小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

安倍総理の憲法改正への意欲は買うが「平和憲法」が幻想でしかないことを明らかにしないと無理だ。③

2014-01-24 04:57:59 | Weblog
 憲法問題についての最終回である。かなり長い。明日から週末なので私もブログを休ませてもらうが、読者もじっくり読んでいただきたい。
 昨日のブログで書いたように、『日本が危ない――NI(ナショナル・アイデンティティ)のすすめ』を上梓したのは1992年7月、『忠臣蔵と西部劇』の5か月前である。この著書を読んでくれた朝日新聞の軍事ジャーナリストの権威(当時)としてテレビにもたびたび出演していた田岡俊次氏から自宅に電話をいただいた。田岡氏は「論理的にはまとまっていると思うが、危険な要素もある」と感想を述べられた。1時間以上に及ぶ議論の末、私の「日本国民が海外で、犯罪集団によってではなく国家権力によって生命の危機にさらされた場合、日本政府はどういうスタンスでこの問題に対処すべきだと田岡さんはお考えですか」と聞いたのに対し、田岡氏はしばらく沈黙した挙句「その答えは持っていない」と率直に答えられた。「平和ボケ」していると、そういう事態が現に生じていても論理的思考力が停止してしまうようだ。
 その著書のまえがきを転用する。

 正直なところ、私は湾岸戦争と旧ソ連邦の解体に直面するまで、日本の安全や防衛問題について深い関心を抱いていたわけではなかった。
 戦後40数年の間、日本は自ら軍事行動に出たこともなく、また他国から侵略されることもなく、見せかけの平和が続く中で経済的繁栄を遂げてきた。私はそういう状態が今後も長く続くに違いない、と無意識のうちに思い込んでいたのかもしれない。日本とアメリカの結びつきは政治的にも経済的にも強固であり、日米関係に突拍子もない異変が生じない限り、日本の安全は世界のどの国よりも保障されている、と信じて疑わなかった。
 だが、湾岸戦争と旧ソ連邦の解体は、そんな勝手な思い込みをアッという間に打ち砕いてしまった。
 まず湾岸戦争。イラクが突如クウェートに侵攻し、日本人141人が人質にされた。経済大国日本の海外駐在ビジネスマンが、テロリストの標的にされる事件は最近頻発しているが、いかなる犯罪とも関係のない日本人の、それも民間人の生命が他国の国家権力の手によって危機にさらされるという事態は、戦後40数年の歴史で初めてのことだった。
 このときは日本政府は主体的な解決努力を放棄し、ひたすら国連頼み、アメリカ頼みに終始した。独立国家としての誇りと尊厳をかけて、人質にされた同胞の救出と安全に責任を持とうとするのではなく、アメリカやイギリスの尻馬にのってイラクへの経済封鎖と周辺諸国への医療・経済援助、さらに多国籍軍への資金カンパに応じただけであった。
 私は、自衛隊を直ちに中東に派遣すべきだった、などと言いたいのではない。現行憲法や自衛隊法の制約のもとでは、海外派兵が難しいことは百も承知だ。
「もし人質にされた日本人のたった一人にでも万一のことが生じたときは、日
本政府は重大な決意をもって事態に対処する」
 海部首相が内外にそう宣言していれば、日本の誇りと尊厳はかすかに保つことが出来たし、人質にされた同胞とその家族の日本政府への信頼も揺るがなかったに違いない。
 もちろん、そのような宣言をすれば、国会で「自衛隊の派遣を意味するものだ」と追及されたであろう。その時は、直ちに国会を解散して国民に信を問うべきであった。その結果、国民の総意が「人質にされた同胞を見殺しにしても日本は戦争に巻き込まれるべきではない」とするなら、もはや何をか言わんやである。私は日本人であることを恥じつつ、ひっそりと暮らすことにしよう。
 私の本書における基本的スタンスは、この一点にあることを、前もって明らかにしておきたい。
 もう一つの旧ソ連邦の解体は、日本にとっての安全保障とはいったい何なのか、という問題を改めて私に突き付けた。
