小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

緊急告発――なぜ安倍総理は集団的自衛権行使容認の閣議決定を急ぎだしたのか。

2014-05-10 18:03:10 | Weblog
 昨日のブログの続きは12日に延期する。集団的自衛権の行使容認問題が風雲急を告げ出したためだ。
 安倍総理が、欧州訪問から帰国した。前に安倍総理の海外訪問についてブログで「日本産業界の営業本部長」と書いたことがあったが、毎日新聞の速報によれば、安倍総理の海外訪問の月平均回数は歴代総理のトップに躍り出たという。総理側近は総理の健康状態に大変な気配りをしていると思う。
 安倍総理は、デフレ脱却の経済戦略として「アベノミクスの三本の矢」を掲げた。財政出動・金融緩和・成長戦略、である。
 財政出動は公共投資による景気刺激策を意味し、ケインズ理論を実践しようというものだった。私は総選挙で自民が大勝した13年12月17日に投稿した『総選挙で大勝した自民党が作らなければならない国の形』および14年3月8日に投稿した『再び断言する――公共事業で景気は回復しない。ケインズ循環論はいまの日本には通用しない』の二つのブログで税金の無駄遣いを指摘した。その要点を述べておこう。
 ケインズ循環経済論は、不況の原因は失業率の高さにあり、公共事業によって雇用を増やせば内需が拡大して景気が回復に向かう。そうなれば企業は生産活動を拡大し、さらに失業者が減少し、内需がさらに拡大する。このサイクルによって不況は克服できる。極めて単純化した表現だが、1929年にはこのケインズ理論が正しかったことが証明された。アメリカがニューディール政策によって世界恐慌を克服したからである。
 しかし、今日の日本ではケインズ循環経済論は通用しない(日本だけでなく先進国すべてに)。まず公共事業を行っても失業率は改善しない。その理由は二つある。一つは公共事業の担い手が人的労働力から機械化作業に転換していることだ。確かに機械を動かすには人的労働力も多少必要だが、公共事業投資額に占める人件費比率は1930年ごろとは比較にならない。また1930年ごろの労働力の大半はブルーカラー(肉体労働者のこと。高学歴の知的労働力の担い手はホワイトカラーという)だった。
 しかし今日、日本の進学率はきわめて高くなり(有能な知的人材が増えたことを意味しているわけではない)、肉体労働に従事する労働者の大半は南米などからの出稼ぎ労働者である。公共事業投資に財政出動して外国人労働者に就業機会を与えて、どういう景気回復の効果があるというのか。しかも少子高齢化で地方の人口は急減しつつある。少子化だけでなく、若い人たちが地方での生活設計に見切りをつけ大都市への「民族大移動」が始まっている。そんな地方への公共事業投資をしても、付けを私たちの子孫に回すだけの「税金無駄遣い」になるだけだ――というのがブログでの私の主張だった。
 ま、たまたま、6年後に東京オリンピックが開催されることになり、競技場建
設や選手村建設とアクセス交通機関など、大きな経済的波及効果が期待できる
チャンスが生まれ、私もホッとはしている。何とか「税金の無駄遣い」にはならない財政出動の機会が訪れたからだ。
 二本目の矢である金融緩和は昨日のブログから検証作業を始めたが、続きは今日のブログの冒頭に述べた理由で12日に延期する。
 三本目の矢である成長戦略はアベノミクスが公表された時点では何も具体的なものが見えなかった。が、最近になってようやく見えてきた。一つはips細胞の研究開発など先端分野への重点的な予算配分など、目先ではなく将来につながる先行投資に力を入れようとしていることだ。また「強い農業」を育成するため従来の農業政策を抜本的に目直そうとしていること。そして日本の技術の活用を外国の公共事業で図ることを国家戦略に据えようとしていること。そのために安倍総理が全力を挙げているのが海外、とくに日本の技術を売り込みたい国への矢継ぎ早の訪問である。過去の歴代総理の外国訪問件数を抜いただけでなく、日本の技術の売り込みに走り回ってくれていることには、私も素直に感謝している。
 が、帰国した総理が、それまでの柔軟姿勢を一変させて集団的自衛権行使の容認を今国会中か、遅くても秋の臨時国会前に閣議決定するという強硬姿勢に転じたことについては問題がある。
 安保法制懇の報告書について、8日までは安倍総理は「12日の週に出してもらう」と述べていた。が、9日に帰国後、報告書が13日にも出ることを明らかにした(NHKによる)。そして自ら「閣議決定の時期にはこだわらない」と、集団的自衛権の行使容認に慎重な構えを崩さない公明党との協力関係を重視し、メディアの多くも「閣議決定は今国会では行わない」との見方を示していた。総理の女房役でもありスポークスマンでもある菅官房長官も強行突破はしないとの総理の考えを代弁していた。
 たとえば朝日新聞は8日付朝刊で以下の観測記事を掲載した。(抜粋)

