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-空から見るからこそ見えてくるものがある-

琉球弧の島々を飛ぶ (終) - 与那国島・東崎(あがりざき)

2009-09-10 | 沖縄


  名も知らぬ遠き島より
  流れ寄る椰子の実一つ
  故郷(ふるさと)の岸を離れて
  汝(なれ)はそも波に幾月

  旧(もと)の木は生(お)いや茂れる
  枝はなお影をやなせる
  われもまた渚を枕
  孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ

  実をとりて胸にあつれば
  新(あらた)なり流離の憂い
  海の日の沈むを見れば
  激(たぎ)り落つ異郷の涙
  思いやる八重の汐々(しおじお)
  いずれの日にか国に帰らん

島崎藤村、明治三十一年の作といわれるが、藤村自身は実際に流れ着いた椰子の実を見たわけではない。
友人である柳田國男から愛知県の渥美半島伊良湖崎(いらござき)で拾った椰子の実のことを聞いたことから作られたといわれている。

 「・・・そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがあった。ともかくも遙かな波路を越えて、まだ新しい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。この話を東京に帰ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛唱されている椰子の実の歌というのは、多分は同じ年の作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある・・・・」
と柳田國男著『海上の道』(1952)に書かれている。

遠い南の島を離れた椰子の実を、日本列島まで運んだ黒潮。

日本人の祖先もまた、この椰子の実と同じように、琉球弧の島々を経て、海上の道をやってきただろうと考えたのであった。

「海上の道」は、まさに“海のロマンティック街道”として日本人の心の内に息づいている。

琉球弧の島々を飛ぶ (35) - 与那国島・祖内、ナンタ浜

2009-09-09 | 沖縄
祖納(そない)は、与那国島の中心地で、赤瓦の家並みが残る古い集落。
祖納には、3銘柄の泡盛の酒造所があり、日本で唯一アルコール度数60度の泡盛「花酒」製造が許されている(崎元酒造「与那国」、入波平酒造「舞冨名」国泉酒造「どなん」)。

花酒とは泡盛の蒸留行程で最初に出てくるアルコール度数の高い泡盛のことで、最初にでてくる酒なので「ハナサキ(最初という意味)」という名前になったといわれている。
花酒はおもに冠婚葬祭に使われる酒であり、結婚式の際には、三三九度の酒として使われ、葬儀の際には、天寿を全うした方の葬儀のみ振る舞われる酒だという。薬としての役割もあり、医療設備のない時代、発熱や傷の処置など万能薬として大切に使われていた。
この島にとって花酒は「特別」な酒で、こういった歴史的背景や儀礼的な使用の習慣が認められ、アルコール度数60度の花酒は与那国でのみ製造する事が認められた。

昔は、この酒を作るのに、若い女性に米を噛ませて、それを吐き出させ、樽の中にいれて発酵させて酒をつくったのだとか...

祖納集落の前方、祖納港のある白砂が美しい浜が「ナンタ浜(波多浜)」。
与那国随一の港であったが湾口が北向きのため季節風の影響を受けて入港には困難を伴った。

「なんた浜うりてぃむちゃる盃(さかじき)や 涙(みなだ)あわむらし飲みぬならぬ」

民謡「ドゥナン・スンカニ」(「スンカニ」とは恋と別離の情をうたいこんだ歌)

琉球王朝時代、税を取りにくる役人をこの浜で迎え入れた島の娘たちの秘話が伝えられている。


琉球弧の島々を飛ぶ (34) - 与那国島・ティンダバナ

2009-09-07 | 沖縄
与那国島の北東にある祖納集落に、隆起珊瑚岩塊の“ティンダバナ(天蛇鼻)”がある。
高さ70mの自然展望台で、ここは与那国の歴史、伝説の源である。

伝説によると、16世紀に巨漢の女酋長である「サンアイ・イソバ」が住んでいて、その弟たちを島の各地に配置し、良い政治を行い国を治めていたと言われている。 またこの展望台からは、祖納の集落とナンタ浜を眺望することができる。

イソバは太った怪力無双の大女で、15世紀末から16世紀頭に活躍した島の統治者だ。祖納からみえる高台ティンダバナの上、サンアイの大木(ガジュマル)のある村に住み、島人から尊敬を集め「サンアイイソバ」,「イソバアブ」(アブ=女性の尊称)と呼ばれていた。

4人の兄弟を村に配し、新村建設、牧場開拓、新田開墾、宮古との貿易などを仕切った。イソバは朝夕拝所に祈願し、一種の司祭者的存在で、島を統治して祭政両面 を主宰した。飼い牛を連れ、島をまわり、自ら鍬をもち開墾に汗した。島の暮らしはとても豊かだったという。