 これまで日本の安全が、日米安保体制によって守られてきたことは、今さら多言を要さないであろう。平和憲法の理念は、私も大いに尊重しているが、「平和憲法の存在」が他国の日本侵略への野望を封じてきたわけでは決してない。
 が、旧ソ連邦の解体とCIS(独立国家共同体)の民主化が、日米安保体制崩壊への引き金になる可能性が出てきた。日本にとっては旧ソ連以外にも、日米安保体制に自国の安全を委ねざるを得ない脅威は存在するが、アメリカにとってはその理由はきわめて希薄である。日本にとっては日米安保体制の存続はいぜんとして死活の重要事だが、アメリカにとってはそうではない。CISの今後はいまだ不透明だが、エリツィンの経済改革が成功し、民生が安定化し、民主化が急速に進んだときは、アメリカが日米安保条約を破棄しようとする可能性はかなり高いと考えなければならない。(※現在は中国の軍事大国化や北朝鮮の核が極東の平和にとって重大な脅威となっており、アメリカも日米安保体制を放棄するわけにはいかない状態になっているが、私が同書を執筆していた時点では今日を予想することはだれにもできなかったと思う)
 そのとき日本は、自国の安全と防衛に対して、自ら全責任を負わなければならなくなる。
 その仮説に立って、日本の防衛政策はどうあるべきかを考えてみた。

 昨日のブログでは日本が「世界の奇跡」と言われた経済復活の足掛かりを作った吉田茂氏の“功”の部分に光を当てた。今日のブログでは“罪”の部分を検証する。
 昨日のブログで、日本が独立を回復したのは朝鮮戦争の真っ最中であり、吉田内閣の「傾斜生産方式」によって日本が産業の立て直しに成功し、朝鮮戦争の特需にありつけたことを検証した。今日は、まず日本が独立を回復したことの意味を深く掘り下げて考えてみたい。
 現行憲法が占領下において制定されたことは昨日のブログで書いた。そして第1次吉田内閣が憲法草案を国会に提出したのは1946年6月25日である。玉音放送で昭和天皇が終戦を国民に宣言したのは45年8月15日だが、日本政府が国体維持を条件にボツダム宣言の受諾を連合国に伝えたのは8月9日である。
 実は奇妙な話がある。日本政府は北方四島は日本の領土だと主張する。45年8月9日が終戦日であるなら、ソ連の北方四島占領はその後であるから国際法上も無効なはずだ。だが、終戦日が15日ということになると、その前に北方四島はソ連に占領されていたから、ソ連の戦勝獲得領土ということになる。だから日本政府が「不法占拠だ」と主張できないのはそのためである。せいぜい日本政府は日ソ中立条約の一方的破棄は国際法上許されないと主張するしかない。日本が終戦日を8月15日としている以上、北方四島がソ連によって戦争中に占領されたという事実は認めざるを得ない。こんなことを書いたら私は命を狙われるかもしれないが、論理的思考を基準にする限り、そういう結論にならざるを得ない。
 また昨日のブログで書いたように、ボツダム宣言は米英中三国首脳の名で発せられたが、宣言の作成は米英ソの三国首脳による。このブログで、この歴史の不可解を解明することは無理なので、簡単に経緯だけ書いておこう。
 日ソ中立条約が締結されたのは41年4月13日である。日本にもソ連にもそれぞれの思惑があって条約の締結に至っている。日本政府にとっては南方作戦を推進することや、アメリカとの関係悪化に備えて背後の憂いを排除しておきたかった。ソ連もドイツの侵攻が確実視されていた状況からも、日本軍に侵略されない状況を確保しておきたかった。実際、日ソ中立条約の締結によってソ連は日本の脅威を考慮する必要がなくなり、極東の兵力を根こそぎ対独戦に備えて大移動させている。
 そもそも国際間の条約とはそんな利害関係の中でしか作られないということを肝に銘じておく必要がある。歴史の検証には「たられば」の視点が絶対に欠かせないと書いたが、もしソ連が日本軍の脅威を重要視して対独戦に兵力を集中することが出来なかったら、独ソ戦争はどうなっていたかわからない。
 それでも、スターリンはボツダム宣言の作成に深くかかわっていながら、日本との中立条約のために宣言に名を連ねることを断っている。そのためボツダム宣言はトルーマン(米)・チャーチル(英)・蒋介石(中)の3首脳連名で日
