1951年9月8日、当時の吉田茂総理は米サンフランシスコで連合国と平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)と、アメリカとの間に日米安全保障条約を締結した。本来なら、この瞬間、占領下において施行されてきた現行憲法は無効になっていなければおかしかった。吉田内閣は独立国家としての尊厳を明確にした新憲法案を策定し、国会で審議を尽くして可決したうえで、国民に信を問うべきであった。
現行憲法の第96条に憲法改正の要件として衆参両院の各議員総数の3分の2以上の賛成で国会が発議でき、国民の審判を仰ぐ必要があると定められており、憲法改正は容易でない。ゆえに日本国憲法は「硬性憲法」と呼ばれている。
しかし、占領下においても日本政府はいちおう存在した。だが、国会は疑似「立法機関」に過ぎず、事実上重要な政策はGHQが決め、国会はそれを容認するための存在でしかなかった。私は『忠臣蔵と西部劇』でGHQの対日占領政策を以下のように分析している。
日本の行政は、平等主義という点では共産圏以上に社会主義的である。だが、水面下には様々な強者優先のルールが隠されていて、いざという時は行き過ぎた平等主義とのバランスを取るため、水面下のルールが発動される仕組みになっている。(野村証券などが行っていた)大口投資家への損失補てんも、このような類の水面下の業界ルールであった。そして水面下の業界ルールの存在が、商行為における日本的信頼関係のベースになっているのである。
したがって、バブル崩壊による株価暴落という緊急事態が生じると、たちまちにして強者優先のルールが発動される。水面下のルールだけを取り上げれば、そのルールは強者優先の論理に貫かれているから、きわめてアンフェアなものに見える。
しかし、そのようなアンフェアなルールが水面下で存続してきたのは、水面上のルールがあまりにも硬直した形式平等主義でおおわれているためだ。そして日本の官庁(とくに大蔵・農水・建設・文部)は、この形式平等主義を錦の御旗に掲げて関連業界に君臨し、自由競争による実質平等主義の実現を妨げてきた。
そして、日本の行政に形式平等主義が根づいてしまったのは、敗戦で焦土と化した日本に乗り込んできたGHQが行った民主化政策の結果であった。
江戸時代までの日本は農業国であったが、明治維新以降は富国強兵・殖産興業の二大政策を柱として近代工業立国を目指した。それが行き過ぎた軍国主義を生み、アジアに覇を唱えようとしてアメリカと衝突、まったく勝ち目のない戦争に突入してすべてを失う。
GHQは農地解放・労働民主化・財閥解体・独占企業の分割(三井物産は約
220社に、三菱商事も約140社に分割された)など、強力に経済民主化を推進した。政治家や軍人だけでなく、大企業経営者も次々に公職から追放され、独占禁止法や過度経済力集中排除法なども制定された。
だが、この時期のGHQの占領政策の基本は、日本経済の民主的再建をバックアップしようというものでは必ずしもなかった。むしろ、日本の工業力を徹底的に骨抜きにし、農業国に先祖帰りさせてしまおうという報復的色彩が強かった。現に、産業民主化政策と並行してGHQは、日本工業力の再建を不可能にするような対日賠償計画を立てていたのである。
戦争末期、日本の主要工業地帯はB29の爆撃によってほとんど壊滅状態に陥っていた。終戦直後の日本の工業水準はナベやカマの生産さえ覚束ない状態まで後退していたが、幸いにして戦火から免れた生産設備・機械類が多少残っていた。それらの設備・機械類を根こそぎアジア諸国に移してしまおうというのがGHQの対日賠償計画であった。この計画が実施されていたら、朝鮮戦争特需を引き金とする日本経済の奇跡的復興はありえなかったであろう。
しかし、東西冷戦の激化がGHQの占領政策を急転換させる。
ソ連軍によって「解放」された東欧諸国は次々と共産化していったが、アジアでも共産主義の嵐が吹きまくった。北朝鮮には金日成政権が生まれ(46年2月)、中国でも毛沢東の支配が固まった(49年10月)。このような国際環境の激変によって、GHQの占領政策は根本的な見直しを迫られる。米政府の基本方針が、日本への共産革命の波及を防ぎ、日本と韓国をアジアにおける防共の砦にしようという方向で固まったからである。
