とりあえず昨年末の今年最後のブログ『政府の税制改正大綱で露呈した、戦時中と変わっていなかったマスコミの体質』の末尾で読者の皆さんのお出しした「お年玉」――台形の面積を公式を使わず計算する方法を文章で書け、という問題に対する回答はコメントには見つけることが出来なかった。残念。
しかし私の友人が、メールで送ってきた。答えが間違っているのではないかと思い、コメントに書くことを遠慮したようだ。が、友人がメールで送ってきた答えが大正解だった。友人の答えを一言一句変えずに無断転記する。「同じ台形を用意して上下逆さまにして付けると平行四辺形になるので、高さと横の長さで平行四辺形の面積がわかるので、付けていた台形を元に戻せば面積の出来上がり! うーん、これはただ公式を解説しただけのような気がしますね…」
なーんだ、それが正解なら私にも分かっていたとおっしゃる読者も多いと思う。要するに私が執拗に論理的思考力を強調してきたのは、物事を複雑に考えず、単純かつ素直に考える習慣を読者に身に付けてほしかったというのが「お年玉」を差し上げた目的だったのである。
実は私はかつて『小学校5年生に台形の面積計算の公式を教える必要があるのか』と題するブログを投稿したことがある。日本の伝統的教育方針である「知識をベースに考える」という教育方針に対する否定的提言だった。学校で教わった知識など、社会人になって日本の将来を様々な分野で担うようになった時、どれだけ役に立っているか、読者の皆さん自身が百もご承知だろう。大切なのは知識として台形の面積計算の公式を記憶させることではなく、公式が作られた根底にある思考法を学ばせることが、知識をたくさん詰め込ませるよりはるかに重要なのだ。その思考法は私の友人がいみじくもメールで書いてきたように「ただ公式を解説しただけ」という単純で素直な考え方を子供たちが身に付けるような教育をすれば、日本の将来は明るくなる。そういう単純かつ素直な思考法で、いま大問題になっている集団的自衛権の行使について考えてみたい。
最近安倍総理が「積極的平和主義」という目新しい概念を持ち出した。一方で、安倍第1次内閣時に作られた私的懇談会の「安保法制懇」は首相官邸内で依然として憲法解釈によって集団的自衛権を行使できるようにするための屁理屈を考案しようと、かすかしか残っていない脳みそを絞り出す作業に必死だ。
ところが、肝心の安倍総理が憲法解釈による集団的自衛権の行使を認めるには法整備が必要との認識に傾きつつあり、法制懇のメンバーは2階に上がったものの梯子を外されてしまったことにいまだ気づいていないようだ。
安倍総理の変心の原因は、私が昨年8月29日に『安倍総理は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している!!』というタイトルの記事をブログ投稿し、そのことを首相官邸に伝えて以降である。首相官邸からは連絡がないので、偶然の一致なのか、それとも変心したことを悟られないため「二兎を追う」ごとき様相を見せているのか。
今でも集団的自衛権に関する従来の政府解釈に安倍総理はしがみついているのかいないのか。その辺が微妙といえば微妙である。安部総理の本音がいま一番見えにくいことだけは確かである。
私が昨年8月に投稿したブログの内容を覚えている方も少なくないと思うが、念のために簡単に要約して再度書こう。
国連憲章は国際連合の憲法のようなものである。そして国連憲章が目指したのは戦争のない平和な世界を築くことであった(今でもその理念は失われていないが)。だから国連憲章の第1章には「(国際連合の)目的及び原則」として国際平和実現の理想を高々と掲げている。要点を分かりやすく整理する。私の整理の仕方が気に食わない人はネットで原文を検索して読んでいただきたい。
第1条(目的)
世界の平和と安全を維持すること。そのために有効な集団的処置をとること、また国際間の紛争の解決は平和的手段で、かつ正義と国際法の原則によって実現すること。国連は人民の同権と自決の原則を尊重し、国際社会の友好関係の発展と世界平和を実現するための処置をとること。
第2条(原則)
第1条の目的を達成するため、すべての国連加盟国は主権平等を原則とし、国際紛争を平和的手段によって解決しなければならない。また国際関係において武力による威嚇又は武力の行使を慎まねばならない。