本に突き付けられることになった。そしてスターリンは、日本との中立条約を
破棄できる大義名分をトルーマンに要求、トルーマンは国連憲章の名において対日参戦をソ連に要請するという形をとったのである。
 そういう経緯があるから、北方四島の返還についてアメリカは一切口出しできないし、日本も対ソ返還交渉においてアメリカのバックアップを期待できない理由がそこにある。尖閣諸島についてはアメリカは日米安保条約の対象になると中国をけん制してくれているが、それは南下政策をあらわにしている中国をけん制することがアメリカにとっての国益になるからで、アメリカの国益にならない北方四島や竹島の領有権に関しては知らんぷりだ。アメリカの日本に対する見方なんて、そんな程度だということも国民は分かっておいた方がいい。
 永世中立を宣言した国はたくさんあるが、永世中立を宣言したら平和が保障されると思っていたら、とんでもない。いちおう国際会議などで永世中立が認められたら、その国が第三国から侵略されたら永世中立を承認した国は武力で第三国を排除する義務を負うことになってはいるが、その義務を果たす国があったとしたら、義務を履行することが自国の国益に合致する場合だけである。現にベルギーやルクセンブルグはロンドン会議で永世中立を承認されたが、ドイツに侵略されたとき、ロンドン会議で永世中立を承認した国のうちのどの国も軍事的支援を行わなかった。スイスが永世中立を維持できているのは障害者以外は例外を認めない徴兵制があり、かつ兵役義務を果たしたのちもスイス国民は他国から侵略された場合、直ちに兵役に復帰する義務を負っており、また自宅やグループ単位で武器弾薬を保管して備えを万全にしているからだ。独立国家としての誇りと尊厳は、文章では守れない。
 そうした現実を考えるとき、日本が連合国に占領されていた間は、日本を防衛する義務は連合国側にあり、だからそのことを前提にして憲法9条が設けられたという認識を国民すべてが共有する必要がある。「平和憲法があったから、戦後の日本は戦争に巻き込まれなかった」などという幻想をばらまくことは、日本がベルギーやルクセンブルグのようなことになることを国民に事実として知らせたうえで、そういう主張が国民から支持されるなら、それはそれで国民の総意による選択だから、私は何も言わない。
 実は占領下において現行憲法は制定されたが、GHQが勝手に日本国憲法を作って日本に押し付けたわけでもない。GHQが憲法の各条文についてどこまで関与したかは、憲法学者たちが様々な資料を検証し、いろいろな説も出ているが、最終的には日本の国会で可決されたことは事実であり、また国会で可決されたのちに国民投票が行われたという事実もなければ、日本国民が承認して成立した憲法ではないことも紛れもない事実である。
 私に言わせれば、現行憲法はGHQから押し付けられたとか、押し付けられてはいないとかの議論はどうでもいいことなのだ。はっきりしていることは、現行憲法は独立国の憲法でもなければ、国民の審判も仰いでいないという動かしがたい事実だけである。憲法9条にどの程度GHQの意向が反映されたかは、憲法学者たちが趣味の世界で勝手に騒いでくれていればいいことで、国会でどういう議論があったかだけを検証しておく。
 実は憲法9条に真っ向から反対したのは社会党と共産党だった。『日本が危ない』で国会での審議について検証したので転用する。

 吉田首相は国会での日本進歩党・原夫次郎議員の「自衛権まで放棄するのか」との質問に答え、「(9条)第2項に置いて一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と、明確に自衛権を否定している(46年6月26日)。
 この吉田答弁に猛反発したのが、今日では護憲を旗印にしている社会党と共産党。まず共産党の野坂参三議員が「戦争は侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。したがって戦争一般放棄という形ではなしに、侵略戦争放棄とするのが妥当だ」と噛みついた。吉田首相は次のように答弁した。
