安倍総理が揺れているのか。それともメディアの政治部記者が無能なのか。
私が集団的自衛権問題で電話取材したのは、8日投稿の『日米のきしみの本当の理由は何か?――単眼思考では分からない⑦』で明らかにする、従来の政府答弁の作成担当省庁の幹部官僚だけである。
もう読者は、私のブログだけでなく新聞などのメディアで目と耳にタコができているだろうが、集団的自衛権の公式定義(政府答弁)はこうだ。
「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」
日本の場合、この定義に当てはまる国として現在該当する国はアメリカだけである。韓国とは今密接な関係にあるとは言えず、韓国が攻撃されても日本は軍事的支援を行えない。
政府答弁は、その問題の担当省庁の官僚が作成する。必要な場合は、その答弁案を内閣法制局がチェックして、問題がないとされたときはじめて政府の公式答弁として国会で発表される。集団的自衛権についての政府答弁も、担当省庁の官僚たちが練りに練って作り上げ、内閣法制局のチェックを受けて国会で発表された。
その答弁書での集団的自衛権の定義を前提に、これまで内閣法制局は「国際法上、固有の権利として認められているが、憲法9条の制約によって行使できない」としてきた。それを安倍総理は憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を可能にしたいと考えた。
そしてその作業(憲法解釈の変更の論理的根拠を作ること)を、安保法制懇に委ねてきた。安保法制懇の柳井俊二座長は昨年夏ころまでは、その作業の成功に自信満々だった。「年内に報告書を出す」と断言していた。
が、夏の終わりころから安保法制懇は沈黙するようになった。「4月中旬に」とか「ゴールデンウィーク明けには」とか「5月中には」などの日延べを、安保法制懇が直接公言したことは一度もない。メディアの政治部記者たちの憶測である。言うなら、全く当たらない「天気予報」みたいなものだ。かといって「憶測」を全面的に否定しているわけではない。「天気予報」と同様、それなりの根拠があっての憶測である。
政治家たちの発言は何らかの意図があってのものだ。そういう場合のリークは、記者がどう受け止めて記事にするか、その記事を見て世論がどう反応するか、を知るために打ち上げるアドバルーンであるケースが多い。当然新聞の論調や世論の動向を見て、青信号か、黄信号か、赤信号かを見極めながら対応を考える。だから計算づくの政治家の発言は、鵜呑みには到底できないはずなのだが…。が、なぜかメディアの記者は鵜呑みにして、あたかも政府の方針が決まったかのような報道をする。頭が悪いのか、それとも…。
当初、世論は集団的自衛権行使容認という安倍総理の意向に好意的だった。
そうした「世論形成」にメディアが乗ったからだ。が、公明党が今年に入って
突然集団的自衛権行使に慎重な姿勢を見せ始め、今では認められないという態
度にまで硬化した。その過程で、政府や自民党幹部の発言がコロコロ変わりだした。石破幹事長、高村副総裁が強行的発言を持続する一方、肝心の安倍総理は柔軟な姿勢を見せだした。
今月3日午後(日本時間4日未明)に安倍総理は訪問先のリスボンでの記者会見で「与党が一致することが極めて重要なので、場合によっては時間を要することもある」と述べた。この発言を受けてメディアは一斉に「今国会中の決定にはこだわらない考えを示した」と報じた。安倍総理の発言は事実であり、後段のメディアの報道は憶測記事である。一方安倍総理は安保法制懇に報告書を「12日の週にも提出していただくことになる」と述べた。総理が報告書の提出時期について言及したのは初めてである。
ここまでは単純に集団的自衛権問題の経緯を述べた。この経緯に異論を唱えるジャーナリストも政治家も、一人としていないはずだ。こうした集団的自衛権問題に関する報道は、実は事実と、事実を「根拠」にした憶測をないまぜにして行われるのが常である。報道とはそういうものだということを読者には理解しておいていただきたい。要するに「新聞記事」の読み方であり、「テレビの解説コメント」の聞き方である。
