小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

法務省官僚と国会が世論とマスコミの感情的主張に屈服して、とんでもない法律を作ってしまった。 ②

2014-01-14 06:34:15 | Weblog
 前回の続きを書く。前回、私は刑法に定める量刑の目的は三つあると述べた。もう一度おさらいしておこう。
 ① 犯した罪に対する社会的制裁
 ② 反省の機会を与え、社会復帰への意欲と努力を促す
 ③ 犯罪に対する抑止力
 実はこの三つの目的は私が高度な論理的思考力を駆使して勝手に定義づけたもので、刑法の中にそうした目的のどれを当該事件について勘案して量刑の軽重を決めるべきといった記述は多分ないと思う。従って刑法専門の法曹家がどう考えているか、まったく見当がつかない。つかないが、論理的に考えれば、この三つしか裁判官が量刑を決めるときの判断基準はないはずである。
 そこで私が疑問に思うのは、死刑と無期懲役という量刑の格差の大きさである。死刑の判決を受けた被告が、何度も玄関払いされながらボランティアの支援を受けて諦めずに戦い続け、とうとう再審に持ち込み無罪になったケースが相次いでいる。「死刑」を実行しなくてよかったなと思う半面、明らかに誤審だったケースもあれば「疑わしきは罰せず」の原則で「灰色」のまま無罪釈放になったケースもある。被害者の遺族の気持ちを思うとやるせなくなるのは私だけではあるまい。
 もちろん裁判官が量刑を決めるときに最優先するのは①である、はずだ。であるからこそ前回のブログの冒頭に書いたように東京高裁が一審の千葉地裁判決が過去の類似した事件の被告に対して判決で言い渡された量刑と比較して重すぎると判断したのであろう。
 裁判官が先例を重視するのは日本だけではない。それなりの合理性があるからだ。もし裁判官が、たとえば被告の顔つきが気に入らないとか、態度がふてぶてしいとか、個人的かつ感情的要素を重視して量刑の軽重を左右することは確かにあってはならないことである。
 だが、先例を重視しすぎても裁判官の裁量に時代性(世論、つまり国民の総意が反映されているものとして私はこの言葉を採用した)が無視されることになってしまい、それなら過去の確定した判例をすべてコンピュータに入力しておいて、書記が被告の犯行の状況を可能な限り入力すれば自動的に判決を決められるようにした方がよほど客観的に見て合理的であろう。実際、今のコンピュータはスーパーコンピュータを使わなくてもパソコンを数台つないだだけで、過去の名人戦などの差し手を入力しておけば本物の現役プロ棋手と対戦して勝ってしまうくらい知的能力が高度になっている。
 もちろん私は裁判官の個人的裁量の余地を失くしてしまえなどと言いたいわけではない。政府は「日本は諸外国に比べ法曹家が不足している。だから法科大学院を作って法曹家を大量生産する」というバカげた方針を打ち出して、見事に失敗した。法曹家が足りないなら、金がかかる法曹家を大量に作り出すよ
り、コンピュータを活用すれば、現在の法曹家が本来の仕事に集中でき、また
客観的で国民の理解を得やすい判決を出すことが出来るのではないかと思うからだ。現に私は家にこもって誰に取材することもなければ図書館に足を運ぶ必要もなく、インターネットを活用するだけで昔だったら考えられないような多岐にわたる分野の記事を書くことが出来ている。しかも、私はインターネットで得た知識を右から左に流しているわけではない。ことごとく従来の定説や法解釈を覆し、専門分野の学者や評論家、ジャーナリストも私の主張を否定できない独自の論理を展開している。IT技術は、使いようによっては人間の能力を無限に高めてくれる可能性を秘めている。法科大学院を作るなどといったバカげたことを考えるより、IT技術を活用することによって現在の法曹家の能力を高めることを考えた方がはるかにましだった。これからの政治家は、最低インターネットの活用能力テストに合格した者だけが立候補資格を得られるようにしたらどうかと思う。そうすれば政策秘書など必要とせずに政策を議員自身が考えることが出来るようになる。また議員には政府なり自治体が「特定の地域、業界、団体、個人派の利益誘導型の法案作成や行政ができないよう、いわばアンチ・ウイルスのような類のソフトをあらかじめインストールしておけば、いま疑惑の的になっている猪瀬前都知事と徳洲会の癒着のようなケースも未然に防ぐことが出来るようになる。
 また裁判員制度を活用するには、法曹家が手取り足取り裁判員を指導するのではなく(それが裁判官や書記官にとって相当な負担になっていると思う)、インターネットの活用法を、たとえば私のように専門外のことでも判断したり考えたりするために必要な知識を容易に得られる方法(いとも簡単ですよ)を、インターネットの利用術にたけた人がアドバイスする仕組みを作ったほうがはるかに金もかからず時間も節約でき、その時々の風潮に流されもせずに現代の日本社会が求めるべき正義(何が正義かはその時代時代の国民が決めることだ。その基準を世界中が共有できるようになれば民主主義は飛躍的に成熟し、国際紛争もなくなるが、さて何百年後になることやら…)を実現する制度にできるはずだ。
 前回のブログに続いてこのブログを書いたのは、量刑の軽重を考える際の三つの目的のうち、現代社会はどの要素を最重要視すべきかということを読者の皆さんと一緒に考えたかったからだ。皆さんはどうお考えになるだろうか。大きなヒントを差し上げておこう。
 少なくとも裁判員制度の発足や危険運転致死傷罪が作られる前は、裁判官が量刑を決める際に最重要視してきたのは、②の「反省の機会を与え、社会復帰への努力を促す」ことだった。そうした判決が重なり、「被害者の人権より加害者の人権を重視しているのではないか」という批判を浴びることになったのである。
 読者の皆さんは、読者ご自身の主体的思考で考えて頂きたい。私自身の考えは明日のブログで書く。
 大それた言い方をあえてすれば、これは民主主義をより成熟させるための主体的努力の第一歩である。