「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることは有害であろうと思うのであります。近年の戦争の多くは国家の防衛権の名において行われたることは顕著な事実であります」(6月28日)
 社会党の森三樹二議員も「戦争放棄の条文は、将来、国家の存立を危うくしないという保障の見通しがついて初めて設定されるべきものだ」と主張した。これに対しては吉田首相は次のように答弁した。
「世界の平和を脅かす国があれば、それは世界の平和に対する侵犯者として、相当の制裁が加えられることになっております」(7月9日)
 それから40数年の星霜を経て、「平和憲法」に対する政府・自民党の考え方と、社会党や共産党などいわゆる護憲勢力の主張は180度逆転してしまった。歴史のパラドックスはしばしば皮肉な結果を生むことがある。

 かくして現行憲法は自衛権についての曖昧さを残したまま46年11月3日に公布され、半年後の47年5月3日から施行された。こうした経緯で5月3日が憲法記念日というのは、なんとなく「それでいいの ?」と言いたくなるような気分がする。
 果たせるかな、日本に戦後最大の危機が突然やってきた。朝鮮戦争の勃発である。
 あれっ、昨日は朝鮮戦争で日本は経済復活の足掛かりを作ったと書いたのでは…と思われる方もいるだろう。確かにそう書いた。だけど、昨日は吉田総理の“功”の部分として日本経済復活の足掛かりとなった(ただし結果論)「傾斜
生産方式」について書いたが、今日のブログは“罪”の部分について書くと、あらかじめお断りしておいたはずだ。
 占領下での憲法で、日本が自衛権すら放棄したのはやむを得ない面もあった。GHQの日本への制裁は厳しく、日本を農業国家に逆戻りさせようとした気配も確実にあった。そうした方針について米政府内で批判が巻き起こったことも昨日のブログで書いている。GHQは軍事技術につながりかねない民間用の航空機の開発生産まで禁じたくらいだから、そうした状況下で吉田内閣が自衛権すら否定する憲法解釈をしたのは、米軍が日本に駐留して日本の防衛を肩代わりしてくれている間に経済の立て直しに全力を注ごうという意図があったのは疑いを容れない。
 吉田総理の国会答弁を改めて見直すと、「ほとんどの戦争は防衛を口実にしている」というのも事実だし、いまでも先の大戦は「自衛のためのやむをえざる戦争だった」と主張する人もいるくらいで、もともとは自衛のためにやむを得ず戦火を交えることになった結果、予想以上に大勝して侵略戦争に化した例は世界史を紐解くとごまんとある。たとえば織田信長が桶狭間で今川義元率いる大軍勢を破った戦争は紛れもなく「自衛権の行使」であったが、勝利したことによって信長は侵略者になっていった。戦争の本質は今も昔も変わらない。
 憲法制定の3年後に勃発した朝鮮戦争によって、日本はどういう状況に直面したか。私は『日本が危ない』でこう書いた。

 アメリカは大バクチを打つことにした。日本占領軍を根こそぎ(朝鮮半島に)動員することにしたのだ。
 当時、日本にはアメリカ陸軍四個師団が占領軍として日本各地に駐屯していた。その四個師団を、国連軍最高司令官のマッカーサー元帥は次々に朝鮮半島に投入していった。日本は、たちまち丸裸になってしまった。平和憲法の理念はいいが、理想だけでは国は守れない、という冷たい現実に日本国民は直面した。
 この戦後最大の危機を無事に凌げたことは、今から考えると、やはり僥倖というしかないであろう。マッカーサー率いるGHQは朝鮮戦争勃発の直前、レッドパージを指令、共産主義者に対する弾圧を強めていた。これによって共産勢力の力が急速に衰えたことが、日本への共産革命の飛び火を結果的に防いだ。またソ連軍もヨーロッパに釘づけにされていて、日本に革命を輸出するだけの余力がなかった。もちろん中国は北朝鮮への支援で手一杯だった。こうした「偶然」が、丸裸になった日本を辛うじて支えたのであって、平和憲法の理想が日本を戦火から防いでくれたわけではないのである。