この目的と原則を達成するための具体的方法を定めたのが国連憲章第6章と第7章である。そして問題になっている集団的自衛権については第7章51条に記述されている。第6章(紛争の平和的解決)では国際間の紛争を解決する方法を定め、第7章(平和に対する脅威、平和の破壊および侵略行為に関する行動)では第6章の定めにもかかわらず平和が脅かされたり破壊や侵略が行われた場合に、国連は実際にどういう行動で平和を守るべきかを規定している。やはり重要な部分を要約する。
第6章(紛争の平和的解決)
いかなる紛争も、当事者(※当事国と表記していないことに留意――ただし、このブログではこの表記に深入りはしない。わざわざ注釈を入れたのは、こうした細かいことを見過ごさないように、という読者へのアドバイスのためである。とりあえずこの表記は紛争は国際間だけではなく国内における民族間、宗教対立、国家として独立を求める行動などを含めていることを意味する)はまず交渉・審査・仲介・調停・仲裁裁判・司法的解決・地域的機関または地域的取り決めの利用などの平和的手段による解決を求めなければならない。国連安全保障理事会(安保理)は、そうした平和的解決を実現するため紛争当事者に対して解決案を提示、勧告することができ、当事者は安保理の提示、勧告に従わなければならない。
第7章(平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動)
第6章の定めにもかかわらず紛争を平和的に解決することが困難と安保理が判断した場合、安保理は「非軍事的措置」(第41条)をとることができる。すなわち兵力の使用を伴わないいかなる措置を決定できる(※具体的には化学兵器保有が濃厚だったイランに対してとった「村八分」政策などの経済的制裁が主な方法)。そうした措置にもかかわらず平和が脅かされたり平和の破壊や侵略が行われた場合は、安保理は「軍事的措置」(第42条)をとることができる。具体的には国連加盟国の陸・海・空軍による示威、封鎖その他の行動を意味する(※軍事的行動に出ること)。
以上の2章により、第1章で述べられた国連憲章の目的と原則にもかかわらず、国際的紛争が生じた場合に国連安保理が紛争の解決のためにとりうる行動を規定したのである。だが、実際には安保理の理事国15か国のうち米・英・仏・ロ・中の5か国が拒否権を持っていて、5か国のうち1か国でも反対すると「軍事的措置」が取れず、実際これまで正式に国連安保理の承認を得て「軍事的措置」の権能を発動したことはない。
そこで、国連安保理が平和的あるいは軍事的措置をとれなかった場合を想定して作られたのが第7章の中に規定されたのが第51条(自衛権)である。この51条だけは要約せずに全文を引用する。集団的自衛権についての政府解釈がいかにデタラメかを、これ以上明確に立証する材料はない。この条文を読んで政府解釈の矛盾に気づかれない読者は、申し訳ない言い方だが私のブログを読む資格はない。あえてもう一度書くが51条は「自衛権」についての規定である。
この憲章(※国連憲章全体を指している)のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任(※私が要点を簡易にまとめた上記内容を指している)に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。
政府の集団的自衛権についての説明はこうだ(朝日新聞『ニュースがわからん!』から引用)。「集団的自衛権は密接な関係にある他国が責められた時、自国が攻撃されたと見なして反撃する権利だ。国連憲章は加盟国に自分を守る個別的自衛権とセットで認めている」
この説明は歴代政府が継承しており、マスコミもそう信じてきた。マスコミまでが政府説明を信じ込んできたのだから国民がそういうものか、と思ってきたのも無理はない。
政府はこれまで「憲法の制約上、集団的自衛権は保有しているが、行使できない」と説明してきた。で、安倍総理が第1次内閣の時に私的懇談会の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)を首相官邸に設置して「集団的自衛権を行使できるよう憲法解釈を見直す」作業を始めたのである(2007年)。その時は安倍総理自身が健康を害して退陣し、安保法制懇も解散になった。その動きを再登板した安倍首相が再開したので、私は昨年8月29日に『安倍首相は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している!!』と題するブログを投稿し、その内容を首相官邸に通知した。