特に新聞記事で「政府高官は」とか「関係者は」といった特定不能な「発言」は、特定できない事情を明らかにしない場合、すべて記者のでっち上げと考えて間違いない。「新聞記者、見てきたようなウソを書き」は言い古された言葉だが、今でもその状態は続いている。
いま、安保法制懇のメンバーは私のブログに重大な関心を寄せている。私に、論理的に破滅させられないような報告書を出さざるをえなくなったからだ。ひょっとしたら、安保法制懇より政府答弁を作成した担当省庁の幹部官僚がいま頭を抱えているかもしれない。
そもそものミスは政府答弁自体にあった。なぜ集団的自衛権についた、あんな定義をしてしまったのだろうか。私には不思議でならない。
子どもでも分かる話だが、「自衛権」とは自国を守る権利のことである。他国を守る権利という解釈は、子供でもしない。だから国連加盟国のすべてが有する「自衛権」として国連憲章51条は「個別的又は集団的」と限定した。「個別的」とは言うまでもなく自国が保有する軍事力である。日本の場合「自衛隊」がいざというとき個別的自衛権を行使するために保持している軍事力である。
問題を複雑化させたのは「集団的自衛権」である。国連憲章を作成した人たちは、その解釈をめぐって日本が大混乱に陥るような事態は想定外だったのだろう。一番素直に解釈すればNATOやワルシャワ条約機構のような集団的防衛体制を支えるために軍事同盟を想定していたのであろう。そもそも国連憲章は枢軸国(日独伊)と敵対していた「連合国」が自分たちの軍事行動を正当化するために作った国際法である。そのことを理解している政治家も法曹家もメディアも、まったくないことが私には不思議でならない。せっかく国連憲章そのものがそのことを「自白」しているのにだ。その自白とは、今でも国連憲章には「枢軸国」に対する「敵国条項」が残っているからだ。
だから国連憲章51条が意味している「集団的自衛権」とは「連合国」のような軍事同盟を指していると考えるのが最も合理的である。なぜ「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」と定義してしまったのか、担当省庁の幹部の意図はどこにあったのか、私にも正直理解しかねる。
それにもまして、メディアがそういう疑問すら持たないことにも、正直理解しかねる。頭が悪いのか、それとも…。
私はこれまで、何度も「幼子のような感覚で、当たり前のように思い込んできたことに疑問を持て」と書いてきた。
自分のことを引き合いに出すのは多少気が引けるが、小学生の頃(たぶん4年か5年生のときだったと思う)、母親と地下鉄の銀座線に乗っていて、ふと疑問に感じたことがある。電車がホームに入る直前に(ホームから出るときも)車内の照明が一瞬消えるのだ。私は「どうして」と、母親に聞いたが、母が知るわけがない。でも私の母は立派だった。「お母さんは分からないから駅の人に聞いてみようね」と言って、下車駅で駅員に尋ねてくれた。駅員も分からず、あちこちに問い合わせてくれて、やっと理由が分かった。うろ覚えの記憶で書いているので自信はないが、銀座線の電車は走行中は直流電気で走っており、駅構内の電気は交流のため電車がホームに到着時と発射時に≪直流→交流→直流≫の切り替えが行われ、そのとき瞬間的に社内の照明もいったん消えるということが分かった。加齢とともに物忘れが多くなった私だが、そういう、大人から見れば馬鹿馬鹿しいと思われかねないことにふと疑問を持つ習性だけは失われていない。多分に母親の影響が大きかったと思う。
いま政府は少子高齢化対策と、若い母親の労働機会を増やすという、よく考えてみると「二律背反」の社会福祉政策に取り組んでいると言わざるを得ない。具体的には公的施設の保育所を増やそうという対策だ。また地方財政の負担増を抑えるために保育所と幼稚園を一体化して「認定こども園」を作るという計画も文科省と厚労省が連携して取り組んでいる。
そうした国の政策に先行して横浜市が「待機児童ゼロ」を目指して、一時的
に実現した。が、そのことが大きく報道されたため「子供を幼稚園より安い保育所に預けたい」という希望が殺到し、また施設増設の必要に迫られている。一方、「特養」(特別養護老人ホーム)は、全国有数の不足都市だ。特養は私の
親の時代には70歳になれば入居を申し込む資格が生じた(地域によって違うか
