小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

安保法制懇の報告書は矛盾だらけだ。そもそも「集団的自衛権」の意味が分かっていない。⑤

2014-05-19 06:28:23 | Weblog
 17日のブログの続きを書く。
 1946年4月17日、政府は憲法改正草案を発表し、枢密院(天皇の最高諮問機関)に諮詢(検討を依頼するの意。「諮問」)した。その草案はこうだった。

第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを放棄する。
第2項 陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。

 枢密院は第2項について意見を述べ、政府は翌5月25日に修正案を再び枢密院に提示した。その修正は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない」である。私は法律家ではないので、最初の草案と修正案との意味の違いはよくわからない。意味の違いの説明もネットでは調べられなかった。なんとなく二つの文章を見比べて感じるのは、修正案の方がより厳しく「戦力の保持や国の交戦権」を否定しているように思える。そのあたりは個人の主観によって異なると思うので、憲法学者が差異を明確に説明してくれればありがたいと思う。
 いずれにせよ、この修正案が枢密院で可決され、6月25日に第90回帝国議会に上程され、衆議院帝国憲法改正小委員会において7月25日から8月20日にかけて13回の審議が行われた。その間、本会議では新憲法をめぐって政府と野党の間で激しい論戦が繰り広げられていた。その国会審議のやり取りは私が『日本が危ない』(1992年7月上梓)で書いているので、その個所を転記する。なおこのときの総理大臣は吉田茂(自由党)、帝国憲法小委員会の委員長が芦田均(民主党)である。

 吉田首相は国会での日本進歩党・原夫次郎議員の「自衛権まで放棄するのか」との質問に答え、「第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と、明確に自衛権を否定している(6月26日)。
 この吉田答弁に猛反発したのが、今日では護憲を旗印にしている社会党と共産党。まず共産党の野坂参三議員が「戦争は侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。したがって戦争一般放棄という形ではなしに、侵略戦争放棄とするのが妥当だ」と噛みついた。吉田首相は次のように答弁した。「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることは百害であろうと思うのであります。近年の戦争の多くは国家防衛の名において行われたることは顕著な事実であります」(6月28日)
 社会党の森三樹二議員も「戦争放棄の条文は、将来、国家の存立を危うくしないという保障の見透しがついて初めて設定されるべきものだ」と主張した。これに対して吉田首相は次のように答弁した。「世界の平和を脅かす国があれば、それは世界の平和に対する冒犯者として、相当の制裁が加えられることになっております」(7月9日)

 なお7月9日の吉田答弁とそっくり同じ主張を、日本共産党前委員長の不破哲三氏が劇作家の井上ひさし氏との対談本(光文社刊。題名は忘れた)で主張した。不破氏は新憲法制定過程における国会審議を勉強していなかったようだ。あるいは不破氏は所属すべき政党を間違えたのかもしれない。
 ご都合主義なのは安保法制懇も同じだ。このときの吉田答弁をもって、「憲法9条をめぐる憲法解釈は、戦後一貫していたわけではない。政府の憲法解釈は、終戦直後には『自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した』としていた」と報告書で述べているが、これは真っ赤なウソである。この時期、日本国憲法はまだ制定されていない。本会議での審議を踏まえて帝国憲法改正小委員会は様々な角度から検討し、芦田氏がまとめたのが現行憲法の原案である。その原案を、いわゆる「芦田修正案」という。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この芦田修正案が帝国議会における審議を経て通過し、政府は10月12日に「修正帝国憲法改正案」として枢密院に諮詢し(19日と21日に審査委員会)、10月29日に枢密院は天皇臨席のもとで可決した。同日天皇は憲法改正を裁可、11月3日に日本国憲法が公布され、翌47年5月3日から施行された。つまり吉田総理の「自衛権をも放棄する」との答弁は芦田修正案が帝国議会で審議される以前の、結局葬られることになった最初の憲法改正草案(政府原案)についてのものであり、一番早く考えても枢密院が可決し天皇が裁可した10月29日以降には、「自衛権放棄」の答弁は政府から一度もされていない。
 なお芦田修正案の大きな意味を持つのが下線を引いた個所であり、のちに自衛のための実力の保持と行使は憲法9条も否定していないという砂川判決の理論的根拠になった。国際状況の変化に対応して政府が憲法解釈を変えてきたというのは、安保法制懇のバカどもが憲法制定の歴史を捏造してでっち上げた「ウソ八百」以外の何物でもない。総理の諮問機関が、そこまでやるかと暗然たる思いがする。
 ただ「芦田修正」と言われる下線の部分が「自衛権の保持を意味するか」という疑問が憲法学者の一部から出てはいるようだ。しかし、芦田自身が新憲法が公布された46年11月に発表した『新憲法解釈』で次のように述べており、修正案を作成した時期と公布時期の間隔から考えると、芦田の主張は「結果論」とは言えないと思う。芦田は『新憲法解釈』でこう述べている。
「第9条の規定が、戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合だけであって、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争ということになる。したがって自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたものではない。また侵略に対して制裁を加える場合の戦争もこの条文の適用以外である。これらの場合には戦争そのものが国際法上から適法と認められているのであって、1928年の下関条約や国際連合憲章においても明白にこのことを規定している」