その後、安倍総理が何を考えているのか、理解に苦しむ言動が散見されるようになった。一時「集団的自衛権を行使するには法的整備が必要だ」と憲法解釈の変更は難しいというニュアンスの発言をしたこともあるが、安保法制懇の柳井俊二座長(再任)が「憲法解釈の見直しで集団的自衛権の行使は可能だと思う」という中間報告的発言をして以来、集団的自衛権という言葉をほとんど使わなくなり、「積極的平和主義」という全く新しい概念を打ち出し始めた(この新しい概念は昨年10月に「日本国際フォーラム政策委員会」が発表している)。しかし、安倍総理の信念ともいうべき集団的自衛権行使の道付けをするという姿勢が変わったわけではなく、むしろ「積極的平和主義」のほうが「密接な関係にある他国」にとどまらず、政府見解による「集団的自衛権行使」の範囲が広がってしまうことになるはずなのだが、どなたもそういう疑問をお持ちにならないようだ。私には専門家のはずの軍事ジャーナリストや評論家、学者の皆さんが、こんな単純な疑問をお持ちにならないことが不思議でならない。
それはともかく、私は安倍総理の基本的な考え方に反対しているわけではなく、現行憲法無効の立場で主張しているのであって、憲法解釈の変更を重ねることを批判している。
さて集団的自衛権についての政府見解の間違いを改めて書く。昨年8月末のブログでは国連憲章の読み方について安倍総理は勘違いしているということを書いたのだが、ダメ押しをしておこう。
ベトナム戦争にアメリカが軍事介入したのはアメリカの集団的自衛権行使だったのか、あるいは南ベトナム政府のゴ・ディン・ジェム政権の集団的自衛権の行使だったのか……もう一度国連憲章51条(自衛権)の規定を読み直すまでもなく、賢明な読者なら「あっ、そういうことだったのか」と、お気づきになったはずだ。「個別的」も「集団的」も自国の防衛の権利を定めたのが国連憲章51条であり、だから南ベトナム政府は自国の軍隊だけでは北ベトナムの攻勢に対抗できず、それこそ「密接な関係」にあり、かつ軍事大国のアメリカに「助けてよ!」とお願いする権利が国連憲章51条で認められており、それを実行したのが南ベトナム政府の集団的自衛権行使なのである。
国連憲章は国連加盟国に国際紛争は平和的手段で解決することを義務付けている。しかし、過去に国際会議で永世中立宣言が認められていたにもかかわらず、中立を維持するための軍事的備えをしなかった国々が他国に侵略され占領されたという苦い経験から、国際紛争は平和的手段で解決することを加盟国に義務付けながら、非武装では自国の平和と安全は守れないという冷たい現実を踏まえて「個別的」自衛手段として軍隊の保有と、自国の軍事力だけでは他国の侵略から防衛できないと政府が判断したとき、本来なら国連軍が侵略されつつある国を助けることを定めてはいるが、現実的にはそれが困難であることから他国の支援を求める権利(すなわち集団的自衛権)を認めたのである。
ベトナム戦争だけではない。イラクが突然、無防備のクウェートを侵略した時でさえ、安保理で国連軍によるクウェート支援ができず、米軍とイギリス軍を中心とするNATOが軍事行動に出たのも、NATOの集団的自衛権行使ではなく、クウェートの集団的自衛権の行使に応じたと理解すべきである。
そういう視点で考えると、日本は個別的自衛の戦力として自衛隊を擁しており、集団的自衛権としては日米安保条約によって米軍が自衛隊と共同で日本を防衛してくれることになっており、すでに日本は集団的自衛権を保持していると解釈するのが論理的妥当性を持つことになる。
ただし、日本は憲法の制約によってアメリカが侵略を受けたとき米軍に協力してアメリカを防衛する義務は持てない。そもそも憲法9条は素直に読めば自衛権すら否定している。それを「自然法」などという概念を持ち出して自衛隊の創設を正当化しているが、そもそも現行憲法は占領下において制定されたものであり、国民主権をうたいながら国民の審判を受けずに成立した憲法である。それは日本が占領下に置かれていたという特殊事情によって成立した憲法だからであって、サンフランシスコ講和条約によって独立を回復した時点で現行憲法は無効になっていなければならなかったはずである(※この解釈も論理的妥当性を有する)。米サンフランシスコで講和条約に調印した吉田茂首相は、なぜ独立国家としての尊厳と国民の総意を反映した新憲法を作ろうとしなかったのか。私がその理由をブログに書くまでに、読者自身が考えておいてほしい。
