Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

都市を眺める (9) - 大阪港

2010-04-24 | 近畿


初三郎の鳥瞰図の特徴は、画風と構図にある。

友禅図案絵師からスタートし、西洋の画法も学んだ彼の鳥瞰図は、浮世絵と西洋画が融合したような、それまでにない独特の近代的な画風であった。

その構図は、横長の画面に中央を細密に描き、左右の端をU字型に曲げ、実際の視界には入らない遠くの景色をパノラマ風に描く独特のものだった。
たとえば、地平線や水平線の彼方に、見えるはずのない遥か遠方の地が描かれていたり、関西の都市図に九州が、あるいは富士の観光図にハワイが描かれたりしているのである。

この極端にデフォルメをほどこされた地図は、「初三郎式鳥瞰図」と呼ばれた。
そしてその作風は、一つの独創芸術ともみなされるようになる。

初三郎は、1600種以上もの数多くの鳥瞰案内図を残したといわれているが、大量の作品を制作するために、京都に「大正名所図絵社」を設立。共同作業による工房制をしき、出版部門を備え大量印刷を図った。
依頼主から依頼を受けると現地を取材し、複数のスケッチを作成、既存の地図などを参考にして、原画を作成、その原画をもとに印刷された鳥瞰図が広く流布した。

つまり初三郎個人はプロデューサー兼デザイナーという存在であったのだ。




都市を眺める (8) - 神戸港

2010-04-20 | 近畿

吉田初三郎は、1884(明治17)年、京都市中京区に生まれた。

幼い頃から絵が好きで、教科書に記された円山応挙が一匹の野猿を描くまでの苦心談に感動し、10歳で友禅図案絵師へ奉公。

日露戦争従軍後、関西美術院で洋画を学び、鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう)に入門、洋画家を志すが、その後「洋画界のためにポスターや壁画や広告図案を描く大衆画家となれ」との師の勧めにより商業美術家に転じる。
日本中の名所図絵を描くことを決意する。

1913(大正2)年、京阪電車の太田社長の依頼で沿線案内図『京阪電車御案内』を描く。
大阪商船(現三井商船)、別府町などが相次いで鳥瞰図の製作を依頼。別府で亀の井ホテルを創業、“民衆外務大臣”の異名を取る油屋熊八と親交を深める。

1914(大正3)年、『京阪電車御案内』が、学習院普通科の修学旅行で男山八幡宮を訪れた皇太子(のちの昭和天皇)から、「これはきれいでわかりやすい。東京に持ちかえって学友にわかちたい」と賞賛を受けたことから、全国各地の電車沿線図・名所案内・絵葉書・切符・ポスターなど精力的に製作をおこなうようになり、初三郎人気は高まる。

描いた鳥瞰図は1600点以上とされている。





神戸が開港したのは1867年末。

初三郎は、『神戸市交通名所鳥瞰図絵』(1930神戸市電気局)で、六甲山脈を背に東西に延びる神戸市街を瀬戸内海側より描く。
旧外国人居留地付近の建物群、税関、ホテル、倉庫、検査所、メリケン波止場、行き交う船等の情報を克明に記した。



太平洋沿岸を飛ぶ (31) - 田辺湾 ・ 神島(かしま)

2010-02-15 | 近畿
1909年(42歳)、熊楠は『神社合祀反対運動』を開始する。明治政府は国家神道の権威を高めるために、各集落毎にある数々の神社を、1町村1神社にまとめるという「神社合祀令」を出した。廃却された境内の森は容赦なく伐採され、ことごとく金に換えられた。

熊楠は激怒した。神社林が伐採されることで自然風景と貴重な解明されていない苔・粘菌が絶滅するのなどを心配したのである。
「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」と警鐘を鳴らした。
熊楠は、“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて使い、生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれていると訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方を糾弾した。

熊楠はまた、民俗学、宗教学を通して人間と自然の関わりを探究しており、人々の生活に密着した神社の森は、子どもの頃に遊んだり、祭りの思い出があったり、ただの木々ではない、「鎮守の森の破壊は、心の破壊だ」と憤慨した。熊楠は新聞各紙に何度も反対意見を発表し、合祀を推進する県や郡の役人を攻撃した。そして彼は国内の環境保護活動の祖となった。

