Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

初秋の佐渡を飛ぶ (9)

2011-10-29 | 関東


その後の伊之助の仕事は、教室に出て二人のドイツ人教師のしゃべるのを口写しで通訳することであった。文体は、漢文崩しであった。新語については即座に造語し得たのは、この男の漢文の素養と、医学知識によるものであった。
ミュルレルはすでに五十歳を越えた温厚な人物で、その夫人はフランス人であった。
伊之助と初対面のとき、
「あなたはドイツのどこにおられましたか」
と、きいた。伊之助は日本から一度も離れたことがない、というと、ミュルレルは感嘆して、自分の妻はフランス人である、私と結婚して十一年になるが、あなたのように流暢には話せない、といった。
この時代が数年つづく。
伊之助の三十九年五ヵ月の生涯にとって、ほんの一時期ながら唯一の安定した時期であったろう。
かれの私塾のある練塀小路の春風社も繁盛した。ドイツ語が看板になり、かれの塾頭以下の共同作業で教科書や辞書(和訳独逸辞典)など何種かの本も出版された。
佐渡にのこした許嫁者の春江もよび、明治七年には長女綾がうまれた。
(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)




新政府は最初はイギリス医学をとりいれ、やがてドイツ医学に転換する。
医学校(東京大学医学部の前身)でドイツ人教師ミュルレル(Müller )とホフマン(Hoffmann)の通訳となった。
東校のドイツ語講義には、まだ和訳されていない用語が次々に現れる。伊之助はそれを聞いて即座に新しい日本語を造語する才能も備えていた。蛋白質(Eiweiss)、窒素(Stickstoff)、十二指腸(Zwölffingerdarm)など、基本的医学用語の多数は伊之助による急造日本語であった。
一方、東京下谷にひらいたドイツ語の私塾「春風社」も大繁盛した。




初秋の佐渡を飛ぶ (8)

2011-10-24 | 関東


伊之助の異能と学殖にまず気づいたのは日本人医師よりも、ウィリスのほうであった。
「あなたは、ヨーロッパの医科大学で正規に医学を学んだのでしょう」
と、接触したその日に、ウィリスはいった。
「私は日本を離れたことはない」と伊之助が答えると、まずその英語が不審です、日本人で英語を解する者はきわめてまれだが、あなたはどこで学びました。ときいた。
「この大気のなかに英語が浮遊しています。それを吸ったにすぎません」
伊之助が大まじめでいうと、ウィリスは頭を振った。自分をからかっていると思ったらしい。
「医学のほうは?」
「長崎のポンぺ医学校で学んだのです」
といった瞬間から、ウィリスのほうの態度がかわった。かれは伊之助を同格の医局員として遇しはじめたのである。

ウィリスは日本の医学を英国式に一変させるべく精力的に準備し始めていた。むろんそれらの仕事にも、伊之助は通訳としてウィリスの片腕になっており、伊之助が怠けて来ない日は、人を練塀小路の春風社に走らせて引っぱり出したりした。伊之助は私塾の春風社でも、医学所でも英語の初歩を教えた。医学が英方になったというので、にわかに英語熱が高まり、春風社へ英語受講を指定してやってくる者が多く、むろん誇張された数字だが、「千人を越えた」といわれたりした。
とたんに伊之助は分限者になった。
かれの日常は多忙で、塾で教え、大病院・医学所でウィリスの通訳をし、日暮れになると、神田明神下や柳橋ヘ行って、芸者をあげた。良順の芸者遊びの癖を、伊之助は過度なかたちで相続したようであった。(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)






すでに明治になっている。
長崎から横浜へと、洋学の中心地が移り変わろうとしていた。
オランダ語が万能だった時代は終わり、英語、さらにフランス語、ドイツ語が重宝される時代がきていた。
伊之助はどの言葉も話すことができた。時代の波に乗ってゆく。
そして佐藤泰然のすすめもあり、新政府で働くようになった。


英国人医師ウイリアム・ウィリス は1863年に英国総領事館付医官として来日し、1877(明治十)年に帰国するまで、黎明期にあった日本の医療システム構築に多大の功績を残した。明治二年には東大医学部の前身である東京医学校兼大病院の院長に就任したが、一年弱でこの職を退き、のちに鹿児島大学医学部となる鹿児島医学校兼病院で治療の傍ら、忍耐強く臨床重視の医学教育確立と地域医療や公衆衛生の改善に貢献した。









初秋の佐渡を飛ぶ (7)

