小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

法務省官僚と国会が世論とマスコミの感情的主張に屈服して、とんでもない法律を作ってしまった。 ④

2014-01-16 06:43:26 | Weblog
 再びNHKの報道体制のほころびが露呈した。ニュース7ではまったく報道せず、ニュースウォッチ9の最後(気象予報の直前)に井上あさひアナウンサーが読み上げたニュースで、ニュース番組の放映中に飛び込んできた臨時ニュースのような感じだった。なんとなく歯切れの悪いアナウンスだったので、ふれあいセンター終了の直前だったが電話で問い合わせた。コミュニケーターはアナウンス内容を確認した後「3年前に脱線事故を起こしたJR北海道の当時の社長で元会長の坂本真一相談役が自殺した可能性が高いと北海道警は見ているというアナウンスでした」と答えた。なんとなく釈然としなかったが、私も年齢を重ねることで記憶力は確実に衰えており、私の思い違いだったかといったんは納得して、引き続いてテレビ朝日の報道ステーションを見た。
 ところが、私の思い違いではないことを報道ステーションが明らかにしてくれた。JR北海道の脱線事故は11年5月、その年の9月の当時の社長の中島尚俊社長が遺書を残して自殺していたのだ。報道ステーションはこの事件の報道について既に編集を終えており、現場からの中継や関係者への取材も放映し、坂本氏は08年に会長職を退き相談役になって取締役も辞めていたという(07年の間違い。この程度のミスは許容範囲)。が、坂本氏は取締役を辞任した後も毎回取締役会にしゃしゃり出て、事実上坂本氏が院政を敷いていたようだ。報道ステーションはこの事件についてコメンテーターとの打ち合わせもすでに済ませており、滞りなく報道した。
 私はNHKの報道姿勢について批判を繰り返してきたが、もはや報道スタンス以前の問題で、箍(たが)が緩んでいるとしか言いようがない。最近民放のニュースショーはショー的要素を弱めつつあり、逆にNHKはエンターテイメントなど娯楽色を濃厚に打ち出している。これが公共放送としてあるべき姿かと思うと、情けないの一言に尽きる。

 さて読者の皆さんは、私のブログ記事を参考にいろいろ情報をネット検索されただろうか。実は私もこの記事を書く直前に調べたことがある。
 私がネット検索したのは、「裁判員制度」「死刑囚」「終身刑」「仮釈放」「再犯率」「永山裁判」「陪審員制度」「12人の怒れる男」などのキーワードで検索した。検索サイトはウィキペディアと特定せず、検索エンジンであるヤフーから検索をかけた。結果的には大半の情報はウィキペディアから得た。あとは、そうして得た情報をどう論理的に解釈し、ジグソーパネルを組み立てるような感じで主張の一貫性を確認しながら問題を解決するという作業を完成すればよい。
 ちょっと横道にそれる。論理的な解釈とはどういう方法かを説明しておこう。一番説明しやすいケースを例にとる。ゴルフの規則の変更である。ゴルフなんかやったことがないという方は前後に1行空白を入れるので、読み飛ばしていただきたい。

