Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

雲上を飛ぶ (25)

2009-09-30 | その他

遠い地平線が消えて
深々とした夜の闇に心を休めるとき
はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は
たゆみない宇宙の営みを告げています

満天の星をいただく、果てしない光の海を
ゆたかに流れゆく風に心を開けば
きらめく星座の物語も聞こえてくる
夜の静寂の、なんと饒舌なことでしょう

光と影の境に消えていった
はるかな地平線も瞼に浮かんでまいります





午前0時、ジェット機の噴射音とともに、フランクプールセルの「ミスター・ロンリー」の優しい旋律が流れ、パイロットが静かな口調で語り始める。

『JET・STREAM』

1967年7月、東海大学の実験局「FM東海」と日本航空(現日本航空インターナショナル)が深夜の音楽番組としてスタート、その後「東京FM」に。

グレゴリー・ペックなどの吹き替えで、洗練されたセンスと渋い語りで定評のある城達也氏がナレーションを務めた。

「ジェットストリーム」は昼間に収録を行うのだが、昼間だとどうしても声が明るくなってしまう。そのため、城氏は部屋を暗くし、夜の雰囲気の中で番組を作っていたという。

1994年12月まで、城氏はFM番組としては異例の、実に27年間、ナレーションを務め上げ、1995年に他界された。

ラジオから流れる美しい散文詩のようなナレーションとストリングス・メロディーを聴きながら夜更かしをしたその時代とともに
今、懐かしい思い出が蘇る。




道南の空を飛ぶ (15) - 函館山

2009-09-29 | 北海道
函館山が地図から消えた。

1899年(明治32年)から敗戦(昭和20年)までの約50年間、函館山は全山要塞地区となる。
当時国内最大の造船所を擁する函館港を守るために、フランス技術の力を借りて要塞施設を築き始めたのだ。
山全体が要塞という軍事施設になり、国家機密の地となったため、1899 年を境に、一般の地図から函館山は空白となった。

函館山は一般人立入禁止となり、信仰のための入山も、測量も、学術調査、撮影、スケッチもいっさい禁じられ、ことごとく山の様子は秘密にされた。

その後、津軽海峡の防衛のため、北海道側の汐首岬と白神岬、青森県側の大間岬と龍飛岬とともに、津軽要塞に編入されて強化されることになる。

1941年、太平洋戦争が勃発したが、要塞施設は旧式で実線には役立たず、45年4月、高龍寺山に陸・海軍の観測所、高射砲陣地などを設けた。
7月14・15日の空襲の際には、これらの高射砲が発砲したが、撃墜したのは戦闘機一機のみであった。

太平洋戦争が終わった1946年5月。函館山の要塞は米軍により破壊され、 1946(昭和21)年10月、函館山は市民に開放された。


皮肉なことに、この日本軍の強引な政策が、この山にある数百種の動植物をなにひとつ損なうことなく自然のまま保存してきたことである。
現在では、600種類の植物、 150種類の野鳥が生息する豊かな自然の山となっている。

こんな歴史を持つ函館山と砲台跡は、近代軍事施設の砲台跡や発電所や観測所という貴重な遺構であることから北海道遺産に選定された。


道南の空を飛ぶ (14) - 函館山

2009-09-28 | 北海道

五月二十八日 新暦七月十九日

土用 朝五つ迄曇る 
夫より晴天江戸出立後の上天気なり 
併し山々白雲おほし 
箱館山に登て所々の方位を測 
夜も晴測量……

 寛政十二年 一八〇〇年
(伊能忠敬測量日誌より)


伊能忠敬(1745-1818)は、寛政 7年(1795)50歳で江戸に出て、
翌年、当時32歳であった幕府天文方高橋至時(1764-1804)に師事し、暦学、数学の勉学を始めた。

1800年(寛政12年)、幕府に北方の地図作製を願い出て許され、江戸を出立。
同年 5月10日、本州最北端の地、三厩に着いた忠敬の一行は、直ちに出帆し、
箱館へ入る予定であったが、ヤマセに悩まされかなりの滞留の後、出発したが、風向きの影響で松前領、吉岡に入った。
その後も悪天候に悩まされ5月22日に陸路箱館に入った。
5月28日、蝦夷の本格的な測量のため函館山の登山をし、北海道測量の第一歩を記した。

