小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

法務省官僚と国会が世論とマスコミに屈服して、とんでもない法律を作ってしまった。 ③

2014-01-15 04:06:07 | Weblog
 ついに都知事選が火を噴いた。昨日(14日)舛添要一氏が自民都連、公明の支持を受けて立候補を表明、動向が注目されていた細川護煕・元首相が小泉純一郎・元首相の支持を得て今日立候補を表明する運びになった。細川・小泉陣営は「脱原発」をスローガンに都知事選を戦うようで、舛添氏も原発問題を避けては知名度・人気度ともに抜群の細川・小泉陣営との戦いが不利になるため「原発依存度を減らしていくことは大切だ。しかし、では明日からというわけにはいかない。それなりの手順を踏まなければ」と受け身に回らざるをえなくなった。一方、細川氏の支援を表明した小泉氏は、相変わらずの小泉節で「東京が省エネに成功すれば、日本を変えられる」と応援団長宣言をぶち上げた。すでに小泉氏の「脱原発論の非現実性」についてのブログはとっくに書き終えていて投稿のチャンスを失い、お蔵入りかと諦めていた私には願ったりかなったりの「お年玉」になったが、とりあえず現在連載中の記事を終えてから投稿する。

 さて昨日お出しした宿題に皆さんはどういう答えを出されたであろうか。私が上げた三つ以外にもっと重要な目的があるはずだとお考えの方もいるかもしれない。
 私は、卑猥なコメント以外は一切削除しないと申し上げている。いかなる批判も削除しないし、批判に答えるべきと私が考えた場合はこれまでも答えてきた。
 では私の考えを書こう。現代社会で最重要視すべき目的は③の「犯罪抑止力」である。二番目が①の「犯した罪に対する社会的制裁」だ。従来最重要視されてきた②の「反省の機会を与え、社会復帰への努力を促す」は、重視すべきではないとまでは言わないが、少なくとも「抑止力」と「制裁」のほうが重要視されるべきなのだ。
 実は③と①は表裏の関係にある。制裁を重くすればするほど抑止力としての効果も高まるのは当然であろう。 
 現に危険運転致死傷罪の適用項目に「飲酒運転」が含まれたことにより飲酒運転による事故は激減した。厳罰化によって抑止力が高まることが実証されたのである。
 が、その結果、刑法との矛盾が生じてしまった。
 刑法は、犯行の意図があっての行為を前提に設けられている。そのため、危険運転致死傷罪を一般刑法とは別の法律にしたことによって、量刑の整合性が崩れてしまった。なぜなら、従来、犯行の意図があって行った犯罪行為の最長有期刑は20年の懲役であった。それに対して犯行の意図がないことは明らかなのに危険運転致死傷罪の最高を20年の懲役としてしまったからである。これは法務省が世論とマスコミにおもねた結果と言わざるを得ない。
 誤解がないようにしてもらいたいのだが、私は危険運転致死傷罪の量刑が重すぎると言っているのではない。もっと重くしてもいいとすら思っている。
 だが法務省が世論やマスコミにおもねて新たに重罪の危険運転致死傷罪を設けたことで、劇的な抑止力が生じたことは昨日のブログで書いた。これも誤解されていないとは思うが、法務省は行政府であって立法府ではない。だから法案は作成するが、国会で審議し可決されなければ法律として成立しない。国会の先生方は、行政府が作成した法案を審議するが、新しい法案を成立させると、関連した法案との整合性をどうするかといった論理的思考力を持ち合わせていない方が多いようで、世論の動向ばかり気にして新しい法律を作ったらどんな矛盾が生じるかまでは頭が回らないようだ。
 危険運転致死傷罪の適用要件を細部にわたって検証すると長くなるし、一般の読者の方にはあまり意味がないと思うので、「酩酊状態で飲酒運転をして重大な人身事故を起こしたら最長20年の懲役刑を食らう」という程度の認識を持たれていれば十分だと思う。
 私が問題にしたいのは、その結果、犯行の意図があっての犯罪との整合性が
取れなくなったため、一般刑法における有期刑の最長を20年から30年に延ばしたことである。これでおかしなことが生じるようになった。