私が集団的自衛権行使の問題を重視するのは、憲法の制約によって日米安全保障条約の片務性を解決できす(※双務的条約に変更不可能なこと)、その故に沖縄の苦しみも解消できず、基地協定の改定もままならない(※これまでアメリカは基地協定改定のテーブルに一切着くことを拒否してきたが、安倍第2次内閣の基本姿勢を見てようやくテーブルに着くことだけは承諾したようだ。ただし改定を容認することはまったく意味していない)。
はっきり言って米軍基地が沖縄に集中しているのは、日米安保条約に基づいて日本を防衛するためではなく(※日本を侵略するために沖縄あるいは沖縄方面から攻撃を仕掛ける国は絶対にありえない)、アメリカが東南アジア領海の制空海権を維持するためである。日本がアメリカのエゴに対して何も言えないのは、日本が片務的安保条約によって日本防衛のかなりの部分を一方的に米軍に肩代わりしてもらっているからである。
のど元過ぎれば熱さ忘れるのは、日本だけではないと思うが、これだけは忘れてはならないのは1980年代に日米貿易摩擦が激化したとき、米国内の世論として急速に広まったのが日本に対する批判――「安保ただ乗り」論であった。
この論理の根底にあったのは、日本は自国の防衛をアメリカに肩代わりさせて経済競争力の強化にのみ力を注いでいるという認識が全米に広まった故であった(※もちろんそういう世論を形成したのは米政府とその意図を理解できなかった米マスコミである)。その後、プラザ合意によって円高ドル安が始まってアメリカの経済競争力が回復したこと、さらに日米構造協議で日本政府がアメリカ政府の主張にほぼ屈伏して牛肉などの関税障壁を大幅に軽減したり、大店法を改正してアメリカの大規模商業施設の日本進出を可能にしたことなどの譲歩によって米国内に「安保ただ乗り」論はとりあえず消えたが、いいか悪いかの判断は生産者や小売業者の立場と消費者の立場が対立関係にあるため私も簡単に論じることは避けたいが、郊外の商店街が空洞化した結果を招いたことだけ指摘しておこう。
何かを考える場合、論理的思考力を働かせるということは、そういうことであり、明日から投稿する5回連続のブログで私の思考プロセスを初めて全面的に公開することにする(※この記事を投稿しようとしたがWebサイトに何か問題が生じていてメンテナンス中ということで9:30現在投稿不能だ。もう出かけなければならないので帰宅してからの投稿になるが、そうなると明日以降の投稿予定が1日ずつずれざるを得ない)
最後についでに新年早々の宿題を読者にお出ししたい。はっきり言って難問である。私が正解を書けば、やはり「なぁーんだ。そんな単純なことか」と思われるような問題である。実は昨年末の問題を大正解した友人にもメールで「これは難問ですよ」と断って返信した問題である。友人はお手上げした。
その問題とは、カール・マルクスが定義した社会主義・共産主義社会の実現に命をかけた革命家たちが作った社会がなぜすべて独裁社会になったのか、というものだ。もちろん友人にはマルクスの定義は伝えた。
① 社会主義社会においては人々は能力に応じて働き、働きに応じて受け取る。
② 共産主義社会においては人々は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。
この定義が独裁社会建設の理論的根拠になった理由を説明しなさい。
実は日本共産党はマルクスの「生産と分配についての定義を見直した」と主張しているが、現在の綱領を読むかぎり、では日本共産党はどういう社会の建設を目指しているのかの定義が記述されていない。日本共産党が本当にマルクスの定義の根本的矛盾に気づいていたなら「共産主義の旗」を降ろさざるを得ないはずなのだが…。日本共産党が共産主義の旗を降ろしたら、日本最大のリベラル政党として相当の支持を国民から得られると私は思っている。やはり日本共産党もマルクスの定義を真っ向から否定したら、支持基盤を失うことを恐れているのだろう。
私が、いつこの問題の正解をブログ投稿するかはお約束しない。正解か、かなり正解に近い答えをコメントに書き込んだ読者が出たら、その時正解を発表する。ただし、あらかじめ予想できる不正解を書いておくと、レーニンが社会主義社会の前段階として「プロレタリア独裁論」を提唱したから、というのは完全に間違いである。最大のヒントはマルクス自身が提供している。つまりマルクスの定義そのものが独裁社会を必然的に生み出したのである。