このとき、伊能忠敬、実に56歳のことであった。

出来上がった地図の精妙さに幕府は驚嘆し、関東、奥州、北陸の地図をとの要望を受け、やがて、「日本全図」完成の偉業へと繋がって行く。

道南の空を飛ぶ (13) -北海道 駒ケ岳

2009-09-27 | 北海道


「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴くでしょうか。」
「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、ガスはすぐ大循環の上層の風にまじって地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ、地球全体を平均で五度ぐらい暖かくするだろうと思う。」
「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」
(宮沢賢治著『グスコーブドリの伝記』1932年 より)


1929年6月に、北海道駒ケ岳が大噴火をしてから、今年でちょうど80年になる。

桜島の大正噴火(1914年)とならび20世紀に国内で起こったものの中でも最大級の規模であった。
宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』は、1929年の駒ケ岳噴火にヒントを得て書かれたといわれている。


北海道駒ヶ岳は、北海道森町、鹿部町、七飯町にまたがる活火山で、標高1,131m。
大沼方面からみると、横に長く、なだらかで優美な女性的印象を与えるが、森町方面や鹿部方面からみると一変し、荒々しい山肌と傾斜が目に付く男性的な激しい姿を見せる。

駒ケ岳は、江戸時代以降、巨大な噴火を3回発生させおり、このうち最大規模と考えられているのは、1640年の大噴火である。
1640年7月31日、大噴火とともに、駒ケ岳の山体が大崩壊を起こし、東側と南側に向かって崩れ落ちた。このうち、東斜面を流下した大量の土石は、大規模な岩屑なだれとなって内浦湾(噴火湾)に流入し、大津波を発生させた。多数の人家や船舶が流失し、昆布を採取していた100隻あまりが津波に呑まれるなど、沿岸一帯で700人以上が犠牲になった。
一方、南斜面を流下した岩屑なだれは、川を堰止めていくつかの湖を生んだ。

現在、観光地になっている大沼、小沼、ジュンサイ沼などは、このときの大崩壊によって生じたものなのだ。

道南の空を飛ぶ (12) - 江差・鴎島

2009-09-26 | 北海道
明治元年11月15日、早朝。

榎本武揚を乗せた徳川艦隊の旗艦「開陽丸」は江差、鴎(かもめ)島に迫り、対岸に向けて7発の砲弾を撃ち込んだ。そのとき、すでに住民の多くは避難し、町は無人となっていた。
端舟で上陸した幕兵は、直ちに陣屋と砲台を占拠。開陽丸は鴎島の島影に停泊し、榎本軍は無血で江差を占領した。
町内随一の旅館「能登屋」で疲れを癒していた榎本司令のもとに「開陽丸、沈む」という報告がもたらされる。飛び起きて浜に駆け寄ると、北国の厳しい高波が傾いた開陽丸を襲っているのを見て、呆然と立ちすくんだ。
その頃、松前から浜伝いに藩兵を追ってきた土方歳三の軍が、予想を超える抵抗に合い、苦戦を続けていた。土方が抵抗線を突破して江差に入ったのは翌16日のことでだった。血なまぐさい戦闘服姿のままで能登屋に駆け込んだ土方が見たものは、海に目を凝らして動かない榎本の姿であった。

この日、二人にお茶を運んだ能登屋の女中は、ただお茶を届けるだけで、話を交わしたわけでも、眼があったわけでもないのに、わけもなく体が震えて止まらなかったという。

能登屋を出た二人は、本陣とした順正寺に向かう。途中、この時は無人となっていた檜山奉行所があり、門前まで来た二人は、そこでまだ3分の1を海面に晒した開陽丸を眺めた。

よほど悔しかったのであろう。土方は目の前にあった松の幹を何度も拳で叩きながら、涙をこぼした。

後年、土方が叩いた松の幹に瘤ができ、人々はこれを「歳三のこぶし」と呼んでいる。


開陽丸はオランダで建造されて僅か1年7ヶ月の短い生涯を閉じた。

そして、開陽丸を失った榎本軍は、明治2年、函館で新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終わりを告げる。


