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太平洋沿岸を飛ぶ (41) - 高知龍馬空港

2010-03-03 | 四国


竜馬は世界のことが知りたい。万里の波濤を蹴ってこの極東の列島帝国まで黒船を派遣してくる「西洋」というものがふしぎでならなかった。それは子供のように無邪気な好奇心であった。この好奇心があるために武市半平太のように、頑固な、--- 天皇好きの洋夷ぎらい。
にはなれなかったのである。
「されば、たれに就くのじゃ。この城下には蘭学者など居やせぬぞ」
「一人いる。蓮池町の小竜老人じゃ」
「小竜。あれはお前、絵師ではないか」
・・・・・
河田小竜は、狩野派の画家で、藩のお抱え絵師であり、士格の待遇をうけている。屋敷は塾を兼ねているが、門弟はさほど多くない。小竜は、ちょっと変わっている。警世家であった。攘夷論者をあざけり、日本は開国してどんどん外国の文物をとり入れねばならぬ、といっている。その点急進的な勤王派と肌が合わなかった。武市がきらっているのは、この点である。
小竜は、一見識がある。
というのは、この老人は、大そうな著書があるのだ。
「漂巽紀略」という。巽とはタツミの方角(南東)のことで、日本からその方角には、アメリカがある。書名の意味は「アメリカ漂流記」ということである。
小竜がアメリカに行ったのではなく、漂流したのは、土佐の漁師万次郎で、十一年間アメリカを流浪して帰国した。
この万次郎から小竜がきいて書いたのが、右の本である。この小竜の著書によって竜馬ら土佐人は、おぼろげながらアメリカというものを知った。
(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)



河田小龍(しょうりゅう)は、1824(文政7)年10月25日、高知高知城東、浦戸片町水天宮下、御船方の軽格の藩士、土生玉助維恒の長男に生まれる。
幼少のころより神童の誉れ高く、島本蘭渓に画を学び、16歳のころ藩儒学者岡本寧浦の門下に入る。
1844年、吉田東洋に従い京に遊学、狩野永岳に師事する。二条城襖絵修復の際には師とともに従事する。

1852(嘉永5)年、米国より10年ぶりに帰国した漁師、ジョン万次郎の取り調べに当たった。万次郎と寝食を共にし、万次郎に読み書きを教えつつ小龍自身も英語を学んだ。彼との交流を通じて海外事情にめざめた小龍は、アメリカの産業や文化などを聞きとり、小龍の挿絵を加えて「漂巽紀略」五巻として上梓し、藩主に献上。そして同書が江戸に持ち込まれると、諸大名間で評判になり、万次郎が幕府直参として取り立てられることとなった。

また、かねて親交のあった藩御用格医師、岡上樹庵の妻が、坂本龍馬の姉、乙女であったことから、龍馬は、この小龍を訪ねることとなる。
小龍は、龍馬に、攘夷一辺倒ではこれからこの国は生き残っていけないと、「海防」と「貿易」の重要性を説き聞かせる。

後に出逢う勝海舟とともに、河田小龍は、龍馬の思想に大きな影響を与えることになるのだ。







画面、高知空港は高知市の東方約18km、高知県の穀倉地帯と呼ばれる香長平野の南端物部川の河口に開けた田園地帯にあり、愛称を「高知龍馬空港」という。

「高知龍馬空港」のように人名を冠した空港は米国のジョン・F・ケネディ国際空港、イタリアのレオナルド・ダビンチ国際空港、英国のリバプール・ジョン・レノン空港などがあるが、日本では初めて。

昭和19年の旧海軍航空隊基地に始まり、終戦とともに連合軍に接収されたが、昭和27年の接収解除により民間飛行場として再開した。