絶対に不可能である。
 私自身は、国民の総意の下で、現在の日本が国際社会で占めている地位にふさわしい国際の平和と安全に責任を果たせるような憲法を制定すべきだと考えている(従来の「改憲論」とは違う)。が、占領下で、主権のない状態において制定された現行憲法は、主権を回復した時点で法的に無効になっていなければならず。そのまま存続した状態を放置してきた自民党政府が国民に説明責任を果たさず、憲法解釈の変更によって「集団的自衛権」なるものの行使を可能にしようというのは、1億2000万の国民を愚弄した行為と断定して差し支えない。
 さすがに安保法制懇は、私の指摘によって安倍総理の意図に応えることは不可能と考えた――そこまでは私の読み筋だった。が、集団的自衛権についてまったく触れず、個別的自衛権行使の許容範囲のケースにテーマをすり替えるといったことまでは、まったく想定していなかった。そういうケースを想定することは常識的に不可能だ。だからNHKのスクープは誤報ではない、と私は思う。
 ではNHKオンラインから消えた理由として考えられる二つ目は何か。NHKに何らかの筋から圧力がかかったと考えるのがジャーナリズムの常識である。圧力がかかったということが、この報道が誤報ではなかったことを意味する。それもジャーナリズムの常識である。
 そう考えると、安保法制懇は、来週、報告書をおそらく出さない。というより出せない。報告書がNHKの報道どおりだったら、その報道がNHKオンラインから消えた理由が問題化するのは必至だからだ。NHKの報道局の責任者のクビは間違いなく飛ぶ。問題発言を指摘されてきた籾井会長の責任も免れない。
 そもそもNHKは数度にわたるNHKの安保法制懇の位置付けについて問題があるとNHKに直接伝えてきた。NHKが一貫して「政府の有識者会議」とオーソライズしてきたからだ。この日のニュースでは、字幕スーパーからは「政府の」というオーソライズした冠は消えた。が、アナウンサーは2度にわたり「政府の」という冠を付けた(つけなかった時もあった)。報道局自体が混乱しているようだ。権力闘争の反映かもしれない。が、私はスキャンダルには興味ない。なお野球放送とこのブログのためニュースウォッチ9は見ていないが、おそらく安保法制懇の報告書についての報道はしなかったはずだ。
 
 


日米のきしみの本当の理由は何か――単眼思考では分からない⑥

2014-05-07 05:40:17 | Weblog
 あらかじめお断りしておくが、今日(6日)と明日投稿する連載ブログの6回目と7回目(最終回)はゴールデンウィークの前半にすでに書き終えていたものである。当初私はゴールデンウィーク中はブログ投稿を休止するつもりだった。が、ゴールデンウィーク中にもさまざまな集団的自衛権を巡る動きが活発化し、メディアも「憶測」(合理的ではなく、かつ根拠を明示しない推測を「憶測」という)を流し続けたので、やむを得ず随時、臨時的にブログを書いてきた。その結果、今日と明日のブログの根拠としたメディアの情報は、今となっては多少古くなってしまった感は否めないが、それはそれとして私の主張を裏付ける動きが反映されている確たる証拠にもなると思うので、一切手を加えずそのまま投稿することにした。そのことをお含みの上お読みいただきたい。

 案の定、私がゴールデンウィークに入る前日の4月25日に投稿したブログ『日米のきしみの本当の理由は何か――単眼思考では分からない⑤』で書いた懸念が早くもアメリカで表面化したことが日本経済新聞の4月25日付朝刊記事で明らかになった。私は25日のブログで、オバマ大統領が「尖閣諸島は日米安保条約第5条の適用範囲に入る」と明言したことに一定の評価はしたうえで、「が、日本にとってものすごく有利な言質をオバマ大統領から取り付けたと考えていたとしたら、お人好しもいいところである」と書いた。そのあと、こう続けた。
