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人が人間であり市民であるのは、自らに与える財貨や快楽の数によってでもなく、知的・芸術的教養によってでもなく、その享けている名誉や独立によってでもなく、その倫理的気質の堅固さによってなのです。そしてこれは要するに今日の真理であるだけでなく、あらゆる時代に通じる真理であります。
(シャルル・ヴァグネル『簡素な生活』大塚幸男訳、講談社/講談社学術文庫、2001.5)
あたりまえのことをあたりまえにすること。
20才のとき、漠然とそう思った。美大という「個性」ある人が集まるという場所にいて、その場所に馴染めなかった私はそう思った。
では、その「あたりまえのこと」とはなんだろう。
何年も考え続けてきて、それは本書で指摘されているような「倫理的気質」ではないかと考えてみる。「倫理」が失われた社会、労働環境に身をおいて、問われるのは「倫理」ではないかと何度も頭にその考えが飛来した。だが、私が「倫理的気質」がある人間であり、市民であるかというと心もとない。目の前に悪がありながら、何が私にできるのだ。何度も悪に打ちのめされていく人を見続け、何もできない自分に失望する。もう悲しい顔をした人を見たくない。
(シャルル・ヴァグネル『簡素な生活』大塚幸男訳、講談社/講談社学術文庫、2001.5)
あたりまえのことをあたりまえにすること。
20才のとき、漠然とそう思った。美大という「個性」ある人が集まるという場所にいて、その場所に馴染めなかった私はそう思った。
では、その「あたりまえのこと」とはなんだろう。
何年も考え続けてきて、それは本書で指摘されているような「倫理的気質」ではないかと考えてみる。「倫理」が失われた社会、労働環境に身をおいて、問われるのは「倫理」ではないかと何度も頭にその考えが飛来した。だが、私が「倫理的気質」がある人間であり、市民であるかというと心もとない。目の前に悪がありながら、何が私にできるのだ。何度も悪に打ちのめされていく人を見続け、何もできない自分に失望する。もう悲しい顔をした人を見たくない。
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