Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

伊豆半島、春の雪化粧 - 天城山

2010-03-31 | 中部

現在、地図の上で天城山脈と記されているのは、東海岸から起こって、遠笠山、万二郎岳、万三郎岳、それから天城峠を経て、猿山、十郎三衛門山、長九朗山、と続いて、西海岸に終わっている。つまり一つを指して天城山と呼ぶ峰はなく、伊豆半島の中央を東西に横切ったこの山脈を眺めて、そのうちのどれであろうと構わず、人は天城山と呼んでいる。

天城のいいことの一つは、見晴らしである。煙を吐く大島を初め、伊豆七島がそれぞれの個性のある形で浮んでいる海が眺められるし、いつも真正面に富士山が大きく立っている。全く大きい。天城にとって欠くことのできない背景である。山の好きな人だったら、富士山の左に遠く南アルプスの山々が連なっているのを見落とさないだろう。
(深田久弥著『日本百名山』より)



天城山は、伊豆半島の中央部に峰を連ねる火山性の連山の総称で、一般的には、万三郎岳(1,406m)、万二郎岳(1,300m)を指し、広義では天城西山稜の達磨山(万太郎山)や猫越岳をはじめ、猿山、長九郎山、婆娑羅山などもすべて天城山とされている。

川端康成の『伊豆の踊り子』の舞台となった天城峠があることで知られ、石川さゆりで有名な「天城越え」は、この山を指し、登山者以外にも良く知られた山である。


天城山は古くは狩野山、甘木山ともよばれ、伐木、搬出の歴史も古く、幕府直轄の御料林であった。マツ、スギ、ヒノキ、ケヤキ、クスノキ、サワラ、カシ、モミ、ツガは天城九木とよばれ、御制木として保護されていた。かつては木炭の生産、現在はワサビやシイタケが名産となっている。
植生にも特色をもち、アセビ、ヒメシャラの樹林、シャクナゲ、アマギツツジの花は天城特有の植物景観となっている。

火山周辺は温泉にも恵まれ、湯ヶ島、湯ヶ野、峰、熱川、大川などがある。



伊豆半島、春の雪化粧

2010-03-30 | 中部

静岡県東部や神奈川県箱根町などは、3月30日午前、大雪に見舞われた29日から一転して晴天となり、積もった雪が春の日差しを照り返した。

前日の3月29日、強い寒気を伴った気圧の谷が通過した影響で、午後から各地で季節はずれの雪が降った。静岡市内でも降雪が観測され、静岡地方気象台が観測を始めた1941年以降で最も遅かった58年と並ぶ記録となった。

静岡地方気象台によると、静岡市内では午前11時20分頃から降り出した雨が午後3時頃にはみぞれや雪あられに変わった。御殿場市内では昼頃から雪が降り始め、午後6時には17センチの積雪を観測。同気象台は午後5時5分に県東部に大雪警報を、伊豆半島全域に大雪注意報をそれぞれ発令した。
同気象台は「3月に県内で大雪警報が出されることは珍しい」としている。

雪の影響で、29日午後9時現在、箱根スカイラインなど県内の11路線が通行止めとなったほか、御殿場市内の国道138号や246号など計45路線でチェーン規制が行われた。


雲上を飛ぶ (41)

2010-03-25 | その他

日本で最も交通量の多い首都圏の空には、羽田や成田を利用する民間機だけでなく、米軍の横田基地や厚木基地、自衛隊の百里基地などを発着する軍用機が飛び交っている。
その首都圏の西の空には米軍横田基地が管制権を握る横田空域(ラプコン Rader Approach Control=レーダー管制空域)がある。