「この条項(※安保条約第5条)を読んで、日本が第三国から攻撃された場合、アメリカが日本を防衛する義務が自動的に生じることを明記したものと、素直に解釈できるだろうか。(中略)オバマ大統領はヘーゲル国防長官の発言をオーソライズしたに過ぎないと考えざるを得ない。あまり有頂天になっていると、とんでもないことになりかねない」と。
 このオバマ大統領の発言が、当然アメリカで問題化した。米CNNテレビのホワイトハウス担当記者の質問に答え、オバマ大統領は「日米安保条約は私が生まれる前に結ばれた。私が越えてはならない一線を引いたわけではない。これはこれまでの政権の解釈だ」と述べた。さらにオバマ大統領は「安倍首相にも申し上げたが、事態をエスカレートさせるのではなく、日本と中国は信頼醸成措置をとるべきだ」と付け加えた。日本経済新聞はオバマ政権の過去のケースについてこう解説している。

 2010年に北朝鮮が韓国の延坪島を砲撃したときオバマ氏は集団的自衛権を行使して反撃せず、韓国に自制を促した経緯がある。オバマ氏の尖閣安保適用発言と、共同文書への明記が米国の軍事行動に直接結び付くわけではない。
 環太平洋経済協定(TPP)で果実を得るためには言葉だけで「貸し」を作ることができたら、お安いご用――。(中略)オバマ氏の発言は中国への対応を「弱
腰」と批判する米国内の保守派向けとの見方もある。一皮むけば、微妙な日米
関係と、危うい尖閣問題が改善されていない現状が浮かび上がる。

 日本のメディアの思考レベルを象徴するような記事だ。別に日本経済新聞だけを批判しているわけではない。日本経済新聞はオバマ大統領の尖閣発言に対する米国内の受け止め方をフェアに紹介しただけ他のメディアに比べればかなり良心的な方だ。米国内の反応をまったく紹介しないメディアがほとんどだからだ。
 改めて言っておくが、私は首脳会談の内容を新聞朝刊が報道した25日の早朝に投稿したブログで、このブログの冒頭で転記したように危惧を明らかにしている。しかも、その日のブログの投稿時間を見ていただければわかるが、そのブログを投稿した後外出している。どの新聞の論説・解説も見ていない。また私が米国の政治家との特殊な情報ルートを持っているわけでもない。ごくごく素直に安保条約第5条を読めば、尖閣諸島に限らず日本が攻撃された場合、アメリカが自動的に日本を軍事的に支援する義務など書かれたものではないことが子どもでも分かるはずだ、何度も繰り返して書いてきたように、アメリカが日本を軍事的に支援するケースは、安保条約の規定にもかかわらず、支援することがアメリカにとって国益になるか、少なくとも国益を害さない場合に限られる。
 日本人の情緒性は、美学としては私も世界に誇るべき精神的規範の一つと考えているが、政治や経済の世界では美学は通用しない。政治や経済の世界を支配しているのはパワー・ポリティクスと計算だけである。その冷厳な事実を素直に認めることから始めないと、いつまでたっても子供のような素直な論理性が身に付かない。子供は、大人が考えている以上に本能的に論理的思考方法を身に付けている。「なぜ、なぜ」と親や教師に疑問を連発するのは論理的に考えようとする脳力を持っているからだ。その能力を素直に育てていくのが、これからの日本を支えてくれる次々世代に対する私たち世代の義務だと私は思っている。が、そういう教育こそが重視されるべきだということを文科省の官僚たちは分かっていない。どうせ社会人になったら忘れてしまってもまったく困らない、くだらない知識(とまで決めつけると言いすぎではあるが)を詰め込むことが学力を向上させる教育だと思い込んでいる。生涯「疑問を持ち続けることができる能力」を育てることこそが、1万の知識に勝る教育効果を生む。
 
 そのことはともかく、竹島・尖閣諸島問題以上にアメリカの国益に振り回されてきたのは北方領土である。この問題は竹島や尖閣諸島問題以上に複雑であり、アメリカを頼りにすることはまったく期待できない。
 いま安倍総理は米オバマ大統領と露プーチン大統領の顔を両にらみしながら
外交のかじ取りをせざるを得ない状態に立ち入っている。日本の国益にとってどういうスタンスをとるべきかの厳しい選択を迫られている。