合祀反対運動に中央から協力したのが、当時内閣法制局参事官で、後の民俗学を起こす柳田国男だった。
その後、熊楠のひたむきな情熱が次第に世論を動かし、合祀令は発令10年にして貴族院決議で廃止となった。
その後も、熊楠は田辺湾の神島をはじめ、貴重な天然自然を保護するため、様々な反対運動や天然記念物の指定に働きかけをした。この戦いは晩年まで続き、熊楠が今日、エコロジ-の先駆者といわれる所以である。このような一連の活動は、2004年に世界遺産にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。

1929年(62歳)、昭和天皇が田辺湾沖合の神島(画面左上、天然記念物に指定)に訪問した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前講義を行ない、最後に粘菌標本を天皇に献上した。戦前の天皇は神であったから、献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、なんと熊楠は“森永ミルクキャラメル”の空箱に入れて献上した。後年、熊楠が他界した時、昭和天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。

1941年12月29日、朝6時30分、「天井に紫の花が咲いている」という言葉を最後に、世界が認めた、巨大な在野の学者は、波瀾に富んだ生涯を閉じた。享年74歳。
田辺市郊外、神島を望む真言宗「高山寺」に眠っている。この寺の一角にあった日吉神社の境内の森を熊楠は生前よく訪れ、数多くの隠花植物を採集した。この神社の合祀と神木の伐採が、熊楠の神社合祀反対運動のきっかけとなったといわれる。

学歴もなく、どの研究所にも属さず、特定の師もおらず、ただの民間の一研究者。何もかもが独学で肩書きもない。国家の支援も全く受けずに、これほど偉大な業績を残した人間が実在した。


「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」 -南方熊楠-


太平洋沿岸を飛ぶ (30) - 和歌山・田辺市

2010-02-14 | 近畿


ミナカタ・クマグス ― それは近代日本が生んだ超人。

「歩くエンサイクロペディア」といわれ、民俗学の先達である柳田国男からは「日本人の可能性の極限」と讃えられた男である。


坂本龍馬や西郷、新選組が活躍し、翌年からは明治という1867(慶応3)年、南方熊楠は、和歌山市の金物商の家に生まれた。熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキにちなんでの命名という。
6人兄妹の次男。子どもの頃から好奇心が旺盛で、植物採集に熱中するあまり山中で数日行方不明になり、天狗にさらわれたと噂され、「てんぎゃん(天狗さん)」と呼ばれていた。

7歳の頃から国語辞典や図鑑の解説を書き写し始めた。1879年(12歳)、中学に入学。知識欲はさらに増大し、町内の蔵書家を訪ねては『和漢三才図会』という百科事典を見せてもい、内容を記憶して家で筆写し、5年がかりで105冊を図入りで写本したといわれる。 
その抜群の記憶力は後に英語、ドイツ語、フランス語など19もの言語を操る力となった。

和歌山中学校を卒業し上京。神田の共立学校(現、開成高校)入学。高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バ-クレイが菌類6,000点を集めたと知り、それ以上の標品を採集し、図譜を作ろうと思い立った。その後、東京大学予備門に入学。
同期には、幸田露伴、芳賀矢一、正岡子規、山田美妙、秋山真之、夏目漱石などがいたという。
しかし地方から出てきた熊楠は、ここでは学問への欲求が満たされず程なく退学。

父を説得し20才で渡米。サンフランシスコ、シカゴ、フロリダ、さらにはキューバ、ハイチ、ジャマイカ、そして中南米と各地を巡り、頻繁に山野へ出かけては、植物採集など独学でフィールドワークを続けた。この過程で熊楠は粘菌の魅力にとりつかれていく。

米国滞在の6年間で標本データが充実したので、植物学会での研究発表が盛んな英国に渡ることを決意する。
26才でロンドンへ渡り、科学雑誌「ネイチャー」に「東洋の星座」という論文が掲載されたことにより、その名が知られ、大英博物館の嘱託職員に迎えられた。大英博物館では、仕事をしつつ、読書と筆写に明け暮れ、その中で作り上げた「ロンドン抜書」は、民俗学や博物学等について、52冊・1万800ページにわたり丁寧に書きつけている。また当時亡命中の“中国革命の父”孫文とも親交を結んでいる。