この国内最大の軍事空域のため、とくに羽田発の西行きの民間機は危険な飛行を強いられている。
例えば、羽田を離陸して、北陸、中国地方、北九州地域に向かう航空機は、東京湾上空で大きく旋回、急上昇し、高度を4,000m以上に上げてから、神奈川県座間市上空の横田空域の上を通過する。
また、地方から羽田に着陸する便も、この空域を南に迂回して大島、房総半島上空から進入しなければならない(大阪便に限っては、域内を一定高度で通過することが認められているが、徐々に高度を上げるのとは違って、域内通過後に急上昇しなくてはならない)。

つまり横田ラプコンがあるため、民間航空機は、羽田からの緩やかな上昇が難しく、急な上昇が燃料費の増加とパイロットの負担増につながっている。


横田ラプコンの南側、関東南空域は、羽田、成田などの空港の出発、到着機、アジアからアメリカ西海岸等に向かう通過機が錯綜し、一日の管制取り扱機数が400機を越える日本でも有数の過密空域である。


そして、2001年1月31日、日航機のニアミス事故は、この空域で発生した。




現在、2010年10月供用開始を目指し、羽田空港新滑走路(D滑走路)の建設が進められている。この新滑走路ができると、「年間発着能力」は現在の約1.4倍に増えるという。

雲上を飛ぶ (40)

2010-03-24 | その他


JL907便(羽田発那覇行)は、JL958便(釜山発成田行)より若干高い高度を飛んでいた。
最接近の50秒前、東京航空交通管制部のレーダーの警報が作動したため、担当管制官は両機の接近を察知する。管制官はJL907便に35,000ftまで「降下」するよう指示、同機はこの指示に従い「降下」を開始した。実はこの指示は907便ではなく、958便に対して行うべきものであったが、管制官が便名を取り違えたために起きた誤指示であった。

まもなく907便と958便は接近、両機のTCAS(航空機衝突防止装置)が作動した。この時907便のTCASは「上昇」を指示したが、管制官の指示に従い「降下」を続けた。
一方、958便はTCASの指示通り「降下」した。

担当管制官を指導中の指導管制官が事態の悪化に気づき、907便に「上昇」の指示を出そうとした。しかし、この際便名を「957便」と呼び間違えたため反映されなかった。
一方958便のTCASは近づく907便に反応して「急降下」を指示、同機もこれに従ったため、両機はさらに接近した。

この日、上空の視界は良好で907便は、異常接近する958便を目視確認した。TCASは依然「上昇」を指示しており、管制からの新たな指示もなかったが、パイロットはとっさに急降下で、これを交わそうとした。
一方958便も異常接近する907便を目視、TCASは「急下降」を指示したままであったが、パイロットは「上昇」に転じる判断を下した。

この結果、907便は958便の直下20~60mを交差、空中衝突は回避された。


TCASと管制の指示の不一致が事態を悪化させたが、最終的にはTCASや管制の指示ではなく、目視によるとっさの判断で衝突を回避したことがわかる。


航空鉄道事故調査委員会は2002年7月、事故報告書を発表し、本事故を「主原因が管制官のミスにあり、これにTCASの運用規定の不備が競合したもの」と「複合原因」であることを明らかにした。


雲上を飛ぶ (39)

2010-03-23 | その他

2001(平成13)年 1月31日(水)、日本航空B747-400D(JA8904)は、同社のJL907便(東京国際空港-那覇空港)として東京国際空港を離陸し、東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)の上昇指示に従って高度約37,000ft付近を上昇飛行中、同管制部からの指示により高度35,000ftへ降下を開始した。

また、同社所属DC10-40(JA8546)は、同日、同社のJL958便(釜山国際空港-新東京国際空港)として釜山国際空港を離陸し、飛行計画に従って高度37,000ftで愛知県知多半島の河和VORTACを通過し、大島 VORTACへ向けて巡航中であった。

両機は同日15時55分ごろ静岡県にある焼津NDBの南約7nm(約13km)の海上上空約35,500ft~35,700ft付近で異常に接近し、双方が回避操作を行ったが、907便において回避操作による機体の動揺により乗客及び客室乗務員42人が負傷した。



雲上を飛ぶ (38)