 ゴルフには人工の障害物によって正常なプレーが困難とプレーヤーが判断した場合、ホールに近づかない範囲で障害物を避けることが出来る場所に球をドロップして、球が多少転がっても2クラブ以内の範囲であればその球を打つことが出来る。2クラブ以上転がった場合は再度ドロップして、また2クラブ以上転がってしまったら2回目にドロップした地点に球をプレースすることが出来る。仮に球がカート道路上に止まった場合、道路の左右どちら側にドロップするかが複雑になった。
 かなり昔は、道路の中央を基準にして中央より左側に球があればドロップする地点は道路の左側、右側にあればドロップする地点は道路の右側と決められていた。この場合はきわめて単純で、プレーヤーが迷うことはなかった。が、いつルールが変更されたかは覚えていないが、道路の中央を基準にするのではなく、ニアレスト・ポイントが基準になった。そのため非常に複雑になったのである。ニアレスト・ポイントとは、元の球の位置を起点にして、障害物を避け、かつホールに近づかずに正常なプレーができる地点のことである。
 その変更がされたとき、規則ではもし障害物がなかったとしたら使っているはずのクラブを使用してニアレスト・ポイントと球が転がる許容範囲を決めるべきだということになっていた。たとえばピンまで150ヤードの距離が残る地点だったら5番か6番アイアンでニアレスト・ポイントを決め、その地点とホ-ルに近づかない範囲でそのクラブ2本分のスペースにドロップしなさいという規則だったのである。が、この規則には違反しても罰則がなかった。そのため、プロ選手でさえ一番長いドライバーを用いてニアレスト・ポイントと球をドロップする範囲を決めることが許されていた。
 私のこの解釈を「間違い」と指摘できる人がいたら、私は完全に脱帽する。おそらくプロのプレーヤーでもそういう解釈をしていたと思う。
 ところが数年前、再び規則が改定された。改定されたことによって私はなぜ前の規則に罰則規定がなかったのかという本当の理由が分かった。
 どういうふうに改定されたか。ニアレスト・ポイントを決めるために使うクラブは何を使ってもいい、となったのである。さてこの部分を読んでおられる読者はゴルフ規則をある程度ご存じだということを前提に私は書いている。皆さんはなぜ規則を再改定する必要があったとお考えだろうか。
 実は某名門ゴルフ場の専属プロやマスター室のスタッフに、ちょっと意地悪だったが質問してみたことがある。彼らの答えは同じだった。「罰則規定がないから、どのクラブを使ってもいいとした方が分かりやすいからでしょう」。読者の皆さんもそうお考えではないだろうか。単純に考えるとそういう答えになるのだが、さらにもっと素直に、そして単純に考えると、この答えは間違っていることに気づくはずなのだ。
 この問題を解くヒントは、前の規則ではなぜ罰則規定を設けることが「できなかったのか」という単純で素朴な疑問を持つことである。私は前に論理的思考力を磨くには幼子のような素直な感覚で常識と思ってきたことに疑問を持つことだと書いたことがある。もっと分かりやすく書くと、とりあえず頭の中を真っ白にして素直な気持ちで考えてみなさい、ということである。
 そろそろ皆さんを焦らすのはやめて私の考えを述べる。これはあくまで私の考えでJGAに質問して答えを得たわけではないので、JGAに聞いたら別の答えが返ってくるかもしれない。ただゴルフ規則はJGAは原文(英語)を日本語に翻訳しているだけで、規則の改定にかかわっているわけではないから「USGAにお問い合わせください」と言ってくるかもしれない。念のためゴルフ規則はUSGAとゴルフ発祥の地・英セントアンドリュースゴルフクラブが共同で毎年改定している。
 では私の単純思考の結果を書こう。理由は二つある。
 ① 仮に障害物がなかったとしたら、どのクラブを使うかはプレーヤーの自
  己判断で、マーカーや競技委員が「そこにある球だったら5番アイアンを
  使うべきだ」などと指示することは許されていない。プレーヤーが「私は
  ドライバーを使ってコントロールショットで球を転がしてグリーンを狙う」
  と主張したら、だれも「それはおかしい」と言えないのが、ゴルフの自己
  責任の基本的な考え方である。
 ② 救済処置を取れば球は当然移動するから、シチュエーションも変わる。
  ということは、最初の球の状況だったら5番アイアンを使うかもしれない
  が、球のシチェエーションが変われば当然使用するクラブ選択にも影響が
  生じる。同じクラブを使えというなら、同じシチュエーションの場所に球
  をプレースしてもよいという規則に変えないとおかしなことになる。
 ほとんどの読者は「なーんだ、そんなことか」と思われると思う。私はゴルフの規則についての専門的知識はほとんど持っていない。ただ規則が変わった時、それを「ああ、そうなりましたか」と何の疑問も持たずに受け入れるようなことをしないだけだ。これが私のいう幼子のような素直な感覚であらゆることに疑問を持つ訓練を自らに課すことが、論理的思考力を高めるための最善の方法だということである。