34才で帰国し、3年あまり植物の宝庫である熊野の山々を踏破調査し、37才から和歌山・田辺市に家を借り、居を定める。熊楠は田辺を「物価は安く、町は静かで、風光明媚」と絶賛し、亡くなるまでこの町で過ごした。


太平洋沿岸を飛ぶ (29) - 枯木灘海岸

2010-02-13 | 近畿
風が吹く。それはまったく体が感じやすい草のようになった秋幸には突発した事件のようなものだった。現場の渓流の下手から、風は這い上がり、流れを伝い日で焼け始めた石の上を走る。道路脇の草をゆすり、人夫たちの体を舐める。山の梢が一斉に葉裏を見せ、音をたて、身もだえる。
木々の梢、葉の一枚一枚にくっついた光がばらばらとこぼれ落ち、秋幸はそれに体をまぶされたと思った。汗が黄金と銀に光って見えた。
(『枯木灘』より)



1992年8月12日、ひとりの小説家が郷里で死んだ。
中上健次。享年46歳。


羽田空港などで肉体労働に従事したのち執筆に専念。初期は、大江健三郎から文体の影響を受けた。柄谷行人から薦められたウィリアム・フォークナー(『アブサロム、アブサロム!』などのヨクナパトーファ・サーガで知られる米国小説家)に学んだ先鋭的かつ土俗的な方法で数々の小説を描き、自らの出自にまつわる血縁、地縁に取材した『岬』により芥川賞受賞。戦後生まれで初めての受賞者となり話題となる。
以後も、故郷である紀州・熊野を舞台にした小説を多く描き、『枯木灘』、『地の果て 至上の時』など、ある血族を中心にした一連の“紀州サーガ”(秋幸という同一主人公を中心に書かれている)とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。

彼は、海と山と川に囲まれた紀伊半島の南部、紀州・新宮に生まれ、被差別出身の小説家として、その場所を「路地」と呼び、生涯を通じてその「路地」を舞台とした小説を書き続けた。



潮岬を中心に、東を「熊野灘」、西はすさみまでの約四十キロを「枯木灘」とよんでいる。
“すさみ”、“枯木灘”とは、なんともすさまじい地名ではないか。
すさみは「荒(すさ)ぶ海」、枯木灘とは「海からの潮風で木がことごとく歪みねじれ枯木のようになる」という意味だ。


中上健次は、人間の中に潜む“枯木灘”を描いたのだ。



太平洋沿岸を飛ぶ (28) - 熊野・古座街道

2010-02-11 | 近畿
熊野というのは大小無数の山塊を寄せかためたようなところで、いかにも隠国(こもりく)という感がふかい。
しかしながら古代では僻地ではなかったらしく、『古事記』、『日本書紀』にしばしば主要舞台として登場する。おそらく古代にあっては独立性の高い政治圏もしくは文化圏であったのかもしれない。
熊野という土地が持つ古代的な、つまり得体の知れぬ一種の充実制が、中世になって天皇家をもふくめて貴賤ともどもにこの僻遠の地を恋い慕う流行をよび、あの熱狂的な「熊野詣」の宗教的習慣ができあがったのであろう。
京都から熊野までは、まことに遠い。しかし熊野を慕う中世の京都人たちは、地の底のような渓谷をつたい、ときに海岸の岩に抱きつくようにして、浜辺をゆき、また大雲取・小雲取のような雲の中をくぐるがような山道を越えて熊野の聖地(本宮、新宮、那智)に詣でた。 
・・・・・
熊野では、浜からわずかに山に入っただけで、海の匂いが絶えてしまう。
古座街道の場合も、そうである。周参見の浜から周参見川の渓流ぞいに、二、三キロも入れば鬱然とした樹叢で、梢にも根方にも太古の気がひそんでいる。杉の木が多いが、若い杉にまでなんだか霊気が湧いているようで、中世の熊野信仰のおこりは、存外こういうことが要素のひとつになっているのかと思われる。(司馬遼太郎著『街道をゆく・熊野古座街道』より)