ある日、八重山征伐帰りの琉球王国の軍(宮古勢)が奇襲して、ふもとの村を焼き討ちされた。高台から炎をみたイソバは刀を握り、麓に駆け降りて戦の先頭に立ち敵を夢中で切り倒した。大将の一人を宙に吊し上げ敵を追い詰め、遂に撃退したという。

しかし琉球王国の与那国制圧は年々進み、琉球の島津侵入後ついに人頭税が課され、人減らしのクブラ割りやトゥング田など与那国は苦難の歴史を刻むことになる。


『街道をゆく- 沖縄・先島への道』の中で、司馬遼太郎氏は、サンアイ・イソバを「収奪者としての首長で はなく、東アジアの古代の村落の指導者にしばしば存在したように、巫女であった」「彼女の名が後世まで残っ たのは、上陸してきた琉球王府の軍隊に対し、島人を指揮し、これを撃退したからである」と書いている。



琉球弧の島々を飛ぶ (33) - 与那国島

2009-09-06 | 沖縄
日本最西端。台湾まで111㎞。
年に数回は台湾の島影が見えるという国境の島、与那国島は、古くから“渡難(ドゥナン)”と呼ばれていた。
切り立った断崖に囲まれた島の周囲の海は荒れやすく、かつての渡海は大変な困難を伴ったという。
一方この絶海の孤島の周囲には、フィリピン沖で誕生した豊かな黒潮が流れ、様々な大型回遊魚が集まる。

与那国島の久部良を舞台に、一人の漁師を追った記録映画『老人と海』(1990年)が製作された。
小さなサバニを操り、カジキマグロと格闘しながら釣り上げる老人の姿がドキュメンタリーで描かれている(主人公の糸数繁さんは映画完成後、サバニでカジキ漁中に亡くなった)。

1986年、島の南側にある新川鼻(あらかわばな)岬の沖合100mほどの海底で1986年、巨大な一枚岩が発見された。「一枚岩」は周囲数百メートルに及ぶ巨大なもので、人工的に切り出したような跡や、階段状の壁、柱が立っていたと思わせる穴など、人が加工しなければできないかのように思われる形状を備えていたため、遺跡ではないかと報道された。
そして、この海底地形を巡っては、グスクと呼ばれる城塞だという説、神殿、水中の墓、石切り場だったという説から、与那国島の海底遺跡こそムー大陸の一部だったという説まで、実に様々な説が唱えられるようになったのである。


琉球弧の島々を飛ぶ (32) - 黒島・宮里海岸

2009-09-05 | 沖縄
“牛の島”として有名な黒島は、のんびりと時間が流れるハート形の島。
人口約220人に対して、牛の数は3000頭を越える。

島最大の行事である「豊年祭」は、島の西海岸に位置する、宮里海岸で行われる。

すべての穀物が収穫を済ませた旧暦の六月、今年の豊作を海の彼方「ニライカナイ」の神に感謝するとともに、来年世(やいねーゆー)すなわち翌年の豊穣を祈願するため、島を挙げて行われる。
ハーリー「爬竜船競漕」は、祭りのメインイベントであり、他の地域にはない独特のもの。

その昔、各島では琉球王府の命令により、農作物の増産督励を目的とする作付け面積を競う原勝負(ぱるすーぶ)が、年中行事として行われていた。
ある年のこと、黒島では、原勝負が引き分けとなったため、広場での綱引き、はては海上での船漕ぎ競争にまで持ち込まれ、ようやく勝敗を決したといわれる。
ところが、その年はかつてない程の豊年満作となり、それ以来、黒島の人々は、世果報世(ゆがふゆー)、弥勒世(みるくゆー)は、大渡(うぶどぅー)、海渡(いんどぅー)からもたらされるものであると固く信じ、世請い(ゆーくい)神事としての豊年祭を、海上における爬竜船漕ぎを中心に行うようになったという。

午前のハーリー終了後に奉納芸能が始まり、初めに“ミルク”の神様が来訪する。
八重山の豊年祭にはミルク様が現れるものが多いが、海辺でミルク様が舞う島は他になく、白砂のビーチと紺碧の海を背景に大変絵になる。

その他様々な芸能が、神に奉納され、島は、一日祭りでにぎわう。
観光客も他の島に比べて少なく八重山で一番自然の残っている島かもしれない。
また黒島の海は八重山でもトップクラスの美しさといわれ、産卵のためにウミガメが上陸してくる。

のんびりとした牛と海亀の島…


琉球弧の島々を飛ぶ (31) - 石西礁湖・ニライカナイ

2009-09-04 | 沖縄
八重山の海は美しい。

沖縄では海の遥か彼方にニライカナイ(桃源郷)があるという。
年の初めに豊穣の神がやってきて、人々に幸をもたらし、年の終わりに還っていく。
人間の魂もニライカナイからやって来て、死してまたニライカナイにもどる。