「葵の枯れゆく散り際に開陽丸」

道南の空を飛ぶ (11) - 五稜郭

2009-09-25 | 北海道
米国の東インド艦隊司令官、ペリーの来航を機に、欧米列強からの圧力が強まり、開港した函館。
開港は西洋文明の流入と同時に、外国の脅威ももたらした。

その象徴ともいえるのが、1864年に江戸幕府が北方警備の拠点として建造した城郭、「五稜郭」だ。

設計は伊予大洲藩出身の蘭学者、武田斐三郎(あやさぶろう)。
5つの稜が星型に突き出した城塞であったため「五稜郭」と名付けられた。


将軍慶喜、大政奉還の後、明治元年(1868)、五稜郭は明治新政府に接収されて箱館府となるが、それもわずか半年、旧幕府の海軍副総裁榎本武揚は1868年8月、「開陽丸」以下8隻の旧幕府艦隊を率いて江戸湾を脱走。旧幕臣の新天地を蝦夷地に求めて10月25日に箱館と五稜郭を占領した。

そして12月15日、五稜郭において榎本武揚らは「蝦夷共和国」を発足させた。

榎本武揚が総裁となり、旧幕臣の大鳥圭介は陸軍奉行に、新撰組副長だった土方歳三は陸軍奉行並に任じられるなど、アメリカの制度に倣って閣僚は、国内初の公選入札、つまり選挙で選ばれた。

しかし、新政府軍は翌年、海と陸から、大軍を派遣し、箱館と五稜郭に総攻撃を開始した。
圧倒的な兵力の前になすすべもなく、土方歳三が討死したのをはじめ、脱走者が続出し、5月18日に榎本武揚はついに開城降伏した。

この箱館戦争によって鳥羽・伏見の戦いに始まった戊辰戦争は終わりを告げることになる。

「蝦夷共和国」は消滅。その政権の存在期間はわずか5ヶ月間だった。



その五稜郭跡では現在、函館市による五稜郭の本陣だった箱館奉行所の復元工事が進められている。



道南の空を飛ぶ (10) - 函館港

2009-09-24 | 北海道
函館港は今年2009年6月に開港150周年を迎えた。

深い入り江のある、扇を開いたような地形のため、俗に「巴港」と呼ばれる天然の良港として栄えた。

安政2年(1855年)3月外国船に薪水、食料の補給港として指定、その後、安政6年(1859年) 6月修好通商条約の締結により横浜、長崎とともにわが国最初の貿易港として開港。

また、国際貿易港の性格に加え、本州と北海道を結ぶ要衝として、明治6年(1873年)開拓使によって函館~青森間に定期航路が開設され、以来、北海道開発に必要な物資の流通拠点、造船、北洋漁業基地として重要な役割を果たしてきた。

「摩周丸」は、かつて国鉄の青函連絡船として活躍していた船で、青函トンネル開通とともに廃止となり、現在では記念館として、函館港に係留されている。

また、かつての北海道の玄関口として親しまれてき函館駅は、連絡船が廃止され、それまでの貨物入換線のところに、2003年6月「五代目函館駅」が建設された。全体は船の形をイメージしており煙突部分はロトンダ(円筒)と呼ばれる。JR北海道の姉妹鉄道であるデンマーク国鉄との共同設計による。



道南の空を飛ぶ (9) - 函館

2009-09-23 | 北海道

かれがその晩年を送るために都志本村に建てた屋敷は小さな野に囲まれていて季節には菜の花が、青い沖を残して野にいっぱい染め上げた。

「嘉兵衛さん、蝦夷地で何をしたのぞ」と村の人がきいたとき、

「この菜の花だ」と言った。「実を結べば六甲山麓の多くの細流の水で水車を動かしている搾油業者に売られ、そこで油になり、諸国に船で運ばれる。たとえば遠くエトロフ島の番小屋で夜なべ仕事の編み繕いの手もとをも照らしている。その網で獲れた魚が、肥料になってこの都志の畑に戻ってくる。わしはそういう廻り舞台の奈落にいたのだ、それだけだ」

(司馬遼太郎著 『菜の花の沖』)

