A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記42 「大辻清司の写真」

2007-06-18 22:49:53 | 書物
タイトル:大辻清司の写真 出会いとコラボレーション
編者:大日方欣一、光田由里
デザイン:中垣信夫、門倉未来[中垣デザイン事務所]
出版社:渋谷区立松濤美術館
発行日:2007年6月5日
内容:*同名展覧会の図録
写真というメディアのあり方をめぐって、「見る」「つくる」「語る」など、写真表現の新たな潮流を示し続けた写真家・大辻清司の全貌!(フィルムアート社ホームページより)

購入日:2007年6月16日
購入店:渋谷区立松濤美術館
購入理由:
日常を主題とすることは、日常を生きる者にとって平凡ではあるが、対象化するのは難しい。例えば、「退屈さ」を言葉や写真や映像、絵画によって表現することは可能なのか。何もしないまま一日が終わろうとする6月の午後4時の明るくも暗くもない夕暮れの光が路上を照らすその「時間」を記述・表現することはできないのか。かつて、小説家・保坂和志が提示したこの問いを、私は何度も反復しているのだが、大辻清司の写真を見るとそのような「日常」が大げさでもなく、適度な距離感でそっと佇んでいるのだ。
大辻のそのやわらかく、あたたかい写真は、牛腸茂雄、三浦和人等へと引き継がれ、現在では佐内正史、川内倫子、梅佳代などの写真家の登場を予告しているともいえる。しかし、それは大辻のスナップショットによる仕事の一側面でしかない。大辻の仕事をゆるぎないものにしているのは、「もの」を撮影した作品ではないか。1970年の「第10回東京ビエンナーレ 人間と物質展」を撮影したもの、斎藤義重の作品写真、雑誌「アサヒカメラ」にて連載した『大辻清司実験室』。これらの作品に見られる「存在」の強度はすばらしい。

初期の頃こそ、瀧口修造、阿部展也の影響で、シュルレアリスム風な作品が多いが、その後の作品にはシュルレアリスムの影響は感じられない。澁澤龍彦的なオブジェ趣味もあるにはあるのだが、それが幻想、怪奇な方向へはいかない。大辻の写真には「もの」にイメージを付着しないのだ。細江英公、奈良原一高、川田喜久治などの写真を思い出そう(あのゴテゴテとしたバロック趣味、絵画的写真を)。大辻にはグラフィック集団に参加していたことからも、モダニズム的な美学を持ち合わせていたようだ。それがややコンセプチャルすぎる嫌いもなくはないが、次第にコンセプトにはまらなくなり、そこからはみ出す一瞬間を捉えるような作風へと移行する。そこには、退屈な空気感も、日常の喧騒、ノイズが作り出す気配さえもが刻印されていた。それこそ、私にとって「退屈」ではなかった。


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