 日本にとってアメリカは最大の友好国であり、安全保障面でも唯一頼りにできる国だ。実際に有事の際に、どこまでアメリカに頼ることができるかは別にしてもだ。
 一方原発事故の後遺症がまだまだ続くと考えなければならない日本にとっては、ロシアとの友好関係はいろいろな面で好転させる必要に迫られている。シベリアや樺太の資源開発に日本が協力してエネルギー資源の供給先の多様化を図ることは、日本産業界の課題の解決に直結するだけでなく、日本が誇る高度先端技術を売り込むチャンスでもある。実際、ロシアもシベリアや樺太の資源を開発するだけでは意味がない。掘削した資源を商品化するには輸送インフラの整備が不可欠になるし、日本の新幹線技術や土建技術は欠かせない。地中に眠っていたシェールガスの掘削技術はアメリカに先行されたが、本来なら日本が開発していなければならない技術だった。
 私は若いころ何度か米サンフランシスコに遊びも含めて行ったことがあるが、だれも日本人が不思議に思わないのが私には不思議だったが、国土が小さくて平地も少ない日本ならいざ知らず(日本でも、あんな立地に大都市を作ったりしたことはない)、いくらでもだだっ広い平野が広がっているアメリカで、どうしてあんな山を開発して大都市を建設したのか、行くたびに疑問に思っていた。確かにサンフランシスコ湾を見下ろす風光明美な場所ではあるが、サンフランシスコは観光地として開発された都市ではない。
 現にアメリカ人はナイアガラを一望できる場所に大都市を建設したりしていないし、サンフランシスコを除けばアメリカを代表するような大都市はほとんど平坦地に建設されている。
 アメリカ人の発想のユニークさはラスベガス建設にも現れている。あんな砂漠のど真ん中に世界有数の観光施設をつくるといった発想は日本人にはまず生まれない。映画の中心地のハリウッドもそうだ。確かにハリウッドを囲む高級商業施設・住宅街は平たんな土地に建設されているが、ハリウッド自体はサンフランシスコほどではないが、やはり山を削って作った。
 他人と同じことをしていれば間違いを起こさずに済むと考えがちな日本人と、他人がしていることはやらないことをアイデンティティーと考えるアメリカ人との精神的規範の差異が根っこにあるのかもしれない。
 それはともかく、日本にとっていま大きな国益として取り組むべきチャンスが巡ってきていた。日本の技術や資本を必要とするロシアのプーチン大統領が、日本の援助の見返りに北方領土問題の解決に前向きなポーズを示しだしたから
だ。安倍総理がこのチャンスを見逃さなかったのはさすが、と言っておこう。
 安倍総理の集団的自衛権行使を何が何でも容認させようというなりふり構わない政治スタンスに対しては厳しい批判をしてきた私だが、日本の歴代総理の中で彼ほど日本経済の復活のために努力を惜しまなかった総理はいないという点では日本人の一人として深く感謝している。とにかく「日本産業界の営業部長」と呼んでもいいくらいに、安倍総理は海外を飛び回って日本の技術の売り込みにしゃかりきになってくれている。
 消費税増税が景気回復の足を引っ張らないように、経済界に賃上げを要請するようなことまでした。連合を支持母体とする民主党政権すらしなかったようなことまでして、日本経済の足取りを確かなものにしようという姿勢には涙ぐましささえ私は感じている。
 そういう意味ではウクライナ紛争の勃発は安倍総理の想定外の事件であった。否応なくアメリカとロシアの板挟みに置かれてしまったからである。その苦境をどうやって乗り越えるか、安倍総理の真骨頂が問われる事態に直面することになったのだ。朝日新聞の記者の目には、安倍総理が揺らいでいると見えたのは、そのためでもある。

 北方四島(歯舞群島・国後島・色丹島・択捉島)は、国際法上日本の領土であることは疑いを容れない。日本は徳川幕府時代に千島列島を実効支配していた。ロシア人もしばしば千島列島に姿を現し、原住民のアイヌ人と交易したり摩擦を起こしたりしていた。そういう意味では千島列島すべてを視野に入れると日露の混合支配時代と言えなくもない。だからこの時代までさかのぼって領有権を争ってもあまり意味がない。
