天草四朗率いる一揆団は天草上島・下島を席捲したが富岡城を抜くことができず転進、島原へ渡る。ここで島原勢と合流し、原城にたてこもって幕府側と戦った。一揆軍の総勢は3万7千人。
一方の幕府軍は指揮官・板倉重昌の戦死後、代わって松平信綱が十万の援軍を繰り出して原城を攻めた。
まる三か月の交戦で、幕府側の費やした費用は実に四十万両、死者一万人。最後に幕府はオランダ商館に要請し、海上から16日間砲撃を加えた。そしてようやく4カ月目に落城させたのである。
城内にはまだ十字架や聖像の描かれた旗が翻っていた。彼らは口々にサンチャゴ(勝利の神)を唱え、最後の力をふりしぼった。完全落城まで二日間、あとには老人、女、子供等、非戦闘員が三千人余り残された。彼らに信仰を捨てれば命を助けると布告したが、誰一人として従う者はいなかったという。全員殉教したのである。