2011-10-22 | 関東



祖父の伊右衛門が卒中でたおれたという急報をうけた。
伊之助は届を出すとすぐさま駆けた。中山峠を駆けのぼり駆けくだって、ふもとの沢根につくと駕籠をやとった。あとは真野湾ぞいを駆けさせた。
すでに暗かった。
(生きていてほしい)
駕籠のなかで何度も合掌した。この若者に信仰心などあるはずはなかったが、今は駆けすぎてゆく野の石地蔵も祠の氏神もみな祖父のそばにあつまってほしいとおもった。
身がしきりにふるえた。恐怖の一種かもしれない。
(孤児になった)
三十にもなって孤児でもなかったが、祖父がいない自分の人生など考えられもせず、このあとどのように生きてゆけばよいかわからない。
幼いころは祖父に監視されて漢籍を学び、そのあと祖父につれられて江戸へゆき医学修行の道に入った。たまたま勝手に平戸で入婿していたときも祖父がやって来て引き離され、佐渡につれもどされた。

一面では祖父が伊之助を抑圧してきたのだが、伊之助はべつだん反発もおぼえず、自分のしたいことをしたいとは思わなかった。元来、伊之助には本然の願望とか志とかいうものがないのではないか。
(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)





祖父伊右衛門が亡くなった。
伊之助はすでに30歳になっていたが、孤児になった気分がした。

やがて松本良順の父泰然が横浜にいることを知り、伊之助は再び佐渡を出ることになった。






初秋の佐渡を飛ぶ (6)

2011-10-20 | 関東


初夏の佐渡に上陸したとき、さすがに伊之助の胸が、甘酸っぱい感情でさざなみ立った。下船した小木湊では、すでに日暮だった。
その夜は小木で泊まり、翌朝、官道を新町にむかって歩いた。
途中、風景は多様だった。左手に荒磯が見えるかと思えば、山中に入った。山間の小さな野では、菜ノ花の黄が目に痛かった。伊之助は、涙がこぼれた。

「ふるさとはいいだろう」と、伊右衛門はそういう概念まで押しつけてきた。押しつけられるまでもなく伊之助は一個の詩人になって歩いていた。
一面、佐渡は絶海の孤島だった。
(もはや他郷には出ることがないだろう)
とおもった。この土地で祖父伊右衛門のように老い、父栄助のように死ぬ。江戸も長崎もあるいは平戸も、思いうかべると夢のようで、かつてそこにいたということが、実感としては煙をつかむようでにおいすらよみがえって来ない。

昼すぎに真野湾に面した故郷の新町についた。

(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)







長崎を出た伊之助は、平戸にしばらく滞在する。ポンぺの塾でともに学んだ平戸藩医師・岡口等伝のひとり娘・佳代の婿養子になる。

しかし祖父の伊右衛門は、自慢の孫が平戸に居ついてしまうことを怖れ、佐渡からはるばる伊之助を連れ戻しに来てしまった。
すでに佳代は妊娠していたのだが、伊之助は何も知らされないまま船に乗せられ、結局、妻子を残したまま佐渡に戻ることになった。

再び佐渡へ帰ったものの、伊之助は無為の日々を過ごしている。
開業するも患者は一人も来ない。







初秋の佐渡を飛ぶ (5)

2011-10-17 | 関東



「イノ。 君に仕事を命ずる。いままで私からきいた話を要約してみたまえ」
といったとき、ポンぺは伊之助のまとまったオランダ語をはじめてきいた。十分以上に理解し、見事に要約し、なによりもそのオランダ語が立派だったことに、ポンぺは驚きよりも腹立たしさを覚えた。
(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)






長崎医学伝習所で、伊之助はポンぺの講義を聴いては、たちどころに翻訳し、学生達に教えるという役割を果たし、彼の才能を存分に発揮した。

関寛斎とともに『七新薬』という著書(ポンペの説により7種の新薬をあげて、それぞれの健康作用と医治効用とを論じたもの)を出版するが、これは断りもなくポンぺの書斎に入りこみ、勝手に医学書等を見て作った本であり、ポンぺにすっかり嫌われてしまう。

そしてポンぺに破門された伊之助は長崎を去る。





初秋の佐渡を飛ぶ (4)

2011-10-15 | 関東



「あなたはオランダ語が話せるか」

とポンぺはいった。伊之助が黙っていると、「なぜ返事をしない」といった。
伊之助は生まれてはじめて聞く、ネイティブのオランダ語に魅せられた。ポンぺの喉、口、舌を凝視した後、伊之助はまねをしてみせた。

〈あなたはオランダ語が話せるか。 なぜ返事をしない〉

うまくできた。というよりもポンぺの声そっくりだった。
ポンぺは一瞬、呆然とした。

(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)







江戸幕府はペリーの黒船来航後、海軍の必要性を痛感していた。1855(安政2)年、「海軍伝習所」を長崎に設立し、オランダに指導を依頼する。勝海舟、榎本武揚といった人々が育つことになるが、教授陣の中に軍医が入っていた。 ポンペ・ファン・メーデルフォールトである。