2010-03-22 | その他

[嘉手納ラプコン]主権問われる空域返還

約半世紀も「暫定」という形で米軍が航空管制を行ってきた嘉手納ラプコンが31日に返還される。あまりにも長い「空の占領」を許してきた日本の主権意識が問われる。

それが当たり前との受け止めがあったのだろうか。外国のケースをみるとき、そのいびつな姿が鏡に映る。

米軍受入国であるイタリアの北部に、米空軍が使うアビアノ飛行場がある。管制塔には軍用機パイロットと交信する米兵士に混ざってイタリア兵1人がいる。彼は米軍機と直接やりとりする役割ではなく、着陸後の軍用機を駐機場へ誘導する担当だった。

何を担っているかではなく、そこに伊軍の関与があるという象徴的な存在(プレゼンス)が重要だという考えだ。

米軍の管制空域で何が起きているかを受入国当局も逐次確認できている。イタリアが米軍の管制業務に関与することを当然視するのは、「領土、領海、領空」がいずれも主権の空間だからだ。

さらに米空軍は、低空飛行訓練を実施しようとするとき、イタリア航空安全局(EVAN)に飛行ルートや時間帯を通告する必要がある。そのデータは民航機のパイロットに公表され、注意を呼びかけている。

日本でも米軍は低空飛行訓練を実施するが、外務省はルートすら把握していないという。理由は、日本の航空法令に基づいて米軍は飛行しているはずだから、問い合わせる必要がない、という。

米軍との付き合い方は日伊でこうも違う。



「ラプコン」は、レーダー・アプローチ・コントロールの略。沖縄返還のときに、日本が進入管制をできるようになるまでの「暫定措置」として米軍が引き続き行うことにした。
 
空のフェンス、と言われた。嘉手納基地を中心に半径90キロの円内で高度6000メートル以下、久米島飛行場を中心に半径50キロの円内で高度1500メートル以下の円筒状の空域が米軍管理下にある。
 
那覇空港を出発する便は嘉手納に着陸する軍用機と飛行ルートが重なるため、離陸後約10キロほどは高度を300メートル以下に抑えて飛行する。米軍機の下をかいくぐるように飛ぶため、民間パイロットは安全面への不安からストレスを訴えていた。
 
ラプコン返還後は米軍機の進入管制も国交省が行うため、民航機はよりスムーズな上昇が可能になるという。長い交渉の末の返還実現だが、あまりに時間がかかりすぎた。

 
いったいどれほどの日本人が首都東京の空にもエベレスト山とほぼ同じ高さの空間が米軍の官制下にあることを知っているだろうか。米軍横田基地の「横田ラプコン」だ。
 
さらに松山空港(愛媛県)に離着陸する便が米軍岩国基地の「岩国ラプコン」を通過している。嘉手納ラプコンの返還後もこの二つは残る。

 
地上の基地フェンスのように日常的に威圧感があるわけではない。ただ一部であるにしても空域のコントロールを外国軍に預けるこの国のあり方が問われる。

(「沖縄タイムズ」 2010年3月20日付より)





太平洋沿岸を飛ぶ (52) - 愛媛県愛南町

2010-03-21 | 四国


明治元年、万次郎は高知藩に新地百石の禄高で登用された。この年、彼は開成学校中博士六等出仕に任ぜられ英語教授を担当していたが、翌年、病気で辞任して本所砂町の土州藩下屋敷で静養した。その翌年九月、彼は普仏戦争実地視察を命ぜられ大山巌等に従って欧州に出張し、病気のため戦地には行かないでロンドンに滞在した。帰途、アメリカに立ち寄ってハヘイブン町のホイットフィールド家を訪れた。ホイットフィールド氏は万次郎の大恩人である。互いに懐旧の涙を禁じ得ないのであった。なお彼はハワイにも立ち寄って旧知を訪問した。
明治五年、再び病を発し、以来幽居して専らその志を養った。ただ一つ思い出すだに胸の高鳴る願望は、捕鯨船を仕立て遠洋に乗り出して鯨を追いまわすことであった。それは万次郎の見果てぬ夢であった。
明治三十一年十一月十二日死亡、享年七十二。その墓は谷中仏心寺の境内にある。
(井伏鱒二著『ジョン万次郎漂流記』より)