 もう一つ例を上げる。ニュートンが、リンゴが木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見したという有名なエピソードは子供のころ、だれもが聞いているはずだ。あまりにも出来すぎたエピソードで、この話は後から作られたと思う。だが、「あまりにも出来すぎたエピソードだ」と疑問に思うことが大切なのだ。そういう疑問を持つと、必ずしも「まったくのウソ」とも言い切れないかもしれない、と次々に疑問が出てくる。そこから「なぜ、こんな一見ありえないエピソードが真実として今日でも伝えられているのか」という疑問がさらに生じる。そこから私はこう想像力を働かせる。
 おそらくニュートンは子供のころにふと見た光景が鮮烈で脳裏の片隅に残っていて、物理学者になった時、何かのきっかけで子供のころに疑問に思ったことを思い出したのだろうと。 私事になって恐縮だが、私の孫が幼稚園の中年組の時(4歳)電車に乗っていて、たまたま座席が空いていなかったためドア横の手すりにつかまって外を見ていた。その電車が地下鉄だったのが幸いした。外の景色を見ることが出来ないので、孫が面白いことに気付いて私に聞いてきた。「じいちゃん、どうして石がいっぱい置いてあるの ?」。
 大人になると、あまりにもありふれたことには何の疑問も持たずに見過ごしてしまう。私はそれまで自分では意識せずに、何にでも疑問を持つ習慣を自然に身に付けてきた。が、孫が私に大人だったら疑問を持たないことに素朴な疑問を持った。その幼い感覚が、論理的思考力を高めるための方法にとして非常に有効だということに、その瞬間気づいたのである。
 それからである。私が幼こころで物事を考えることを目的意識にするようになったのは。「頭の中をいったん空っぽにする」という言い方もするし、「すべての既成観念を持たずに考えろ」とも言うが、せんじ詰めれば同じことを表現を変えて言っているだけなのだ。
 論理的思考力は、簡単な習慣を身に付ければ誰にでも容易に自分のものにすることが出来る。その簡単な習慣とは、たとえば日本の憲法は「平和憲法」と位置付けることに疑問を持つことである。実は自民党は結党以来の念願であり、党是でもある憲法改定を主張する際ですら、現行憲法が「平和憲法」であることを否定していない。おそらく読者の皆さんも、日本の憲法は「平和憲法」だと思い込んでおられると思う。それだけ「平和憲法」という言葉は国民の脳裏に染み込んでいる。
 護憲団体が「日本には平和憲法があるから戦後、平和でいられた」と主張していることには「バカ言うな」と反発している方も少なくないと思う。おそらく反発される方は「日本が平和でいられるのはアメリカが日本を守ってくれているからだ」と考えておられるのではないだろうか。
 その考え方が間違いだというわけではないのだが、日米安保条約には期限の定めがあり、その期限が来たとき日米の一方が条約の破棄を申し入れれば、一瞬にしての本はアメリカに援助を要求する権利を失うことになっている。アメリカはアメリカの国益のために日米安保条約を維持しているのであって、日本を防衛することがアメリカの国益につながらなくなったら、期限が来たら日米安保条約は解消される。そのとき日本の平和を「平和憲法」が守ってくれるだろうか。そうお考えの方は、刑法の条文だけ作っておけば犯罪は生じないはずだと考えなければ自分の思考法に論理的整合性がないことをお認めいただかなければならない。憲法も刑法も国内法である。外国の行動を国内法で規制することはできない。そう考えれば「平和憲法」などと思い込み、現行憲法が日本の平和を守っているなどといった考えが、何の根拠もない幻想でしかないことにすぐ気付かれるはずだ。
 私が言いたいのは、「平和憲法」という位置づけ方に素朴な疑問を抱くことが大切だということである。たまたま私が「平和憲法」を問題にしたのは、第2次安倍内閣の誕生によって憲法96条の改正や集団的自衛権の行使問題が浮上したためで、それが現行憲法に対する「平和憲法」という位置づけに対する疑問を私に持たせるきっかけになっただけの話である。つまり、国民の大多数が知らず知らずのうちに思い込まされてきたことに、ふと疑問を抱く機会はごまんとあり、その疑問を解くためのヒント(あくまでヒントですよ)はインターネットがいくらでもタダで与えてくれる。
 
 さて本題に戻ろうと思ったが、ちょっと論理的思考力の高め方についての話を長く書きすぎた。誠に申し訳ないが、本題についてのブログの続きは明日に延ばさせていただきたい。明日でこの連載ブログは終える。