47年8月、賠償政策の見直しのため来日したストライク調査団は、「軍需施設を除く生産施設まで撤去してしまうと、日本自立の可能性が失われ、かえって米政府の負担が増大するだろう」と警告、続いて来日したドレーバー使節団も、日本の経済復興に必要な生産設備を賠償対象から外すようGHQに勧告した。
また米政府内では、GHQの対日占領政策に対する批判が強まった。「GHQは民主化の美名のもとに、日本の産業を破壊しようとしている」と、民主化政策の行き過ぎを問題にしたのである。
事ここに至って、GHQも政策転換を余儀なくされた。厳しい賠償計画を中止し、財閥解体や追放の緩和、過度経済力集中排除法の適用緩和に踏み切らざるをえなくなった。(中略)
結局、GHQの民主化政策は、財閥解体や追放など行き過ぎた面を軌道修正しただけで、日本経済の構造的歪み(※『忠臣蔵と西部劇』は、日本経済の構造的歪みを明らかにするために書いた著書だが、その再検証はいずれまたブログで書きたいと思うが、このブログは現行憲法の問題点を提起することが目的なので触れない)には、まったく手を付けない中途半端なものにとどまった。
さて戦後日本経済の最大の課題は、悪性インフレの克服であった。
インフレの基本的要因は、需要と供給のアンバランスにある。供給が需要に追い付かないと、モノの値段は市場原理で高騰する。供給量を増やすためには、設備投資によって生産活動を刺激する必要があるが、そのための資金は通貨の増発によるしかない。またインフレ対策で従業員の賃金を増やそうとすれば、それも通貨の増発を招く。生産量が増えないのに通貨供給量が増大すれば通貨の価値が下落し、インフレがますます進む。まさにイタチごっこである(現在のロシア経済がそういう状態になっている)。
※この記述は1996年のものであることをお断りしておく。現在安倍総理は通貨の無制限の増発(それを金融緩和という)によって円の価値を下落させてデフレ脱却を図ろうとしているが、インターネットの普及が従来の経済理論を過去のものにしてしまっていることにまだ気が付いていない。インターネットは経済理論に限らず、世界のあらゆる既成の価値観を破壊しつつあり、いずれ現代は産業革命に並ぶ「インターネット革命」の時代と位置付けられるだろう。すでにアメリカでは『ニューズウィーク』が活字メディアからネットメディアに転換しているが、日本の新聞社は従業員と販売店を守るため、電子版のほうの値段を高くしている。いったい新聞はだれのために存在するのか、すっかり忘れているようだ。実はデフレの原因は円高というより、インターネットによる価格破壊が進んだ結果と考えるべきなのに、金融緩和によってデフレを脱却しようという経済政策は一時的なカンフル注射的効果はあっても、根本的なデフレ対策にはならなかったことが早晩明らかになるだろう。
46年2月、篠原内閣は新円切り替えによって通貨供給量を減らそうとした。日銀が新しい紙幣(新円)を発行し、旧円との交換は1人100円まで、残りは強制的に預金させることにしたのである。だが、モラトリアム(預金封鎖)によってもインフレは収まらず、国民の生活をさらに窮地に追い込んだだけであった。
一方、生産力の回復についてもいろいろ試みられた。吉田内閣(第1次)は46年10月、復興金融金庫法を公布し日本興業銀行を通じて産業融資を開始したが、かえってインフレを促進した(いわゆる復金インフレ)。
いわば、八方ふさがりの中で日本経済は縮小再生産の危機に直面した。この危機を突破するため吉田内閣は“傾斜生産方式”を採用する。