もしれない)。いまは「要介護」の認定をえなければ申し込めない。入居希望者が増え、特養を増やさずに入居資格を厳しくすることでバランスをとろうというわけだ。それでバランスがとれたらいいのだが、まったくバランスはとれていない。高齢化によって「要介護」の認定者が増えているのに、彼らは行政から取り残されたままだ。私はまだ「要介護」の認定を受けていないが、年齢的には対象者に入る。
そこで私は疑問を持った。待機児童ゼロのために惜しみなく税金を投入した横浜市では、若い母親の出生率が増加したのか、また若い母親の就労機会が増えて市の税収も増えて施設増設のための税金投入が無駄ではなかったことが証明されたのか。その結果を横浜市は公表していない。多分公表できない理由があるのだろう。
一方、「要介護」の認定を受けた高齢者は、待機待ち4~5年という。その待機中はだれが高齢者の面倒を見るのか。自己責任でやれ、というなら介護保険も取るな、と言いたい。
そういう疑問を持つと、別の新しい疑問が生じる。横浜市の市長選挙で「要介護」の認定を受けた高齢者は「票」にならないが、幼子を持つ若い母親のために保育施設を増設するという「公約」は確実に「票」になる。市民の税金を、自分の選挙を有利に進めるなら惜しみなく使うというのが、あるべき首長の姿勢なのだろうか。
若い母親が、幼子を公的施設に預けて働けば税収が増えるだけでなく消費も増える。経済の活性化につながることは間違いない。が、高齢者が、自分が「要介護状態」になった時いつでも特養に入れるという保証があれば、そういうときに備えて蓄えておく必要がなくなる。かなりの資産が高齢者に集中しているようだが、いざというときの心配がなくなれば、その金を消費に回したり、孫への小遣いを増やしたりして間接的に経済活性化に貢献できるようになる。
そういう問題意識を持って横浜市の行政をチェックするメディアは少なくとも今のところゼロである。メディアの記者は頭が悪いのか、それとも…。
ゴールデンウィークも今日が最終日だ。私もブログを書き、投稿してから毎日出かけて、それなりの過ごし方をさせていただいた。最終日の今日は多少の疲労感はあるが、天気も回復するようだし、有意義な最終日にしたいと思っている。今日投稿するブログも、いま推敲しながら投稿後の予定にわくわくしている。昨日は少し肌寒かったが、今日はすがすがしい1日になりそうだ。
明日から仕事の人は、今日は休養日に充てられる方も多いと思うが、私はすでに長期連載中で中断していたブログ『日米のきしみの本当の理由は何か?――単眼思考では分からない』の原稿2回分はすでに書きあげている。2回とも最近のブログとしてはかなり長くなってしまった。遊び疲れの読者には申し訳ないと思うが、集団的自衛権問題はこれで決着をつけたい。
4日に投稿したブログ『集団的自衛権問題――メディアは主張の論理性を問われる最終段階に入った』で引用した毎日新聞の記事が正確なら、集団的自衛権についての従来の政府見解(国会での政府答弁)はすでに大きく「解釈変更」され、限りなく「個別的自衛権」に近づいている。集団的自衛権行使を容認するための「憲法解釈の変更」を可能にするために「集団的自衛権の定義(国会での政府答弁)の変更」をしている。変更のための変更だ。前者の「変更」は憲法解釈を意味し、後者の「変更」は政府答弁の差し替えを意味している。
少なくともこれまでの政府答弁の変更は①攻撃を受けた密接な関係にある国(※具体的にはアメリカのこと)から要請されること、②放置すれば日本の安全が脅かされる場合、という二つだった。が、毎日新聞の報道では③として「集団的自衛権を行使する場所まで限定し、公海上かどの国の領土でもない北極・南極でしか行使できない」という条件まで付けた。そうなると、個別的自衛権との差別化が極めて難しくなる。というより差別化は事実上不可能と言っていい。自民党が、こうした「変更のための変更」を行っていることに気が付かないメディアは頭が悪いのか、それとも…。
そういう報道は私が「日米にきしみ…」を最終回まで書き上げた後なので、そういう報道も含めて部分的に書きなおすことも考えたが、いまいち毎日新聞の報道に信頼感が持てないため、一切手を加えず原本のままで明日と明後日の2回にわたって投稿することにする。