 やはり北方領土問題は、先の大戦の結果としてロシアに「戦果」として領有権が移ったのかどうかが、国際法上どう判断されるべきかを視点に考えるしかないと思う。
 なお、日本はしばしば「日ソ中立条約を一方的に破棄したのは国際法上違反行為」としているが、確かに指摘が間違っているわけではないが、ソ連の出方は日本政府も織り込み済みであった。年表で先の大戦を検証しておく。

1940年9月27日  日独伊三国同盟をベルリンで締結。
1941年4月13日  日ソ中立条約をモスクワで調印。
    6月22日  独ソ戦争始まる。日本は千島列島への陸海空軍の配備強化。
    12月8日  日本海軍、真珠湾を奇襲、米英に宣戦布告。
1942年11月    独ソのスターリングラード攻防戦が始まる。
1942年1月     ドイツ軍、「冬将軍」により投降。
1945年4月1日   米軍、沖縄本島上陸。
    2月4日~11日  米英ソ三国首脳によるヤルタ会談。
    4月5日   ソ連、日ソ中立条約延長を拒否。
    4月16日  ソ連軍、ベルリン総攻撃を開始。
    4月30日  ヒトラー自殺。5月2日にベルリン陥落。
    7月17日  ポツダム会議(トルーマン・チャーチル・スターリン)。
    8月6日   B29、広島に原爆投下。
    8月8日   ソ連、対日宣戦布告。
    8月9日   B29、長崎に原爆投下。
    8月11日  ソ連、南樺太に侵攻。
    8月14日  日本、ポツダム宣言受諾を米・英・中・ソに通告。
    8月15日  日本、玉音放送で戦争終結を国民に通告。
    8月25日  ソ連、南樺太を占領。
    8月28日~9月1日  ソ連、択捉・国後・色丹島を占領。
 日本では、日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言の方が有名だが、実は北方領土の帰趨を米・英・ソ三国で決めたヤルタ会談の方が北方領土問題を考えるうえでは重要である。というのは、当時重病だったアメリカのルーズベルト大統領が、病のせいで焦ったのか(実際ルーズベルトは2か月後には死亡した)、共産主義国家のソ連・スターリンに対して南樺太・千島列島・満州における権益などの代償を提示してスターリンに対日参戦を要請している。
 スターリンはポツダム宣言の作成に加わり(宣言そのものはトルーマン・チャーチル・蒋介石の連名で日本に突き付けられた)、ソ連が対日宣戦布告をした際にはスターリンもポツダム宣言を追認している。終戦後に、敗戦した日本の旧領土の処理を国際会議で決まられたのならやむを得ない部分もあるが、ポツダム宣言の受諾をソ連にも通告して戦争が終結したのちにもルーズベルトが与えたエサを口実に北方領土を占領した行為は、明らかに戦火を交えて奪った「戦果」ではない。「盗人、猛々しい」とはそういう行為のことだ。
 ただ、日本政府もサンフランシスコ講和条約の締結において、千島列島におけるすべての権利、権原(ママ)および請求権を放棄してしまった。ここでいう千島列島には南千島である択捉島と国後島も含まれ、北海道の付属島である歯舞群島と色丹島は含まれないというのが当時の日本政府の公式見解だった。日本政府はこの公式見解をベースに二島返還を条件にソ連と平和条約締結交渉を始めた。ソ連もそれならと応じ、いったん二島返還で平和条約締結がまとまりかけたこともある。
 が、それでは日本国内がおさまらなかった。日本がサンフランシスコ条約で千島列島の領有権を放棄したことを知らされていなかった国民は、北方四島は日ソ不可侵条約を破棄して戦争終結後に「火事場泥棒」のようにソ連に占領されたという歴史的事実の一部だけを根拠に四島一括返還論が台頭したのである。その結果、日本政府は従来の公式見解を翻して、択捉・国後もサンフランシスコ条約で放棄した千島列島には含まれないと主張を変え、北方領土問題の解決も平和条約の締結も暗礁に乗り上げてしまったのである。
