Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

Terra Australis Incognita “未知の南の土地” (from Top-End to Red-Center) を飛ぶ - (16)

2014-09-27 | 海外



海岸線をを通過した機は、オーストラリア大陸の“アウトバック”と呼ばれる地域へと入っていく。


アウトバック(Outback)とは、オーストラリアの内陸部に広がる、砂漠を中心とする広大な人口希薄地帯を指す。

オーストラリアの人口の90%は面積にして約5%の沿海地域に集中しており、内陸部地域の人口密度は1人/km2以下といわれる。



空から眺めると、カラカラに乾いた赤ちゃけた大地が果てしなく、延々と広がっている。









Terra Australis Incognita “未知の南の土地” (from Top-End to Red-Center) を飛ぶ - (15)

2014-09-22 | 海外




木曜島は遠い。

南半島の多島海のトレス海峡に浮かんでいるとは聞いているが、やはり椰子なぞが生えているのか。
カンガルーはいるのか。人間は住んでいるのか。「シチューの皿みたいに小うてな」と、六十年前、
その島にいたことのある宮座鞍蔵老人はいうが、どの程度の小ささなのか。甥は、少年のころから
聞かされている。自転車でなら、一時間で一周できるのか。
  
(司馬遼太郎著『木曜島の夜会』より)






オーストラリアの北端に、「木曜島」という小さな島がある。


ここに明治維新から程ない頃、日本人が真珠貝の採取に出稼ぎに行っていた。

この海で獲れる白蝶貝や黒蝶貝がヨーロッパの貴婦人たちの胸を飾るボタンとして高く売れ、良い稼ぎとなったからだ

この人々が、オーストラリアと関わった最初の日本人であるようだ。


オーストラリアでは、当初はマレー人たちを使って貝を採っていたが、ある時日本人が並はずれた潜水能力を有していることを知り、日本人労働者を雇うことになった。

高い稼ぎが得られたのは、貝の採取が命がけの仕事であったからである。


潜水具は粗末なものであり、船の上で命綱を握っているテンダーとの連携がうまくゆかなければ命を落とす。深い海から急に浮上すると潜水病になり、命は落とさずとも二度と潜れなくなる、という危険と常に隣りあわせであった。潜水病などで命を落とした日本人は約700人にも達するという。


それでも日本人は必死で潜り、稼いだ金を故郷(多くは和歌山県)へ送り続けていたのである。



ただ、戦争の影がここにも現れた。

この地でダイバーだった日本人たちは、戦争が始まってから皆オーストラリアの収容所に入れられた。

そして戦後は需要がなくなり仕事もなくなっていった。




作家・司馬遼太郎氏は、実際に木曜島でダイバーをしていた人たちから聞いた話と自らの紀行をまとめ『木曜島の夜会』を書いている。












Terra Australis Incognita “未知の南の土地” (from Top-End to Red-Center) を飛ぶ - (14)

2014-09-20 | 海外



機は、インドネシア・バリ島、デンパサール国際空港上空を通過後、インド洋を渡り、いよいよオーストラリア大陸に到達した。


美しい海岸線の続く先、大きく抉られたような河口が視界に入ってきた。

ここは、ブルーム(Broome)近郊のウィーリー・クリーク(Willie-Creek)。
エメラルドグリーンの海水が白い砂地に映え、たいそう美しい。

ブルーム(Broome)はオーストラリアの西、オーストラリア州キンバリー地区にある都市。ダンピア半島の西の付け根にあり、インド洋に面しており、観光と真珠養殖を主な産業としている。



ブルームは、19世紀後半に南洋真珠の養殖で栄えた頃から、日本や中国、マレーシア、中東の人々が財をなそうと集まり、国際的な町として発展した。



明治時代には、真珠採りの技術を伝えるために日本から多くのパールダイバーが移住したことから、今でも日本人墓地があり、日本との縁の深い都市でもあるのだ。










Cafe belvedere - (37)

2014-09-15 | Cafe 



私は印を彫る、もっぱら石材である。

木に二度ほど彫ったが、そのおもしろくないこと
予定の如く彫れてしまうのだ。

石はいい。

偶然のカケ、ヒビ、
その偶然をあてにし生かすたのしさ
ボンヤリ待っている偶然ではない。

ウッカリぶつかる偶然ではない
予定している偶然

もうそれは偶然ではないかもしれない。


しかしこの種の偶然が、
石印を実に芸術的なものにする。










Cafe belvedere - (36)

2014-09-14 | Cafe 



若し、この世の中に植物が一つもなかったとしたらどうだろう。

どっちを見ても花はない。

そういうとき私たちは、一体何をいけるだろう。


私は、そこに石があったら石、若しくは土があったら土をいけるだろう。






蒼風は、いける人の「個性」を尊重する新しい「いけばな」を生み出した。

「いつでも、どこでも、だれにでも」

そして、どんな素材を使ってもいけられる「いけばな」を世界に示した。








Cafe belvedere - (35)

2014-09-13 | Cafe 



「いけばな」の二大流派といえば、池坊と草月だ。

池坊は室町時代から続く由緒ある流派。
それに対して、草月は、昭和になって生まれた。



勅使河原 蒼風(てしがわら そうふう)は、華道家・勅使河原久次の長男として1900年、大阪に生まれる。
幼少より華道の手ほどきを受けるが、やがて型通りにいける従来のいけばなに疑問を持ち、父と訣別、1927(昭和2)年、生ける人の個性を尊重する芸術としての「いけばな」を提唱する草月流を創流した。


「いけばなは生きている彫刻である」

として、華道の重要な型を否定する蒼風のいけばな観は、日本では異端児扱いされた。しかし、昭和32年に来日したフランスの世界的な評論家・ミッシェル・タビエが彼の作風を絶賛したことより世界に紹介されることになる。


生涯を通じて、日本はもとより欧米各地でも積極的に展覧会やデモンストレーションを行い、
「IKEBANA」を世界的な文化に高めた。また、いけばなばかりでなく、彫刻、絵画、書も手がけるなど、幅広い創作活動を最晩年まで続けた。








Cafe belvedere - (34)

2014-09-10 | Cafe 





植物ほど寿命の長いものはない。千年も千五百年も生きている木もある。これほど長い生命を持っている生物はほかにはないであろう。鶴は千年、亀は万年というけれども、これはそうあってほしいというだけの話である。


いかにもやさしく、しおらしく見える植物でも、長い間の風雪に耐え、世の流れをじっと見てきているだけに、実は並々ならぬふてぶてしさを裡に秘めているわけである。

(勅使河原蒼風著『花伝書』より)