福井地裁の判決に対する全国紙5紙の社説が出そろった。判決が下ったのは21日。翌22日には読売新聞、朝日新聞、毎日新聞が、23日には日本経済新聞、産経新聞が社説で「大飯判決」について社としての主張を述べた。
福井地裁が下した「大飯判決」とは、関西電力が大飯原発の3,4号機について、国の原子力規制委員会の安全審査に合格したのを受けて再稼働を申請したのに対して、地元住民を中心に「安全性が確認されたとは言えない」として再稼働の差し止めを求めて起こした訴訟に対する判決で、住民側勝訴の「再稼働差し止め」を命じた判決を指す。
各紙の社説を読む前から予想していた通り、原発に対する考えが真っ二つに割れた。それぞれの社説の要旨と私の見解を述べる前に、各紙の社説が論理的整合性をどれだけ満たしているか、また原発の存在抜きに日本の国民生活は成り立つのか、あるいは原発に依存しない国民生活はどうなるかという視点で、「大飯判決」について読者自身が思考力を駆使して考えてほしい。なお私が言う「国民生活」は国民生活を支えている経済・社会・文化活動のすべて(もちろん産業だけでなく、公共インフラ、農水産業、医療、メディア、文化、スポーツ、教育など)も含んだ概念として使用していることをお断りしておく。
そのことを前提に、まず判決支持派の朝日新聞と毎日新聞の主張(社説の核心部分を抜粋)から見ていこう。
朝日新聞……見出しは『大飯差し止め 判決「無視」は許されぬ』である。「原発は専門性が高く、過去の訴訟で裁判所は、事業者や国の判断を追認しがちだった。事故を機に、法の番人としての原点に立ち返ったと言えよう。高く評価したい」「特筆されるのは、判決が、国民の命と暮らしを守る、という観点を貫いていることだ」「関電側は電力供給の安定やコスト低減を理由に、再稼働の必要性を訴えた。これに対し、判決は『人の生存そのものにかかわる権利と、電気代の高い低いを同列に論じること自体、法的に許されない』と断じた」「『原発停止は貿易赤字を増やし、国富流出につながる』という考え方についても、『豊かな国土に、国民が根を下ろして生活していることが国富だ』と一蹴した」「福島原発事故で人々が苦しむのを目の当たりにした多くの国民には、うなずける考え方ではないか」「事業者や国、規制委は、判決が投げかけた疑問に正面から答えるべきだ」
毎日新聞……見出しは『大飯原発差し止め なし崩し再稼働に警告』である。「判決の考え方に沿えば、国内の大半の原発再稼働は困難になる。判決は、再稼働に前のめりな安倍政権の方針への重い警告である」「住民の生命や生活を守る人格権が憲法上最高の価値があると述べ…『原発の存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然』と結論付けた」「住民の安全性を最優先した司法判断として画期的だ」「司法判断を無視し、政府が再稼働を認めれば世論の反発を招くだろう」「原発の持つ本質的な危険性に楽観的すぎ、安全技術や設備は脆弱(ぜいじゃく)だという判断だ」「原発の稼働を温暖化対策に結びつける主張を一蹴した。共感する被災者(※福島原発事故の)も多いのではないか」
次に、地裁判決に批判的な主張を見てみる。
読売新聞……見出しは『大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決』である。「『ゼロリスク』に囚(とら)われた、あまりにも不合理な判決である」「昨年7月に施行された原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい」「判決が、どれほどの規模の地震が起きるかは『仮説』であり、いくら大きな地震を想定しても、それを『超える地震が来ないという確たる根拠はない』と強調した点も、理解しがたい」「非現実的な考え方に基づけば、安全対策も講じようがない」「関電は規制委に対し…審査を申請している。規制委は、敷地内の活断層の存在も否定しており、審査は大詰めに差し掛かっている」別の住民グループが同様に再稼働の差し止めを求めた仮処分の即時抗告審では、大阪高裁が9日、申し立てを却下した。…常識的な判断である」「最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、『きわめて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている』との見解を示している」「原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった」「福井地裁が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである」