私が集団的自衛権問題で電話取材したのは、8日投稿の『日米のきしみの本当の理由は何か?――単眼思考では分からない⑦』で明らかにする、従来の政府答弁の作成担当省庁の幹部官僚だけである。
もう読者は、私のブログだけでなく新聞などのメディアで目と耳にタコができているだろうが、集団的自衛権の公式定義(政府答弁)はこうだ。
「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」
日本の場合、この定義に当てはまる国として現在該当する国はアメリカだけである。韓国とは今密接な関係にあるとは言えず、韓国が攻撃されても日本は軍事的支援を行えない。
政府答弁は、その問題の担当省庁の官僚が作成する。必要な場合は、その答弁案を内閣法制局がチェックして、問題がないとされたときはじめて政府の公式答弁として国会で発表される。集団的自衛権についての政府答弁も、担当省庁の官僚たちが練りに練って作り上げ、内閣法制局のチェックを受けて国会で発表された。
その答弁書での集団的自衛権の定義を前提に、これまで内閣法制局は「国際法上、固有の権利として認められているが、憲法9条の制約によって行使できない」としてきた。それを安倍総理は憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を可能にしたいと考えた。
そしてその作業(憲法解釈の変更の論理的根拠を作ること)を、安保法制懇に委ねてきた。安保法制懇の柳井俊二座長は昨年夏ころまでは、その作業の成功に自信満々だった。「年内に報告書を出す」と断言していた。
が、夏の終わりころから安保法制懇は沈黙するようになった。「4月中旬に」とか「ゴールデンウィーク明けには」とか「5月中には」などの日延べを、安保法制懇が直接公言したことは一度もない。メディアの政治部記者たちの憶測である。言うなら、全く当たらない「天気予報」みたいなものだ。かといって「憶測」を全面的に否定しているわけではない。「天気予報」と同様、それなりの根拠があっての憶測である。
政治家たちの発言は何らかの意図があってのものだ。そういう場合のリークは、記者がどう受け止めて記事にするか、その記事を見て世論がどう反応するか、を知るために打ち上げるアドバルーンであるケースが多い。当然新聞の論調や世論の動向を見て、青信号か、黄信号か、赤信号かを見極めながら対応を考える。だから計算づくの政治家の発言は、鵜呑みには到底できないはずなのだが…。が、なぜかメディアの記者は鵜呑みにして、あたかも政府の方針が決まったかのような報道をする。頭が悪いのか、それとも…。
当初、世論は集団的自衛権行使容認という安倍総理の意向に好意的だった。
そうした「世論形成」にメディアが乗ったからだ。が、公明党が今年に入って
突然集団的自衛権行使に慎重な姿勢を見せ始め、今では認められないという態
度にまで硬化した。その過程で、政府や自民党幹部の発言がコロコロ変わりだした。石破幹事長、高村副総裁が強行的発言を持続する一方、肝心の安倍総理は柔軟な姿勢を見せだした。
今月3日午後(日本時間4日未明)に安倍総理は訪問先のリスボンでの記者会見で「与党が一致することが極めて重要なので、場合によっては時間を要することもある」と述べた。この発言を受けてメディアは一斉に「今国会中の決定にはこだわらない考えを示した」と報じた。安倍総理の発言は事実であり、後段のメディアの報道は憶測記事である。一方安倍総理は安保法制懇に報告書を「12日の週にも提出していただくことになる」と述べた。総理が報告書の提出時期について言及したのは初めてである。
ここまでは単純に集団的自衛権問題の経緯を述べた。この経緯に異論を唱えるジャーナリストも政治家も、一人としていないはずだ。こうした集団的自衛権問題に関する報道は、実は事実と、事実を「根拠」にした憶測をないまぜにして行われるのが常である。報道とはそういうものだということを読者には理解しておいていただきたい。要するに「新聞記事」の読み方であり、「テレビの解説コメント」の聞き方である。