 安倍政権は閣議決定の時期について6月22日に会期末を迎える通常国会の閉会後に延期する方向で最終調整に入った。行使容認に慎重姿勢な公明党への配慮だが、秋の臨時国会までに閣議決定する方針は変えていない。欧州訪問中の安倍総理は7日午後(日本時間同日夜)ベルギー・ブリュッセルでの記者会見で、閣議決定の時期について「期限ありきではない」と明言。「与党においてもご議論をいただきたい(※自公両党の意思統一を意味する)」と述べ、公明党との協議を尊重する考えを強調した。また首相は、有識者会議が来週中に提出する報告書を受けて示す「政府方針」について「政府がどのように検討を進めるかについての基本的方向性を示す」と語った。与党内では、公明党への配慮として、秋の臨時国会に予定していた集団的自衛権行使容認の関連法案審議を来年の通常国会に先送りする案も検討している。石破幹事長は、自衛隊が防衛出動する段階に至っていない「グレーゾーン事態」に関する法案審議を秋の臨時国会で先行させる可能性に言及した。菅官房長官も7日の記者会見で「そういうこともありうるのではないか」とした。しかし、首相は秋の臨時国会召集前には閣議決定に踏み切る考え。政権幹部も「絶対にやる」と強調する。

 この記事は事実(安倍総理や石破幹事長、菅官房長官の発言内容)に基づいた記者の憶測記事である。新聞記事のどの部分が事実を伝えており、どの部分が記者の憶測によるか、読者自身が「新聞の読み方」の勉強と位置付けて読んで頂きたい。
 新聞記者は、客観性を装って憶測記事をあたかも事実のように書くことが多い。たまに論理的な憶測もあるが、非論理的な憶測が多い。この記事の場合はとくに朝日新聞の集団的自衛権行使容認に対する主張を反映したものとは言えず、論理的合理性が高い憶測記事と言える。新聞記者がそれなりの根拠に基づいて憶測するのは自由だが(私のように「と思われる」「と考えるのが合理的である」と記者の解釈であることを明記すべきではあるが)、NHKの場合は憶測報道は許されない。取材でつかんだ事実であれば、特段の事情がないかぎり情報源を明らかにすべきである。明らかにできない場合は、アナウンサーが事実として報道すべきではなく、有識者なりNHKの記者に個人的意見として述べさせるべきである。
 最近NHKはアナウンサーをキャスターと称している。アナウンサーとかキャスターという位置付けは単なる職種の違いであり職位としてキャスターを上席に位置付けてはいないはずだ。アナウンサーは記者が書いた原稿の棒読みが仕事であり、個人の主張や感想を述べることは許されていない。『クローズアップ現代』の国谷裕子氏は紛れもなくキャスターであり(ただし国谷氏はNHKの職員ではない)、討論番組の司会者や気象情報を提供する気象予報士も職種としてはキャスターに相当する。何か最近のNHKには違和感を覚えることが多い。
 安保法制懇は安倍総理が設置した懇談会である。閣議決定を経ていない場合、「政府の」有識者会議(懇談会)と位置付けることは、明らかに報道機関の行き過ぎた「私的解釈」であり、そうした「私的解釈」がまかり通ること自体報道機関としての公正性が問われると言っても差し支えない。NHKを除いて民間の報道機関が自社の主張を述べることは自由である。が、何らかの機関を勝手に私的なものとか公的なものとか位置付けることは、たとえ民間の報道機関であっても許されるべきではない。昨日(9日)のNHKはニュース7で、私が一貫して問題視してきた安保法制懇の位置付けについて従来の「政府の有識者会
議(懇談会)」というアナウンスやテロップでの表記をついにやめた。ニュース
直後にNHKオンラインで調べ直したが(ニュースのとき数えていなかったので)、「政府の」とか「私的な」といった冠を一切付けずに「有識者懇談会」と表現したのが4回、「安倍総理大臣が設置した有識者懇談会」と表現したのが2回だった。おそらく私の度重なる批判を背景に、報道局の主導権を、私に近い認識を持つ人たちが握ったと考えられる。これを機に、NHKが公共放送としての姿勢を確立することを期待したい。読売新聞も「政府の」という冠表現をやめたようだ。産経新聞もやめるべきだ。朝日新聞や毎日新聞も、ことさらに「私的の」といった冠を付けるのはやめた方がいい。言葉は、それ自体が政治的意味合いを持つケースがしばしばある。世論が二分されるような政治的問題を取り扱う場合、主張は別にしても、言葉で政治的スタンスが明確になるような表現は、厳に慎むべきである。