 いま中韓との歴史認識のギャップで日本政府は対応に苦慮している。日本政府のこうした行き当たりばったりの言動も、歴史認識のギャップを生み出していることを国民は知る必要がある。そうでなければ国民が安心して日本のかじ取りを政府に預けられない。
 私は、私のブログの読者は相当程度論理的思考力が高い人たちと思っている。そうでなければ、知識や特殊なルートで入手した情報を根拠にせず、あるいは常識や既成概念に一切とらわれず、しかも政治思想は右でも左でも、また保守でも革新でもない私のブログが、これだけ多くの読者に支えられていることの説明ができない。
 私は、土休日を除いてブログは基本的に毎日書くというお約束を新年のご挨拶の時にした。自転車事故で左手がまったく使えず2週間ほど休止したときはあったが、その期間を除けば私のブログの読者はランキングで5ケタになったことはない。gooブログの閲覧者は200万人超の状態で毎日安定しているが、ブログ投稿を休む土休日でも、休日にまとめて読んでくださる方も多いようで、705位という三桁にランクされたのは偶然だったと思うが、けがが治りブログを再開して以降、4ケタのランキングに入らなかった日はない。「継続は力なり」というが、本当にそのことを実感している。
 また当初はマスコミ関係の読者が大半だったと思うが、集団的自衛権問題や憲法問題をテーマにしだして以降、政治家の読者も増えているようだ。実際、集団的自衛権について、私が従来の政府の公式見解である「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、日本が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」という定義は、国連憲章を精査したうえで私が「集団的自衛権も個別的自衛権も自国を防衛するための手段として国連が認めた加盟国が等しく持っている固有の権利のことだ」と主張し始めて以来、政府はなし崩し的に従来の政府公式見解を事実上変え始めた。「限定容認」論がそれで、「限定容認」論は従来の政府公式見解と完全に矛盾しており、公式見解を撤回しなければ「限定容認」論は論理的に整合性を維持できないことが、少しずつメディアも政治家もわかりだしたようだ。まだ何とかつじつま合わせで乗り切ろうともがいてはいるが、無駄な努力だ。
 今回の連載ブログは異常な長さになった。正直、書きだしたときはこれほど長期の連載ブログになるとは私自身思っていなかった。長くてもオバマ大統領が来日した23日には終えたいと思っていたが、論理的説得力を持つブログを書くことを最重要視した結果、こんなに長くなってしまった。
 でも明日でこのテーマでのブログは最終回にしたいと思っている(ちょっと自信がないが…)。明日は「目からうろこが落ちる」話を書くつもりだ。少しは期待して貰っていいと思っている。(続く)




無能な新聞記者はメディアを去れ――政治家の発言の意図を考えずに報道するの無能の証左だ。

2014-05-06 06:12:12 | Weblog
 安倍総理が揺れているのか。それともメディアの政治部記者が無能なのか。
 私が集団的自衛権問題で電話取材したのは、8日投稿の『日米のきしみの本当の理由は何か?――単眼思考では分からない⑦』で明らかにする、従来の政府答弁の作成担当省庁の幹部官僚だけである。
 もう読者は、私のブログだけでなく新聞などのメディアで目と耳にタコができているだろうが、集団的自衛権の公式定義(政府答弁)はこうだ。
「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」
 日本の場合、この定義に当てはまる国として現在該当する国はアメリカだけである。韓国とは今密接な関係にあるとは言えず、韓国が攻撃されても日本は軍事的支援を行えない。