紀州の森に立ち、「梢にも根方にも太古の気がひそんでいる」と書いたのは、司馬遼太郎である。
氏は、すさみから古座への古座街道を歩き、その歴史にひそむ習俗に南方の島々の匂いをかいだ。「街道をゆく」シリーズ『熊野・古座街道』である。


熊野へ向かう道は高野山から南下する小辺路(こへじ)、田辺から山中に入る中辺路(なかへじ)、海沿いに新宮へ向かう大辺路(おおへじ)がある。一番平坦な大辺路が使われる機会が多かったようであるが、海が荒れた時などは険しい枯木灘海岸沿いの大辺路(現国道42号線)の迂回路として「古座街道」は古くから利用されていたのだろう。

古座街道は、熊野参詣道の大辺路から周参見川を東進し、獅子目峠を越えて古座川上流から河口に下るルートである。
街道沿いには国指定の天然記念物「古座川の一枚岩」などの圧倒されるような自然が随所に残されている。






太平洋沿岸を飛ぶ (27) - 古座川

2010-02-10 | 近畿


神野優氏がコカワを話題にしたのは、本流の古座川が上流の多目的ダムのために濁って(私の清濁基準ではとても濁っているとは思えないが)いるために、古座川の以前の清らかさを知ってもらうことができない、せめてコカワの流れをご覧になればかつての古座川の水というものが想像できます、ということなのである。
「それほど古座川の水は美しかったのですか」
「ええ、もう」
神野優氏は、かつては古座川にしか棲んでいない小さなエビがいて、獲って食べると何とも言いがたいあま味があったものだが、ダムが出来てからは絶滅しました、といった。
「その小さなエビがいなくなったのは、水の清濁のせいか、ダムのために川の水温が変わったせいか、その点はよくわかりませんが、ともかく、以前の古座川ではなくなったのです」
神野優氏は、真砂でもそのようなことを言われたが、繰り返し、「ダムを作ったのは川筋の洪水ふせぎのためでわれわれ川沿いの者が陳情してやっとできたのです」と言い、しかしいまは後悔しています、といった。少々の洪水を我慢しても古座川の水の水温と透明度を守るほうが、これは感傷でいっているのではなく、よかったかもしれないと思ったりしています、ということだった。
(司馬遼太郎著 『街道をゆく・熊野古座街道』より)




古座川は、紀伊半島南部に鎮座する霊峰、大塔山(標高1121m)を源流に持ち、緩やかに太平洋へ注ぎ込む全長約60kmの清流である。
とりわけ最大の支川である小川(こかわ)は、水の透明感では日本一の清流と言えるもので、中流の「滝の拝」は川床が全て岩床で、清流のたたずまいを一層引き立てている。

1956(昭和31)年、古座川本流中流部に治水と発電を主な目的とした七川(しちかわ)ダムが完成、供用された。ところが、発電のための水位調節可能幅が狭小な上に、日本一の多雨地帯に近く、台風や集中豪雨に見舞われるため、ダム施設そのものを洪水から守るため、放流を実施してきた。この放流の結果、ダムの下流、特に河口域から串本湾に広がる海の生態系に甚大な影響を及ぼすことになった。流域住民からは、ダム設置やダム放流とそれに伴う水質量の変容が、近年見られる魚貝類や青海苔の漁獲量の減少と関連しているのではないかと噂されて来た。


太平洋沿岸を飛ぶ (26) - 那智湾・那智勝浦

2010-02-09 | 近畿
「那智の浜」(画面中央上)は、那智湾に面した砂浜で、和歌山県下屈指のビーチであるが、かつて観音の信者が補陀落(ふだらく)浄土を目指して船出したという特異な歴史をもつ浜でもある。

補陀落浄土とは南方の彼方にある観音菩薩の住まう浄土のことをいい、「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳。
補陀落浄土は、日本では、南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して船出することを「補陀落渡海(ふだらくとかい)」という。