日本経済新聞……見出しは『大飯差し止め判決への疑問』である。「疑問の大飯判決である」「とくに想定すべき地震や冷却機能の維持などの科学的判断について、過去の判例から大きく踏み込み、独自の判断を示した点だ」「地震国日本では、どんなに大きな地震を想定しても『それを超える地震が来ない根拠はない』とも指摘した」「これは原発に100%の安全性を求め、絶対安全という根拠がなければ運転は認められないと主張しているのに等しい」「国の原子力規制委員会が昨年定めた新たな規制基準は、事故が起こりうることを前提に、それを食い止めるため何段階もの対策を義務付けた。『多重防護』と呼ばれ、電源や水が絶たれても別系統で補い、重大事故を防ぐとした」「判決はこれらを十分考慮したのか。大飯原発は規制委が新基準に照らし、安全審査を進めている。その結論を待たずに差し止め判決を下したのには違和感がある」「安全審査が進む中、住民の避難計画づくりが遅れている。安全な避難は多重防護の重要な柱だ」
産経新聞……見出しは『大飯再稼働認めず 非科学、非現実的判決だ』である。「あまりにも非現実的な判断ではないか」「同じ大飯原発の再稼働差し止めを求
めた仮処分の即時抗告審では、大阪高裁が『裁判所が差し止めを判断するのは相当ではない』として申し立てを却下したばかりだ」「(福井地裁は)安全対策そのものを否定した。それこそ、科学的な知見に基づかない悲観的見通しとはいえないか」「『世界一厳しい』とされる評価も考慮されていない。百パーセントの安全はありえない。これを求めては技術立国や文明社会の否定につながる」「(国富についての福井地裁の見解について)国富とは、国家の富であり、経済力のことである。語句の解釈までは司法に求めていない」「万が一のリスクについては多くが述べられながら、原発を稼働させないリスクについては、ことごとく一蹴した。『電気代の高い低い』は、多くの人や企業にとって死活の問題そのものである」
以上が全国紙5紙の主張の核心部分の抜粋である。原発問題を論じる場合の視点はいくつもある。二度の原爆投下に被害を受け、水爆実験の被害もこうむった日本には原子力そのものに対する感情的アレルギーが強いことも無視できない。
司法が、原発問題に判断を下す場合、まずそうした感情論に走っていないか、自ら顧みる必要がある。読売新聞が重要視した最高裁判決の「きわめて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」は、司法の判断基準として確立されていると考えるべきだろう。
確かに規制委が発足した当初、委員長に、元日本原子力研究所東海研究所副理事長・元原子力委委員長代理・元原子力学会会長といった肩書を持つ田中俊一氏が就任したことで、「これまで原発を推進してきた側の責任者の一人が安全性を審査する規制委のトップに就けば、審査は電力会社側に甘くなるのではないか」という指摘がされたことはあった。が、規制委の審査に厳しさについて、現在疑問を呈する声はない。むしろ電力会社が「厳しすぎる」と悲鳴を上げているのが現状だ。
その規制委の結論が出ないうちに、司法が安全基準について判断を下すということであれば、まず規制委の審査基準についての科学的知見による判断をするのが先だろう。それだけの科学的知見を福井地裁の裁判官が持っているとは、この判決からは到底うかがえない。そもそも、原発という「国の在り方」が問われるような問題について、科学的知見に基づかない主張を地裁がすること自体、司法の権限を逸脱しているとは考えなかったのか。
私はこのブログの冒頭で、こう書いた。
原発の存在抜きに日本の国民生活は成り立つのか、あるいは原発に依存しない国民生活はどうなるかという視点で、「大飯判決」について読者自身が思考力
