小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

大飯原発判決…全国紙5紙の主張に呆れた。学ぶべきは予測困難な自然災害より人的ミスの防止ではないか。②

2014-05-27 06:51:51 | Weblog
 結論から先に言う。日本の原子力発電の安全性を高める方法は、東京電力を解体し、国の直接管理下でゼロからの再出発をすることだ。当然、東電社員は全員解雇。再雇用すべき人材もいるが、その人たちも全員新入社員として扱う。そのくらいの強硬手段をとらないと、電力会社の社員の安全意識を向上させることは、残念ながらできない。
 そもそも「安全神話」なるものはどのようにして醸成されてきたかを考えると、結論は極めて明快に出るはずだ。すでに書いたように、日本は二度の原爆とビキニ被曝という苦い経験を持っている。その記憶をいまだに失っていない人たちがだんだん少なくなってきた。かつては原発立地では、必ずと言っていいほど「反原発」の激しい運動が起きた。その都度電力会社は「原発は安全だ」と言い張ってきた。そうした地元民との対立があったから、「事故を起こしたら大変なことになる」という危機感を電力会社の社員たちは共通認識として抱いていた。
 つまり「反原発運動」が日本の原発の安全確率を高めてきたのである。私は昨日のブログで転記した『核融合革命』(1989年8月上梓)でこう書いた。

 (米スリーマイル島の原発事故の4年前にも、アメリカで危うくチャイナ・シンドローム事故につながりかねないお粗末な人為的ミスがあったことを書いた後)日本では、チャイナ・シンドロームの危機一髪、と言った事故はいまだに公表されていない。隠しているわけではなく、そうした類の事故はいまだに本当になかったのであろう。
 その点では、豊田(※有恒:SF作家。原発問題にも造詣の深さを誇っている作家で『原発の挑戦――足で調べた全15カ所の現状と問題点』の著作がある)が書いているように「アメリカより、日本の方が、危機管理が、数段すすんでいる」ことは確かである。
 だが、それはあくまで安全率の問題であり、その限りでは「絶対にない」と断言しうるものではあるまい。どのように安全管理が行き届いていても、事故が皆無になるという保証はない。それは過去の事例が教えているとおりである。
 私は危険はあるかもしれないが必要だということであれば、またそれが国民的コンセンサスを得られるのであれば、原発はつくらざるをえないだろうと考えている一人である。
 よく言われるように「自動車は走る凶器」である。自動車を運転する人も、自動車に乗らない人も、それを承知で自動車事故が頻発する大都市で生活している。自動車がまき散らす公害や危険性を重視して自動車反対論をぶつ人もいるが、それはいまのところ国民的コンセンサスとなりえていない。大都市に住むに人びとの大半は、自動車の利便がなければ、生活できない状態になってい
るからだ。原発についても同じことが言えるのではないだろうか。
 原発は、結論的に言えば、危険なエネルギーという面を否定できない。しかし、「だったら、すぐやめろ」といった短絡的主張をとるべきではないと思う。あとでみるように、これにかわる代替エネルギー(※太陽光発電などの再生可能な自然エネルギーのこと)にもさまざまな問題があるからだ。われわれはいま、厳しい選択を迫られている。

 そういう視点で福島原発事故を歴史の教訓とするならば、自然災害に対する物理的対策もさることながら、人的ミスをどうやって防ぐかという視点も同時に考えなければならない。物理的対策はいま政府の行政機関でありながら、きわめて大きな権限を付与された原子力規制委員会が一つ一つの原発再稼働と新原発建設立地について徹底的な科学的調査を行っている。もちろん科学的調査といっても、現時点で可能な限りの科学的、な調査だが。が、現時点で可能な限りの調査を司法が否定するなら、永遠に「絶対に安全な原発」は、地震大国・日本に限らず世界中探しても一つもない。たとえば横浜市の大規模施設建設計画に対して地域住民が「富士山が、過去の噴火を超えるような大爆発をおこしたら、被害は甚大になる。建設中止を求める」といった訴訟に対して、司法が「もっともだ」と住民勝訴の判決を出すようなものだ。それこそ科学的根拠を欠いた判決と言わなければならない。
 朝日新聞は福島原発事故の直接の責任者である福島第一原子力発電所所長の吉田昌郎氏(2013年7月、がんで死去)が政府事故調の調べに対して答えた「聴取結果書」を入手したようだ。事故調の畑村委員長は「貴重な歴史的資料」と位置付けている。この資料について朝日の記者はこう書いた。