この概念は、本土の常世国の信仰にあたり、柳田國男は、ニライカナイを日本神話の「根の国」と同一のものとしている。

抜けるような青空の下、ぼんやりと機窓を眺めていると、透明感あふれる八重山の海が、ニライカナイに誘っているような神秘的な気持ちになった。

琉球弧の島々を飛ぶ (30) - 石西礁湖

2009-09-02 | 沖縄
石西礁湖とは、石垣島と西表島の間に広がる、日本最大のサンゴ礁。
石垣島の「石」と西表島の「西」という文字を取って名づけられた。
 
沖縄の他の海域の多くのサンゴ礁が島の周りを取り囲むように発達し、その幅はせいぜい数百メートルから数キロほどなのに対し、この石西礁湖は東西約30km、南北約20kmの広大な面積を有し、その中に竹富島、小浜島、黒島、新城島が点在している。世界最大のサンゴ礁として有名なオーストラリアのグレートバリアリーフ(『大堡礁』)の小型版といった地形で、『準堡礁』と呼ばれる。

400種を超える造礁サンゴが分布し、沖縄本島等へのサンゴ幼生の供給源としても重要な役割を果たしている。
1972年に西表国立公園に指定され、1977年には“タキドングチ(竹富島周辺)”、“シモビシ(竹富島周辺)”、“キャングチ(黒島周辺)”、“マイビシ(新城島周辺)”の4地区が海中公園地区に指定されている。

石西礁湖は重要な観光資源として利用されている一方で、オニヒトデの大発生や高水温による白化現象、陸からの赤土の流出や浚渫による海水の濁りなど、さまざまな要因によって大きな危機に瀕している。


琉球弧の島々を飛ぶ (29) - 西表島・由布島

2009-09-01 | 沖縄
三線を聴きながら西表島と由布島の間を水牛車に揺られて行き交う光景は、八重山の象徴的な景色としておなじみである。
由布島は、周囲2.15km、海抜1.5mの小さな島。「ゆぶ」とは砂州を意味するという。潮が引くと西表島と由布島は陸続きとなる。

西表島は古くからマラリアの発生地として入植を拒み続けてきた。
由布島に集落が作られたのは、戦後の昭和22年(1947年)に竹富島や黒島からの入植による。
昭和23年には小学校も作られ、一時期は人口が100人にもなったという。
もともと由布島は平らで風通しが良かったので、マラリアを媒介する蚊が少なかったこともあり、対岸の西表島に水田を作り、由布島の家で寝泊りをするという生活が行われていた。しかし、昭和44年の台風(エルシー台風)で多くの死者を出し、甚大な被害を被ったことで、ほとんどの島民は西表島(美原地区)へ移住した。

しかし、この島を「ハワイのような夢の楽園にしたい」。そう願って島を開墾し続けた人物がいる。
西表正治氏(平成15年11月96歳で逝去)である。

台風の被害でみんなが島を離れるなか、周囲から変人呼ばわりされながらも、四半世紀かけて島に残り、道を整備し、椰子を植え、草花を植え、そして昭和56年には遂に「手づくりの楽園」を作りあげた。(『楽園をつくった男 沖縄・由布島に生きて』森本和子著)

由布島の現在の人口は5戸、15人。



琉球弧の島々を飛ぶ (28) - ヨナラ水道

2009-08-31 | 沖縄
「ヨナラ水道」は、西表島の野原崎と小浜島の細崎との間の海峡。
石垣島と西表島の間の石西礁湖の切れ目の一つである。
地元ではユナラドゥー(与那良渡)ともいう。
約2万年前の氷河期の河谷跡が、海面上昇によって海峡となった。
幅約500-750m、長さ約5km、水深は10-30m。
小浜水道と書いた記録もあり、航路や荒天時の避難所として重視されていた。

ヨナラ水道の一角、“マンタウエイ”と呼ばれるポイントには、毎年4月から5月にかけてマンタと呼ばれる巨大なオニイトマキエイが群れをなしてやってくる。体長6m、畳8畳分にも及ぶ巨大マンタが、ゆるやかにヒレを上下させて泳ぐさまを一目見ようとダイバーたちが集まる。

画面右は西表島の由布島。


琉球弧の島々を飛ぶ (27) - 小浜島・細崎(くばざき)

2009-08-30 | 沖縄
小浜島には二つの集落がある。
島の中心にある小浜村と
島の最西端で、西表島に向って細く突き出している、“細崎(くばざき)村”。
この2つの村は、歴史的に血縁関係はないという。
それというのも細崎は明治末期に漁業入植した糸満本土の海人(うみんちゅ)の村だからだ。
八重山でカツオ漁が盛んだったその昔、ここは餌の供給地となり、
また、13ものカツオ工場が立ち並んでいたという。
細崎は今も小浜島の漁業を支えている。