を駆使して考えてほしい。なお私が言う「国民生活」は国民生活を支えている
経済・社会・文化活動のすべて(もちろん産業だけでなく、公共インフラ、農
水産業、医療、メディア、文化、スポーツ、教育など)も含んだ概念として使用していることをお断りしておく、と。
もちろん福島原発事故が起きる前だが、原発について「必要悪」と奇妙な原発肯定論を主張するメディアや評論家と称する人たちもいた。事故が起きてから政府も(当時は民主党政権だったが)「安全神話に寄りかかりすぎた」と繰り返し述べていた。が、本当に「安全神話」など存在していたのか。あたかも反省しているかのような発言を繰り返すことによって、言い逃れの隠れ蓑にしていたのではなかったか。私は、もちろん単なるジャーナリストの一人にすぎない。が、1989年8月に上梓した『核融合革命』(早稲田出版刊)のなかでこう書いている。
出力の小さい、つまり小規模の原発であれば、原子炉本体と一次冷却水の回路をすっぽり頑丈な容器で包んでおけば、万一、事故が起きても、格納容器で外界と遮断することが可能である。
ところが、100万キロワット級の大規模発電所の場合は、万一、爆発事故が起こった場合、そのエネルギーを格納容器に完全に封じ込めることは困難である。 そこで、原発の安全対策の最大のポイントとして考え出されたのが緊急炉心冷却装置(ECCS)である。
(原子炉内の)一本一本の燃料棒はジルコニウム合金のチューブで被覆されている。この合金は高温状態では水蒸気と反応して水素を発生する。1000度を超すと、この反応は急激に活発になり、この合金の融点である1900度になると、反応は爆発的になるとされている。だから、ジルコニウム合金チューブの温度が絶対に1000度を超えないようにしなければならない。
一方、燃料棒の内部は、核分裂によって高温になっている。一次冷却水が正常に作用していれば、燃料棒のチューブが1000度以上の高温にさらされることはないのだが、万一、パイプの破損などで冷却水が流れ出てしまったらどうなるか。
その時制御棒を大量に投入し、核分裂の進行をストップさせても、燃料棒内部の高熱はいっきには下がらないおそれがある。冷やしてくれる水がなくなれば、燃料チューブは短時間で千数百度の高温になり、先に述べたような爆発的な化学反応を起こして崩壊してしまう可能性もある。
この最悪事態が、原発事故で最も恐れられている「炉心溶融」(メルトダウン)である。そうなると、周辺に死の灰をまき散らす程度では済まない。灼熱のドロドロになった炉心が、原子炉の底を溶かし、コンクリートの底も突き抜けて地面の奥深くへもぐりこんでいくかもしれないのである。
アメリカでは、いったんこうした事態が起こると地球の裏側の中国まで炉心の“旅行”が続くというブラックジョークで「チャイナ・シンドローム」と呼んでいる(そういうストーリーの映画も作られた)。だが今日では、メルトダウンした炉心は、地価の土壌に含まれる諸物質が灼熱で溶けてできたガラスの泡に封じ込められ、地下20メートルの地点で蒸気爆発を起こすと考えられている。
いずれにせよチャイナ・シンドロームが大惨事を起こすであろうことについては、科学者の意見は一致している。
そういう恐るべき事態に立ち至らぬよう、万一原子炉が暴走し始めたときに、最後の一瞬で食い止めようという装置が緊急炉心冷却装置である。これは、別のタンクにためておいた冷却水を、イザというとき一気に炉心に送り込んで炉心を冷やそうという仕組みだ。
問題は、緊急時にこの装置が確実に働いてくれるか、である。そしてまた、緊急炉心冷却装置が作動したとして、それが有効に暴走をストップしてくれるかどうかである。
緊急炉心冷却装置はアメリカで開発されたものだが、肝心のアメリカにおいてすら、原子力学者の間では有効性を疑問視する人もいるのである。
ATS(自動停止装置)がついているにもかかわらず、電車の追突事故がときどき起きるように、どんな安全装置であっても、百パーセントの完璧性を期待するのは難しいようである。
私はこの文章に続いてチェルノブイリ原発事故の検証作業を行った。その後半部分を転記する。
(定期検査のため)先ず半日かけて出力を半分に落とし、二つあるタービンの一つを止めた。ここまでは、すべて順調であった。