1769(明和6)年、高田屋嘉兵衛は淡路島都志本村に6人兄弟の長男として生まれた。22歳で兵庫に出た嘉兵衛は、大坂と江戸の間を航海する樽廻船の水主(かこ)となり、船乗りとしてのスタートを切る。
やがて優秀な船乗りとなった嘉兵衛は、西廻り航路で交易する廻船問屋として海運業に乗り出し、28歳で、当時国内最大級の千五百石積の船「辰悦丸(しんえつまる)」を建造。まだ寂しい漁村にすぎなかった箱館を商売の拠点とした。

当時千島列島を南下してくるロシアとの国防対策を急ぐ幕府に協力して、エトロフ島とクナシリ島間の航路を発見したり、新たな漁場を開くなど、北方の開拓者としても活躍した。

その他にも文化3年(1806年)、箱館の大火で街の大半を焼失した時、高田屋は被災者の救済活動と復興事業を率先して行なっていった。市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等も自己資金で行なうなど、箱館の基盤整備事業を実施した。

さらに、ゴローニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。

北の海に大いなるロマンを追い求め、波瀾の人生を帆走し続けた嘉兵衛が、その命を全うする場所に選んだのは郷里淡路島であった。嘉兵衛はそこで、菜の花畑一面の黄色い花を見つめながら、北方の情勢を案じていたといわれている。

1827(文政10)年、59歳。静かにその生涯を閉じた。

高田屋嘉兵衛は、小説『菜の花の沖』を書いた司馬遼太郎がこよなく愛した人物でもある。


道南の空を飛ぶ (8) - 津軽海峡 <ブラキストン・ライン>

2009-09-22 | 北海道

「箱館は絵のように美しい」

幕末の文久年間、開港して間もない箱館を訪れた英国人は、海峡にそびえ立つ函館山と緩やかな弧を描く函館湾の景色を船上から眺め、感嘆の声を上げた。

「蝦夷地ならびにそれより北方の諸島は、動物学的に申せば、日本ではなく北東アジアの一部なのであります。そこから、本州は津軽海峡という疑いのない境界線で断ち切られたのであります。」

“ブラキストン・ライン”とは、動物学上の津軽海峡の呼称であり、この海峡を境にして動物の分布は南北で異なることを発見した英国人T.W.Blakiston(1832~1891)の名によるものである。

ブラキストンは函館開港直後の1861年より約23年間この地に在留し、貿易を営み、傍ら鳥類の採集研究に努めた。そして津軽海峡を挾んでの南北沿岸には異なる動物の棲息を挙げ、本州のニホンサル、イタチ、ツキノワグマ 等は北海道にはおらず、また北海道に住むヒグマ、キタキツネ、エゾシカ、エゾリス等は本州にはいないことを挙げている。

津軽海峡を望む函館山山頂には、1960(昭和32)年、函館青年会議所によってブラキストン・ラインを記念する碑が建立された。
そこには、
「…この世界的業績は、津軽海峡と共に永遠に残るであろう」と刻まれている。


道南の空を飛ぶ (7) - 津軽海峡 <青函トンネル>

2009-09-21 | 北海道
青函連絡船が80年の歴史に幕を閉じてから20年が過ぎた。

国鉄青函連絡船は津軽海峡をはさんだ本州青森-北海道函館間113kmを約3時間50分で運航していた。 1908年(明治41年)の「比羅夫丸」の就航に始まり、1987年4月(昭和62年)JR北海道に移管され1988年3月(昭和63年)「津軽海峡線」の開通で廃止となる。 

青函トンネルは、「洞爺丸遭難事故」を受け、太平洋戦争前からあった本州と北海道をトンネルで結ぶ構想が一気に具体化し、船舶輸送の代替手段として、長期間の工期と巨額の工費を費やして建設されることとなった。青森県東津軽郡三厩村(画面左)と北海道松前郡福島町(画面右)を結ぶ西ルート、青森県下北郡大間町と北海道亀田郡戸井町を結ぶ東ルートが検討され、当初は距離が短い東ルートが有力視されたが、東ルートは西ルートよりも水深が深い上、海底の地質調査で掘削に適さない部分が多いと判定されたため、西ルートでの建設と決定した。

映画『海峡』(1982年 森谷司郎監督 木村大作撮影 主演:高倉健、吉永小百合他)は、青函トンネル工事に携わった人々の30年近くにわたる人生の歩みを、青函トンネル技術調査員を中心に見事に描いている。