咸臨丸の太平洋横断は、鎖国の終わりを告げる出来事であり、そして万次郎も大きな役割を果たした。

帰国後も万次郎は、小笠原の開拓調査、捕鯨活動、薩摩藩開成所の教授就任、上海渡航、明治政府の開成学校(東京大学の前身)教授就任、アメリカ・ヨーロッパ渡航とめまぐるしく働き続けた。

1870(明治3)年、普仏戦争実地視察団としてヨーロッパへ派遣されるが、帰路、ニューヨークに立ち寄り、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たした。

しかし帰国後、万次郎は病に倒れる。
そして1898(明治31)年、72歳で万次郎はその生涯を終えた。




万次郎の功績は、日本に新しい知識や技術をもたらしただけではなく、アメリカ人を通して学んだ人道主義や民主主義を、坂本龍馬をはじめ新しい道を求めて模索していた多くの若者たちに影響を与えたことであった。
そしてそれが開国に向けた大きなうねりの中で、やがて明治初期の自由民権運動へとつながっていく。


万次郎自身が歴史の表舞台に出ることはほとんどなかったという。
万次郎に野心や野望はなく、常に名誉栄達から離れたところにいたからだ。
国家や体制とは関係なく、一人の人間として万次郎は懸命に生きた。

足摺岬を洗う黒潮は、日本の太平洋沿岸を北東に流れ、ついには北アメリカ北西海岸に達する。土佐の中浜村に生まれたジョン万次郎の一生は、まさにこの雄大な黒潮そのものといえるだろう。


足摺岬の入り口に、ジョン万次郎の銅像がある。
この銅像は、彼を息子のようにかわいがってくれた船長の故郷、マサチューセッツ州フェアーへブンを向いて立っている。


太平洋沿岸を飛ぶ (51) - 土佐清水市

2010-03-20 | 四国

翌年の嘉永6年、突如として、ペルリの率いる日本遠征隊が浦賀に来航した。幕府はもとより諸国各藩も大いに打ち驚き、国を挙げての大騒ぎとなった。尊王攘夷の論も火の手をあげて来た。幕府では土佐の漂民万次郎が幸い米国の情事に明るくメリケン語にも通暁しているというところから万次郎を江戸に迎え、十一月六日付をもって二十俵二人扶持の御普請役格に登用した。土佐の領地以外には住居を禁じられていた日かげ者が、一躍して旗本に取りたてられたのである。時勢の波に乗ったとはいえ、当時の官界では珍しい任官沙汰である。これは概ね閣老伊勢守の方寸によるもので、伊勢守一派はメリケン仕込みの万次郎に、よほど期待するところがあったにちがいない。
(井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記」より)



万次郎らは1851(嘉永4)年、薩摩藩領の琉球国摩文仁間切小渡浜に上陸。番所で尋問後に、薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けた。

約2年後、土佐への帰国となる。土佐藩主山内豊信公の命により、吉田東洋から70日の取り調べを受けるが、日本語をほとんど忘れていた万次郎は、蘭学の素養がある絵師・河田小龍と寝食を共にし尋問を受ける。後に小龍は、万次郎の漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめ挿絵を入れて『漂巽紀略』としてまとめた。

その後、土佐藩の士分に取り立てられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。この時、後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けている。

万次郎は幕府に招聘され江戸へ。直参旗本となり、その際、故郷である中浜を姓として授かり、中浜万次郎と名乗るようになった。この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府があった。

万次郎は翻訳や通訳、造船指揮にと精力的に働き、日米和親条約の締結に向け尽力した。
1860(万延元)年には、日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、「咸臨丸」に乗り込むこととなる。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていた。諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入したエピソードは有名である。