午後2時過ぎ、実験計画に従って緊急炉心冷却装置のスイッチを切った。
ところがその直後、「そのまま出力を下げずに、もう少しの間、発電を続けろ」という予定外の指令が入った。当然、オペレーターはいったん切った緊急炉心冷却装置のスイッチを入れなければならないのに、入れ忘れたのか、面倒くさかったのか、切ったままにしておいた。重大な規則違反であった。
「もう少しの間、発電を続けろ」という予定外の指令が撤回され、発電停止のOKが出たのは午後11時10分。オペレーターは制御棒を入れて出力を下げていった。このとき、オペレーターはまたミスを犯した。自動制御系のミスである。そのため出力が下がりすぎ、発電能力がガクンと落ちた。これでは緊急炉心冷却装置のポンプを始動させることができない。
あわてたオペレーターは制御棒を次々に引き抜いて核反応を活発化させるこ
とにした。出力は少しずつ上がったが、20万キロワットのレベルで安定してしまった。実験を行う予定の出力よりまだかなり低かったが、20万キロワット以上にはどうしても上がらない。やむを得ず、その状態で実験に入ることにした。
午前1時19分、オペレーターの一人が、炉心で発生した蒸気を集める蒸気・水分離器内の水位が下がりすぎていることに気づき、直ちに分離器への給水を増やした。それはいいのだが、この措置でコンピュータが異常を感知して原子炉を自動停止させてしまうことを恐れたオペレータ-は、この系統の安全装置である緊急停止信号回路も切ってしまった。安全装置が働くと実験ができなくなる、という実験優先の考えであった。
さらにミスは続く。このとき出力が再び低下しだしたため、オペレーターが残っていた制御棒を引き上げてしまったのだ。一方、分離器の水位が回復したため、オペレーターは給水を絞った。
1時22分45秒、各種計器は炉心の状態が安定していることを示した。
午前1時23分4秒、実験開始。まずタービン発電機につながる蒸気弁を閉じた。だが、タービンは慣性でしばらく回り続け、お余りの電気を作っている。その電気で緊急炉心冷却装置のポンプが作動するはずであったが、出力が少なかったためポンプの作動が遅くなり、炉心への冷却水の流れが穏やかになっていった。当然、冷却水は沸騰し、炉心温度が急上昇した。
オペレーターはあわてて緊急停止スイッチを押した。制御棒を一斉に炉心に投入しようとしたのだ。このときドンという衝撃があった。制御棒が何かに引っ掛かってしまったのだ。オペレーターは直ちに制御棒を作動させる歯車のピンを外し、重力で落下させた。だが、間に合わなかった。
1986年4月26日午前1時23分45秒、チェルノブイリ原発4号炉は大爆発を起こした。
ことわっておくが、私は原発に対し格別のイデオロギー的立場を持っているわけではない。言うならば公平な第三者のつもりだ。自分のイデオロギー的主張を正当化するため都合のいいデータだけをかき集め、賛成論や反対論をぶつ人が多いが、それは客観性のある主張とはいえないであろう。
以上が、1989年8月に上梓した著書からの抜粋である。私はいまは自分自身について「公平な第三者のつもり」とは考えていない。そもそも「公平な第三者」などはありえないと、いまは考えている。私はジャーナリストはいかなる価値観も主義・主張も持つべきではない、といまでも思っているが、そういうスタンスそのものが一種の主義・主張であり、いまは主張する場合、自分はどういうスタンスで考えているかを自己検証しながら行うようにしている。だから原発問題を考える場合も、「原発抜きに日本の国民生活は成り立つのか、あるいは原発に依存しない国民生活はどうなるか」という視点と、「原発のリスクをどうしたら最小にとどめることができるのか」という視点を両立させる論理的整合性のある方法を考えている。
この本を書いた当時は地球温暖化は世界的な問題になっておらず、動燃の考えられないような「バケツ事件」も発覚していなかった。だが、原発はどんなに技術的安全対策を講じていても、人的ミスが一瞬にしてすべての安全システムを崩壊してしまうということだけ書きたかった。
私たちが、東電福島原発事故から学ぶべきことは、自然災害の恐ろしさより、
