A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

memorandum 566 真の美

2017-10-05 22:35:14 | ことば
真の美は、不完全を心の中で完全なものにする人だけが発見することができる。人生と芸術の力強さは、伸びようとする可能性の中にある。茶室では、全体の効果を自分とのかかわりの中で完全なものにすることが、客めいめいの想像力にゆだねられている。
岡倉天心『英文収録 茶の本』桶谷秀昭訳、講談社(講談社学術文庫)、1994年、63頁。

不完全でいい。不完全がいい、と不完全な私は思う。

memorandum 565 信仰の基礎

2017-10-01 18:27:17 | ことば
 信仰の基礎は「世界を創造してくれて、ありがとう」という言葉に尽きるからです。自分が現にここにあること、自分の前に他者たちがいて、世界が拡がっていることを、「当然のこと」ではなく、「絶対的他者からの贈り物」だと考えて、それに対する感謝の言葉から今日一日の営みを始めること、それが信仰ということの実質だと僕は思います。

内田樹『街場のメディア論』光文社(光文社新書)、2010年、204-205頁。

今日一日、感謝の言葉を述べただろうか。

memorandum 564 「いつか役に立つ可能性がある」

2017-09-29 22:23:19 | ことば
その「なんだかよくわからないもの」がいつ、どのような条件の下で、どんなふうに「役に立つ」ことになるのか、今の段階ではわからない。そもそもその価値や有用性を考量する手持ちの度量衡がないからこそ、それは「なんだかよくわからないもの」と呼ばれているわけです。
 でも、ある種の直感は、それが「いつか役に立つ可能性がある」ことを教えます。そのような直感が活発に働いている人だけが「いつか役に立った時に、『ああ、あのときに拾っておいてよかった』と思っている自分の感謝の気持ち」を前倒しで感知することができる。だとしたら、それは、さしあたりは意味も有用性もわからないものですが、その人にとっては、すでに「贈り物」なのです。

内田樹『街場のメディア論』光文社(光文社新書)、2010年、202頁。

現代美術は意味も有用性もわからないものが多いがゆえに、直感という「贈り物」を私は信じる。

memorandum 563 「なんだかよくわからないもの」

2017-09-22 23:46:26 | ことば
 僕は自分の書くものを、沈黙交易の場に「ほい」と置かれた「なんだかよくわからないもの」に類するものと思っています。とりあえずそこに置いてある。誰も来なければ、そのまま風雨にさらされて砕け散ったり、どこかに吹き飛ばされてしまう。でも、誰かが気づいて「こりゃ、なんだろう」と不思議に思って手にとってくれたら、そこからコミュニケーションが始まるチャンスがある。それがメッセージというものの本来的なありようではないかと僕は思うのです。
内田樹『街場のメディア論』光文社(光文社新書)、2010年、200頁。

私のテクストも「ほい」と無償配布されるだけだが、それでいいと思う。
一方、これは美術の在りようにも通じるだろう。

memorandum 562 待たなければならない

2017-09-21 11:23:21 | ことば
 無償で読む無数の読者たちの中から、ある日、そのテクストを「自分宛ての贈り物」だと思う人が出てくる。著作者に対して反対給付義務を感じて、「返礼しないと、悪いことが起きる」と思った人が出てくる。そのときはじめて著作物は価値を持つ。そのような人が出てくるまで、ものを書く人間は待たなければならない。書物の価値は即自的に内在するのでなく、時間の経過の中でゆっくりと堆積し、醸成されてゆくものだと僕は思っています。
内田樹『街場のメディア論』光文社(光文社新書)、2010年、187頁。

悪いことが起きるかわからないが、私も「自分宛ての贈り物」だと感じた数多くの書物や美術に対して反対給付義務を感じている。見れば見るほど、読めば読むほど、書けば書くほどたくさんの書物や美術に返礼をしたくなる。
私のテクストのほとんどは無償で読めるわけだが、それを「自分宛ての贈り物」だと思う人は同時代ではいないだろう。だが、著者は死んでもテクストは生き続ける。

memorandum 561 「私宛ての贈り物」

2017-09-20 23:19:56 | ことば
 「価値あるもの」がまずあったのでもないし、「誰かにこれを贈与しよう」という愛他的な意図がまずあったのでもない。たまたま手にしたものを「私宛ての贈り物」だとみなし、それに対する返礼義務を感じた人間が出現することによって贈与のサイクルは起動した。人間的制度の起源にあるのは「これは私宛ての贈り物」という一方的な宣言なのです。おそらく、その宣言をなしうる能力が人間的諸制度のすべてを基礎づけている。ですから、端的に言えば、何かを見たとき、根拠もなしに「これは私宛ての贈り物だ」と宣言できる能力のことを「人間性」と呼んでもいいと僕は思います。

内田樹『街場のメディア論』光文社(光文社新書)、2010年、180頁。

日々、美術館やギャラリーを回るのは、「私宛ての贈り物」を見つけたいからだと思う。

memorandum 560 「これには価値がある」

2017-09-19 23:09:06 | ことば
「これには価値がある」と思う人が出現したときに価値もまた存在し始める。品物そのものに価値が内在するわけではありません。「私は贈り物の受け取り手である」と思った人間が「贈り物」と「贈り主」を遡及的に成立させるのです。

内田樹『街場のメディア論』光文社(光文社新書)、2010年、171頁。

美術作品も同様だろう。芸術家がつくったから「価値」があるわけではなく、その美術作品(=贈り物)の「受け取り手」であると思った人間が現われたとき、「価値」が生まれる。

memorandum 559 「いずれ読まねばならぬ本」

2017-09-18 23:07:28 | ことば
 僕たちは「今読みたい本」を買うわけではありません。そうではなくて「いずれ読まねばならぬ本」を買うのです。それらの「いずれ読まねばならぬ本」を「読みたい」と実感し、「読める」だけのリテラシーを備えた、そんな「十分に知性的・情緒的に成熟を果たした自分」にいつかはなりたいという欲望が僕たちをある種の書物を配架する行動へと向かわせるのです。

内田樹『街場のメディア論』光文社(光文社新書)、2010年、157頁。

今日もいつか読まねばと思い本を手にする。