 安倍総理は、今日の中韓の反日感情の高まりや北朝鮮の軍事的脅威に対する国民の意識の変化を利用して憲法改正に取り組もうとしているが、政治というものははそういうものだと言われてしまえばそれまでだが、私はいくばくかの寂しさを抱かざるを得ない。
 なぜ安倍総理は吉田総理が、独立を回復した時点で現行憲法無効を宣言せず、日本の防衛をアメリカ任せにして経済再建にのみ総力を挙げざるをえなかったのかという、当時の日本が置かれていた状況を説明し、その後、憲法解釈の変更に次ぐ変更でつぎはぎだらけの防衛体制を整えざるをえなかったこと、それも限界に達していること、そもそも自衛隊の存在そのものが厳密には憲法違反であることを率直に国民に訴え、現行憲法が制定された当時は日本が占領下に置かれていたという特殊事情もあったこと、日本が独立を回復した時点で本来なら憲法を改正すべきだったことを粘り強く国民に訴えれば、いまの日本国民の認識力レベルの高さから考えても十分理解が得られるはずだ。
 確かに、日本が独立を回復した時点では、アメリカが日本を防共の砦として日本の安全を保障することがアメリカ自身の国益にかなっていたし、吉田総理がアメリカに日本防衛を委ねて経済復活の総力を挙げたことはやむを得なかった面もあると私は考えている。だが、当時の日本の国際社会に占めていた地位と現在とでは雲泥の差がある。
 人口数で日本の10倍はある中国にGDP(国内総生産)こそ抜かれて世界第3位になってはいるが、国際社会に占める日本の地位の高さに見合う責任と義務を、国際社会に対して負うべき状況に日本が直面していることを訴えれば、日本国民は間違いなく理解する。日本人の民度はそこまで高まっていることに、安倍総理は国家の事実上の元首として誇りを持ってもらいたい。
 私は前にブログで「消費税増税を国民が支持したことは世界に例を見ないことだ」と書いたが、日本人が豊かさを実感できない状況下でも社会保障の充実のためにはやむを得ないと受け入れたことからも、日本国民の民度は世界に誇れるほど高くなっていることを安倍総理は自覚してもらいたい。
 そのうえですでに日本は「集団的自衛権」をいつでも日本は行使できる状態にあることを明確にして、従来の政府解釈が間違っていたことを国民に謝罪してほしい。また日米安保条約は細い糸のような危ういものに過ぎないことを明白にし、日本が他国から侵略を受けた場合、日本の集団的自衛権の行使に、アメリカが日米安保条約に基づいて、日本防衛のための軍事的支援を確実にさせるための「保険」として、日米安保条約を現在の片務的な規定から双務的な規定に変更する必要があることを国民に訴えるべきだろう。
 日本の国は日本自身が自分の力で守ることが独立国としての当然の責務であり、安倍総理は、独立国家としての責務を果たすべく、また世界の平和に貢献すべく、今日の日本が占めている国際的地位にふさわしい責務を果たせるような憲法に改めなければならない、ということを心の底から国民に訴えて欲しい。
 政府解釈によれば自衛隊は「専守防衛」にとどめなければならないことになっている。専守防衛とは、敵国の攻撃が開始されてから軍事行動を行使できること、戦力の保有と軍事力の行使は自衛に必要な最小限度にとどめること、敵国の軍事基地などへの攻撃は行わないこととされている。果たしてそういう制約の中で自衛隊は本当に日本を防衛できるのだろうか。子供にも理解できるたとえで検証してみる。
 個人の格闘技に剣道やフェンシングがある。柔道やボクシングも格闘技ではあるが、武器は使わないので、武器を使用する格闘技に絞って検証したい。
 もし剣道やフェンシングで、一方が専守防衛を義務付けられたら果たしてまともに戦えるだろうか。剣道やフェンシングで専守防衛を義務付けられた選手は相手を攻撃できないから、もっぱら自分が持っている武器(剣道の場合は竹刀、フェンシングの場合はフルーレ、エペ、サーブルの3種類)を、相手を攻撃する用途には使えず、相手の攻撃を防ぐための道具としてしか使用できないことを意味する。「下手な鉄砲も数撃てば当たる」ということわざがあるが、どんなに力の差があっても相手が専守防衛だと分かっていれば攻撃側は自分を守ることを考えずに相手を攻めることが出来るのだから、大人と子供くらいの力量の差がないかぎり相手の攻撃を防ぐことはできない。