緊急時の人的ミスがどういう結果を招くかが、いま少しずつ明らかになりつつあり、その教訓を今後にどう生かすかだということだと思っている。(続く)
福井地裁が下した「大飯判決」とは、関西電力が大飯原発の3,4号機について、国の原子力規制委員会の安全審査に合格したのを受けて再稼働を申請したのに対して、地元住民を中心に「安全性が確認されたとは言えない」として再稼働の差し止めを求めて起こした訴訟に対する判決で、住民側勝訴の「再稼働差し止め」を命じた判決を指す。
各紙の社説を読む前から予想していた通り、原発に対する考えが真っ二つに割れた。それぞれの社説の要旨と私の見解を述べる前に、各紙の社説が論理的整合性をどれだけ満たしているか、また原発の存在抜きに日本の国民生活は成り立つのか、あるいは原発に依存しない国民生活はどうなるかという視点で、「大飯判決」について読者自身が思考力を駆使して考えてほしい。なお私が言う「国民生活」は国民生活を支えている経済・社会・文化活動のすべて(もちろん産業だけでなく、公共インフラ、農水産業、医療、メディア、文化、スポーツ、教育など)も含んだ概念として使用していることをお断りしておく。
そのことを前提に、まず判決支持派の朝日新聞と毎日新聞の主張(社説の核心部分を抜粋)から見ていこう。
朝日新聞……見出しは『大飯差し止め 判決「無視」は許されぬ』である。「原発は専門性が高く、過去の訴訟で裁判所は、事業者や国の判断を追認しがちだった。事故を機に、法の番人としての原点に立ち返ったと言えよう。高く評価したい」「特筆されるのは、判決が、国民の命と暮らしを守る、という観点を貫いていることだ」「関電側は電力供給の安定やコスト低減を理由に、再稼働の必要性を訴えた。これに対し、判決は『人の生存そのものにかかわる権利と、電気代の高い低いを同列に論じること自体、法的に許されない』と断じた」「『原発停止は貿易赤字を増やし、国富流出につながる』という考え方についても、『豊かな国土に、国民が根を下ろして生活していることが国富だ』と一蹴した」「福島原発事故で人々が苦しむのを目の当たりにした多くの国民には、うなずける考え方ではないか」「事業者や国、規制委は、判決が投げかけた疑問に正面から答えるべきだ」
毎日新聞……見出しは『大飯原発差し止め なし崩し再稼働に警告』である。「判決の考え方に沿えば、国内の大半の原発再稼働は困難になる。判決は、再稼働に前のめりな安倍政権の方針への重い警告である」「住民の生命や生活を守る人格権が憲法上最高の価値があると述べ…『原発の存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然』と結論付けた」「住民の安全性を最優先した司法判断として画期的だ」「司法判断を無視し、政府が再稼働を認めれば世論の反発を招くだろう」「原発の持つ本質的な危険性に楽観的すぎ、安全技術や設備は脆弱(ぜいじゃく)だという判断だ」「原発の稼働を温暖化対策に結びつける主張を一蹴した。共感する被災者(※福島原発事故の)も多いのではないか」
次に、地裁判決に批判的な主張を見てみる。
読売新聞……見出しは『大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決』である。「『ゼロリスク』に囚(とら)われた、あまりにも不合理な判決である」「昨年7月に施行された原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい」「判決が、どれほどの規模の地震が起きるかは『仮説』であり、いくら大きな地震を想定しても、それを『超える地震が来ないという確たる根拠はない』と強調した点も、理解しがたい」「非現実的な考え方に基づけば、安全対策も講じようがない」「関電は規制委に対し…審査を申請している。規制委は、敷地内の活断層の存在も否定しており、審査は大詰めに差し掛かっている」別の住民グループが同様に再稼働の差し止めを求めた仮処分の即時抗告審では、大阪高裁が9日、申し立てを却下した。…常識的な判断である」「最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、『きわめて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている』との見解を示している」「原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった」「福井地裁が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである」