現在、青函トンネルはできたものの、津軽海峡の航路はいまだ健在である。青函トンネルは自動車の通行ができないため、北海道へ渡る車は、フェリーを利用しているのだ。津軽海峡を通らない長距離フェリーもあるが、青森―函館(青函)間にも実に20往復以上が運航されている。また、下北半島の大間と函館の間にもフェリー航路がある。

道南の空を飛ぶ (6) - 津軽海峡 <洞爺丸台風>

2009-09-20 | 北海道

昭和29年9月26日、大型で強い台風15号が四国で深刻な被害を与え、関西地方から日本海に抜け佐渡付近を通過し、北海道に向かっていた。

青函連絡船「洞爺丸」は14時40分に函館港から青森港に向けて出航する予定であったが、平均40mの強風と激しい雨で出港を見合わせていた。
「洞爺丸」より先に出港した小型連絡船「青函丸」も悪天候のため引き帰してきたが、その乗客も大型船である「洞爺丸」に乗船してきた。

18時30分頃、風雨が弱くなり一部で晴れ間が見えてきた。昼の天気予報でも夕方に台風が通過するとの情報もあり、この条件であれば出港できると判断した船長は一路、青森港に向け出航した。

ところが、函館港から僅か5kmほど進んだ19時、一時晴れ間が見えていた空は急激に曇天となり風雨が激しくなり、船体が大きく揺れだした。船長は、台風通過後の影響と判断したのか、函館港に戻るよりは投錨し風雨が弱くなるまで待つとの判断を下した。ところが、この台風は日本海で急速に速度を落としていたため、まだ北海道に到達していなかった。まさに投錨した段階で台風が最も接近していたことになる。

暴風雨のため積載していた貨物のバランスが崩れて船は大きくローリングしだしたため、近くの岩礁に座礁させ船を固定させる判断も虚しく、22時43分頃、「洞爺丸」は横転沈没した。海岸線まで600mの近さであったが暴風雨のため泳ぐこともままならず、乗客・乗員合わせて1175人が死亡(行方不明含む)、生存者は僅かに163人であった。タイタニック沈没に次ぐ海難事故となった。

出航間際、気圧変化により台風が去ったとの判断や、一時的な晴天で錯覚した人的ミスであった。

この事故で青函トンネルの実現が叫ばれるようになったが、実現するまで数十年を待つことになる。



この洞爺丸事故が起きていた頃、北海道の岩内で大火事が発生し、町の三分の二近くが焼きつくされた。ところが洞爺丸のニュースがあまりにも大きかったため、岩内町の火事は殆ど報道されなかったという。

講演のために北海道を訪れた作家、水上勉氏は、岩内の雷電海岸を歩いているとき、岩内町の大火事と同日に起きた青函連絡船洞爺丸の遭難事故、この実際に起こった二つの事件と、架空の質屋一家殺し事件を一本の線に結んで、あの名作『飢餓海峡』を執筆したといわれる。




道南の空を飛ぶ (5) - 津軽海峡 <青函連絡船>

2009-09-19 | 北海道
午後三時に港を出るはずの青函連絡船層雲丸は、大きな波をかぶって棒を倒したようにみえる桟橋に巨大な船腹をつけて待機していた。 時間どおりに出航するかどうかについて考慮がなされた模様であった。 しかし、船は定刻より約五分おくれて出航合図のドラを鳴らした。 にぶい短い警笛は、低い雲と波浪の荒れる沖へ物悲しいひびきをこめて吸われた。 ちょっと見たところ悠長な船出に思われた。 三十分後に、おそるべき大惨事が起きようなどと誰も考えなかったのである。
 
いったん、沖へ出ようとしたものの、船長は俄に出航中止を指令した。 そうして、そのまま港湾待避に移ろうと、船首をわずかに向きかえようとした瞬間、船尾から大浪がおいかぶさった。 一瞬にして危機が訪れた。 全乗客に救命具の用意が指令され、SOSが打たれたのは午後三時三十分のことである。 

(水上勉著 『飢餓海峡』より)