さあ、読者の挑戦を期待している。
しかし私の友人が、メールで送ってきた。答えが間違っているのではないかと思い、コメントに書くことを遠慮したようだ。が、友人がメールで送ってきた答えが大正解だった。友人の答えを一言一句変えずに無断転記する。「同じ台形を用意して上下逆さまにして付けると平行四辺形になるので、高さと横の長さで平行四辺形の面積がわかるので、付けていた台形を元に戻せば面積の出来上がり! うーん、これはただ公式を解説しただけのような気がしますね…」
なーんだ、それが正解なら私にも分かっていたとおっしゃる読者も多いと思う。要するに私が執拗に論理的思考力を強調してきたのは、物事を複雑に考えず、単純かつ素直に考える習慣を読者に身に付けてほしかったというのが「お年玉」を差し上げた目的だったのである。
実は私はかつて『小学校5年生に台形の面積計算の公式を教える必要があるのか』と題するブログを投稿したことがある。日本の伝統的教育方針である「知識をベースに考える」という教育方針に対する否定的提言だった。学校で教わった知識など、社会人になって日本の将来を様々な分野で担うようになった時、どれだけ役に立っているか、読者の皆さん自身が百もご承知だろう。大切なのは知識として台形の面積計算の公式を記憶させることではなく、公式が作られた根底にある思考法を学ばせることが、知識をたくさん詰め込ませるよりはるかに重要なのだ。その思考法は私の友人がいみじくもメールで書いてきたように「ただ公式を解説しただけ」という単純で素直な考え方を子供たちが身に付けるような教育をすれば、日本の将来は明るくなる。そういう単純かつ素直な思考法で、いま大問題になっている集団的自衛権の行使について考えてみたい。
最近安倍総理が「積極的平和主義」という目新しい概念を持ち出した。一方で、安倍第1次内閣時に作られた私的懇談会の「安保法制懇」は首相官邸内で依然として憲法解釈によって集団的自衛権を行使できるようにするための屁理屈を考案しようと、かすかしか残っていない脳みそを絞り出す作業に必死だ。
ところが、肝心の安倍総理が憲法解釈による集団的自衛権の行使を認めるには法整備が必要との認識に傾きつつあり、法制懇のメンバーは2階に上がったものの梯子を外されてしまったことにいまだ気づいていないようだ。
安倍総理の変心の原因は、私が昨年8月29日に『安倍総理は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している!!』というタイトルの記事をブログ投稿し、そのことを首相官邸に伝えて以降である。首相官邸からは連絡がないので、偶然の一致なのか、それとも変心したことを悟られないため「二兎を追う」ごとき様相を見せているのか。
今でも集団的自衛権に関する従来の政府解釈に安倍総理はしがみついているのかいないのか。その辺が微妙といえば微妙である。安部総理の本音がいま一番見えにくいことだけは確かである。
私が昨年8月に投稿したブログの内容を覚えている方も少なくないと思うが、念のために簡単に要約して再度書こう。
国連憲章は国際連合の憲法のようなものである。そして国連憲章が目指したのは戦争のない平和な世界を築くことであった(今でもその理念は失われていないが)。だから国連憲章の第1章には「(国際連合の)目的及び原則」として国際平和実現の理想を高々と掲げている。要点を分かりやすく整理する。私の整理の仕方が気に食わない人はネットで原文を検索して読んでいただきたい。
第1条(目的)
世界の平和と安全を維持すること。そのために有効な集団的処置をとること、また国際間の紛争の解決は平和的手段で、かつ正義と国際法の原則によって実現すること。国連は人民の同権と自決の原則を尊重し、国際社会の友好関係の発展と世界平和を実現するための処置をとること。
第2条(原則)
第1条の目的を達成するため、すべての国連加盟国は主権平等を原則とし、国際紛争を平和的手段によって解決しなければならない。また国際関係において武力による威嚇又は武力の行使を慎まねばならない。
この目的と原則を達成するための具体的方法を定めたのが国連憲章第6章と第7章である。そして問題になっている集団的自衛権については第7章51条に記述されている。第6章(紛争の平和的解決)では国際間の紛争を解決する方法を定め、第7章(平和に対する脅威、平和の破壊および侵略行為に関する行動)では第6章の定めにもかかわらず平和が脅かされたり破壊や侵略が行われた場合に、国連は実際にどういう行動で平和を守るべきかを規定している。やはり重要な部分を要約する。