特に新聞記事で「政府高官は」とか「関係者は」といった特定不能な「発言」は、特定できない事情を明らかにしない場合、すべて記者のでっち上げと考えて間違いない。「新聞記者、見てきたようなウソを書き」は言い古された言葉だが、今でもその状態は続いている。
いま、安保法制懇のメンバーは私のブログに重大な関心を寄せている。私に、論理的に破滅させられないような報告書を出さざるをえなくなったからだ。ひょっとしたら、安保法制懇より政府答弁を作成した担当省庁の幹部官僚がいま頭を抱えているかもしれない。
そもそものミスは政府答弁自体にあった。なぜ集団的自衛権についた、あんな定義をしてしまったのだろうか。私には不思議でならない。
子どもでも分かる話だが、「自衛権」とは自国を守る権利のことである。他国を守る権利という解釈は、子供でもしない。だから国連加盟国のすべてが有する「自衛権」として国連憲章51条は「個別的又は集団的」と限定した。「個別的」とは言うまでもなく自国が保有する軍事力である。日本の場合「自衛隊」がいざというとき個別的自衛権を行使するために保持している軍事力である。
問題を複雑化させたのは「集団的自衛権」である。国連憲章を作成した人たちは、その解釈をめぐって日本が大混乱に陥るような事態は想定外だったのだろう。一番素直に解釈すればNATOやワルシャワ条約機構のような集団的防衛体制を支えるために軍事同盟を想定していたのであろう。そもそも国連憲章は枢軸国(日独伊)と敵対していた「連合国」が自分たちの軍事行動を正当化するために作った国際法である。そのことを理解している政治家も法曹家もメディアも、まったくないことが私には不思議でならない。せっかく国連憲章そのものがそのことを「自白」しているのにだ。その自白とは、今でも国連憲章には「枢軸国」に対する「敵国条項」が残っているからだ。
だから国連憲章51条が意味している「集団的自衛権」とは「連合国」のような軍事同盟を指していると考えるのが最も合理的である。なぜ「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」と定義してしまったのか、担当省庁の幹部の意図はどこにあったのか、私にも正直理解しかねる。
それにもまして、メディアがそういう疑問すら持たないことにも、正直理解しかねる。頭が悪いのか、それとも…。
私はこれまで、何度も「幼子のような感覚で、当たり前のように思い込んできたことに疑問を持て」と書いてきた。
自分のことを引き合いに出すのは多少気が引けるが、小学生の頃(たぶん4年か5年生のときだったと思う)、母親と地下鉄の銀座線に乗っていて、ふと疑問に感じたことがある。電車がホームに入る直前に(ホームから出るときも)車内の照明が一瞬消えるのだ。私は「どうして」と、母親に聞いたが、母が知るわけがない。でも私の母は立派だった。「お母さんは分からないから駅の人に聞いてみようね」と言って、下車駅で駅員に尋ねてくれた。駅員も分からず、あちこちに問い合わせてくれて、やっと理由が分かった。うろ覚えの記憶で書いているので自信はないが、銀座線の電車は走行中は直流電気で走っており、駅構内の電気は交流のため電車がホームに到着時と発射時に≪直流→交流→直流≫の切り替えが行われ、そのとき瞬間的に社内の照明もいったん消えるということが分かった。加齢とともに物忘れが多くなった私だが、そういう、大人から見れば馬鹿馬鹿しいと思われかねないことにふと疑問を持つ習性だけは失われていない。多分に母親の影響が大きかったと思う。
いま政府は少子高齢化対策と、若い母親の労働機会を増やすという、よく考えてみると「二律背反」の社会福祉政策に取り組んでいると言わざるを得ない。具体的には公的施設の保育所を増やそうという対策だ。また地方財政の負担増を抑えるために保育所と幼稚園を一体化して「認定こども園」を作るという計画も文科省と厚労省が連携して取り組んでいる。
そうした国の政策に先行して横浜市が「待機児童ゼロ」を目指して、一時的
に実現した。が、そのことが大きく報道されたため「子供を幼稚園より安い保育所に預けたい」という希望が殺到し、また施設増設の必要に迫られている。一方、「特養」(特別養護老人ホーム)は、全国有数の不足都市だ。特養は私の
親の時代には70歳になれば入居を申し込む資格が生じた(地域によって違うか