日本国内の補陀落の霊場としては熊野那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがあるが、記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち半数以上が那智で行われたという。日本宗教史上における稀有な現象として知られ、チベット仏教伝来の修行信仰の一つとされる。

補陀落渡海の出発点とされた「補陀洛山寺」(世界遺産にも登録)という寺が「那智の浜」の奥手、熊野那智大社方面へ向かう道の角にあり、寺の裏山には渡海者の墓が残されている。補陀洛山寺は、渡海上人を送り出し、また、その上人を祀る寺なのだ。


那智での補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に行われた。
渡海僧は当日、補陀洛山寺本尊の千手観音の前で読経などの修法を行い、続いて寺の隣にある三所権現(熊野三所大神社)を拝し、その後、小さな屋形船に乗りこむ。
渡海僧が船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように扉には外から釘が打ちつけられ、渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われる。



補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身を南海にて観音に捧げる捨身行であったのだ。



太平洋沿岸を飛ぶ (25) - 熊野川・熊野本宮大社

2010-02-08 | 近畿

熊野川は、奈良県吉野郡の大峰山系を源とし、熊野本宮大社旧社地の傍らを流れ、紀伊半島の南東、熊野灘に注ぐ近畿最長(183km)の河川である。

熊野三社の信仰の起源はそれぞれ自然崇拝からはじまったものと考えられているが、特に熊野本宮大社と熊野速玉大社は、熊野川に対する深い信仰があったと思われる。熊野本宮大社はもともと大斎原と呼ばれる熊野川、音無川、岩田川の合流地点の中州に鎮座していた。それは、熊野川を神聖な場所として崇め、洪水鎮圧のために祀っていたのではないかと考えられる。 1890(明治22)年の大水害により被害を受けて現在の高台に遷座した。

古くは平安中期より熊野三山を参る「熊野詣」の際、本宮より熊野川を船で下り、新宮(熊野速玉大社)、那智(熊野那智大社)を巡ったとされる。熊野川は単なる水上交通路ではなく、熊野参詣の道であり、他に類のない「川の参詣道」として文化的な意味で貴重なものだと考えられる。

また、熊野川はその昔より「物流」の上で大きな役割を果たしてきた。紀州材や備長炭はよく知られる熊野の特産品であるが、江戸時代より熊野材、熊野炭としてそれぞれ「江戸の木材の三割を賄い、江戸の炭相場を左右した」と云われたほど江戸で重宝されていた。
それを可能にしたのが熊野川である。奥熊野で生産された木材、炭は熊野川を下り、新宮に集められ、そこから帆船で海流黒潮にのって一気に江戸まで運ばれた。

近代に入り物流の中心は陸送へと移り、熊野川に沿った道路が整備された。熊野川は物流の要としての役割を静かに終えた。


太平洋沿岸を飛ぶ (24) - 新宮市

2010-02-07 | 近畿

熊野川を境にして、三重県から、「紀の国」・和歌山県となる。
河口付近の大河・熊野川は、熊野神社(速玉大社)を抱くように、屈曲蛇行しながら流れる。

昨日2月6日夜、春を呼ぶ勇壮な火祭り「お燈(とう)まつり」が、新宮市西端の権現山の中腹にある「神倉神社」で行われ、山上から駆け下りる2461人の男たちがかざした松明の炎が滝のように流れ、夜空を染め上げた。

世界遺産・熊野速玉大社の摂社(本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称)、神倉神社に約1400年前から伝わる女人禁制の神事で、「熊野年代記」によると、日本最古の火祭り。「上り子」と呼ぶ祈願者が、白装束にわらじばき、腰に荒縄を巻いたいでたちで、ご神体「ごとびき岩」のある神倉山上に集結。神火から火を移したたいまつを持ち、山門の開門を待った。

古代の熊野の自然崇拝の姿を今日に伝えているものとされる。

熊野三所大神(熊野三山)が、熊野において最初に降臨した聖地が神倉山であり、神倉山は熊野の根本であるとも考えられ、熊野根本大権現とも呼ばれた。 今でこそ速玉大社の摂社であるが、本来は速玉大社の御祖神であったのである。