 日本が自衛隊が保持できる戦力と、戦力の行使の範囲を専守防衛にとどめてきたのは、日本がアメリカを勝手に同盟国と思い込み(安倍首相は間違いなくそう思っていない。だからこそ真の同盟関係を構築するために政治生命をかけている。ただ集団的自衛権について従来の誤った政府解釈が安倍総理の判断を誤らせただけだ)、「いざ鎌倉」というときはアメリカが助けてくれると信じ込んでいたことによる。アメリカにとって、間違いなく同盟国と言えるのは、たぶんイギリスだけだろう。
 やはり戦国時代を思い起こせば、織田信長と徳川家康は攻守同盟を結んでいた。その攻守同盟に基づいて織田軍が窮地に陥った時、家康は援軍を派遣した。だが、徳川軍が窮地に陥り信長に援軍を求めたとき、信長はすぐには援軍を派遣しなかった。この事実をもって後世の歴史小説家は「信長は冷たい、家康は律儀」といった人物像を作り上げてきた。だが、そうした人物観では解釈できない歴史的事実も豊富にある。そして、自分が描きたい人物像を正当化するために、そうした事実をネグってきた代表的歴史小説家が司馬遼太郎氏である。信長が援軍を出し渋ったのは、それなりの事情があったからで、だから直面していた問題が解決した時点で援軍を急いで出している。一方、家康のほうはそうした事情がなかったうえ、信長との力関係を少しでも有利な方向に動かしたいという思惑があったためと考えられる。歴史的事実の検証とは、そういう目線でいろいろな事実の裏に潜む当事者の思惑を合理的に忖度することでなければならない。
 そういう目線で、吉田総理がなぜ、サンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保障条約に調印したのかと考えることが必要であり、そう考えると吉田総理が朝鮮戦争の勃発によって傾斜生産方式という経済政策が実を結びつつある状況を絶好の好機として、さらに経済復興に総力を注ぐことを目的に、日本の防衛をアメリカに全面的に委任するという、独立国の誇りも尊厳も失うことを意味する日米安全保障条約をアメリカとの間に取り交わし、占領下において制定された憲法を温存した理由も忖度できようというものだ。
 一方、アメリカも共産主義勢力の南下を食い止めるため、考えようによっては割に合わない安保条約を結んだのは、日本が共産化したら、太平洋を隔ててアメリカ本国が共産主義勢力の脅威をまともに受けることになるという計算が裏にあった。だから、朝鮮戦争が予想外に長引き、北朝鮮軍の手強さ(中国が人海戦術で北朝鮮軍を支援したことも見逃せないが)に手こずり、すでに書いたように日本各地に駐屯していた米陸軍四個師団をすべて朝鮮半島に投入して日本を丸裸にしてしまったことからも、アメリカの国益が日本の防衛より朝鮮半島の共産化を防ぐほうにあると判断したら、日本を見捨てることをためらわないのだ。
 実際、この判断を下したマッカーサー総司令官はのちに『回想録』でこう書いている。
「ところで(在日米軍を根こそぎ朝鮮半島に投入した場合)日本はどうなるのか、私の第一義的責任は日本にあり、ワシントンからの最新の指令も『韓国の防衛を優先させた結果、日本の防衛を危険にさらすことがあってはならない』と強調していた。日本を丸裸にして、北方からのソ連の侵入を誘発しないだろうか。敵性国家が日本を奪取しようとする試みを防ぐため、現地部隊をつくる必要があるのではないか」
 吉田総理の“罪”の部分について、私は『日本が危ない』で、日本が独立を果たし、吉田内閣が日米安保条約の国会での承認を求めたときの状況をこう検証している。その検証記述の見出しは「憲法改正へのたった一回のチャンス」である。この記述の転用をもって憲法問題の連載ブログを終える。

 旧安保条約は、前文及び五つの条文から成り立っているが、そのポイントは以下のとおりである。
 日本は武装解除されているため固有の自衛権を行使できる有効な手段を持っ