 吉田調書の特徴は「吉田氏の言いっぱなしにはなっていない」点にある。政府事故調は聴き取りを始めるに当たり、「後々の人たちがこの経験を生かすことができるような、そういう知識を作りたいと思って、それを目標にしてやろうとしています」「責任追及とか、そういうことは目的にしていません」と趣旨説明をした。だが、聴取は決して生ぬるいものではなかった。それは吉田氏への聴取が政府事故調事務局に出向した検事主導で行われたからである。調書は微妙な言い回しも細かく書き起こされている。
 一方、吉田氏の方も、聴き取りに真剣に応じている様子が調書の文面からうかがえる。調書には、吉田氏が「ここだけは一番思い出したくない」と苦しい胸の内を明かすように話す場面がある。震災当時の社長の清水正孝氏を「あの人」と呼んだり、管直人氏や原子力委員長の斑目春樹氏を「おっさん」呼ばわりしたりして、怒りをぶちまけながら話をする場面もある。全編を通して感情
を包み隠さず答えていることから、全体としては本音で語っていると感じられ
る。

 吉田調書によれば、電源喪失時に原子炉を冷やす1号機の非常用復水器の仕組みをよく理解していなかったため、中央制御室の運転員が11日(2011年3月)夕方、非常用復水器(緊急時の原子炉冷却装置)の機能低下に気づき、冷却水不足ではないかという疑問を抱いた。そのため吉田氏が総指揮をとっていた緊急時対策室に「軽油で動くポンプで水を補給する」よう指示を促した。このとき、吉田氏が決定的なミスを犯す。非常用復水器の仕組みを理解していなかったため適切な対応をせず、「原子炉への注水準備の継続」という指示しかしなかった。これが最初の人的ミスであり、取り返しがつかない事態を招く。
 吉田氏によれば、過去20年間、非常用復水器を作動させたことはなかったという。吉田氏は調書で「非常用復水器そのもののコントロールの仕方はほとんどわかりません」「非常用復水器というのは特殊なシステムで、はっきり私もよくわかりません」と、正直に述べている。だとしたら、なぜ現場の判断を無視して別の指示を出したのか。そもそも「非常用」というくらいだから、緊急時に原発の暴発を防ぐためのものという認識くらいはあってしかるべきだったと思う。その程度の認識があれば、非常用復水器についての詳細な技術的知識が不足していたとしても、現場の判断をなぜ採用しなかったのか。
 1号機は午後6時に炉心損傷し、その2時間後に炉心溶融した。
 さらに所員の9割が所長命令に違反して第一原発から逃げ出し、第二原発にかってに避難していたことも判明した。東日本大震災の4日後の15日午前6時15分頃、緊急時対策室に「2号機方向から衝撃音がして原子炉圧力抑制室の圧力がゼロになった」という報告が届いた。その報を受け、吉田氏はテレビ会議で「高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機」を命じた。「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後異常でないことを確認できたら戻ってもらう」とも。
 が、所員の9割は吉田氏の命令に違反して職場放棄した。バスや自家用車で、第一原発にはすぐには戻れない第二原発に逃げ出したのだ。
 いま集団的自衛権問題で国会が揺れている。自衛隊員の中に動揺が広がっているとの話も聞く。国家非常時に、自衛隊員が「戦争をするために入隊したつもりはなかった」と、緊急事態が生じたときに戦線離脱するようなものだ。日本の場合、自衛隊法でどうなっているかは知らないが、兵士が上官の命令を無視して戦線離脱したら、普通の国なら死刑になる。東電福島原発の社員は、それにひとしい行為をしたことになる。
 東電福島原発の社員の危機対応意識だけが、特に低かったわけではあるまい。東電の体質が、そういう「非常時の場合、自分だけ逃げられればいい。被害がどんなに拡大しようと、俺の知ったことか」という共通認識が東電社内に定着していたと考えざるを得ない。
「一罰百戒」という言葉がある。本来の意味は犯罪抑止効果を指す言葉だが、東電解体は他の電力会社の社員に対しての「見せしめ」効果が目的だ。非常時に職場放棄すれば、会社が潰されるという危機感が他の電力会社社内に定着するようになれば、予測困難な緊急事態が生じたときの対応力の向上に、電力会社も総力を挙げて取り組まざるをえなくなる。
 福井地裁の判決に批判的な社説を書いた読売新聞、日本経済新聞、産経新聞も、原発に頼らなくても国民生活を維持できるエネルギー環境が整うことに反対しているわけではあるまい。原発が不要な状態になって困るのは原子力技術者くらいのものだ。もし脱原発の技術開発に日本が成功したら、日本産業界の国際競争力は飛躍的に高まる。脱原発が現実性を帯びるとしたら、そのときだろう。
 残念ながら、現時点ではその可能性を論じることすら夢物語だ。少なくとも、脱原発の最有力候補と期待されている太陽光発電にしても、現在のシステムの延長上でエネルギ-・コストが採算ラインに達するのは、はっきり言って不可能だ。でも、スマホがパソコンの個人市場を奪ったような、画期的な太陽光発電システム開発の夢は持ち続けたい。その夢が、いつ叶えられるかは、だれにも答えられないだろうが…。(終わり)