※これが吉田茂氏の”功”の部分。この経済政策が成功していなければ日本産業界は朝鮮戦争特需にありつけなかった。経済学者たちは「朝鮮戦争特需で日本経済は“世界の奇跡”と言われる経済復興の足掛かりをつかんだ」と結果解釈しているが、吉田内閣の“傾斜生産方式”が成功していなければ、日本産業は間違いなく朝鮮戦争特需にありつけなかった。が、経済復興を最重要視したことにより占領下に制定された憲法を廃棄して、独立回復後に独立国家としての尊厳を取り戻すことを放棄したことが“罪”の部分。この厳然たる事実を憲法論議のベースに据えないと、憲法問題はいつまでたっても解決しない。この“罪”の部分については明日のブログで明らかにする。
傾斜生産方式とは、資源(資金及び原材料)を特定の基幹産業に重点的に配分、その産業の生産物をさらに重点的に配分することにより、経済全体への波及効果を生み出そうというもので、具体的には重油を鉄鋼産業に重点的に配分して鉄鋼を増産し、鉄鋼製品を石炭産業に重点的に配分して石炭の増産を図り、さらに石炭を鉄鋼に重点的に投入していこうという政策である。つまり、鉄と石炭という工業原動力を相互循環的に拡大再生産させることで、経済再建の足掛かりを築こうというわけだった。
しかし、生産力は一気には回復しない。そのためインフレは勢いを弱めはしたが、依然として続いた。
※そうした状況下で勃発したのが朝鮮戦争である。朝鮮戦争が勃発していなかったら吉田内閣の経済政策は空中分解していた可能性は否定できない。そのことにも経済学者たちは気づいていない。日本社会の「縦割り」構造は行政分野だけではない。経済学者は経済政策と結果、ケインズなどの経済理論との関連・検証しか視野に入れていない。吉田内閣の経済政策が結果的に日本経済の奇跡的復興の足掛かりを作ったという結果解釈しかできないのは、複眼的視点で経済政策を考えようとしないからだ。
朝鮮半島に戦火が生じたのは、そんな状況下の1950年6月25日である(※日本がサンフランシスコ講和条約に調印して独立を回復したのは翌51年9月8日である。このことが非常に重大な意味を持つので記憶にとどめておいてほしい)。
朝鮮戦争は53年7月27日の休戦協定まで3年余も続いた。その間、日本経済は特需景気に沸き、金属・機械・化学肥料・繊維を中心に輸出が急増した。その結果、外貨保有高は朝鮮戦争勃発前の49年末2億ドルから51年末9億4000万ドルへと大幅に増加した。
特需の総額は、日本駐留の米兵の個人消費まで含めると約36億ドルと見積もられている。特需の増大により、アメリカの対日援助は51年6月末ですべて打ち切られたが、それまでの援助総額が約30億ドルだったから、特需が日本経済の再建にいかに貢献したかが理解できよう。
日本経済はよみがえり、戦後ずっと赤字経営を続けてきた主要産業も軒並み黒字に転じた。
また、朝鮮戦争は日本の講和・独立も促進した。
いま、注釈を加えながら、21年余前に上梓した我が著書を転用しながら、感
慨深いものを感じるのは、当時の私の文章はいまのブログの文章よりかなり短
文だったのだなぁ、ということである。そして「吉田茂」「傾斜生産方式」をキーワードに検索したが、「吉田茂」では傾斜生産方式に触れた記事はなく、「傾斜生産方式」では朝鮮戦争特需や日本の独立回復や憲法問題との関連についての記述はない。インターネットがなかった時代に、国会図書館に通いつめながら、よくぞここまで分析した、と自分で自分をほめてやりたい。ただ同書はサブタイトルに「日米経済摩擦を解決するカギ」とあるように、アメリカでジャパン・バッシングの嵐が吹き荒れる中で、経済摩擦が生じるに至った日本の戦後経済の歩みの検証と、日米経済摩擦を解消するための方策を書くことが目的だったため、憲法問題にはあえて触れなかった。というより憲法問題を基本に日本の安全はいかにして守らねばならないかという視点で『日本が危ない――NI(ナショナル・アイデンティティ)のすすめ』と題した本を半年ほど前に上梓していたため、『忠臣蔵と西部劇』では日米経済摩擦の根っこにあるパーセプション・ギャップに相違に焦点を当てた。「のど元過ぎれば、熱さ忘れる」日本人の特質は、ほんの30年ほど前にはアメリカでジャパン・バッシングの嵐が吹きあれ(現在の中韓のような状態)、「日本は異質だ」と村八分にされかかったことをすっかり忘れているようだ。また独立国でありながら、日本は自らの国の防衛の基本をアメリカに「おんぶにだっこ」してきたことに対しても、アメリカでは「安保ただ乗り」批判が巻き起こり、日本の防衛政策に大きな影響を与えたことも日本人はすっかり忘れているようだ。(続く)