ていない。しかし無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないため、日本は自国防衛のための暫定措置として、日本に対する武力攻撃を阻止するために米軍が日本国内およびその周辺に駐留することを希望する。アメリカは安全と平和のために、自国軍隊を日本国内およびその付近に維持する意思がある。
 旧安保条約によれば、駐留米軍は「極東における国際平和と安全に寄与する」ため、また「外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされた日本国における大規模の内乱および騒擾を鎮圧するため、日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するため使用することができる」となっていた。この条文は一見、米軍が日本の防衛のために駐留するかのごとき印象を与えるが、実はそうではない。条文の草案段階では「もっぱら日本の防衛を目的とする」という表現でいったん合意していたのを、アメリカ政府が「日本の安全に寄与することを目的とする」に変更するよう強く主張し、日本政府がやむなくアメリカ側主張をのんだという経緯がある。
 その結果、日本側には駐兵受入れの義務があるのに、アメリカは日本の防衛についての明確な義務を負わなくて済むことになった。在日米軍の義務はせいぜいのところ「日本の安全に寄与する」ことであった。つまり、日本防衛の主体は日本側にあることが、この表現によって明確にされたのである。実際旧安保の前文には「(日本が)直接および間接の侵略に対する自国の防衛のため、漸増的に自ら責任を負うことを(アメリカは)期待する」と明記されており、警察予備隊(※自衛隊の前身)の枠組みを超えた軍事力の整備を図らなければならないという重い責任が日本政府にのしかかったのである。
 そしてこのような旧安保条約の片手落ちさが、左右両翼から厳しく批判されることになる。社会党が「対米従属だ」として反対したのは当然のことながら、憲法解釈で「自衛権の行使は許される」とした芦田氏(※実は憲法9条2項の原案には「前項の目的を達するため」という文章が入っていなかった。それに噛み付いたのが芦田均議員で「この原案のままだと、いかなる戦力も無条件に保持しないことになってしまう」とクレームを付けて原案を修正させた。いわゆる「芦田修正」である)も、「日米安保は日本の安全だけでなくアメリカにも利するところが大きいのに、ひたすら日本の懇請に基づいたようになっている」「米軍に日本の治安を頼むような内容になっているが、これは吉田首相のいう民族の自負心と矛盾しないか」「日本が自ら防衛責任を負えるようになるため、アメリカに対して経済援助の戸口をたたく従来の態度をやめ、軍事援助の戸口をたたいて再軍備すべきではないのか」と、吉田内閣に迫ったのである。
 吉田首相はこれに対し「当面は国力の回復を図ることと、民主主義日本を世界に印象づけることが大切だ」とのみ答えた。(中略)
 この安保条約を批准した国会では、憲法論議はほとんど行われなかった。旧
安保には日本自身の手による防衛責任が明確にうたわれていたのに、それと憲法第9条との整合性を問題にする政党はなかった。せめて芦田氏が自分の憲法解釈へのこだわりを捨て、自衛権をも否定した吉田答弁との矛盾をあくまで追求していたら、この時点で憲法を改正することは可能だったと思われる。(中略)
 この時期の保守と革新の力関係からすれば(※旧安保条約の採決は衆院で賛成289票、反対71票の大差で、参院でも147対76の大差で可決した)、憲法を改正し、第9条の条文に「ただし日本国と日本国民の安全を守る自衛のための戦力の保持と、そのやむをえざる行使については否定するものではない」という一文を付け加えることができたであろう。そうしていれば、際限のない憲法の拡大解釈によってその場しのぎの帳尻合わせをしていくという歴代自民党政府の無様さは回避できたであろう。まさに旧安保を批准したときが憲法改正の千載一遇のチャンスであり、そしてこのようなチャンスは二度と訪れることはなかった。(※念のため、『日本が危ない』の上梓は1992年7月である)