速玉大社は、神倉神社が元宮であったが、後に現在地に遷宮された社であり、そのため神倉山の「古宮」に対し、ここを「新宮」と呼ぶようになり、地名の由来にも成っているという。


梅雨の晴れ間に山陰海岸を飛ぶ (2) - 小天橋

2009-07-10 | 近畿
日本三景、天橋立(大天橋)と並び称される、全長6kmにも及ぶ大砂嘴「小天橋」。
箱石浜、葛野浜、小天橋浜、蒲井浜と水清く美しい海水浴場が連なる。
日本海と久美浜湾を分ける「日間の松原」と呼ばれる長さ3kmの松が群生する砂州は日本三景のひとつ「天橋立」を連想させる景勝であり、そこから「小天橋」と呼ばれるようになった。
周辺の海岸一帯は山陰海岸国立公園に指定され、絶滅危惧種“トウテイラン”をはじめ、海浜植物の宝庫にもなっており、水と緑が調和した白砂青松の海岸線がすばらしい景観をつくっている。
久美浜湾が入り込んでいるが、ほぼ湖の形態をなしており、汽水湖となっている。

梅雨の晴れ間に山陰海岸を飛ぶ (1) - 天の橋立

2009-07-09 | 近畿
日本三景の一つ、京都府宮津市の天橋立は、「宮津湾」と内海の「阿蘇海」を分ける約3.6kmの長大な砂嘴(さし)。 丹後半島側の河川から流出した土砂が、日本海にうち寄せる波に運ばれ、積もった砂でできた貴重な砂浜で、今から4,000~3,000年前に海面に顔を出したと言われている。
また、天橋立を彩る松並木は、4,000~5,000本とも言われ、白砂青松の美しさから昭和27年に特別名勝に、平成19年に丹後天橋立大江山国定公園の指定を受けた。
天橋立の風景は、日本の文化景観の代表として古くから、和歌や絵画など文化・芸術の題材となり中でも、中世室町期の水墨画家・雪舟が描いた国宝『天橋立図』が有名である。

有田蜜柑のふるさと - 有田川下流域

2009-04-10 | 近畿
金屋地区から河口の有田市箕島は、有吉佐和子の小説『有田川』に描かれる「蜜柑づくりに生涯をかけた千代」の波乱万丈の舞台だ。
有田蜜柑の歴史は、この小説にあますことなく描かれている。
箕島に隣接する湯浅町は醤油発祥の地。その街並みは国選定重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
有田市箕島から湯浅町は、世界遺産の「熊野古道」と高野山に通じる「高野古道」の分岐点が市域にあることにより、多くの史跡や歴史的文化財が残り、「紀州の敦煌」ともよばれている。

「夢日記」・明恵上人 生誕の地 - 有田川中流i域

2009-04-08 | 近畿
有田川中流に位置する金屋地区は明恵(みょうえ)上人生誕の地だ。
明恵上人といえば、紅葉狩りで名高い京都・高雄三尾の一つ、栂尾・高山寺を建立し(1206)、華厳宗中興の祖として知られる高僧である。
また19歳から40年間、自分の見た夢を正確に書き続け、世界で唯一の「夢日記」を残していることでも有名である。
明恵上人は、平安時代の承安3(1173)年に、有田川中流の旧金屋町、歓喜寺の地で生まれた。旧金屋町、有田市、湯浅には数多くの上人の遺跡が残っている。

蛇行が生む奇観 - 有田川上流域

2009-04-06 | 近畿
有田川は、世界遺産として知られる高野山を水源とする。
高野山を抱くように連なる高野三山の一つ楊柳山(1009m)に源を発し、湯川川、白馬川、早月谷川などを合流させながら西へ西へと流れ、有田市箕島で紀伊水道に注ぎ込む。総延長94km、流域面積468 の和歌山県内主要河川の一つである。
上流の清水地区では、有田川が360度蛇行して扇形の河岸段丘を数多く作り出している。
この地区の“あらぎ島”には蛇行に沿うように、区画された美しい曲線の田圃が広がっていおり、この優美な景観は、日本の棚田を代表する傑作のひとつとして、「日本の原風景遺産」となっている。