日本経済新聞……見出しは『大飯差し止め判決への疑問』である。「疑問の大飯判決である」「とくに想定すべき地震や冷却機能の維持などの科学的判断について、過去の判例から大きく踏み込み、独自の判断を示した点だ」「地震国日本では、どんなに大きな地震を想定しても『それを超える地震が来ない根拠はない』とも指摘した」「これは原発に100%の安全性を求め、絶対安全という根拠がなければ運転は認められないと主張しているのに等しい」「国の原子力規制委員会が昨年定めた新たな規制基準は、事故が起こりうることを前提に、それを食い止めるため何段階もの対策を義務付けた。『多重防護』と呼ばれ、電源や水が絶たれても別系統で補い、重大事故を防ぐとした」「判決はこれらを十分考慮したのか。大飯原発は規制委が新基準に照らし、安全審査を進めている。その結論を待たずに差し止め判決を下したのには違和感がある」「安全審査が進む中、住民の避難計画づくりが遅れている。安全な避難は多重防護の重要な柱だ」
産経新聞……見出しは『大飯再稼働認めず 非科学、非現実的判決だ』である。「あまりにも非現実的な判断ではないか」「同じ大飯原発の再稼働差し止めを求
めた仮処分の即時抗告審では、大阪高裁が『裁判所が差し止めを判断するのは相当ではない』として申し立てを却下したばかりだ」「(福井地裁は)安全対策そのものを否定した。それこそ、科学的な知見に基づかない悲観的見通しとはいえないか」「『世界一厳しい』とされる評価も考慮されていない。百パーセントの安全はありえない。これを求めては技術立国や文明社会の否定につながる」「(国富についての福井地裁の見解について)国富とは、国家の富であり、経済力のことである。語句の解釈までは司法に求めていない」「万が一のリスクについては多くが述べられながら、原発を稼働させないリスクについては、ことごとく一蹴した。『電気代の高い低い』は、多くの人や企業にとって死活の問題そのものである」
以上が全国紙5紙の主張の核心部分の抜粋である。原発問題を論じる場合の視点はいくつもある。二度の原爆投下に被害を受け、水爆実験の被害もこうむった日本には原子力そのものに対する感情的アレルギーが強いことも無視できない。
司法が、原発問題に判断を下す場合、まずそうした感情論に走っていないか、自ら顧みる必要がある。読売新聞が重要視した最高裁判決の「きわめて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」は、司法の判断基準として確立されていると考えるべきだろう。
確かに規制委が発足した当初、委員長に、元日本原子力研究所東海研究所副理事長・元原子力委委員長代理・元原子力学会会長といった肩書を持つ田中俊一氏が就任したことで、「これまで原発を推進してきた側の責任者の一人が安全性を審査する規制委のトップに就けば、審査は電力会社側に甘くなるのではないか」という指摘がされたことはあった。が、規制委の審査に厳しさについて、現在疑問を呈する声はない。むしろ電力会社が「厳しすぎる」と悲鳴を上げているのが現状だ。
その規制委の結論が出ないうちに、司法が安全基準について判断を下すということであれば、まず規制委の審査基準についての科学的知見による判断をするのが先だろう。それだけの科学的知見を福井地裁の裁判官が持っているとは、この判決からは到底うかがえない。そもそも、原発という「国の在り方」が問われるような問題について、科学的知見に基づかない主張を地裁がすること自体、司法の権限を逸脱しているとは考えなかったのか。
私はこのブログの冒頭で、こう書いた。
原発の存在抜きに日本の国民生活は成り立つのか、あるいは原発に依存しない国民生活はどうなるかという視点で、「大飯判決」について読者自身が思考力
を駆使して考えてほしい。なお私が言う「国民生活」は国民生活を支えている