 自動車事故についても危険運転致死傷罪の適用範囲を、とくに素人の裁判員が感情に流されて重い量刑を下しかねないことを危惧したのか、実際に裁判官が危険運転致死傷罪で裁判を行うことを嫌がり、検察もそうした裁判官の心情を思いやってか危険運転致死傷罪で立件することをためらうようになってしまった。だが、すでに書いたようにこの法律の抑止力は抜群だった。
 しかし、すでに述べたように酩酊状態での飲酒運転による重大な人身事故などしか危険運転致死傷罪が適用できないため、「軽度な悪質」と検察や裁判官がみなした自動車運転による人身事故はすべて最長懲役7年の自動車運転過失致死傷罪を適用せざるをえなくなってしまった。なぜか。
 この法律の最大の欠陥は、酩酊状態だったかどうか、また人身事故を起こしたとして何人を死傷させたら懲役20年の最高刑を科せるのかの基準がまったくあいまいなまま成立してしまったことである。量刑の判例は、自動車運転過失致死傷罪での裁判しかない。
 その結果、最長懲役20年の危険運転致死傷罪と、最長懲役7年の自動車運転過失致死傷罪との量刑の開きが問題化したのである。その矛盾がだれの目にも明らかになったのは、すでに述べたように無免許運転の少年が猛スピードでハンドルおよびブレーキ操作を誤り重大な人身事故を起こした事件で、裁判官が危険運転致死傷罪の適用を見送ったケースである。
 新聞報道によると、裁判官がこの事故の加害者について危険運転致死傷罪の適用外にしたのは「無免許ではあったが、それなりに運転歴があり、運転技術が未熟だったとは言えない」ということだけが大きく報道されたが、私は裁判官が危険運転致死傷罪の適用を見送ったのは飲酒や薬物使用などの悪質性がなかったからというのが本当の理由だと思う。
 しかし被害者や遺族は事故結果の重大性を社会に訴える行動に出た。マスコミもまた、彼らの目線に立った報道を繰り返した。その結果、また小手先のごまかしとしてこの二つの法律の中間に自動車運転死傷行為処罰法という、まったく意味不明な法律を新設して最長懲役12年を科せるようにし、一般刑法に残されていた自動車事故関連規定が新設の自動車運転死傷行為処罰法に移管されることになった。
 しかし、そうすれば他の有期刑の量刑や無期懲役、死刑との整合性に大きな齟齬が生じる結果になった。「犯罪に甘い国・日本」という国際的に定着していた海外の日本観にも大きな影響が出始めた。苦境に立たされた法務省は今刑法の整合性に苦しんでいる。とりあえず、犯行の意図がない飲酒や薬物使用による危険運転致死傷罪の最高である懲役20年との釣り合いをとるために、一般刑法における有期刑の最長を20年から30年に延ばしたが、今度は意味不明な自動車運転死傷行為処罰法を新設したため、犯行の意図を持った犯罪行為についての量刑のすべてを見直さざるをえなくなっているはずだ。
 私が重視している点は二つある。一つは有期刑・無期懲役・死刑の三つの量刑の整合性と仮釈放要件が完全に混乱してしまったことである。もう一つは脱税やインサイダー取引などの経済事犯に対する量刑との整合性も取れなくなったことだ。本来、裁判で最重要視されるべきは結果の重大性より犯行の悪質性であるべきはずだ。もちろん結果の重大性は無視してよいなどと私は言っているわけではない。が、危険運転致死傷罪にせよ、自動車運転死傷行為処罰法にせよ、明らかに犯行の悪質性より結果の重大性を重視した法律である。法律に無知な私にも理解しがたい愚かさと言っていい。
 この連載ブログの1回目の冒頭で、最近地裁での死刑判決が重すぎるとして高裁で無期懲役になったケースを書いた。覚えていらっしゃる方も多いと思うが、一つのケースについて簡単に触れておこう。
 09年、千葉県松戸市で4年生の女子大生が強盗殺害された。犯人はすぐ捕まったが、02年にも強盗致傷事件で服役し、出所から3か月足らずの間に強盗致傷や強盗強姦を繰り返しており、1審の裁判員裁判では死刑が言い渡された。この判決を不服とした被告側が控訴し、東京高裁での2審で1審判決が破棄され、無期懲役の減刑判決が言い渡された。 