 総理は記者会見で「いわゆる芦田修正論は政府として採用できません」と述べた。が、「憲法9条は、自衛権まで否定したものではない」という政府の立場は憲法制定以降、まったく変わっていない。ただ、玉虫色と言えなくもない9条の条文によって、自衛隊創設後も自衛隊が日本社会から「日陰者」扱いされ、自衛隊を「軍隊」と規定できず、「実力」という意味不明な扱いをされてきた経緯については、私が今年1月22日から3回にわたって連載した長文のブログ『安倍総理の憲法改正への意欲は買うが「平和憲法」が幻想でしかないことを明らかにしないと無理だ』で詳述した。
 そのブログで展開した「現行憲法無効論」の立場に立って、独立回復後も占領下で制定された憲法を主権国家の憲法として存続させてきた事情について、国民と真摯に向かい合って誠実に説明しないと、憲法改正も無理だ。
 確かに中国の海洋進出など日本を取り巻く国際環境の変化は無視できないものがあることは疑いを容れない。だからと言って、国民も納得していない「憲法解釈の変更による集団的自衛権行使の限定容認」を国会での力関係だけで強行していいのか。自民党は憲法改正は公約で謳っていたが、集団的自衛権行使は公約で謳っていない。日本の総理はアメリカなどのように国民の直接選挙で選ばれた大統領ではない。「自分のしたことは選挙で洗礼を受ける」とはのぼせ上った考え方だ。
 総理の、つねに微笑みを絶やさない柔和な笑顔と、穏やかな語り口で、内閣支持率は高いが、個々の政策に対する支持率は反比例するように低下しつつある。消費税増税の支持率は高かったが、それは国民の総意を必ずしも反映したものとは言えない。高齢化社会が進む中で、自分の将来の生活不安を解消してもらえると考えた高齢者が、自分のために消費税増税支持に一斉に動いた結果と考えた方がいいかもしれない。
 私は何度もNHKふれあいセンターの上席責任者に世論調査の在り方について提案してきたが、上席責任者は私の主張に同意するものの、実際に工夫の形跡は見られないのが残念だ。私の提案は簡単だ。「コンピュータによる無作為な選択ではなく、都市と地方、年代別の二つを組み合わせた加重平均で選択対象を絞り込んだうえで、あとはコンピュータがその範囲で無作為な選択をするようにすべきだ」と主張しているだけなのだが。 
 ただ、問題があるのは、若い人たちの固定電話離れである。私はブログを書くためと、キーボード入力になれてしまっているので、パソコンが手放せないから、固定電話もバカ高い基本料を支払わされているが、若い人たちの大半は固定電話を持たず、携帯やスマホで電話もメールもネットも1台で済ませている。その人たちが、NHKだけではないが世論調査の対象から最初から除外されているのである。若い人にとっては、自分の将来が高齢者によって左右されてしまうことになりかねないのだ。消費税増税を若い人たちも支持してくれることを願ってはいるが、自分が高齢者になったときに貰える保証がない、と国民年金に加入しない若い人たちが激増している。そういう若い人たちの不安を取り除くための努力を高齢者はすべきだと思うのだが、そもそもそういう考え方をする人たちが政府にいないのが残念である。
 横浜市が、待機児童をいったんゼロにしたが、そのとたん保育園への入園希望者が増えて、また保育園増設を計画しているという。が、増設を決める前にすることがあったはずだ。保育園に幼児を預けた母親が、育児の苦労から解放された時間をどう使っているかの調査を横浜市はしたのだろうか。母親が、自分のために使う時間を増やすことが目的で育児を市に委ねているとしたら、それは「待機児童ゼロ計画」の目的とは大きくかけ離れているはずだ。そんなことに市民の税金を使われたらたまらない、という声が聞こえてくるようだ。
 世論の動向は政治を動かす力になりうるわけだから、本当に国民の総意が反映されるような世論調査システムを1日も早く構築してもらいたい。

 とりあえず、安保法制懇の報告書と安倍総理の記者会見についてのブログはこれで終了する。明日からは、すでに書きためておいた、いわゆる「残業ゼロ問題」についてのブログ(3回連続)を投稿することにする。