A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記1113 『奈良・町家の芸術祭はならぁと 2014』

2015-11-28 23:05:48 | 書物
タイトル:奈良・町家の芸術祭はならぁと 2014
監修:山中俊広
編集:飯村有加
アートディレクション:古島佑起(ことばとデザイン
デザイン:古島佑起、浅野隆昌
写真:長谷川朋也
発行:大和郡山 : 奈良・町家の芸術祭HANARART実行委員会
発行日:2015.6
形態:72p ; 26cm
注記:展覧会図録
    会期・会場: 郡山城下町、奈良きたまち、生駒宝山寺参道:11/7(金)- 16(日)
           田原本寺内町:11/8(土)- 9(日)
           御所まち:11/9(日)
           五條新町:11/15(土)- 16(日)
           今井町:11/15(土)- 23(日)
           八木札の辻:11/20(木)- 24(月・祝)
    主催: 奈良・町家の芸術祭HANARART実行委員会
    共催: 奈良県
内容:
はじめに
奈良きたまち
 「工場跡 在り処をみる」衣川泰典
生駒宝山寺参道
 「旧たき万旅館」村田典子
郡山城下町
 「旧川本邸 メモリフラグメント―追憶の追走―」K+(河内晋平、窪山洋子)
 「南大工町の家 すます/見えてくるもの 聞こえてくるもの」舟橋(森山)牧子
田原本寺内町
御所まち
五條新町
今井町
八木札の辻
「「地域」と「アート」が対等になるために “はならぁと”の理想的なバランスと距離感を求めて」山中俊広(奈良・町家の芸術祭はならぁとアートディレクター)
出展作家一覧

購入日:2015年11月27日
購入理由:
 はならぁとアラウンドの研究発表のための参考文献として購入。
はならぁとの展示も終わり、はならぁとアラウンドも終わって、遅ればせながらカタログを見た。テキストでは、村田典子氏のテキストが開催目的、成果、反省点、課題がコンパクトにまとめられていて興味深かった。

 もっとも理解に苦しんだのがアートディレクター・山中俊広氏のテキストであった。山中氏のテキストを実行委員会が掲載を承諾したことに困惑すら感じるほど、結論や論旨がネガティブな内容であった。執筆者とテキストはまったく別物なのだとつくづく痛感する。

 まず、2014年のはならぁとでの目的、キュレーターの選出理由、具体的な成果、事例が記されていない。各キュレーターのテキストが具体的な会場、作品、成果、反省点を記述しているのに対して、山中氏は他人事のように批評的な文章なのである。もしかすると、私が読みたかった内容は別の媒体で書かれているのかもしれない。だが、それらをカタログに書かずになんの意味があろう。

 続いて、藤田直哉氏の論文『前衛のゾンビたち―地域アートの諸問題』を取り上げ、「地域型アートプロジェクトへの疑問や批判の論点を、明快かつ総体的に語られたことに大きな意味があった」としながらも論文の要約・レビューがないので、藤田氏の論拠や論点がわからない。

 文中に「地域型アートプロジェクトのシステム」とされるものの定義や説明もなく、「地域側」「アート側」の区分、用語に、排他性、差別性を感じる。なかでも山中氏が辿り着いた以下の論点には驚いてしまう。

「「現代アートは難しい/わからない」という意見が大勢を占めている現場で、実力あるアーティストやキュレーターを招聘できるわけもなく、そもそも地域で違和感と摩擦を作り出している人々が、同じものを作り出すアートに対して理解を放棄するのは本末転倒ではないだろうかという論点に行き着いた。」

 アートディレクターは、「実力あるアーティストやキュレーターを招聘」するのが仕事ではないのか。これが「アートディレクター」の言葉かと思うと「本末転倒」で、「地域」や「現場」の人々はさぞや失望しただろう。苦言めいたことを書くのであれば、地域の人々がアートを理解することを放棄した具体例を書いた方がより建設的である。

 きりがないのでやめるが、「「地域」と「アート」が対等になるために」というタイトルを冠しながら、カタログに地域団体の方が一人も執筆者に加わっていない。なにが「対等」かと思う。「アートディレクター」という役職にある者が、一方的に地域に対して異論を述べるのはあまりに暴力的であり、不等(非・対等)である。「地域」と「アート」とやらを対等にしたければ、両論並立が望ましいはずではないか。現実に「対等」な関係性などないのだから。