太平洋沿岸を飛ぶ (50) - 足摺岬

2010-03-18 | 四国


太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着した万次郎らは、そこで過酷な無人島生活をおくる。

漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号によって救助されるが、この出会いが万次郎の人生を大きく変えることになるのだ。

当時、日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づける状態ではなかった。万次郎を除く4人はハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに気に入られた万次郎は、本人の希望で船長と共にアメリカに渡る。この時、船名にちなんだ“ジョン・マン”という愛称をつけられた。

アメリカ本国では、マサチューセッツ州のオックスフォード校に学び、英語のほか、航海術、数学などを修得。ホイットフィールド夫妻を初めとするアメリカ人社会でも愛され、21才のときには、乗船していた捕鯨船フランクリン号船長の病気による降船に伴って、一等航海士に昇格してアメリカへ帰還。

その後、ゴールドラッシュのサンフランシスコに渡り、ここで得た金で自身の船を購入。1850年12月、本人の購入した捕鯨船でハワイへ向かい、共に遭難しハワイに残された日本人仲間を伴って日本への帰国に向かうのである。





太平洋沿岸を飛ぶ (49) - 足摺岬

2010-03-17 | 四国


ジョン万次郎の生れ故郷は、土佐の国幡多郡中の浜という漁村である。文政十(丁亥)年の生れということだが、生れた正確な月日はわからない。父親は悦介といい、万次郎九歳のとき亡くなった。母親の名をシオといい、寡婦になってからは万次郎ら兄妹五人のものを、女ひとりの手で養育した。もちろん赤貧洗うがごとき有様で、子供たちに読み書きを仕込む余裕などあろうわけがない。万次郎は働かなければならなかった。十三四歳の時から漁船に乗り、いわゆる「魚はずし」の役を勤めながらその日その日を凌いでいた。他人の持船に雇われていくらかずつの手当をもらうのである。ところが万次郎十五歳の正月五日、いつものように他人の持船に雇われてその年の初漁に出た。宇佐浦徳之丞というものの持船で、乗組は同国高岡郡西浜の漁師養蔵の伜伝蔵(当年三十八歳)その弟重助(二十五歳)伝蔵の伜五右衛門(十五歳)同じく西浜の漁師平六の伜寅右衛門(二十七歳)とともに五人の乗組であった。伝蔵は船頭ならびに楫取りの役。重助、寅右衛門の二人は縄上げの役。五右衛門は櫓押し、万次郎は魚はずしの役。それぞれ役割を分担し、白米三斗とそれに相応するだけの薪水を積込んで、五日の朝十時ごろ、宇佐浦を出帆した。早春の潮に集まって来る鱸を釣る目的であった。
(井伏鱒二著『ジョン万次郎漂流記』より)





太平洋に突き出した足摺岬、その西の付け根あたりに、小さな漁村がある。
「中ノ浜」と言う。

ジョン万次郎こと中浜万次郎は、1827(文政10)年、漁師の次男としてここで生まれた。
15歳の時、高岡郡宇佐浦の漁師に雇われて出漁、足摺岬沖で遭難、7日間の漂流のち鳥島に漂着、143日に及ぶ無人島生活のすえ、米国の捕鯨船に救助される。



太平洋沿岸を飛ぶ (48) - 四万十川

2010-03-16 | 四国

四万十川は、高知県の西部を流れる川で、吉野川に次ぐ四国第2の川。
本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流」、あるいは柿田川・長良川とともに「日本三大清流の一」と呼ばれることがある。

高知県高岡郡津野町の不入山(いらずやま)を源流とし、高知県中西部を、S字を描くように蛇行しながら多くの支流を集め、四万十市(旧中村市)で太平洋に注ぐ。河口附近では「渡川」という名前がある。