 政府答弁は、その問題の担当省庁の官僚が作成する。必要な場合は、その答弁案を内閣法制局がチェックして、問題がないとされたときはじめて政府の公式答弁として国会で発表される。集団的自衛権についての政府答弁も、担当省庁の官僚たちが練りに練って作り上げ、内閣法制局のチェックを受けて国会で発表された。
 その答弁書での集団的自衛権の定義を前提に、これまで内閣法制局は「国際法上、固有の権利として認められているが、憲法9条の制約によって行使できない」としてきた。それを安倍総理は憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を可能にしたいと考えた。
 そしてその作業(憲法解釈の変更の論理的根拠を作ること)を、安保法制懇に委ねてきた。安保法制懇の柳井俊二座長は昨年夏ころまでは、その作業の成功に自信満々だった。「年内に報告書を出す」と断言していた。
 が、夏の終わりころから安保法制懇は沈黙するようになった。「4月中旬に」とか「ゴールデンウィーク明けには」とか「5月中には」などの日延べを、安保法制懇が直接公言したことは一度もない。メディアの政治部記者たちの憶測である。言うなら、全く当たらない「天気予報」みたいなものだ。かといって「憶測」を全面的に否定しているわけではない。「天気予報」と同様、それなりの根拠があっての憶測である。
 政治家たちの発言は何らかの意図があってのものだ。そういう場合のリークは、記者がどう受け止めて記事にするか、その記事を見て世論がどう反応するか、を知るために打ち上げるアドバルーンであるケースが多い。当然新聞の論調や世論の動向を見て、青信号か、黄信号か、赤信号かを見極めながら対応を考える。だから計算づくの政治家の発言は、鵜呑みには到底できないはずなのだが…。が、なぜかメディアの記者は鵜呑みにして、あたかも政府の方針が決まったかのような報道をする。頭が悪いのか、それとも…。
 当初、世論は集団的自衛権行使容認という安倍総理の意向に好意的だった。
そうした「世論形成」にメディアが乗ったからだ。が、公明党が今年に入って
突然集団的自衛権行使に慎重な姿勢を見せ始め、今では認められないという態
度にまで硬化した。その過程で、政府や自民党幹部の発言がコロコロ変わりだした。石破幹事長、高村副総裁が強行的発言を持続する一方、肝心の安倍総理は柔軟な姿勢を見せだした。
 今月3日午後(日本時間4日未明)に安倍総理は訪問先のリスボンでの記者会見で「与党が一致することが極めて重要なので、場合によっては時間を要することもある」と述べた。この発言を受けてメディアは一斉に「今国会中の決定にはこだわらない考えを示した」と報じた。安倍総理の発言は事実であり、後段のメディアの報道は憶測記事である。一方安倍総理は安保法制懇に報告書を「12日の週にも提出していただくことになる」と述べた。総理が報告書の提出時期について言及したのは初めてである。
 
  ここまでは単純に集団的自衛権問題の経緯を述べた。この経緯に異論を唱えるジャーナリストも政治家も、一人としていないはずだ。こうした集団的自衛権問題に関する報道は、実は事実と、事実を「根拠」にした憶測をないまぜにして行われるのが常である。報道とはそういうものだということを読者には理解しておいていただきたい。要するに「新聞記事」の読み方であり、「テレビの解説コメント」の聞き方である。
 特に新聞記事で「政府高官は」とか「関係者は」といった特定不能な「発言」は、特定できない事情を明らかにしない場合、すべて記者のでっち上げと考えて間違いない。「新聞記者、見てきたようなウソを書き」は言い古された言葉だが、今でもその状態は続いている。
 いま、安保法制懇のメンバーは私のブログに重大な関心を寄せている。私に、論理的に破滅させられないような報告書を出さざるをえなくなったからだ。ひょっとしたら、安保法制懇より政府答弁を作成した担当省庁の幹部官僚がいま頭を抱えているかもしれない。