経済・社会・文化活動のすべて(もちろん産業だけでなく、公共インフラ、農
水産業、医療、メディア、文化、スポーツ、教育など)も含んだ概念として使用していることをお断りしておく、と。
もちろん福島原発事故が起きる前だが、原発について「必要悪」と奇妙な原発肯定論を主張するメディアや評論家と称する人たちもいた。事故が起きてから政府も(当時は民主党政権だったが)「安全神話に寄りかかりすぎた」と繰り返し述べていた。が、本当に「安全神話」など存在していたのか。あたかも反省しているかのような発言を繰り返すことによって、言い逃れの隠れ蓑にしていたのではなかったか。私は、もちろん単なるジャーナリストの一人にすぎない。が、1989年8月に上梓した『核融合革命』(早稲田出版刊)のなかでこう書いている。
出力の小さい、つまり小規模の原発であれば、原子炉本体と一次冷却水の回路をすっぽり頑丈な容器で包んでおけば、万一、事故が起きても、格納容器で外界と遮断することが可能である。
ところが、100万キロワット級の大規模発電所の場合は、万一、爆発事故が起こった場合、そのエネルギーを格納容器に完全に封じ込めることは困難である。 そこで、原発の安全対策の最大のポイントとして考え出されたのが緊急炉心冷却装置(ECCS)である。
(原子炉内の)一本一本の燃料棒はジルコニウム合金のチューブで被覆されている。この合金は高温状態では水蒸気と反応して水素を発生する。1000度を超すと、この反応は急激に活発になり、この合金の融点である1900度になると、反応は爆発的になるとされている。だから、ジルコニウム合金チューブの温度が絶対に1000度を超えないようにしなければならない。
一方、燃料棒の内部は、核分裂によって高温になっている。一次冷却水が正常に作用していれば、燃料棒のチューブが1000度以上の高温にさらされることはないのだが、万一、パイプの破損などで冷却水が流れ出てしまったらどうなるか。
その時制御棒を大量に投入し、核分裂の進行をストップさせても、燃料棒内部の高熱はいっきには下がらないおそれがある。冷やしてくれる水がなくなれば、燃料チューブは短時間で千数百度の高温になり、先に述べたような爆発的な化学反応を起こして崩壊してしまう可能性もある。
この最悪事態が、原発事故で最も恐れられている「炉心溶融」(メルトダウン)である。そうなると、周辺に死の灰をまき散らす程度では済まない。灼熱のドロドロになった炉心が、原子炉の底を溶かし、コンクリートの底も突き抜けて地面の奥深くへもぐりこんでいくかもしれないのである。
アメリカでは、いったんこうした事態が起こると地球の裏側の中国まで炉心の“旅行”が続くというブラックジョークで「チャイナ・シンドローム」と呼んでいる(そういうストーリーの映画も作られた)。だが今日では、メルトダウンした炉心は、地価の土壌に含まれる諸物質が灼熱で溶けてできたガラスの泡に封じ込められ、地下20メートルの地点で蒸気爆発を起こすと考えられている。
いずれにせよチャイナ・シンドロームが大惨事を起こすであろうことについては、科学者の意見は一致している。
そういう恐るべき事態に立ち至らぬよう、万一原子炉が暴走し始めたときに、最後の一瞬で食い止めようという装置が緊急炉心冷却装置である。これは、別のタンクにためておいた冷却水を、イザというとき一気に炉心に送り込んで炉心を冷やそうという仕組みだ。
問題は、緊急時にこの装置が確実に働いてくれるか、である。そしてまた、緊急炉心冷却装置が作動したとして、それが有効に暴走をストップしてくれるかどうかである。
緊急炉心冷却装置はアメリカで開発されたものだが、肝心のアメリカにおいてすら、原子力学者の間では有効性を疑問視する人もいるのである。
ATS(自動停止装置)がついているにもかかわらず、電車の追突事故がときどき起きるように、どんな安全装置であっても、百パーセントの完璧性を期待するのは難しいようである。
私はこの文章に続いてチェルノブイリ原発事故の検証作業を行った。その後半部分を転記する。
(定期検査のため)先ず半日かけて出力を半分に落とし、二つあるタービンの一つを止めた。ここまでは、すべて順調であった。
午後2時過ぎ、実験計画に従って緊急炉心冷却装置のスイッチを切った。