もしれない)。いまは「要介護」の認定をえなければ申し込めない。入居希望者が増え、特養を増やさずに入居資格を厳しくすることでバランスをとろうというわけだ。それでバランスがとれたらいいのだが、まったくバランスはとれていない。高齢化によって「要介護」の認定者が増えているのに、彼らは行政から取り残されたままだ。私はまだ「要介護」の認定を受けていないが、年齢的には対象者に入る。
そこで私は疑問を持った。待機児童ゼロのために惜しみなく税金を投入した横浜市では、若い母親の出生率が増加したのか、また若い母親の就労機会が増えて市の税収も増えて施設増設のための税金投入が無駄ではなかったことが証明されたのか。その結果を横浜市は公表していない。多分公表できない理由があるのだろう。
一方、「要介護」の認定を受けた高齢者は、待機待ち4~5年という。その待機中はだれが高齢者の面倒を見るのか。自己責任でやれ、というなら介護保険も取るな、と言いたい。
そういう疑問を持つと、別の新しい疑問が生じる。横浜市の市長選挙で「要介護」の認定を受けた高齢者は「票」にならないが、幼子を持つ若い母親のために保育施設を増設するという「公約」は確実に「票」になる。市民の税金を、自分の選挙を有利に進めるなら惜しみなく使うというのが、あるべき首長の姿勢なのだろうか。
若い母親が、幼子を公的施設に預けて働けば税収が増えるだけでなく消費も増える。経済の活性化につながることは間違いない。が、高齢者が、自分が「要介護状態」になった時いつでも特養に入れるという保証があれば、そういうときに備えて蓄えておく必要がなくなる。かなりの資産が高齢者に集中しているようだが、いざというときの心配がなくなれば、その金を消費に回したり、孫への小遣いを増やしたりして間接的に経済活性化に貢献できるようになる。
そういう問題意識を持って横浜市の行政をチェックするメディアは少なくとも今のところゼロである。メディアの記者は頭が悪いのか、それとも…。
ゴールデンウィークも今日が最終日だ。私もブログを書き、投稿してから毎日出かけて、それなりの過ごし方をさせていただいた。最終日の今日は多少の疲労感はあるが、天気も回復するようだし、有意義な最終日にしたいと思っている。今日投稿するブログも、いま推敲しながら投稿後の予定にわくわくしている。昨日は少し肌寒かったが、今日はすがすがしい1日になりそうだ。
明日から仕事の人は、今日は休養日に充てられる方も多いと思うが、私はすでに長期連載中で中断していたブログ『日米のきしみの本当の理由は何か?――単眼思考では分からない』の原稿2回分はすでに書きあげている。2回とも最近のブログとしてはかなり長くなってしまった。遊び疲れの読者には申し訳ないと思うが、集団的自衛権問題はこれで決着をつけたい。
4日に投稿したブログ『集団的自衛権問題――メディアは主張の論理性を問われる最終段階に入った』で引用した毎日新聞の記事が正確なら、集団的自衛権についての従来の政府見解(国会での政府答弁)はすでに大きく「解釈変更」され、限りなく「個別的自衛権」に近づいている。集団的自衛権行使を容認するための「憲法解釈の変更」を可能にするために「集団的自衛権の定義(国会での政府答弁)の変更」をしている。変更のための変更だ。前者の「変更」は憲法解釈を意味し、後者の「変更」は政府答弁の差し替えを意味している。
少なくともこれまでの政府答弁の変更は①攻撃を受けた密接な関係にある国(※具体的にはアメリカのこと)から要請されること、②放置すれば日本の安全が脅かされる場合、という二つだった。が、毎日新聞の報道では③として「集団的自衛権を行使する場所まで限定し、公海上かどの国の領土でもない北極・南極でしか行使できない」という条件まで付けた。そうなると、個別的自衛権との差別化が極めて難しくなる。というより差別化は事実上不可能と言っていい。自民党が、こうした「変更のための変更」を行っていることに気が付かないメディアは頭が悪いのか、それとも…。
そういう報道は私が「日米にきしみ…」を最終回まで書き上げた後なので、そういう報道も含めて部分的に書きなおすことも考えたが、いまいち毎日新聞の報道に信頼感が持てないため、一切手を加えず原本のままで明日と明後日の2回にわたって投稿することにする。