現行憲法の第96条に憲法改正の要件として衆参両院の各議員総数の3分の2以上の賛成で国会が発議でき、国民の審判を仰ぐ必要があると定められており、憲法改正は容易でない。ゆえに日本国憲法は「硬性憲法」と呼ばれている。
しかし、占領下においても日本政府はいちおう存在した。だが、国会は疑似「立法機関」に過ぎず、事実上重要な政策はGHQが決め、国会はそれを容認するための存在でしかなかった。私は『忠臣蔵と西部劇』でGHQの対日占領政策を以下のように分析している。
日本の行政は、平等主義という点では共産圏以上に社会主義的である。だが、水面下には様々な強者優先のルールが隠されていて、いざという時は行き過ぎた平等主義とのバランスを取るため、水面下のルールが発動される仕組みになっている。(野村証券などが行っていた)大口投資家への損失補てんも、このような類の水面下の業界ルールであった。そして水面下の業界ルールの存在が、商行為における日本的信頼関係のベースになっているのである。
したがって、バブル崩壊による株価暴落という緊急事態が生じると、たちまちにして強者優先のルールが発動される。水面下のルールだけを取り上げれば、そのルールは強者優先の論理に貫かれているから、きわめてアンフェアなものに見える。
しかし、そのようなアンフェアなルールが水面下で存続してきたのは、水面上のルールがあまりにも硬直した形式平等主義でおおわれているためだ。そして日本の官庁(とくに大蔵・農水・建設・文部)は、この形式平等主義を錦の御旗に掲げて関連業界に君臨し、自由競争による実質平等主義の実現を妨げてきた。
そして、日本の行政に形式平等主義が根づいてしまったのは、敗戦で焦土と化した日本に乗り込んできたGHQが行った民主化政策の結果であった。
江戸時代までの日本は農業国であったが、明治維新以降は富国強兵・殖産興業の二大政策を柱として近代工業立国を目指した。それが行き過ぎた軍国主義を生み、アジアに覇を唱えようとしてアメリカと衝突、まったく勝ち目のない戦争に突入してすべてを失う。
GHQは農地解放・労働民主化・財閥解体・独占企業の分割(三井物産は約
220社に、三菱商事も約140社に分割された)など、強力に経済民主化を推進した。政治家や軍人だけでなく、大企業経営者も次々に公職から追放され、独占禁止法や過度経済力集中排除法なども制定された。
だが、この時期のGHQの占領政策の基本は、日本経済の民主的再建をバックアップしようというものでは必ずしもなかった。むしろ、日本の工業力を徹底的に骨抜きにし、農業国に先祖帰りさせてしまおうという報復的色彩が強かった。現に、産業民主化政策と並行してGHQは、日本工業力の再建を不可能にするような対日賠償計画を立てていたのである。
戦争末期、日本の主要工業地帯はB29の爆撃によってほとんど壊滅状態に陥っていた。終戦直後の日本の工業水準はナベやカマの生産さえ覚束ない状態まで後退していたが、幸いにして戦火から免れた生産設備・機械類が多少残っていた。それらの設備・機械類を根こそぎアジア諸国に移してしまおうというのがGHQの対日賠償計画であった。この計画が実施されていたら、朝鮮戦争特需を引き金とする日本経済の奇跡的復興はありえなかったであろう。
しかし、東西冷戦の激化がGHQの占領政策を急転換させる。
ソ連軍によって「解放」された東欧諸国は次々と共産化していったが、アジアでも共産主義の嵐が吹きまくった。北朝鮮には金日成政権が生まれ(46年2月)、中国でも毛沢東の支配が固まった(49年10月)。このような国際環境の激変によって、GHQの占領政策は根本的な見直しを迫られる。米政府の基本方針が、日本への共産革命の波及を防ぎ、日本と韓国をアジアにおける防共の砦にしようという方向で固まったからである。