第6章(紛争の平和的解決)
いかなる紛争も、当事者(※当事国と表記していないことに留意――ただし、このブログではこの表記に深入りはしない。わざわざ注釈を入れたのは、こうした細かいことを見過ごさないように、という読者へのアドバイスのためである。とりあえずこの表記は紛争は国際間だけではなく国内における民族間、宗教対立、国家として独立を求める行動などを含めていることを意味する)はまず交渉・審査・仲介・調停・仲裁裁判・司法的解決・地域的機関または地域的取り決めの利用などの平和的手段による解決を求めなければならない。国連安全保障理事会(安保理)は、そうした平和的解決を実現するため紛争当事者に対して解決案を提示、勧告することができ、当事者は安保理の提示、勧告に従わなければならない。
第7章(平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動)
第6章の定めにもかかわらず紛争を平和的に解決することが困難と安保理が判断した場合、安保理は「非軍事的措置」(第41条)をとることができる。すなわち兵力の使用を伴わないいかなる措置を決定できる(※具体的には化学兵器保有が濃厚だったイランに対してとった「村八分」政策などの経済的制裁が主な方法)。そうした措置にもかかわらず平和が脅かされたり平和の破壊や侵略が行われた場合は、安保理は「軍事的措置」(第42条)をとることができる。具体的には国連加盟国の陸・海・空軍による示威、封鎖その他の行動を意味する(※軍事的行動に出ること)。
以上の2章により、第1章で述べられた国連憲章の目的と原則にもかかわらず、国際的紛争が生じた場合に国連安保理が紛争の解決のためにとりうる行動を規定したのである。だが、実際には安保理の理事国15か国のうち米・英・仏・ロ・中の5か国が拒否権を持っていて、5か国のうち1か国でも反対すると「軍事的措置」が取れず、実際これまで正式に国連安保理の承認を得て「軍事的措置」の権能を発動したことはない。
そこで、国連安保理が平和的あるいは軍事的措置をとれなかった場合を想定して作られたのが第7章の中に規定されたのが第51条(自衛権)である。この51条だけは要約せずに全文を引用する。集団的自衛権についての政府解釈がいかにデタラメかを、これ以上明確に立証する材料はない。この条文を読んで政府解釈の矛盾に気づかれない読者は、申し訳ない言い方だが私のブログを読む資格はない。あえてもう一度書くが51条は「自衛権」についての規定である。
この憲章(※国連憲章全体を指している)のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任(※私が要点を簡易にまとめた上記内容を指している)に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。
政府の集団的自衛権についての説明はこうだ(朝日新聞『ニュースがわからん!』から引用)。「集団的自衛権は密接な関係にある他国が責められた時、自国が攻撃されたと見なして反撃する権利だ。国連憲章は加盟国に自分を守る個別的自衛権とセットで認めている」
この説明は歴代政府が継承しており、マスコミもそう信じてきた。マスコミまでが政府説明を信じ込んできたのだから国民がそういうものか、と思ってきたのも無理はない。
政府はこれまで「憲法の制約上、集団的自衛権は保有しているが、行使できない」と説明してきた。で、安倍総理が第1次内閣の時に私的懇談会の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)を首相官邸に設置して「集団的自衛権を行使できるよう憲法解釈を見直す」作業を始めたのである(2007年)。その時は安倍総理自身が健康を害して退陣し、安保法制懇も解散になった。その動きを再登板した安倍首相が再開したので、私は昨年8月29日に『安倍首相は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している!!』と題するブログを投稿し、その内容を首相官邸に通知した。