「四万十川」という名前の由来には、いくつかの説がある。
アイヌ語で「大きく、美しい」を表す言葉、「シ・マムタ」からきているという説。
また、「四万川」という支流の名前と、中流にある「十川」という地名が合体したのだと言う説。
さらに、四万十川が非常に多くの支流をもっているため、「四万十川」と名づけられたという説もある。

流長196kmを誇る四万十川は、水質も良く日本有数の清流で、古くから漁が盛んに行われてきた。
高知県の清流を代表する魚、鮎。船上で火を振り、鮎を網へと追い込む「火振り漁」が行われ、その光景は、四万十川の風物詩となっている。
また、唐揚げや佃煮など高知県の郷土料理にもよく用いられているゴリ。ゴリの伝統漁法として代表的なのが、「ガラ曳き漁」。ロープにサザエの殻をつけ、ガラガラという音で仕掛けておいた四つ手網の中にゴリを誘い込む漁法である。
そして、四万十川を代表するエビがテナガエビ。テナガエビの漁法は「柴漬け漁」といい、枝を束にして水に沈め、その中に入り込んだものをすくうという伝統的な漁法。
その他、天然ウナギ、青海苔の産地としても知られている。

四万十川は、川漁で生計を立てている人が多いことでも、日本有数の河川といえる。



四万十川には支流も含めて47の沈下橋があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定している。


太平洋沿岸を飛ぶ (47) - 須崎港

2010-03-15 | 四国


その夜、紀淡海峡をすぎてから風浪はげしく、船は大いにゆれた。翌朝室戸岬をまわるころには海がようやく凪ぎ、夕刻、須崎港に入った。
須崎は高知の西方四十キロにある土佐藩きっての良港で、港のふところは四面、山と島でかこんでいるため、外洋の風浪はまったく遮断されている。
幸い、まだ英国軍艦も幕府軍艦も入っておらず、彼らよりも一足さきに高知に入って下準備をととのえたいという佐佐木らの希望どおりの状態になった。
(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)




須崎港は、高知市の西方約30km、土佐湾のほぼ中央に位置し、天然の良港として、古くから地域の生産、消費物資を取り扱い、現在ではセメント、石灰石、木材等を取り扱う県下最大の貿易港として大きな役割を果たしている。

港の入り口(画面左の白い部分)には、日鉄鉱業の須崎事業所があり、石灰石の積出港となっている。
仁淀川町の鳥形山から、この積出港まで約23kmの距離を専用ベルトコンベアで運ばれた石灰石は、ここから阪神・京葉地区など国内のほか,オーストラリア・シンガポール,香港などに出荷されている。


一方で、須崎港沿岸は、リアス式海岸のため、津波の被害を受けやすく、古くから幾多の津波によって尊い人命と財産が奪われてきたところでもある。


また、須崎市の西部を流れる清流としても有名な新荘川は、1974年にニホンカワウソの生息が確認されたが、その後、1979年に新荘川で確認されたのが最後となった。



幕末、1867(慶応3)年7月6日、長崎で起きた「イカルス号事件」の補償交渉のために、英国人パークスが須崎まで押し掛けてきたことがあった。

イカルス号事件というのは、長崎で英国人水夫が斬殺され、その嫌疑が「海援隊」にかかった事件である。
のちに犯人は海援隊士ではなかったことが明らかになったが、英国と土佐の談判という国際事件の舞台となったのがここ須崎港だった。


太平洋沿岸を飛ぶ (46) - 鳥形山

2010-03-14 | 四国
高知県仁淀村、四国山地の一角に、頂上が雪のように白く平らな山(画面右)が目を引く。
日本一の採掘量を誇る石灰鉱山、「鳥形山」である。

鳥形山は東から眺めると鳥が翼を広げたようなシルエットを持つところからこう呼ばれたが、現在、石灰の採掘が進む鳥形山にその面影はない。昭和46年の開山以来、山の形が徐々に変わってきていることでも有名である。