47年8月、賠償政策の見直しのため来日したストライク調査団は、「軍需施設を除く生産施設まで撤去してしまうと、日本自立の可能性が失われ、かえって米政府の負担が増大するだろう」と警告、続いて来日したドレーバー使節団も、日本の経済復興に必要な生産設備を賠償対象から外すようGHQに勧告した。
また米政府内では、GHQの対日占領政策に対する批判が強まった。「GHQは民主化の美名のもとに、日本の産業を破壊しようとしている」と、民主化政策の行き過ぎを問題にしたのである。
事ここに至って、GHQも政策転換を余儀なくされた。厳しい賠償計画を中止し、財閥解体や追放の緩和、過度経済力集中排除法の適用緩和に踏み切らざるをえなくなった。(中略)
結局、GHQの民主化政策は、財閥解体や追放など行き過ぎた面を軌道修正しただけで、日本経済の構造的歪み(※『忠臣蔵と西部劇』は、日本経済の構造的歪みを明らかにするために書いた著書だが、その再検証はいずれまたブログで書きたいと思うが、このブログは現行憲法の問題点を提起することが目的なので触れない)には、まったく手を付けない中途半端なものにとどまった。
さて戦後日本経済の最大の課題は、悪性インフレの克服であった。
インフレの基本的要因は、需要と供給のアンバランスにある。供給が需要に追い付かないと、モノの値段は市場原理で高騰する。供給量を増やすためには、設備投資によって生産活動を刺激する必要があるが、そのための資金は通貨の増発によるしかない。またインフレ対策で従業員の賃金を増やそうとすれば、それも通貨の増発を招く。生産量が増えないのに通貨供給量が増大すれば通貨の価値が下落し、インフレがますます進む。まさにイタチごっこである(現在のロシア経済がそういう状態になっている)。
※この記述は1996年のものであることをお断りしておく。現在安倍総理は通貨の無制限の増発(それを金融緩和という)によって円の価値を下落させてデフレ脱却を図ろうとしているが、インターネットの普及が従来の経済理論を過去のものにしてしまっていることにまだ気が付いていない。インターネットは経済理論に限らず、世界のあらゆる既成の価値観を破壊しつつあり、いずれ現代は産業革命に並ぶ「インターネット革命」の時代と位置付けられるだろう。すでにアメリカでは『ニューズウィーク』が活字メディアからネットメディアに転換しているが、日本の新聞社は従業員と販売店を守るため、電子版のほうの値段を高くしている。いったい新聞はだれのために存在するのか、すっかり忘れているようだ。実はデフレの原因は円高というより、インターネットによる価格破壊が進んだ結果と考えるべきなのに、金融緩和によってデフレを脱却しようという経済政策は一時的なカンフル注射的効果はあっても、根本的なデフレ対策にはならなかったことが早晩明らかになるだろう。
46年2月、篠原内閣は新円切り替えによって通貨供給量を減らそうとした。日銀が新しい紙幣(新円)を発行し、旧円との交換は1人100円まで、残りは強制的に預金させることにしたのである。だが、モラトリアム(預金封鎖)によってもインフレは収まらず、国民の生活をさらに窮地に追い込んだだけであった。
一方、生産力の回復についてもいろいろ試みられた。吉田内閣(第1次)は46年10月、復興金融金庫法を公布し日本興業銀行を通じて産業融資を開始したが、かえってインフレを促進した(いわゆる復金インフレ)。
いわば、八方ふさがりの中で日本経済は縮小再生産の危機に直面した。この危機を突破するため吉田内閣は“傾斜生産方式”を採用する。
※これが吉田茂氏の”功”の部分。この経済政策が成功していなければ日本産業界は朝鮮戦争特需にありつけなかった。経済学者たちは「朝鮮戦争特需で日本経済は“世界の奇跡”と言われる経済復興の足掛かりをつかんだ」と結果解釈しているが、吉田内閣の“傾斜生産方式”が成功していなければ、日本産業は間違いなく朝鮮戦争特需にありつけなかった。が、経済復興を最重要視したことにより占領下に制定された憲法を廃棄して、独立回復後に独立国家としての尊厳を取り戻すことを放棄したことが“罪”の部分。この厳然たる事実を憲法論議のベースに据えないと、憲法問題はいつまでたっても解決しない。この“罪”の部分については明日のブログで明らかにする。
