Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

Cafe belvedere - (5)

2012-11-23 | Cafe 


ケンペルの約230年後、明治19年、もう一人の外国人が来日した。


ケンペルの「日本誌」に感激したイギリス人貿易商、バーニー(Cyril Montague Birnie1868〜1958)である。




バーニーは、オーストラリア生まれのイギリス人貿易商で、日本の自然、とりわけ箱根の自然や人々をこよなく愛し、大正7年には芦ノ湖畔に別荘まで構えた。

大正11年(1922年)52歳の時に、彼の別荘地の一隅に、ケンペルの「日本誌」の序文「この美しい自然をさらに美しくして子孫に伝えるよう」を引用した石碑を建立し、箱根の自然を称えるとともに自然保護の精神を我々に訴えた。


地元の人たちからは「バーニーさん」と慕われ、太平洋戦争を経験してもなお親日家であり続けたバーニーは、1958年に横浜で死去。横浜の外国人墓地に埋葬された。



彼の言葉は日本の自然保護の原点と言われている。












Cafe belvedere - (4)

2012-11-21 | Cafe 



「人民は謙譲・勤勉・敦厚にして、その地は最も天恵に富めり」
「この光栄ある祖国をば、さらに美しく尊くして郷らの子孫に伝えられよ(箱根にて)」




今から300年以上も前、江戸元禄時代、8代将軍徳川綱吉の頃、
箱根の文化や自然の美しさを、1人の外国人が発見し世界に紹介した。



ドイツ人医師、エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer 1651〜1716)である。






ケンペルは1690年(元禄3年)、オランダ商館付の医師として約2年間、長崎の出島に滞在し、1691年翌92年と江戸参府を経験、綱吉に拝謁。その際の4回の足柄越えで、箱根の自然に魅了され、標本用の植物を採取する。

2年の滞在中は日本をくまなく研究し、多くの資料を持ち帰り、後に『日本誌』The History of Japanを著した。


『日本誌』は、日本の地理、歴史、動植物や当時の暮らしぶり、社会や政治など広い分野を正確に伝えた、きわめてすぐれた著作であり、日本を訪れる西洋人にとってはいわば必読の書となり、シーボルトやペリーも来日時に携行、愛読したといわれている。










Cafe belvedere - (3)

2012-11-17 | Cafe 



急斜面に等高線を描くように作りあげられた水田。


土着信仰と融合したバリヒンドゥー教や 独特の伝統芸能・芸術で知られるバリ島では、美しい棚田(rice terraces)の景観が広がる。


熱帯性モンスーンの温暖な気候に恵まれ、二期作、三期作も行われている。


田植えから収穫まで稲作全体が信仰体系に組み込まれ、豊穣を祈る儀式が行われる。
雨ごいの儀式、田に水を引く時、田植えの時、稲穂がつきはじめた時、稲刈りの時、稲の女神デウィ・スリ(Dewi Sri)に祈りを捧げるのが習わしだ。









Cafe belvedere - (2)

2012-11-11 | Cafe 



目の前に広がる田園風景。
バナナや椰子の木々が異国情緒を醸しだす。

ゆったりとした時間が流れ、心が癒される。




1930年代、第2次大戦前、
バリ島の自然の神秘にとりつかれたドイツ人画家、ヴァルター・シュピース(Walter Spies)は、ウブド村に定住しバリ芸術に多大な影響を及ぼす。







インドネシア・ジャワ島を横断する - (11)

2012-11-08 | 海外



「ブロモ」の語源は、ヒンズー教の神の“ブラフマ (Brahma)”であると言われている。


ブロモ山の中腹から高地に住むテンゲル(Tengger)族は、16世紀末にイスラム教のマタラム王朝によってジャワ島全土が席巻された時、ヒンズー教のマジャパイト王朝の残留者が山中に逃げ、ヒンドゥー信仰を守り抜いた。

この山の民は火山に恩恵を受けながら、また一方では火山の怒りを怖れながら生きてきた。
今なお、この地では、年に一度、テンゲル族に伝わる伝説の生贄儀式「カソド(Kasodo)」というブロモ山の怒りを鎮める荘厳な儀式が行われている。

テンガル暦12番目の月の満月の日にブロモ山の麓にたつヒンドゥー寺院で礼拝後、真夜中に火の神が住む火口に向って生きた鶏や羊、花や野菜、米、果物、菓子など様々なささげものを投げ入れ、祖先の霊を慰めるという。












インドネシア・ジャワ島を横断する - (10)

2012-11-03 | 海外


ブロモ山にまつわる伝説がある。


13世紀から14世紀にかけて栄えた、ヒンドゥー教のマジャパヒト王朝の最後の時代。
王の妻の一人ブラウィジャヤが、女の子を生んだ。女の子はロロ・アンテンといい、後に僧侶階級の出身者ジョコ・セゲルと結婚する。しかし、とある事情から、二人は王国を出なければならなくなり、山の中で暮らすことになった。二人の住む地域は「テンゲル」と名付けられた。

何年経っても、二人の間には子供が生まれなかった。
そこで彼らは山の頂上に登り、火の神ベタラ・ブロモに祈った。ブロモは彼らの間にたくさんの子供が生まれることを約束したが、その代わり一番下の子供を生け贄として捧げなければならないと言った。

ロロとジョコは、25人の子供を授かった。そして一番下のケスマを生け贄として差し出さなければならなかったのだが、子供の命を惜しんだ二人は、ケスマを隠してしまったのである。

すると山が突然火を噴き、ケスマはこう言いながら火口の中に落ちていった。

「みんなが無事に生きられるように、僕が犠牲になります。ただしこれから毎年、ケソドの月の14日に、儀式を行ってください」と。


残されたケマスの家族は儀式を行った。


そしてテンゲルの民は先祖代々その儀式を引き継いできた。