 非常に分かりやすいケースをたとえに書く。ウクライナ紛争に関連することだ。もともとウクライナは旧ソ連の自治国(国家内国家)の一つであった。旧ソ連の共産党政権が崩壊し、東欧諸国の非共産主義化が一気に加速した。旧東ドイツも西ドイツと統一した。そうした流れの中でウクライナも旧ソ連から独立して主権国家となった。旧ソ連は国土が縮小し、国名も昔のロシアに戻した。ウクライナ国内には旧ソ連の重要な軍事拠点が多く散在し、核基地もあった。その核基地はいまはない。ウクライナ政府が「核不拡散条約」に加盟して核基地を撤去したからである。なお核不拡散条約は米英仏露中の5か国以外の核保有を認めないという核大国エゴ丸出しの国際条約である。ちなみに、この5か国は国連安保理の常任理事国であり、国際平和と安全を守る義務を「拒否権の行使」によって阻害してきた国々でもある。これは私の個人的見解ではなく、歴史的事実である。 
 ウクライナとロシアとの関係は独立後も友好的であった。が、05年3月、ロシアはそれまで優遇的料金でウクライナに輸出していた天然ガスの料金を国際市場価格に合わせて倍以上に引き上げることを一方的に決めた。ウクライナは鉄鉱石の世界有数の産出国であり、鉄鋼業など重工業が国の基幹産業だった。その重工業を支えるエネルギー資源の天然ガスを一方的に値上げされて、ウクライナ国内で反ロシア勢力が一気に増大する。
 親ロシア派と反ロシア派が対立する中で2010年に行われた大統領選挙で親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権が成立した。これで収まらないのが反ロシア派の政治勢力。それが力による激突に至ったのは13年11月にヤヌコーヴィチ政権が欧州連合との政治・貿易協定の調印を見送ったためである。その結果、一気に反政府運動が勃発した。それまでバラバラだった反ロシア勢力が大連合し、ソチオリンピック開催中の14年2月にウクライナの最高議会がヤヌコーヴィチ大統領の解任と大統領選挙の繰り上げ実施を決議、ヤヌコーヴィチはロシアに逃亡、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行とアルセニー・ヤツェニュク首相による暫定政権が誕生した。
 この政権交代に反発したのがロシア系住民が多いとされるクリミア自治共和国政府で、住民投票を行った結果、「ウクライナからの分離・独立」を宣言、ロシアへの編入も決め、ロシアのプーチン大統領もロシアへの編入を認めた。もちろんウクライナ暫定政権はクリミア自治共和国政府の一連の行動を認めず、「憲法違反」を主張、EU諸国が「国益」が侵害されると見なして暫定政権を支持、EU諸国の多くと同盟関係にあるアメリカもEU側についてロシアへの経済制裁に踏み切った。
 そこで板挟みになったのが日本である。ウクライナは遠く離れた東欧の国で
あり、軍事的にはもちろん経済関係も深くない。はっきり言って「対岸の火事」である。一方ロシアとはかつてないほどの友好的関係を築きつつある状況の中で生じた「迷惑至極」な出来事である。そのため安倍政権は当面、傍観する姿勢をとっていた。クリミア政府側を支持するのが「国益」でもなければ、暫定政権側を支持するのも「国益」とは関係ない。が、暫定政権の後ろ盾になっているEU・アメリカ連合とロシアが対立し、米オバマ大統領から「日本はどっちに付くのか」と恫喝され(※これは私の論理的見解)、安倍総理はやむなくロシアとの友好関係の促進を中断して、ロシアへの経済制裁の仲間の端っこに加わった。TPP交渉もそうだが、現代世界は再び、戦火を交えることはなくても、「国益」をむき出しにしたパワー・ポリティクスが支配する新時代に入ったと言えよう。中国の海洋進出もそうした流れの一環である。
 NHKふれあいセンターの上席責任者の一人とウクライナ問題についてかなり長時間話したことがある。「クリミアの分離・独立について小林さんはどう思うか」と聞かれたので、私はこう答えた。「クリミアの分離・独立がもし民族自決権の行使だったなら、無条件に支持する。もし中国の新疆自治共和国のウイグル族が民族自決権を行使して中国共産党政権から分離・独立を住民投票で決めたらアメリカや日本は反対するか。それが論理的に考えるということだ」と。