その後、安倍総理が何を考えているのか、理解に苦しむ言動が散見されるようになった。一時「集団的自衛権を行使するには法的整備が必要だ」と憲法解釈の変更は難しいというニュアンスの発言をしたこともあるが、安保法制懇の柳井俊二座長(再任)が「憲法解釈の見直しで集団的自衛権の行使は可能だと思う」という中間報告的発言をして以来、集団的自衛権という言葉をほとんど使わなくなり、「積極的平和主義」という全く新しい概念を打ち出し始めた(この新しい概念は昨年10月に「日本国際フォーラム政策委員会」が発表している)。しかし、安倍総理の信念ともいうべき集団的自衛権行使の道付けをするという姿勢が変わったわけではなく、むしろ「積極的平和主義」のほうが「密接な関係にある他国」にとどまらず、政府見解による「集団的自衛権行使」の範囲が広がってしまうことになるはずなのだが、どなたもそういう疑問をお持ちにならないようだ。私には専門家のはずの軍事ジャーナリストや評論家、学者の皆さんが、こんな単純な疑問をお持ちにならないことが不思議でならない。
それはともかく、私は安倍総理の基本的な考え方に反対しているわけではなく、現行憲法無効の立場で主張しているのであって、憲法解釈の変更を重ねることを批判している。
さて集団的自衛権についての政府見解の間違いを改めて書く。昨年8月末のブログでは国連憲章の読み方について安倍総理は勘違いしているということを書いたのだが、ダメ押しをしておこう。
ベトナム戦争にアメリカが軍事介入したのはアメリカの集団的自衛権行使だったのか、あるいは南ベトナム政府のゴ・ディン・ジェム政権の集団的自衛権の行使だったのか……もう一度国連憲章51条(自衛権)の規定を読み直すまでもなく、賢明な読者なら「あっ、そういうことだったのか」と、お気づきになったはずだ。「個別的」も「集団的」も自国の防衛の権利を定めたのが国連憲章51条であり、だから南ベトナム政府は自国の軍隊だけでは北ベトナムの攻勢に対抗できず、それこそ「密接な関係」にあり、かつ軍事大国のアメリカに「助けてよ!」とお願いする権利が国連憲章51条で認められており、それを実行したのが南ベトナム政府の集団的自衛権行使なのである。
国連憲章は国連加盟国に国際紛争は平和的手段で解決することを義務付けている。しかし、過去に国際会議で永世中立宣言が認められていたにもかかわらず、中立を維持するための軍事的備えをしなかった国々が他国に侵略され占領されたという苦い経験から、国際紛争は平和的手段で解決することを加盟国に義務付けながら、非武装では自国の平和と安全は守れないという冷たい現実を踏まえて「個別的」自衛手段として軍隊の保有と、自国の軍事力だけでは他国の侵略から防衛できないと政府が判断したとき、本来なら国連軍が侵略されつつある国を助けることを定めてはいるが、現実的にはそれが困難であることから他国の支援を求める権利(すなわち集団的自衛権)を認めたのである。
ベトナム戦争だけではない。イラクが突然、無防備のクウェートを侵略した時でさえ、安保理で国連軍によるクウェート支援ができず、米軍とイギリス軍を中心とするNATOが軍事行動に出たのも、NATOの集団的自衛権行使ではなく、クウェートの集団的自衛権の行使に応じたと理解すべきである。
そういう視点で考えると、日本は個別的自衛の戦力として自衛隊を擁しており、集団的自衛権としては日米安保条約によって米軍が自衛隊と共同で日本を防衛してくれることになっており、すでに日本は集団的自衛権を保持していると解釈するのが論理的妥当性を持つことになる。
ただし、日本は憲法の制約によってアメリカが侵略を受けたとき米軍に協力してアメリカを防衛する義務は持てない。そもそも憲法9条は素直に読めば自衛権すら否定している。それを「自然法」などという概念を持ち出して自衛隊の創設を正当化しているが、そもそも現行憲法は占領下において制定されたものであり、国民主権をうたいながら国民の審判を受けずに成立した憲法である。それは日本が占領下に置かれていたという特殊事情によって成立した憲法だからであって、サンフランシスコ講和条約によって独立を回復した時点で現行憲法は無効になっていなければならなかったはずである(※この解釈も論理的妥当性を有する)。米サンフランシスコで講和条約に調印した吉田茂首相は、なぜ独立国家としての尊厳と国民の総意を反映した新憲法を作ろうとしなかったのか。私がその理由をブログに書くまでに、読者自身が考えておいてほしい。