傾斜生産方式とは、資源(資金及び原材料)を特定の基幹産業に重点的に配分、その産業の生産物をさらに重点的に配分することにより、経済全体への波及効果を生み出そうというもので、具体的には重油を鉄鋼産業に重点的に配分して鉄鋼を増産し、鉄鋼製品を石炭産業に重点的に配分して石炭の増産を図り、さらに石炭を鉄鋼に重点的に投入していこうという政策である。つまり、鉄と石炭という工業原動力を相互循環的に拡大再生産させることで、経済再建の足掛かりを築こうというわけだった。
しかし、生産力は一気には回復しない。そのためインフレは勢いを弱めはしたが、依然として続いた。
※そうした状況下で勃発したのが朝鮮戦争である。朝鮮戦争が勃発していなかったら吉田内閣の経済政策は空中分解していた可能性は否定できない。そのことにも経済学者たちは気づいていない。日本社会の「縦割り」構造は行政分野だけではない。経済学者は経済政策と結果、ケインズなどの経済理論との関連・検証しか視野に入れていない。吉田内閣の経済政策が結果的に日本経済の奇跡的復興の足掛かりを作ったという結果解釈しかできないのは、複眼的視点で経済政策を考えようとしないからだ。
朝鮮半島に戦火が生じたのは、そんな状況下の1950年6月25日である(※日本がサンフランシスコ講和条約に調印して独立を回復したのは翌51年9月8日である。このことが非常に重大な意味を持つので記憶にとどめておいてほしい)。
朝鮮戦争は53年7月27日の休戦協定まで3年余も続いた。その間、日本経済は特需景気に沸き、金属・機械・化学肥料・繊維を中心に輸出が急増した。その結果、外貨保有高は朝鮮戦争勃発前の49年末2億ドルから51年末9億4000万ドルへと大幅に増加した。
特需の総額は、日本駐留の米兵の個人消費まで含めると約36億ドルと見積もられている。特需の増大により、アメリカの対日援助は51年6月末ですべて打ち切られたが、それまでの援助総額が約30億ドルだったから、特需が日本経済の再建にいかに貢献したかが理解できよう。
日本経済はよみがえり、戦後ずっと赤字経営を続けてきた主要産業も軒並み黒字に転じた。
また、朝鮮戦争は日本の講和・独立も促進した。
いま、注釈を加えながら、21年余前に上梓した我が著書を転用しながら、感
慨深いものを感じるのは、当時の私の文章はいまのブログの文章よりかなり短
文だったのだなぁ、ということである。そして「吉田茂」「傾斜生産方式」をキーワードに検索したが、「吉田茂」では傾斜生産方式に触れた記事はなく、「傾斜生産方式」では朝鮮戦争特需や日本の独立回復や憲法問題との関連についての記述はない。インターネットがなかった時代に、国会図書館に通いつめながら、よくぞここまで分析した、と自分で自分をほめてやりたい。ただ同書はサブタイトルに「日米経済摩擦を解決するカギ」とあるように、アメリカでジャパン・バッシングの嵐が吹き荒れる中で、経済摩擦が生じるに至った日本の戦後経済の歩みの検証と、日米経済摩擦を解消するための方策を書くことが目的だったため、憲法問題にはあえて触れなかった。というより憲法問題を基本に日本の安全はいかにして守らねばならないかという視点で『日本が危ない――NI(ナショナル・アイデンティティ)のすすめ』と題した本を半年ほど前に上梓していたため、『忠臣蔵と西部劇』では日米経済摩擦の根っこにあるパーセプション・ギャップに相違に焦点を当てた。「のど元過ぎれば、熱さ忘れる」日本人の特質は、ほんの30年ほど前にはアメリカでジャパン・バッシングの嵐が吹きあれ(現在の中韓のような状態)、「日本は異質だ」と村八分にされかかったことをすっかり忘れているようだ。また独立国でありながら、日本は自らの国の防衛の基本をアメリカに「おんぶにだっこ」してきたことに対しても、アメリカでは「安保ただ乗り」批判が巻き起こり、日本の防衛政策に大きな影響を与えたことも日本人はすっかり忘れているようだ。(続く)