 私は何度も書いているが、右でもなければ左でもない。保守でもなければ革新でもない。
 私は学生時代、のちに新左翼と呼ばれるグループに属して、かなり激しい学生運動に参加していた。が、属していたグループの主導的主張に疑問を抱き、仲間を語らって勉強会をはじめようとした。その動きがグループのリーダーの一部に漏れ、私は「分派主義者」というレッテルをはられて除名された。
 その後、私は「なぜ、理想社会の建設を目指して命をかけて権力と闘った共産主義者たちが、革命に成功して権力を握った途端、独裁者に変貌したのか」という疑問に一人で立ち向かうことになった。グループから除名されたからといって、では右に変わります、と簡単に「転向」できるタイプの人間ではなかったからだ。
 日本共産党は、いま比較的論理的に考えるようになっている。野坂参三氏や宮本賢治氏による独裁体制時代に対する反省が、党のトップの独裁権力を防ぐ手立てに結びついたようだ。教条主義的な主張もかなり影をひそめるようになったと感じる。そして歴史上すべての共産主義体制の国が権力による独裁政治を可能にした理論的根拠が、レーニンの「プロレタリア独裁論」にあることまではたどり着いたようだ。
 が、私が若いころにたどりついた論理的結論には、まだ程遠い。
 私はマルクスが描いた理想社会の定義そのものに独裁権力を可能にした理論的根拠があるという論理的結論にたどり着いた。
 マルクスの定義はこうだ。
 社会主義社会では、人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る。
 共産主義社会では、人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。
 私が抱いた疑問は、この定義の論理性であった。確かに、一見、理想的社会に思える。が、いったい人の能力はだれが査定するのか、労働の価値をだれが査定するのか、さらに必要性の決定権はだれが持っているのか。そう考えると、マルクスの定義は資本主義社会における「能力と仕事と賃金と支出」の関係とそっくり同じではないか。さらに「必要に応じて」という場合、たとえば日本の場合「生活保護法」によって必要最小限の文化的生活ができるだけの保護費を受け取る権利が保証されている。そして、それを担保する仕組みが、まだまだ未熟とは言え「民主主義」という政治システムによって守られている。
 が、その担保が外されているのが、いわゆる共産主義体制の国であり、だから人の能力を査定し、仕事や地位を決め、成果を査定する権限を持つ人には絶対に逆らえないという「鉄のピラミッド」体制が否応なく構築される。今の北朝鮮が、まさに金正恩体制の「鉄のピラミッド」構築の過程にある。
 マルクスが夢に描いた理想社会は、理想社会としてはだれも否定できないと思う。が、マルクスは自分が作った社会主義社会・共産主義社会の定義が、独裁権力の土壌になることに気付かなかったのだろうか。気付いていれば、独裁権力を防ぐための担保も同時に提案しておくべきだった。
 