私が集団的自衛権行使の問題を重視するのは、憲法の制約によって日米安全保障条約の片務性を解決できす(※双務的条約に変更不可能なこと)、その故に沖縄の苦しみも解消できず、基地協定の改定もままならない(※これまでアメリカは基地協定改定のテーブルに一切着くことを拒否してきたが、安倍第2次内閣の基本姿勢を見てようやくテーブルに着くことだけは承諾したようだ。ただし改定を容認することはまったく意味していない)。
はっきり言って米軍基地が沖縄に集中しているのは、日米安保条約に基づいて日本を防衛するためではなく(※日本を侵略するために沖縄あるいは沖縄方面から攻撃を仕掛ける国は絶対にありえない)、アメリカが東南アジア領海の制空海権を維持するためである。日本がアメリカのエゴに対して何も言えないのは、日本が片務的安保条約によって日本防衛のかなりの部分を一方的に米軍に肩代わりしてもらっているからである。
のど元過ぎれば熱さ忘れるのは、日本だけではないと思うが、これだけは忘れてはならないのは1980年代に日米貿易摩擦が激化したとき、米国内の世論として急速に広まったのが日本に対する批判――「安保ただ乗り」論であった。
この論理の根底にあったのは、日本は自国の防衛をアメリカに肩代わりさせて経済競争力の強化にのみ力を注いでいるという認識が全米に広まった故であった(※もちろんそういう世論を形成したのは米政府とその意図を理解できなかった米マスコミである)。その後、プラザ合意によって円高ドル安が始まってアメリカの経済競争力が回復したこと、さらに日米構造協議で日本政府がアメリカ政府の主張にほぼ屈伏して牛肉などの関税障壁を大幅に軽減したり、大店法を改正してアメリカの大規模商業施設の日本進出を可能にしたことなどの譲歩によって米国内に「安保ただ乗り」論はとりあえず消えたが、いいか悪いかの判断は生産者や小売業者の立場と消費者の立場が対立関係にあるため私も簡単に論じることは避けたいが、郊外の商店街が空洞化した結果を招いたことだけ指摘しておこう。
何かを考える場合、論理的思考力を働かせるということは、そういうことであり、明日から投稿する5回連続のブログで私の思考プロセスを初めて全面的に公開することにする(※この記事を投稿しようとしたがWebサイトに何か問題が生じていてメンテナンス中ということで9:30現在投稿不能だ。もう出かけなければならないので帰宅してからの投稿になるが、そうなると明日以降の投稿予定が1日ずつずれざるを得ない)
最後についでに新年早々の宿題を読者にお出ししたい。はっきり言って難問である。私が正解を書けば、やはり「なぁーんだ。そんな単純なことか」と思われるような問題である。実は昨年末の問題を大正解した友人にもメールで「これは難問ですよ」と断って返信した問題である。友人はお手上げした。
その問題とは、カール・マルクスが定義した社会主義・共産主義社会の実現に命をかけた革命家たちが作った社会がなぜすべて独裁社会になったのか、というものだ。もちろん友人にはマルクスの定義は伝えた。
① 社会主義社会においては人々は能力に応じて働き、働きに応じて受け取る。
② 共産主義社会においては人々は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。
この定義が独裁社会建設の理論的根拠になった理由を説明しなさい。
実は日本共産党はマルクスの「生産と分配についての定義を見直した」と主張しているが、現在の綱領を読むかぎり、では日本共産党はどういう社会の建設を目指しているのかの定義が記述されていない。日本共産党が本当にマルクスの定義の根本的矛盾に気づいていたなら「共産主義の旗」を降ろさざるを得ないはずなのだが…。日本共産党が共産主義の旗を降ろしたら、日本最大のリベラル政党として相当の支持を国民から得られると私は思っている。やはり日本共産党もマルクスの定義を真っ向から否定したら、支持基盤を失うことを恐れているのだろう。
私が、いつこの問題の正解をブログ投稿するかはお約束しない。正解か、かなり正解に近い答えをコメントに書き込んだ読者が出たら、その時正解を発表する。ただし、あらかじめ予想できる不正解を書いておくと、レーニンが社会主義社会の前段階として「プロレタリア独裁論」を提唱したから、というのは完全に間違いである。最大のヒントはマルクス自身が提供している。つまりマルクスの定義そのものが独裁社会を必然的に生み出したのである。
さあ、読者の挑戦を期待している。