Tenkuu Cafe - a view from above

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-空から見るからこそ見えてくるものがある-

冬の日本列島を飛ぶ (9) - 日本アルプス

2012-03-25 | 中部

アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)は、幕末から明治にかけて、長く日本と関わりのあったイギリスの外交官である。
この時代の歴史小説を読むとイギリス駐日公使パークスの名とともに彼の名前がよく出てくる。

サトウは1843年ロンドンに生まれた。1862年、英国駐日公使館の通訳生として横浜に着任。生麦事件が起こる直前であった。
その後「薩英戦争」、「下関戦争」では、流暢な日本語を武器に、通訳として活躍。木戸孝允、高杉晋作、西郷隆盛、伊藤博文、井上馨、勝海舟など多くの人物とも交流している。


一方、アーネスト・サトウは日本研究の第一人者としても知られており、日本中を旅行しながら多くの日本の山に登った。






冬の日本列島を飛ぶ (8) - 日本アルプス

2012-03-20 | 中部


「日本アルプス」という、いみじくも名づけられたこの大山脈に私がはじめて興味を覚えたのは、数年前、その山々の景観をしきりに褒めそやしているチェンバレン教授のお話を聞いてからである。私は何度も現地を訪れて、そのたびに新しい風景の美しさ、雄大さを発見した。それは全体の八分の七を山地が占めている日本の国土でも、ほかでは見られないほどのものである。しかしこのあたりを旅行するのがきわめて困難なので、この天然の砦は、日本の国がかつて人為的に孤立していたのと同じように、自然によって隔絶された「秘境中の秘境」だったのである。しかし、日本国中どこへ行っても、これほど多様な自然の美しさに恵まれたところはない。というのは、この山々の斜面には氷河こそないが、それ以外は豊富な亜熱帯植物から高山性の雪にいたるまで、ないもののほうが珍しいからである。富士が白雪のマントを脱ぎすてて青ぐろい山肌をあらわすときも、飛騨山脈の巨大な花崗岩の山腹には残雪がまぶしく光っているのである。
(ウェストン著・青木枝朗訳『日本アルプスの登山と探検』より)





当時、ウェストンより先に来日していた英国人は、いずれも例外なく旅と山を愛して、富士山や中部地方の山岳地帯について知見をもっていた。

ラザフォード・オールコック、ハリー・パークス夫人、ロバート・ウィリアム・アトキンソン、アーネスト・サトウ、ウィリアム・ゴーランド、バジル・ホール・チェンバレン、ジョン・ミルン、イザベラ・バードなどである。









冬の日本列島を飛ぶ (7) - 日本アルプス

2012-03-10 | 中部

飛騨の山域をはじめて「日本アルプス」と呼んだのは、お雇い外国人ウィリアム・ゴーランドだが、それを単行本の表題に用いたのはウォルター・ウェストンの『日本アルプスの登山と探検』が最初で、これをきっかけに「日本アルプス」という呼称がしだい広く通用するようになった。

ウォルター・ウェストン(Walter Weston)は、1861年(万延元年)12月25日 - イギリスのダービー市に生まれた。ケンブリッジ大学を卒業。リドレー・ホール神学校に学び、イングランド国教会の聖職につく。

1888年(明治21年)に、宣教師として日本を訪れ、熊本、神戸の教会に在籍し、その間1890年には富士山をはじめ九州の阿蘇山、祖母山、霧島山、桜島山等に登った。

1891年から1894年にかけて中部地方の山岳地帯を集中的に旅し、その山旅で見た情景と感慨を『MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS』(日本アルプスの登山と探検)と題して1896年にロンドンの出版社から刊行した。