琉球弧の島々を飛ぶ (26) - 小浜島・石長田海岸

2009-08-29 | 沖縄
石長田(いしなーた)海岸は、アカヤ崎から南側に広がる海岸。
海水と淡水が混じる汽水域で育つマングローブの群生が見られる。
この群落には、ヤエヤマヒルギ、メヒルギ、ニッパヤシなど数十種類の亜熱帯植物が群生しており、「日本の重要湿地500」に選定されている。
干潮時の夜には、島タコ(小さいタコ)や蟹、貝などの海の恵みを獲りに島の人々の姿が見られる。

琉球弧の島々を飛ぶ (25) - 小浜島・アカヤ崎

2009-08-28 | 沖縄
小浜島北東部、「アカヤ崎」の手前に標高50mほどの高台(画面右)がある。「ちゅらさん展望台」といって、NHKドラマ『ちゅらさん』の主人公、恵里と文也が将来の結婚を約束したガジュマルの木「和也の木」を見ることができる。
展望台からは、北に碧い海、西に西表島、手前は、ヨナラ水道(通称マンタウェイ)、南に小浜島のマングローブ林を見渡すことができる。


琉球弧の島々を飛ぶ (24) - 小浜島・大岳(うふだけ)

2009-08-23 | 沖縄
映画『ナビィの恋』の主役やNHKドラマ『ちゅらさん』の“おばぁ”役でお馴染みとなった女優・平良とみは、沖縄返還30周年にあたる2002年、CD『ニライカナイ』をリリースした。

「美しい沖縄ことばを後世に伝えたい」という平良とみの思いにより、本人による6つのショートストーリーの語りに、ショーロ・クラブの心地よい音楽が絡むといった内容になっている(「ニライカナイ」とは遠い海の向こうにある神々、先祖たちの島のこで、そこから人々に数多くの恵みがもたらされるという伝承がある)。

「おばぁと一緒に海風に吹かれながら昔話をしよう」という語りかけから、ショートストーリーは始まる。

そして第二話「空を飛んだ山」は、

「海辺の浜から見える小浜島には、山があり緑も豊富。その隣には平べったい竹富島もみえる。小浜島には山があるのに、何故、竹富島には山がないのか。
昔は竹富島にも中岳という高い山があったが、その中岳に住んでいた人の行いがよくなかったため、中岳が竹富島から小浜島に飛んでいってしまった」という話。

そして、その山こそが、目の前の小浜島「大岳(うふだけ)」なのだ。

平良とみの、あるいはウチナーのおばぁならではの温かい語りと、ショーロ・クラブのアコースティックメロディーが聴く者の心に沁みいる。

琉球弧の島々を飛ぶ (23) - 小浜島

2009-08-22 | 沖縄
小浜島は、西表島と石垣島の中間に浮かぶ島。
2001年度のNHK朝の連続ドラマ『ちゅらさん』の舞台になり、一躍有名になった。中でも“シュガーロード”と呼ばれる道は、ドラマのロケ地にもなり、小浜島の一大観光名所となった。
島の中央には、島のシンボルである海抜99mの大岳(うふだき)が聳え立っている。

古来から、米作りが可能だったため、八重山地方の中でも豊かな農業伝統をもつ。現在はサトウキビと米が主に栽培されている。

島民の自主的な取り組みによって観光振興を実践してきた、お隣の竹富島とは対照的に、小浜島は、本土資本を導入して約30年前にリゾート開発が行なわれた。

島の面積の5分の1を、ヤマハリゾート(2007年に三井不動産リゾートへ事業譲渡)が開発したリゾート施設「はいむるぶし(南群星の意)」が占める。

琉球弧の島々を飛ぶ (22) - 竹富島・西桟橋

2009-08-21 | 沖縄
竹富島の西海岸に突き出た一本の小さな桟橋。
真っ赤な夕日をのんびり眺めようと多くの人が桟橋に集まってくる。 夕日を眺める島一番のスポットだ。

竹富島「西桟橋」は、全長約10.5m、幅約2m、1938(昭和13)年の石造り。
住民の交通拠点として71年ごろまで使用された。先端には荷置き場、荷揚げ場があり、荷物の運搬・搬入や漁獲の水揚げなどに利用されていた。
2005年には、黒島の伊古桟橋と共に、国の登録有形文化財に指定された。


西桟橋は、17世紀から明治末期までの約300年間、人頭税に苦しめられた島民が、田を求めてこの桟橋から西表島に、耕作の出稼ぎに出かけたという。松をくり抜いた粗末な小さな船や帆舟で、危険な海路を往復したという。出稼ぎは日帰りなど不可能なため、出稼ぎ中は風土病の少ない西表島の由布島に、田小屋を建てて寝泊まりしたのであった。