 そもそものミスは政府答弁自体にあった。なぜ集団的自衛権についた、あんな定義をしてしまったのだろうか。私には不思議でならない。
 子どもでも分かる話だが、「自衛権」とは自国を守る権利のことである。他国を守る権利という解釈は、子供でもしない。だから国連加盟国のすべてが有する「自衛権」として国連憲章51条は「個別的又は集団的」と限定した。「個別的」とは言うまでもなく自国が保有する軍事力である。日本の場合「自衛隊」がいざというとき個別的自衛権を行使するために保持している軍事力である。
 問題を複雑化させたのは「集団的自衛権」である。国連憲章を作成した人たちは、その解釈をめぐって日本が大混乱に陥るような事態は想定外だったのだろう。一番素直に解釈すればNATOやワルシャワ条約機構のような集団的防衛体制を支えるために軍事同盟を想定していたのであろう。そもそも国連憲章は枢軸国(日独伊)と敵対していた「連合国」が自分たちの軍事行動を正当化するために作った国際法である。そのことを理解している政治家も法曹家もメディアも、まったくないことが私には不思議でならない。せっかく国連憲章そのものがそのことを「自白」しているのにだ。その自白とは、今でも国連憲章には「枢軸国」に対する「敵国条項」が残っているからだ。
 だから国連憲章51条が意味している「集団的自衛権」とは「連合国」のような軍事同盟を指していると考えるのが最も合理的である。なぜ「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」と定義してしまったのか、担当省庁の幹部の意図はどこにあったのか、私にも正直理解しかねる。
 それにもまして、メディアがそういう疑問すら持たないことにも、正直理解しかねる。頭が悪いのか、それとも…。
 私はこれまで、何度も「幼子のような感覚で、当たり前のように思い込んできたことに疑問を持て」と書いてきた。
 自分のことを引き合いに出すのは多少気が引けるが、小学生の頃(たぶん4年か5年生のときだったと思う)、母親と地下鉄の銀座線に乗っていて、ふと疑問に感じたことがある。電車がホームに入る直前に(ホームから出るときも)車内の照明が一瞬消えるのだ。私は「どうして」と、母親に聞いたが、母が知るわけがない。でも私の母は立派だった。「お母さんは分からないから駅の人に聞いてみようね」と言って、下車駅で駅員に尋ねてくれた。駅員も分からず、あちこちに問い合わせてくれて、やっと理由が分かった。うろ覚えの記憶で書いているので自信はないが、銀座線の電車は走行中は直流電気で走っており、駅構内の電気は交流のため電車がホームに到着時と発射時に≪直流→交流→直流≫の切り替えが行われ、そのとき瞬間的に社内の照明もいったん消えるということが分かった。加齢とともに物忘れが多くなった私だが、そういう、大人から見れば馬鹿馬鹿しいと思われかねないことにふと疑問を持つ習性だけは失われていない。多分に母親の影響が大きかったと思う。
 いま政府は少子高齢化対策と、若い母親の労働機会を増やすという、よく考えてみると「二律背反」の社会福祉政策に取り組んでいると言わざるを得ない。具体的には公的施設の保育所を増やそうという対策だ。また地方財政の負担増を抑えるために保育所と幼稚園を一体化して「認定こども園」を作るという計画も文科省と厚労省が連携して取り組んでいる。
 そうした国の政策に先行して横浜市が「待機児童ゼロ」を目指して、一時的
に実現した。が、そのことが大きく報道されたため「子供を幼稚園より安い保育所に預けたい」という希望が殺到し、また施設増設の必要に迫られている。一方、「特養」(特別養護老人ホーム)は、全国有数の不足都市だ。特養は私の
親の時代には70歳になれば入居を申し込む資格が生じた(地域によって違うか
もしれない)。いまは「要介護」の認定をえなければ申し込めない。入居希望者が増え、特養を増やさずに入居資格を厳しくすることでバランスをとろうというわけだ。それでバランスがとれたらいいのだが、まったくバランスはとれていない。高齢化によって「要介護」の認定者が増えているのに、彼らは行政から取り残されたままだ。私はまだ「要介護」の認定を受けていないが、年齢的には対象者に入る。