 その理由が②を重視した内容だった。新聞によれば「殺害された被害者が一人で、計画性がない場合には死刑は選択されないという先例の傾向がある」とし、「1審判決は合理的かつ説得力を示したものと言えない」と断定したようだ。こうした判決に対して読売新聞は「裁判員制度の趣旨を無視した判決」という主張をしたと記憶していると書いたが、産経新聞も主張(社説と同じ)で同様の主張をしていたことがネット検索で分かった。
 高裁が「先例」を重視したということは、とりもなおさず裁判官が②をいまだに量刑の基準にしていることを意味する。おそらく長い判決文の中に「被告が犯した罪を悔い改め、社会復帰できる可能性が皆無とは言い切れない」といった趣旨の判決理由が述べられていたはずだ。だが、そういう犯罪者に対する過度の思いやりがどういう結果を招いてきたか、この裁判官は考えたことがあるだろうか。政府が裁判員制度を導入したのは、裁判に市民感覚を反映させるという意味だけではなく(読売新聞や産経新聞はそう解釈しているが)、過去の裁判官が下す判決が②を重視しすぎており、被害者や遺族の目線に立っていないということがあった。被害者や遺族の目線に立つと量刑の基準は③の「犯罪抑止力」つまり、二度と私たちのような思いを生じないようにしてほしいということであり、そのためには①「犯した罪に対する社会的制裁」として厳罰化を求めているのである。
 裁判員制度が導入されたとき、量刑が重くなるだろうことはマスコミも予測していたと思う。ただなぜそうなるかの分析はだれもしていなかったはずだ。裁判員はおそらく被害者や遺族の感情を重視するだろう、くらいのことしか考えていなかったと思う。確かに裁判員の意識の片隅にそういった心理が働くであろうことは私も否定しない。その心理を形成したのは被害者や遺族の心の底からの叫び「二度と私たちのような思いをさせたくない」という声が裁判員の心の奥底に響いていたはずである。そういう心理で裁判員が裁判に臨めば、当然③を最重要視するだろうし、それを可能にするためには①の重罰化は避けられなくなる。
 その視点で、もう一度自動車事故に対する法律を、なぜ刑法から外す必要があったのか。道交法で定められている「安全運転の基準」を逸脱したら、「車は走る凶器になる」という誰もが否定しない要素を導入すれば、刑法の殺人罪、傷害罪で検察は起訴できるし、裁判官も「犯行を意図した行為ではないが、飲酒や薬物使用、あるいはスピード制限の相当程度の超過や信号無視などは、正常な運転を不可能にする可能性があることを運転免許保有者は常識として持っており、したがってこの事故は未必の故意による犯罪と考えるべきである」と判断し、そのうえで殺人罪や傷害罪に対して法が定めた量刑の範囲で情状をどう酌量するかですんだ話なのだ。
 まだ、この項目は終わっていないが、もう日課としたブログの文字数の目安を超えた。続きは明日書く。
 明日までに皆さんに考えておいていただきたいことがある。まず今回のブログの冒頭に述べたことの第一の件だが、日本の刑法には「仮釈放」の規定があり、無期懲役囚も10年以上服役し、その間模範囚であった場合仮釈放が可能になるということ。また有期・無期を問わず「仮釈放は認めない」という確定判決がなぜできないのかということ(仮釈放を認めない無期懲役は、事実上「終身刑」を意味する)。また仮釈放の規定を変えないなら、なぜ確定終身刑が日本にはないのか。こうした私の疑問はすべて日本の司法が②を基準にしてきたことにあると私は思っているが、皆さんはどう思われるだろうか。
 次に第二の件だが、日本が「犯罪に甘い」のは刑事事件だけではない。「脱税は割に合わない」とよく言われるが、それは税務当局が作り出した幻想にすぎず、日本ほど「脱税が割に合う」国は多分ないと思う。脱税だけでなく経済事犯はすべて日本はやりどくである。もし日本最大の証券会社・野村証券がアメリカの証券会社だったら、とっくにSEC(米商取委)によって潰されていた。
 ではまた明日。
 


 
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