道南の空を飛ぶ (4) - 奥尻島 <豊饒>

2009-09-18 | 北海道

奥尻島は、北海道南西沖の日本海に浮かぶ周囲84kmの島。
島名はアイヌ語の「イクシュンシリ」(向こうの島)より転訛したもの。

夏の奥尻の海は透明度30mにもなり、日本でも屈指の青く澄んだ海は、いつしか「北の沖縄」と呼ばれている。

対馬海流(九州南西部で黒潮から分かれ、対馬海峡を通る暖流)が流れる北の海は、春の日本海マス、初夏からのヤリイカ、ウニ、アワビ、秋から冬へのマイカ、ホッケと多くの魚を育んでいる。

陸には、ブナ(島に生えるブナとしては北限)の森が広がり、
豊かな“森”と“海”がつながりあう。

「澄んだ海」と「深い森」に覆われた美しい島なのだ。


道南の空を飛ぶ (3) - 奥尻島 <蘇生>

2009-09-17 | 北海道
島の最南端青苗地区には、北海道南西沖地震により被害を受けたこの地域を公園として整備し、「奥尻島津波館」や慰霊碑「時空翔」がある。
地震で犠牲になった方の慰霊碑であり、壁に犠牲になった198名の名前が刻まれ、奥尻出身の詩人麻生直子氏の詩『憶えていてください』が刻まれている。

復興宣言をした奥尻島は、新しい町並みも完成し、以前の活気に満ちた姿へと戻りつつある。


1993年7月12日午後10時17分、奥尻島民にと
っては永遠に忘れることのできない日となった。
自然の恵みにつつまれた平穏な島のたたずまいが大地の
鳴動とともに一瞬にして廃虚と化したあの日、あの時の悪
夢を…。
焦燥と悲惨さにあえぎ、さながら“瓦礫のマチ”をさす
らった島民が、その再起、再生の悲願に燃え、立ち上がっ
たのは全国から差しのべられた救援のあたたかい手のぬく
もりであり、島民にとっては決して忘れることのない人間
の愛の尊さだった。
人は苦しみ、悲しみを時として忘却の彼方に追いやる。
しかし、家族や友人など198名の尊い人命を失った冷厳
な事実を、私たち生きながらえた島民は、長く後世に語り
継ぐ責務がある。
私たち島民は、あの辛さ、苦しみに耐え、希望と勇気を
今、21世紀の新しいスタートに向け、未来「奥尻創造」
の大いなる理想に英知と総力を結集することを誓い、ここ
に完全復興を宣言する。
(『北海道南西沖地震復興宣言』より)

道南の空を飛ぶ (2) - 奥尻島 <記憶>

2009-09-16 | 北海道
1993年7月12日、22時17分。
北海道南西沖の深さ34Kmを震源とするM7.8の地震が日本海地域を襲った。
震源地に近い奥尻島は地震発生と同時に起きた大津波により壊滅的な被害を受けた。
死者・行方不明者は198名におよび、残された島民からも平穏な暮らしを奪い去った。



1993年7月12日、世界の海にもぐる水中写真家、中村征夫氏は、取材で奥尻島を訪れ、海辺の民宿にいた。
22時17分、震度6の揺れ。民宿の奥さんが叫んだ。
「逃げてえ」
中村は、高台へ裸足で走った。後ろでゴーッと地鳴りのような音。振り向くと、高さ30メートルの真っ黒な魔物のような水の壁が迫っていた。
「のみ込まれる。もうだめだ」。
水はすぐ後ろに落ちた。
高台にはすでに数百人も避難していた。民宿の奥さんもいた。下の集落でガス爆発、火柱が立つ。悲鳴、叫び声。中村は「落ち着け」と自分に言い聞かせた。

大津波の直後、中村は仕事ができなかった。
民宿に遊びに来た女子中学生が、親切な漁師が、200人以上が海に殺された。「海は素晴らしい、と今さら言えるか」

しばらくして、考え直した。
「お前は生きて恐ろしさを伝えろ、と残されたんだ」。

津波から2カ月後、奥尻の海にもぐった。カニやハゼが何もなかったようにいる。「野生はしたたかだなあ」

講演では、かならず奥尻体験に触れる。
「母なる海も時に爆発する。それを忘れちゃいけない」