松本良順は海軍伝習所に軍医として入り、ポンぺに学ぶ学校づくりに奔走する。全国からポンぺの噂を聞きつけた蘭方医たちも集まって来た。ポンぺに良順が教わり、良順が諸藩の学生たちに教えるという形で、医学校(長崎奉行所西役所医学伝習所)は始まった。1857年12月27日のことである。 ここが日本における近代医学教育の夜明けとなった。(現在、長崎大学医学部の開学記念日とされている)。


しかし学生たちの多くはオランダ語が分からない。ここで異能の人物が活躍することになる。
佐渡でぼんやりとした日々を送っていた伊之助だった。
良順が呼び寄せたのである。

伊之助にとっても、生のオランダ語に接するのは初めてだったが、たちまち理解してしまう。






初秋の佐渡を飛ぶ (3)

2011-10-10 | 関東


「どう思うか」

舜海は、横文字の羅列の中から「医術」をつかみ出してゆくという経験を重ねている。塾生にも、それと同じ経験をさせるというのが討議の趣旨であった。このため、この討議ばかりは、どういう怠け者の塾生でも真剣になった。

ただ、一ヶ所の席だけが、別なふんいきを持っている。伊之助である。伊之助だけがすでにセルシウスの外科書を筆写していて、それをながめているのだが、そこから「医術」をつかみ出そうという気はさほどになく、コトバというものが醸し出している文学的な、あるいは音楽的、もしくは言語学的な興味のほうに没入してしまっていて、自分の手書き本を見つめつつも、他の世界に住んでいる。むろん、討議にも加わらない。(ああいう男がいては、やりにくいな)舜海はおもっているが、口には出さない。他の塾生のほうが、舜海以上に伊之助の存在を迷惑がった。(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)







伊之助は、驚異的ともいえる外国語習得力を見せるが、医者としての実技を重んじる順天堂の校風に馴染めず、さらに周囲の対人関係も正常に保てない。

伊之助は、結局、佐渡に帰ることとなった。 江戸行きはうまくいかなかった。







初秋の佐渡を飛ぶ (2)

2011-10-08 | 関東


佐渡という島には大佐渡山脈と小佐渡山脈が並行して走り、その中間が国中とよばれる平野になっている。大佐渡山脈の最高峰が金北山という1,172メートルの峰で、十歳の脚ではさすがにつらかった。登りながらこのときも波の上にこだわり、「佐渡はこれっきりか」と念を押した。
これっきりだ、と質屋をいとなむ伊右衛門は品定めでもするように答えた。伊之助はこのとき肝の冷えるような心細さを何とか噛み殺すために、帰宅してから七言絶句の登高の詩をつくった。四百余州という大きな唐土にうまれても、絶海の孤島にうまれても、人間には変わりがないというのはどういうことか、という奇妙といえば奇妙な詩だった。
(司馬遼太郎著『胡蝶の夢』より)






島倉伊之助(後の司馬凌海)は、1839(天保10)年、佐渡島真野新町に生まれた。

小説の伊之助は、祖父伊右衛門に5歳のときから論語や孟子を学ばされ、わずか十一歳で江戸へ出て幕府の奥御医師松本良順に弟子入りする。しかし奔放な伊之助は、幾度となく問題を起こして、やむなく下総佐倉の順天堂に学ぶ。

佐倉順天堂は藩主堀田正睦の招きを受けた蘭医佐藤泰然(松本良順の実父)が天保14年(1843)に開いた蘭医学の塾。西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出した。









初秋の佐渡を飛ぶ (1)

2011-10-02 | 関東



佐渡は、越後からみれば波の上にある。

「佐渡は波の上だ」
と、伊之助は幼いころからきかされていたが、波の上なら舟のように揺れるはずなのにどうして揺れないのかとふしぎにおもった。

十歳をすぎるころ、波の上に井戸があってたまるものか、と思うようになった。伊之助の家には、この新町でも自慢の井戸があって、海ぎわながら、塩気のない水が湧く。
彼の故郷の新町は、真野の海に面している。大きく湾入したこの入り江には白砂と青松でふちどられ、北からかぞえれば、雪の高浜、長石の浜、恋が浦、越ノ長浜などといった美しい浜がつらなり、彼の在所である新町は、恋が浦にもっとも近い。








司馬遼太郎著『胡蝶の夢』は、幕末から明治にかけて封建社会の中で近代医学の導入に情熱を燃やした若者たちの群像劇である。

西洋の医学教育を長崎で導入したオランダ軍医ポンペについて学び、当時の日本人としてはもっとも本格的な西洋医学を修めた松本良順(長崎大学医学部の創設者)、佐倉順天堂を経て、良順とともにポンぺの下で西洋医学を学んだ後、30数年におよぶ医師としての地位・名誉を投げ捨て、73歳で北海道開拓に命を懸けた関寛斎。

そしてもう一人、その中で、ひときわ異彩を放つのが、佐渡出身の島倉伊之助(後の司馬凌海)である。