 そこで私は疑問を持った。待機児童ゼロのために惜しみなく税金を投入した横浜市では、若い母親の出生率が増加したのか、また若い母親の就労機会が増えて市の税収も増えて施設増設のための税金投入が無駄ではなかったことが証明されたのか。その結果を横浜市は公表していない。多分公表できない理由があるのだろう。
 一方、「要介護」の認定を受けた高齢者は、待機待ち4~5年という。その待機中はだれが高齢者の面倒を見るのか。自己責任でやれ、というなら介護保険も取るな、と言いたい。
 そういう疑問を持つと、別の新しい疑問が生じる。横浜市の市長選挙で「要介護」の認定を受けた高齢者は「票」にならないが、幼子を持つ若い母親のために保育施設を増設するという「公約」は確実に「票」になる。市民の税金を、自分の選挙を有利に進めるなら惜しみなく使うというのが、あるべき首長の姿勢なのだろうか。
 若い母親が、幼子を公的施設に預けて働けば税収が増えるだけでなく消費も増える。経済の活性化につながることは間違いない。が、高齢者が、自分が「要介護状態」になった時いつでも特養に入れるという保証があれば、そういうときに備えて蓄えておく必要がなくなる。かなりの資産が高齢者に集中しているようだが、いざというときの心配がなくなれば、その金を消費に回したり、孫への小遣いを増やしたりして間接的に経済活性化に貢献できるようになる。
 そういう問題意識を持って横浜市の行政をチェックするメディアは少なくとも今のところゼロである。メディアの記者は頭が悪いのか、それとも…。

 ゴールデンウィークも今日が最終日だ。私もブログを書き、投稿してから毎日出かけて、それなりの過ごし方をさせていただいた。最終日の今日は多少の疲労感はあるが、天気も回復するようだし、有意義な最終日にしたいと思っている。今日投稿するブログも、いま推敲しながら投稿後の予定にわくわくしている。昨日は少し肌寒かったが、今日はすがすがしい1日になりそうだ。
 明日から仕事の人は、今日は休養日に充てられる方も多いと思うが、私はすでに長期連載中で中断していたブログ『日米のきしみの本当の理由は何か?――単眼思考では分からない』の原稿2回分はすでに書きあげている。2回とも最近のブログとしてはかなり長くなってしまった。遊び疲れの読者には申し訳ないと思うが、集団的自衛権問題はこれで決着をつけたい。
 4日に投稿したブログ『集団的自衛権問題――メディアは主張の論理性を問われる最終段階に入った』で引用した毎日新聞の記事が正確なら、集団的自衛権についての従来の政府見解(国会での政府答弁)はすでに大きく「解釈変更」され、限りなく「個別的自衛権」に近づいている。集団的自衛権行使を容認するための「憲法解釈の変更」を可能にするために「集団的自衛権の定義(国会での政府答弁)の変更」をしている。変更のための変更だ。前者の「変更」は憲法解釈を意味し、後者の「変更」は政府答弁の差し替えを意味している。
 少なくともこれまでの政府答弁の変更は①攻撃を受けた密接な関係にある国(※具体的にはアメリカのこと)から要請されること、②放置すれば日本の安全が脅かされる場合、という二つだった。が、毎日新聞の報道では③として「集団的自衛権を行使する場所まで限定し、公海上かどの国の領土でもない北極・南極でしか行使できない」という条件まで付けた。そうなると、個別的自衛権との差別化が極めて難しくなる。というより差別化は事実上不可能と言っていい。自民党が、こうした「変更のための変更」を行っていることに気が付かないメディアは頭が悪いのか、それとも…。

 そういう報道は私が「日米にきしみ…」を最終回まで書き上げた後なので、そういう報道も含めて部分的に書きなおすことも考えたが、いまいち毎日新聞の報道に信頼感が持てないため、一切手を加えず原本のままで明日と明後日の2回にわたって投稿することにする。