小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

安倍総理の靖国参拝はなぜ国内外から袋叩きにあったのか。「説明すれば分かってもらえる」が虚しい。

2014-01-08 05:39:26 | Weblog
 正月休暇明けの6日に投稿したブログ『安倍総理の集団的自衛権行使への憲法解釈変更の意欲はどこに…。 積極的平和主義への転換か?』が、gooのサーバーに問題が生じたため、夕方にならないと投稿できなかった。そのため昨日(7日)投稿する予定だった今回のブログは急きょ今日の投稿になった。安倍総理が突然言い出した「積極的平和主義」なる新概念が何を意味しているのか、総理自身が口を閉ざしているため私が大胆な推測をしたのが前回のブログである。結果的に長くなりすぎて、毎日投稿するお約束をした以上、読者の負担を考えると2回に分けて投稿すべきだったと思うが、今さらやむを得ない。日本の将来を左右しかねない問題だけにまだ読まれていない方はぜひ読んでいただきたい。

「独りよがり」という言葉がある。自分の考えや信念が正しいと勝手に思い込み、周囲の情況や他人の声に耳を傾けずに行動することを指す。安倍総理が女房役である菅官房長官の「今は時期が悪い」との助言にも耳を傾けず、昨年12月26日「突然」靖国神社参拝を強行したことだ。12月26日という日に特別の意味があったわけではない。終戦の日でもなければ、靖国神社の恒例の行事があった日でもない。ウィキペディアで調べても、安倍総理がごひいきの巨人軍の設立記念日か、第二次安倍内閣が前年発足した日というくらいしか該当しそうな日ではない。
 全国紙5紙の論調も産経新聞を除いてはこぞって批判の大合唱だ。とくに政府の政策については論調が対峙することが多い読売新聞と朝日新聞の2大紙がほぼ共通の認識を示したことの意味は大きい。
 産経の主張ははっきり言って論評に値しない。「多くの国民がこの日を待ち望んでいた」と根拠も示さず主張した。こういうのも「独りよがり」という。
 現職総理の靖国参拝は2006年8月15日(終戦記念日)の小泉総理以来である。このときは中韓との領土問題も生じていず、考えようによっては8月15日は「不戦の誓い」を国を挙げて行ってもいい日だ。ただ靖国神社への参拝が「不戦の誓い」にふさわしいかどうかは別である。
 海外の反応について、中韓が厳しく反発することは安倍総理も当然、予想していたであろう。総理にとって「想定外」だったのは米政府の反応である。これまで日本の総理の靖国参拝については、米政府はあえて干渉することを避けてきた。が、昨年10月にケリー国務長官とヘーゲル国防長官が来日した際、氏名不詳で遺族に渡せない戦没者の遺骨を千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納めて献花したのは、いまから考えると安倍総理が日ごろから「第1次安倍内閣時に靖国参拝ができなかったことは痛恨の極み」と公言していたことから、安倍総理の靖国参拝は米政府にとっては「想定内」のことであり、だから敢えて千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れて安倍総理に「靖国参拝を強行して、いたずらに中韓との摩擦を拡大するな」という米政府の意思を暗黙に伝えたかったのかもしれない。実際米政府は安倍総理の靖国参拝の報に接し「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動をとったことに失望している」という異例の声明を発表した。
 政府要人の靖国参拝が外交問題にまで発展するようになったのは、1078年10月に靖国神社がA級戦犯を「昭和殉難者」(国家の犠牲になった人)として密かに合祀していたことを1年後に朝日新聞がスクープして以降である。それまでは不定期に靖国参拝をされていた昭和天皇も、その事実を知って以降不快に思われて参拝を取りやめられた。今上天皇をはじめ皇族の方々も靖国参拝を控えておられる。
 靖国神社は一宗教法人であり、だれを「昭和殉難者」と判断するかは神社の