 そのことはともかく、安倍総理は帰国後、集団的自衛権の行使容認の閣議決定を急に急ぎだしたようだ。
 安倍総理は昨日、集団的自衛権の行使容認強硬派の石破幹事長、高村副総裁と相次いで会談し、安保法制懇の報告書が提出され次第、直ちに閣議決定に向けて与党協議を行うよう指示したようだ。
 報告書の内容についてはメディアがスクープ合戦を繰り広げていたが、どうやらNHKのスクープは誤報だったようだ。現時点で一番確実性が高いのは9日付朝日新聞朝刊の『集団的自衛権行使に6条件 具体事例10以上示す 安保法制懇報告書が判明』というタイトルの記事だ。なぜこの記事の確実性が高いのか。情報源を特定しており、かつその情報源が信頼性の高いものだからだ。
 朝日新聞の取材に報告書の内容を明らかにしたのは安保法制懇の座長代理で、かつ座長の柳井俊二氏が欠席することが多い安保法制懇で座長を務め、さらに報告書の取りまとめ役でもある北岡伸一国際大学長だということを記事で明らかにしている。このような場合、記事の信頼性は極めて高い。この記事のタイトルにある6条件とは以下の六つ。
①密接な関係にある国が攻撃を受ける。
②放置すれば日本の安全に大きな影響が出る。
③攻撃された国から行使を求める明らかな要請がある。
以上の三つの事態が重なることを条件とし、そのうえで行使の手続きとして
④首相が総合的に判断する。
⑤国会の承認を受ける必要がある、と定める。
⑥攻撃を受けた国とは別の国の領域を自衛隊が通る場合はその国の許可を得る。
 以上が集団的自衛権を行使できるようにするために憲法解釈を変更ができる条件ということだ。果たしてこの6条件を付けることで、憲法解釈の変更ができるのか。できるとしたなら、憲法改正の必要はなくなる。憲法改正の目的は9条の変更にあるのだから。それでも憲法改正をするというなら、報告書に書かれた6条件以上の軍事的行動にも自衛隊が出られるようにすることを意味する。そんなことを国民が認めるわけがない。いったい国民投票法改正案は何のために成立させたのか、と言いたい。
 集団的自衛権についての従来の政府見解自体が間違っていることは一応置いたとしても、○○省○○局の幹部官僚が「従来の政府見解(国会での政府答弁)を変更し、変更したことすら国民に説明していない」ことを認めている集団的自衛権の新解釈に基づいて、「憲法解釈の変更を可能」にしてまで集団的自衛権の行使を容認させようというなら、改正国民投票法に基づいて、国会で可決しても、国民投票によって国民の総意を問うのが筋だ。なぜなら、事実上の憲法改正行為に当たるからだ。
 民主主義、とひと言でいっても、制度は国によって異なる。北朝鮮ですら正式な国名は「朝鮮民主主義人民共和国」なのだから。
 日本の場合、「民主主義国家」を標榜しながら、政党政治は民主主義的ではない。国会での決議を行う際、政党は所属議員に「党議拘束」をかけるからだ。いったん党内の議論を経て決めたら党の決定に従え、というのは党内の独裁体制を担保するシステム以外の何物でもない。党の決定に従えない場合は、国会での決議の際に退席するしかない。反対票を投じたら除名されるからだ。
 自民党内部でも、まだ安倍総裁の強引さに反発は強い。だが、堂々と批判できるのは、選挙の際、党の支援がなくても地元民の支持が高く当選確実な野田聖子総務会長のような議員だけだ。それで、民主主義を守る政党と言えるのか。
 念のため、安倍総理がベッタリズムのアメリカでは、民主党も共和党も、上院・下院ともに議会での投票は議員の個人的判断にゆだねている。
 
 

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