標高1,000mを越える山頂にある採鉱現場では、日鉄鉱業(株)によって、推定埋蔵量10数億t以上の良質な石灰石が東西4,400m、南北400~900mにわたる広大な現場で採掘されている。
採掘は、山を階段状に切り取るベンチカット方式を採っており、ダンプでではなく、鳥形山から須崎港まで約23km敷設された長距離ベルトコンベアーで直接運搬されている。

鳥形山に代表されるように、四国カルストの石灰岩は、約2億5千万年前~3億7千万年前に形成されたものといわれ、世界的にも高純度の石灰岩が産出されている。このことは、カルストを形成する石灰岩が古生代末に、太平洋の遙か赤道付近にあった珊瑚礁であり、それがプレートテクトニクスによって移動したものと考えられている。

一方、全山が石灰岩という地質や、四国有数の雨の多い地域であることが高山性、北地性の珍しい植物を多く残してきた。
牧野富太郎博士が「鳥形ハンショウゾル」を発見以来有名となり、イワギク、キンキマメザクラ、フキヤツツバ、ユキワリソウ等幾多の高山植物が繁茂していて、高山植物の宝庫とされている。



太平洋沿岸を飛ぶ (45) - 四国カルスト

2010-03-13 | 四国

檮原は、どこか童話的な里でもある。
私どもは檮原を辞すべく、午後四時ごろには、北の町境い(すなわち県境)の台地にのぼりきっていた。地芳峠(標高1084メートル)だった。そのあたりは、一面のカルスト高原である。北方は、荒海を見るように山波がかさなっており、かすかながら石鎚山も見ることができた。
そのまま、石灰岩の台上を尾根づたいに東へゆくと、姫鶴平という広闊な高原に出た。
「四国カルストです」
町長さんがいったが、私には愛媛県(伊予国)にいる牛がぜんぶ黒牛で、高知県(土佐国)にいる牛がすべて赤牛であることがおかしかった。
(司馬遼太郎著『街道をゆく- 檮原街道』より)




四国カルストは、愛媛県と高知県との県境にある標高約1,400m、東西に約25kmに広がるカルスト台地である。
山口県秋吉台、福岡県平尾台と並び日本三大カルスト台地の一つに数えられている。

大野ヶ原、五段高原、姫鶴平(めづるだいら)、天狗高原(標高1485m)へと、なだらかにつらなる山肌には、白い石灰石と擂り鉢状の窪み(ドリーネ)が、広大なカルスト地形を構成している。

「四万十川」は、四国カルストの東端に位置する不入山(いらずやま=1,336m)の1200m付近の南面に源を発する。

1964(昭和39)年、四国カルスト県立自然公園に指定された。


太平洋沿岸を飛ぶ (44) - 四万十川河口 ・ 旧中村市

2010-03-09 | 四国


中村市は高知県の西南部、幡多郡の中央を流れる「四万十川」とその支流、後川及び中筋川の流域に発達し、県西南地域の文化、経済、交通の中心地である。

今から約500年前、前関白一条教房公が、応仁の乱を避けてこの地に下向し、京都に擬して造られた町で、街並みも碁盤の目状に広がり、祇園、京町、鴨川、東山、などの地名があり、「土佐の小京都」と呼ばれている。また「大文字送り火」など、小京都にふさわしい行事が連綿と今日に続いている。

一条家は教房のあと房家、房冬、房基、兼定とつづき、兼定が天正2年(1574)長宗我部元親によって豊後に追われるまで106年間栄えた。



中村市の中心部を流れる四万十川は、高知県東津野村不入山(標高1336m)に源を発し、蛇行しながら梼原川、広見川等の支流を合わせ、太平洋に注ぐ流域面積2,270㎞2(四国第2位、全国第27位)流路延長196㎞(四国第1位、全国第11位)の四国西南地域の母なる川である。

平成17年4月10日より中村市と幡多郡西土佐村が合併し「四万十市」となった。