自由であると言えば、その通りである。またいわゆる東京裁判は戦勝国が敗戦
国の戦争責任者を犯罪者として裁くことは国際法上も認められないという議論もある。
 私自身は、死刑に値する戦争犯罪者の定義を「国際法に対する重大な違反行為の実行を指示した最高責任者、とくに人道的に許されない無差別かつ残虐な大量殺戮行為を指示した最高責任者」と考えている。そういう厳密な解釈によれば、該当するのはユダヤ人大虐殺を指示した独ヒトラーと世界で最初の原爆投下を指示して無差別大量虐殺を行った米トルーマンの二人だ(先の大戦時に限る)。日本の場合、もし問われるとしたら南京大虐殺が本当にあったとして、その行為を指示した特定できる最高責任者が判明した場合だけである。日本帝国海軍による真珠湾攻撃を国際法違反とする主張があるが、事実は日本の駐米大使であった野村・来栖大使の怠慢により宣戦布告を攻撃前に行わなかったことが問題で、この違反行為に対する処罰は日本の国内法で裁かれるべきことだ。
 敗戦そのものの最高責任者は、組織を前提に考える限り昭和天皇にあることは疑いを容れず、本来は昭和天皇が即時退任して今上天皇に交代すべきだったのだが、当時の憲法(現憲法も変わっていないが)の規定で「一世一代」と定められており、憲法上退任が出来なかったこと、また急きょ憲法を改正して天皇の交代を行えるようにしたとしても今上天皇が当時まだ12歳と若すぎて即位は無理という事情があったためと私は考えている。
 前にもブログで書いたが、常に戦争に置いては「勝てば官軍、負ければ賊軍」であり、「敗戦の将、兵を語る」ことは自らの責任回避に当たるとして許されないというのが、論理的妥当性の有無は別として、歴史的に定着した価値観である。その視点に立てば、東京裁判で裁かれたA級戦犯の戦争責任については日本の歴史家や法律家がきちんとした検証をすべきだとは思うが、靖国神社がそうした検証もせずにA級戦犯を「昭和受難者」として実際の戦没者と同等に扱って合祀するなら、小林多喜二・岩田義直・野呂栄太郎氏ら獄中で拷問死した人たちのほうがはるかに「昭和受難者」の名にふさわしい(言っておくが、私は彼ら犠牲者の思想に同調しているわけではない)。
 靖国神社は、戦時中の位置づけとは異なり、現在は一宗教法人に過ぎない。しかも合祀された「昭和受難者」の解釈も一般国民には到底容認できるものではない。安倍総理が「国のために戦い、戦場で没した英霊に対し尊崇の念で慰霊したい」というなら、その場所は靖国神社ではなかろう。
 確かに中韓が国内事情のためにことさら靖国問題を外交上の問題として過大視するのはいかがなものかという思いもあるが、さらに中韓に日本に対する国民感情を悪化させる口実を、ただでさえ領土問題で緊張を高めつつある情況の中で与えるというのは、一国の指導者としての資格が問われてもやむを得ないだろう。
 私自身は実はこれまで、安倍総理のリーダーシップを高く評価していた(ブ
ログにはことさらには書かなかったが、外交・国内問題に対して決して逃げようとせず立ち向かってきた姿勢を、記事の行間に込めて書いてきたつもりだ)。が、この時期の靖国参拝で、残念ながら私の安倍総理への評価は180度ひっくり返さざるをえなくなった。
 そもそも安倍総理は「リーダーシップを発揮する」ということの意味をまったく理解していないのではないだろうか。指導者は確固たる信念を持つことは大切だが、周囲のことを無視して、自分の固有の信念に基づく行為を強行することがリーダーシップの発揮ではない。戦没者の霊に対する尊崇の念と感謝の気持ちは私にもあるが、それは私自身の心の中にあるもので、私がその思いを表すために靖国神社に参拝しても何の問題も生じないが、一国の首相にはそういう自由はない。首相の行動は、国の方針と取られるのが国際社会の常識である。安倍総理の説明には、私も一定の理を認めるにやぶさかではないが、その思いが国際社会から素直に受け止めてもらえる情況にあるのかどうか、その一点に思いを致してから行動に出るのが真のリーダーシップというものであろう。
コメント
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