ところがその直後、「そのまま出力を下げずに、もう少しの間、発電を続けろ」という予定外の指令が入った。当然、オペレーターはいったん切った緊急炉心冷却装置のスイッチを入れなければならないのに、入れ忘れたのか、面倒くさかったのか、切ったままにしておいた。重大な規則違反であった。
「もう少しの間、発電を続けろ」という予定外の指令が撤回され、発電停止のOKが出たのは午後11時10分。オペレーターは制御棒を入れて出力を下げていった。このとき、オペレーターはまたミスを犯した。自動制御系のミスである。そのため出力が下がりすぎ、発電能力がガクンと落ちた。これでは緊急炉心冷却装置のポンプを始動させることができない。
あわてたオペレーターは制御棒を次々に引き抜いて核反応を活発化させるこ
とにした。出力は少しずつ上がったが、20万キロワットのレベルで安定してしまった。実験を行う予定の出力よりまだかなり低かったが、20万キロワット以上にはどうしても上がらない。やむを得ず、その状態で実験に入ることにした。
午前1時19分、オペレーターの一人が、炉心で発生した蒸気を集める蒸気・水分離器内の水位が下がりすぎていることに気づき、直ちに分離器への給水を増やした。それはいいのだが、この措置でコンピュータが異常を感知して原子炉を自動停止させてしまうことを恐れたオペレータ-は、この系統の安全装置である緊急停止信号回路も切ってしまった。安全装置が働くと実験ができなくなる、という実験優先の考えであった。
さらにミスは続く。このとき出力が再び低下しだしたため、オペレーターが残っていた制御棒を引き上げてしまったのだ。一方、分離器の水位が回復したため、オペレーターは給水を絞った。
1時22分45秒、各種計器は炉心の状態が安定していることを示した。
午前1時23分4秒、実験開始。まずタービン発電機につながる蒸気弁を閉じた。だが、タービンは慣性でしばらく回り続け、お余りの電気を作っている。その電気で緊急炉心冷却装置のポンプが作動するはずであったが、出力が少なかったためポンプの作動が遅くなり、炉心への冷却水の流れが穏やかになっていった。当然、冷却水は沸騰し、炉心温度が急上昇した。
オペレーターはあわてて緊急停止スイッチを押した。制御棒を一斉に炉心に投入しようとしたのだ。このときドンという衝撃があった。制御棒が何かに引っ掛かってしまったのだ。オペレーターは直ちに制御棒を作動させる歯車のピンを外し、重力で落下させた。だが、間に合わなかった。
1986年4月26日午前1時23分45秒、チェルノブイリ原発4号炉は大爆発を起こした。
ことわっておくが、私は原発に対し格別のイデオロギー的立場を持っているわけではない。言うならば公平な第三者のつもりだ。自分のイデオロギー的主張を正当化するため都合のいいデータだけをかき集め、賛成論や反対論をぶつ人が多いが、それは客観性のある主張とはいえないであろう。
以上が、1989年8月に上梓した著書からの抜粋である。私はいまは自分自身について「公平な第三者のつもり」とは考えていない。そもそも「公平な第三者」などはありえないと、いまは考えている。私はジャーナリストはいかなる価値観も主義・主張も持つべきではない、といまでも思っているが、そういうスタンスそのものが一種の主義・主張であり、いまは主張する場合、自分はどういうスタンスで考えているかを自己検証しながら行うようにしている。だから原発問題を考える場合も、「原発抜きに日本の国民生活は成り立つのか、あるいは原発に依存しない国民生活はどうなるか」という視点と、「原発のリスクをどうしたら最小にとどめることができるのか」という視点を両立させる論理的整合性のある方法を考えている。
この本を書いた当時は地球温暖化は世界的な問題になっておらず、動燃の考えられないような「バケツ事件」も発覚していなかった。だが、原発はどんなに技術的安全対策を講じていても、人的ミスが一瞬にしてすべての安全システムを崩壊してしまうということだけ書きたかった。
私たちが、東電福島原発事故から学ぶべきことは、自然災害の恐ろしさより、
緊急時の人的ミスがどういう結果を招くかが、いま少しずつ明らかになりつつあり、その教訓を今後にどう生かすかだということだと思っている。(続く)